私達の国籍は天にあります(1987年)

ほんとうの自由

そこでイエスは、その信じたユダヤ人たちに言われた。「もしあなたがたが、わたしのことばにとどまるなら、あなたがたはほんとうにわたしの弟子です。そして、あなたがたは真理を知り、真理はあなたがたを自由にします。」

彼らはイエスに答えた。「私たちはアブラハムの子孫であって、決してだれの奴隷になったこともありません。あなたはどうして、『あなたがたは自由になる。』と言われるのですか。」

イエスは彼らに答えられた。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。罪を行っている者はみな、罪の奴隷です。奴隷はいつまでも家にいるのではありません。しかし、息子はいつまでもいます。ですから、もし子があなたがたを自由にするなら、あなたがたはほんとうに自由なのです。」(ヨハネの福音書8・31~36)


今日は、ただいまお読みいたしました箇所から、特に36節の「もし子があなたがたを自由にするなら、あなたがたはほんとうに自由なのです。」というみことばを中心に、ご一緒にほんとうの自由とは何かということを考えてみたいと思います。


その前に31節から32節にかけてイエス様は、信じたユダヤ人、といってもその言動をみますとほんとうに信じているとは思い難いのですが、その人たちに対して「あなたがたがわたしのことばにとどまるなら、真理はあなたがたを自由にします」とおっしゃっています。この真理とは何かと言いますと、ヨハネの福音書14章6節でイエス様が「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです」と言っておられますように、真理はイエス様ご自身のことであります。ですから、イエス様はユダヤ人たちに、「わたしが誰であるかということを知って、わたしを信じるなら、わたしはあなたがたを自由にしましょう」とおっしゃったわけです。これは非常に大切なことをおっしゃっているのです。ところがユダヤ人たちはそのイエス様のおっしゃった大事なことを理解せずに、この「自由にする」という言葉に引掛かってしまったんですね。「自由にする」ということは今は自由でない状態である。そう言われたのはユダヤ人にとって、とても腹立たしいことだったのです。そのことが33節にあります。「私たちはアブラハムの子孫であって、誰の奴隷にもなったことがない、我々は今でも自由である、それなのになぜあなたは自由になれる、などということを言うのですか」といって彼らはイエス様に反抗したわけです。


ユダヤ人の言ったこの言葉は間違っています。なぜかと言いますと、かつて飢饉(ききん)のためにエジプトに逃れたユダヤ人たちが、そこで長い間過酷な労働を課せられ、大変な苦しみを味わい、神の導きによってエジプトから脱出したことが創世記や出エジプト記に書かれておりますし、また西暦前六百年頃にバビロン帝国と戦って敗れ、王様以下ほとんどの国民が捕虜、捕囚となって七十年間バビロンに連れて行かれたという歴史上の事実があります。それだけではなく、イエス様がおられたこの当時もローマ帝国の支配下にあったわけです。けれども彼らが我々は自由である、誰の奴隷になったこともないと主張するのには、それなりの根拠があったのです。


というのは、ユダヤ人たちは、神様だけが自分たちの統治者であり支配者であると信じておりました。ですから、「私たちはアブラハムの子孫である」と言ったわけです。したがって、当時ローマの属国でありましても彼らは精神の独立は固く守っていた、これも事実だったのであります。それで彼らは、たとえ体は隷属(れいぞく)しても精神は決してそうではないのだ、という意味でイエス様に反発したのであります。


ところが、イエス様が彼らにおっしゃったのは人間や国ではなく、他のものへの隷属(れいぞく)のことだったのです。34節に「あなたがたは罪を犯している、罪を行う者はみな罪の奴隷である、あなたは罪に隷属(れいぞく)しているではありませんか」とおっしゃったのです。さらにイエス様はユダヤ人に対して「奴隷はいつまでも家にいるのではありません。しかし息子はいつまでもいます」とおっしゃいました。当時、奴隷とその家の息子は非常に厳しく区別されていました。息子はいつまでも家にいることが出来ます。けれども奴隷はいつでも放り出すことが出来たのです。家の主人はいつでも奴隷に出て行けと言うことが出来ました。しかし誰も息子の地位を奪うことは出来ません。息子は息子であります。ですからイエス様はこの意味においてユダヤ人たちに「あなたがたは、アブラハムの子孫、すなわち息子であると思い込んでいる。しかし注意しなさい、あなたがたは自分自身に従うことによって自分を自分の奴隷にしているではないか」とおっしゃったわけです。


では先ほどイエス様がおっしゃった罪とはいったいどんなものでしょうか。神様によって造られた人間が我々を始め万物の創造者である神様に背いて、あるいは無視して、忘れて、自分の欲望に従っている状態、自分の思いを中心にして生きている、そのような状態、これが罪である、とおっしゃっているわけです。その罪がどんなに恐ろしいかも知らずに人間は生きているのであります。ソクラテスは「人間は快楽というものに支配されているのに、どうして自由であると言えましょう」と言っております。とかく私たちは自分のしたいことをする、したいことが出来る、それが自由であると考えがちでありますけれども、ソクラテスが言っておりますように、まさに快楽の奴隷、自分の欲望の奴隷であり、結局それは罪の奴隷であるに過ぎない状態なのです。


パウロも「あなたがたが罪の奴隷であった時には義に対して自由にふるまっていた、しかしその行きつく先は死であった」とローマ人への手紙6章20節、21節で語っております。パウロはこのことを自分自身についても言っているのでありまして、彼がかつて自分の思いに従って生きていた時には全知全能であり、完全に正しく、聖い方であるがゆえに人間を厳しくさばかれる神様に対して、恐れもなく勝手気ままに、自由にふるまっていた。しかしそのような生き方をする者の行きつくところは死であると神によって示されたのです。この死というのは肉体の死を意味するのではなく、永遠の滅びのことであります。


パウロに限らず今日でも多くの人が自分の欲望の奴隷となって、自分の思うままの生き方をしています。たとえば最近パソコンが非常に普及しております。私の研究室にも六、七台ありますが、家庭にもパソコンが入りこんでいる。 IBMに勤めておられる兄弟がたも何人かおられて御同慶のいたりですけれども(笑い声)、ただし、そのためにコン中というのが我が国に大変増加しつつあります。コン中というのはコンピューター中毒のことであります(笑い声)。コンピューター依存症という新しい病気でありまして、このコン中にかかるとどうなるかと言いますと、私もコン中さんに何人かお会いして話を聞いておりますが大変なんですね。「コンピューターがないと生きて行けない」と言われます。もうコンピューターだけが生きがいであって、コンピューターと話していると楽しい。それこそ寝ても覚めてもコンピューターなのです。ですから時間の経つのがわからなくなって、夜も昼も無くなってしまう。食事もコンピューターと話をしながら食べるわけです。家族も放ったらかしであります。人間関係が煩わしくなってしまってもう口をきく気もしない、それだけならまだいいのですけれども、「もしコンピューターが無くなったらどうしようと思っただけで不安になってしまう。それが恐ろしくて気が変になりそうだ」というのです。こういう人たちが私の身近にも何人もおりますし、ある病院ではそういう人を集めて治療しております。そうなりますともう家庭も崩壊してしまうのですね。そういう状態が起こっております。


また、知らないうちにコンピューターに管理されている人が増えています。企業の中には社員の業績とか仕事のやりかたをコンピューターでコントロールしている会社がありまして、されている人は知らないかも知れませんが、それを人事管理に使うというようなことが行なわれております。これからもどんどん増えて来ると思います。それからこれはアメリカの話でありますけれども、コンピューターが結婚の司式をするんですね。コンピューターが「お前はこの女(あるいは男)を愛するか」と言いますと、二人が「はい」とコンピューターに答える(笑い声)。コンピューターの前で結婚の誓いをするわけです。これは明らかにコン前結婚であります(笑い声)。コンピューターを自分の思い通りに使おうとして、どんどんと新しい能力を持ったコンピューターを開発するうちに、だんだんと立場が逆転しまして人間がコンピューターの奴隷になって来ている。ある人にとっては、コンピューターは神様になってしまう。大変恐ろしいことが起こって来ております。


人間の知恵というのは、そんなものではないでしょうか。自由だ、自由だと、私たちが思っているその自由、コンピューターを使ってもっと自由を得ようと思ったらとんでもないことであったという、これは一つの例であります。それではほんとうの自由とは何か、そしてほんとうの自由はどうしたら得られるかということ、これが今日の主題です。


イエス様が約束してくださった自由というものがいくつかあるのですが、まず恐れからの自由があります。人には健康に対する不安、将来に対する不安、孤独に対する不安、老後に対する不安、また社会人では仕事に対する不安もあるでしょう。また学生諸君は勉強とか受験に対する不安があります。また一般的に人間関係に対する不安、これはたくさんの人が持っている問題と言えるでしょう。地球を壊滅させることが出来るほどの核兵器が設置されている現在、今度戦争が起こったら一体どうなるのか、という不安も頭にこびりついております。


このような不安はなかなか自分で解決しようとしても難しいのですけれども、聖書によって神様ご自身が約束してくださっているように、イエス様が自由にしてくださるなら、私たちはそれらの不安から解放されます。ヘブル人への手紙13章5節、6節にこう書いてあります。


主ご自身がこう言われるのです。「わたしは決してあなたを離れず、また、あなたを捨てない。」そこで、私たちは確信に満ちてこう言います。「主は私の助け手です。私は恐れません。人間が私に対して何ができましょう。」(ヘブル人への手紙13・5~6)


イエス様がそのような不安や恐れからこのように解放してくださるということを、私たちもヘブル人への手紙の著者と同様に言うことができます。またイザヤ書41章10節にはこう書かれています。


恐れるな。わたしはあなたとともにいる。たじろぐな。わたしがあなたの神だから。わたしはあなたを強め、あなたを助け、わたしの義の右の手で、あなたを守る。(イザヤ書41・10)


イエス様が自由にしてくだされば、このような聖書のみことば、つまり神様の約束に頼れるようになるのであります。


他人からの自由、これも私たちにとって難しいことなのですね。他の人はどう思うだろうか、他人は何と言うだろうということを大変気にしながら生きている人が案外多いのです。小さな例ですが、私の大変身近かなあるお年寄りがこういうことを気にしています。「私が死んだら、私の遺族は、葬儀に来てくださった方々に失礼のないように応対出来るのだろうか。ちゃんと、恥かしくないように手落ちのないように出来るだろうか」こんなことをほんとうに心配していらっしゃいます。もしイエス様がこのご老人を自由にしてくだされば、他の人がどう思うだろうか、自分の葬儀はどうなるだろうかなどという心配から解放されると思うのです。なぜならイエス様はこうおっしゃってくださっているからです。


あなたがたの思い煩いを、いっさい神にゆだねなさい。神があなたがたのことを心配してくださるからです。(ペテロの手紙第一5・7)


もっと厄介なものは自我であります。多くの人が自我というものが自分の最大の敵であるということを知っております。そして、どんなに努力しても修行をしても、自分を変えることが出来ないということを、努力すればするほど、修行を積めば積むほど知り失望します。しかし、もしイエス様が自由にしてくだされば我々はこの自我からも解放されます。なぜならばイエス様が私たちを全く新しく造り替えてくださるからであります。コリント人への手紙第二5章17節に、


だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。(コリント人への手紙第二5・17)


とありますが、私たちも、もしイエス様が自由にしてくださるならば、このような確信を持つことが出来るのであります。


一番難しいものがあります。それは罪です。罪からの自由を私たちは決して自分の力で得ることが出来ません。誰一人として自分の力で罪から自由になることは出来ません。生れながらにして私たちに染み着いているこの罪の汚れをいくら善い行ないで擦(こす)っても、その罪を白くすることは出来ないのです。けれども、もしイエス様が自由にしてくださるなら、罪から解放され自由になることが出来ます。なぜならば、


私たちの古い人がキリストとともに十字架につけられたのは、罪のからだが滅びて、私たちがもはやこれからは罪の奴隷でなくなるためであることを、私たちは知っています。(ローマ人への手紙6・6)


と書かれているからであります。


死からの自由、これも我々がどんなに努力しても決して手に入れることは出来ません。医学や医療がどんなに進歩してもそれはたかだか私たちのいのちを数年間、長くても十数年間延ばすことが出来るだけです。ある学者がタバコを喫う人と喫わない人でどの位寿命が違うのか研究しましたところ、数年の違いだということです。それぐらいならやはり喫おうという方がおられるかも知れませんね。けれども、もしイエス様が自由にしてくだされば必ずやって来る恐ろしい死からも自由になることが出来ます。なぜならば、私たちはイエス様によって次のように信じることが出来るからです。


わたしのことばを聞いて、わたしを遣わした方を信じる者は、永遠のいのちを持ち、さばきに会うことがなく、死からいのちに移っているのです。(ヨハネの福音書5・24)


このようにイエス様ご自身が約束してくださっているからであります。またヨハネの福音書11章25節、26節には、


イエスは言われた。「わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。また生きていてわたしを信じる者は、決して死ぬことがありません。」(ヨハネの福音書11・25~26)


というイエス様の有名なみことばがあります。


このようにイエス様によって自由にされますと、コリント人への手紙第一15章54節の「朽ちるもの(私たち)が朽ちないもの、死ぬものが不死(すなわちイエス様)を着る時に死は勝利にのまれたというみことばが実現する」、またヘブル人への手紙2章14、15節の「人間はみな血と肉とを持っているので、イエスもまたこれらのものをお持ちになったのです。これは、イエスの十字架の死によって、悪魔という死の力を持つ者を滅ぼし、一生涯死の恐怖につながれて奴隷となっていた人々を解放してくださるためでした」と言うみことばを受け入れることが出来るようになります。


恐れから自由に、あるいは自我から自由に、罪からそして死から自由にしようとおっしゃるイエス様は、いったい何の権威でこのようなことを言うことがお出来になるのでしょうか。もし私がイエス様と同じことを皆さんに言ったとしたらどうでしょうか。あの人はどうかしている、といって相手にもされないことでしょう。どんな人間の権威をもってしてもそのようなことは出来ないはずです。


けれどもイエス様は神様の権威をもって言われたのであります。なぜでしょうか。それはイエス様が神様だからであります。ではいったいなぜ神様が人となってこの地上に来てくださったのでしょうか。それはひとことで言えば死ぬためであります。十字架にかかって死ぬために、神様が人となってこの地上に来てくださったのです。その目的は私たちの身代わりとなって、私たちを先ほど申しました罪から、あるいは死から自由にしてくださるためでありました。ガラテヤ人への手紙5章1節に「キリストは、自由を得させるために、私たちを解放してくださった」とあります。またピリピ人への手紙2章6節から8節に、


キリストは、神の御姿であられる方なのに、神のあり方を捨てることができないとは考えないで、ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられたのです。キリストは人としての性質をもって現われ、自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われたのです。(ピリピ人への手紙2・6~8)


とあります。私たちの罪、神様に対する罪はそのような高価な犠牲、高価な代価なしには赦されないほど大きなものなのです。そして父なる神様は罪の報いとして永遠に滅ぼされなければならない私たち人間をあわれんでくださり、私たちを造ってくださったその神様に背を向けて勝手放題に歩んでいる私たちを、何とかしてご自分ともう一度正しい関係、すなわち父と子との関係に立ち返らせようと思われ、驚くべき愛をもって私たちを救う計画を実行されたのです。それは神であるご自分の御子イエス様を私たちの身代わりに十字架につけるという方法でした。これ以外に、私たちを罪から、滅びから救い出す方法はなかったのです。ほんとうに驚くべき神様の愛であり恵みであります。ヨハネの手紙第一4章9節から10節に、これもよく知られているみことばですが、


神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちに、いのちを得させてくださいました。ここに、神の愛が私たちに示されたのです。私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。(ヨハネの手紙第一4・9~10)


と記されております。まったくその通りであると思います。


ここにまだイエス様を信じていらっしゃらない方がおられましたら、ぜひ申し上げたいと思います。イエス様は神としての誇りを捨てて本当に身を低くして人の姿となり、私たちのために十字架にかかって死んでくださったのです。もしそれを知っても「いいえ、私は結構です、そんな恵みはいりません」とおっしゃる方がありましたら、多分それはご自分の自我、誇りから出ていると思いますが、もう一度お考えいただきたいと思います。イエス様はご自分の神としての誇りを捨てて来てくださったのです。それもご自分のためにではなく、滅びるほかにない我々を救うためにそのような驚くべき愛を実行してくださったのです。我々はちっぽけな自分のプライドのためにいつまでも心を閉ざしてこのような神様の愛と恵みを拒み続けてもいいものでしょうか。そのような誇りは早く捨てて、心の扉を開いて、素直に神様の恵みを受け入れるべきではないでしょうか。


イエス様ご自身がヨハネの黙示録の3章20節で呼びかけてくださっています。


見よ。わたしは、戸の外に立ってたたく。だれでも、わたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしは、彼のところにはいって、彼とともに食事をし、彼もわたしとともに食事をする。(ヨハネの黙示録3・20)


信じるために、救われるために、私たちにいったい何が必要でしょうか。何も必要ではありません。ローマ人への手紙10章9節に、


もしあなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせてくださったと信じるなら、あなたは救われるのです。(ローマ人への手紙10・9)


とあります。自分がほんとうに罪のために汚れて黒い者であるということを卒直に認めて、黒いままの姿で神様の前に出て、「信じます、不信仰なわたしを助けてください」と、へりくだって言った時に、イエス様は十字架上で流された血によって私たちを清めてくださり、真黒な私たちの上から、真白いイエス様の衣ですっかり覆ってくださるのです。その時、今までの罪もこれから犯すであろう罪もすっかり私たちから消し去られて、神の子どもとされるのであります。素晴らしい恵みであります。イエス様がどなたであり、何のために来られたかということを知り、イエス様を救い主として信じる時に、私たちはイエス様の約束通り神様の子どもとして永遠に神の家に入ることが許され、すべてのものからほんとうに自由になることが出来るのであります。この約束は人間の約束ではありません。神様の約束であります。私たちは不真実ですけれども、神は常に真実な方であります。どうぞこの神様の恵みを、ほんとうに謙虚に、へりくだって受け取ってくださいますように、まだ信じていらっしゃらない方々のためにお祈りいたします。




私達の国籍は天にあります 前の章 次の章 メッセージ書庫