医者に治せない病気(1996年)
私は、いのちと死、祝福とのろいを、あなたの前に置く。あなたはいのちを選びなさい。(申命記30・19)
最近、医療関係者の間で、インフォームド・コンセントという言葉がさかんに使われるようになりました。一言でこの言葉の内容を表現できるようなよい訳語はなく、一応、「医師による説明と患者の納得と同意」と訳されていますが、簡単に言いますと、医師が自分が診療に当たっている患者に、いま罹っている病気と、行おうとしている治療について十分に説明を行い、その説明に患者が納得すれば、患者の同意にもとづいて治療というものです。そのようなことは、当然行われていなければならないはずではないかと、不思議に思われるでしょうが、その当然のことが、わが国だけではなく、欧米でも意識して行われてはいませんでした。
しかし、十年ほど前から、「自己決定権、すなわち自分の問題は自分で決定する権利がある、という考え方を病気の検査や治療にも取り入れるべきである」という主張がされるようになりました。この考え方によれば、「自分の病気なのだから、まず自分自身が、その病気はどのようなものか、どのような原因で起こったのか、現在の状態はどの程度であるのか、これからどのような経過をたどるのか、どのような検査を受けるのか、それらの検査にはどんな苦痛が伴うのか、また、その病気にはどのような治療法があるのか、それらの治療法の効果はどうなのか、苦痛がどの程度あるのか、などについて、十分に理解したうえで、自分自身の責任で方針を決定する」ことになります。そこで、患者が病気について自己決定を行うためには、それに必要な情報が与えられなければならない、ということから、インフォームド・コンセントが医療の場で行われるようになったのです。
欧米では、もし患者にインフォームド・コンセントなしに医療が加えられた場合には、その医師は賠償の責任を負わなければならないということです。しかし、わが国では、インフォームド・コンセントについて、まだ医師にも患者にも戸惑いが見られます。患者の戸惑いの理由は、わが国では人々に自己決定権という意識がまだ薄いために、その考え方を病気に適用して、「自分の病気だから自分でどうするかを決めなければならない」と言われてもどうしていいかわからないということだと思います。また、医師の側の戸惑いの理由には、これまでは「病気のことは専門家である医師に黙って任せていればよい」という、長年の慣習からなかなか抜け出せないところにあるのではないでしょうか。ともあれ、医療のプロセスにおいて、医師が患者の病気についての情報を十分に患者に提供して、その情報をもとにして患者が納得して医療を受けるためのインフォームド・コンセントは、医療の現場においては大変に大切なことですから、これからだんだんと定着して来ることでしょう。
イエスは答えて言われた。「医者を必要とするのは丈夫な者ではなく、病人です。わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招いて、悔い改めさせるために来たのです。」(ルカの福音書5・31~32)
医療におけるインフォームド・コンセントの重要性については、前に述べたことからおわかりと思いますが、ここで、それよりずっと大切なインフォームド・コンセントについて考えたいと思います。神は、私たち人間に対して、はるか昔から医療においてなされるインフォームド・コンセントと同じように、いや、それ以上に懇切丁寧に、罪という病気についてインフォームド・コンセントをしてくださっているのです。では、神はどのように、これをしてくださるのでしょうか。
インフォームド・コンセントのプロセスは、まず診断した病名を病人に告知することから始まりますが、神もまず私たち人間に、「あなたは罪という病気に罹っている」と告げてくださっているのです。そして、神が行ってくださるインフォームド・コンセントを受ける側の人間は、ほとんどが罪という恐ろしい病気の自覚症状がありません。そこで神は、聖書を通して端的に「あなたは今、こういう危険な病気に罹っているのです」と告げてくださっています。
もしあなたがたが、わたしのことを信じなければ、あなたがたは自分の罪の中で死ぬのです。(ヨハネの福音書8・24)
第二に、その病気によって犯されている部位と病気の原因についての説明があります。
すなわち、その病気は霊の病気であり、その原因は、神から離れた、わがまま勝手な、放縦生活の結果であることが示されます。
愚か者は心の中で、「神はいない。」と言っている。彼らは腐っており、忌まわしい事を行なっている。善を行なう者はいない。(詩篇14・1)
第三に、その病気の症状について、聖書を通して次のような説明があります。
自分を愛する者、金を愛する者、大言壮語する者、不遜な者、神をけがす者、両親に従わない者、感謝することを知らない者、汚れた者、情け知らずの者、和解しない者、そしる者、節制のない者、粗暴な者、善を好まない者、裏切る者、向こう見ずな者、慢心する者、神よりも快楽を愛する者、見えるところは敬虔であっても、その実を否定する者・・・・。(テモテへの手紙第二3・2~5)
右にあげた、これらの症状をまとめると、罪という病気に罹っている人は、神に心を向けるのではなく、自己中心になり、自分の考えや行為を正当化し、自分の欲を満足させるのに、いっしょうけんめいになるという症状を呈するということです。
第四に、その病気の予後、すなわち結末について説明してくださいます。
イエスは彼らに言われた。「わたしは去って行きます。あなたがたはわたしを捜すけれども、自分の罪の中で死にます。わたしが行く所に、あなたがたは来ることができません。」(ヨハネの福音書8・21)
このように、罪という病気は予後が極めて悪く、からだの死ばかりか、その後、神の御子イエス・キリストの行くところ、すなわち、天国に入ることが決してできないことを知らせてくださいます。
第五に、この病気の治療法について説明してくださいます。すなわち、この病気には十字架にかかられたイエス・キリストのいのちが唯一の特効薬であること、そして、この薬を受け取るためには、自分が罪という病気に罹っており、その原因が神に背いて、わがまま勝手な生き方をした結果であることを認め、心から悔い改めて、この病気を治してくださることのできる、たった一人の名医であるイエス・キリストのところへ行くことを教えてくださいます。
私たちがまだ弱かったとき、キリストは定められた時に、不敬虔な者のために死んでくださいました。正しい人のためにでも死ぬ人はほとんどありません。情け深い人のためには、進んで死ぬ人があるいはいるでしょう。しかし私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。ですから、今すでにキリストの血によって義と認められた私たちが、彼によって神の怒りから救われるのは、なおさらのことです。もし敵であった私たちが、御子の死によって神と和解させられたのなら、和解させられた私たちが、彼のいのちによって救いにあずかるのは、なおさらのことです。(ローマ人への手紙5・6~10)
最後に、この病気についての必要な情報がすべて提供された後は、「どうするかはあなた自身が自分で決定するように」と、選択を私たちの自由な意志にまかされます。しかし、どちらを選ぶほうが自分にとって良いかは、すでにおわかりのことと思います。
私は、きょう、あなたがたに対して天と地とを、証人に立てる。私は、いのちと死、祝福とのろいを、あなたの前に置く。あなたはいのちを選びなさい。(申命記30・19)
以上のように、罪という病気を持った人間に対する、神のインフォームド・コンセンは完全です。しかも、医師は、自分の担当の患者に対して、納得できるように懇切な説明をしなければならない責任と義務がありますが、神には、ご自分に背いた結果、罪という病気に罹った自分勝手な私たち人間に対して、説明すべきなんらの責任も義務もありません。けれども愛とあわれみの神は、ご自分に背いた私たち人間が永遠の死を迎えなければならないのを当然のことと思われず、ただあわれんでくださって、罪を悔い改めて、ふたたびご自分のもとに帰ってくるようにと切に願われ、この罪という恐ろしい病気について懇切なインフォームド・コンセントをしてくださるのす。
ところで、インフォームド・コンセントは、信頼する医師からなされた時に、はじめてその効果が現れます。この医師はほんとうに自分のことを考えてくれている、と思えた時に、病人は医師の説明に納得し、同意することができます。では、神はどうでしょうか。信頼できる方でしょうか。神以上に信頼できる方はありません。なぜなら、ご自分に敵対し反抗しているような者をも、
わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。(イザヤ書43・4)
と言ってくださり、罪という恐ろしい病気から救い出すために、ご自分のひとり子のイエス・キリストのいのちを犠牲にされたほどに、私たちを愛してくださっている私たちの造り主だからです。
神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちに、いのちを得させてくださいました。ここに、神の愛が私たちに示されたのです。私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。(ヨハネの手紙第一4・9~10)
この愛とあわれみの神に信頼して、神の説明に心から同意し、イエス・キリストが十字架の上で成し遂げてくださった、罪からの解放という治療を受け入れる決心をすれば、ただちに恐ろしい罪の病から癒され、永遠のいのちをいただくことができるのです。
罪から来る報酬は死です。しかし、神の下さる賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです。(ローマ人への手紙6・23)