医者に治せない病気(1996年)

退任講演 若き日に汝の造り主を覚えよ

――医学・医療の立場から――

一九九三年二月・東海大学医学部講堂に於て

私が退任講演にこのような題名を選んだことに、多くの方は大変奇異な感をお持ちになったと思います。というのは、このような時には、ふつうは自分の専門領域について、特に自分の研究の歩みについて紹介するのが慣わしだからです。しかし、私があえてこの演題を選んだのは、医学を学ぶ者、医学の研究や臨床に携わる者が、それぞれの道を歩む際の正しい指針として、私たちの造り主を覚えることの重要性を知っていただくことのほうが、ここで私自身のささやかな研究業績をご紹介するよりも、はるかに有意義だと確信したからです。これから与えられたしばらくの時間、私たち医学・医療に携わる者が日常深く関わっている、人のいのちの問題、病気や健康の問題、環境の問題について、神からの啓示として人間に与えられた、神のことばである聖書を通して光を当てて、これらの問題の持つ意味を、すなわち人間のいのちとは何か、生きることとは何か、また、病気や健康とは何か、環境破壊とは何か、医学・医療とは何かを、ごいっしょに考えて行きたいと思います。


創造主


医学を学ぶ者は、人間の構造や機能を知れば知るほど、このような精緻な構造、機能を持つ生命有機体は、いったい、どのようにして造られたのであろうかと、思わざるを得ません。故松前重義総長は、昭和四十八年四月に、人体科学博物館が清水市三保に開館したことを記念して、『人は何処より来り何処に行かんとするのか』という言葉で始まる詩を作っておられます。故総長直筆のこの詩のレリーフは、現在、同博物館内に掲げてありますが、その詩の中で先生は


人々よ

 見よ 人体構造の神秘を

 見よ この作品の微妙さを

 見よ つくられたるものの限りなく人の力に越ゆるを

 見よ この偉大なる造物主の力を


と創造の主である神を認めて、その偉大さを賛美しておられます。聖書を愛読し、また科学者でもあった故総長は、生命の神秘に目を向けた時に、素直にこれを神の創造の業として受け入れ、このように創造主を恐れ、かつ賛美されたのです。


神は、聖書のことばを通して、ご自身の考えや意志、栄光を現されますが、その聖書に


あなたの若い日に、あなたの創造者を覚えよ。わざわいの日が来ないうちに。(伝道者の書12・1)


ということばがあります。ここで言っている「若い日」というのは、単に年齢的な若さという意味ばかりではなく、明日よりも今日がより若い、すなわち一日でも若いうちに、という意味でもあります。医学・医療従事者にとって、人間を創造した神を知ることが特に必要である理由は何でしょうか。それは、私たちがこの神によって造られた人間のいのちを預かっているところにあります。


人のいのちの尊厳とは


私たちは、よく人のいのちの尊厳ということを言います。医の倫理の基本理念は、人のいのちの尊厳性を尊重することであります。では、なぜ人のいのちは尊いのでしょうか。これについて人は答えられません。しかし、聖書は、その理由について明快に、それは人が神に応答する者として造られたからであると言っています。


聖書には


神である主は、土地のちりで人を形造り、その鼻にいのちの息を吹き込まれた。そこで、人は、生きものとなった。(創世記2・7)


とあります。土地のちりとは、有機や無機の物質を指し、人の中に入った神の息とは、霊、平たく言えば神から与えられた良心と言われるものです。聖書の同じく創世記には、神が魚や鳥、爬虫類や哺乳類などの動物を造られた様子も書かれていますが、神はこれらの動物を造られた時には、人間のようにいのちの息を吹き込まれませんでした。動物と人間との違いはここにあります。動物も生き物ですが、ここで特に、「人は生きものとなった」と言っているのは、神から与えられている生存本能や種を保存する本能だけで生きている動物と異なって、神と応答して生きることこそが人間であるという意味なのです。この霊、良心が正しく機能している時、人は創造主の神を恐れ、その神の意志に従って生きることが正しいことであり、善いことであることがわかります。正しい道徳的、倫理的な判断をすることができます。また、宇宙や自然―これらも神によって造られたものですがを通して創造主の神を思い、永遠を思い、人とは何者であり、何処から来て何処に行くのかと思うようになります。


聖書には


あなたの指のわざである天を見、あなたが整えられた月や星を見ますのに、人とは、何者なのでしょう。あなたがこれを心に留められるとは。人の子とは、何者なのでしょう。あなたがこれを顧みられるとは。あなたは、人を、神よりいくらか劣るものとし、あなたの御手の多くのわざを人に治めさせ、万物を彼の足の下に置かれました。(詩篇8・3~6)


とあります。このように、神は宇宙万物を造られ、その管理をご自分と応答できるようにお造りになった人間にゆだねられたのです。


神の秩序とそれを乱すもの


以上のように、神は神の秩序にもとづいて宇宙万物を造られ、それらは神の秩序にもとづいて整然と動いています。私たちは天体の運行や、自然界におけるエコシステムなどを通して、それを知ることができます。神によって創造された世界は完全でした。神は人間に対しても神の秩序に従うことを要求されます。神が造られた最初の人アダムに対しても神は、神の秩序に従うように求められました。ところが、神の命令にアダムは服従せず、自分の欲に従ってしまったのです。アダムのこの不服従は、創造主である神に逆らって神でもない自分自身を神として、これに仕えたことを意味します。聖書で言う罪とは、まさにこのことであります。そして、人間が自分を神から引き離して自分自身を神としたということは、すなわち神の創造された秩序を乱したことになり、その結果神によって造られたこの完全な世界は、罪ある者となった人間の誤った支配によって、荒らされ、汚され、不完全なものになってしまったのです。そして、神の秩序のもとに整然と働いていたエコシステムも、自分を神とした人間のわがまま勝手なふるまいのために破壊されつつあるのです。


環境破壊の根本原因


今日、地球の温暖化、砂漠化、森林特に熱帯雨林の減少、土壌と海洋の汚染、酸性雨、オゾン層の破壊、野生生物の種の絶滅などの現象を通して見られる地球環境の破壊は、類の生存に関わる大きな問題として、先進国、途上国を問わず、すべての国で対応策を積極的に進めなければならないところにまで来ています。有名な「蓮の葉のクイズ」というのがあります。池に蓮の葉が浮いています。葉の面積は日ごとに二倍になります。葉が池の全面を覆ってしまうと、池に生息している魚や他の生物はすべて窒息死してしまいます。もし、蓮の葉が三十日目に池の表面を覆いつくしてしまうとすれば、池の面積の半分が覆われるのは何日目になるか、というのがクイズの問題です。答えは何と驚くべきことに、前日の二十九日目です。現在の地球環境の破壊の状況は、この「蓮の葉のクイズ」に似ています。池が半分覆われるのに二十九日もかかるのなら、残り半分が覆われるのはまだまだ先と錯覚しがちですが、実際には破局は翌日に迫っているのです。


国境を越えて、地球規模で進む環境破壊を防止するには、もはや、これまでのように各国がばらばらに対応しても効果は望めません。昨年の六月に、リオデジャネイロで「地球環境サミット」が開催された目的もそこにありました。地球環境破壊の原因は、窒素酸化物、二酸化硫黄、二酸化炭素あるいはクロロフルオロカーボン、いわゆるフロンなどの大気中への排出増加、有害廃棄物の増加、農薬の乱用、森林特に熱帯雨林の乱伐採などとされています。しかし、これらは皆、表面的な原因に過ぎません。環境破壊の根本原因は、神の秩序を無視し、生産と消費を限りなく拡大し続ける人間の、とどまるところを知らない自己中心の欲にあるのです。今までよりも、あるいは人よりも、より豊かに、より快適にと、限りなく求め続ける私たち人間は、この環境破壊を抑えるために、生産と消費の縮小について、どれだけ真剣になれるでしょうか。たとえば、もしある国の政府が、環境破壊防止の目的から、経済成長をマイナスに抑え、耐乏生活を国民に強いるという政策を打ち出したとしたら、人々はこの政策を支持し、協力するでしょうか。たちまち反対され、つぶされてしまうでしょう。また、ごく身近なところでも、エネルギー削減と排気ガス減少の目的で設けられたノーカーデイに、私たちはどれだけ熱心に協力しているでしょうか。現実は、むしろノーカーデイのほうが走っている車が多く、道路は渋滞しています。ふだんよりも渋滞が少なかろうと、車で出かける人がたくさんいるからです。地球サミットでも、結局各国の利害の対立のために、大した成果は得られずに幕を閉じました。ブラジルには地球最大の「緑の肺」と呼ばれる熱帯雨林アマゾンがあります。しかし、大気中の二酸化炭素を吸収し酸素を放出する重要な役割を持つこの貴重な地球の肺が、大規模な開発によって年々大幅に縮小しつつある事実は、人工衛星からの写真によっても明らかです。地球サミットではアマゾンの環境保全を求めましたが、ブラジル政府は、アマゾンの開発は自国の問題としてその要求を拒否し、依然としてさかんに開発を続けています。また、アメリカ政府は、サミットで提案された地球の温暖化防止のために世界各国が守るべき二酸化炭素濃度排出基準を、自国の経済発展を阻害するという理由で受け入れに反対しました。このように、自分さえ良ければ、自分の国さえ良ければいいのだという自己中心の思いが、地球環境破壊の根本原因なのであります。したがって、すべての国のすべての人間が利己中心こそ環境破壊の原因であることに目覚め、地球とそこにあるすべてのものは、神から人間にその管理をゆだねられている大切なものであることを自覚し、これまでの人間の身勝手さを心から悔い改めて、環境保全を最優先課題として取り組まない限り、地球環境の破壊は止まるどころか、「蓮の葉のクイズ」の通りに加速度的に進むことは間違いないでしょう。


AIDS出現の理由


人間が神から離れた結果として、人間自身は不完全になり、神が吹き込まれた霊は正しく働かなくなってしまいました。その人間にもたらされたものは混乱と死であります。神から離れ、神が造られた秩序に逆らって自分を神とした人間はどうなったでしょうか。聖書は次のように言っています。


彼らは、自分では知者であると言いながら、愚かな者となり、女は自然の用を不自然なものに代え、同じように、男も、女の自然な用を捨てて男どうしで情欲に燃え、男が男と恥ずべきことを行なうようになり、こうしてその誤りに対する当然の報いを自分の身に受けているのです。(ローマ人への手紙1・22、26~27)


AIDSの流行が同性愛者から始まったことに私たちが思いを致した時、この恐るべき病気は、神の秩序を乱した人間に対する神の警告の一つの現れと考えざるを得ません。


CRIMEとSIN


私は、今まで罪という言葉を何回か使いましたが、ここでこの言葉について少し説明したいと思います。日本語には罪という言葉は一つしかありませんが、英語には罪という言葉は二つあります。一つはCRIMEという言葉で、人に対して犯す法律的な罪を意味し、もう一つはSINという言葉で、いわゆる道徳的な罪であり、つきつめれば神に対する罪を意味します。このSINというスペルをよく見ると、真ん中にIがあります。すなわち私、私をいつも中心に置く、神中心であるべきところに自分を置いていること、これがSIN、神に対する罪なのです。私たち人間は皆自己中心です。ということは、皆神に対する罪を犯していることになります。そして、そのような性質を基本的に持っているがために、目に見える形としてのCRIMEを犯すことにもなるのです。私たちはふつう、この目に見える形のCRIMEという罪しか意識しませんが、人のいのちに携わる者は特に、「自分は常に自分を中心に置いて考え、行動しがちな性質を持っている」ことを自覚し、絶えず自らを省みることが大切だと思います。


神との共働者


ここで私たちは以上のことを医学・医療に携わる者に向けてさらに考えてみたいと思います。先に述べたように、私たち医学・医療に携わっている者は、神によって造られた人のいのちを預かっています。最初、神によって完全な者として造られていた人間には、病気も苦しみもありませんでした。けれどもその人間が、神に背くという罪を犯したことによって不完全になったために、病気が生じたのです。そして、それをあわれまれた神の愛の一つの業として、人間に与えられているのが医学・医療です。神を信じていようといまいと、神は医学・医療に携わる者をご自分と共に働く者として、ご自分の愛の手として用いて病人を癒されます。十六世紀のフランスに外科の名医として知られたアンブラーズ・パレという医師がいました。パレは止血に血管結紮をはじめて取り入れた医師であります。その彼は『私は包帯をし、神が癒す』という有名な言葉を残しています。名医と言われた彼は、治療において主役は神であり、自分は単なる脇役に過ぎないことを自覚していたのです。


しかし、自分の力で、自分の腕で、病気を治せると自負している医師は少なくありません。これは言うなれば自分を神とする高ぶった態度です。医学知識と技術の進歩は、これまで治癒不可能な疾病の治癒を可能にするとともに、かつてないほどに人の生と死に深く介入するようになりました。自分を神とする医師や研究者が、この進歩した医学・医療技術を手にする時、人間のいのちの尊厳は侵害の危機にさらされます。近年、医の倫理に対する要望の声が高まっているのは、人々がこの不安と恐れを感じるようになって来たからです。人間は権力、富を手にすると、奢(おご)り高ぶって何か特別偉くなったような、特別の権威を持ったような気持ちになり、神を演じるようになります。自分は何でもできる、つまり神になったような錯覚を起こします。その結果は破滅です。「余の辞書に不可能という文字はない」と豪語したナポレオンを挙げるまでもなく、私たちはこのような人間を、過去にも現在もたくさん知っています。しかし、権力や富ばかりではありません。知的財産と言われるように、知識も同様です。


聖書に


知識は人を高ぶらせる。(コリント人への手紙第一8・1)


とあります。人間が知識を手に入れると高ぶるようになります。言うまでもなく、これは知識が悪いからなのではなく、知識を使う人間に問題があるからです。今日の進歩した医学知識・技術を手にすると、中には自分は人のいのちを、患者の死を左右できる権威を持っていると錯覚する者も出てきます。末期の患者に、患者本人の意思や苦痛も顧みずに、ただ延命だけの目的の治療処置を行うことも、また、末期の患者や家族に頼まれて、故意に患者のいのちを短縮する行為も、どちらも神を無視した高ぶりの罪であり、傲(ごう)慢の罪です。一九八三年の第三十五回世界医師会総会で採択された、末期疾患に関するベニス宣言の中では、「医師は、末期患者の苦痛から患者を解放するために、患者の合意を得て、苦痛緩和のための薬物投与以外の治療処置を中止することができる」と言っています。また、一九八七年の第三十九回総会で採択された安楽死に関する宣言では、「安楽死は、患者の生命を故意に絶つ行為であり、たとえ患者本人の要請、または近親者の要請にもとづくものだとしても、倫理に反する」とも言っています。これらの宣言は、いずれも患者のいのち、患者の死を左右できるような錯覚に陥りやすい医師に対する自戒から出たものであります。今月十日付けの新聞は、オランダ議会の下院が、医師が末期患者を積極的に安楽死させることを条件付き(患者が末期にあり、耐え難い痛みに苦しみ、死にたいと繰り返し訴えていることなど)で認める法案を、この二月九日に可決したと報道しました。今後、安楽死を巡る論議はますます活発になるでしょう。しかし、私たちは、死は神がその時を決定されるのであって、決して人が、医師が、決めることはできないことを承知していなくてはなりません。


聖書に


天の下では、何事にも定まった時期があり、すべての営みには時がある。生まれるのに時があり、死ぬのに時がある。(伝道者の書3・1~2)


とあります。人が生まれたり死んだりするのは、ただ神がご自身の権威によってなさることなのであります。


健康は最高善か


また私たち医学・医療に携わる者は、健康こそ最高に善きものであると信じ、それを目標にします。しかし健康は、はたして最高善でしょうか。ここに『病者の祈り』と題する一人の無名の患者の詩を紹介したいと思います。


病者の祈り

大事をなそうとして

力を与えてほしいと神に求めたのに

慎み深く従順であるようにと

弱さを授かった

より偉大なことができるように

健康を求めたのに

より良きことができるようにと

病弱が与えられた

幸せになろうとして

富を求めたのに

賢明であるようにと

貧困を授かった

世の人々の賞賛を得ようとして

権力を求めたのに

神の前にひざまずくようにと

弱さを授かった

人生を享楽しようと

あらゆるものを求めたのに

あらゆることを喜べるようにと

いのちを授かった

求めたものは一つとして与えられなかったが

願いはすべて聞きとどけられた

神の意にそわぬ者であるにかかわらず

心の中の言い表せない祈りはすべてかなえられた

私はあらゆる人の中で最も豊かに祝福されたのだ

(ニューヨーク・リハビリテーション研究所の壁に書かれた一患者の詩)


彼は力を求めたが代わりに弱さを、健康を求めたが代わりに病弱を、富を求めたが代わりに貧困を、権力を求めたが代わりに無力を与えられました。ふつうなら自分の不幸を嘆き悲しみ、自己憐憫(れんびん)に陥るか、あるいは他人をうらやみ、神を呪うのではないでしょうか。けれども、彼はその反対に、自分はあらゆる人の中で最も豊かに祝福された者であると言うことができたのです。これは、彼が病気の苦しみを通して自己中心の思い、願望が砕かれて、霊の目が開かれ、いのちの意味、生かされていることの意味を知ったからであります。


医学や生命科学は生命の、病気のメカニズムを解明するには大いに有用です。しかし、いのちの意味、病気の意味、健康の意味を、そこから知ることはできません。科学の領域は量の世界であり、一方、意味は質の世界、すなわち価値の領域に属するからです。それでは、いのちに、病気に健康に、人生に、すなわち物事に意味を与えるものは何でしょうか。それは、神との肯定的または否定的な関係です。神に従えば、すべての物事は意味を持つようになります。しかし神から離れれば、すべての物事は意味を失います。最近、医療の現場でQOL、クオリティ・オブ・ライフということが熱心に検討されています。私は、QOLには二つの要素が含まれていると思います。一つは、ライフという言葉を生活として把握した「生活の質」という意味であり、もう一つは、ライフをいのちとして把握した「いのちの質」という意味で、患者の幸福度、満足度の高低を言います。この詩を作った患者は、「生活の質」としてのQOLは高くはないでしょう。しかし、「いのちの質」としてのQOLは大変高いと言えましょう。このように、健康はそれ自体が目的ではありません。健康は、いのちそのものが意味を持つ限りにおいてのみ有意義なのであります。


高ぶる波はここで止まれ


生殖医学技術の進歩についても、この技術を臨床に適用するに当たっては、私たちは慎重でなければなりません。神が定められるべき人のいのちの誕生に、大きく介入することになるからです。ここで一つのエピソードを紹介しましょう。


ある一人の女性が、中絶をしてもらおうと産婦人科を訪れました。しかし、その女性には、中絶をしなければならないような医学的根拠は、何も見つかりませんでした。医師は彼女に中絶を思い止どまるように説得しましたが、どうしても承知しません。最後に医師は一言こう言いました。「あなたのお腹の中にいるお子さんが生まれたら、何と言う名前をつけますか」。彼女はこの思いがけない質問に驚いたようでしたが、しばらくしてから顔をあげて、はっきりと「先生、私はこの子を生みます」と答えました。いったいどんな変化が彼女の心の中に生じたのでしょうか。中絶のことを考えていた時には、お腹の中の子供は彼女にとってただの小さな細胞のかたまりに過ぎませんでしたが、名前は何とつけるかと聞かれた時、お腹の子は細胞の小塊から一人の人格を持った、いのちに変化したのです。このエピソードは、胚や胎児の取扱いについて、とかく安易に考えやすい私たち医療従事者や研究者に対しても示唆してくれるところは大きいのではないでしょうか。


一九八七年の第三十九回世界医師会において採択された、体外受精と胚移植に関する声明の中でも「医師は常に、このような処置によって生まれてくる子供の最善の利益に照らして行動しなければならない」、すなわち生まれて来るいのちの人格を尊重せよと言っています。また、遺伝子操作、遺伝子治療は、人の生殖細胞、つまり精子や卵子に加えてはならない、という約束が守られているのも、医学・医療に携わる者の心の底にある、うっかりすると過去にナチスが行った大きな過ち、すなわち人間改造に手をつけかねないという危機感、神の領域を犯すことに対する恐れが歯止めになっているためです。


一九八二年に、米国コールドスプリング・ハーバー研究所のバンベリーセンターで、遺伝子治療は将来どうあるべきか、何をなすべきかについての会議が開かれました。その時、小児科医であり分子生物学者でもあるセオドア・フリードマンは、「人に対して直接に遺伝子を操作することは、人間という存在をおびやかすことにならないだろうか。人間の種の自然な流れを変えることにならないだろうか。人類は、自らの遺伝的運命を勝手にデザインし、変更する重荷を引き受けるほどに十分賢いと言えるだろうか」という疑問を提起しています。


聖書で神はこう言っておられます。


ここまでは来てもよい。しかし、これ以上はいけない。あなたの高ぶる波はここでとどまれ。(ヨブ記38・11)


もし、生命科学の進歩に伴って、医学・医療に携わる者の好奇心がとどまるところを知らず、奢(おご)り高ぶる波となって人のいのちに迫るようになれば、人類は破滅します。神の警告を無視した報いが来ます。私の好きな聖書のことばは、


人がもし、何かを知っていると思ったら、その人はまだ知らなければならないほどのことも知ってはいない。(コリント人への手紙第一8・2)


であります。私はこのことばを、ともすれば高ぶりやすい私に対する神の戒めとして大切にしています。


主権者の神


これまでに述べてきた神は、単に創造の神にとどまりません。聖書で、神はご自分がどのような神かを私たちに明らかにしておられるので、ここでいくつかご紹介します。


わたしは初めであり、わたしは終わりである。わたしのほかに神はいない。(イザヤ書44・6)


わたしは全能の神である。(創世記17・1)


わたしはあなたをあなたの名で呼ぶ。(イザヤ書45・4)


わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。(イザヤ書43・4)


わたしは、高く聖なる所に住み、心砕かれて、へりくだった人とともに住む。へりくだった人の霊を生かし、砕かれた人の心を生かすためである。(イザヤ書57・15)


このように、神は全知全能にして永遠に生きておられるだけでなく、私たちを高価で尊いとまで言って愛してくださり、個人的に名を呼んでくださり、心砕かれた人とともに住んでくださる、人格を持った神であります。この神はキリスト教やユダヤ教などというような、いわゆる宗教の神ではありません。宗教は人間の考え出したものであり、したがって宗教の神は人間が造った神、何もできない偶像であるに過ぎません。しかし、ここで言う神は、人間が造った神ではなく、それとは逆に人間を造り、しかも愛してくださる神です。したがって主権は人間にあるのではなく神にあります。聖書の神は主権者の神です。聖書で神を主なる神と呼ぶのはこのためです。先ほどの松前重義先生の詩の冒頭に、「人は何処より来り何処に行かんとするのか」とありましたが、その答えは神が主権者であることを認めた時に与えられます。


主なる神は肉眼で見ることはできません。しかし、私たちが高ぶりを捨て、謙虚に自分が不完全な者、取るに足りないちっぽけな者であることを認めた時に、死んでいた霊の目が開かれて、その霊によって自分が神の前にいることを知ります。もし不完全な人間が、生ける全知全能の神の前に置かれていることを知った時、その者は神を恐れざるを得ません。


聖書に


造られたもので、神の前で隠れおおせるものは何一つなく、神の目には、すべてが裸であり、さらけ出されています。私たちはこの神に対して弁明をするのです。(ヘブル人への手紙4・13)


とある通りです。私は医学部に医の倫理委員会がつくられて以来、委員長を勤めさせていただいて来ました。これまでに倫理委員会で審議された案件は、いずれも人のいのちの尊厳に深く関わるものでした。倫理委員会では何が正しいか、正しくないか、どこまでならやって良いか、どこまでなら許されるかを判断することが求められます。しかし、不完全な人間である私にどうして間違いのない判断ができるでしょうか。私はいつも神に、「私には判断できません。どうか私にあなたのみこころを示してください」と祈って委員会に臨んで来ました。主なる神は私の祈りを聞いてくださって、その都度聖書のことばを通して正しい道を指示してくださいました。したがって私はただこの神に信頼し、聞き従うだけでよかったのです。


これまで私たちは、人のいのちの問題をはじめ、医学・医療に携わる者にとって日常深い関わりのあるいろいろの問題について、神のことばである聖書を通して光を当てて考えて来ました。人のいのちが尊いということに反対する人はだれもいないでしょう。しかし、現実にはそのいのちの尊厳性が守られていないのはなぜでしょうか。そのわけは、人のいのちのほんとうの意味を知らないからです。人のいのちが尊いわけは、私たちが創造者にして主権者の神を認め、その神の前に自分の高慢を捨ててへりくだった時に初めてわかるのです。


聖書に


主を恐れることは、知恵の初め。これを行なう人はみな、良い明察を得る。(詩篇111・10)


とあります。創造者であり、主権者である神をほんとうに知れば、人間は恐れざるを得ません。そして、私たち医学・医療に携わる者が、主なる神を恐れた時、神から与えられた知恵によって、人の知恵では判断できない、いのちの尊厳に関わる診療上、研究上の諸問題に対する正しい明察を得ることができるのです。医学・医療に携わる私たちに対する『若き日に汝の造り主を覚えよ』ということばの意味も、まさにそこにあるのであり、医の倫理の原点もまた、ここにあると信じる次第です。




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