私達の国籍は天にあります(1987年)
私たちは、被造物全体が今に至るまで、ともにうめきともに産みの苦しみをしていることを知っています。
そればかりでなく、御霊の初穂をいただいている私たち自身も、心の中でうめきながら、子にしていただくこと、すなわち、私たちのからだの贖われることを待ち望んでいます。
御霊も同じようにして、弱い私たちを助けてくださいます。私たちは、どのように祈ったらよいかわからないのですが、御霊ご自身が、言いようもない深いうめきによって、私たちのためにとりなしてくださいます。(ローマ人への手紙8・22、23、26)
今日は、三つのうめきという題でローマ人への手紙の中から考えてみたいと思います。初めに被造物のうめき、二番目にキリスト者のうめき、三番目が御霊のうめきで、この三つが平行して8章の22、23、26節に書いてあります。聖書に書いてある順番に従って、考えてみたいと思います。
まず、被造物のうめきについて。被造物とは何かと申しますと、全知全能であり、創造主であられる神様によって造られたもの、私たちを含めて宇宙の中に存在するすべてのものであります。神様によって造られたもの、被造物すべてがうめき、ともに産みの苦しみをしていると22節に書いてあります。
いったい、これはどういうことなのでしょうか。ここだけ読んだのではなかなかわかりませんが、神様は創造の初めにいろいろなものを一つ一つお造りになって、その度にそれをよしとされたと創世記に書いてあります。少しお読みいたしますと、例えば、創世記1章4節に光をお造りになってよしとされたとあります。また10節には海をお造りになってそれをよしとされた、12節には植物をお造りになってそれらをよしとされた、18節には昼と夜をお造りになってそれらをよしとされた、鳥や獣をお造りになった時もそれらをよしとされたとあります。そのように、神様はご自分が造られたものをご覧になってすべて満足なさいました。というのは、すべて神様の御心の通りに出来たからです。我々人間もそのようにお造りになったのです。そして、これらすべての被造物は神様の栄光を現すために造られたのでした。
ところがすべての被造物は、神様の思いのままに神様の栄光を現すために造られたにも拘わらず、人間の欲望を満たすために使われてしまったのです。神様によって造られた人間がどうしてそのようなことをしてしまったのでしょうか。
神様は人間をお造りになった時、ご自分に似るようにお造りになった、そして地にあるすべてのものを支配させようとお思いになった、と26節に書いてあります。特別に愛して御自分に似る者とし、人格を持たせて神様に心から従って行く者として造ってくださったその人間にすべての被造物を管理させようとお思いになったわけであります。
それなのに、人間はその与えられた人格や自由意志を正しく用いることをせずに、神様の命令に背いて、「それだけは食べてはいけない、それを食べると必ず死ぬ」と言われた善悪を知る木の実を誘惑に負けて食べてしまったのであります。こうして、最初の人間アダムとエバが神様に対して背きの罪を犯し、楽園であったエデンの園を追放され、罪の報酬として死を与えられた者となったのです。それ以来、罪ある者となった人間の子孫である我々人間は生れつき罪あるものとなってしまったのです。これが原罪であります。
それ以来被造物は人間によって痛めつけられて来ました。罪を持った人間が被造物を正しく管理出来ないのは当然のことであり、人間は自分たちの欲望のためにそれらの被造物を欲しいままにして来たというのが現状であります。そのために、被造物はうめいている。擬人型ですが、そのように書かれているのであります。ここで、エレミア書12章4節を見てみましょう。
いつまで、この地は喪に服し、すべての畑の青草は枯れているのでしょうか。そこに住む者たちの悪のために、家畜も鳥も取り去られています。(エレミア書12・4)
ここに書かれているように、神様がお造りになったこの地球の美しい自然が明らかに目に見える形で人間によって破壊されて来ているのは、皆様もご存知の通りであります。多くの生物は人間のために姿を消しつつあります。私たちの生活がより快適に、より豊かになるために、また私たちがより長く生きるために、私たちはあらゆる手段を使っておりますが、その犠牲になっているのはこれらの被造物たちであります。
人工衛星が地球の周りをぐるぐるまわって写真を撮っているのですが、アマゾンを二、三年おきに撮影したフィルムが先日テレビで放映されました。そこでは緑の破壊されて行く様子が生々しく映し出されていました。私も一九六四年に一か月ほど日本人移住者の健康調査のためアマゾンの中を行ったり来たりしましたが、その時は、ほんとうに神様がお造りになったままの美しい自然がそこにありました。もちろん、人間はその頃も開発を進めておりました。アマゾンの大密林は、神様の摂理に従って使えば美しい自然が保たれるのですが、ひとたび大規模な開発が始まりますと、再びもとの状態に戻すことは不可能なのです。一度広範囲に木が伐採されてさとうきびなどの作物が栽培されたり、地下資源が開発されますと、もうあの緑は戻って来ないのです。ジャングルでは大きな木から葉が落ちてそれが木陰で自然の肥料となって次の木が育って行くのですが、木が伐採されて裸の土地になりますと、熱帯の強烈な日光と雨で天然の肥料が全部分解され流されて、もう二度と木の生えない砂漠のような荒れ地になってしまいます。
上空から衛星で見ますと、緑の美しいジャングルに、始めは引掻き傷のように開発のための道が造られます。美しい緑の中に赤茶けた道が縦横無尽に造られているのが写真でよく見えます。それが、次にはどんどんと広がって火傷のあとのような無残な姿になって行くのです。アマゾンだけではなくて、赤外線カメラで写しますと、アフリカであろうとアジアであろうと、どんどんと砂漠化の進んでいるのがわかります。まさに人間の欲望のために自然が浸蝕(しんしょく)されているのであります。
それ以外にも、エネルギーを作るために石炭や石油を燃やしたり、またいろいろな化学物質を造り出して人間の生活がますます便利になる一方、それらの物から出る廃棄物などによって空気や水などが汚染されて、地球上に生きている生物の大変微妙なバランス、これをエコシステム、生態系と言いまして、小さなバクテリアから大きな動物や植物に至るまで、全部が互いに関係を持ちながら微妙なバランスを保って繁栄している、このバランスが人間の手によって崩れてしまう。そして、次々に連鎖反応を起こして生態系が破壊されます。このようなことが、現在どんどんと進行しているわけです。
さきほどお読みいたしましたエレミヤ書の9章10節を見てみますと、
私は山々のために泣き声をあげて嘆き、荒野の牧草地のために哀歌を唱える。そこは、焼き払われて通る人もなく、群れの声も聞こえず、空の鳥から家畜まで、逃げ去っているからだ。(エレミヤ書9・10)
では、いつこの被造物は苦しみから解放され、うめきが喜びに変るのでしょうか。それはイエス様のご再臨の時なのです。その時、被造物も滅びの束縛、人間の罪による束縛から解放され、神様が初めにお造りになった通りに完全なものに回復されるのであります。天にあるもの地にあるもの万物が完全な姿に回復するのです。イザヤ書からそのことを少し見てみたいと思います。
狼は子羊とともに宿り、ひょうは子やぎとともに伏し、子牛、若獅子、肥えた家畜が共にいて、小さい子どもがこれを追っていく。雌牛と熊とは共に草を食べ、その子らは共に伏し、獅子も牛のようにわらを食う。乳のみ子はコブラの穴の上で戯れ、乳離れした子はまむしの子に手を伸べる。わたしの聖なる山のどこにおいても、これらは害を加えず、そこなわない。主を知ることが、海をおおう水のように、地を満たすからである。(イザヤ書11・6~9)
これがイエス様ご再臨の時の被造物の姿なのです。完全にされた被造物はこのようにしてほんとうの平和の中で神様を賛美し、神様の栄光を現すものとして生活するその情景がここに描かれています。今はまだその前の産みの苦しみの時代です。今の被造物のうめきはこの苦しみからの解放を待望するうめきにほかなりません。
二番目にキリスト者のうめきについて考えてみたいと思います。もう一度お読みしますと、「そればかりでなく、御霊の初穂をいただいている私たち自身も、心の中でうめきながら、子にしていただくこと、すなわち、私たちのからだの贖われることを待ち望んでいます。」という箇所であります。このように、キリスト者もうめいているのです。キリスト者がイエス様を救い主として信じた後も、このようにうめかなければならないとは、いったいどうしたわけなのでしょうか。
まず第一に考えられますのは、まだこの世に置かれている私たちキリスト者の霊は神様に従いたいと切望するのですが、不完全な体にはまだ自分中心の思いが残されていて、霊と肉との葛藤(かつとう)が起るためであるということです。それを大変よく言い表わしているのがローマ人への手紙の7章です。
私は、私のうち、すなわち、私の肉のうちに善が住んでいないのを知っています。私には善をしたいという願いがいつもあるのに、それを実行することがないからです。私は、自分でしたいと思う善を行なわないで、かえって、したくない悪を行なっています。もし私が自分でしたくないことをしているのであれば、それを行っているのは、もはや私ではなくて、私のうちに住む罪です。そういうわけで、私は、善をしたいと願っているのですが、その私に悪が宿っているという原理を見いだすのです。すなわち、私は、内なる人としては、神の律法を喜んでいるのに、私のからだの中には異なった律法があって、それが私の心の律法に対して戦いをいどみ、私をからだの中にある罪の律法のとりこにしているのを見いだすのです。私は、ほんとうにみじめな人間です。だれがこの死の、からだから、私を救い出してくれるのでしょうか。(ローマ人への手紙7・18~24)
このようにパウロは述懐しております。すべてのことに秀で、神の律法を完全に守ろうとしたパウロでありました。彼は復活されたイエス様に出会うまでは、イエスは神ではないと思い込んで、イエス様が救い主であるという事実を宣べ伝えているキリスト者たちを皆殺しにしようとしたほどの人でありました。しかし、殺意に燃えてダマスコへキリスト者たちを捕えに行く途中で、目もくらむほどの天からの光に照らされ、復活されたイエス様の「なぜわたしを迫害するのか」というみ声を聞いた時から、彼は百八十度変えられ、心の目が開かれて、小アジアの国々へ、またヨーロッパへとイエス・キリストの福音をいのちをかけて宣べ伝え、新約聖書の中の多くの書簡を書いたほどの素晴らしいキリスト者となりました。イエス様ご自身が「あの人はわたしの名を、異邦人、王たち、イスラエルの子孫の前に運ぶ、わたしの選びの器です。」とおっしゃったことが使徒の働きの9章に書いてある通りです。
そのパウロでさえ、「私はほんとうにみじめな人間です。だれがこの死の、からだから、私を救い出してくれるのでしょうか。」と言っているように、この世にある間はどんなキリスト者といえども不完全な心と体を持つ、赦された罪人であるにすぎません。けれども、イエス様を救い主として受け入れていない人々と決定的に異なっているのは、キリスト者は罪に問われない、罪が赦されているという事実なのであります。
私たちの主イエス・キリストのゆえに、ただ神に感謝します。今は、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません。(ローマ人への手紙7・25、8・1)
パウロはこう言って、イエス・キリストを信じたゆえにもはや決して罪に問われることがないことを心から感謝しているのです。これがこの世に置かれているキリスト者の喜びの源であります。そして、イエス様がこの世に再び来てくださる時完全な者とされる、それも時間の問題だということを彼は知っているのです。
パウロだけではなくほかのイエス様の弟子たちもこの霊と肉との葛藤(かつとう)を経験していることが聖書の中に書かれております。不完全な人間ですから、イエス様を信じたからといってもすぐに聖人君子のようになり、まったく清らかになるのではなく、相変わらず生身の人間としての苦しみ、悩みがありますが、それは私たちだけではなく、パウロですらあるいはペテロですらそのような苦しみとの戦いをしていたということに、私たちは大変親しみを感じるいっぽう、そのことをイエス様が聖書の中で示してくださっていることをほんとうに感謝しなければならないと思います。
もう一つキリスト者がこの地上で肉体という重荷を負ってうめくことには大切な意味があります。ペテロの手紙第一の1章からそのことについて少しお読みしたいと思います。
私たちの主イエス・キリストの父なる神がほめたたえられますように。神はご自分の大きなあわれみのゆえに、イエス・キリストが死者の中からよみがえられたことによって、私たちを新しく生まれさせて、生ける望みを持つようにしてくださいました。また、朽ちることも汚れることも、消えて行くこともない資産を受け継ぐようにしてくださいました。これはあなたがたのために、天にたくわえられているのです。あなたがたは、信仰により、神の御力によって守られており、終わりのときに現わされるように用意されている救いをいただくのです。いまは、しばらくの間、さまざまの試練の中で、悲しまなければならないのですが、信仰の試練は、火を通して精練されてもなお朽ちて行く金よりも尊いのであって、イエス・キリストの現われのときに称賛と光栄と栄誉に至るものであることがわかります。(ペテロの手紙第一1・3~7)
ここにキリスト者のうめきの大きな理由が書かれております。約束の通りイエス様がキリスト者を迎えに来てくださる時にイエス様に似たものとされるキリスト者は、その過程において意味のある試練を通されるのであります。神の子にふさわしくなるための、神の愛による訓練なのです。
けれどもピリピ人への手紙3章20節から21節にはこのように書かれております。
私たちの国籍は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主としておいでになるのを、私たちは待ち望んでいます。キリストは、万物をご自身に従わせることのできる御力によって、私たちの卑しいからだを、ご自身の栄光のからだと同じ姿に変えてくださるのです。(ピリピ人への手紙3・20~21)
なんという素晴らしい約束でありましょうか。私たちはイエス様の栄光のからだと同じ姿に変えられて、もうすでに国籍のある天に行くことが出来るのです。これがキリスト者の希望であります。間もなく栄光の姿に変えられた時に、うめきはほんとうの喜びに変わるのです。
第三の御霊のうめきについて少し学んで終わりたいと思います。ローマ人への手紙8章26節に「御霊も同じようにして、弱い私たちを助けてくださいます。私たちは、どのように祈ったらよいかわからないのですが、御霊ご自身が、言いようもない深いうめきによって、私たちのためにとりなしてくださいます。」とあります。キリスト者には必ずイエス様の御霊が内に住んでくださっています。ヨハネの福音書14章16節で、「父なる神様は、助け主をあなたがたに与えます、その方は真理の御霊です。」とイエス様が十字架にかかられる前に約束してくださっています。御霊とはいろいろに表現できますが、私は一番分りやすいのは、目に見えないイエス様と考えることだと思っています。目に見えるイエス様は十字架にかかられ、復活されて天に昇られましたけれども、目に見えないイエス様がいつも私たちの中に住んでくださっております。そして、私たちを支え、励まし、とりなしていてくださいます。先ほども申しましたように、私たちキリスト者も地上で生きている間は、自分の思いを制御出来ないことがままあります。けれども御霊によって、目に見えないイエス様に代わって働いていただく時に、自分のものではない、イエス様の力、御霊の働きを体験することが出来ます。
私はここで、御霊ご自身が私たちのために深いうめき声をあげてとりなしてくださっているということに、あらためて驚きを感じるのです。というのは、私自身、人が苦しんだり、悩んだり、悲しんでうめいている時に、その人と一緒にうめくなどということはとても出来ません。自分の娘が苦しんでいた時は、私もうめきましたけれど、その前も後もそんなことをしたことはありません。その位、私は情け無い人間です。ですから、私たちが苦しんでうめき声をあげる時に、全知全能の神様が手塩に掛けて造ってくださったにもかかわらずご自分から背き離れた私たちのためにうめいてくださっている。そのことを考えると私はここでほんとうに感動するのです。そのように愚かで、恩知らずで、何もわからない、そういう者を救ってくださって永遠のいのちを与えてくださったばかりか、なお私たちのためにうめき声をあげてまでもとりなしてくださる、こんな愛があるでしょうか。
これまでに、三つのうめきについて考えてまいりました。ご再臨の日はいつかわかりませんが、その日は必ず来ます。その日、神様のお造りになった全ての被造物、私たちを含めて被造物全体が栄光の自由の中に入れられ、歓呼の声をあげて喜ぶのです。ほんとうに私はその日を待ち望みます。
けれども、私たちの待望するご再臨の日は、それまでにイエス様を受け入れない方々にとっては恐ろしい裁きの日となるのです。神様がご自身を犠牲にしてまでも私たちの背きの罪を赦そうと、一方的な愛をお示しになっておられるのを拒み続けた者まで神様はお救いにはなりません。しかし、ほんとうに従うべきは自分ではなく、自分を造り愛してくださっている神様であることを信じて、心砕かれ、へりくだって、ありのままの姿で神様の前に出る方を神様は必ずお救いくださいます。今日ここにいらっしゃる方々一人残らず救われてご再臨の時に共に心から喜ぶことが出来ますよう切にお祈りする次第であります。