私達の国籍は天にあります(1987年)

あなたの誇りは何か

ある者はいくさ車を誇り、ある者は馬を誇る。しかし、私たちは私たちの神、主の御名を誇ろう。(詩篇20・7)


今日ご一緒に考えたいのは、人の誇りについてです。引用された聖句を見ますと、そこには二つのグループの人たちがいます。一つは、いくさ車、すなわち戦車や馬を誇る、今で言えば車かもしれませんけれども、そういった自分の持ち物を誇っている。それからもう一つのグループは、主なる神様を誇っている。こういう二つのグループです。そして、私たちはこの二つのどちらかに属しているわけです。どちらにも属さないと言うことはありません。人間である以上このどちらかに属するはずです。ではいったい私たちは、このどちらに属しているか、またどちらが本当に属するべきものなのか、というのが今日の課題です。


まず、戦車や馬を誇るというのはどういうことなのでしょうか。これは言い替えますと、自分の力を誇示するということなのです。自分の力を、自分の持っている物を誇るということです。旧約の時代から、強力な戦車、あるいはすばらしい馬を持つということは、強さの象徴でありました。こういう物を持っている人は、他人を制覇することが出来る、治めることが出来る、また支配することが出来るというわけです。これは現代でも同じで、いろいろな国がその強さを誇る時に、いったい何を誇るかと言えば、軍事力、経済力、あるいは工業力、科学力などを競っています。そしてそのようなものをたくさん持っている国、そういった面で優秀な国が、強国、一流国とされています。たとえば、ミサイルの数とか、核兵器の数などに代表されるようなものです。また、エネルギーについて言えば、かつては石油埋蔵量を誇っていたのが、いまや核のエネルギーをたくさん持っているほど大国であり、強国であると考えられるようになって来ました。


しかし、そういった人間の誇りとするものがどういう結果をもたらすか、ということがまた大変問題なのです。ちょっと話がそれますけれども、例のチェルノブイリと言うソ連の原子力発電所の事故が最近大変大きな問題を起こしました。このチェルノブイリとは、すでにいろいろ新聞などの情報でご存知かと思いますが、ロシヤ語で「苦よもぎ」という意味だそうで、この言葉はヨハネの黙示録に記されています。8章10節、11節に、イエス様がこの世を裁くために再びおいでになる時、ご自分のお造りになった世を一度破壊されて新しい天地をお造りになるのですが、その時の大変恐ろしい情景が象徴的に書かれております。お読みいたしますと、


第三の御使いがラッパを吹き鳴らした。すると、たいまつのように燃えている大きな星が天から落ちて来て、川々の三分の一とその水源に落ちた。この星の名は苦よもぎと呼ばれ、川の水の三分の一は苦よもぎのようになった。水が苦くなったので、その水のために多くの人が死んだ。(ヨハネの黙示録8・10~11)


と書かれています。聖書によれば、この苦よもぎと言う星が川や水源に落ち、水が汚染されてたくさんの人が死んだとされていますが、現代の苦よもぎは原子力発電所でありました。苦よもぎと呼ばれる原子力発電所がソ連にあったというのを、私たちは新聞で知ったわけですけれども、これは非常な驚きであり、しかも聖書の預言通りに多くの人を殺しました。これからも、この事故によって多くの人々が大きな影響を受けるでしょう。これは、人間が作ったもの、あるいは人間が誇りとしているものが、自分たちにどういう作用をもたらすかということの一つの象徴的な例ではないかと思います。


国家間ではそういうことがありますけれども、人間一人一人が個人として考えた時にも、似たような誇りをそれぞれの人が持っていると思います。戦車でなくて車でもいろいろなグレードのものがありますが、立派な、高価な車に乗るというのは、やはりその人が自分の力を誇示している場合が多いでしょう。また、学歴にしてもそうですし、学閥を作っているなどというのも、個人を含めた集団の誇りになるわけです。社会的地位は言うまでもありません。財力もそうです。金が無くても体力がある、というような誇りを持っている人もいます。また、「自分は貧乏でも血統がいい」と言って血筋を誇っている人や、家柄を誇りにしている人もあります。家柄というのは血筋に入るかもしれませんが、おもしろいもので、貴族の家柄をお金で買うなどということが外国でよくあります。お金で買ってでもそれがプライドになるのですね。また、ある人は、「自分は一生懸命に人のために尽くしてきた、自分のことを二の次にして気の毒な人たちのために尽くしてきた」という人もあるでしょう。大変へりくだっていて立派な人だと思いますが、やはりその人の心のどこかに自分の行いを誇るところがあるのではないでしょうか。自己満足という思いですね。そのほかにも、意志が強いとか、知識をたくさん持っているとか、道徳的に優れているなどという誇りを持っている人もたくさんあります。


人は、このようにいろいろなものを誇りにしています。それは結局、自分はこれだけ他の人より優れている、勝っている、そしてそういうものを持っていることによって自分が満足する、という自己中心的な思いがあって、いろいろなものを自分の身に着けてそれを誇ることになるわけです。


では次に、人間が誇りとするこのようなものは、私たちにいったいどんな保障を与えてくれるのか、ということについて考えてみたいと思います。ここで詩篇33篇16節と17節をお読みいたします。


王は軍勢の多いことによっては救われない。勇者は力の強いことによっては救い出されない。軍馬も勝利の頼みにはならない。その大きな力も救いにならない。(詩篇33・16~17)


聖書にはこのようにはっきりと書いてあります。もう一箇所イザヤ書31章1節と3節をお読みいたします。


ああ。助けを求めてエジプトに下る者たち。彼らは馬にたより、多数の戦車と、非常に強い騎兵隊とに拠り頼み、イスラエルの聖なる方に目を向けず、主を求めない。エジプト人は人間であって神ではなく、彼らの馬も、肉であって霊ではない。主が御手を伸ばすと、助ける者はつまずき、助けられる者は倒れて、みな共に滅び果てる。(イザヤ31・1、3)


と書いてあります。ここでは旧約の時代のイスラエル人とエジプト人との関係を通して神様が語っておられるのですが、弱小国であるユダヤがまわりの強国の間にはさまって大変苦しんでいるわけです。アッシリアとかエジプトとか大きな強い国がまわりにあるのですが、アッシリアに攻められて、エジプトに助けを求める。エジプトに頼る理由は、エジプトが多数の戦車と非常に強い騎兵隊を持っているからです。ところが、ほんとうにイスラエルを助ける方は主なる神様です。けれども、イスラエルはそのことをすっかり忘れて、軍勢に、馬に、戦車に助けを求めるのです。3節にありますように神様は、「エジプトに頼っても無駄である、自分が手を伸ばせば、助けるエジプト人も助けられるイスラエル人も、共に滅び果ててしまうのだ」と言っておられるのです。


もう一箇所詩篇49篇16節から20節をお読みします。


恐れるな。人が富を得ても、その人の家の栄誉が増し加わっても。人は、死ぬとき、何一つ持って行くことができず、その栄誉も彼に従って下っては行かないのだ。彼が生きている間、自分を祝福できても、また、あなたが幸いな暮らしをしているために、人々があなたをほめたたえても。あなたは、自分の先祖の世代に行き、彼らは決して光を見ないであろう。人はその栄華の中にあっても、悟りがなければ、滅びうせる獣に等しい。(詩篇49・16~20)


「悟りがなければ」とは「神様がどういう方か正しく認識していなければ」という意味と考えてよいと思います。私たちが誇るもの、富や栄誉をいくら持っていてもそれは生きているほんの僅かな、何年かわかりませんが、それこそ長くて人生八十年位の、永遠から見ればほんの僅かな間の単なる自己満足に過ぎない。人がこの世でどんな栄華の中にあっても、神様を知る真の知恵がなければ、結局は滅びうせる獣と同じであると言うのです。


そして聖書は、このようにして考えてまいりました人の誇りというものは罪である、と言っているのです。聖書は、誇ることは、誇り高ぶることを意味する、と言っています。誇るということは、自慢をする、得意になるということで、この高慢の罪について、詩篇5篇5節に、「誇り高ぶる者たちは御目の前に立つことはできません」と書かれています。御目の前とは神様の前ということです。神の前に立つことの出来る者は、神様に正しいと認められている者だけです。人間が自分の力、知恵、あるいはもろもろの持てるものに頼る時、必ず誇り高ぶりが伴います。これは、「自分が・・・・」、「自分の・・・・」という自分中心の姿であります。造り主であられる神を無視した人間の自己中心的な心は、罪の中でも神様の最も嫌われる罪であります。


このような誇り高ぶる人間を神様は裁かれます。ローマ人への手紙6章23節に記されておりますように、「罪の報酬は死」であります。この死というのは肉体の死の後に来る永遠の滅びを意味します。このように、私たちの誇り高ぶりの結果は滅びなのであります。これが私たちの将来に待っているものであり、それに向って私たちはただ目先のものを誇りながら、突き進んでいるのです。誇り高ぶりながら、滅びに向かって歩み続けているわけであります。これが、軍馬を誇り、戦車を誇る人生の姿であります。


けれども、そのことを知って、いくら自分の誇るものによって自分を滅びから救い出そうと努力してもそれは不可能です。なぜかと言うと、罪の原因である自分の誇りで自分の罪の代価を支払うということは、全く理屈にも合わないことだからです。罪そのものである誇りをいくら神様の前に積み上げても、罪で罪を買い取ることは出来ません。


では、すでに神様を知っている人たちは一人残らず神様を自分の誇りにしているかというと、そうではないと聖書に書いてあります。神様を知っているのに神様を誇らないで自分を誇るというよい例がユダヤ人です。神様が創造主であり全能者であることを、ユダヤ人は彼らの先祖であるアブラハム以来ずっと神様ご自身から知らされて来ているにも拘わらず、彼らは神様を誇るのではなく自分たちを誇って来た。どのように誇ったかというと、自分たちは神の選民である、神に選ばれた民族であるということを誇りました。自分たちは神様から特別に掟(おきて)、つまり十戒という律法を与えられている、そしてそれを守っている、ということを彼らは誇ったのです。守るといっても、実は自分たちの都合の良いよう形式を変えてそれを守っていたのです。そういった神様の望まれないような方式で守っていたにも拘わらず、彼らは自分たちが神様から律法を与えられている、そしてそれを守っている、ということをまわりの人たちに誇示することによって自ら誇り高ぶっていたわけです。


そのように神様を知っていながら、自分たちを誇ったユダヤ人は神様に罰せられます。エレミヤ書9章23節から26節で神様は次のようにおっしゃっています。


知恵ある者は自分の知恵を誇るな。つわものは自分の強さを誇るな。富む者は自分の富を誇るな。誇る者は、ただ、これを誇れ。悟りを得て、わたしを知っていることを。見よ。その日が来る。――主の御告げ。――その日、わたしは、すべて包皮に割礼を受けている者を罰する。イスラエルの全家も心に割礼を受けていないからだ。(エレミヤ書9・23~26)


その日というのは神の裁きの日です。神様がやがてこの世を裁くために、イエス様を再びこの世に遣わされる日であります。イエス・キリストのご再臨がその日ですが、その日に神様は「包皮に割礼を受けている者」、つまり体の一部分を傷付けたから律法を守っているのだというような形式的な従いかたをして、それで良しとしているユダヤ人たちを罰するといわれるのです。なぜかというと、神から選ばれた民でありながら心から神に従っていない、つまり心に割礼を受けていないからであります。大変よく知られている箇所なので何回も引用しますが、ルカの福音書18章9節から14節に、このようなユダヤ人の典型的な例であるパリサイ人と、当時罪人扱いされていた取税人のことが記されています。


自分を義人だと自任し、他の人々を見下している者たちに対しては、イエスはこのようなたとえを話された。「ふたりの人が、祈るために宮に上った。ひとりはパリサイ人で、もうひとりは取税人であった。パリサイ人は、立って心の中でこんな祈りをした。『神よ。私はほかの人々のようにゆする者、不正な者、姦淫する者ではなく、ことにこの取税人のようではないことを、感謝します。私は週に二度断食し、自分の受けるものはみな、その十分の一をささげております。』ところが、取税人は遠く離れて立ち、目を天に向けようともせず、自分の胸をたたいて言った。『神さま。こんな罪人の私をあわれんでください。』あなたがたに言うが、この人が、義と認められて家に帰りました。パリサイ人ではありません。」(ルカの福音書18・9~14)


これはイエス様のおっしゃった言葉です。自称義人、「自分は神の前に義と認められて立つことができる」とおごり高ぶっているのはこのパリサイ人です。「きちんと神様の掟(おきて)は守っています。こんな取税人のような罪人ではありません」というおごり高ぶり、これを神様は一番嫌われます。そして、そういう態度を取るユダヤ人を罰するといわれ、彼らの救いは最後にされました。神様は彼らより先に異邦人、つまりユダヤ人以外の国民の中で神様を信じる者を救おうと決められたのです。


では、一番最初にありました神を知る者、神によって救われた者、イエス・キリストを救い主として受け入れた者は神を誇ることが出来るか、ということについて最後に考えてみたいと思います。コリント人への手紙第一1章21節から27節と31節にこう書かれております。


事実、この世が自分の知恵によって神を知ることがないのは、神の知恵によるのです。それゆえ、神はみこころによって、宣教のことばの愚かさを通して、信じる者を救おうと定められたのです。ユダヤ人はしるしを要求し、ギリシャ人は知恵を追求します。しかし、私たちは十字架につけられたキリストを宣べ伝えるのです。ユダヤ人にとってはつまずき、異邦人にとっては愚かでしょうが、しかし、ユダヤ人であってもギリシャ人であっても、召された者にとっては、キリストは神の力、神の知恵なのです。なぜなら、神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強いからです。まさしく、「誇る者は主にあって誇れ。」と書かれているとおりになるためです。(コリント人への手紙第一1・21~27、31)


もし人間の知恵によって神様の救いの御業、キリストの十字架や復活の意味というものがわかったら、恐らく人間はますます自分を誇り、神の前にごう慢な者になるでしょう。そのことを神様はご存知でパウロを通してここでこのように御心を現していらっしゃるのです。私たちキリスト者も、自分たちが主を信じた時を振り返ってみて、自分たちの知恵や力が必要だっただろうかと考えてみますと、必要だったどころか妨げにしかならなかったことがはっきりわかります。そんなものは何の役にも立たないのですね。自分の誇っていた一切のものは、イエス様を信じる時には全く妨げにしかならないのです。ここに書かれてあります通り、神様は御前でだれをも誇らせないと言っていらっしゃるのです。エペソ人への手紙2章8節と9節に、


あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物です。行いによるのではありません。だれも誇ることのないためです。(エペソ人への手紙2・8~9)


と書かれています。結局、自分自身の力で救われたのではなくて、神様の一方的な恵みによって救われたのですから、だれも誇ることは出来ないわけです。このようにして神様は、私たちがごう慢にならないように配慮してくださっているのです。


私たちが神様のこの恵みを受け入れた時、神様は私たちを子としてくださるという素晴らしい約束があります。エペソ人への手紙1章5節に、


神は、ただみこころのままに、私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定めておられたのです。(エペソ人への手紙1・5)


とありますように、救われた者にとって神様は父親です。父なる神様は御子イエス・キリストの十字架の贖いのゆえに、罪を悔いて救われた者に永遠のいのちを与え、ご自分の子として扱ってくださるのです。万物の創造主、永遠に存在しておられ、私たち人間をはじめとして被造物をすべて支配しておられる絶対者の神様を、私たちは救われてのちには父と呼ぶことが出来る。そしてそのような父なる神様と私たちは人格的な交わりを持つことが出来る。これは大きな誇りであり特権であります。私たちはその恵みを日々みことばを通してまたいろいろな体験を通して知ることが出来ます。


ここで今、胸に手を当てて、私たちはいったい何を誇っているのだろうかと考える必要があると思います。もし、まだ神の大いなる恵みとあわれみを拒んで自分を誇っているのであれば、そのような空しい誇りは捨てて、先ほどの取税人のようにへりくだって神様の御前に出れば、神様はただちにご自分の子としてくださり、この唯一の創造主であられるまことの神様を心から誇る者、神の子として永遠に生きる者としてくださるのです。




私達の国籍は天にあります 前の章 次の章 メッセージ書庫