783 [96/06/28 10:29] GBE01560 アイスレーベンの乞食(26)/よっちゃん ミーハーの目で見るルターの生涯【29】【 プロテステント】
1528年、霊感主義者と誤解され無実が証明されたものの4年 の司牧禁止になった36歳のイグナティウスは、
スペインからフラ ンスに移住しています。イグナティウスのイエズス会から、フラン シスコ・ザビエルが、鹿児島の
土を踏むのは、もう少し後、天文 18年(1549年)8月15日です。
同じパリの屋根の下では、その頃、ジャン・カルヴァンも勉強し ていました。カルヴァンが、ドイツの土を踏むのは
1535年の、ミュ ンスター動乱後です。 1528年、マルチン、45歳、ジャン・カルヴァン19歳。イ グナティウス、36歳。
初夏の風が、ザクセンに吹いていましたぁ。・・・・
★★
さて、ペストが流行、アナ・バプテストが逃げる、農民は生活に 苦しむ。修道院は荒れる中で、ルターの改革は、
領邦教会としての 道に歩みはじめます。 福音に目覚め、そして、また「宗教」の世 界に、ひき戻されていくのでしょうか。
よっちゃんは、知りましぇ ん・・・ありぃ。うぅうぅ マンボー\(^_^)/ ワカランぞぉ??
農民弾圧に功績のあったヘッセンのフィリップは、福音主義に根 差した諸侯達の中でリーダーシップを持ちました。
526年のシ ュパイヤー帝国議会では、彼は2000人の騎士とルター派の学者^^;; を連れて大きな影響を与えたと言わ
れています。 農民戦争終結後も、北ドイツではルター派に転ずる者も多く、南 ドイツのシュトラスブルグやアウグスブル
クの諸都市も福音派にな りました。
1526年のシュパイヤー帝国議会では、各帝国等族(神聖ロー マ帝国内で皇帝に直属し、帝国議会に議席と投票権
を有する者=聖 俗諸侯、帝国都市)は、神と皇帝に対して自ら責任をとる態度で行 動しても良いと言うものでした。
この決議は、それぞれ領邦内に ルター派領邦教会を設立する法的根拠に利用されました。 しかし、ヘッセンのフィリ
ップがフランケン地方の司教領も手中 に入れるに及んで、ようやくカトリック保守派諸侯達も、情勢のた だならぬ事に
気がつきます。
そして・・・ この時期、フランス王に対する皇帝の勝利、すなわち皇帝カール 5世とフランス王フランソワ1世及び教皇
クレメンス7世との和議 でカトリック等族は意気盛んになります。 なんだか、信仰が飛んで、まるで政治の話しみたい
でしゅね^^;;
★
1529年4月。シュパイヤー第2回帝国議会へのカール5世の 書簡は、1526年の議決の破棄でした。さらに、
聖体におけるキ リストの現存否定派(ツヴィングリ派)と、再洗礼派の撲滅が、こ の議会で議決されています。 概要は
、新しい信仰の排除より保守的な古い信仰の容認に重点が おかれ「できるかぎり人道的に阻止する」と言う曖昧表現も
盛り込 まれたが、新教会の法的根拠の26年の議決は排除された事になり 情勢は保守派よりに後退しました。
1529年4月19日国会決議公示後、すぐに等族の1グループ が抗議(Protest プロテスト)しました。このグループは6つ
の諸侯お よび南ドイツの14の帝国都市でした。 新ザクセン選帝候、ヘッ セン・ブランデンブルク=クルムバッハ、
アンハルト・・。都市で は、ストラスブール、ニュルンベルグ、ウルム。 自ら 信仰ある 者 (viri boni)と名乗った新教徒は、
保守派からは 【プロテス タント】と呼ばれました。
カール5世は、事態収拾のため、やがてアウグスブルグに帝国議 会を召集することになります。 1530年。改革は、
またひとつ の岐路に立っていました。ナンチャッテ
ネコの餌代に悩む、にわか歴史家 よっちゃん 96/06/28(金) 09:00 よっちゃん(GBE01560)
845 [96/07/05 09:06] GBE01560 アイスレーベンの乞食(27)/よっちゃん 「ハンス父ちゃんの、死! 」
人間の方で破ったつもり、破りつづけている神との関係を、神 は破ってはおられない。しかも、この破れが回復されるた
めに、 決定的な方法がとられた。神であるひとり子イエ スが人となる。 人間の理性や、考えと逆のこと が起こった。 主イ
エスは、、十字架に歩まれた。頼るものを多く持とうとして 「あれもこれも」になりがちな人間であるからこそ、「キリストの み」
が高く掲げられならない。 1530年、フッガーの街、アウ グスブルグに、関心が集まっていまったぁよぉ (*_*)
★
1530年1月21日、ドイツ皇帝カール5世は4月8日を開会 日に定めて、国会をアウグスブルグに召集しました。大小諸侯
の領 邦からなり、それぞれに諸侯が統治するドイツには、首都も中央集 権体制もなく、そのたびごとに国会開催地は変わり
ました。 「信仰上の相違を解消し、危うくされた教会的一致の回復」を皇 帝は目的にしていました。前回のシュパイエル国
会で、プロスタテ ィオ(抗議文)を提出したのは、400議席のうち、6人の諸侯と 14議席の都市代表にすぎませんでした。
でも・・・・
1530年6月25日、午後3時。28条からなる信仰告白が、 皇帝顧問官バイヤーによって、朗読されました。不思議にも
記録で は、その日は、やたらに暑く、カトリックの圧力で小さな部屋で朗 読したのに窓を全開にしなけらばならず、開かれ
た窓から、ドイツ 語の朗読が多くの者に聞こえたそうです。(^_^) これが、プロテスタントの最初の信仰告白でったぁ。
★★
この朗読日の10日前。マルチン・ルターの父。ハンス父ちゃんが、 亡くなっていましゅ。かの日、一人息子に法律への道を
期待し エル フルトに送り出したハンス父ちゃん。 修道院に入る息子に怒った父 ちゃん。 にもかかわらず息子の神父として
の初ミサにかけつけた父 ちゃん。 マルチンが、危篤の父ちゃんに書いた手紙が 数百年の時 を経て残っています。
「・・あなたは今、衰弱していても、心は元気で安心していて ください。なぜなら、わたしたちは、神の御許のかの世の生 活に
おいて一人のたしかな忠実な助け主イエス・キリストを 持ち、そのキリストは私達のため死を罪とともに殺し、今、 ここに私達
の前に座し、全天使とともに、私達を見たまい、 わたしたちが、死なねばならない時、わたしたちが、沈み没 することを心配し
おそれる必要がないように、私達を待ち賜 うからです。 ・・・・・全家族があなたに挨拶し、あなたの ために忠実に祈っています。
神の恵みと力がいつまでも、あ なたに留まりますように・・。」
★
信仰告白と裏腹に、国会は、あらゆる教会改革の禁止を議決・・(;_;) 福音主義者には、6ヶ月の猶予。 しかし、福音主義者は、
1530年 12月、「シュマルカルデン軍事同盟!」 1532年、ニュールンベ ルグ休戦条約。 改革は、信仰者の手を離れ、政治
家や軍事家のもの となり、貧しい農民の姿はありません。マルチンも、改革運動の旗手で は、なくなっていきましゅ。 私達は、
宗教の話しになっていく改革の失敗に別れを告げて、マルチ ンの晩年と家族を見舞う旅に出て、アイスレーベンでマルチンを
看取る 事になります。 モ-スグ 終わるので 御安心を。。つづく
905 [96/07/16 09:21] GBE01560 アイスレーベンの乞食(28)/よっちゃん ミーハーの目で見る 週刊木曜日^^;; 歴史マガジン? 第 28回
「最後の襲撃 ミュンスター大虐殺!」
1530年。混乱のアウグスブルグ国会は終わりました。前後して、改革 プロテスタントも、保守カトリックも、ただひとつの一致点は、
社会を 危険にする再洗礼を受けたものは、ただちに死に値いすると言う一点でし たぁ。
迫害に離散するアナ・バプテスト(再洗礼派)の貧しい農民が 目指した 街は、オランダの街、「ミュンスター」でしたぁ。
1534年1月。 1400人が、この街で、再洗礼を受けましたぁ。 しばらく、熱心な清貧 と信仰の日々が続きました。 が、
再洗礼(アナ・バプテスト)過激派も やがて、この街に到着します。 そして、マチィスや ヤン・ボッケルソ ンや、過激派が
ミュンスターの街の主導権を握ってしまいます。
希望を抱いて、この街に逃げて来たアナ・バプテストが目にしたのは、シ オンの王と自称する ヤン・ボッケルソンの姿
でした。財産共有制と一夫 多妻制が街にひかれます。 一方敵対する包囲軍は カトリックの ミュ ンスター司教の依頼で、
プロテスタントの軍事リーダーヘッセンのフィリッ プもかけつけ、街の外には、カトリック & ルーテル連合軍が、包囲を固
め ます。
★
1536年、6月。連合軍のアナ・バプテストへの攻撃が開始されました。 包囲された街のアナ・バプテストの多くが、神の
力による、奇跡的解放が起 こるぞと固く信じていました。(あのフランケンハウゼンの丘のトーマス・ ミュンツァ ーを思い出
します) でも、最後の連合軍の襲撃の後、 アナ・バプテスト軍は全員が虐殺。指導者は、さらに残酷な拷問の後、処 刑され
ました。 この世紀に、4500人を越えた、アナ・バプテスト の迫害死者のうち、2500人が、オランダで死んだと言われてい
ます。 そして、ミュンスターでのアナ・バプテストの混乱は、以後の迫害の根拠に される事になりました。
★★
同年、一人のオランダの フランシスコ修道会・司祭が、カトリック司祭 を辞して、夜の闇の中に姿を消しています。彼の
名は、メノー・シモンズ。 後に、壊滅したアナ・バプテストから、絶対平和主義・アナバプテスト運 動を起こす事になり、
メノーナイトや フッターや、モラビヤ兄弟団の群れ が、やがて起こります。 彼らは、やがて共同体を作り迫害を避け、
ロシ アや北米に 旅することになります。( 映画で有名になったアーミッシュ も、メノー派のアーマンの子孫達でしゅ。)
彼らは、やがて聖潔を重んじて 形式的・律法的になり、共同体の存続に心奪われ、十字架を見失い、心の 旅をも さ迷う
事になります。・・そうです・・(^^ゞ
「親愛なるみなさん。もし、あなたがたが、キリストの教会で あるなら、なぜ、あなたはキリストに従わないのですか。
もし、あなたが、キリストの御からだであるなら、なぜ、あ なたは、その聖なる肢体を滅ぼすのですか。 もし、あなた が
神の子供であるなら、なぜ、あなたは、あなたがたの兄弟 を踏みつけるのですか? /メノー・シモンズ」
また、このミュンスター虐殺の年、ドイツの土をはじめて踏んでいる、もう 一人の男がいました。彼の名は、ジャン・カルバンでしたぁ。
次週? 「(29) マルチンが、泣いたぁ/最愛の娘、レナの死」 次々週?? 「(30) 最終回 アイスレーベンに 死す。 」 御期待
★いつも喜んでいなさい。1テサ5:16/よっちゃん★
959 [96/07/27 10:40] GBE01560 アイスレーベンの乞食(29)/よっちゃん 長女マグダレーナの死
ルター史の権威、ベイントンは、「せめて、あと2年早くルターを死なせて あげたかったぁ。」と感慨深く語りました。
晩年の2年にルターが残した著 作は、それほどに、ひどいものでしたぁ。 わけのわからないユダヤ人批判 は、後に
、ヒットラーに悪用されています。 また、晩年には政治的実力者の ヘッセンのフィリップの重婚問題を容認した事が
判明し、さらに、それは懺悔 室の中で聞いただけだとウソを言って、そのウソがまたばれて、たいへん評判 を落と
します。 多くの伝記が、1530年以後をカットしていましゅ。
にもかかわらず、急進派と保守派の間に翻弄され、さまざまな困難な中で、 苦難や悲しみも共に主にあって越えて
いったマルチンの家庭は、私達に感動を 与えます。 マルチンの家庭を見ると、激しい改革の嵐の中を生きたマル
チン は、そこにはなくて、やさしいパパの、マルチンがいます。 改革は、すでに カルヴァンや、第二の波に乗りはじ
め、1540年9月には、保守カトリックの 中でも、イグナチウウス・ロヨラのイエズス会が、教皇に認められていました。
★
1542年9月20日、マルチン・ルター最愛の長女マグダレ−ナが、また病 気で召されていきます。同10月9日に、
友人にマルチンは書いています。
レナ(マグダレーナ)は去って天の父のところに行きました。 娘はキリストを心から信じて眠りにつきました。
私は、死 に向かって怒って、つぶやき、父親として心の痛みを押え ています。平静を失うことで、涙を和ら
げています。愛す る娘だったのですから、・・・(;_;) でも、終わりの日には、死は、この世に死をもたらした ものとと
もに、報いを受けるです。また、いまは、すすり 泣き、目は涙で濡れながら、カタリーナも、ごあいさつ申 し上げております。
マグダレーナが召される前、トルガウの寄宿学校に行っているハスの寄宿先に、 マルチンは連絡して、彼の妹が病気で重体
だが、重体である事は知らせず、妹が 会いたがっているからと、ハンスを帰らせて欲しいと伝えています。ハンスは、 ヴィッテ
ンベルグに帰り、妹を送り、12月に、トルガウに帰っています。トル ガウに帰ったばかりのハンスに書いたマルチンの手紙が
残っています。
愛するハンス。主にある恵みと平安を。
私も母さんも家中みな元気でいるよ。母さんは悲しみやす
く不安になりやすい状態なのだから、これ以上母さんに、 悲しみや憂いを加えないように、お前は、男らしく涙を征
服するよう勤めて欲しい。そこで、勉強を続けるように、 お命じになった神様に聞きしたがって、欲しい。母さんも
手紙を書けるが、今は、必要ないと思う。
母さんが言うには、よくない事があれば帰っておいでと 言ったのは、病気になったりした時の事を言ったので、そ
んなことでもあれば、すぐに知らせなさい。そうでないか ぎり、悲しみを忘れて、楽しく静かに勉強していてほしい。
マルチンの卓上語録の中に、レナが召される時のマルチンの言葉が残っています。
わたしは、この娘をとっても愛しています。だが、愛す る神よ。あなたが彼女を、取り去られることが、みこころ
ならば、みもとに行かせます。・・・
この年月の間に私ほど神様の賜物を頂いた者は、おりますまい。この賜物を誇るよりも、時折少しだけ歌い少しだ
け感謝し心の底から喜んでいない自分が腹立たしい程です。
にわか・ルターの家庭研究家^^;; よっちゃん★
960 [96/07/27 10:52] GBE01560 アイスレーベンの乞食(30)/よっちゃん (30) アイスレーベンの乞食
マルチンは、最後の10年間に創世記の講義を10年かけて、行 っています。創世記講義を終えたのは、1545年11月17日。
62才の誕生日を過ぎて1週間です。創世記の50章はヨセフの死 で終わっています。
そして、マルチンは、最後の最後まで、決して説教の講壇を降り ることはありませんでした。11月から、3ヶ月に、小さい著作の
他に、9回の説教をしています。町の教会の方のブーゲンハーゲン が宗教改革の応援に地方に出向いた時は、水曜のマタイ
の講解も、 土曜のヨハネの講解も、マルチンが講壇に立ちました。講壇まで、 かつがれ、たどりつくようにした日もあったようです。
すでに、あの、お札を売ったマインツの司教アルブレヒトも死に ました。ライプチッヒの論敵、ヨハン・エックも死にました。こつ
こつ地道に溶鉱炉のマルチン父ちゃんも、くるみを食べたマルチン を厳しく叱った母ちゃんも召されました。 そして、マルチン
博士も老いていました。
★
1546年1月23日、なにやら騒がしくヴィッテンベルグを旅 立つ一団がありました。 ひとりの老いた神学博士が、息子達に
つきそわれ、牧師として、アイスレーベンのマンフェルト候の家庭 紛争解決のために出発するのでした。この神学博士が、60
年前、 アイスレーベンの鉱夫の宿泊所で生まれたマルチン・ルターその人 でした。 ちょうどメランヒトンも病気で、マルチンは
牧師として の務めを果たすために自ら旅に出ました。
途中、河が一ヵ所氾濫していて、旅は少し遅れます。「大水で、 あやうく再洗礼を受けてしまうところであった。」と、ケーテに、
マルチンは旅中、ジョークで 手紙を書いています。 ちょっと ジョークのつめが甘いようですが^^;;
同、1月28日。アイスレーベンに着いた時、博士殿は、具合が 悪くひや汗をかき、途中で倒れたままの状態でした。心配して
、ケ ーテは、手紙にワインと腸詰をヴィッテンベルグから追いかけて送 っています。 アイスレーベンで小康状態に戻ったマルチ
ンは、 「よく食べ飲んでいる。これからマンスフェルトの殿様の調停に行 ってくる」とケーテを安心させる手紙を書きました。
アイスレーベンでも、マルチンは、3回説教しています。 2月 15日には、説教の後、牧師の按手式も司式しています。ザクセン
選帝候も気をつかったマンスフェルトの調停は、ようやく2月17 日に解決しています。
★★
1546年2月17日、この日の残りの時間をマルチンは静かに 自室で過ごしています。 夕刻になって、マルチンは胸の圧迫を
訴 えています。
2月18日、深夜1時。 同行のヨナス博士をマルチンは呼んで います。「ヨナス博士、わたしは、生まれて洗礼を受けたこのア
イ スレーベンで、召されることになるでしょう。」と言う意味のこと を語っています。 息子達も、部屋に集まってきました。マルチ
ン は、暗記している聖書の言葉をつぶやいています。何度も、何度も その口から繰り返されたのは、ヨハネの福音書3章16節
です。
神は その独り子をお与えになった程に、世を愛された。 独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るた めである。(ヨハネ3:16)
18日深夜3時前。ヨナス博士が、マルチンに尋ねます。 「ルター博士、キリストと、自らの救いにかたく留まりますか?」
マルチンは、はっきり「ヤー!」(YES) と応えました。
961 [96/07/27 10:52] GBE01560 アイスレーベン(30)b/よっちゃん
18日、深夜3時。マルチンは、召されました。机の上に2日前 に書かれた最後の原稿が置かれていました。
「5年間、牧夫や農夫であったのでなければ、ベルギリウスの牧 歌や農耕歌は理解できまい。 40年間、支配の
重要な地位に いなかったなら、キケロは、わかるまい。100年間、預言者 とともに教会を導いたのでなければ、
聖書は十分に、わかるま い。
なぜなら、洗礼のヨハネにしろ、キリストの使徒達にしろ、そ の奇跡は驚くほど強力であるから。 あなたは、神の
子の死を 把握しようとするのはやめなさい。それより膝をかがめて使徒 の足跡を拝するが良い。わたちたちは、
乞食である。これは、 もことである。」
マルチンは、宗教改革者でもなく、福音の説教者でもなく、主イ エス様の前に、ひとりのみじめな乞食である事を知っていました。
・・・わたしたちは、乞食です。それは、まことです。」 一枚の紙片のその言葉、改革者となり結婚をして家庭を築いても、マ ルチ
ンの中では、フランシスコ会の修道の理想は、生きていたとも 言われています。 マルチンは、昔は、町角に立って人々から乞食
の修道をしました。 そして、生涯かけて神から恵みを乞い続けた、神を頼って生きる修 道でした。
最晩年に、詩篇90篇の講義を行っています。それは、すでに自 らの死を予測した中での講義でした。
「安心しきった者達に、律法の声は、生のただ中にあって、 われわれは死のうちにあると不吉な知らせで戦慄させる。
しかるに他方、福音の声は、死のただ中にあって、われわ れは生のうちにあると力づける。」
人間的な確かさや安全を求める生き方と、神の恵みに頼る生き方 を対象させ、人間的な安全を求める生き方から180度転回して、
福音に生きる者に変えられる。 生きていても死んでいる生から、死んでいても生きている生への 転換。
962 [96/07/27 10:53] GBE01560 アイスレーベン(30)c/よっちゃん
★
激動の歴史に翻弄されてながら、マルチンはただ聖書によって押 し出されて、老いるまで歩み続けました。農民戦争や、晩年のユダ
ヤ人発言や破れに満ちた汚点もたくさん残しました。そして、子供 思い、妻思いの平凡な父ちゃんでもありました。結局、マルチンは
歴史の教科書の中の宗教改革者ではなく、破れに満ちた私達の隣の、 おっちゃんでした。でも、その破れの中で、神の御言葉を、聖
書に 聴きつづけようとした、おっちゃんでしたぁ。
ヴィッテンベルグのおえらい博士達と再洗礼派に揶揄されても、 ヴィンテンベルグの教皇とミュンツァーに批判されても、マルチン は、
主の目の前に、自分が、哀れな罪人に過ぎない事をよく知って いたのではないでしょうか。 聖人でも改革者でもなく、生涯、哀れな罪
人として神の恵みを乞 いつづけた乞食のだったように、よっちゃんは思いました。
詩篇90篇 3-6
あなたは人を塵に返し
「人の子よ帰れ」と仰せになります。
千年と言えども御目には
昨日が今日へと移る夜の一時にすぎません。
あなたは眠りの中に人を漂わせ
朝が来れば、人は草のように移ろいます。
朝がくれば花を咲かせ、やがて移ろい、
夕べにはしおれ、枯れて行きます。
14-15 朝にはあなたの慈しみに満ち足らせ 生涯喜び歌い、喜び祝わせてください
あなたがわたしたちを苦しめられた日々と 苦難に遭わされた年月を思って わたしたちに喜びを返してください。
さよなら、マルチン。ハンスや息子さんに看取ってもらえて、良 かったね。もう痛風もめまいの痛みも、忘れてね。ゆっくり眠って ね。
「ただ恵みによって。」博士殿が、語ろうとした事は、今も、 語りつづけられ、たくさんの神の乞食達が、きょうも天のエルサレ ムを目指して、旅をしています。
出発地、アイスレーベンから、エルフルト、ヴィテンベルグ、ハ イデルベルグ、ウォルムス、ワルトブルグ、アウグスブルグ、コー ブルグ、
フランケンハウゼン、ヴィッテンベルグ。そして、また、 アイスレーベンまで、長いバスの旅に御同行下さった皆さんも、あ りがとう。
よっちゃんの、バス・ガイドで、大分間違った説明も あると思いますが、ミーハー・ガイドで、お赦しください。
それでは、終着、アイスレーベンです。 ぜひ、マルチン受洗の 洗礼盤など、お見逃しのないよう。フランクフルトよりの飛行機の 時間
にお気をつけてください。車内のお忘れ物の御注意下さい。
★ いつも、喜んでいなさい。1テサ5:16 よっちゃん★