医者に治せない病気(1996年)

安楽死と尊厳死を通して死の問題の解決を考える

わたしは、あなたがたに平安を残します。わたしは、あなたがたにわたしの平安を与えます。わたしがあなたがたに与えるのは、世が与えるのとは違います。あなたがたは心を騒がしてはなりません。恐れてはなりません。(ヨハネの福音書14・27)


安楽死と尊厳死


安楽死と尊厳死という二つの言葉の意味は、しばしば混同されたり、実際と異なった内容あるいはイメージでとらえられたりしていますので、まずはじめに、この二つの言葉の意味について簡単に説明したいと思います。


安楽死とは、文字通り読めば安らかに楽しく死ぬことですが、実際には薬物その他の方法によって、本人あるいは他人が、人為的に、病気による苦しみを早く終わらせることを言います。


尊厳死とは、医療における生命維持のための装置や延命技術の発達によって、病気の末期にある人間の尊厳性が無視されるような状態で、無理やりに生かされることに対する批判から生まれた概念です。具体的には、本人の明確な意志表示があれば、その意志を尊重して、いたずらな延命のための措置は打ち切り、人間の尊厳性を保って自然に死を迎えられるようにすることを言います。


日本医師会では、この二つの死の概念について、これまで、はっきりとした見解を示していませんでしたが、最近、医療の場でも、患者個人の死に臨んでの希望を可能な限り取り入れるべきであるという世論の高まりを受けて、一九九二年三月、日本医師会の生命倫理懇談会から、「末期医療に臨む医師の在り方」という報告書が出されました。この報告書で特記すべきことは、従来、わが国の医療でタブーとされていた、安楽死と尊厳死について、明確な見解を示したことです。まず、尊厳死について、この報告書では「病気の末期において、患者がリビング・ウイル(わが国では「生前発効の遺言書」と訳しています)のような形で、自分の意志を明示している場合には、医師はその患者の人格にもとづく自己決定として、その患者の意志を尊重すべきである」としています。リビング・ウイルというのは、「自分の病気が回復の見込みがなく、末期の状態であることがわかった時には、単なる延命だけのための治療は打ち切って、自然に死を迎えたい」という内容を、遺言のように文書にしておくことを言います。しかし、報告書ではこの場合でも、水分や栄養の補給、感染の防止、床ずれの予防や治療まで打ち切ることはできない、とも言っています。次に、安楽死については、この報告書では「安楽死とは苦痛を訴える末期の患者の求めに応じて、医師その他の人が、注射などの積極的な方法を用いて、患者を死に至らしめること」と定義し、これは倫理的に絶対に認められないとしています。


日本医師会のこの見解は、一九八七年の世界医師会でなされたマドリード宣言を、わが国でもようやく追認したことになります。この報告書の最後のところでは、「医師としても、今や、ただ単に最大限の延命をはかるという治療方針の上だけに立つのではなく、何が患者にとって最良の選択になるのかを考慮し、時には安らかな最後を迎えさせるのが望ましいことに思いを致すべきである」と結んでいますが、この報告書を契機として、死が間近かに迫っている患者に、単なる延命措置をほどこし、ただ患者の苦痛を長引かせてしまうという不条理が、これから少しずつ改善されてゆくことを期待したいと思います。


死とは何か


ここで、いったい死とは何なのかという、大切な問題について考えてみたいと思います。先の報告書で取り上げている死は、肉体の死であり、たとえ肉体がいかに苦痛なく、安らかに死を迎えられたとしても、それで死の問題が解決したとは言えません。なぜなら、神に似て造られた人間は、肉体だけの存在ではなく、霊、たましいを持つ存在であり、その霊が死を恐れるからです。


神は、「われわれに似るように、われわれのかたちに、人を造ろう。そして彼らに、海の魚、空の鳥、家畜、地のすべてのもの、地をはうすべてのものを支配させよう。」と仰せられた。神はこのように、人をご自身のかたちに創造された。神のかたちに彼を創造し、男と女とに彼らを創造された。(創世記1・26~27)


神である主は、土地のちりで人を形造り、その鼻にいのちの息を吹き込まれた。そこで、人は、生きものとなった。(創世記2・7)


人間のからだは、他の生物同様に物質から成り立っています。しかし、神が吹き入れてくださったいのちの息によって、生きるものとなった人間は、他の生物と異なる霊的存在、つまり神と親しい交わりを持つべく生かされているものなのです。動物は神から与えられた本能によって生きています。喜怒哀楽など、ある程度の感情は与えられていますが、神を求める思いや、神によって与えられた良心などの霊の働きは持っていません。人間だけに与えられた霊の働きが、生と死、善と悪、天国と地獄、永遠と有限、義と不義などについて考えさせるのです。けれども、人間が健康で元気な時には、このような問題で真剣に悩むことはあまりありません。この世のことに心が奪われているためです。重い病気に罹った時、それも不治の病であることを知った時に、はじめて私たちの霊は、人間はなぜ死ななければならないのか、死んだらどこへ行くのか、死の暗黒の世界とはどんな恐ろしい所かなどについて真剣に悩むようになり、また、自分自身の問題として死を恐れるようになります。しかし、死の問題の解決は、いくら人間が考えてもわかりません。人間がなぜ死ぬのか、死んだらどうなるのか、その答えは人間を造られた神の書である聖書にのみ、はっきりと記されています。聖書には死は最初に造られた人アダムから始まり、その子孫である人間一人残らずが犯した罪の結果である、と書かれています。


そういうわけで、ちょうどひとりの人によって罪が世界にはいり、罪によって死がはいり、こうして死が全人類に広がったのと同様に、――それというのも全人類が罪を犯したからです。(ローマ人への手紙5・12)


ひとりの人とは最初に造られた人アダムのことです。そして、この罪とは、人が定めた法律でいう罪ではなく、その罪の源泉である、神を認めず、恐れず、常に自分を義とするという自己中心の心や態度のことを言います。


第一の死と第二の死


罪を持ったままで死んだ場合、罪の結果である死は、肉体の死にとどまりません。霊の死、滅びも含まれるのです。


人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっている。(ヘブル人への手紙9・27)


「一度死ぬ」とは、肉体の死のことであり、その死の後に、霊が神のさばきを受けます。聖書では、この肉体の死を第一の死と言い、神のさばきの結果、宣告される霊の永遠の滅びを第二の死と言います。この第二の死は、第一の死の後、神のさばきの日に、神を恐れず、神に背を向けたまま死んだ者すべてに、神が永遠に見捨てると宣告される時から始まります。ヨハネは、この時の状況を次のように預言しています。


私は、死んだ人々が、大きい者も、小さい者も御座の前に立っているのを見た。そして、数々の書物が開かれた。また、別の一つの書物も開かれたが、それは、いのちの書であった。死んだ人々は、これらの書物に書きしるされているところに従って、自分の行いに応じてさばかれた。いのちの書に名のしるされていない者はみな、この火の池に投げ込まれた。(ヨハネの黙示録20・12、15)


第一の生と第二の生


人間には、このように死は二度あるが、生も二度あると、聖書は言っています。はじめの生は、肉体の生であり、女から生まれるものです。しかし、この第一の生だけの人間は、生まれながらに神を無視し、自己を正しいとするという罪の性質を持っているために、はじめに神が愛をもってご自分と応答する者にしようと、人間に吹き込んでくださった霊は死んだような状態になっています。そのため、私たちはいつも神に背を向けて、自分を中心とし、自分の欲を満たすことを追及したり、自分の生活や健康や仕事のことばかり心配したり、自分と他人を比較して、うらやんだり、ひがんだり、ねたんだり、あるいは見下したりしながら生きているのです。その人生には心の底からの喜びや平安はありません。


一方、第二の生は、神から生まれる生です。この生は、自分の中にある罪を知り、その罪から救い出されたいと切に願う人間を、罪と死の束縛から救い出してくださるために、神がこの世に遣わしてくださった神の御子イエス・キリストを信じることによって、神の恵みとして与えられる、霊と肉の新しい生です。イエス・キリストは次のように言われました。


まことに、まことに、あなたがたに告げます。わたしのことばを聞いて、わたしを遣わした方を信じる者は、永遠のいのちを持ち、さばきに会うことがなく、死からいのちに移っているのです。まことに、まことに、あなたがたに告げます。死人が神の子の声を聞く時が来ます。今がその時です。そして、聞く者は生きるのです。(ヨハネの福音書5・24~25)


わたしの父のみこころは、子を見て信じる者がみな永遠のいのちを持つことです。わたしはその人たちをひとりひとり終わりの日によみがえらせます。(ヨハネの福音書6・40)


この神の御子イエス・キリストを信じ、自分の救い主として受け入れて、第二の生をいただいた者は、イエス・キリストが確約してくださった通り、第二の死に会うことは決してありません。さらにすばらしいことは、第二の生を受けた者は、肉体も永遠に生きるものとしてよみがえらされるということです。いったんは、第一の死である肉体の死によって、その骨が墓にほうむられても、その人は、復活して天に戻られたイエス・キリストがご自分を信じた者を迎えに、ふたたび来ると約束されたその日に、朽ちない、聖い、病気もなく、老いることもない、完全な肉体によみがえることができるのです。イエス・キリストは十字架の上で死んで、墓にほうむられてから三日後に復活し、弟子たちをはじめ、五百人以上の人に現れて、肉体のよみがえりが、たしかに事実であることをご自身で証明してから天にのぼられました。パウロは次のように証言しています。


その後、キリストは五百人以上の兄弟たちに同時に現われました。その中の大多数の者は今なお生き残っていますが、すでに眠った者もいくらかいます。その後、キリストはヤコブに現われ、それから使徒たち全部に現われました。そして、最後に、月足らずで生まれた者と同様な私にも、現われてくださいました。(コリント人への手紙第一15・6~8)


そして、さらにパウロは、イエス・キリストの復活が、人間のいのちにとってどんなに大きな意味を持っているかについて次のように言っています。


もし、私たちがこの世にあってキリストに単なる希望を置いているだけなら、私たちは、すべての人の中で一番哀れな者です。しかし、今やキリストは、眠った者の初穂として死者の中からよみがえられました。というのは、死がひとりの人を通して来たように、死者の復活もひとりの人を通して来たからです。すなわち、アダムにあってすべての人が死んでいるように、キリストによってすべての人が生かされるからです。(コリント人への手紙第一15・19~22)


私たちの国籍は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主としておいでになるのを、私たちは待ち望んでいます。キリストは、万物をご自身に従わせることのできる御力によって、私たちの卑しいからだを、ご自身の栄光のからだと同じ姿に変えてくださるのです。(ピリピ人への手紙3・20~21)


イエス・キリストとの人格的出会いの必要性


しかし、イエス・キリストを救い主と信じているにもかかわらず、死が間近かに迫ったことを知ると、死の不安や恐怖におののく人がいます。どうしてでしょうか。それは、イエス・キリストを頭の中で観念的に信じているだけで、イエス・キリストとの人格的な出会いをしていないからです。私たちが、ある人を信頼することができるのは、その人の人格を知っているからではないでしょうか。では、どうしたらイエス・キリストの人格を知ることができるでしょう。それは「キリストは、私を救うために、ご自分のいのちを捨ててくださったほど、私を愛してくださっている」と、イエス・キリストの十字架上での身代わりの死と、限りない愛に触れた時ではないでしょうか。イエス・キリストが私たちひとりひとりに与えてくださった、このような大きな愛を確信した時、私たちは個人的にイエス・キリストとの人格的な出会いを体験します。そして、この方こそ自分の救い主であり、すべてをお任せできる方であることを心から信じられるようになります。パウロは、これについて次のように言ってます。


私は、自分の信じて来た方をよく知っており、また、その方は私のお任せしたものを、かの日のために守ってくださることができると確信しているからです。(テモテへの手紙第二1・22)


そのイエス・キリストが、


わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。(ヨハネの福音書11・25)


と約束してくださり、そのイエス・キリストが、冒頭にあげたように、「わたしがあなたに与える平安は、この世の平安とは違うわたしの平安なのだから、心を騒がしてはいけません、恐れてはいけません」と約束しておられるのです。このイエス・キリストに心から信頼する時に、肉体の死はすべての終りではないばかりか、その後に約束されている朽ちることのない永遠のたましいと肉体が与えられることを確信することができるようになり、イエス・キリストに自分をゆだねることができるようになるのです。


ほんとうに平安な死を迎えることができるために


パスカルが、「私たちはイエス・キリストによってのみ生と死を知る。イエス・キリストから離れては、私たちは私たちのいのちが何であり、死が何であるかを知らないし、神についても私たち自身の本性についても、あいまいさと混乱のほか何も見ることができない」と言っている通り、ほんとうに平安な死は、医学によっても、哲学によっても、その他この世のどのような知恵によっても得ることはできません。


ほんとうに平安な死は神の恵みによってのみ得られるものです。その恵みをいただくためには、先に述べたように、まず神の愛を無視し、自己を正しいと主張し続けて、自己中心の人生を歩んでいたという罪を心から悔い改め、イエス・キリストの十字架上での死が、その傲(ごう)慢な自分の罪の身代わりであったこと、自分を罪と死から解放してくださるものであることを信じ受け入れることです。そうすれば神はその信頼に答えてくださり、第二の生を与えてくださいます。次に、自分のためにいのちを捨ててくださったイエス・キリストに全幅の信頼を置いて、すべてをゆだねることです。そうすれば、イエス・キリストが与えてくださるまことの平安によって、永遠のいのちへの希望を持って、天国を望み見つつ第一の死である肉体の死を迎えることができるのです。これこそが、私たちの創造主である神が与えてくださったいのちを永遠に全うするための、まことの尊厳死なのです。




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