私達の国籍は天にあります(1987年)
人がもし、ほかの人に対して罪を犯すと、神がその仲裁をしてくださる。だが、人が主に対して罪を犯したら、だれが、その者のために仲裁に立とうか。(サムエル記第一2・25)
今お読みしましたところが今日のテーマです。罪の問題が中心であることはもうご承知の通りであります。今日初めておいでになった方々、そして初めて聖書をお読みになる方々が一番最初につまずくといいますか、引掛かるのはこの罪という言葉であると思います。繰返し聖書の中に罪のこと、あるいはお前は罪人であるということが語られておりますが、その度に私のどこがいったい悪いのだ、という反発が心の中で起こって来ると思うのです。当然だと思います。世間一般には、罪というのは殺したり、盗んだり、だましたり、というように人に損害を与えることだと考えられています。したがって、自分は人にそんな迷惑や損害をかけていない、とお思いになるのが当然であります。このような、人に対する罪が、我々の普通考える罪であります。ところが、「そういう悪いことはしないでしょう、しかし一歩下がって、あなたは人に嘘をついたり、悪口をいったり、怒ったり、人を馬鹿にしたり、人を憎んだりしたことはありませんか」と問いかけますと、それもしたことがないという方は、恐らく一人もおられないのではないかと思うのです。それでも、「人には迷惑はかけないからいいじゃないか、自分の心の中でたとえ他人を馬鹿にしても、軽蔑しても、そんなことは罪であってもほんの軽い罪だから、当然許されるべきである、皆やっていることだ」とおっしゃるでしょう。そのように、世の中では罪には重い軽いの差がある、そして一つ一つの罪は分類出来る、と考えられております。罪を仕分けすることが出来る、ある罪は赦されるし、ある罪は赦されない、と世間一般では考えるわけです。
ところが聖書の言う罪は、それと全く違うのです。たとえある人が先ほどのような罪は犯していない、と言ったとしても「あなたはすべての罪を犯した」と聖書は言っています。あなたは人殺しであり、強盗であると言うのです。聖書を見ますと、人は一人残らず人殺しであると言っています。したがって、今ここに立っている私も人を殺しました、強盗もしました、姦淫の罪も犯しました、ということであります。もしここから出て行って、駅前で大声でそう言ったならば、恐らく私は気違い扱いされて、精神病院に入れられてしまうのではないかと思います。しかしまさに聖書ではすべての人、私に限らずここにおられるすべての方々が人殺しをし、強盗をし、姦淫の罪を犯し、詐欺罪も犯したと指摘しているのです。
マタイの福音書5章21、22節をご覧いただきますと、
「人を殺してはならない。人を殺す者はさばきを受けなければならない。」と言われたのを、あなたがたは聞いています。しかし、わたしはあなたがたに言います。兄弟に向かって腹を立てる者は、だれでもさばきを受けなければなりません。兄弟に向かって「能なし。」と言うような者は、最高議会に引き渡されます。また、「ばか者。」と言うような者は燃えるゲヘナに投げ込まれます。(マタイの福音書5・21~22)
と書いてあります。兄弟というのは、ここでは他人ととっていただいて結構だと思いますが、私たちはよく能なしとか、ばか者とかいって口には出しませんけれど心の中で罵ることがあります。経験がおありになる方が多いと思いますが、そういう者は最高議会、今でいう裁判所ですが、そこに引き渡される、あるいは燃えるゲヘナ、これは地獄のことですが、その永遠の滅びに投げこまれるとイエス様は言っておられます。同じような箇所がヨハネの手紙第一3章15節にもあります。
兄弟を憎む者はみな、人殺しです。(ヨハネの手紙第一3・15)
人を憎めばその人を殺したと同じであるということですね。ギリシャの哲学者でソクラテスという人がいます。どなたもご存知と思います。よく倫理の本に出てきますが、この人に奥さんがいました。ところがこの奥さんは大変な悪妻でありまして、世界三大悪妻の一人ということであります(笑い声)。彼女に卒業すればすべての女性に卒業し得るとある人が言ったそうです。その彼女がソクラテスをある時大声で罵ったあげく、頭に水をぶっかけたそうであります。その時ソクラテスはどう言ったか、有名な言葉だそうですが「雷の後に夕立が来るのは当り前のことである」(笑い声)。これは大変なことでありますが、いったいソクラテスの心の中はどんなだったか、ほんとうに悠然とその奥さんに対して何らの憎しみも持たないでいられたのだろうかと、私はちょっと疑ってしまうのですね。やはりソクラテスも人でありますから、他人の手前、格好いいことを言って見せたのではないかと思うのです。けれども恐らく心の中では「この女!」と憎しみの思いを持ったのではないでしょうか。そうなると、ソクラテスも人殺しをしたわけです。
結局、憎しみというのは殺人の卵である、ということが出来るのです。法律では殺人というものは罰しても、憎悪というものは罰しません。けれども神様の前には両者は全く同罪であります。なぜならば、それらは同じ水源から流れ出た水だからであります。さらに聖書は、私たちは皆人殺しをしただけではなく、先ほど言いましたように人殺しをした人は強盗もしたし、姦淫もした、あるいはその他の罪を犯したと言っております。ヤコブの手紙2章10節、11節をお開きいただきたいと思いますが、
律法全体を守っても、一つの点でつまずくなら、その人はすべてを犯した者となったのです。なぜなら、「姦淫してはならない。」と言われた方は、「殺してはならない。」ともいわれたからです。そこで、姦淫しなくても人殺しをすれば、あなたは律法の違反者となったのです。(ヤコブの手紙2・10~11)
とここでも言われております。律法というのは神様が私たちにくださった戒めでありますが、一つの点でも守らなければ律法全体を犯したことになる。つまり神様の戒めを破ったことになるわけです。同じ罪の木である以上、それが人殺しという実を結んだなら強盗の実も結ぶでしょうし、姦淫の実も結ぶでしょう、次々と罪の実を結ぶ性質があるからです。したがって、聖書の言う罪とは人殺し、強盗というようなあの罪、この罪というようなものではなく、神様に対する私たちの誤った心の態度なのであります。
つまり私たちの罪は、神様ぬきの世界で自分自身が思い通りに生きる、生活設計を自分で立てて行く、そういう道を選んだことにあります。そのことを聖書の中で示しているのが、ご承知のアダムとエバのところであります。創世記3章1節から23節あたりに詳しく書かれております。今日は時間の関係でお読みいたしませんけれども、ここでアダムとエバは神様から、「これだけは食べてはいけない」と命令を受けたにも拘らず、その命令に逆らって自分の欲に従って、禁断の木の実を取って食べてしまいました。自分の思いに従った、自分の欲に従った、これが罪であります。ここでちょっと英語の勉強をしたいと思います。罪のことを英語でSINと言います。この単語を見ていただきますと、三つの文字の真中にIという字があります。これはI、つまり私、自分、自己のことですね。面白いなと思いましたのは、罪(SIN)というのは私、つまりIを真中に置いている。この自己中心が罪なのだということをこの単語が示していることです。
ローマ人への手紙3章23節に、
すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず、(ローマ人への手紙3・23)
と書かれておりますが、先ほどから申しましたように、私たちはすべて一人残らず罪を犯しております。したがって神様から栄誉を受けることは出来ません。ローマ人への手紙の3章9節から18節までをお読みいたしますと、
私たちは前に、ユダヤ人もギリシャ人も、すべての人が罪の下にあると責めたのです。それは、次のように書いてあるとおりです。「義人はいない。ひとりもいない。悟りのある人はいない。神を求める人はいない。すべての人が迷い出て、みな、ともに無益な者となった。善を行う人はいない。ひとりもいない。」「彼らののどは、開いた墓であり、彼らはその舌で欺く。」「彼らのくちびるの下には、まむしの毒があり」「彼らの口は、のろいと苦さで満ちている。」「彼らの足は、血を流すのに速く、彼らの道には破壊と悲惨がある。また、彼らは平和の道を知らない。」「彼らの目の前には、神に対する恐れがない。」(ローマ人への手紙3・9~18)
と書いてあります。「義人はいない。ひとりもいない。」有名なみことばであります。義人というのは神様から義とされた人であります。法律的に言いますと、これは無罪判決を受けた人という意味だそうですけれども、聖書では神様の前に正しいとされる人、罪なき者と呼ばれる資格のある人、これが義人であります。それから「善を行う人はいない。ひとりもいない」と書かれておりますが、この善というのは何か人に良いことをしてあげるというようなことではなくて、道徳的に完全であるという意味で、これは神の属性であります。このように見て来ますと、人間は決して善であり得ません。人間である以上、善を行うことの出来る人など一人もいないわけです。すべて罪人であるということであります。
そこで次に起こって来る問題は、どうしたら私たちはその罪を取り除くことが出来るか、ということであります。そのためには修養を積むと言いますか、自己を高める、あるいは努力することによって、この罪、自己中心、自分の欲というものを捨てようと試みる、これが多くの方の考えられることです。けれども、それをしていったい罪から逃れることが出来るでしょうか。ルカの福音書18章をちょっと開いていただきたいのですが、ここには「一生懸命に神様の戒めを守るという行いによって神様の前に自分たちは正しいと見られるのだ」と考えていたパリサイ人というユダヤ人の一派の人のことが書かれています。
自分を義人だと自任し、他の人々を見下している者たちに対しては、イエスはこのようなたとえを話された。「ふたりの人が、祈るために宮に上った。ひとりはパリサイ人で、もうひとりは取税人であった。パリサイ人は、立って、心の中でこんな祈りをした。『神よ。私はほかの人々のようにゆする者、不正な者、姦淫する者ではなく、ことにこの取税人のようではないことを、感謝します。」(ルカの福音書18・9~11)
ここでパリサイ人はもう既に罪を犯しているわけです。どんな罪かといいますと、ここに書いてありますように他の人を見下したという罪です。すなわち高慢の罪です。高ぶりの罪、自分を誇る罪で、この罪は一番したたかな罪です。私たちがいろいろな罪から逃れようとした時に、最後に残るのがこのごう慢の罪なんですね。真面目に罪と戦えば戦うほど、私たちはこのごう慢の罪を犯していることを認めざるを得なくなります。ローマ人への手紙にもう一度戻りまして、3章20節に、
律法を行なうことによっては、だれひとり神の前に義と認められないからです。律法によっては、かえって罪の意識が生じるのです。(ローマ人への手紙3・20)
と書かれている通りに、神様の戒めを守ろうとすればするほど、その人に罪の意識が生じるというのは、今申しました自分を誇る罪、ごう慢の罪が残ってしまう。そしてそれを取り除くことは至難の業だからであります。
では罪から逃れるために、何の方法もないのでしょうか。いいえ、非常に有効な方法があるのです。それは神に帰ることであります。先ほどからいろいろと罪について考えてまいりましたが、そもそも創造主である神から離れて、神中心でなく自分中心に生きて来たこと、人間がすべての中心となって生きて来たこと、これこそが罪の本質なのですから、我々が神のもとに帰ることが出来れば、その時こそ完全に罪から離脱することが出来るわけです。
しかし、いったいどうしたら神に帰ることが出来るのでしょうか。私たちが神から離れたのは自分が自分の主人になろう、自分の思いに従って生きよう、つまり自分を神として生きようというごう慢な心を起こした結果ですから、そのごう慢さが砕かれない限りは神に帰ることは出来ないのであります。そこで、有名な放蕩息子のたとえ話をルカの福音書15章から見てみたいのです。
このたとえ話は父なる神様と人間の関係を、イエス様が父親と息子のたとえから示してくださっている箇所です。二人の息子がおりますが、ここではそのうちの弟のほうに焦点を当ててみたいと思います。この弟は放蕩息子でありまして、父親から貰った財産を湯水のように使って、自分の欲望を満たしていました。ところが、その財産も使い果したころ、大飢饉(ききん)が起こって食べる物にも大変な苦労をし、ついには豚の餌さえも貰えないような惨めな有様になってしまいました。しかし、その苦しみの中で彼は我に返ったのです。父親のところに帰って謝ろうと思ったのです。そして父親のところへ帰り「お父さん、私は天に対して罪を犯し、またあなたの前に罪を犯しました」と悔い砕かれた心で詫びた時に、父親は「この息子は、死んでいたのが生き返り、いなくなっていたのが見つかった」と大喜びで抱きしめたというたとえ話です。
このたとえを通してわれわれは罪について、また罪を赦されるためにはどうしたらよいかということについて、大いに示されるところがあります。15章11節から13節は、父なる神のもとから遠く離れて勝手放題のことをしている、自分中心の生活をしている人間に当てはまります。多くの人たちがこういう生活をしており、それに対して神様がどんなに悲しんでいらっしゃるかと言うことには全く無頓着、無感覚で、自分の欲望に従って生活しているのであります。14節から16節になりますと、大飢饉(ききん)が起ります。これはそのような人たちに対して、目覚ましの作用をするものです。ここでようやく彼も困り始めます。そこで彼は何をしたかと言いますと、何とか人に頼って生きて行こうとするわけです。これは私たちがこの世の人や物に頼って生きようとするのに似ています。ところが彼は身を寄せた先で豚の世話をさせられるのですが、空腹でどうしようもないのに、豚の餌さえ貰えなかったのです。この空腹と言うのは、肉体的な空腹感だけではなく、心の空しさ、焦りを示しているのではないでしょうか。このように頼るものを全部なくした時、彼は父親のことを思い出します。そして自分が父親に罪を犯していたことに目覚め、父親のもとに帰り、心から詫びるのです。17節から24節までにそれが書かれています。ここで大切なことは、神様に帰る唯一の道は、自分の現状が、豚と同じかそれ以下であるということに気が付くことではないかと思います。全く自分では何も出来ない、自分は全く愚かである、そういう自分に気が付くことであると思います。そうなった時に、自分、自分、という自己中心でごう慢な思いが砕かれて、悔い改めて父なる神のもとに帰る備えが出来るのです。ヨハネの手紙第一1章9節に、
もし、私たちが自分の罪を言い表わすなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。(ヨハネの手紙第一1・9)
とあります。これは神様の約束であります。神様は絶対に正しくそして真実な方ですから、神様が約束を破られることは決してありません。すべての悪から清めてくださり、すべての罪を赦してくださる。そこには全く何の制限もないのです。どのような内容の罪であっても、どのような悪質な罪であっても、そんなことは問題ではありません。神様は私たちが心から罪を悔い改めれば、必ず赦してくださるのです。
つぎに起こってくる問題は、ではどんな方法で神様は私たちの罪を赦してくださるのだろうか、ということであります。これにはたった一つの方法が聖書によって示されております。罪を犯したことのないただ一人の人であって神であるイエス・キリストの十字架の死によって、イエス様の流された血潮によって、私たちの罪が清められるということであります。ヨハネの手紙第一1章7節の後半に、
御子イエスの血はすべての罪から私たちをきよめます。(ヨハネの手紙第一1・7)
と書いてあります。罪の全くない、神の子であるイエス様、私たちの罪の身代わりとなって十字架に付くためにこの世に人間の姿をとって来てくださったイエス様の清い血潮のみが、私たちの罪、自分自身ではどんなことをしても取り除くことの出来ない罪を取り去り、清める力なのであります。ペテロの手紙第一2章22節から24節、これも有名なところですが、
キリストは罪を犯したことがなく、その口に何の偽りも見いだされませんでした。ののしられても、ののしり返さず、苦しめられても、おどすことをせず、正しくさばかれる方にお任せになりました。そして自分から十字架の上で、私たちの罪をその身に負われました。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるためです。キリストの打ち傷のゆえに、あなたがたは、いやされたのです。(ペテロの手紙第一2・22~24)
このみことばの通りであります。また癒される、というのは創り主なる神様から離れて死んだようになっている私たちの霊を、イエス様ご自身が打たれ、釘付けられ、槍で刺し通されて、流されたその血潮によって、生かしてくださり、父なる神様との正しい関係に戻してくださった、ということであります。この事実を信じ、へりくだって、ほんとうに自分の罪を認め、悔い改める時に、私たちはイエス様の十字架の贖いのゆえに、神様の前に全く罪赦されて立つことが出来るようになるのであります。これだけが罪から解放されて、全き自由の身となるただ一つの方法であります。
ではこのようにして神の前に義とされたのは、その時だけなのだろうか、一過性なのだろうか、と言いますと、そうではなく、この罪の赦しというのは、私たちの罪を永久に赦してくださる、私たちは永久に義人とされるということなのであります。先ほどの私たち人間のSINという罪、自己中心の罪、これをイエス様は十字架の上で取り除いて無いものとしてくださいました。ですから、SINの真中にあったI、つまり自己中心という罪が無くなった、つまりゼロになったわけです。するとどうなるでしょうか。SONになりました。英語でSONとは息子という意味ですね。誰の息子でしょうか。神様の息子です。イエス様は私たちのSINつまり罪を、十字架の上で身代わりに負ってくださって、私たちを神の子どもSONにしてくださったのです。いったん子どもとなった者はもとに戻ることがない、不可逆反応であります。神様の約束でありますから、いったんゼロにされたものはもう変わることがありません。神の子とされた者は永遠に神の子であります。
最初にお読みいたしましたみことばに「人が主に対して罪を犯したら、だれが、その者のために仲裁に立とうか」という問いがありましたが、答えはもうおわかりのように、イエス・キリストなのであります。イエス・キリスト以外に神と人との間の仲介者はありません。イエス・キリストの義によって、私たちの罪が覆われている。であるからこそ、私たちは義人として恐れることなく、はばかることなく、神様の前に出ることが出来るわけです。その時、神様はもう私たちの罪を思い出さない、といっておられます。これも大変有名なみことばでありますが、ヘブル人への手紙10章17節で、
わたしは、もはや決して彼らの罪と不法とを思い出すことはしない。(ヘブル人への手紙10・17)
と神様が約束されているのです。これは神様がクリスチャンを覆っているキリストの義を見ておられるからであります。キリストはこのようにしてキリスト者を聖なる者としてくださった、ご自身が十字架にかかってこのことを永遠に全うしてくださったのであります。
私はクリスチャンです、と言っている人たちのなかに、イエス様を信じたと言いながら、自分はまだ罪の中にいるのではないか、あるいは自分は天国に入れるかどうかわからない、と言っている人がたくさんおられます。実は、私も数年前まではそんなことは神様が決めてくださることで、私にはわからないなどと公言していたような罪深い者でありました。けれどもそのようなことを言うのは、神様の言葉、約束を疑うことになるわけです。ヨハネの福音書19章30節に、十字架にかかられた時のイエス様のみことばがあります。
イエスは、酸いぶどう酒を受けられると、「完了した。」と言われた。そして頭をたれて、霊をお渡しになった。(ヨハネの福音書19・30)
「完了した」とは何を完了したのでしょうか。それは、イエス様の十字架による贖いの御業によって、私たちの罪の赦しが完了した、過去の罪だけでなく未来に犯すであろう罪も、すべての罪の赦しがイエス様の十字架の御業によって完了した、という意味であります。このイエス様の十字架の犠牲はただ一度限りで永遠に有効なのであります。ですから、すべての罪はこの場所で完全に始末されたのです。罪は一つ残らずここで処理されました。ローマ人への手紙6章11節で、
このように、あなたがたも、自分は罪に対しては死んだ者であり、神に対してはキリスト・イエスにあって生きた者だと、思いなさい。(ローマ人への手紙6・11)
と書かれているのは、それを指しているわけであります。
つぎに、使徒の働き10章15節を開いていただきたいのですが、ここでは神様が、
神がきよめたものを、きよくないと言ってはならない。(使徒の働き10・15)
とはっきりおっしゃっています。私たちはイエス・キリストの十字架によって神様に清められている、と神様がおっしゃっているにも拘らず、いいえ、私にはまだ罪が残っていますから清くありません、と言ったとしたらどうなるでしょうか。これは神様のおっしゃったことを無視して、自分自身の考えを主張していることであり、これこそが罪なのであります。ですから、イエス様を信じ受け入れた私たちキリスト者は、SINをSONにしてくださったこの神様の恵みに感謝こそすれ、一点も疑ってはならないのであります。ヨハネの手紙第一5章1節をお開きいただきたいのですが、
イエスがキリストであると信じる者はだれでも、神によって生れたのです。
そして18節に、
神によって生れた者はだれも罪の中に生きないことを、私たちは知っています。神から生れた方が彼を守っていてくださるので、悪い者は彼に触れることができないのです。(ヨハネの手紙第一5・1、18)
神から生れた方、すなわちイエス様が私たちを守ってくださるから、悪魔さえ私たちに触れることが出来ないということを、ここにはっきりとヨハネを通して神様が約束してくださっているのです。同じく、ヨハネの手紙第一3章9節には、
だれでも神から生れた者は、罪のうちを歩みません。なぜなら、神の種がその人のうちにとどまっているからです。その人は神から生れたので、罪のうちを歩むことができないのです。(ヨハネの手紙第一3・9)
とあります。これらの聖書のことば、すなわち神の言葉を通して、私たちはいったん神の子とされたならば、全く罪から解放されていることを知るのです。罪から解放されていれば、私たちはこの世のいのちが終わった時、ただちに天国に行くことが出来るのです。そのような素晴らしい恵み、素晴らしい約束を私たちはいただいているのですからどうかまだ神様をご存じない方は、素直に神様のこの約束を信じて、一日も早くSINからSONへ、罪から解放されて神の子になっていただきたいと思います。