医者に治せない病気(1996年)

癌の告知と罪の告知

わたしは、あなたがたが自分の罪の中で死ぬと、あなたがたに言ったのです。もしあなたがたが、わたしのことを信じなければ、あなたがたは自分の罪の中で死ぬのです。(ヨハネの福音書8・24)


癌の告知


冒頭の聖書のことばは、神の御子イエス・キリストが、私たち人間に対してなさった罪という病気の告知です。だれでも、主治医から「あなたは癌です」と言われたら、大変なシクを受けるにちがいありません。なぜなら、それは「あなたはもうすぐ死ぬ」と言われたのと同じとも受け取れるからです。わが国では概して医師は患者に癌の告知をしたがりません。日本医師会が数年前に行った全国規模の調査の結果は、癌患者の約一割に告知がなされているに止まっています。しかも、告知された癌のほとんどは、早期癌、すなわち治る見込みのある癌でした。医師はなぜ治る見込みのない癌の告知をしたがらないのでしょうか。先頃、東海大学病院で行われた、癌の告知をめぐってのシンポジウムでも、シンポジストの医師のすべては、告知をしないという立場でした。告知をしない理由をまとめると、「一方的に告知をするのは簡単だが、それではあまりに無責任である。告知によって患者の生きる希望を断ち切ることになる。患者に癌の痛みに加えて、死の恐怖の苦しみを与えるのは残酷である」などでした。まことにもっともなことです。治る見込みのない、末期癌の告知をした場合、死の恐怖におののく患者に対して医師は何ができるでしょうか。「がんばってください」とか「きっと良くなりますから」などというそらぞらしい励ましや慰めの言葉は、患者にとって何の助けにもなりません。告知を受けた患者は自分の病気を知ったために、やがて迎えなければならない死について、医師にも看護婦にも家族にも、何の解決も助けも与えてもらえないままに、一人で死の恐怖におびえ続けなければならないのです。その恐怖に対して「何もしてあげることができないから告知できない」というのが医師の偽らざる気持ちではないでしょうか。


罪の告知


しかし、はじめに述べた罪の告知は、実は癌の告知よりもはるかに恐ろしいのです。それは罪は癌よりも恐ろしいからです。そして、ほとんどの人はこのことに気づいていません。なぜ罪は癌よりも恐ろしいのでしょうか。癌は肉体の死で終わります。肉体の死を聖書では第一の死と言います。けれども、癌で死のうと何で死のうと、罪を持ったままでぬと肉体の死で終わるのではなく、天国に行くことができないところに、癌よりも恐ろしい罪の恐ろしさがあるのです。神の御子イエス・キリストは十字架にかかられる前に、ご自分を罪からの救い主であることを認めようとしない人々に対して次のように言われました。


わたしは去って行きます。あなたがたはわたしを捜すけれども、自分の罪の中で死にます。わたしが行く所に、あなたがたは来ることができません。(ヨハネの福音書8・21)


天国に行けなければどうなるのでしょうか。その人は死んだ後、神のさばきの日にさばかれて、永遠に苦しむことになるのです。これを第一の死である肉体の死の後に来る死、すなわち第二の死と言います。ヨハネは、神のさばきの日に、第二の死を宣告される時の状況について、次のように書いています。


また私は、死んだ人々が、大きい者も、小さい者も御座の前に立っているのを見た。そして、数々の書物が開かれた。また、別の一つの書物も開かれたが、それは、いのちの書であった。死んだ人々は、これらの書物に書きしるされているところに従って、自分の行ないに応じてさばかれた。海はその中にいる死者を出し、死もハデスも、その中にいる死者を出した。そして人々はおのおの自分の行ないに応じてさばかれた。それから、死とハデスとは、火の池に投げ込まれた。これが第二の死である。いのちの書に名のしるされていない者はみな、この火の池に投げ込まれた。(ヨハネの黙示録20・12~15)


罪の告知はイエス・キリストによってなされる


さて、癌の告知は主治医がしますが、罪の告知はイエス・キリストがなさいます。前に述べたように、罪の告知は大変に恐ろしいものですが、決して癌の告知のように希望のない、救いのない、解決のない、残酷なものではありません。医師は、告知をしたとしても、末期の癌患者を死から救い出す何の力も方法も持っていません。しかし、イエス・キリストは、罪の告知の際に、「あなたがわたしのことを信じなければ自分の罪の中で死ぬ」とはっきりと示してくださっているのです。このことばを言いかえますと、「あなわたしのことを信じれば第二の死を免れる」ということになります。つまり、イエス・キリストは、恐ろしい第二の死に至る罪から、私たち人間を救い出す方法を明らかに示したうえで、私たち人間に罪の告知をしてくださっているのです。


罪とは第二の死に至る霊の病


罪とは霊の病気です。それも癌よりも恐ろしい第二の死に至る病気です。その症状は、神に背き、自分の思いや欲を第一にして生きるというものです。罪という病気は、自覚のない場合が多い、という点でも癌に似ています。私たちはみな、神がどのような方かも知らずに生きていても何の不都合もないし、自分の考えにもとづいて生きるのは当たり前だと思っていますから、それが罪だといわれてもピンと来ません。なかなか納得できません。しかし、それが罪の病気の特徴なのです。世間一般には、罪というのは、殺人、窃盗、詐欺などのように、人に損害や迷惑をおよぼすことだと考えられています。したがって、自分は人に迷惑も損害も与えたことはないのだから、罪とは関わりはない、と思っても不思議ではありません。しかし、生まれてから今まで、人のことを罵ったり、軽蔑したり、僧悪したりしたことがないと断言できる人は、一人もいないはずです。世間では、自分の心の中で人を憎悪しても、その人に直接損害をかけなければ罪とはならないと考えます。しかし、イエス・キリストは、これらも罪であると言われます。


昔の人々に、「人を殺してはならない。人を殺す者はさばきを受けなければならない。』と言われたのを、あなたがたは聞いています。しかし、わたしはあなたがたに言います。兄弟に向かって腹を立てる者は、だれでもさばきを受けなければなりません。(マタイの福音書5・21~22)


人を殺した者だけでなく、人に向かって罵る者も、神のさばきを受け、永遠に苦しまなければならない、すなわち、人を殺すのも、人を憎悪するのも、同罪であるとイエス・キリストは言われました。どうしてでしょうか。それは、人を憎む心の中に人を殺す思いが潜んでいるからです。そして、神は、人殺しを、その行為によってさばかれるのではなく、人を憎む思いによってさばかれるのです。神は、人間の心の中を見られる方だからです。


主はサムエルに仰せられた。「彼の容貌や、背の高さを見てはならない。わたしは彼を退けている。人が見るようには見ないからだ。人はうわべを見るが、主は心を見る。」(サムエル記第一16・7)


この神から見れば、私たちはみな、殺人罪を犯したことになります。聖書の別の箇所では、このことを端的に言っています。


兄弟を憎む者はみな、人殺しです。(ヨハネの手紙第一3・15)


私たちは殺人罪を犯しただけではありません。姦淫罪も犯しています。イエス・キリストは次のように言っておられます。


『姦淫してはならない。』と言われたのを、あなたがたは聞いています。しかし、わたしはあなたがたに言います。だれでも情欲をいだいて女を見る者は、すでに心の中で姦淫を犯したのです。(マタイの福音書5・27~28)


また、私たちは自分が持っていないものを人が持っていると、欲しいという思いを起こします。そして、その思いが盗みに発展するのです。したがって、人のものを欲しいとい

う思いは、盗んだのと同じである、として神はさばかれるのです。


すべての人間は神に対する罪を犯した


以上のことに共通するものは何でしょうか。それは、これらの思いはすべて、人間がだれでも持っている性質、すなわち自分を正しいとする自己中心の考えや自分の欲を満たそうとする所有欲にもとづいているということです。聖書で言うところの罪が、自分を正しいとする心、自分を義人とする心にあるのですから、すべての人間は罪を犯したことになります。これについて、パウロは次のように言っています。


私たちは前に、ユダヤ人もギリシヤ人も、すべての人が罪の下にあると責めたのです。それは、次のように書いてあるとおりです。「義人はいない。ひとりもいない。悟りのある人はいない。神を求める人はいない。すべての人が迷い出て、みな、ともに無益な者となった。善を行なう人はいない。ひとりもいない。」「彼らののどは、開いた墓であり、彼らはその舌で欺く。」「彼らのくちびるの下には、まむしの毒があり、」「彼らの口は、のろいと苦さで満ちている。」(ローマ人への手紙39~14)


ここにある義人とは、人間が認める義人のことではなく、神が義と認める人であります。また、「善を行なう人はいない」という善とは、人間的な考えによって現される善行という意味ではなく、人が喜んで神に従う結果なされる行為を言います。このように神に対する罪のゆえに、私たち人間はみな、肉体の死の後に神のさばきを受けて、第二の死の宣告を受ける定めのもとにあるのです。


しかし、神は全き愛の方であります。神は、この恐ろしい罪を持っているのも知らずに、第二の死に向かって歩いている私たち人間を見過ごすに忍びず、罪の完全な治療法を用意してくださったうえで、罪の告知をしてくださったのです。その治療法こそイエス・キリストの十字架であり、流された血、すなわちいのちです。聖書にはこう書かれています。


そして自分から十字架の上で、私たちの罪をその身に負われました。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるためです。キリストの打ち傷のゆえに、あなたがたは、いやされたのです。(ペテロの手紙第一2・24)


御子イエスの血はすべての罪から私たちをきよめます。(ヨハネの手紙第一1・7)


イエス・キリストは、イエス・キリストから罪の告知を受けて、自分が罪という恐ろしい病気に罹っていることに気づき、イエス・キリストだけが罪を癒してくださることのできるただ一人の方であると信じる者に対して、次のように約束してくださっています。


わたしは彼らに永遠のいのちを与えます。彼らは決して滅びることがなく、また、だれもわたしの手から彼らを奪い去るようなことはありません。(ヨハネの福音書10・28)


W教授の死


私は、ここで同僚のW教授のことを思い出さざるを得ません。W教授は、前立腺癌に罹られ、入院しておられましたが、ある日、私の部屋に病室のW教授から電話がありました。それは、「自分は癌の末期であることを知っているが、ここの末期医療、ターミナル・ケアについては、まだ十分とはいえない。自分をたたき台にして、末期医療をやってもらいたい」というご依頼でした。


末期医療とは、簡単に言えば、末期の病人が共通に持つ痛み、すなわち肉体的痛み、精神的痛み(家族との別離や、やり残した仕事などについての心の痛み)、社会・経済的痛み(死後における家族の生活の心配や自分が社会から忘れ去られるのではないかという寂しさ)、霊的痛み(死と死後についての恐れや不安)を取り除くことができるように支援し、病人が安らかに死を迎えられるように配慮する医療であります。このためには、医療従事者や家族はもちろん、福祉関係者や聖職者の協力が必要となります。


W教授の場合には、肉体的な痛みは、麻酔科の協力によって解決のめどがつき、また精神的痛みや社会・経済的痛みは、すでに学校関係者や夫人の協力によって問題は解決されておりました。しかし、残された問題は、霊的痛みでありました。私がW教授の病室にお伺いした時、癌の転移によって視力が失われていたW教授は、傍らの夫人の手をしっか握っておられました。そして、私に対して「暗闇が恐ろしい、孤独が恐ろしい、だから家内の手を握っている、こうしている時だけが安心だ」と言われました。W教授は、死を恐れておられたのです。


W教授は、日頃から無神論者として学生に知られた方でした。その方が自分の死が間近いことを知り、しかも失明によって暗闇に置かれた時に、孤独と死に対する恐れを、このように率直に私に告白してくださったのです。私はW教授に「死の恐れ、不安はだれにでもあること、愛する夫人の手を永遠に握っていたくても、やがては離さなくてはならない時が来ること、しかし、あなたはご存じなくても、あなたを愛して死に打ち勝つ永遠のいのちを与えよう、死から救い出そうと、手を差し延べてくださっている方がおられ、その方に助けを求めてその手を握った時に、その方はあなたの手を取って天国まで連れて行ってくださること、その方は肉眼では見えないが、あなたの傍らにいつもおられてあなたの救いのために祈っておられること、その方は神が人となったイエス・キリストであること」をお話しました。


W教授は私の話を真剣に聞いておられました。病状はお会いするたびに進行していました。ある日、病床をお見舞いした私が「あなたが承知すれば、あなたのために、イエス・キリストに祈ろうと思うが」と申しますと、「頼む」と言われたので、「神に逆らっていたW教授の罪の代価をご自分のいのちで支払って赦してくださったうえに、永遠のいのちを与えようと思っておられるイエス・キリストの恵みを、W教授が受け入れることができますように」と祈りました。祈り終えた時、W教授の閉じた目から涙が頬に流れ伝っていました。私はその後、地方に行かなければならない用事のために、病室に伺うことができませんでしたが、W教授はそれから数日後に亡くなったことを後から知りました。しかし、葬儀直後に夫人から手紙をいただき、W教授は私が祈ってから亡くなるまでの間、病気に罹られて以来かつてなかったような、安らかな状態であったことを知ることができました。その手紙から、私はW教授の心にそのような平安が与えられたのは、W教授がそれまで神に逆らって生きて来たことを心から悔い改めて、素直に神の愛の御手にすがった結果、死に対する恐怖をイエス・キリストが取り除いてくださったということを確信したのです。私はW教授に永遠のいのちを与え、天国に召してくださった、イエス・キリストに心から感謝しました。


主を呼び求める者すべて、まことをもって主を呼び求める者すべてに主は近くあられる。また主を恐れる者の願いをかなえ、彼らの叫びを聞いて、救われる。(詩篇1・18~19)


イエス・キリスト以外に罪からの救いはない


W教授の他にも、天国に行けるという希望をもって、平安のうちに亡くなった方々はたくさんおられます。それはイエス・キリストを信じる信仰によって罪は癒され、イエス・キリストから永遠のいのちをいただいているという確信があるからです。また、イエス・キリストがいつも傍らにおられて、この世のいのちの終りまで、絶えず励まし、慰めてくださるからです。


日本では、癌で死亡する人は、全死亡の約三分の一と言われています。しかし、罪で死ぬ人は、イエス・キリストを信じない限り百パーセントです。まだ、イエス・キリストを信じておられない方は、イエス・キリストによる罪の告知をご自分のこととして、心を開いて受け入れ、罪を癒してくださるただ一人の方であるイエス・キリストを信じていただきたいと思います。


この方以外には、だれによっても救いはありません。世界中でこの御名のほかには、私たちが救われるべき名としては、どのような名も、人間に与えられていないからです。(使徒の働き4・12)


最後に私は、死を間近にした患者に、死に勝利して永遠のいのちを与えてくださるイエス・キリストを信じれば、もはや肉体の死は恐れるべきものではないこと、天国への希望が約束されていることを、確信を持って伝えることのできる医師が一人でも多く生まれることを願って止みません。




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