私達の国籍は天にあります(1987年)

主イエスの祈りに支えられる信仰

「シモン、シモン。見なさい。サタンが、あなたがたを麦のようにふるいにかけることを願って聞き届けられました。

しかし、わたしは、あなたの信仰がなくならないように、あなたのために祈りました。だからあなたは、立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」シモンはイエスに言った。「主よ。ごいっしょになら、牢であろうと、死であろうと、覚悟はできております。」

しかし、イエスは言われた。「ペテロ。あなたに言いますが、きょう鶏が鳴くまでに、あなたは三度、わたしを知らないと言います。」(ルカの福音書22・31~34)


彼らは中庭の真中に火をたいて、みなすわり込んだので、ペテロも中にまじって腰をおろした。すると、女中が、火あかりの中にペテロのすわっているのを見つけ、まじまじと見て言った。「この人も、イエスといっしょにいました。」ところが、ペテロはそれを打ち消して、「いいえ、私はあの人を知りません。」と言った。しばらくして、ほかの男が彼を見て、「あなたも、彼らの仲間だ。」と言った。しかしペテロは、「いや、違います。」と言った。

それから、一時間ほどたつと、また別の男が「確かにこの人も彼といっしょだった。この人もガリラヤ人だから。」と言い張った。しかしペテロは、「あなたの言うことは私にはわかりません。」と言った。それといっしょに、彼がまだ言い終えないうちに、鶏が鳴いた。

主が振り向いてペテロを見つめられた。ペテロは、「きょう、鶏が鳴くまでに、あなたは、三度わたしを知らないと言う。」と言われた主のおことばを思い出した。彼は、外に出て、激しく泣いた。(ルカの福音書22・55~62)


今、お読みいたしました箇所についてこれからしばらく考えてみたいと思います。最近私はこの箇所に大変心が捕われておりました。ここにおいでになる方々の中にはイエス様に従って歩んでいらっしゃる方も多いと思います。また、まだイエス様を信じていらっしゃらない方もおられますが、どうぞこの箇所を通してイエス様が私たちに何をしてくださっているか、ということについてご一緒に考えていただきたいと思います。


イエス様を信じたらどうなるか、きっといいことがあるのではないか、とイエス様を外から見ている方々は思っていらっしゃるのではないでしょうか。そうは考えないにしても、困難や患難や苦しみなどというものは減るのではないかと思っている方が案外多いのではないかと思います。けれども、現実にイエス様を信じている者、キリスト者は、信じる前と比較して、我々を取巻く状況が客観的に見てそんなに大きく変わることはない、依然として物質的あるいは精神的な苦しみ、例えば倒産、失業、病気、愛する者の死、他人からの中傷、迫害などの患難の中に置かれているという場合が多いのではないでしょうか。「それでは、信じても少しもいいことはないじゃないか」と単純にお思いにならないでいただきたいのです。実は、そこがイエス様の素晴らしさですから、しばらく、聖書を通してそのことを考えてみたいのであります。


今お読みいたしましたルカの福音書22章の31節から34節が今日の主なテーマになるのですが、イエス様の弟子たち、ご存知のように12人を中心としてたくさんの弟子たちがおりました。イエス様が十字架にかかられる時が近づいて、エルサレムの町に入られるのですが、弟子たちにはそのことのほんとうの意味がわからないのです。弟子たちがイエス様に信頼していたことは確かであります。だからこそ、それまでイエス様に従って行ったのです。ところがそのイエス様が捕えられて十字架の上で殺される。そのうえその後に彼らに迫害が襲って来た。このようなことを彼らは考えてもいませんでした。


もちろん、イエス様はそのことを何度も予告しておられたのです。先ほどの箇所の少し前になりますが、ルカの福音書18章の31節から34節を読みますとそれがわかります。


さてイエスは、十二弟子をそばに呼んで、彼らに話された。「さあ、これから、わたしたちはエルサレムに向かって行きます。人の子(イエス様)について預言者たちが書いているすべてのことが実現されるのです。

人の子は異邦人に引き渡され、そして彼らにあざけられ、はずかしめられ、つばきをかけられます。彼らは人の子をむちで打ってから殺します。しかし、人の子は三日目によみがえります。」

しかし弟子たちには、これらのことが何一つわからなかった。彼らには、このことばは隠されていて、話された事が理解できなかった。(ルカの福音書18・31~34)


そして22章にまいりまして、イエス様は弟子たちとの最後の晩餐の後でペテロに声をかけられ、31節で、「シモン、シモン。サタンが、あなたがたを麦のようにふるいにかけることを願って聞き届けられました」とおっしゃいます。けれども、シモン・ペテロには何のことだか、何が起こるのかさっぱりわからない。しかし、ただならない状態であることはうすうす感づきましたので、「主よ。ごいっしょになら、牢であろうと、死であろうと、覚悟はできております」と大変健気(けなげ)に答えたわけです。


しかしながら、34節でイエス様はペテロに向かって、「あなたに言いますが、きょう鶏が鳴くまでに、あなたは三度、わたしを知らないと言います」とおっしゃったのです。麦のようにふるう、というのは以前に米屋さんなどで米や麦などの穀物を箕(み)という竹で編まれた篭(かご)のようなものに入れてふるいますと、軽い籾穀(もみがら)と脱穀(だつこく)された穀物が分離して、米や麦は残りますが籾殻(もみがら)は吹き飛ばされてゆく、という作業です。イエス様はサタンが弟子たちをそのような目に会わせることを願って聞き届けられた、とおっしゃっています。いったい誰に聞き届けられたのでしょうか。神様になのであります。


ここで不思議に思われるかも知れません。そんなことをサタンが願って神様に聞き届けられた。なぜ神様は許されるのだろうかとお思いになることでしょう。実はサタンというのはかつては天使であったのですけれども堕落して神の恵みから離れ、我々を神から引き離すものとなった、これがサタンであります。けれどもサタンの働きは無制限に許されているのではなく、神によって制限されております。聖書に書いてありますように、サタンの末路は最後にキリストによって滅ぼされる、地獄に落ちて永遠の苦しみを味わうのですが、それまでの間、制限された範囲で我々を神から離すためにいろいろと誘惑を仕掛けて来るのであります。しかし、それも神様の許しがなければ出来ません。もう一つの例に、ヨブという人にサタンが攻撃を仕掛けたということが書いてある箇所があります。ヨブ記の1章6節から12節をお読みいたします。


ある日、神の子らが主の前に来て立ったとき、サタンも来てその中にいた。主はサタンに仰せられた。「おまえはどこから来たのか。」サタンは主に答えて言った。「地を行き巡り、そこを歩き回って来ました。」

主はサタンに仰せられた。「おまえはわたしのしもべヨブに心を留めたか。彼のように潔白で正しく、神を恐れ、悪から遠ざかっている者はひとりも地上にはいないのだが。」サタンは主に答えて言った。「ヨブはいたずらに神を恐れましょうか。あなたは彼と、その家とそのすべての持ち物との回りに、垣を巡らしたではありませんか。あなたが彼の手のわざを祝福されたので、彼の家畜は地にふえ広がっています。しかし、あなたの手を伸べ、彼のすべての持ち物を打ってください。彼はきっと、あなたに向かってのろうに違いありません。」

主はサタンに仰せられた。「では、彼のすべての持ち物をおまえの手に任せよう。ただ彼の身に手を伸ばしてはならない。」そこでサタンは主の前から出て行った。(ヨブ記1・6~12)


ここで神はヨブのいのちを取ってはいけないという条件つきで、サタンにヨブの持ち物を全部取り去って彼を試みることを許されたのであります。ここでもとのところに戻りまして、ペテロを始め弟子たちについても神はサタンの願いを聞かれたのであります。


ルカの福音書22章54節以降をみますと、イエス様は大祭司に捕えられて引いて行かれました。するとサタンはただちにペテロをふるいにかけました。ほんのしばらく前にイエス様に対して、「死を賭してもあなたに従います」と誓ったばかりのペテロが大祭司の家の中庭のあかりの中で、つぎつぎに三人の人から「あなたもイエスと一緒にいた、あなたもイエスの仲間であろう」と指摘された時に、そのつど「私は彼を知らない、イエスを知らない」とイエス様との関係を否定してしまったのであります。その時に鶏がないてペテロはイエス様に言われた言葉を思い出したのです。


そのすぐ後に、私が非常に心を打たれた箇所があります。それは61節で、「主が振り向いてペテロを見つめられた」というところです。なぜ、どういうわけで主はペテロを見つめられたのでしょうか。私は、イエス様はその時ペテロの信仰が無くならないように祈りながら、じっと見つめておられたのだと思います。彼はそのイエス様の視線を感じて激しく泣いたのであります。サタンのふるいというのはまことに強烈です。ペテロもこのサタンの猛烈な攻撃に会って信仰が激しく動揺します。けれどもそれで彼はイエス様から離れたか、信仰を捨てたか、そうではないのであります。彼はイエス様の祈りによって信仰が支えられたのです。それをペテロのその後の行動によって私たちは知ることが出来ます。


イエス様が復活され、父なる神のもとに帰られてからペテロは何をしたでしょうか。彼は非常な勇気をもってイエス様が復活されたことを証しし、多くの人たちにイエス様がどなたであるかということを雄々しく宣べ伝えたのでありました。このことは使徒の働きの2章14節以降にはっきりと記されております。


大祭司の家の中庭でイエス様を知らない、と言った彼がそのように立ち直ることが出来たのはイエス様の祈りに支えられたからであります。もし、ペテロが自分の力や意志だけに頼ってイエス様に従って行こうとしたならば、あの時、彼の信仰はサタンのふるいにかけられて籾殻(もみがら)のように吹き飛んでしまったでありましょう。


もう一人、対照的な弟子がいました。イスカリオテのユダであります。この人も有名ですから皆様ご存知のことと思います。彼は大変利口であったようです。しかし利口であったが故に自信がありました。自分の判断に依り頼む人でありました。ではなぜ彼がイエス様の弟子としてイエス様に従っていたのでしょうか。それはイエス様を信じたというよりも、彼の知恵で、このイエスという方、かずかずの奇跡を行い、素晴らしい教えを多くの人々に与えたこのイエスという優れた人に自分が従っていれば、やがて必ず自分も利益を得ると考えたのであります。


この当時ユダヤはローマの支配下にありました。血気のある人たちは、なんとかローマの支配から脱して独立しようとひそかに地下で運動していたのですが、その時にこの優れたイエスという人を王にしてローマからユダヤの国を独立させる、イエスを王にすれば自分は高い位に就ける、これが彼の判断であり、イエス様に従って行った理由でありました。その彼の判断と希望は、イエス様が十字架にかけられることがはっきりした時に脆くも打ち砕かれました。彼の期待が外れた時にサタンの攻撃によって、彼の心はイエス様から離れました。そして銀三十枚でイエス様をエルサレムの祭司長らに売り渡したのであります。ルカの福音書22章の47節を見ますと、ゲッセマネの園でイエス様が祈り終えて弟子たちと話していた時のことが書かれております。


イエスがまだ話をしておられるとき、群衆がやって来た。十二弟子のひとりで、ユダという者が、先頭に立っていた。ユダはイエスに口づけしようとして、みもとに近づいた。だが、イエスは彼に、「ユダ。口づけで、人の子を裏切ろうとするのか。」と言われた。(ルカの福音書22・47)


このようにして、ユダは口づけを合図にイエスを彼らに引き渡したのです。


いったいペテロとユダとの間にどのような差があるのでしょうか。ユダもペテロも人間である以上、サタンに対して自分の力とか知恵で勝つことは絶対に出来ないのであります。ユダが悪人でありペテロが善人であるというような区別は私たちには出来ません。すべての人が罪人であると聖書は言っておりますから、二人の間にそのような本質的な差はありません。ではこの二人の間にある根本的な差は何か。それはイエス様の愛の中にとどまっているかどうか、その差だけであります。イエス様はユダも愛していらっしゃいました。弟子たちの中でユダを会計係にするほど信用しておられたということでもそれはわかると思います。しかし、ユダはイエス様を信じてはいなかったのです。彼は心を開いてイエス様が自分を愛してくださっていることを信じなかったのです。イエス様の愛の中にいることを彼は拒んだわけです。イエス様を信頼するのではなくて批判して、自分の判断で、自分の考えに依り頼んでイエス様の愛を離れたのであります。そのために彼はサタンにふるわれた時に、簡単にイエス様を捨てました。


イエス様の愛と私たちの関係、これはちょうど魚と水の関係と言ってもいいのではないでしょうか。イエス様の愛は私たちのいのちのために絶対に必要であると確信する時に、魚が水の中でのみ、いのちを与えられて生きているように、私たちはイエス様の愛の中でのみ、ほんとうに、そして永遠に生きることが出来るのであります。


私たちがサタンに激しくふるわれるとその時は動揺します。けれどもイエス様の愛のうちにいる限り、私たちはどんなに動揺しても、「わたしは、あなたの信仰がなくならないように、あなたのために祈りました」と言ってくださっているイエス様ご自身のとりなしの祈りによって、イエス様のもとに立ち返ることが出来るのです。


神はそのひとり子(イエス様)を世に遣わし、その方によって私たちに、いのちを得させてくださいました。ここに、神の愛が私たちに示されたのです。

私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。(ヨハネの手紙第一4・9~10)


とありますように、私たちを造ってくださった神様を離れて自分勝手に生き、神様の存在すら認めようとしなかった私たちは、その罪のために当然滅びに定められるべき者でした。それを限りない神の愛によって赦してくださるために、御子イエス様は父なる神様の御心に従って、なだめの供え物として十字架の上で私たちの受けるべき罰を受けて身代わりに死んでくださったのです。完全な愛であると同時に、完全な義であられる神様が、私たち人間の背きの罪を赦してくださる方法はこれ以外になかったのであります。背いた私たちのために御子を十字架にかけてくださった父なる神様、また父なる神様の御心に柔順に従って私たちの罪のために十字架上で死んでくださったイエス様、この想像もつかないような神の愛を知った時、私たちはその愛からどうして離れることが出来るでしょうか。


イエス様を信じる者は脱穀された麦であります。すでにイエス様の十字架の死によって、自分ではどうすることも出来なかった、自分の身にまといついている罪という籾穀(もみがら)を脱ぎ捨てることの出来たその麦であります。けれどもキリスト者はなおも籾穀(もみがら)と共にふるいにかけられるのであります。なぜでしょうか。それは籾穀(もみがら)を吹き飛ばして麦をもっともっと精練するために神様がサタンにそれを許しておられるからであります。人間というのはどんなに強がっていても弱いのです。イエス様はそれを先刻ご存知であります。しかし、私たちがイエス様の愛のうちにとどまっているならば、先ほどの信仰の動揺もそれ自体信仰の成長を促すものであると私は思います。なぜならば、その動揺によって自分の能力、あるいは信仰に対する自信、といったようなものが粉々に砕かれるからであります。自我が砕かれるからなのであります。自我が砕かれる度に、私たちはイエス様に依り頼む度合いがますます強くなり、イエス様の愛をより深く体験的に知ることになります。そして、そのようになれるのは、イエス様が私たちの信仰がなくならないようにと祈っていてくださるからにほかなりません。


ヘブル人への手紙12章10節から11節にこう書かれております。


霊の父は、私たちの益のため、私たちをご自分の聖さにあずからせようとして、懲らしめるのです。すべての懲らしめは、そのときは喜ばしいものではなく、かえって悲しく思われるものですが、後になると、これによって訓練された人々に平安な義の実を結ばせます。(ヘブル人への手紙12・10~11)


また、ペテロの手紙第一1章6節から7節には、


そういうわけで、あなたがたは大いに喜んでいます。いまは、しばらくの間、さまざまの試練の中で、悲しまなければならないのですが、信仰の試練は、火を通し精練されてもなお朽ちて行く金よりも尊いのであって、イエス・キリストの現われのときに称賛と光栄と栄誉に至るものであることがわかります。(ペテロの手紙第一1・6~7)


と書かれております。


天国への道そのものであり、真理そのものであり、いのちそのものであられるイエス様を信じる信仰は、この世の御利益信仰とはまったく違いますから、目に見えるようなこの世の恵みを与えられるというよりは、イエス・キリストに似る者とされるための訓練として試練が与えられることも多いと言ってよいと思います。けれども、私たちがこの世の旅路を終えた時には、すべての苦しみからまったく解き放たれて、死後のさばきに会うことなくただちにイエス様が待ってくださっている天国に行く特権が与えられています。そのうえ、その時までイエス様ご自身のとりなしの祈りによって守られている。こんな幸いなことはないと思います。


もう一人イエス様の弟子について考えて見たいと思います。それはパウロです。パウロと申しますと、ペテロと対照的に大変強い人とよく言われますが、彼は自分の弱さを十分に知った人でありました。コリント人への手紙第二12章の7節から10節にそのことが証明されているのではないでしょうか。


私は、高ぶることのないようにと、肉体に一つのとげを与えられました。それは私が高ぶることのないように、私を打つための、サタンの使いです。このことについては、これを私から去らせてくださるようにと、三度も主に願いました。しかし、主は、「わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現われるからである。」と言われたのです。ですから、私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで私の弱さを誇りましょう。ですから、私は、キリストのために、弱さ、侮辱、苦痛、迫害、困難に甘んじています。なぜなら、私が弱い時にこそ、私は強いからです。(コリント人への手紙第二12・7~10)


とパウロは告白しております。もしパウロが自分の力で信仰を固く保って行こうとしたならば、サタンの攻撃に会って倒れてしまったことでしょう。けれどもここにありますように、パウロは自分の弱さを誇る、砕かれた人でありました。それゆえ彼はイエス様の力によって強くされたのです。明日のことさえ分らないような自分自身を自分の主人としてしまうような愚かな私たちが、その弱く愚かな己を知ってイエス様の愛にすがる時、イエス様はシモン・ペテロのために祈られたように、私たち一人一人のためにも日々刻々祈ってくださっているのを知ることが出来ます。そのようなイエス様の祈りに支えられながら信仰の歩みを続けることの出来る我々は、苦難の中にあっても日々深い平安をもって過ごすことが出来ます。イエス・キリストが「わたしはあなたがたにわたしの平安を与えます」とヨハネの福音書14章27節で約束してくださった神の平安がこれであります。このような人の知恵では考えられない平安、苦難の中にあってもなお我々を満たす平安の中で生きることの出来るキリスト者はほんとうに幸せな者であります。


まだイエス様を信じていらっしゃらない方々に、この生きて働かれるまことの神と共に歩む幸せ、すべての罪から解き放たれ、永遠のいのちを持つ幸せを知っていただきたいと切に願う次第であります。




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