私達の国籍は天にあります(1987年)

神の標準と人の標準

キリストがすべての人のために死なれたのは、生きている人々が、もはや自分のためにではなく、自分のために死んでよみがえった方のために生きるためなのです。ですから、私たちは今後、人間的な標準で人を知ろうとはしません。かつては人間的な標準でキリストを知っていたとしても、今はもうそのような知り方はしません。(コリント人への手紙第二5・15~16)


今日はこの箇所からご一緒に考えてみたいと思います。人間的な価値基準に立った場合と神の価値基準に立った場合とでは、私たちの生きかた、物の考えかた見かたがどう違うかということがテーマになります。この違いは、イエス様に救われた方とそうでない方との生きかたにおける根本的な相違と考えてよいと思います。今日のみことばでパウロが「かつては人間的な標準でキリストを知っていた」と言っておりますが、人間的な標準で聖書を読む、あるいは神を知ろうとする方がたくさんいらっしゃいます。ほとんどの方がそうであるといってもいいのではないかと思います。ところが、人間の見かた、人間の知恵で聖書を読みましても、そこに出て来るイエス・キリストは、預言者の一人、あるいは立派な信仰者、非常に道徳的にすぐれた人としてしか見られないのではないでしょうか。あるいは、極端な場合には、自分を神の子などと言う頭のおかしい人と見てしまうかも知れません。あるいはまた、キリスト教という宗教の創始者ではないかと考える方もあるでしょう。けれどもそうなるとイエス・キリストを、釈迦(しゃか)とか孔子とかマホメッドのような宗教の創始者と同じにしか見ることが出来ません。人間の知恵で考えればせいぜいその程度です。


聖書を読んでみてイエス・キリストの教えはとても素晴らしいと思われる方も少なくありません。イエス・キリストの教えをご自分の生活信条にしようと教会に通われるような方も多いのです。教会に行っているからクリスチャンだと思っている方もあります。そういう方は「私は自分の考えがキリスト教に合っているから一つの宗教としてその教えを信じているけれども、他の人は他の宗教を信じても別にかまわない、新興宗教ではなくて伝統的な宗教であれば何でもいいのではないか、信仰心を持つことが大切なのだから」という考え方になってしまいます。しかしこれも人間の標準でキリストを見ていることにほかなりません。


パウロもかつては大変熱心なユダヤ教の信者でありました。ユダヤ教の信者は旧約聖書の中にある神の戒めを守ることを信条としており、神は唯一であり、全知全能であり、永遠から永遠にわたって存在する方であることは信じておりますが、イエス・キリストが神の子であり救い主であるということを拒む人々であります。パウロは非常に熱心なユダヤ教徒であっただけに、イエス様が父なる神様に「父よ」と呼びかけたり、多くの人に「あなたの罪を赦す」と言われるのは許すべからざることであったわけです。ここで罪と申しますのは神様に対する背きの罪ですが、この罪を赦すことは神様にしか出来ないのに、自分で罪を赦すなどと言うイエスはとんでもない人間で、神を冒瀆(ぼうとく)する者であると思い込んでしまったわけです。


そしてただ思っただけではなくて、彼はそれを行動に移しました。イエスの弟子たちを次々に迫害します。これは自分が信じている神様のためだと思ってしていたのですが、その彼が復活のイエス様に出会ったのです。そのところを使徒の働き9章からお読みいたします。


さてサウロ(パウロの前の名前)は、なおも主の弟子たちに対する脅かしと殺害の意に燃えて、大祭司のところに行き、ダマスコの諸会堂あての手紙を書いてくれるよう頼んだ。それは、この道の者であれば男でも女でも、見つけ次第縛り上げてエルサレムに引いて来るためであった。ところが、道を進んで行って、ダマスコの近くまで来たとき、突然、天からの光が彼を巡り照らした。彼は地に倒れて、「サウロ、サウロ。なぜわたしを迫害するのか。」という声を聞いた。彼が、「主よ。あなたはどなたですか。」と言うと、お答えがあった。「わたしは、あなたが迫害しているイエスである。立ち上がって、町にはいりなさい。そうすれば、あなたのしなければならないことが告げられるはずです。」(使徒の働き9・1~6)


最初天からの光に照らされてイエス様の声を聞いた時、パウロにはそれが誰であるかわかりませんでした。けれども、答えを聞いた時に彼はすぐにそれがイエス様だと知りました。神様の啓示によって知ることが出来たのです。パウロはそれまで弟子たちを迫害していたのですが、イエス様は彼に、「あなたが迫害しているイエスである」とおっしゃいました。この時サウロはイエス様がどなたであるかを悟ったのです。そして、自分が迫害していたのがイエス様ご自身であったことを知りました。彼の心の目が開かれて、イエス様をそれまでの人間の標準ではなく、神の標準で見ることが出来るようになったのです。イエス様が神の子であることも、十字架の上で彼自身の罪を負って死んでくださったことも、そして語っておられるのは復活のイエス様であることも一瞬にしてわかりました。そして自分の生きる目的も同時に知ったのです。これが先ほどお読みしたところに彼自身の言葉で証しされています。彼の言葉を言い替えますと、イエス様が十字架の上で死なれたのは人間が自分の標準で生きるのではなく、神様の標準で生きるためであるとパウロは言っているのです。


では人が人間の標準で生きるのと神の標準で生きるのとにどんな違いがあるのでしょうか。たとえて言いますと、それはモノクロームの写真、白黒の写真を見るのと、カラー写真、天然色を見るのとの違いと言っていいのではないかと思います。同じ風景や花を写した場合でも、モノクロームの写真で見ますと被写体の形はカラー写真と同じに見えますが、どんな色をしているのかはわかりません。人間が自分の標準で人や物を見る時は、ちょうど色がわからないで形だけで判断しているようなものだと思います。私たちはモノクロームの写真を見る時に、その花がどんな色をしているのか想像する以外にないのです。Aさんはこの花は白い色をしていると言う、Bさんは藤色だと言い、Cさんはピンクだと言う、それぞれがその花の色を自分の判断で、自分の標準で考えるしかないわけです。結局人間的なものの見かたをしていますと、それぞれ自分の主張するところに基づいて、自分の判断が正しいといいますから意見が合うはずがありません。このことを聖書の士師記21章25節から見てみたいと思います。


そのころ、イスラエルには王がなく、めいめいが自分の目に正しいと見えることを行なっていた。(士師記21・25)


これは歴史的な事実であります。初め神はイスラエルで人間の間に王を立てることをなさらず、神様とイスラエルの民族一人一人との関係を望まれました。預言者はおりましたが、王様はいなかったのです。ところが人間の罪の姿はどんどんひどくなり、士師記を読むとわかりますがこの時代は大変な混乱で神に対する背きの罪どころか、人間どうしで裏切ったり殺したりいろいろとひどいことが起こりました。これはちょうど、我々が人間の標準で自分の思いに従って行くとどうなるかということを示しているのではないかと思います。


けれどもいったん神様の標準でものを考えるようになりますと、モノクロームの写真では見ることが出来なかった色が一つ一つの対象物についてよく見えるようになります。カラー写真でみるとどの人が見ても黄色い花は黄色く見えますし、青い空は青く見える。このように皆一致して同じ正しい色で見ることが出来るようになります。つまり物事の本質的な意味がわかるようになります。


そしてまた人を見る目も違ってきます。人間の標準で生きていますと、なかなか人に対して心を開くことが出来ません。他人ともうわべはにこやかに付き合っておりますが、自分の心のまわりに堅く城壁を築いています。相手は何を考えているのかと思い、自分のガードを固くしてしまいますから、なかなか本心を打ち明けられません。皆様もご経験がおありかも知れませんが、私などもそうでした。せいぜい心を打ち明けられるのはごく近い家族だけ、それさえ出来ないことすらあります。しかし神様の標準で生きるようになりますと心の城壁が取れて、他人に対する気持ちが全く違ってきます。相手の方も自分と同じく神様に愛されている方であることがわかってきます。初めてお会いした方であっても同じです。特に相手がまだイエス様をご存じない方であれば、一人でも多くの人が救われて永遠のいのちを持つことを神様が望んでいらっしゃるのですから、どうぞ神様この方をお救いください、と祈る気持ちが与えられます。そうなりますと努力しなくても自然に心が開かれて、寛容になってきます。ご自分ではおわかりにならないかも知れませんが、イエス様を信じる前と後で皆さんがそのように変わられます。


人はなかなか自分で自分を変えることは出来ませんが、イエス様を信じるとどうしてこのように変わるのでしょうか。それは自分はほんとうに愛されているということを知るからであります。「イエス様は私の罪のために十字架にかかるほど私を愛してくださった、そして今でも愛し続けてくださっている」ということを素直に受け入れることが出来るようになるからであります。イエス様が、神様から離れていた罪のために永遠に滅びなければならなかった自分と神様の間に立って和解させてくださった、ということを知るからであります。このことを聖書から見てみたいと思います。コロサイ人への手紙からお読みいたします。


あなたがたも、かつては神を離れ、心において敵となって、悪い行ないの中にあったのですが、今は神は、御子の肉のからだにおいて、しかもその死によって、あなたがたをご自分と和解させてくださいました。それはあなたがたを、聖く、傷なく、非難されるところのない者として御前に立たせてくださるためでした。(コロサイ人への手紙1・21~22)


悪い行ないというのは、神様を認めずに自分勝手な道を歩むことであります。どなたもきっと思い当たられることだと思います。神の子であるイエス様が肉体を持ってこの世の歴史の上に現われてくださり、私たちと同じ痛み、苦しみを持つ人間としてこの世を歩んでくださり、定められた時に十字架にかかって死ぬことによって、そのように背いていた私たち一人一人を神様の前に正しい者としてくださったのです。こうして私たちは罪とその報いである死から解放されたのです。ローマ人への手紙に、


こういうわけで、今は、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは、決してありません。なぜなら、キリスト・イエスにある、いのちの御霊の原理が、罪と死の原理から、あなたを解放したからです。(ローマ人への手紙8・1~2)


とある通りです。神に受け入れられたキリスト者は人をも受け入れることが出来るのです。このような神様の絶対的な愛を自分のものとして受け入れた時、人は他人をも愛することが出来るようになるのです。


ここで私たちが知らなければならないことがあります。それはいわゆるヒューマニズムと神様の愛とを混同してはいけないということです。ヒューマニズムとは何かと申しますと、いろいろな定義があると思いますが、いちばん簡単に言えば人間を愛する、人間を尊重する、人間を擁護する、人間を完成しようという主義であります。ところが今まで考えて来ましたように人間の標準でほんとうに人間がお互いを尊重したり、愛したり、擁護したり、まして完成したり出来るでしょうか。先ほどから申しましたように、人間的な基準、標準というのは、結局自分を中心にして判断し主張することです。ですからAさん、Bさん、Cさん皆考えが違います。そういう人間が人間を愛したり、尊重したり、完成したりすることは出来るはずがないとお思いになりませんでしょうか。


確かに、素晴らしいヒューマニストと言われる人々がいます。愛に満ちて、人のために自分を犠牲にし、素晴らしい行ないをして大変尊敬されている方がおられます。私の先輩に人間的に大変立派な方で、出世も何も犠牲にしてエチオピアでマラリアを撲滅するために非常な功績をあげた方がおられます。かつてのエチオピアではマラリアが蔓延し、たくさんの人々が死んで行きました。そこに自ら乗り込んでいって、現地の若い人たちを訓練し、教育して一緒にマラリアと闘ったのです。そして、何十年という年月をかけて大変な苦労の後に成功しました。その素晴らしい働きにエチオピアの人々は彼を神様のように崇めました。貧しい人から皇帝までほんとうに彼に感謝し、彼を敬いました。もちろん彼自身もエチオピアを、アフリカを、心から愛しているのです。革命が起り、彼は日本に帰って来ました。そして先日十数年ぶりでエチオピアに行かれたところ、大歓迎を受け、彼を知っている人々は涙をこぼして喜んだそうです。ほんとうにエチオピアの英雄なのです。私もその方が大好きです。その彼が先日私に述懐されたことは、その後エチオピアではマラリアで死ぬ人が減ったために人口が増えてますます貧しくなり飢える人が増えたということでした。彼が生涯をかけて良かれと思ってしたこと、つまりヒューマニズムの結果はそれでありました。私はこの敬愛する友人が一日も早く神様を知って救われて欲しいと切に祈っております。


人間が人間を愛し、尊重し、完成させることはほんとうの意味で出来ないのですが、神様は私たち人間を完全に愛し、尊重し、完成に導いてくださることの出来るお方です。イザヤ書43章1節と4節を見てみたいと思います。


あなたを形造った方、主はこう仰せられる。「恐れるな。わたしがあなたを贖ったのだ。わたしはあなたの名を呼んだ。あなたはわたしのもの。わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。」(イザヤ書43・1、4)


神様が私たちのようなものを高価で尊いと言って尊重してくださっているのです。一人一人の名を呼んで、わたしはあなたを愛していると言ってくださっているのです。次にコロサイ人への手紙3章9節と10節を見てみますと、


あなたがたは、古い人をその行ないといっしょに脱ぎ捨てて、新しい人を着たのです。新しい人は、造り主のかたちに似せられてますます新しくされ、真の知識に至るのです。(コロサイ人への手紙3・9~10)


イエス様を信じた者は新しい人とされ、神様に似た者とされ、なおますます新しくされて完成に導かれるという意味であります。私たちキリスト者はそのために愛の鞭(むち)による訓練を受けますけれども、それは神様が私たちを愛し、尊重してくださっているからであり、完成させようとしてくださっているからであることを、このみことばから私たちは確信することが出来ます。


もし先ほどのヒューマニズムがほんとうに正しければ、人間はそれにのっとって努力し、愛し、尊重してゆけば戦争は無くなるはずです。戦争と言ってもいろいろなものがあります。まず家族の中の争いは無くなるはずです。また政党間の争いも無くなるはずです。だんだん大きくしてゆけば国と国との争いも無くなるはずです。けれども人間の歴史が始まって以来、そんなことは起こったためしがありません。ある人は社会が悪いといって社会改革をします。そんなことで社会は良くなったでしょうか。フランス革命はその代表的な例だと思いますが、革命後どうなったかと言いますとそれ以前と大して変っていません。人間が考え人間の標準で行動している限りうまくはゆきません。そこでパウロはどう言っているでしょうか。ピリピ人への手紙の3章7節と8節を見てみたいと思います。


私にとって得であったこのようなものをみな、私はキリストのゆえに、損と思うようになりました。それどころか、私の主であるキリスト・イエスを知っていることのすばらしさのゆえに、いっさいのことを損と思っています。私はキリストのためにすべてのものを捨てて、それらをちりあくたと思っています。(ピリピ人への手紙3・7~8)


その箇所の少し前をみますと、かつてパウロは非常に人間的に誇るものをたくさん持っていたことがわかります。生粋のユダヤ人(当時ユダヤ人は神に選ばれた民であった)で、律法についてはパリサイ人(ユダヤ人中のユダヤ人で最も誇り高いグループに属する人々)神の戒めを熱心に守ることを誇る人たちの一人でありましたし、高等教育を受けた能力のある学者であり、神様に対する信仰も間違ってはいたのですが、教会を迫害するほどの熱心さを持っており、律法を守ることにおいては非の打ちどころのないほどの人でありました。その上、当時ローマ帝国の支配下にあったユダヤでローマの市民権を持っていたほどの特権階級だったのですが、それらのものすべてはキリストを知った時、全く色あせて、彼はそれらを塵芥(ちりあくた)であると言うようになりました。キリストの素晴らしさに比べた時、そのような人間的標準から見て価値あるものをいっさい損と思うとまで言っております。


イエス様を知って、人間の標準から神の標準で生きるようになった人たちはほんとうに価値のあるものは何かということがわかって来ます。物事の正しい価値を知るようになりますので、それまで自分の基準で価値があると思っていたものが実はそうではなかった、ということを知ります。


このように申しますと、イエス様をご存じない方は、キリスト者は世捨て人ではないか、とおっしゃるかも知れません。この世のものは皆塵芥(ちりあくた)だなどといって、天国にしか希望も幸せもないのか、とお思いになるかも知れません。けれども、決してそうではないのです。神の標準で物事を知るようになった人はほんとうの価値がわかります。まず、家庭の中での争い、これは大変不幸なことなのですが、これが無くなってきます。家庭の中の一人一人がそれぞれ自分の基準によって生きる時には不一致が起こりますが、家族の一人一人が神様につながり、神の基準によって生きるようになりますと、不協和音がなくなります。そのように神様によって生れ変わったご家族が今日もたくさんこの集会にいらっしゃっております。そこにほんとうの幸せ、平和、喜びがあります。この世にあっての幸せがあるわけです。私も神様の標準で生きていますけれども、弱い者ですから、時々人間的な標準に戻ってしまうことがあります。そして人を見たり、自分を見たりしてしまいます。けれども、いったんほんものの自由とか平和を体験した者、イエス・キリストの素晴らしさを知った者はすぐにほんとうのところ、つまり神の標準に戻ることが出来ます。というよりは戻りたくなります。ですから、私たちは恐れることがありません。どうか、まだイエス様をご存じない方は一日も早く神の標準に従うことがいかに素晴らしいか、人の標準に従うことがどんなに空しいかをお知りになって、イエス様に従う喜びの人生をお送りいただきたいと思います。




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