医者に治せない病気(1996年)
そこで神である主が、深い眠りをその人に下されたので彼は眠った。それで、彼のあばら骨の一つを取り、そのところの肉をふさがれた。こうして神である主は、人から取ったあばら骨を、ひとりの女に造り上げ、その女を人のところに連れて来られた。(創世記2・21~22)
あばら骨が、胸をおおっている細い骨であることは、だれでも知っています。しかし、このあばら骨が、他の骨とは違う特別の骨であることは、聖書を通して、はじめて知ることができるのです。これから、そのことについて考えてみたいと思います。
神は、天地万物を創造されましたが、創造のわざの最後に造られた被造物が人間でした。
神である主が地と天を造られたとき、地には、まだ一本の野の灌木もなく、まだ一本の野の草も芽を出していなかった。それは、神である主が地上に雨を降らせず、土地を耕す人もいなかったからである。ただ、霧が地から立ち上り、土地の全面を潤していた。その後、神である主は、土地のちりで人を形造り、その鼻にいのちの息を吹き込まれた。そこで、人は、生きものとなった。神である主は、東の方エデンに園を設け、そこに主の形造った人を置かれた。(創世記2・4~8)
神は、このようにして、まず人間のからだを土地のちり、すなわち物質でお造りになった後、その中にいのちの息を吹き入れてくださったとあります。神にとって人間が特別の被造物であるのは、まさにこの点にあります。神のいのちの息は、人間の中に与えられている霊です。霊は、神と人間との親しい交流のために欠くことのできないものです。そして、人間が生きるということ、言い換えると人間としての存在の意味は、この霊があることによるのです。なぜ神は私たち人間にご自分との交わりを求められるのでしょうか。それは、ご自身が造られた私たちを子どものように愛しておられるからです。そして、そのために、私たちと、父と子の人格的な親しい交わりをするのに必要な霊を与えてくださったのです。
神が造られた最初の人間は、アダムでした。アダムは男でした。神は、アダムをエデンの園に置いて、そこを耕させ、またそこを守らせておられましたが、その後、神は、アダムに妻を与えようと思われました。男が一人でいるのは良くない、彼には助け手が必要だと思われたからです。
その後、神である主は仰せられた。「人が、ひとりでいるのは良くない。わたしは彼のために、彼にふさわしい助け手を造ろう。」(創世記2・18)
「彼にふさわしい助け手」とは妻のことであります。神はアダムの助け手である妻をどのように造られたかは、冒頭の聖書の箇所に述べられています。神は、アダムのあばら骨を取って一人の女をお造りになり、その女をアダムの妻とされたのです。ここで、あばら骨が特別の骨であることがわかります。
しかし、どうして神は、女を造られるのに男のあばら骨をお用いになったのでしょうか。からだの骨は他にもたくさんあるのに、その中からあばら骨を選ばれた理由はどこにあるのでしょうか。それには、まず、あばら骨の特徴を解剖学的な視点から考える必要があります。第一に、あばら骨は胸廓を形成している骨です。胸廓は籠のような形をしていますが、その中には心臓や肺が入っています。心臓も肺も、数分でも止まれば人間は死んでしまいますから、いのちにとっては最も大切な臓器といえます。その、いのちにとって最も大切な臓器を外部から守っているのが、あばら骨なのです。第二に、あばら骨は骨の中で最も弾力性のある骨です。人間は肺を通してからだに酸素を取り入れ、二酸化炭素を外に出します。そのためには呼吸をしなければなりません。そして呼吸には、胸廓の働きが大変重要です。つまり息を吸い込む時は胸廓をふくらませ、息をはく時は逆に胸廓をしぼませるのです。あばら骨に弾力性があるのはこのためです。あばら骨は、骨の中では、か細い、弱い骨ですが、このあばら骨がなければ、たちまち大切な心臓は傷つき肺はしぼみ、人間は生きることができなくなります。
以上に述べた、あばら骨の特徴を考えますと、神が特に男のあばら骨から女を造られ、その男と女を夫婦とされたということの意味は大変深いものであることがわかります。神は、男にとって、ふさわしい助け手が必要と思われたから、女を造られました。そのふさわしい助け手が、あばら骨から造られたのです。あばら骨の特徴は、その人のいのちのために最も重要な臓器を外部から守り、また、その人の呼吸に合わせて動く弾力性にあると言いましたが、夫婦における妻の役割は、夫の状態に合わせて共に生きることのできる、夫のふさわしい助け手となることであり、それが夫と妻を造られた神のご目的なのです。
しかし、悲しいことに、あばら骨の役割を果たしていない妻が多いことは事実です。夫の良き助け手であるどころか、夫を支配している妻、夫に従わない妻、夫を無視している妻、夫を軽蔑している妻、夫を憎悪している妻などの妻が多くいるのではないのでしょうか。このような妻は、夫のいのちを守るはずのあばら骨が、反対に夫の心臓を突き刺したり、夫の呼吸に合わせてしなうのとは逆に、夫の胸を締めつけて苦しめ、窒息させてしまいます。
このように言うと、「それは男尊女卑の考え方である。女が男に、妻が夫に従属するというような考えのために、昔から多くの妻が暴君的な夫の犠牲になって苦しんで来たのではないか。聖書は男尊女卑の古い時代に書かれたものであり、現在の男女平等、男女同権の時代には通用しない。しかも聖書には、神は愛の神と書かれているのに、その神がどうして男と女を差別するのか、おかしいではないか。」と反発される方も少なくないと思います。しかし、神は男尊女卑などという不公平なことをなさる方でしょうか。決してそのような方ではありません。人間をご自分に似た者として造られた神は、男も女も平等に愛しておられます。神は男も女も差別なく愛して、平等にイエス・キリストによる救いを提供しておられるのです。
ユダヤ人もギリシャ人もなく、奴隷も自由人もなく、男子も女子もありません。なぜなら、あなたがたはみな、キリスト・イエスにあって、一つだからです。(ガラテヤ人への手紙3・28)
神のことばである聖書の言うことが男尊女卑でない証拠に、夫に対して聖書は次のように命じています。
夫も自分の妻を自分のからだのように愛さなければなりません。自分の妻を愛する者は自分を愛しているのです。(エペソ人への手紙5・28)
夫は自分の妻に対して義務を果たし、同様に妻も自分の夫に対して義務を果たしなさい。妻は自分のからだに関する権利を持ってはおらず、それは夫のものです。同様に夫も自分のからだについての権利を持ってはおらず、それは妻のものです。(コリント人への手紙第一7・3~4)
夫たちよ。妻を愛しなさい。つらく当たってはいけません。(コロサイ人への手紙3・19)
夫たちよ。妻が女性であって、自分よりも弱い器だということをわきまえて妻とともに生活し、いのちの恵みをともに受け継ぐ者として尊敬しなさい。(ペテロの手紙第一3・7)
このように、夫は妻を自分と同じように愛しなさい、夫は妻が弱い者であることをわきまえなさい、夫は妻を尊敬しなさい、夫のからだは妻のものです、と戒めているのです。
神は、創造の時から人間の結婚の意味を、以上のようにはっきりと示してくださっています。
神はご自身のお考えによって、順序正しく天地万物を造られました。すべてのものをお造りになった後に、神はそれらのものをご覧になって非常に満足されました。みこころにかなった出来栄えだったからです。
そのようにして神はお造りになったすべてのものをご覧になった。見よ。それは非常によかった。(創世記1・31)
天体をはじめとし、地球の生態系に至るまでのすべてのシステムが、一糸乱れずに整然と運行されているのは、この神の秩序に従っているからであります。しかし、その神の秩序を破ったのが、神が最も愛して造られた人間でした。人間は、神が定められた男と女、夫と妻の間における秩序を、自分を造って愛してくださっている神を認めようとしない罪、自己義認、自己主張、自己中心という罪によって破壊してしまったのです。その結果は、神の秩序のもとにあって、夫は自分のからだの一部として妻を愛し、妻はあばら骨として夫に従うという、一心同体であるべき夫婦が、お互いに自己主張を通そうとして争い合い、憎み合い、そのあげくには離婚にまで進むことになるのです。わが国では、離婚の件数が年々増加していますが、その根本原因はまさに神の秩序に反した、自分の思い中心の結婚にあるのです。
神の御子イエス・キリストも、離婚は父なる神の定められた結婚についてのみこころに反するものであると、次のように言われています。
イエスは答えて言われた。「創造者は、初めから人を男と女に造って、『それゆえ、人はその父と母を離れて、その妻と結ばれ、ふたりの者が一心同体になるのだ。』と言われたのです。それを、あなたがたは読んだことがないのですか。それで、もはやふたりではなく、ひとりなのです。こういうわけで、人は、神が結び合わせたものを引き離してはなりません。」(マタイの福音書19・4~6)
結婚とは、このように神の定められた神聖なものなのです。
また、最近は、男も女も、自分の自由が拘束されるとか、煩わしいとかの理由で結婚をしない独身者が増えています。これも神のみこころに反するものです。人がひとりでいるしない独身者が増えています。これも神のみこころに反するのはよくない、と神が言われたのはその意味です。男だけ、女だけで生きることは、神が造られた人間としては不完全だからです。神のみこころは、人間が結婚によって、男と女がお互いに補い合い、助け合い、一心同体となって生きることなのです。これが、神の秩序にもとづく人間の姿です。そして、夫婦が一心同体となって生きるために、最も重要なこととして、聖書はさらにこう述べています。
すべての男のかしらはキリストであり、女のかしらは男であり、キリストのかしらは神です。(コリント人への手紙第一11・3)
ここに神の秩序のもとにある人間の正しい姿が示されています。すなわち、夫婦がお互いに向き合っている横並びが正しい夫婦の在り方ではなく、父なる神をかしらとし、その次に御子なるイエス・キリスト、次に夫、次に妻、次に子どもという縦並びの順序が、神の秩序のもとにある人間の正しい姿であるということなのです。このためには、まず夫も妻も、それぞれが、自分は神に背き自己中心の罪の中を歩んでいた者であることを心から悔い改めて、神がこの世に遣わされた御子イエス・キリストを信じ受け入れ、そして喜んで従おうと決心することが必要です。
神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちに、いのちを得させてくださいました。ここに、神の愛が私たちに示されたのです。私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。愛する者たち。神がこれほどまでに私たちを愛してくださったのなら、私たちもまた互いに愛し合うべきです。(ヨハネの手紙第一4・9~11)
イエス・キリストも次のように言われています。
わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合うこと、これがわたしの戒めです。(ヨハネの福音書15・12)
イエス・キリストは、神でありながらご自分のいのちを十字架の上で犠牲にまでして、私たちを罪の滅びから救い出してくださったのです。そのはかり知れないほどの大きな愛を知り、その愛を心から感謝して受け入れた時に、はじめて神の秩序に立ち返った夫婦として、イエス・キリストをかしらとして仰ぎつつ、夫は妻を自分のように愛することができるようになり、また、妻は夫のあばら骨としての役割を感謝しつつ夫を愛し、夫に従うことができるようになるのです。神は、ご自分の秩序に従い、神の御子をかしらとして互いに愛し合う夫婦を祝福して、神の恵みとしての喜び、希望、平安そして完全な一致を与えてくださいます。