私達の国籍は天にあります(1987年)
眠った人々のことについては、兄弟たち、あなたがたに知らないでいてもらいたくありません。あなたがたが他の望みのない人々のように悲しみに沈むことのないためです。私たちはイエスが死んで復活されたことを信じています。それならば、神はまたそのように、イエスにあって眠った人々をイエスといっしょに連れて来られるはずです。私たちは主のみことばのとおりに言いますが、主が再び来られるときまで生き残っている私たちが、死んでいる人々に優先するようなことは決してありません。主は、号令と、御使いのかしらの声と、神のラッパの響きのうちに、ご自身天から下って来られます。それからキリストにある死者が、まず初めによみがえり、次に、生き残っている私たちが、たちまち彼らといっしょに雲の中に一挙に引き上げられ、空中で主と会うのです。このようにして、私たちは、いつまでも主とともにいることになります。(テサロニケ人への手紙第一4・13~17)
今日は娘のまりがちょうど三年前にこの世を去った日に当ります。キリスト者の言葉で申しますと、肉体の衣を脱いでイエス様のもとに帰った日に当たります。その日以来、今日まで私たち夫婦はまりとの再会を待ち望みながら過ごしてまいりました。これからもその日を楽しみに生きてまいります。
そのように私たちはまりとの再会を待ち望んでおりますが、その希望は、会えるだろうとか、会えるかも知れないというような不確実なものではないのです。必ず再会出来るというのが私たちの確信なのです。
今日はそのようなわけで、愛する者との再会ということについてご一緒に考えてみたいと思います。私どもはまりをイエス様のもとに送りましたけれど、皆様の中にはご主人を先に送られた方、お父様お母様、あるいはお祖父様お祖母様を送られた方、またお子様を送られた方もいらっしゃいます。またご兄弟を先に送られた方もおいでになるでしょう。もしまだであっても、私が申しあげるまでもなく、生きている限り必ずそのような時がまいります。その時に、私たちがその愛する者と再会出来るかどうかは重大な問題であると思います。そこで今日はこのテーマを選んでみました。
愛する者の死は人間にとって最大の悲しみであると思います。なぜでしょうか。それは何よりも、その愛する者が手の届かないところに行ってしまった、もう二度と会えない永遠の別れであるという思いのためです。また、今いったいどこでどうしているのだろう、一人ぼっちでさまよっているのではないだろうか、というような思いがその悲しみを増幅させます。こちらでどんなに助けたくても、もうどうすることも出来ないわけです。そのように考えますと、もう絶望的な悲しみであります。
そして悲しみのあげくに、イエス様を信じていない方でも、自分の愛する者はきっと天国にいるのだと自分に言い聞かせて自分を納得させようとすることが多いのではないかと思います。それによって、少しでも悲しみや不安をなくしたいというお気持ちはよくわかるのですけれども、「その愛する方が天国にいるという保証はありますか」と問うた場合にその保証は何もありません。
けれども、聖書はどう言っているでしょうか。冒頭にありますように、テサロニケ人への手紙第一4章13節から17節で、イエス様を信じたキリスト者がこの世を去った時、私たちは他の人たちのように悲しみに沈むことはない、そのためにぜひ知っていてもらいたいことがある、と言っています。何を知ってもらいたいのでしょうか。まず14節にキリストを信じて死んだ者たちはイエス様が再び来られる時に一緒に連れて来てくださると書いてあります。このことからも、その人たちが今イエス様と一緒にいることがわかります。
次にその時まだ地上に生き残っているキリスト者は、引き上げられて空中でイエス様と、またイエス様が連れて来てくださった愛する者たちと出会うことが出来る、と書いてあります。そしてその時、まずキリストにあって死んだ者が先に復活の体を与えられて霊肉共に完全な者となり、次に生き残っている者が復活の体を与えられ完全な者とされて空中で一緒になり、それからは永遠にイエス様とそして愛する者たちと、もう決して離れることなく何時までも共にいることになります。だから、悲しみに沈むことはない、と神様は言っておられるのです。
今日初めておいでになって、聖書をお開きになった方々はとんでもないことが書いてある、そんなことは常識では考えられないとお思いのことでしょう。後でまたよくご説明したいと思いますが、ここでまず、イエス様を信じて死んだ人のよみがえりについて聖書はどう言っているかということを、コリント人への手紙第一15章17節から22節で、見てみたいと思います。
もしキリストがよみがえらなかったのなら、あなたがたの信仰はむなしく、あなたがたは今もなお、自分の罪の中にいるのです。そうだったら、キリストにあって眠った者たちは、滅んでしまったのです。もし、私たちがこの世にあってキリストに単なる希望を置いているだけなら、私たちは、すべての人の中でいちばん哀れな者です。しかし、今やキリストは、眠った者の初穂として死者の中からよみがえられました。というのは、死がひとりの人を通して来たように、死者の復活もひとりの人を通して来たからです。すなわち、アダムにあってすべての人が死んでいるように、キリストによってすべての人が生かされるからです。(コリント人への手紙第一15・17~22)
もし、イエス・キリストがよみがえられなかったのならば、イエス・キリストはただの人に過ぎないわけです。キリストがよみがえられたということは何を意味するかと言いますと、イエス・キリストは人でなかったということですね。よみがえられたということはイエス様が人の姿をもって世に来られた神であったということです。よみがえられなかったならば、イエス様は神ではなく人であって、単なる預言者か偉大な宗教家に過ぎないということになります。もし、イエス様が人であったなら、そのイエス様を信じた者の罪が赦されるなどということはあり得ないことなのです。イエス様が神であったからこそ、十字架にかかって人間の罪を赦すことがお出来になったわけです。どんな偉い人であっても、生れながらにして罪を負っている人間の罪を取り除くことは出来ません。イエス様が神であったからこそ、私たち一人一人の罪を十字架の死によって取り除いてくださり、それを信じるだけで私たちの罪が赦されるのですが、もしイエス様が人であったならば、私たちがいくらイエス様を信じても依然として罪の中にいることになります。もしそうであったならば、イエス様を信じた者も罪が赦されないままで死んでしまったのですから、滅んでしまったわけである、ですから人であるキリストに希望を置いているのなら、キリスト者ほど哀れな者はないと言っています。
けれども、事実イエス・キリストは十字架の上で死にました。そして、その三日後に復活されたのです。イエス様の復活について聖書はそれが事実で、歴史上現実に起こったということを証明しています。そのことを二、三聖書から見てみたいと思います。まず先ほどのコリント人への手紙第一15章1節から8節をお読みいたします。
兄弟たち。私は今、あなたがたに福音を知らせましょう。これは、私があなたがたに宣べ伝えたもので、あなたがたが受け入れ、また、それによって立っている福音です。また、もしあなたがたがよく考えもしないで信じたのでないなら、私の宣べ伝えたこの福音のことばをしっかりと保っていれば、この福音によって救われるのです。私があなたがたに最もたいせつなこととして伝えたのは、私も受けたことであって、次のことです。キリストは、聖書の示すとおりに、私たちの罪のために死なれたこと、また、葬られたこと、また、聖書に従って三日目によみがえられたこと、また、ケパに現われ、それから十二弟子に現われたことです。その後、キリストは五百人以上の兄弟たちに同時に現われました。その中の大多数の者は今なお生き残っていますが、すでに眠った者もいくらかいます。その後、キリストはヤコブに現われ、それから使徒たち全部に現われました。そして、最後に、月足らずで生まれた者と同様な私にも、現われてくださいました。(コリント人への手紙第一15・1~8)
月足らずで生まれたと同様な私というのはパウロのことですが、イエス様は一人や二人の人に復活なさったご自分を証明されたのではなくて、ここに書いてありますように、五百人以上の人たちにご自分が復活なさった事実を示しておられるのです。もちろん、今の私たちはそれを見ていません。見ていませんけれども、証言を私たちが信じるか信じないかです。一人や二人の証言であれば、その人が嘘つきであったり、頭がどうかしているかも知れないと思って信じられなくても仕方がありませんけれども、五百人以上の人が復活のイエス様を見たと証言しているのに、もしそれを信じないとしたら、信じないほうがどうかしているのではないでしょうか。これは裁判の証人と同じだと思います。
次にルカの福音書24章30節から48節までをお読みいたします。
彼らとともに食卓に着かれると、イエスはパンを取って祝福し、裂いて彼らに渡された。それで彼らの目が開かれ、イエスだとわかった。するとイエスは、彼らには見えなくなった。そこでふたりは話し合った。「道々お話しになっている間も、聖書を説明してくださった間も、私たちの心はうちに燃えていたではないか。」すぐさまふたりは立って、エルサレムに戻ってみると、十一使徒とその仲間が集まって、「ほんとうに主はよみがえって、シモンにお姿を現わされた。」と言っていた。彼らも、道であったいろいろなことや、パンを裂かれたときにイエスだとわかった次第を話した。これらのことを話している間に、イエスご自身が彼らの真中に立たれた。彼らは驚き恐れて、霊を見ているのだと思った。すると、イエスは言われた。「なぜ取り乱しているのですか。どうして心に疑いを起こすのですか。わたしの手やわたしの足を見なさい。まさしくわたしです。わたしにさわって、よく見なさい。霊ならこんな肉や骨はありません。わたしは持っています。」それでも、彼らは、うれしさのあまりまだ信じられず、不思議がっているので、イエスは、「ここに何か食べ物がありますか。」と言われた。それで、焼いた魚を一切れ差し上げると、イエスは、彼らの前で、それを取って召し上がった。さて、そこでイエスは言われた。「わたしがまだあなたがたといっしょにいたころ、あなたがたに話したことばはこうです。わたしについてモーセの律法と預言者と詩篇とに書いてあることは、必ず全部成就するということでした。」そこで、イエスは、聖書を悟らせるために彼らの心を開いて、こう言われた。「次のように書いてあります。キリストは苦しみを受け、三日目に死人の中からよみがえり、その名によって、罪の赦しを得させる悔い改めが、エルサレムから始まってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる。あなたがたは、これらのことの証人です。」(ルカの福音書24・30~48)
このようにして、弟子たちは復活されたイエス様にさわって、またイエス様が魚を召し上がるのを見て復活されたイエス様が目の前にいらっしゃることを信じました。また、ヨハネの福音書20章18節から20節までをお読みいたします。これはマグダラのマリヤがイエス様の葬られた墓の所に行ってみるとイエス様はいらっしゃらない。戸惑っていたところにイエス様がマリヤの前に現われた。それから後のことです。
マグダラのマリヤは、行って、「私は主にお目にかかりました。」と言い、また、主が彼女にこれらのことを話されたと弟子たちに告げた。その日、すなわち週の初めの日の夕方のことであった。弟子たちがいた所では、ユダヤ人を恐れて戸がしめてあったが、イエスが来られ、彼らの中に立って言われた。「平安があなたがたにあるように。」こう言ってイエスは、その手とわき腹を彼らに示された。弟子たちは、主を見て喜んだ。(ヨハネの福音書20・18~20)
ここでもイエス様はご自分の手とわき腹、つまり十字架に釘づけられ、槍で刺されたあとを証拠としてお見せになって、弟子たちが幽霊を見ているのではなく、実際に復活されたイエス様ご自身であることを示されたのです。
このようにはっきりと聖書の中に書いてあるのですけれども、クリスチャンの中にも、イエス様の復活を疑う方がたくさんあるのです。ほんとうに残念なことだと思います。恐らくそういう方は自分の知恵とか知識に依り頼んで、聖書を通して語られている神様からのメッセージを信頼し兼ねていらっしゃるのでしょう。けれども、そうなるとそのような方々にとってイエス様とは何なのかと思ってしまいます。イエス様が神の国を宣べ伝える伝道者としか考えられないのなら、そのようなクリスチャンをクリスチャンと呼べるのでしょうか。
けれども、心の砕かれた方には、イエス様がご自身を明らかにしてくださいます。私たちの集会に今年の夏八十歳でイエス様を信じられたご老人がおられます。その方は信じられる前はイエス様を釈迦(しゃか)や孔子やマホメッドと同じ宗教家であって、世界何大宗教かの一つであるキリスト教の始祖であると思っていらっしゃったそうです。ところが、このご老人はイエス様によって目が開かれ、イエス様がどなたかおわかりになったのです。その方は「イエス様は釈迦(しゃか)や孔子やマホメッドをお造りになった方だったのですね。今まで私は大変な思い違いをしていました」とおっしゃったのです。ほんとうにそうなのです。そのイエス様をほかの人間と同じレベルで考えますからイエス様がどなたかわからない、イエス様が私たちに何をしてくださったかわからないのです。自分をクリスチャンと思っていらっしゃる方の中にそういう方たちを見るのはほんとうに情無いことだと思います。
私たちが生まれながらにして持っているこの罪の宿った血と肉の体では天国に入ることは出来ないのです。けれども、イエス様を信じた時、私たちには人間がどんなに努力しても拭うことの出来なかった罪が赦され、永遠のいのちを与えられて、私たちは天国に入ることが出来る者とされます。それはなぜかと言いますと、私たちがよみがえりのイエス様、永遠に朽ちないイエス様を着ることによって、不死を着ることが出来るからです。復活によって死に勝利されたイエス様を信じることによって私たちも死に打ち勝つ者とされるからです。コリント人への手紙第一15章50節、53節、54節にそのことが書いてあります。
兄弟たちよ。私はこのことを言っておきます。血肉のからだは神の国を相続できません。朽ちるものは、朽ちないものを相続できません。朽ちるものは、必ず朽ちないものを着なければならず、死ぬものは、必ず不死を着なければならないからです。しかし、朽ちるものが朽ちないものを着、死ぬものが不死を着るとき、「死は勝利にのまれた。」としるされている、みことばが実現します。(コリント人への手紙第一15・50、53~54)
こう書かれております。ここでもう少しキリスト者の復活について考えてみたいと思います。聖書では死者の復活を、霊の復活と肉体の復活とにわけて述べています。私たち人間はほんとうに罪が深いのですが、これは私たちに始まったことではなく、先ほども申しましたように、最初の人アダムが神様に背いて以来、人間は一人残らず神に対する背きの罪を持つ者となり、実際に背き続けて来たわけです。
神様が私たち人間をお造りになった時、ほかの生物には無い特別のものを与えてくださいました。それは霊なのです。動物にも心はあります。ですから、喜んだり悲しんだり怒ったりしますし、こうしようという意志も持っています。けれども、動物は霊を持っていません。霊とは何かと言いますと、神様と交わるためのもの、神様と話すことが出来る、そのために与えられているのが霊です。これが、神様が人間をご自分に似るものとしてお造りになったという一番大きな証拠です。ところが、私たちの霊は、アダムが神に背いて以来、死んだも同然になっています。しかし、イエス様を信じ受け入れますとその時直ちに霊は生きたものとなるのです。
「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです」とおっしゃるイエス様、「わたしは門です。だれでも、わたしを通って入るなら、救われます」とおっしゃるイエス様、そして、「わたしのことばを聞いて、わたしを遣わした方を信じる者は、永遠のいのちを持ち、さばきに会うことなく、死からいのちに移っているのです」とおっしゃるイエス様、そのイエス様を信じた瞬間に肉体はそのままですけれども、霊はすでに死からいのちに移され、罪の支配から解放されて、新しく永遠に生きるものとなるのです。そして、そのようなキリスト者にやがて肉体の死が訪れた時、その人の霊は古い肉体の衣を脱いで、直ちに、天国のイエス様のもとに行くことが出来るのです。
コリント人への手紙第二5章1節でパウロはこう言っております。
私たちの住まいである地上の幕屋がこわれても、神のくださる建物があることを、私たちは知っています。それは、人の手によらない、天にある永遠の家です。(コリント人への手紙第二5・1)
パウロは自分の体を地上の幕屋や、テントに例えました。私たちの肉体はほんとうに破れやすい天幕のようなものです。私は医者ですから、肉体という天幕がいかに破れやすいかということを知っています。破れた天幕を持った方たちがたくさん病院にいらっしゃって、あちこちのほころびを繕って欲しいとおっしゃいます。けれども、どんなに繕っても最後はボロボロになって破れ去ります。そのようなはかない肉体を私たちは後生大事にしているわけですけれども、霊がイエス様によって新しくされている者は、いずれ来る肉体の死の時も、その肉体を脱ぎ捨てると同時に天国に行くことが出来ます。
「霊の復活はわかりましたけれども、肉体の復活はあるのですか」というのが次の問題です。また、あるとすればいつなのでしょうか。肉体の復活はあるのです。コリント人への手紙第一15章51節から52節をお読みいたします。
聞きなさい。私はあなたがたに奥義を告げましょう。私たちはみなが眠ってしまうのではなく、みな変えられるのです。終わりのラッパとともに、たちまち、一瞬のうちにです。ラッパが鳴ると、死者は朽ちないものによみがえり、私たちは変えられるのです。(コリント人への手紙第一15・51~52)
と書いてあります。またほかのところから見てみますと、テサロニケ人への手紙第一4章16節と17節に、
主は、号令と、御使いのかしらの声と、神のラッパの響きのうちに、ご自身天から下ってこられます。それからキリストにある死者が、まず初めによみがえり、次に生き残っている私たちが、たちまち彼らといっしょに雲の中に一挙に引き上げられ、空中で主と会うのです。このようにして、私たちは、いつまでも主とともにいることになります。(テサロニケ人への手紙第一4・16~17)
そして、もう一度コリント人への手紙第一15章20節から23節をお読みいたします。
しかし、今やキリストは、眠った者の初穂として死者の中からよみがえられました。というのは、死がひとりの人を通して来たように、死者の復活もひとりの人を通して来たからです。すなわち、アダムにあってすべての人が死んでいるように、キリストによってすべての人が生かされるからです。しかし、おのおのにその順番があります。まず初穂であるキリスト、次にキリストの再臨のときキリストに属している者です。(コリント人への手紙第一15・20~23)
この箇所を読みますと、イエス様は復活して天に帰られましたが、もう一度おいでになる、その時がキリスト者の肉体の復活が起こる時です。約二千年前にイエス様は私たちを罪から救い出してくださるためにこの地上に来てくださいました。そして、私たちの罪のために十字架にかかってくださいました。そして、私たちに永遠のいのちを与えてくださるために復活してくださいました。それから、父なる神様のもとにお帰りになりましたが、ここにありますように再び来られます。どうして再び来られるのでしょうか。その答えがヨハネの福音書14章2節から3節にあります。
わたしの父の家には、住まいがたくさんあります。もしなかったら、あなたがたに言っておいたでしょう。あなたがたのために、わたしは場所を備えに行くのです。わたしが行って、あなたがたに場所を備えたら、また来て、あなたがたをわたしのもとに迎えます。わたしのいる所に、あなたがたをもおらせるためです。(ヨハネの福音書14・2~3)
これがイエス様のキリスト者に対する約束なのです。またおいでになる目的はまさにこれなのです。イエス様を信じた者をご自分の所に、天国におらせるために迎えにおいでになるのです。その時に、もうすでにイエス様を信じてこの世を去り、霊がすでにイエス様の所に行って、安らかに憩っている人たちはイエス様と一緒に空中まで降りて来て、そこで復活の体をいただきます。復活の体とは私たちの体とどこがちがうのでしょうか。こういう疑問をどなたもお持ちになることと思います。聖書にはその体についてコリント人への手紙第一15章43節から49節の間に記されております。まず、43節には復活の体は「栄光ある体」、44節には「御霊に属する体」とあります。また47節、48節には「天から出たもの」とあります。天から出たものとはイエス様のことですから、イエス様に似るものであることがわかります。それから49節には「天上のかたち」とも書かれております。このように、いろいろな表現がありますけれども、栄光ある体、御霊に属する体、天から出たもののような体、これはきっと素晴らしい体だと思います。
最初神様が人をご自分に似せてお造りになった時、神様はそれを見てよしとされたのです。そのような完全な体を私たちは復活の時に与えられるのです。今私たちは不完全な体を持っております。けれども復活の時にはそのような素晴らしい体が与えられるのです。ですから、幼くして死んだ子どもたち、素直な心でイエス様を受け入れて死んだ人たち、また年を取ってから死んだキリスト者、いろいろな病気や事故などで死んだキリスト者、どんなキリスト者もイエス様が再びおいでになる時、素晴らしい完全な体を与えられて復活することが出来ると、ここで約束されているのです。
ご再臨の時は何時かわかりません。今日かも知れませんし、明日かも知れません。一年後かも知れませんけれども、イエス様を信じて死んだ者はイエス様がいらっしゃる日にこのような素晴らしい体で霊肉共に完全なものとなってよみがえると聖書ははっきりと言っております。
ではその時まだ地上に生きているキリスト者はどうかと申しますと、先ほどのように死を経ずにそのままたちどころに朽ちない栄光の体に変えられるのです。そして、順番に従ってまず初めに完全な体によみがえっているイエス様を信じて天に召された愛する者と、その者たちを連れて迎えに来てくださったイエス様に空中で待ちに待った出会いをすることが出来るのです。そして、それからは、イエス様とまた愛する者と共にいつまでも永遠に別れることなく素晴らしい時を過ごすことが出来ると神様は聖書の中で約束してくださっているのです。
何という奇抜なことが書いてあるのかとお思いの方もあるでしょう。実際にそういう方がありました。以前の軽井沢の吉祥寺集会修養会に、いやいやおいでになった方がいらっしゃいました。その時ちょうどご再臨についてのメッセージがあったのですね。その方はイエス様が十字架につかれたり、復活されたり、またその上にもう一度天から迎えにいらっしゃるということをお聞きになって、あきれ返ってしまわれたのですね。そんなことを真面目になって聞いていられるか、と皆が引き留めるのを振りきって、車に飛び乗って東京に帰ろうと碓氷峠のほうに車を走らせたところが、妨げられてしまいました。ものすごく濃い霧で帰れないのです。キャンプ場に帰るのも悔しいと、あちこちのホテルやペンションに泊まろうとされましたが、どこにも空き部屋がなく、仕方なしに修養会のキャンプ場に戻って来られ、その次の日にその方はイエス様を信じられました。この方を救おうと神様が決められたらどんなことをしても救われるのですね。
このように、イエス様のご再臨ということは常識ではとても信じ難いことです。けれども信じようと信じまいと、イエス様が私たちの罪のために十字架にかかられたことは事実ですし、復活なさったことも歴史的に裏づけられた事実です。ですから、神であるイエス様がまた来るとおっしゃったことも神様の約束であるがゆえに信じないわけにはゆきません。信じようと信じまいとそれは事実起ります。神様の約束は必ず実行されます。
なぜ私たちがご再臨を信じることが出来るかと言いますと、神様の人間を救うご計画、そして新しい神の国を造るご計画はイエス様のご再臨なくしては成就しないからであります。イエス様の誕生、十字架上の死、復活これは神様が実行してくださった人間に対する救いのご計画の成就でありましたが、この一連の神様のご計画で次に来るべきものはご再臨なのです。神様のご計画が中途半端で終わるはずがありません。必ず完了されます。ですから、私たちはご再臨は必ずあると信じることが出来るのです。
天国とはどういうところか私たちはまだ見たことがありません。けれども、きっと想像に絶する素晴らしいところに違いありません。ヨハネの黙示録の21章、22章にその素晴らしさの一部をかいま見ることの出来る記載がありますけれども、何よりも素晴らしいことは、そこには父なる神様と子なる神様のイエス様がおいでになるということです。私たちがそこに行けば神様に直接お会いすることが出来るのです。けれども、私たちは完全に正しくなければ神様の前に出ることは出来ません。神様に正しい者と見ていただけるたった一つの方法はすでに申しあげましたように、イエス様の十字架が自分の罪のためであったことを信じ、イエス様を救い主として受け入れることだけです。イエス様を信じる信仰によって、イエス様は罪に汚れた私たちをご自身の真白い義の衣で覆ってくださいますから、私たちはありのままの姿であっても、神様の前に正しい者として出ることが出来るのです。その時に私たちは全知全能であり、天地宇宙をお造りになった神様とは、イエス様とはどんなお方か、お会いして自分の目で見ることが出来るのです。これはほんとうに素晴らしいことであると思います。そして、愛する者と共に、またまだお会いしたことのない主にある兄弟姉妹と共に永遠に神様の側で終わることのない素晴らしい時を過ごすことが出来る、これが天国のほんとうの素晴らしさではないでしょうか。マタイの福音書8章11節に、イエス様がこうおっしゃっています。
あなたがたに言いますが、たくさんの人が東からも西からもきて、天の御国で、アブラハム、イサク、ヤコブといっしょに食卓に着きます。(マタイの福音書8・11)
素晴らしいことだと思います。ですから、キリスト者の再会というのは、単に死後に再び会うということではありません。再会するにしても地獄で再会するというようなことになったらそれはほんとうに恐ろしく悲しいことではないでしょうか。そうなったら、喜ぶどころか、嘆きと苦しみと悔いしかない、そういう再会になってしまいます。イエス様を拒んだままで死んでしまいますと、イエス様の裁きによって永遠に火の池で苦しまなければならない、とヨハネの黙示録に記されております。
イエス様を信じた人と拒んだ人ではこのような天と地ほどの差があるのです。神様は絶対的な愛の方であると同時に絶対的な義の方でありますから、ご自分がいのちをかけて提供してくださった救いという絶対の愛を拒む者を赦すことはお出来にならないのです。クリスチャンの中に、家族や身近な人たちに全然神様からの福音を伝えようとしない方たちがあります。そういう方は、家族が滅んでしまってもいいと思っておられるのか、と不思議に思いますが、恐らく、そのような方はイエス様によって救われるということがどのような素晴らしい恵みであり幸いであるか、また救われないということがどのように恐ろしいことであるかがよくわかっていらっしゃらないのではないかと思います。たとえご自分が救われていても、家族が救われていなければ天国での再会はあり得ないのです。ピリピ人への手紙3章18節、19節に、
というのは、私はしばしばあなたがたに言って来たし、今も涙をもって言うのですが、多くの人々がキリストの十字架の敵として歩んでいるからです。彼らの最後は滅びです。彼らの神は彼らの欲望であり、彼らの栄光は彼ら自身の恥なのです。彼らの思いは地上のことだけです。(ピリピ人への手紙3・18~19)
ほんとうに多くの人たちが、自分の欲望を神として歩んでいます。そしてイエス様のさし延べてくださる救いのみ手を無視し、すぐに終わってしまう地上の幸福をしっかり握りしめていたり、また、実際にキリストの十字架に敵対して歩んだりしています。そのような人々の最後はここに書いてありますように、滅びなのです。ですから、イエス様によって救われた私たちは、まだ救われていない人々の救いを心から祈って行かなければならないと思います。この世の幸せを共にするよりも、一人でも多くの方と天の国籍を共にするようになるために、祈って導くことが一番大切なことであると信じます。ピリピ人への手紙3章20節、21節にありますように、
けれども、私たちの国籍は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主としておいでになるのを、私たちは待ち望んでいます。キリストは、万物をご自身に従わせることのできる御力によって、私たちの卑しいからだを、ご自身の栄光のからだと同じ姿に変えてくださるのです。(ピリピ人への手紙3・20~21)
イエス様を信じた方々の国籍はもうすでに天にあるのです。ですから、私たちキリスト者は自分の国に帰るのが一番嬉しいことです。イエス様が迎えに来てくださった時に、私たちは喜び勇んで天の故郷に帰ることが出来ます。しかも、霊だけではなくて、素晴らしい完全な体を与えられて天に帰ることが出来るのです。その前に救われた私たちキリスト者に神様が望んでおられることは、私たちが一人でも多くの方にイエス様の救いを宣べ伝えて共に神様、イエス様のいらっしゃる天に国籍を持つ者となっていただくことであると信じます。