私達の国籍は天にあります(1987年)
すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます。わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです。(マタイの福音書11・28~30)
このところ続いて、聖書のなかでイエス様が語られた有名なみことばについて、ご一緒に考えてまいりました。今日も聖書のなかでイエス様ご自身が話された最も有名なみことばの一つについて、しばらく考えてみたいと思います。それはマタイの福音書11章28節から30節に書かれています。
これは、とても有名な箇所でありまして、キリスト者は皆知っていると思いますが、よく読んでみますとイエス様が驚くべきことをおっしゃっていると感ぜざるをえないのであります。28節を見ますと「わたしのところに来なさい。わたしが休ませてあげます」とおっしゃっています。いったい今までに誰がこんな呼びかけをしたでしょうか。この世の偉人、賢人、あるいは聖人といわれている人たちもこのような呼びかけはしなかったのではないかと思います。もししたとしても、その言葉通りにまことの休息ほんとうの安らぎを与えることは出来ないはずであります。
このような呼びかけをするイエス様とは誰だろう、いったい何の権威をもってこんな呼びかけをすることが出来るのだろう、という疑問をお持ちになっても当然であり、おかしくないのです。ここですぐに答えを申しあげますと、イエス様は神であるから、神の権威をもってこの呼びかけをされたということです。イエス様が神であるということは、聖書のいたる所に書いてあるのですが、神でありながら私たちを救うために人となって神の座から降りて、この世界に来てくださった方なのであります。
私たちが神という時、すぐに日本の神々や、ギリシャ、ローマの神々を思い浮べますが、イエス様という神様は、そのような人間が作った偶像の神々とは全く違って、私たち人間を含めて宇宙万物を造られた方であり、造られただけではなく、それらを支配しておられる、「アルファでありオメガである」とご自身がおっしゃっておられるように、初めから終わりまで、永遠から永遠にわたって存在し、生きて働かれるまことの神、聖書で私たちにご自身を現しておられる神なのであります。
今、私が申しあげましたことが聖書の中のコロサイ人への手紙1章15節から20節に書かれておりますので、お読みいたします。
御子(イエス様)は、見えない神のかたちであり、造られたすべてのものより先に生れた方です。なぜなら、万物は御子にあって造られたからです。天にあるもの、地にあるもの、見えるもの、また見えないもの、王座も主権も支配も権威も、すべて御子によって造られたのです。万物は、御子によって造られ、御子のために造られたのです。御子は、万物よりも先に存在し、万物は御子にあって成り立っています。
また、御子はそのからだである教会のかしらです。御子は初めであり、死者の中から最初に生れた方です。こうして、ご自身がすべてのことにおいて、第一のものとなられたのです。なぜなら、神はみこころによって、満ち満ちた神の本質を御子のうちに宿らせ、その十字架の血によって平和をつくり、御子によって万物を、ご自分と和解させてくださったからです。地にあるものも天にあるものも、ただ御子によって和解させてくださったのです。(コロサイ人への手紙1・15~20)
このようにイエス様は神の御子ですから、神であります。そして父なる神様は御子イエス様によって天地を造られた、とここではっきり書いてあります。ですからイエス様は天地を造られた方であります。その神であるイエス様が権威と愛をもって、「わたしのところへ来なさい。休ませてあげます」と呼びかけてくださっているのであります。
はるかに遠い天から私たちに「来なさい」とおっしゃっているのではなくて、私たちの近くへ、この地上へ降りて来て、「来なさい」と言ってくださっているのであります。イエス様は「見よ、わたしは、世の終わりまで、いつもあなたがたとともにいます」とマタイの福音書28章20節でおっしゃっています。またヨハネの黙示録の3章20節で「わたしは、戸の外に立ってたたく」と言っておられますように、イエス様は目には見えませんけれども私たちのすぐ側におられるのです。
ではイエス様が呼びかけておられる対象は誰でしょうか。誰に対してイエス様は呼びかけていらっしゃるのでしょうか。疲れている人、重荷を負っている人すべてに対してなのであります。
ですから、自分で人生の勝利者であると思っている人たち、すなわち、才能とか財力、権力、名声、あるいは健康などを誇って、この世のもので満ち足りている人たちに対してイエス様がおっしゃっているのではなくて、この世のものを追及すればするほどそれらは空しいと感じている人、あるいは、まことの価値のあるものを求めながら、それがこの世のものの中にはないことを悟った人、自分の努力の限界や、弱さ、無力さ、愚かさが骨身にしみている人、また身体的、精神的、経済的、あるいは社会的な負担にうちひしがれて苦しみ悩んでいる人、このような人々すべてに対してイエス様が「来なさい」と言っておられるわけであります。
伝道者の書の2章20節、22節、23節をお読みいたします。
私は日の下で骨折ったいっさいの労苦を思い返して絶望した。実に、日の下で骨折ったいっさいの労苦と思い煩いは、人に何になろう。その一生は悲しみであり、その仕事には悩みがあり、その心は夜も休まらない。これも、またむなしい。(伝道者の書2・20、22、23)
伝道者の書は「ソロモンの栄華」という言葉でよく知られている、ソロモン王によって書かれた聖書の中の有名な書であります。彼はこの世で栄華の限りを尽くした王様でありましたが、それだけでなく、非常な英知をも神様から与えられていた人でありました。そのうえに、彼は大変な努力の人であったことが聖書に記されております。そのようにおよそ人間がこの世で持ち得るすべてのものを持っていたソロモン王は、この世に人の心をほんとうに満たすものがあるかどうかを知るために、そのたぐいまれなる知恵や知識をすべて使い、あらゆることに努力し、すべての快楽をも味わってみたのです。その結果、彼が知ったことがこの箇所に記されているわけであります。
この世には目に見えるものだけに心が奪われている人々、この世のことにだけ夢中になっている人々がいます。そのような人にはイエス様の呼びかけは聞こえません。けれどもこのような人々も、いったん自分が心奪われていたものがまったく空しいことに気がついた時、また人生の重荷を強く感じ始めた時には、自分の無力さ、愚かさを知るようになります。そしてその時こそ、かたくなな自我が砕かれて神様に対して固く閉ざされていた心の扉が開かれて来るのであります。その人が、自分が誇っていた城が崩れるのを体験した時に、「私は無力です、神様助けてください」と神を呼び求めることが出来るようになるのであります。そしてその時こそ、イエス様の呼びかけてくださる声が心に聞こえるようになって来るのです。
イエス様はマタイの福音書の9章12、13節でも、「医者を必要とするのは丈夫な者ではなく、病人です。わたしは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くために来たのです」とおっしゃっています。確かに医者を必要とするのは丈夫な人ではなく病人です。しかし、このみことばの意味は健康だと思っていても、実は皆病人である、また自分は正しいと思っているだけであって人間は一人として正しい者ではないということなのです。正しいと自分で思いこんでいるような人はイエス様に対して耳を開こうとしないわけですね。そのことが、ここにはっきりと書かれているのです。
では、いったい、人生に疲れとか重荷をもたらす原因は何か、その根本的な原因について考えてみましょう。神様は人間を造られた時にご自分に似た姿を与えてくださいましたが、それは人間をご自分と一番近い存在として扱いたい、言い替えれば、子どものようであって欲しいという思いをもってお造りになりました。そのようにして、愛の対象として造った人間が、神様を愛し敬い、子が親に従うようにご自分に従うことを期待していらっしゃったのであります。ところが、神様によって造られた最初の人間であるアダムとエバはこの神様の愛に背いて、神様ではなく自分自身を愛し、自分の欲望に従うようになってしまったのです。ご存知のことと思いますが、神様から「これだけは食べてはいけない」と言われた善悪を知る木の実を食べてしまい、エデンの園から追放されたのであります。その結果どうなったかということを創世記から少しお読みしましょう。神様は、
女にはこう仰せられた。「わたしは、あなたのみごもりの苦しみを大いに増す。あなたは、苦しんで子を産まなければならない。」また、アダムにこう仰せられた。「あなたが、妻の声に聞き従い、食べてはならないとわたしが命じておいた木から食べたので、土地は、あなたのゆえにのろわれてしまった。あなたは、一生、苦しんで食を得なければならない。あなたは、顔に汗を流して糧を得、ついに、あなたは土に帰る。」(創世記3・16、17、19)
とおっしゃったのです。
すなわち、人間は、出産の苦しみ、労働の苦しみ、生活の苦しみあるいは不安、そのうえ死に対する恐れと悲しみ、こういったものが神様に背いた結果与えられたわけです。これが、人生の疲れとか重荷の根本の原因になっている、神様に背いた罪の結果なのです。ですからこの罪の解決がなければ、人生の疲れや重荷から解放されて真の平安を得ることは出来ないのであります。そしてイエス様はまさにこのような人間をあわれんで、その罪から救い出すためにご自身が人の姿をとってこの地上まで来てくださり、私たちの代わりに罪を負って十字架で死んでくださったのであります。ペテロの手紙第一2章22節から25節までお読みします。
キリストは罪を犯したことがなく、その口に何の偽りも見いだされませんでした。ののしられても、ののしり返さず、苦しめられてもおどすことをせず、正しくさばかれる方にお任せになりました。そして自分から十字架の上で、私たちの罪をその身に負われました。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるためです。キリストの打ち傷のゆえに、あなたがたは、いやされたのです。あなたがたは、羊のようにさまよっていましたが、今は、自分のたましいの牧者であり監督者である方のもとに帰ったのです。(ペテロの手紙第一2・22~25)
とペテロを通してイエス様がおっしゃったように、罪を犯したことのない神であるイエス様が、私たちのためにほんとうに柔順に、柔和に、心やさしく、へりくだって、まさに十字架の死にまでもご自分を低くしてくださり、私たちの罪を身に負って解決してくださったのであります。ですから、先ほどの「わたしのところに来なさい。わたしが休ませてあげよう」という言葉を真実をもって言うことの出来るのは、ただ一人イエス様だけなのであります。
その呼びかけに答えてイエス様のもとに行った時に、私たちは今まで知らなかった、神に背いていたという罪の大きさとその報いの恐ろしさ、つまりこの世の一時的な苦しさとは比べようもない死後の裁きによる永遠の苦しみ、この恐ろしさに目が開かれて慄然(りつぜん)とするのであります。そして自分自身が負わなければならなかったそのような恐ろしい罪の報いを代わって身に負ってくださったイエス様の深い愛を知り、初めて自分の罪を悔い改めイエス様を救い主として受け入れることが出来るようになるのです。
このような驚くべき愛をもって、私たちの罪を赦してくださったイエス様は、さらに十字架の死の三日後によみがえってくださり、信じる私たちにもよみがえりのいのち、永遠のいのちを与えてくださったのであります。このことによって、私たちキリスト者はこの世のいのちが終わると、ただちに天国に入ることが許されております。イエス様の復活はたくさんの証人によって歴史的に裏付けられており、イエス様が神であられることをはっきり事実として私たちに証明しているのです。
そして私たちがイエス様を受け入れた時、ほんとうに深い平安が心の奥に与えられます。これは、イエス様を信じる者にイエス様が与えてくださる平安であります。これもよく知られている箇所ですが、ヨハネの福音書14章27節に、
わたしは、あなたがたに平安を残します。わたしは、あなたがたにわたしの平安を与えます。わたしがあなたがたに与えるのは、世が与えるのとは違います。あなたがたは心を騒がしてはなりません。恐れてはなりません。(ヨハネの福音書14・27)
世が与える平安とは違うイエス様ご自身の平安、それを与えるとおっしゃっております。いつかは過ぎ去る、限りのあるこの世の平安ではない神様の平安を、信じる者に与えると約束してくださっているのです。それはイエス様がいつも私たちと共にいてくださり、支えてくださり、慰めてくださることによって与えられる平安であり、永遠に続く平安であります。
この世には疲れ、苦しみ、重荷にあえぐ人たちと、人生が楽しく、得意になって暮らす人たちという全く対照的な二通りの人たちがあります。なぜでありましょうか。イエス様は、ルカの福音書6章20節から26節の間でこのようにおっしゃっておられます。
イエスは目を上げて弟子たちを見つめながら、話しだされた。「貧しい者は幸いです。神の国はあなたがたのものですから。いま飢えている者は幸いです。あなたがたは、やがて飽くことができますから。いま泣いている者は幸いです。あなたがたは、いまに笑うようになりますから。
しかし、富んでいるあなたがたは、哀れな者です。慰めを、すでに受けているからです。いま食べ飽きているあなたがたは、哀れな者です。やがて、飢えるようになるからです。いま笑っているあなたがたは、哀れな者です。やがて悲しみ泣くようになるからです。みなの人にほめられるときは、あなたがたは哀れな者です。彼らの先祖は、にせ預言者たちをそのように扱ったからです。」(ルカの福音書6・20~26)
ここを読みますと、貧しい人、飢えている人、泣いている人は神様によって愛されている人であることがわかります。ではなぜ愛されている人々が悲しんだり、苦しんだり、泣いたりしなければならないのでしょうか。それは神様がその人たちを滅びから救い出そうと、ご自分に目を向けさせるために彼等の心を砕いてくださっているからなのです。その人たちは神様が多くの人の中から選び出してくださった人々なのであります。エペソ人への手紙1章4節から11節にそのことが書かれておりますのでお読みいたします。
神は私たちを世界の基の置かれる前からキリストのうちに選び、御前で聖く、傷のない者にしようとされました。神は、ただみこころのままに、私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定めておられたのです。それは、神がその愛する方によって私たちに与えてくださった恵みの栄光が、ほめたたえられるためです。
私たちは、この御子のうちにあって、御子の血による贖い、すなわち罪の赦しを受けているのです。これは神の豊かな恵みによることです。神はこの恵みを私たちの上にあふれさせ、あらゆる知恵と思慮深さをもって、みこころの奥義を私たちに知らせてくださいました。それは、神が御子においてあらかじめお立てになったご計画によることであって、時がついに満ちて、この時のためのみこころが実行に移され、天にあるものも地にあるものも、いっさいのものが、キリストにあって一つに集められることなのです。このキリストにあって、私たちは彼にあって御国を受け継ぐ者ともなったのです。私たちは、みこころによりご計画のままをみな実現される方の目的に従って、このようにあらかじめ定められていたのです。(エペソ人への手紙1・4~11)
このように、私たちが救われて神の子とされることは、我々の生れるはるか前から神様のご計画の中に予め定められていたということがわかります。何という奥深い壮大なご計画であり、お恵みでありましょうか。
イエス様は黙示録3章19節でこう言っておられます。
わたしは、愛する者をしかったり、懲らしめたりする。だから、熱心になって、悔い改めなさい。(ヨハネの黙示録3・19)
まことに深いイエス様のご配慮であります。ですから神様から愛されている人はほんとうに幸せであります。その人は今苦しみや悲しみを通してイエス様の呼びかけに心の耳が開かれて応答することが出来、その重荷をイエス様のもとに下ろすことが出来るからです。ローマ人への手紙8章28節にこのように書かれております。
神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。(ローマ人への手紙8・28)
神のご計画に従って召された人々、つまり、イエス様を信じる人々のためには、すべてのこと、それが苦しみであろうと悲しみであろうと、いかなることであっても、神様は愛をもって益と変えてくださる、その人にとってほんとうの幸せにつながることとしてくださるのであります。
しかしこうして神様を信じ、罪赦されても、私たちは肉体を持ってこの地上に生きている間は、気づきながら、あるいは気づかずに自分中心に判断したり行動したりしてしまうという、人間の弱さを持っております。けれども罪赦されてもなお罪を犯してしまうような私たちであることを、イエス様は初めからご承知のうえで救ってくださったのであります。そして一度罪を赦された者はもう罪に問われることがないのです。神様の約束に嘘、偽りはありません。テモテへの手紙第二2章13節に、
私たちは真実でなくても、彼(イエス様)は常に真実である。彼にはご自身を否むことができないからである。(テモテへの手紙第二2・13)
と書かれております。私たちは一人残らず不真実な者であります。真実であろうと思ってもそれが出来ない。しかしイエス様には一点の曇りもなく、ご自分をすら否むことがお出来にならないほど、絶対的に真実なお方なのであります。「イエス・キリストはきのうもきょうもいつまでも変わらない」と言われておりますように、永遠に真実なお方ですから、その方の約束は決して変わらないのです。ヘブル人への手紙10章17節に、
わたしは、もはや決して彼らの罪と不法とを思い出すことはしない。(ヘブル人への手紙10・17)
とイエス様ははっきりと約束しておられます。ご自分のいのちに代えて赦してくださった私たちの罪は、イエス様によっても、父なる神様によっても思い出されることはもう決してないのであります。また罪赦された罪人にしかすぎない我々のために、イエス様はなおも重荷を負ってくださり、私たち自身さえも負ってくださっているのです。イザヤ書46章3節から4節を開いてみましょう。
わたしに聞け。胎内にいる時からになわれており、生まれる前から運ばれた者よ。あなたがたが年をとっても、わたしは同じようにする。あなたがたがしらがになっても、わたしは背負う。わたしはそうしてきたのだ。なお、わたしは運ぼう。わたしは背負って、救い出そう。(イザヤ書46・3~4)
私たちは少しも知りませんでしたし、気もつきませんでした。けれどもイエス様は私たちが生れる前からになってくださり、しらがになってまでも背負ってくださる方であり、そのように私たちを、どんな時でも、私たちが忘れているときでも、一緒にいてくださり、このように考えられないような愛をもって愛してくださる方なのであります。このイエス様に対して、私たちは、
ほむべきかな、日々、私たちのために、重荷をになわれる主。私たちの救いであられる神。(詩篇68・19)
と感謝せざるを得ないのです。
最初のマタイの福音書11章29節、30節に戻りまして、ここでイエス様がおっしゃっているのはどういうことなのかを考えてみたいと思います。「わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます。わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです」とあります。ここで言われておりますくびきというのは、荷車や鋤(すき)などを引かせるために牛や馬の首にかける横木なのです。私たちはよくこの世のくびきは重いなどと申しますけれども、確かに私たちは重荷を負って、牛や馬のように、それを引張って人生を歩んでおります。この世のくびきはほんとうに重いのですけれども、イエス様に救われた者はこの世の重いくびきをイエス様に取り除いていただいて、ここに書いてありますようにイエス様のくびきを負わせていただくわけですね。イエス様のくびきは軽いのです。その軽いくびきを負ってイエス様と共に人生を歩む、イエス様と共に生きる、これが私たちキリスト者の生活であります。その軽いくびきとはどんなものでしょうか。それは心優しくへり下だっておられるイエス様のくびき、すなわち、柔和と謙遜(けんそん)のくびきであります。イエス様がどれだけ謙遜(けんそん)であられたかということをイザヤ書53章4節から8節までの箇所から見てみたいと思います。
まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みをになった。だが、私たちは思った。彼は罰せられ、神に打たれ、苦しめられたのだと。
しかし、彼は私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。私たちはみな、羊のようにさまよい、おのおの、自分かってな道に向かって行った。しかし、主は、私たちのすべての咎を彼に負わせた。
彼は痛めつけられた。彼は苦しんだが、口を開かない。ほふり場に引かれて行く小羊のように、毛を刈る者の前で黙っている雌羊のように、彼は口を開かない。しいたげと、さばきによって、彼は取り去られた。彼の時代の者で、だれが思ったことだろう。彼がわたしの民のそむきの罪のために打たれ、生ける者の地から絶たれたことを。(イザヤ書53・4~8)
このように、私たちのためにイエス様は柔和と謙遜(けんそん)の限りを尽くして、十字架にかかってくださったのであります。救われた私たちもこのイエス様のようにへりくだって、柔和と謙遜(けんそん)のくびきを負いながらこの世の人生を歩むようにとイエス様は望んでおられます。そして我々がこのくびきをイエス様と共に負うとき、常にたましいに平安が、そして安らぎが与えられます。何故ならばイエス様の与えられる平安は神の国の平安であり、神の国が平安であるのは、そこではすべてが神の御心によって支配されているために、すべてが柔和であり謙遜(けんそん)であるからであります。イエス様と共に負うこの柔和と謙遜(けんそん)のくびきは、ほんとうに軽くて負いやすく、どんなに弱い人でも負うことが出来ます。むしろ弱い人ほど負いやすいのではないかと思うのです。このくびきが重くて負いにくいと思う人は、自我とか、ごう慢とか、高ぶりなどというものをたくさんこのイエス様の軽いくびきに自分でつけてしまっているから重く感じるのではないでしょうか。
ところで現代人の最も嫌うものはくびきなのです。人々はすべてのくびきから、すべての束縛から逃れようとします。そしてそれが自由だと思い込んでいます。けれども、その人は哀れにも永遠のいのちと平安を得ることの出来る神様の一番軽いくびきを捨てて、滅びに至るこの世の重いくびきに縛られていることに気がつかないのであります。人生の悲しみ、苦しみなどすべての悩みは、先ほども申しあげましたように、最初の人アダムとエバが神様の最も軽いくびきを捨てたことに始まったわけです。しかし、一度失われた人間のほんとうの幸福、あるいは神の子としての特権を回復してくださるために、今、私たちに神様のあわれみと恵みによってその神様のくびきがもう一度差し出されているのであります。
では、私たちはそれを受けるのに、何かふさわしいことをする必要があるでしょうか。何もありません。ただへりくだって、感謝して神様の恵みを受けるだけでよいのです。何故ならそれが神様の最も喜ばれることだからであります。
「人生の重荷を負ってあえいでいるあなたは、わたしのところに来なさい。わたしがまことの休息を、やすらぎを与えましょう。そして、柔和と謙遜(けんそん)のくびきを負って、わたしと共に歩みましょう。このくびきは軽く快く、心にほんとうの平安を与えます」とイエス様はあなたに呼びかけていらっしゃいます。あなたの心の戸のすぐ外で、あなたの側に立って呼びかけていてくださるのです。イエス様は柔和で謙遜(けんそん)な方でありますが、あなたが自分の手で心の戸を開けない限り、あなたが自分の足でイエス様の前に立たない限り、神の権威であなたの所に無理に押し入って来ようとはなさいません。イエス様はあなたが、あなた自身の意志でご自分の所に来られることを、心の扉を開かれることを望んでいらっしゃるのです。
今日初めて話をお聞きになった方もあると思いますが、イエス様の前に行くのに聖書の知識はいりません。いくら神学を勉強しても、それでイエス様が救い主であるということを頭ではなく、心で受け入れることは難しいのです。ただ素直にイエス様の呼びかけに答えて、今のままの姿であなたがイエス様の前に出られることだけをイエス様は望んでおられます。その時にイエス様は約束通り、まことの安らぎを与えてくださいます。イエス様はあなたのすぐ側でそれを切に待っていらっしゃることをどうか知っていただきたいと思います。