私達の国籍は天にあります(1987年)

天国への招待にふさわしい者

イエスはもう一度たとえをもって彼らに話された。「天の御国は、王子のために結婚の披露宴を設けた王にたとえることができます。王は、招待しておいたお客を呼びに、しもべたちを遣わしたが、彼らは来たがらなかった。それで、もう一度、次のように言いつけて、別のしもべたちを遣わした。『お客に招いておいた人たちにこう言いなさい。「さあ、食事の用意ができました。雄牛も太った家畜もほふって、何もかも整いました。どうぞ宴会にお出かけください。」』

ところが、彼らは気にもかけず、ある者は畑に、別の者は商売に出て行き、そのほかの者たちは、王のしもべたちをつかまえて恥をかかせ、そして殺してしまった。王は怒って、兵隊を出して、その人殺しどもを滅ぼし、彼らの町を焼き払った。そのとき、王はしもべたちに言った。『宴会の用意はできているが、招待しておいた人たちは、それにふさわしくなかった。だから、大通りに行って、出会った者をみな宴会に招きなさい。』

それで、しもべたちは、通りに出て行って、良い人でも悪い人でも出会った者をみな集めたので、宴会場は客でいっぱいになった。ところで、王が客を見ようとしてはいって来ると、そこに婚礼の礼服を着ていない者がひとりいた。そこで、王は言った。『あなたは、どうして礼服を着ないで、ここにはいって来たのですか。』しかし、彼は黙っていた。そこで、王はしもべたちに、『あれの手足を縛って、外の暗やみに放り出せ。そこで泣いて歯ぎしりするのだ。』と言った。招待される者は多いが、選ばれる者は少ないのです。」(マタイの福音書22・1~14)


今年初めての家庭集会ですが、大変寒いところを、また遠くからも大勢の方々がおいでくださりありがとうございました。今日ご一緒に考えてみたいと思ったのはマタイの福音書22章1節から14節です。少し長いのですが、このテーマは、天国に招待されるのにふさわしい者は誰か、ということなのです。天国という言葉が出てきますと、それに対比して地獄を考えます。この箇所を読みますと、私たちのこの世の先には、天国か地獄かのどちらかしかないということがはっきりしてまいります。私たちが住んでいるこの地上の人生はどちらでもありませんが、やがて我々は天国に行くか地獄の底に行くかのどちらかになるわけです。


そこで最初にお読みいたしました通り、イエス様は天国に行くにふさわしい者はどういう者かということについて、たとえ話をもってわかりやすく話してくださっております。このたとえ話を解くキーと申しますか、鍵がいくつかあります。そのキーワードを申しますと、ここに出てくる「王」とは父なる神様であり、「王子」は御子であるイエス・キリストです。また、始めに「招待しておいたお客」とありますのはユダヤ人、イスラエルの国の人たちで、3節に出てくる「しもべたち」は預言者、4節に出てくる「別のしもべたち」はイエス様の弟子たち、使徒たちととっていいと思います。それから、7節の「焼き払われた町」はエルサレムであり、9節の「大通りで出会う者」とは弟子たちが福音を宣べ伝えようとしている異邦人、つまりイスラエル人以外の国の人々であります。11節で王が客に接見しようと入って来るところがありますが、これは最後の審判を現しています。13節に王が怒って「外の暗やみに放り出せ」と言うところの暗やみとは地獄、ゲヘナのことであります。


このようにキーワードを使ってこの箇所をもう一度見てみますと、天国とは御子イエス様のために結婚の披露宴をもうけた神様にたとえられています。神様はまずイスラエル人を天国に入る者としてお選びになって、彼等を招くために預言者たちをお遣わしになった。ところが彼らは来たがらない。そこで神様はもう一度鄭重(ていちょう)に洗礼者ヨハネやイエス様の弟子たちを派遣して、「あなたがたを祝宴にふさわしい人として選んだのだから来てください」と懇願されました。けれども、彼らは神様の懇願を無視して、来るどころか、自分勝手なことをしました。それだけではありません。神様から遣わされた人たちである使徒たちを迫害し、殺してしまいました。このことは歴史にもはっきりと記されています。


そこで、神様は怒られて、イスラエルの首都エルサレムを滅ぼされます。事実西暦七十年、ローマによって徹底的にエルサレムが破壊されています。そして、8節にありますように、イスラエル人が招待客にふさわしくないとおっしゃって、使徒たちにイスラエル人以外の異邦人を招くようにと言われたのです。そこで使徒たちは大通り、すなわち世界中に散って行って、いい人でも悪い人でも区別なく宴会場に集めたわけです。神様は集まった人たちが祝宴にふさわしい人かどうかご覧になるために宴会場にいらっしゃると、そこに一人礼服を着ていない者がいるのを見つけられました。そこで、神様はその人を祝宴、つまり天国にふさわしくない者として、裁かれて、地獄に放り出されたのです。これがこのたとえ話の内容です。


ここで、まず天国への招待とはどんなものか、次に、天国に招待されるのにふさわしい者になるのにはどうしたらよいか、ということが問題になります。この二つのことをイエス様ご自身が歴史的事実を示しながらここで説明してくださっていると受け取ることが出来ます。


私たちは、このたとえ話から、天国に入る資格というのは、自分の力、あるいは自分の知恵で手に入れることは出来ないのだということがわかります。人間は神様に背いて以来神から離れて、自分の努力や知恵や力を頼りにして生きて来ました。この人間の性(さが)、これが罪なのです。ですから、我々は、生れながらに持っているそのような、罪のあるままでは天国に入る資格を得ることは出来ません。ここに書かれておりますように、王様がご自分の王子の披露宴に来てくださいと招待してくださる。そのような恩恵による以外に、自分の努力で披露宴、すなわち天国に入ることは出来ないのです。常識から申しますと、王様がしもじもの人たちに「王子の結婚の披露宴が整ったから来てください」などと言うことは考えられません。けれども、そのような、人間から見て考えられない恩恵が神から与えられているということがここにはっきりと示されているわけです。


たとえば、個人的に私のこととして考えてみますと、神様からの恩恵で与えようと言ってくださる罪の赦しをただ感謝して私が受けさせていただく、私の方からは何の努力も知恵も差し出さなくても一方的な恵みをお受けするだけで罪が赦されるということです。これはあまりにも都合の良すぎる話で、人間社会の通念では考えられないことですが、これが神様の愛なのです。にも拘わらず、初めに神様に選ばれたイスラエル人は、この神様からの恩恵を拒絶しただけではなく、これも歴史的な事実でありますが、イエス・キリストまで殺しています。そこで、イスラエル人の背きによって、神様はその恩恵をイスラエル人以外のすべての国の人々に与えられたわけです。もちろんこれらすべてのことは神様のご計画によるものです。ローマ人への手紙11章11節に「彼らの違反によって、救いが異邦人に及んだのです」とあります。


では、異邦人すべてを神様がこの宴会に招待されたのかと言いますと、まったくその通りなのです。マタイの福音書22章にもどりまして、10節に「しもべたちは、通りに出て行って、良い人も悪い人も出会った者をみな集めた」とありますように、使徒たちは世界中から、人間の目から見て善良な人、行いの良い人、また悪事を働いた人、悪い心を持った人など出会ったすべての人を招いて来たのです。では、これらの招かれて来たすべての人が祝宴に出ることが出来るのでしょうか。いいえそうではないのです。それでは、どんな資格が必要なのでしょうか。11節と12節にありますように、ただ一つ必要なことがありました。それは、婚礼の礼服を着ているかどうか、それだけでした。婚礼の礼服を着ている者はすべて祝宴、つまり天国に行くことが出来ますが、着ていない者は暗やみに放り出され、地獄に行かなければならないのです。


私たちの習慣から考えますと、ちょっと理解しにくいところがありますので、少し調べてみましたところ、この当時のイスラエルの王侯貴族の祝宴に行くのには必ず礼服を着て行かなければならないという習慣があったそうです。通りすがりの人たちをにわかに招待しても礼服など着ているはずがないではないか、と思われるかも知れませんが、これも調べてみると不思議ではなくて、王侯貴族の屋敷にはそのような習慣があるためにいつも貸すための礼服がたくさん用意されていたということです。持っていない人は借りて着ればいいわけです。ですから、礼服を持っているか、いないかは問題にならなくなります。むしろ、礼服を着るとはいったいどういう意味なのかということになります。ここに問題がしぼられて来ます。


この礼服にはどういう意味があるのでしょうか。これは義という名の礼服であると考えていいと思います。では、どうして私たちが義という礼服を着なければ神様は天国に入る、あるいは祝宴に連なることを許されないのか、このことが大きな疑問になって来ます。その答は、招いておられる王様、神様は完全な方であり、また全く正しい方であるがゆえに、義の服を着ていない客を認めることが出来ないということです。招く方が完全に正しい方ですから、招かれる人も正しくなければだめなのです。正しくない者を正しいと認めることを神様はなさいません。私たちは神様の前に正しいと申し開きをすることが出来るかと言いますと、とても出来るはずはありません。もちろん、相対的に申しますと私たち人間は、あの人より自分のほうが多少は正しいなどと言えるかも知れませんが、先ほど申しましたように完全に正しい神様の前に立って、「私は絶対に正しい者です」とは言えないのです。なぜならば、どう考えても私自身神様を中心にして生きて来た、とは言えないからです。自分中心の思いに従って生きて来たということは、神を第一にしていなかった、神に従っていなかったということなのです。


そのような私たちを、神様が正しいと認めてくださるためには、義の衣を私たちが着なければならないわけです。では、この義の衣とはいったい何かと申しますと、もうおわかりのように、イエス・キリストご自身なのであります。ここで聖書を開いてみたいと思いますが、コリント人への手紙第二の5章21節をお読みいたします。


神は、罪を知らない方を、私たちの代わりに罪とされました。それは、私たちが、この方にあって、神の義となるためです。(コリント人への手紙第二5・21)


ここに書かれております通りに、神様は私たちの罪を取り除いてくださるために、罪を知らない方、神の御子であるがゆえに罪のないイエス・キリストに私たちのすべての罪を負わせ、十字架にお付けになったのです。イエス・キリストが十字架の上で身代わりとなって死んでくださったゆえに、私たちは神様の前に義と認めていただくことが出来るようになったのです。ローマ人への手紙4章25節にも同じようなみことばがあります。


主イエスは、私たちの罪のために死に渡され、私たちが義と認められるために、よみがえられたからです。(ローマ人への手紙4・25)


けれども、このことを私たちが、「ああそうだったのか、イエス・キリストとはそんな方だったのか」と頭で認識するだけでは、義の衣を着たことにはならないのです。私たちがほんとうに心から、イエス・キリストは私の罪の身代わりとなって、十字架にかかってくださった、そしてそれによって私の罪は赦されたのだ、ということを受け入れた時に、私たちは義であるイエス・キリストを着たと言うことが出来るのです。イエス・キリストを信じ受け入れることがイエス・キリストを着たということなのです。


ユダヤ人たちも神様に従おうとはしました。そして、そのために神様から自分たちに与えられた掟(おきて)であり戒めである律法を守って行くことによって、神様の前に正しい者と認められようとしたのです。しかし、どんなに努力しても神様の律法を完全に守ることは出来ません。すでにお聞きになったと思いますが、人の物を盗むな、人を殺すな、という戒めがあります。けれども、盗むということは欲しいという気持ちがあるからその結果として盗むのであり、殺すということも憎いという思いがこうじて殺人を犯すことになるのですから、欲しいと思うことも憎いと思うことも罪になるわけです。殺すという行為はなくても、憎いという思いがあればもうすでに律法に背いているわけです。人を憎いと思ったり人のものが羨ましいと思ったりしたことのない人はいないはずです。それほど人間は皆自分中心であります。絶えず人と自分を比べて、自分を誇ったり、人を裁いたり、軽蔑したりします。多かれ少なかれ人間は皆そうです。それがすべて神様から見て罪なのですから、ユダヤ人たちが自分で自分をよしとしているような律法の守り方ではとても神様から義と認められるはずはありません。ピリピ人への手紙の3章9節に、


律法による自分の義ではなくて、キリストを信じる信仰による義、すなわち、信仰に基づいて、神から与えられる義を持つことができる、という望みがあるからです。(ピリピ人への手紙3・9)


とありますように、イエス・キリストの義を持つことによってのみ義とされるのであります。同じようにガラテヤ人への手紙3章27節には、


バプテスマを受けてキリストにつく者とされたあなたがたはみな、キリストをその身に着たのです。(ガラテヤ人への手紙3・27)


キリストを信じる者はキリストを着たと書かれております。


私たちがそのようにして、キリストの義、キリストの清さを着る時に、私たち自身は罪にまみれていても、イエス・キリストのゆえに、神様の前に、義と見なされて立つことが出来るわけです。ヨブ記の中でヨブが「私は義をまとい、義は私をおおった」と言っておりますが、私たちがイエス・キリストの義を着る時に、私たちの罪が義によっておおわれるのです。


婚礼の礼服を着ていないということは、自分の服を着て神様の招きに応じたということですが、そのような場合、その人が人間的に見てどんなに善い人であっても、その人の服がどんなに立派であったとしても、また、たくさんの勲章、たとえば善行、努力、業績、地位、名誉、などのピカピカした勲章をいっぱいに付けて飾り立てられた服を着ていたとしても、それは婚礼の服を着ているとは認められないのです。そのような服を着た人は神の裁きによって天国に行けず地獄に行かなければならないのです。


しかし、自分の罪を認めてイエス・キリストを着た人は、たとえその人がどんな人であろうと、自分の服がどんなにボロであろうと神様の恵みとあわれみによって天国に招待されるのです。ローマ人への手紙の3章24節に、


ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められるのです。(ローマ人への手紙3・24)


とあります。神様が私たちにそれだけの価値がなくても、価なしに義と認めてくださるのでなければ、私たちはとうてい義とされることなど期待し得ません。ですから、イエス・キリストを着るということが、天国に入るのにふさわしい者になるための唯一の方法なのです。


この箇所を読む時に、私たちは神様の恩恵を深く感じるとともに、何と人間は愚かな存在であるか、ということもわからされます。ここで、神様がご自分でお造りになった人間、しかも造り主から背き去った人間に対して、「どうぞお出かけください」とおっしゃって、何とかして背きの罪から救い出したいと招いていてくださるのです。このような光栄あるご招待を私たちは、自分の仕事が忙しいからとか、自分の欲しいものは他にあるとか言って拒んだり、神様が貸してくださる礼服を着るのがいやだと言ったりしてよいものでしょうか。もしそうするならば、これこそがまさしく自己中心であり真理に対して盲目な自分の姿なのです。


ところで、神様はいつまでも忍耐しながら私たちが招待に応じるのを待っていてくださるでしょうか。そうではないのです。ここに婚礼の礼服を着ていないものは外に放り出されるとあります。それはいつかと申しますと、イエス様がもう一度、こんどは救い主としてではなく裁き主としてこの世にいらっしゃるその約束の日であります。その日がいつかは、知らされておりませんが、いろいろな箇所にその日のことが書いてあります。マタイの福音書24章44節に、


あなたがたも用心していなさい。なぜなら、人の子(イエス様)は、思いがけない時に来るのですから。(マタイの福音書24・44)


と書いてあります。もう少し前の24章37節から39節を見ますと、


人の子が来るのは、ちょうど、ノアの日のようだからです。洪水前の日々は、ノアが箱舟にはいるその日まで、人々は、飲んだり、食べたり、めとったり、とついだりしていました。そして、洪水が来てすべての物をさらってしまうまで、彼らはわからなかったのです。人の子が来るのも、そのとおりです。(マタイの福音書24・37~39)


とイエス様はおっしゃっています。いつおいでになるかはわかりませんが、かならずおいでになる、そして突然おいでになる、ということがここからもわかります。その日にはいったいどうなるのかと申しますと、マタイの福音書の25章31節から34節に、


人の子が、その栄光を帯びて、すべての御使いたちを伴って来るとき、人の子はその栄光の位に着きます。そして、すべての国々の民が、その御前に集められます。彼は、羊飼いが羊と山羊とを分けるように、彼らをより分け、羊を自分の右に、山羊を左に置きます。そうして、王は、その右にいる者たちに言います。「さあ、わたしの父に祝福された人たち。世の初めから、あなたがたのために備えられた御国を継ぎなさい。」(マタイの福音書25・31~34)


と記されております。このように右に分けられた人たちは天国を継ぎなさいとイエス様から祝福されます。それに反して、左に分けられた人たちはどうなるかと言いますと、少し後の41節に、


それから、王はまた、その左にいる者たちに言います。「のろわれた者ども。わたしから離れて、悪魔とその使いたちのために用意された永遠の火にはいれ。」(マタイの福音書25・41)


と言われてしまうのです。永遠の火、つまり、永遠の刑罰に入らなければならないのです。右に分けられた人たちとは、イエス・キリストを着て義とされた人たちでありまして、永遠のいのちを与えられて天国に入ることを許されるのです。25章46節で、


こうして、この人たちは永遠の刑罰にはいり、正しい人たちは永遠のいのちにはいるのです。(マタイの福音書25・46)


とイエス様が結ばれた通りであります。ここで正しい人とは、イエス・キリストを着た人という意味であることはもうおわかりのことと思います。


私たちは、日常の生活の中でいろいろなものに対して恐れを感じることがあります。一番怖いのは人間だとよく言います。人の心の中を見ることは出来ませんから、たしかに怖いかも知れません。けれども、いちばん恐れなければならないのはこのように裁きをされる神なのです。ルカの福音書の12章4節と5節から少し見てみたいと思います。


そこで、わたしの友であるあなたがたに言います。からだを殺しても、あとはそれ以上何もできない人間たちを恐れてはいけません。恐れなければならない方を、あなたがたに教えてあげましょう。殺したあとで、ゲヘナに投げ込む権威を持っておられる方を恐れなさい。そうです。あなたがたに言います。この方を恐れなさい。(ルカの福音書12・4~5)


これはイエス様がおっしゃっているのですが、たしかに人間が怖いと言ってもせいぜい肉体を殺すことしか出来ません。それ以上は何も人間に出来ないのです。ところが、神様は肉体の死などというものではなくて、その後で最後の裁きによって地獄に投げ込む権威を持っておられますから、この方を恐れなければならないのです。


最後の裁き、その日、人の子の来る日、終わりの日などといろいろに書かれておりますが、その恐ろしい最後の裁きの日が来る前に、一人でも多くの人が天国に入れるように、イエス様の十字架の死に免じて私たちの罪を赦してくださり、「イエス・キリストを着て天国への招待を受けてください」と神様の方からへりくだって招いてくださっている今、感謝してこの素晴しい恩恵をぜひ受け入れていただきたいと思います。最後にコリント人への手紙第二6章1節と2節からお読みして終わりたいと思います。


私たちは神とともに働く者として、あなたに懇願します。神の恵みをむだに受けないようにしてください。神は言われます。「わたしは、恵みの時にあなたに答え、救いの日にあなたを助けた。」確かに、今は恵みの時、今は救いの日です。(コリント人への手紙第二6・1~2)




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