[6/05/24 11:57] GBE01560 アイスレーベンの乞食(21)/よっちゃん 「新約聖書・独語訳 出版される (^_^)」 1522年

1521年、12月に、収拾のつかないウィッテンベルグに、マ ルチンは、一度、お忍びで、帰っています。新約聖書ドイツ
語訳へ の熱い要望をこの時、マルチンは切に感じ、また要望されたのでは ないかと言われています。

 マルチンの新約聖書の独語翻訳は実に驚異的です。10週間。 1522年2月には、すでに全原稿がウィッテンベルグの
活版印刷 屋さんの手に渡っています。初版、2000部は、9月に印刷が完 了しています。この聖書については、選帝候
認可付きで、ある程度 著作権留保的ニュアンスがあるのでしょうか。

 値段は、ほぼ、牛一頭分ですから、いまの日本でなら30〜50 万円なんて、ド高価なものですが、なんと、この2000部
をすぐ に完売して、1522年12月には、第2刷の増刷です。よっちゃ んのしてる出版社の本も、こんなに売れたら田園調
布南にビルが立 つのに・・・(^^ゞポリポリ

★ ★

 マルチンが、この独語訳に使った聖書は、マルチンが親しんだラ テン語ウルガタ版。そして、エラスムスのギリシャ語聖書
(これは 1519年の改訂第2版を使ったようです)。そして、そのエラス ムス聖書についてる、エラスムス私訳のラテン語聖
書です。

 興味あるのは、ライプチッヒ討論から反ルターの旗を掲げてるお ひげのゲオルク候も、マルチンに対抗して、カトリック保
守派で、 カトリック版ドイツ語聖書を対抗して作りかけています。しかし、 彼らは訳しすすむにつれて、マルチン訳のすばら
しさに気がつき 後半は、ほとんどマルチン訳になってしまったそうです。こうして マルチン独語版はカトリック保守派版の独
語聖書にも後々影響を与 える事になります。

★ ★ ★

 さてウィッテンベルグ過激派の中心は、マルチンとともにヨハン ・エックとライプチッヒで論陣をはったカールシュタットであった
そうです。 1521年の降誕祭でカールシュタットは、平服で説教、典文抜 きの両形式の聖餐。その翌日に婚約。さらに急進派
は聖像や聖画の 破壊。ついには、修道院を襲撃して、修道院に残る修道士をひきず り出して修道着を無理矢理脱がせる事
件まで起きています。(;_;)

 ザクセン選帝候にマルチンはウィッテンベルグ帰還を申し出ます が選帝候は許可しません。こうして、マルチンはワルトブル
グを抜 け出す事になるのでした。                ミーハー研究家 /よっちゃん

次週 「 愛の配慮なくして もはや 改革なし!! 急進過激派 諸君へ語る! キリスト者の自由!(22)」ご期待(^^)

P.S.【 ミーハー・ミニ知識 】

 マルチン・ルターの独語訳は、決して最初のドイツ語訳印刷では、  ありません。1939年の総合研究(Die Bibel im Mittelelter, Augusburg)
によれば、印刷としては、1461 OR 1466年の ストラスブールのメンテリン版。1473年のアウ グスブルグ版他。
1522年までに、すでに18種類の印刷版がありますが、いずれ も、ラテン語ウルガタを底本にしたものでした。そして非常に小部 数でした。




596 [96/05/29 15:09] GBE01560 アイスレーベンの乞食(22)/よっちゃん 改革急進派への説教 ミーハー・の目で見るルターの生涯

     「信仰における自由と 隣人への愛の配慮」

 「私達は、みな死に定められており、誰も他人にかわって死ぬこ   とは、できません。各自が自分で死と戦わねばならないのです。  
 なるほど死にかかっている人の耳にむかって叫ぶことはできま   しょう。しかし、死のときには、各自が自分できちんとしてい   
なければなりません。この時、私は、あなたといっしょにはい   ませんし、あなたも私といっしょにはいないのです。

  そこでは、ひとりひとりはキリスト者であれば求められる信仰   の主要な事柄を十分知って死に対して準備ができていなければ
  なりません。・・」

 これが、有名な1522年3月9日から、3月16日までの連続 説教の冒頭です。改革急進派が修道院襲撃や教会堂内像破壊まで し
ている状況の中で、静かなトーンで語られます。  信仰における個人主義的要素、信仰の自由が最初の主題で出てき ますが、説教が
すすむにつれ、本題の第2主題に変わっていきます。

 どのような状況の中でも、ひとりひとりが信仰によって自由に生 きていくなら、私達は現実のこの世の中の行動では、隣人のことを
思わなければならない。そして、とりわけ弱い兄弟が愛されなけれ ばならない。  これは、まさに1520年の「キリスト者の自由」のテーマです。
信仰において自由である事は、同時に愛において隣人に服し奉仕す る事である。^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^

 そして、改革においては、いつも自由な信仰の中で、愛の配慮が 欠けてはならない。当時の急進派は「・・・ねば、ならない。」 を連発し
ていました。しかし、人間の手による実力行使から真の改 革は生まれない。愛のうちに自由に信仰の深みの中に在る事によっ て、イエス
により頼むことによってのみ、改革は自然とおこるので ある。

 「たとえ、わたしが、フィリップと(フィリップ・メランヒトン)ウィッテ  ンベルグで、ビールを飲んでいる時でも、神の働きの中で改革は  進んでいるのだ。」


 急進派による人間の手による実力行使は、ローマ教会の犯した過 ちと同じ過ちを犯すことにもなる。マルチンは連続説教の中で語り ましたぁ。

★★

んでも、、カールシュタットは、ウィッテンベルグを出て、 さらにオルラミュンデで過激路線に走ります。チュリッヒで、ツヴ ィングリの活動もはじ
まっています。そして、一番、過激なのは このとき、ウィッテンベルグを後にした トーマス・ミュンツァー でしたぁ。マルチン君の思いと裏腹に、
あちこちに急進・過激派は 飛び火し、ときには暴徒と化して、悲劇を産むことにもなります。 改革は、挫折と混乱へと歩みはじめます。


★ ★ 次週・・・・>「フランケンハウゼンの丘 (;_;)1525年 なだれ落ち、くずれ落ち、6000人の農民達が死んでいく。(;_;)

炎の過激派 トーマス・ミュンツァーとドイツ農民戦争の悲惨 」ご期待!!




614 [96/06/05 08:09] GBE01560 アイスレーベンの乞食(23)/よっちゃん ミーハーの目で見る ルターの生涯
 【23】 フランケンハウゼンの悲惨」 1525年5月25日!


小高い丘の農民軍を、多勢の諸侯軍が包囲していました。 トーマス・ミュンツァーが、農民達に、叫びます。

 「神に、そむく者には、神が天から火をふらせるぞ。いま、それ  が目の前で起こるのじゃ。そのときこそ、我々が剣で、
神にそむ  くものを、蹴散らしてやろう!」

ウィッテンベルグを去った改革過激派の最過激はミュンツァー でした。ミュンツァーは聖書を越えて、聖霊の直接啓示を
信じ、 さらに神の国がこの世の現実に実現すると信じ、チューリンゲン の貧しい農民達と、一時はミュールハウゼンに共
産主義的共同体 を作ります。が、いま諸侯の鎮圧軍に包囲されていましたぁ。

★★  

 諸侯の万単位の鎮圧軍の武力に囲まれた、トーマス・ミュンツ  ァーひきいる農民軍は、街から小高い丘の上に陣営を
移していま  す。そこは、丈の低い草の丘で、戦争史家の間でも、トーマスが  なぜそこに陣営を構えたかは、解明されて
いないそうです。 丘の上に荷車を横倒しにして、彼らは陣を築いていました。

  諸侯軍に囲まれながら、トーマスは、神にそむく者には、天か  ら火が降り我々を助けるであろうと、農民達に激を飛ば
します。  おりしも、その時後方の諸侯軍より、大砲の砲弾が、農民軍陣地に 飛来します。

  トーマスの激励は裏目に出て、砲弾に驚いた農民達は、いまに  天から火が落ちると、完全なパニックになります。そして、
農  民軍陣地からは、諸侯軍の包囲が、谷方面に手薄に見えました。  最初に、谷方面に、一群の農民達が逃げ降りようと
するのがきっ  かけになり、農民軍は敵を待たずに総崩れで、パニックの怒涛の  集団になって、丘を駆け降りていきます。

  一気に駆け降りる農民達は、互いに倒しては踏みつけ、踏みつ  けては倒しで、悲惨な状況になってしまいます。この日、
その丘  で、6千人の農民が死んでいます。一方、諸侯軍の死者は、2名。  一時は圧倒的多勢の諸侯軍の農民虐殺があ
ったのではと考えられ  た事もあったのですが、この農民の自滅の暴走が、戦争史家や歴  史家の学者達に解明されてき
たそうです。   トーマス・ミュンツァーは、農家の屋根裏で発見され10日後  に斬首されています。

             ★  ★

ドイツ農民戦争は、ウィッテンベルグの改革に刺激されて、も ともと起こったものでしたが、「この世の終わりが迫りつつある。」
と 思わせる程に、1524年6月のシュバルツワルトから、この5 月のチューリンゲンのフランケンハウゼン。最後の11月まで
1年半 の期間、北ドイツとエルベ以東を除いて、ほぼ全ドイツに 農民一揆 の波として広がりました。

しかし「キリストによる解放、キリスト者の自由は、実に 内的 な ものである。」マルチンの態度は、一貫して、そして彼らに とっ
ては、 批判的で ある意味では冷たいものだったのでしょうか?多くの マル チン支持の農民が、この農民戦争を契機にマルチ
ンから離れています。(;_;)

 信仰による自由とは、この世と権威への抵抗とは、暴力とは、 教会とは、・・。そんな中で、マルチンは、悩みます。誤解と分裂
の 中で、マルチンは、よっちゃん達に何を言い残したのでしょう・・・? 1521年のウォルムス国会の「否(ナイン)」は、彼をセン
セーショナルに 無責任に英雄にして、1525年の農民戦争への「否(ナイン)」は、 マルチンを四面楚歌の中に落とします。
ウォルムスに向かうマルチン の馬車に歓声をあげた農民達が、いま、マルチンを見ると、石を投げる のでしたぁ。 マルチン
42才、それは、苦しい時代です。・・・つづく

次週「ツォリンコンの村。死を覚悟の再洗礼! 1525/01/21 彼らは、アナ・バプテスト!!」に 御期待ください。 つまらない原稿をたくさんアップしてすみましぇん。(__)



661 [96/06/12 09:55] GBE01560 アイスレーベンの乞食(24)/よっちゃん 週刊 木曜日、ミーハーの目で見る歴史・珍小説 ルターの生涯【24】

「 アナ・バプテスト、死を覚悟の再洗礼!! 」

日本で最初のルター伝を書いた、内村鑑三のルター傳は、1525 年で プッツン^^;;切れています。 農民蜂起の当初「暴動の責任は、
領主、特に福音に背く領主にある」としたマルチンも、農民の暴徒化 と略奪の中で、「農民が何人いようと、それは殺人、人殺しの暴
徒だ。」 と語ります。でも、印刷のタイミムラグで、マルチンの文書が印刷・ 配布された時、すでに農民は悲惨な敗走を続ける時期でし
た。 敗走 する農民に、マルチンの文書は追い撃ちをかける形になりましたぁ。 農民戦争の破綻は、また、改革者ルターの名声の破綻で
した。今でも 民衆の運動としてのルターの改革は、1525年に終わったと語る著 作もたくさんありましゅ。 でも、ひとりの情けない信仰者
として彼 を見ると、教えられるのは、ここからでしゅ。(^_-) さて、同じとし、南の スイスでは、もうひとつの群れが・・・・。

1525年1月21日。夜のとばりが降りるころです。チューリッ ヒのグロスミュンスター教会に近い、ノイシュタット通りのある 家に、一人、
また一人と、男達はこっそり入って行きました。「こ っそり」と言うのは、その日、チューリッヒ市会がこの人達(聖餐 におけるキリストの
現存否定派 ??ナンノコッチャ)の集会を禁止する法案 を可決していたからです。彼らは、その法を破って集会を開こうと しました。彼らは、
<危険な改革急進派>のレッテルを貼られまった。

ウィッテンベルグを去った、もう一人の急進派ウルリヒ・ツヴィ ングリは、市当局と妥協路線を歩みましたが、彼らは、ツヴィング リから
も離れ、世俗権力とは妥協しないと彼らの主張にかたくなで した。 聖餐においてキリストが現存するのはリアリティーでなく シンボルで
ある^^;;??。また、幼児洗礼も否定する。そして、彼ら の主張は、単に洗礼を受けている者がキリスト者ではなく、徹底し て真実にキリス
トに従う者のみが、キリスト者であると言う主張で した。フムフム ウィッテンベルグの穏健派を、ウィッテンベルグ の博学のおえらい羊飼い
と批判しまったぁ。

 古い「フッタライト年代記」に、彼らはこの時、具体的に第一歩 を踏み出すように、心に強く迫られたと記しています。迫害が必ず 襲う
ことを覚悟で、彼らは互いに再洗礼を授け合い、この地上にキ リストの教会を建て上げる働きに参加するよう互いに任命しました そう
です。これが、世界で最初の再洗礼(アナ・バプタイズ)にな りまったぁ。彼らにとって、再洗礼を受ける事は、文字通り 死に 直結してい
ましたぁ。(;_;)コワイヨ

 数日後にはツォリコン村の農夫たちも再洗礼を受けました。この 人たちは集会を続けましたが、覚悟の通り迫害が始まりました。市
当局の新生児への強制洗礼^^;; ナニオスルンジャ は強化されまった。そ して、再洗礼者への投獄、追放が、4ヶ月ほど続いた後、ツォリン
コンの「自由教会」は崩壊・離散してなくなりましゅ。(;_;)

 こうして、再洗礼派の宣教は、ペストの流行る時代の中、スイス からオーストリア、ドイツ、オランダへと 各地に分散していきま す・・ 、
農民戦争で改革に失望した、貧しい農民達のある者 達は、この禁止された群れに心の拠り所を求めました。が、打ち続 く迫害と混沌の
中で、やがてその信仰も混乱していきます。 15 36年、オランダで、カトリック & ルーテル派連合軍の あのアナ・ バプテスト大虐殺(;_;)が
起こる事をまだ、誰も、予想し得ませんでし たぁ。

しかし、彼らは、ある種の純粋さも抱いてたそうです。ある再洗 礼派の伝道者は、氷の上で自分を追いかけてくる迫害者が、氷に落ち た
とき、イエス様の言葉を思い出し、迫害者を助け、捕縛され殉教 しました。彼らの、殉教伝は、メノー派や フッター派の暖炉の上に 置か
れ、やがて 数百年の時を 語り継がれることになりましゅ。 この時代は、そして、また、ペストに苦しむの時代でした。 アナ・バプテストの
伝道者の多くは迫害か、ペストで死んでいます。(;_;)

★ ★

さて、私達の本拠地、ドイツにもどって・・・ 改革の夢や希望は、どこに行ったのでしょう・・・ ドイツの1000を越える修道院と城が、廃墟
となっていました。 3万5千の農民が蜂起したザクセン領では、マルチンの庇護者を結果 的に演じたザクセン選帝候が亡くなり、ヨハン
候の時代になりまった。

そして・・・ 1525年6月、突如、マルチンは、ある脱走修道女と結婚しましゅ。 友人達も「全世界と悪魔とはあざ笑うだろう。またルター
のなしてき た仕事は崩壊するだろう!」と語りましたぁ。それは、敵も味方も仲 間も 驚かせた< 電撃結婚 > だったのでしたぁ。 6月の
風が、ウィッテンベルグの街に吹いていましたぁ。

次週・木曜日 「いとしい ケーテ / カタリーナ・フォン・ボーラ」 乞う、御期待!! ★いつも喜んでいなさい。1テサ5:16/よっちゃん★




726 [96/06/20 11:23] GBE01560 アイスレーベンの乞食(25)/よっちゃん ミーハーの目で見る歴史:週刊・木曜ジャーナル「いとしいケーテ」



1523年、もう、そろそろイースターです。ニムションの女子 修道院の門を、塩つけニシンを運ぶ荷車が出ていきます。 誰も、 この荷車が、
9人の修道女の「大脱走・計画」である事に、その時 は気がつきませんでしたぁ。  修道女達の手元にもマルチンの著作は届いていました
。彼女達は 話し合ってルター先生のような信仰に生きたいと思います。彼女達 は、ウィッテンベルグに相談の手紙を書き、脱走計画を練り
ました。 脱走は成功。イースター直後、この9人の修道女は、改革の街、ウ ィッテンベルグに到着します。 ★  修道女から普通の女の人
になって、彼女達は次々と行儀見習いに 預けられたりしながら、皆は、身を寄せる所が与えられたり、めで たく結婚したりしていきます。
また、ある者は教師に、ある者は家 事手伝いの仕事。  しかし、最後まで行き先決まらず残った女性がいました。実は、 彼女もある青年
とめでたく結婚が決まったのですが、結婚に家族が 猛反対で破談になります。脱走修道尼と結婚なんて、とんでもない と青年はきつく戒め
られます。


 彼女は特に美人ではなく、もう26歳で脱走修道尼でした。そう です、この残ってしまった脱走修道尼がカタリーナでした。 
マル チンは、なんとこの問題を、自分がこの脱走修道尼カタリーナと結 婚する事で解決しています。(^_^)  カタリーナは、
小さな貴族の家柄の人ですが、幼い頃に親を失い 小さい頃から女子修道院に預けられニムシェンの街で修道女でした。
そして、この脱走に加わっていましたぁ。 農民戦争後の、混乱。それも、もと修道士と脱走修道女の結婚で した。時期的に
友人達の多くも反対の中での結婚でしたあ。(^^;

「私は、狂わしいような愛に落ち込んだわけではありません。し かし、私が妻を見るに、彼女をフランスやベネチアと交換したい
と 思いません。なぜなら彼女も、神が私に与えてくださった賜物です し、他の女性に比べたら欠点が少ないかもしれません。」

 はじめは、こんなクールな事を言ってたマルチンは、このカテリ ーナを「ケーテ」と呼んで、とっても慈しむようになります。  
マルチンもぬけぬけと、「パウロの手紙は、私のケーテのようだ。」 と言ったり、ケーテが病気した時は、「ケーテ、マルチンを
置いて 死なないで・・。」^^;; と叫んでいます。(^_^) (^^;; また、1525年と言えば、ドイツ農民戦争が悲惨のうちに終わ り、マル
チンにとっても失意と困難と改革派の分裂の時期でしたか ら、ケーテとの家庭生活は大きな慰さめと励ましになったそうでしゅ。  
マルチンの家に改革者達が集まる時、ケーテは料理の腕をふるい 120人分の料理を作ったこともありました。ケーテはもと
修道院 のおうちを学生下宿にして、下宿代で生活費もかせぎました。貧し さも苦しさも、そして逃亡も従順に受け止めたケーテでした。

            ★ ★ ★

このケーテは、影になり、ちょっと気難しい病弱なマルチンを本 当に支えつづけています。ケーテは、マルチンのことを「博士殿」
と呼んでいました。次女エリサベツが、1歳で召された事は、ふた りの大きなショックでした。三女マグダレーネは、14歳で召さ
れ ます。「わたしは、すべて良しと信じているのに、どうしてこんな に悲しいのだろう。」主は、ふたりに、悲しみを知る試練もお
与え になっています。マルチンとケーテは、悲しみや痛みも十分に味わ った、とっても仲の良い夫婦でした。



さて、物語のストーリーに戻って・・・ 農民戦争での挫折は、マルチンの改革を領邦教会への道へ歩ま せてしまう事になります。
1526年、シュパイヤー帝国議会は、 諸侯ならびに帝国各都市は、自ら責任をとる態度をとって良いと 議決します。これは、
ルーター的教会の法的根拠になりましゅ。 ようやくカトリック保守派も事態の重大さに気がつきまったぁ。

1527年。ペストは、ウィッテンベルグの街にも訪れ、各地 では、アナ・バプテストへの迫害が続いていましたぁ。 ペスト で家族
を亡くし、悲しむドイツに、6月の風が吹いていましたぁ。

次週:1529/04/19 議決への プロテスト 「彼らは、プロテスタント!」 乞う 御期待!!\(^_^)/

PS 早めに終わらせましゅので、いま、しばらくご辛抱くだしゃいね。(__)スンマシェン