189 [96/03/16 13:20] GBE01560 アイスレーベンの乞食(11)/よっちゃん 「良心への雷撃!!」 ピカ ドンドン!
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人を救うのは、神の義であり、その救いはひとえに信仰を 通して与えられると言うことが、福音に現れています。
「正しい人は信仰によって生きるのである。」と言われて いる通りです。 ローマ 1:17より (フランシスコ会訳)
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マルチンのローマ書の講義は続きました。  罪とは、どうしようもない人間存在の奥底にあるもである。
あんな事をしてし まったこんな事をしてしまったと言うような、ちゃちなものではなく、人間存在 の奥底深
くあり、根源にあり、神にそむき、自己利益を追求する心である。人間 は、他のすべての事において、神
をだしに使ってさえ、神にそむき自己の醜い利 益を追求している。

 そして、ローマ書には、キリストの義が、私達の外から私達の内にはいってく ださる。そして、キリストに
よって義の衣を着せてくださる。それは、「信仰」 Glauben グラウベンによってのみ、とらえる事ができる。私
達は、<誰ひとりの、 例外もなく、罪人である。>罪人を救うわざは、イエス・キリストにおいて、神 おひと
りが、なされる働きである。 ★


 この教室で、学生達と分かちあいながら、マルチンの信仰は築かれていくので した。よく、中世教会の
腐敗への反発として、宗教改革を説明されますが、マル チン自身は、当時の修道会の、最も優れたたい
へん熱心に神を求める環境の中に いました。彼は、その人間的には優れた熱心な所の中にさえある問題
や傲慢に気 付きました。

マルチンが、聖書から読んだ事は、どこまでも、徹底して、神の前 に、悔い砕かれる事でした。人間が、
自らの「義」を持って、神の前に立ち得る 事はない。十字架のみが唯一の救いである。 その福音の発見
の感動を、マルチ ン君は、「良心への雷撃」とネーミングしています。

★★

さて、・・・  そんなマルチンの思いと裏腹に、教皇の真紅の旗を先頭に、ドミニコ会の修道 僧と、フッガー
家の手代が鍵を持って着いて回る、うわさの罪のつぐないをパス できると言う「免償」(めんしょう)のお札の
キャンペーンの行列は、しだいに、 ザクセンのマルチンにも近づいて来ているのでした。 さあ、お待たせしま
したぁ。 いよいよ 面白いのは、これからだよ〜!波乱万丈、手に汗握る。寄ってらっしゃ い、見てらっしゃい 
アレ^^;;          ミーハー歴史家・よっちゃん

P.S.マルチン君の講義史

1513年 〜 1515年 第一回 詩篇講義   

 1515年 〜 1516年 ローマ書講義    

1516年 〜 1517年 ガラテヤ書講義   

 1517年 〜 1518年 ヘブル書講義

1518年 〜 1521年 第2回詩篇講義

1517年10月31日 ウィッテンベルグの95箇条



238 [96/03/23 10:40] GBE01560 アイスレーベンの乞食(12)a/よっちゃん 「お札を、お買いなされ!」^^;;の行列、とうとう登場!


 「民衆のみなさん。聞こえませぬか? 煉獄であなたの御両親が 苦しんで、あなたに助けを求めております
るぞ。この世で罪の償い を残したがために、いま、煉獄で火焙りの苦痛の中にありますのじ ゃ。そうじゃ、あ
なたの苦しんでおられる御両親を、苦痛から救っ て、おあげなされ。   民衆のみなさん、あなたは、そこま
で、けちんぼで、なかろう。 あなたの金貨が、この箱にはいって、チャリンっと音を立てる時、 免償のお札の
効力で、御両親は苦痛から救われますぞ。さあ、苦し み助けを叫ぶ者の声を聞きなされ。」



 それは、たいへん感動的な説教であったと言われています。当時の免償のお札の 販売マニュアルの文献か
ら再現されます。 先頭を、真紅の教皇のお旗。そして代 金を入れる箱、その箱の鍵を預かるフッガー家の者、
そして。主にドミニコ会のキ ャンペーン説教者が、かつがれた行列。これが、社会の教科書等にも登場する
「免 罪符販売」です。 お札は売られた時期や地方で、若干、効力が違いますがこの時、 売られたお札は最強
の完全版で、過去も現在も未来も罪の償い(懺悔、告白の時に 仰せ付かる償い)が、免除される「免罪」と言う
より「免償」(めんしょう)のお 札の完全版^^;;でした。マルチンのアウグスチヌス派修道会はフランシスコ会系列
ですが、主にこのキャンペーンに参加したのは、ドミニコ会です。


 マルチンは、実は当時、このお札の裏話しを知らなかったようです。このお札 マランツ地方の大司教の地位を
を得んがために、ローマ教会本部に、さる人物が、 時価数億円と言われる金塊をワイロに送った事が発端です。
その見返りに、教皇庁 が数億円相当の免償のお札の販売を許可していたのでした。 そして、この数億円 をとり
あえず立て替えて教皇庁に払ったのが、当時の財閥フッガー家です。 なんちゅう、こっちゃ! ・・・(12)bへつづく



239 [96/03/23 10:40] GBE01560 アイスレーベンの乞食(12)b/よっちゃん 「10月31日は、聖遺物バーゲンの日!」

一方、ウィッテンベルグの街の御領主でもあるザクセン候は、領地内での、免償の お札の販売を拒否しています。
これはすぐれた信仰からではなくて、んの逆で、実 は、このザクセン候はマニアックな聖遺物ファンでした。もともとの
聖遺物信仰は純 粋なものだったのでしょうが、ザクセン候に至っては、聖遺物を収拾して、なんとカ タログまで作って
います。そして、そのカタログには効能まで書いて有ります。「こ の聖遺物には、煉獄での火焙りの苦痛を、2万年短縮
の効果あり。」とかです。^^;;  ですから、免償のお札なんど売られた時には、聖遺物の御商売はあがったりです。
ですから、ウィッテンベルグには、お札売りは、なかなか はいって来れませんでした。

 この、ザクセン候は、年に一度、御自慢の聖遺物の御開帳、展示会・キャンペーン の日を決めていて、毎年、聖遺物
大展示会が行われました。その日は、毎年、10月 31日でした。


259 [96/03/28 12:54] GBE01560 アイスレーベンの乞食(13)/よっちゃん  「1516年の10月31日の ザアカイ 」

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「きょう、救いが、この家に訪れた。」ルカ19章 9節
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 95箇条の、ちょうど一年前の10月31日にマルチンが、教会でした説教が、文献 に残っています。選んだテキス
トは、ルカの19章のザアカイです。 マルチンの説教 は、どちらかと言うと最初に、結論をぶつけるタイプの説教で
した。街は、おりしも、 10月31日。あのザクセン候の<聖遺物の御開帳の日>。マルチンは、冒頭で、こう 語ります。

 「ある人にとって、キリストが、なにものかであれば、他のすべ てのものは、むなしい。

  ある人にとって、他のものが、なにほどかであれば、キリスト はむなしい。・・・」

 後に・・・   マルチンに関する第一報が、ローマ教皇の耳にはいった時、パパ様は、「おお、 ドミニコとフランシスコ
の修道士が田舎で、いざこざを起こしておる。」^^;;と、語っ たそうです。ハイデルベルグ討論(1518年)では、伝統的
なハイデルベルグ神学部の教授 連は、田舎の新設大学の教授が、何を言うとると思いました。

 1516年秋。この主役達も、歴史の中で、いったい何が起ころうとしているのか、 まだ把握していませんでした。一
人の田舎の修道士が、聖書に悩み組んだ時、やがて 歴史を揺るがす、とんでもない事が、起ころうとしていたのでした。 


第一部 終わり パチ パチ パチ (拍手) SEE YOU  第二部 「改革の嵐」 に、続きます マダ ツヅクノケ^^;; ミーハー歴史家 /よっちゃん




307 [96/04/05 10:00] GBE01560 アイスレーベンの乞食(14)/よっちゃん]
第2部 改革の嵐/
「ウィッテンベルグの秋 (1517年 10月31日)」


「ルター先生。大丈夫でござるよ。ほれ、この免償のお札を見てくだされ。」

そのお札を目にして、ルター先生が、「がちょ〜ん!」と言ったかどうかは文 献に残っていません。時は、1517年、実りの
秋。聖遺物マニア・ザクセン侯 の計らいで、ウィッテンベルグにお札の行列が来なかったものの、人々は、隣町 にお札を
買いに行っていました。 人間は誰も自ら己の義を持って、神の前に立ち得ない。十字架を信じる信仰の みが、罪人を恵
みの中に立たせる。ようやく福音を再発見しはじめたたマルチン 君にとって、それは、ショッキングな出来事でした。


1517年10月31日。ザクセンで聖遺物、開帳の日。お昼 12時ちょっ と過ぎ、お昼ご飯前だったか後だったかは、文献
に残っていませんが、マルチン ・ルターは大学内討論を呼び掛けて、ウィッテンベルグ城教会の扉に、一枚のビ ラを貼り、
修道士会にも同文を手紙しました。(11月1日と記す文献もありま す)そこには、95箇条にわたる提題が書かれていました。
物語の第二部は、こうして始まります。


第1条 私達の主であるイエス・キリストが悔い改めなさいと言われたとき、そ れは、信じる者の全生涯が悔い改めである事を主は望んでおられる。


第21条 ・・・教皇の贖宥(しょうゆ)によって、人間はすべての罰から放免 され、救われると述べるあの贖宥説教者たちは誤っている。


第28条 金貨が音を立てて箱に落ちるやいなや、煉獄にある魂が、救われると言 うのは人間の作りごとである。金貨が箱の中で
音を立てると、確かに利 得と貪欲は増すであろうが。

第62条 教会はお札を宝だと言うが、教会の宝は、神の栄光と恵みの最も清い、 福音だけである。いつわりの平安を告げる者は立ち
去らなければならな い。説教者が告げるべきは、キリストの十字架である。

第86条 もっとも富めるクラスス(人名のごろ:富める)よりも、今日では豊か な財を持つ教皇が、なぜ貧しい信者よりもむしろ自分の金
で聖ペテロ大 聖堂ひとつ建てないのか。

第95条 そして、キリスト者は、平安の保証よりも、むしろ多くの試練によって、 天国にはいることを信じなければならない。


せっかくの討論の呼び掛けにかかわらず、討論相手はウィッテンベルグにいませ んでした。でも、マルチンの意図に反して、活版印
刷屋が印刷して販売。独訳もさ れて、それを手に入れまた印刷。ほぼ2週間、11月半ばには、この提題がヨーロ ッパ全土に広がっ
てしまうと言う当時では考えられないような、とんでもない事に なります。字の読めない人も買っては、酒場で朗読屋さんに読んでもら
いました。 あらま、たいへん(*_*) 1517年10月31日。ウィッテンベルグには、これか ら起こる事には無頓着に、秋の風が吹いてい
]まったよ。れ。/ミーハー・よっちゃん



331 [96/04/11 09:31] GBE01560 アイスレーベンの乞食(15)/よっちゃん 「枢機卿・カエタン登場! 」

日本で最初のルター伝は、ルーテル派でなく、ある時期ルターに心酔した 内村鑑三が書いています。「キリスト者の自由」の最初の
翻訳も無教会で内 村の門下によってなされています。ところが、内村のルター伝は、前半だけ で1525年の農民戦争でぷっつり切
れています。 内村のルター批判は、彼は、狼を追い払おうとして虎を呼び込んだ改革の 失敗者。事実、後に最も保守的で強権的な
歩みをなしたのが、ルターに源を 発するドイツ・ルーテルだそうです。無教会の高橋三郎氏は、もし、内村が ルターに向かってこの
質問を面と発したら、おそらくルターはこう答えるだ ろうと語っています。「うっちゃん(内村)!君の言うとおりだよ。こうな るのは自
分の意図ではなかった。でも、マルちゃんはね、歴史の巨大な奔流 のなかで、なすすべがなかったよぉ。これで、せい、いっぱいだっ
たよ。」


ルターも、再発見した「信仰のみによって義とされる」と言う恵みは、プ ロテスタンティズムの中で、視点が変換し「信仰がなければ救
われない。」 しかも、「正しい信仰でなければ救われない。」と言うふうに<恩恵>が、 いつしか<教義(ドグマ)>となり、「律法のの
ろい」を招き入れる温床と なり宗教化する危機も包括していた。16世紀の問題は、同時に、現代の問 題であると・・・。聖書に立つ。
福音に立つ。と言うことに、私達はいかに 弱き歩みをなす者でしょう。・・と、よっちゃんが言っても、。あら^^;ドー ナッテンノ



マルチンをして晩年に、「まるで天使が飛び回って撒いたようだ。」と回 想せしめたほどの早さで「95箇条の提題」は、ヨーロッパを飛
び回り15 17年12月には、本にまでなっていました^^;;れれ。 さて、マルチン・ルターより、100年前。ローマ教会に疑問を投げたヤ
ン・フスは、ただちに破門され、その場で火焙りになりました。もし、ドイ ツの政情不安がなかったら、もっと早くマルチンも、葬られたか
もしれませ ん。でも、老齢のマクシミリアンがなくなり、カール5世が立つまでの政情 不安が、幸いします。帝を選ぶ権利を持つザクセ
ン選帝侯フリードリッヒに しても、いくらポリシーのない男でも、自分の力を入れた新設大学から早々 に破門火焙りの教授を出しては
困ります。なぜか、このザクセン侯は、結果 的にマルチンの良き庇護者を演じるはめになります。

その間、名門ハイデルベルグ大学での討論にマルチンは呼び出されますが 名門大学で、マルチンは「田舎の教授が何を?」と言う扱
いでした。でも、 すでにこの時、ブッツァー(後にストラスブールで改革を興す)や、後の若 い改革者達は、マルチンの言葉を真剣に聞
いていたそうです。 マルチンは、 さらに1年、再びウィッテンベルグで第2回詩編講義を行います。

最初は、ドミニコ会と、フランシスコ会のいざこざととらえていた教皇庁 も、事広まっては、捨ておくわけにはいかず、ローマ教会きって
の賢人、枢 機卿カエタンを、審問に差し向ける事になります。あの難解なトマス・アケ イナスも自由に引用するローマ教会の代表選手
、カエタンが、マルチンの前 に立つことになります。カエタンは、偉大な学者で、「95箇条」が結果的 にローマ教会の権威の破綻につな
がる事を、マルチンよりはるかに見抜いて いたと言われます。

1518年8月23日。教皇庁は、枢機卿カエタンに、マルチン・ルター の異端審問の権限を付与。同年、9月。マルチンに呼出状が届きま
す。審問 地はアウグスブルグ。マルチンは、アウグスブルグに旅たちます。審問は、 1518年10月12日。友に、「今度は、死ななけれ
ばならないだろう。」 そう語っての旅立ちでした。またも、ドイツの森には秋が訪れていました。 ・・・・つづく /ミーハー・よっちゃん