360 [96/04/18 09:40] GBE01560 アイスレーベンの乞食(16)/よっちゃん

「アウグスブルグ審問!」

アウグスブルグの街並に、落ち葉がまっていました。 1518年10月12日。ヤーコブ・フッガーの築き上げた黄金の都
]アウグスブルグに、ひとりの痩せこけた修道僧がウィッテンベルグから やってきましたぁ。やって来たのは、われらのマ
ルチン・ルター君。 世に言う「アウグブルグ審問」のはじまりです。

マルチンはこの時の審問を自ら文献に残しています。マルチンは、床 に十字に伏せて、異端審問官・枢機卿カエタンに、
畏敬の念を示しま した。カエタンは、「わたしは、お前の父親のような気持ちで、お話し をしたいのだぁよぉ。」と審問をスタ
ートさせています。

カエタンが、マルチンに再確認させようとした事は、「教会がそう信 じ、教会がそう教えている事が、すなわち<真理>である
事」もう一点 は、「最後の最終的な権威は、ローマ教会である事。」この2点でした。 ところが、マルチンは、「神の御言葉、聖
書こそが、最後の最終の権 威である事。」を主張し、それが、もし間違っているなら自分を説得し 納得させて欲しいとカエタン
に迫りました。審問は、10月14日まで 3日間にわたり、両者の対立は次第に激しく、論争となります。マルチ ンは、ここで、
「教皇も公会議も間違いを犯す」ことを指摘してしまい ます。わちゃ、そこまで言うたら、やばいよ>マルちゃん。 審問は決裂、
カエタンがマルチンに語った最後の言葉は、「(自 説を取り消すつもりがないなら、)2度と私の目の前に現れるな!」と 言う叱咤でしたぁ。


さらに裏工作で、カエタンは、マルチンが敬愛していたザクセン管区 長ウィッテンベルグのシュターピッツに「マルチン・ルター説
得依頼」 をしていますが、カエタンの心には、マルチンに自説撤回を量らせ、穏 便に事を収められないか、量っていた面もあっ
たのでしょうか。シュタ ーピッツの答えは、「私には、とても、マルチン・ルターを説得できな い。」 でしたぁ。




「まもなく、カエタンがマルチン・ルターを逮捕!」のうわさが流れ る中、夜中、ひそかにマルチンは、アウグスブルグを脱出しています。

カエタンはザクセン選帝侯に、「マルチン・ルター領地追放か ロー マ引渡し」を迫ります。選帝侯は、マルチンの有罪・破門が確定
してい ない今、彼を追放もローマ引渡しのできないと返答します。でも、ん時 すでに、ローマでは、神聖ドイツローマ皇帝マクシミリ
アンの命が、い よいよだったのでした。教皇庁の関心も、時期皇帝選挙での各地の選帝 侯の動向に絞られます。1519年1月、
カール・ファオン・ミルティ ッツを調停者に、ザクセン選帝侯フリードリヒに、黄金のバラを送り 「ともかく当分、マルチン・ルターを黙
らせてはくれまいかぁ。おねが ぁい。」と融和穏便策をザクセンに対してとっています。 ドイツの政 情不安が、我ここに立つのウォ
ルムス国会まで4年間、マルチンを野放 しにして、改革者としてヨーロッパ中に有名にしてしまうチャンス を与 えてしまう事になるの
でしたぁ、。

1519年1月12日。マクシミリアン皇帝死去。 この日、ウィッテンベルグには、冬の風が吹いていましたぁ・・つづく




413 [96/04/26 22:30] GBE01560 アイスレーベンの乞食(17)/よっちゃん 週刊木曜日:ミーハーの歴史小説 ! アイスレーベンの乞食(17)

 「 ウォルムスへ の 道 」

まあ、たいへん・・・。 なにがって、あなたぁ・・ほれ、1519年1月12日、マクシミリアン 皇帝が亡くなっちゃんだから。ほら、たい
へん。後継有力者は、スペインの カール王と、フランスのフランソワ王でした。次の皇帝選挙に選帝権を持 つ、ウィッテンベルグ
のザクセン選帝候フリードリッヒに、強く出れない教 皇庁は、ミルティッツを立てて「とりあえずマルチン・ルターに黙ってもら う作
戦」に出ます。贖宥(しょうゆ)のお札問題については自然消滅にしよ うと、玉虫色の解決案を、ローマ側が提出しています。  
この漢字、新聞でよく見ますが「たまむしいろ」って読むのかなぁ。

 でも、このとき保守カトリック側も、マルチンへの反撃!当時の論壇の大 物 &ディベート討論の達人& 記憶力の鬼と言われた
、「切れる 男 /ヨハ ン・エック」が登場します。 エックは、<名門ライプチッヒ大学> ゲオ ルグ候は、マルチンと彼の親友で
後のウィッテンベルグ急進派の要、カール シュタットを呼び出しましたぁ。   この「ライプチッヒ討論」が、マルチンを、ドイツ中で、
ますます有名 な人物にしてしまいましたぁ。

              ★


 1519年7月、マルチン達、ライプチッヒに到着。  討論にはやる気持ちを押えるのに、この時、マルチンは、白いバラを持っ て
会場に入りました。 ヨハン・エックは、マルチン君より、ずっと大人 で、何枚も上手でした。マルチンは、この激論の中で、またも、
「教会も、 公会議も誤りをおかすことがある。」と公けに発言てしまいます。

  さらに、エックが、この討論で目的を達成したのは、マルチンが「10 0年前に、あの火刑になった、ヤン・フスの教えの中にも、
わたしは福音的 なものを認める。」と語ったときでした。

  異端者ヤン・フスに福音を見るなら、マルチン・ルターの教えもまた異 端であると、堂々とエックは、「マルチン・ルターは異端」
を印象付けるこ とに成功しました。 あちゃま。

              ★★  

さて、時を同じく 1519年6月28日、神聖ローマ皇帝カール5世就 任。 時代の足踏みもようやく終わります。1520年6月25日、
教皇レ オ10世、破門威嚇の教書発行。同年12月10日。ウィッテンベルグ大学 エスター門で、マルチンは焚き火の中に、この教
書をほりこみました。学生 達も、スコラ神学や エックや 保守的書物を 燃やしましたぁ。 シーランデ モー ヨーメンドー ミンワ そして、つい
に  1521年。 4月。ジャジャーン レッヒッホ 神聖ローマ皇 帝カール5世が、  マルチン・ルターを、ウォルムス国会へ召喚。 いよいよ、
来々週が、「我、ここに立つ」ウォルムスの名場面でしゅよ。

 心配するウィッテンベルグの仲間に、マルチンは「たとえウォルムスの街 の瓦が全部わたしに落ちてきても、私は、ウォルムスに
い 行かねばならな い。」と語っています。 いつもは、徒歩旅行のマルチンもこの時だけは身 の安全のため馬車を使っています。

             ★★★

 ウィッテンベルグからウォルムスへ向かう道は、思い出のエルフルトを通 ります。 遠い日、法律家を目指して、ハンス父ちゃんの
期待を一身に負っ て、この街に来たとき、誰が、今日の日を想像できたでしょう。  エルフ ルトの若い学生達が、ウォルムスに向
かう馬車を見送っていました。  ド イツの森にも、もう春の気配。その時、パンジーが咲いていたかどうかは、 文献に残っていません。

                     つづく 次週、「24時間の猶予をくだしゃい!」に御期待あれ れ



447 [96/05/02 14:58] GBE01560 アイスレーベンの乞食(18)/よっちゃん 週刊木曜日:ミーハーの歴史物語  「 24時間の、猶予 」



フランクフルト空港から、ローカル線で1時間あまり。いよいよ、歴史の 大舞台、ウォルムスです。と、思いきや、 今、ウォルムスで
私達が出会う のは、芝生の広場です。 でも、注意深い方は、その一角の石に、「マルチ ン・ルターが、カール5世に喚問されし場
所」と刻まれているのを見つける ことでしょう。当時、ここに、時の実力者400名が集まり、マルチンが喚 問されたのでした。 この
喚問後、マルチンの便秘や、不眠等の神経病み 症状が顕著になり、ときには妄想にインク壜を投げたり^^;;しているのを見 ると、
マルチンにとって、この喚問が死と隣り合わせで、心身ともに限界ま できりつめた過酷な体験だった事を覚えます。




1521年4月17日。 マルチンの前には、机。その机の上には、マルチンの印刷された出版物が 積み上げられていました。就任
間もないドイツ神聖ローマ帝国カール5世付 き顧問官が、質問をはじめます。 当時の・・・  ドイツは、地方分権を重んじる気質で、
首都を定めず国会は、開かれるた びに、開催地を移動します。カール5世が、祖父マクシミリアンから、帝位 を継いで最初に152
1年4月に開いたのは、ウォルムスだったのでした。

 皇帝側の記録官は、「黒い修道着に身を包んだ、痩せこけた細い、ひとり の修道士が、実力者達の前に引き出された」と記録を
残しています。顧問官 の質問が、はじまりました。質問の第1。「その机の上に積まれているの は、お前が、書いたものに相違ない
か。」マルチンは、認めます。  質問の第2。「そこに、書かれているのは、おまえの考えか。」これも、 マルチンは認めています。


 質問の第3。「お前は、ここに書かれている事を撤回するか。」マルチン の答えを持って静まる場内。うつむき、祈るかのように沈黙
するマルチン。  やがて、マルチンの口が動きます。・・・・・

「この問題は神と神の言葉に関係し、霊魂の救いに影響を及ぼす ことです。それゆえ言い過ぎても言うことが少なすぎてもいけ ません。
お願いです。わたしにそれを考える時間をください。」


皇帝と国会はこの答えに驚きつつも、寛大にも翌日まで24時間の猶予を 与えています。こうして、喚問第一日目は終わっています。
晩年振り返っ てマルチンが当時、たびたび苛まれた疑問は、「1500年築きあげられた 教会の伝統が誤っていて、たったひとりの私が
、正しくあり得ようか。」と 言うことだったそうです。目に見えるところで、彼にとって頼るものは、た だ1冊の、使い旧されたラテン語ウル
ガタ版の聖書だけでしたぁ。

★★

1521年4月18日、午後6時。喚問、第ニ日目。再び、マルチンは彼 らの前に登場する事になります。これは、創作抜きで記録官の
記録にありま すが、「弱々しく、小さく見えたマルチンが、翌日登場した時、なにか大き く見えた。」と記しています。

質問は、再び第1から繰り返されています。そして、質問の第3。 「お 前は、ここに書かれている事を撤回するか。」マルチンは、 祈りの
夜が終 わり、何かを持って目覚めたかのように、おちついた 声で、ゆっくりと語 りはじめます。

 「恵み深い君主、皇帝陛下。高貴なる諸侯閣下。私は、昨日私に 御指定頂いた時間に、このようにすすんで謹んで出て参りまし た。
私が真実だと思っております私の一件に関してまして、恵 みをもって、お聞き頂きたく神のあわれみのゆえに切にお願い 申し上げます。・・・・ つづく

次週:「我ここに立つ」に御期待ください



485 [96/05/09 10:36] GBE01560 アイスレーベンの乞食(19)/よっちゃん 週刊木曜日 / ミーハーの歴史 珍・小説 シーン19/
「我 ここに立つ!」
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 翌日、登場したマルチンは、ひとつの悩みを越えたように、毅然として見 えたそうです。まず、第3の質問に対して、マルチンの口
述がはじまります。 この口述は、マルチン自身が記録を残しています。

 「・・私が真実だと思っております私の1件に関しまして恵みを  もって、お聞き上げ頂きたく神のあわれみのゆえに切にお願い
申 しあげます。・・・・」

実は、マルチンの口述は、長々と続きます。自身の著作を、信仰に関するも の、教皇制に関するもの、個人的論争に関するも
の3つに分けて、弁明して いきます。ところが、皇帝顧問官は、マルチンの陳述を割ってはいります。

 「あなたの答えは核心に触れていない。公会議で異端とされ、決  定されたことについて、あらためて疑いを示してはならない。
だ  から取り消すつもりがあるのか、ないのか。細かい事を言わず単  純な答えを期待したい。」

そして、マルチンは、最後に答えました・・・(マルチン自身の記録の邦訳 です。)これが、後の世に「我ここに立つ」と伝えられた発言です。

 「皇帝陛下や諸侯閣下が、単純な答えを求めておられますので、  私も、細かいことぬきで他意なしに、はっきり申し上げます。  
聖書の証言か、明白な理由をもって服せしめられないならば、私 は、私が掲げた聖句に服しつづけます。私の良心は、神の御言葉
に捕らえられています。なぜなら、私は、教皇も公会議も、信じ ないからです。それらが、しばしば誤ったし、たがいに矛盾して いるこ
とは明白だからです。   私は、取り消すことができませんし、取り消すつもりもありま  せん。良心に反したことをするのは、確実な
ことでも得策のこと  でもないからです。神よ、私を助けたまえ。アーメン。」





さて・・・ カール5世は、フェアーな処置を取って、約束通り復路の安全に途中まで護 衛をつけました。100年前のヤン・フスの場合は 
その場で、身の安全を 取り消され、火あぶりになっています。

 ウォルムスの街を出たマルチンには、「アハト刑」が宣告されます。これ について、よく参考書に書かれる「追放」と言う訳が正確でない
(領土から 追放されるわけではなかった)ので、最近は、カタカナで、「アハト刑」と 言われているそうです。フムフム。アハトは、独語の「8」
ですが、いみじくも 日本の「村八分」とニュアンスが似ています。帝国内にいながら、一切の帝 国内の法律的、政治的保護が受けられま
せん。

 ウォルムスの帰り道、マルチンは、何を考えていたでしょう。ウィッテン ベルグに帰って今後の対策でしょうか。しかし、マルチンの知らな
い所で、 ひとつのシナリオが、書かれていました。このウォルムスの帰途、シナリオ 通りの事件が起きます。そして 今や、時の人となった
マルチンは、突如、 時代の人々の前から、 行方知れずになってしまうのです。(つづく)

次週「 マルチン・ルター博士 誘拐される! 」に御期待を!




540 [96/05/18 08:15] GBE01560 アイスレーベンの乞食(20)/よっちゃん 週刊/木曜日 「マルチン・ルター博士 誘拐さる!」

それは、事件でした・・・・。  1521年4月26日、ウォルムスを後にしたマルチン・ルターの一行は、 メーラーで一泊。数人の仲間ととも
に、アイゼナハの村はずれまで来ましたぁ。 その時、一群の武装した騎士が、森の中から出てきて、馬車の前に立ちふさ がりましたぁ。
「お前が、ルターか?」

マルチンは、馬車からひきずりおろされ、つれ去られましたぁ。 「ウォル ムスの帰途、マルチン・ルター、何者かに誘拐さる。」との知らせが、
この喚 問に注目していたヨーロッパ中に報じられます。多くの者は、マルチンは誘拐 されどこかで抹殺されたのではないかと思いました。(;_;)
マルチンに好意を 抱いていた、あの、アルブレヒト・デューラーも、この時、たいへん嘆いたと 伝えられています。

 が、なんとぉ、しかし^^;;、これはザクセン選帝候の顧問官シュパラチンの 周到に準備された計画でした。ザクセン選帝候は非常に慎重な男で
、改革につ いても最後までフォーマルに賛成のポーズをとっていません。これ以上、マル チンにちょろちょろされては、自分の立場が巻き込まれ
ると感じたのか、好意 的にかくまったのか真意は計りかねるそうです。

★ ★

 マルチンが連れて来られたのは、あのワーグナーのタンホイザーの舞台にも なり、ドイツ史上いろいろ有名なワルトブルグの城塞です。ここで
騎士の姿に 変装して、「騎士ヨルク」と名乗って、9ヶ月をマルチンは過ごすことになり ます。この城塞からは、今までの喚問や審問がうそのよう
に静かで、マルチン の部屋は、あのサタンにインク壷を投げた^^;;で有名な著作の部屋です。

 ★ ★

 マルチンは、「パトモスの小島より」と黙示録のヨハネをもじって、ワルト ブルグからウィッテンベルグに残した改革者達にやがて手紙を書くよう
になり、 マルチンのワルトブルグ健在も知れるようになってきます。(^^)この時、 改革仲間のメランヒトンに書いた手紙が、大胆に罪を犯せのイ
ンパクトのある フレーズ^^;;; で有名になっている手紙です。

 「フィリップ・メランヒトン君へ

  あなたが恵みの説教者であれば作り物の恵みでなく、本物の恵  みを説教しなさい。もし、それが本物の恵みであれば、作り物の  の罪では
なく、本物の罪を追いなさい。神は作り物の罪人を救い  たまいません。罪人でありなさい。大胆に罪を犯しなさい。しか  し、大胆にキリストを信
じなさい。 マルチン・ルター」

 マルチンがワルトブルクで静かに著作にくれる間、ウィテンベルグで指導者 を失った改革者達は、次第に過激になっていきます。修道院の襲撃
事件。教会 堂の聖像破壊事件。やがて、改革の街であるはずのウィッテンベルグは、収拾 がつかない状態になり、改革急進・過激派を生み出し
ていきます。 以後、マ ルチンは、保守カトリックより、むしろ急進過激派との対立に、心身ともに労 することになりますが、マルチンの急進派への
「愛がなくて、なにがぁ改革ぞ」 の名説教を、もうじき聞けますよぉ。 でも、その前に、ワルトブルグでの、 「新約聖書・独語訳」のお話しをいたひまひょ〜!

次週「独語:9月聖書 の 値段は 牛一頭!^^;;」にご期待!