医者に治せない病気(1996年)

ハイテク医療の中の生と死

――医の倫理を模索する中で――

[東海教育研究所発行 望星一九八八年三月号掲載]

高度化する医学・医療


先日、ある新聞に、九十七歳のおばあさんが自宅の池に入水したという記事がありました。七十七歳の長男夫婦との三人暮らしで、経済的にも家庭的にも、特に問題はなかったそうです。ただ、「これ以上長生きして、息子夫婦に迷惑をかけたくない、早くお迎えがないと息子に先を越されてしまう」と口ぐせのように言っていたそうです。


この事件は、私には、科学技術の発達した高齢化社会の象徴的な出来事のように思われます。さまざまな医療技術の発達のおかげで、日本は世界一の長寿国になりました。昔から医学や医療は少しでも人間のいのちを延ばすことを使命としてきましたし、現在でも一般にはそう考えられています。しかし、このお年寄りの例は、ただ単に長生きをするということが、人間にとってほんとうに幸せなことなのだろうか、という疑問を私たちに投げかけているように思います。


科学技術の発達は、社会に深く浸透し、これまで人間の手の届かなかった領域、たとえば、宇宙や深海の中まで人間の活動範囲を広げてきました。その一分野として、医学・医療や生物学の進歩は、人間のいのちを引き延ばすだけでなく、これまで神の摂理にゆだねられていた、この世に誕生する以前のいのちにさえ、直接手を加えることのできる技術をもたらしました。遺伝子操作や体外受精、男女生み分けなどの技術は、この世に現れる前のいのちにかかわる問題として、また、脳死や臓器移植は、死をめぐる問題としてさまざまな論議を呼んでいます。私たち人間は、誕生以前から死までのあらゆる段階で、人間の生命にこれまでになく強力な操作を加えることができるようになったのです。科学技術の進歩・発展による恩恵、という名のもとに、今や人間は自分たち自身の改造に向けて手を加え始めたと言えるでしょう。


生命倫理が求められる背景


こうした生命操作についての諸問題は、医者だけにまかせておくわけにはいかないとして、各国とも、それぞれの分野の衆知を集めて生命倫理(バイオエシックス)に関する諸基準・諸指針を作成したり、医療機関に生命倫理委員会あるいは医の倫理委員会が設置されるようになりました。わが国でも多くの大学病院や医療機関に倫理委員会が置かれ、さまざまなケースについての判断と解決が求められるようになってきました。しかし、倫理委員会が機能することですべての問題が解決するわけではないと私は思います。生命倫理に関する問題は、医療を施す側の問題としてばかりでなく、医療を受ける人々の問題、言い換えればすべての人間に関わる、極めて重大な問題であるからです。従来、医学・医療における倫理とは、「患者を診察し治療する医師が、医師として当然備えていなければならない資質と良心」という医師の倫理規定に過ぎませんでした。そしてこの医の倫理は、高いレベルの医学知識・医療技術を持つ医師がよい医師であり、患者はその医師の言葉に従うべきものであり、また、少しでもいのちを長らえることが医療の目的であるという、医師と患者の暗黙の了解の上に成り立っていたのです。


しかし、科学としての医学や生物学が高度化し、医療技術が高度化してくるにつれて、医療に関する倫理問題は、医師と患者の一対一の問題にとどまらず、多くの職種の医療従事者や患者の家族も含まれるようになって複雑化し、また、単にいのちを長らえさせればよいという、単一的な価値観が変化して、医療に対する要求が多様化し混乱が生じてきました。たとえば、たくさんの管で患者をしばっているように見える延命装置を、はずすかはずさないかという場合、患者本人の意志がわからない時には、医療従事者の使命感と家族の気持ちに微妙な食い違いを生じることもありますし、そこには高い医療費の支払いという経済的問題がからむこともあるでしょう。また、「ぜひ男の子が欲しいから生み分け技術の適用を受けたい」という夫婦の要求に、医療機関はどのように応じたらよいかというケースも考えられるでしょう。


こうして医の倫理には、今や生命倫理の問題も含まれるようになり、医療現場における倫理問題についての基準や指針のほか、広く生命操作に関わる実験研究に対しても指針や枠組が検討されるようになりました。しかし、何が正しいか、間違っているかという人間の判断は、人によっても価値観が異なり、また、それぞれの時代や社会の支配的な価値観に左右されてしまうので、生命倫理の基準や指針も絶対的なものではあり得ません。


生命の尊厳とは


私は生命倫理は私たちにいのちとは何か、生きるとは何か、という根元的な問題を考える機会を提供してくれたのではないかと思っています。


いのちが尊いものであるということに反対する人は恐らくいないでしょう。それではなぜ尊いのか、と問われたときに答えられる人はどれくらいいるでしょうか。ある人が、いのちはいのちであるがゆえに尊いのだ、と言ってみてもだれも納得しないでしょう。今や分子生物学の進歩によって、いのちを分子レベルで解明できるような時代になりました。つまり、いのちは物質であることが証明されたのです。では物質であるいのちが他の物質とは比較にならないほど尊いというのはどういうことでしょうか。また、いのちが尊いという時、それは人間のいのちを指すのか、他の生物のいのちも人間と同じように尊いと考えられるものなのか。さらに、こうしたいのちの尊厳とは絶対的なものなのかという疑問もでてきます。また、高度な医療技術は、その提供が限られていて、どの医療機関ででも受けることかできるというわけにはいきませんし、経済的にも重い負担がかかるため、貧しい人々は受けられないかもしれません。では、もし医療を受けられる人を選ばなければならないとしたら、どう選べばよいのでしょう。たとえば、この人とあの人のいのちを比較して、どちらが尊いなどと言えるのでしょうか。また、先ほど申しました遺伝子操作や遺伝子診断、体外受精などの技術は、まだこの世に現れていないいのちについて介入することになりますが、その場合のいのちの尊厳とは、いったいどう考えたらよいのでしょうか。


生命倫理の問題解決は聖書にある


多くの人々は、これらの問題の解決のための糸口を哲学や倫理学、神学、宗教などに求めるかも知れません。しかし、私はこれを『聖書』に求めます。あえて宗教とかキリスト教と言わずに『聖書』と言うのにはわけがあるのです。その理由は、いのちの問題は、人間を創造された、真理そのものである神を人間が認め、この神と自分との正しい関係を回復したときにはじめて氷解すると信じるからです。私の言う神とは、多くの宗教が作り出した神々、つまり人間が作り出した八百万(やおよろず)の神々という意味ではなく、天地万物の創造主、生きてご自身の計画を遂行する主権者である父なる神、そして人間の歴史の中に介入し、人間の目に見えぬ神が見える形で人として現れてくださった御子なる神すなわち、イエス・キリストなのです。


『聖書』には、この神と私たち人間との立場、関係というものがはっきりと書かれています。創世記には、神が人間をご自身に似る者として造り、ご自身の息である神の霊を吹き込んで生きるものとしたと記されています。そして、その人間に対して


わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。(イザヤ書43・4)


と言ってくださっているのです。このように、神は他の被造物に比べて、特別の愛をもってご自分と応答する存在として人間を造られたのです。ここに人間のいのちの尊厳性が存在するのです。ですから、いのちの問題を考えるとき、私たちは神によって造られたものとして、神が私たち人間に何を求めておられるのか、と考えることから出発することが大切なのです。それによって、さまざまな問題の解決の糸口も見えてくると思います。


神が人間を造られたことが記してある『聖書』の創世記には、「神が造られた人間以外のすべての被造物を人間に任せる、人間に管理させる」とも書いてあります。このことは、人間が他の被造物を自分勝手に使ってもよいという意味ではなく、神の被造物を神の代理として管理しなさい、ということなのです。ところが多くの人間は、それを自覚することなく、勝手に自分たちの欲望を満たすために使ってもよいのだと思ってしまっています。しかも、人間が科学というものを手に入れてから、その傲(ごう)慢さはさらに加速されて、今日では、神の造られた環境生態系を破壊するまでに至り、その結果が自らの身にはね返るに及んでいます。このことを医学・医療の面に当てはめてみれば、人間はとうとう科学技術の進歩という名のもとに、自分たち自身の改造に向けて、メスを加えはじめてしまっているのです。すべてのものは神によって与えられたものです。したがって、科学技術もまた神から人間に与えられた知恵です。しかし、その知恵を誤用していることに人間は気がつきません。そして、今日ようやく科学技術がこのままの方向で進んで行くことが、ほんとうに人間の幸福につながるのだろうかという不安が人々の心に湧いて来たのです。それが、生命倫理が求められるようになった所以(ゆえん)です。このように考えてくると、多くの人々は神との関係を正しく認識しないままに、心の中に漠然とした恐れと不安を持っていることがわかります。創造主である神に対する謙虚さを忘れ、人間自身が神であるような錯覚と奢りに満ちた人間が操作する今の科学技術や医学・医療から、神のみこころに反するような多くの問題が起こってくるのも当然ではないでしょうか。


人間は不完全なものです。「愛」について考えてみても、人間の「愛」は神のような大きく完全な「愛」ではありません。自分がいちばんかわいいと思う「自己愛」を越えることはできないようなものです。しかし、人間は自分が不完全であることを認めようとしないために、さざまな過信に陥り、過ちを犯します。『聖書』のヨブ記に出てくるヨブは、人間の中では最も正しいといわれた人でしたが、その彼も神のなさったことを批判し、神をさばいてしまうという罪を犯し、結局神の前にひれ伏しました。人知のはるかに及ばない全知全能の神であり、すべてを創造された神の前では、人間は被造物であり、小さく無力なものでしかありません。自らの不完全さと限界を知り、神の恵みによって与えられた日々を、一日一日神の前にへりくだって、神を仰ぎ見つつ感謝しながら生きるときに、神は人の歩みを正しく導いてくださり、恐れと不安から解放して、ほんとうの意味で充実した生を与えてくださるのです。


新しい医学や医療技術も、人間が神から賜ったものであり、神の恵みとして行われるべきであり、また受けるべきであって、人間の自己愛や飽くことのない欲望を追及する手段であってはなりません。医療を施す側の医療従事者も医療を受ける側の患者も、ほんとうに神を畏れ、神に感謝する気持ちをもって、この賜物としての新しい技術を用いなければ神の領域を冒すことになり、その結果、人間は自分自身の身を滅ぼすことになってしまいます。特に医学研究者や医療従事者は、自らが神を演じるような高ぶりを持つことなく、謙虚でなければなりません。なぜなら、医学・医療がどんなに発達し、臓器移植や人工臓器などで悪くなった身体の部分をどんどん取りかえても、結局人間は死ぬからです。人間の死を止めることはだれにもできないからです。最近、人間の身体を構成している細胞のいのちは、どんなに良い条件に置いた場合でも、細胞の中に仕組まれた機構を変えることができず、百二十年以上は生きられないことがわかりました。これは『聖書』の中で神が、


わたしの霊は、永久には人のうちにとどまらないであろう。それは人が肉にすぎないからだ。それで人の齢は、百二十年にしよう。(創世記6・3)


と言われたとあることと一致します。不思議なことに、はるか昔に書かれた『聖書』に記してあることが、今の最先端の医学で証明されたのです。


高度化した医学・医療技術によって、人間は自分たちの生と死を、より強く大きく操作できるようになりました。それは人間に利益をもたらす以上に、人間のいのちの尊厳を犯す恐れがあることに、ようやく私たちは気がつきました。そして、その歯止めを生命倫理や医の倫理に求めたのです。しかし、前にも述べたように、価値観の多様化した今日、生命倫理や医の倫理についての考え方や判断基準も人によって、立場によって異なります。また、その時代や社会の支配的な価値観に左右されてしまいます。したがって、いのちの尊厳にかかわる問題解決を、人間の知恵で考える生命倫理や医の倫理に頼っても、そこにはほんとうの解決はないのです。生命倫理の諸問題の解決は、生ける神のことばである『聖書』の中にあり、聖書こそが生命倫理や医の倫理を考えるうえでの、永遠に変わることのない正しい基盤なのです。なぜなら、人間のいのちの尊厳性は、神が与えられたものであるからです。




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