858  [96/02/09 18:20]  GBE01560      アイスレーベンの乞食(6)/よっちゃん
「ハンス父ちゃんが、怒った!」

1507年5月2日、日曜日。この日、ドイツの空は晴れていましたぁ。 静寂を破ってエルフルト修道院の鐘が鳴り、
司祭になったマルチンのはじめ てのミサです。ハンス父ちゃんも、マンスフェルトからやって来ましたぁ。


しかし、このミサを捧げる中で、マルチンは、激しい動揺にかられていま す。「罪深い私が、どうして、永遠の真理
の神の前に立ち、語り得るのか?」 2年の修道の日々の中で、望んだ平安よりも、彼は不安を覚えていたのでし
たぁ。 後にマルチンは、このように書いています。 「・・・しかし、いかに欠点のない修道士として生きたとしても、全
く不 安な良心を持った罪人であると私は感じていたぁ。私のつぐないを持って神 が満足されるとは、確信を持つこ
とはできなかった。だから、私は、罪人を 罰する<義の神>が愛せなかった。 ・・・・私の良心は混乱していたぁ。」
この混乱が、やがて詩編の中で、福音を再発見する事につながるのですが・・・

さて、ミサの後の歓談で、ほっとしたのと再会の嬉しさでマルチンは、口 がすべって、「父さんは、私の修道にど
うしてあんなに反対したの?」と聞い てしまいます。 じっと堪えていたハンス父ちゃんの、堪忍袋が破れて・・・ 「お
[前は、神のお召しを聞いたと言うが、悪魔の声ではないのか! おまえ たち学者は、聖書の中に、<あなたの父と
母を敬え>とあるのを読んだこと がないのかぁ!」 と、怒って答えたそうです。・・・・(;_;) マルチンの胸に、この言葉
は、生涯痛みとなって残ったそうです。 この時、 やがて来る歴史の渦の中に、この痩せた一人の修道士が巻き込ま
れていく事を、 まだ誰も知りませんでした。エルフルトは、この日、静かに暮れていきましたぁ ・・・つづく れ。

★いつも喜んでいなさい。1テサ5:16/よっちゃん★



925 [96/02/16 10:27] GBE01560 アイスレーベンの乞食(7)/よっちゃん 「いよいよ ヴィッテンベルグ!」

ヴィッテンベルグ。町と言うより、「村」に近い田舎。人口、2500人。 1502年。選帝侯フリードリッヒ賢明侯によって、
突然、田舎大学^^;;が 新設されましたぁ。「大学へ行くなら エルフルト!」あるいは、 かたやの 名門ライプチッヒ大学。
フリードリッヒは、領地に、それに匹敵の大学をと 熱を入れたようです。

アウグスチヌス派隠修士会・ザクセン管区長 ヨハン=シュターピッツは、 1508年、エルフルト修道院より、ひとりの司
祭を、この大学に推薦して います。推薦されたのは、この物語でお馴染みになった、我等のマルチン君 です。やがて、
彼は、この大学であの「詩編講義」をはじめる事になります。 「あなたの義によって、私を助け出してください。」(詩編31:1)
詩編の一節が、一人の隠修士会・修道僧の心を動かし、やがてそれがカトリ ック 1500年の歴史を揺り動かすひとつのきっ
かけになります。

★ 1945年2月13日、連合軍の大空襲は、ザクセン領の中心、ドレスデ ンを一夜で灰にしています。・・(;_;) この 「ドイツの
ひ ろ し ま」 とも呼ばれる、ドレスデンが戦禍にあった時、マルチンの資料も失われたか に見えましたが、この400年前のマ
ルチンの詩編講義のオリジナルの書込 み聖書は、疎開していて現在その直筆書込み聖書が、ボルフェンビュッテル の図書
館にあります。(残念な事にオリジナル直筆の講義の原稿の方は、ド レスデンから疎開したまま発見されていません。)また、
詩編講義に続くロ マ書講義のオリジナルは、バチカンの古文書館で今世紀初頭に発見されてい ます。 これは、ベルリン図書
館から戦中に疎開して、現在、ポーランドの クラカウの街に現存しています。これらの原稿から、私達は、ひとりのアウ グスチ
ヌス派隠修士会・修道僧が、400年前、何を祈り、何を訴えたかを 探ることができるのでしたぁ。 ・・・・つづく

★いつも主にあって喜びなさいピリピ゚4:4)よっちゃん★




989 [96/02/24 08:10] GBE01560 アイスレーベンの乞食(8)/よっちゃん

「詩篇31篇! 福音の再発見への糸口! / ウィッテンベルグ 1513」

 さて、ウィッテンベルグの田舎の新設大学で、神学教授となったマルチンは、15 13年夏より あの、詩篇講義を
いよいよはじめます。これは、詩篇150篇全編の 講義でしたぁ。この講義には、著しい特徴がひとつありました。
それは、詩篇全編を、 キリストの祈りとして、マルチン君が読んでいったことです。たとえば、あのダビデ の罪の中
での神への叫びでさえ、キリストが我等の罪を担って祈り賜う祈りとしてマ ルチンは読んでいます。これは、中世の
修道士会では別に、めずらしい読みかたでは なかったそうです。 キリストは、かくも徹底して、我等の罪を担い賜う
と彼は語 ています。

 やがて、この全編の講義が、詩篇講義第31篇に、さしかかった所で、マルチンは 混乱してしまいます。 --------
------------------------------------------  詩篇31篇 1節 (新改訳)  主よ。私はあなたに身を避けて
います。  私が決して恥じを見ないようにしてください。  あなたの義によって、私を助け出してください。 ---------
-----------------------------------------

 この[助ける]は マルチン君のラテン語ウルガタでは[リベレイト」です。「リベレ イト=解放する」の意味です。マルチン
にとって、「神 の 義 」は、恐くて恐ろし いものでした。縛られるものでした。しかし、聖書はここで、神の義があなたを、
リベ レイト(解放)すると語っているではありませんか。おかしい。マルチンは、混乱しま す。それでは、晩年のマルチン
自身の言葉の翻訳より・・・

 「・・しかし、いかに欠点のない修道士として生きていたとしても、全く不安な 良心を持った罪人であると感じていた。
私のつぐないを持って神が満足されると 言う確信を持つことができなかった。だから、私は、罪人を罰する義の神を
愛さ なかった。いや、憎んでさえいた。そして涜神と言う程ではないが、神に対して 怒っていた。 あわれな永遠に失
われた罪人を罪のゆえに十戒によって、あら ゆる種類の災いで圧迫するだけでは神は満足なさらないのだろうか。
神は福音で、 苦痛に苦痛を加え、その義と怒りによって私達をさらに脅し賜うのだろうか。私 の心は激しく動き、良心
は混乱していた。」

 マルチン君は、悩み混乱して、聖書と格闘していました。その祈りと格闘の中で、人 は< 行いによって 決して 義と
される事のない事 >ただ信仰のみによって救われる 事を発見していくのでした。。それは、また来週の お話しですが・・・



040 [96/02/29 08:37] GBE01560 アイスレーベンの乞食(9)/よっちゃん <アウス グラウベン イン グラウベン aus Glauben in Glauben / p-1> -----------------------------------------------------------------------
詩篇71:2 あなたの義によって私を救い出し、私を助けてください。 あなたの耳を私に傾け、私をお救いください。

そして・・・・  詩篇講義はそんな悩みの中ですすんでいきました。「この神の義が、あなたをリベレ イト(解放)する」の同
じフレーズは、再び詩篇71篇に出てきて、マルチンを悩ます ことになります。 しかし、この71篇の講義の準備の中で、
マルチンは、大きな発見 をするのでした。

「 神 の 義 」  文法的には、属格の「の」ですが、これは、「お父さん  <の> プレゼント」の 「の」 に似ている。
プレゼントは お父さんの所有ではな く、贈られた私の所有になる。\(^_^)/ 属格の「の」であるが、所有の移転をこの
「 の」は意味に含んでいる。プレゼントしたのは、お父さんだけど、そのプレゼントは、 わたしのものである。この箇所の
「 神 の 義 」とは、ひょっとすると、この「の 」と同じではないか。「神が 私に プレゼントして下さる義ではないだろう
か。」  わたしが、修練して獲得するもの^^;;ではなく、神があわれんで私にプレゼントしてく ださる義。<探求する義>で
はなく、<賜物としてプレゼントされる義>なんだぁ。


こうして、マルチンは、<義人は信仰によって生きる>と、言う事の意味を知りはじ めます。苦しい修道の中で探求し獲
得する<義>ではなく、主イエスを信じる信仰によ って与えられる義です。目が開かれると、聖書は、なんと神の恵みに
覆いつくされてい る事かと、興奮を書き留めています。あんたは、福音に出会いはじめたんだよ。ウィッ テンベルグの街
に、今日も何もなかったかのように夕陽が沈んでいきました。 151 4年の秋。ドイツの夜空には、一番星が、そろそろ
見える時間です。おやすみ、マルチ ン。1517年、10月31日まで、あと、3年。 SEE YOU ミーハー・よっちゃん





095 [96/03/06 22:04] GBE01560 アイスレーベンの乞食(10)/よっちゃん 「アウス グラウベン イン グラウベン P-2 」

なぜなら、福音のうちには、神の義が啓示されていて、
その義は 信仰にはじまり、信仰にすすませるからです。
「義人は信仰によって生きる。」と書いてある通りです。/新改訳


Denn darin wirt offenbart die Gerechtkeit , die vor Gott gilt,welche kommt aus Glauben in Glauben;
wie denn geschrieben steht "Der Gerechte wirt aus Glauben leban"
/ルター訳(ローマ書1章17節

-------------------------------------------------


1514年、ウィッテンベルグの街並みに落ち葉が舞っていました。マルチンは、 いままで憎んでさえいた「神の義」の単語
の真理に触れはじめました。詩篇講義の 次に、マルチンが選んだ題材が、ローマ書であった事は、あまりに有名でしゅ。
 それでは、マルチンの教室では、いまローマ書講義の序論が、はじまっていますよ。 皆さん、ウィッテンベルグに ワープ
タイム\(^_^)/

   「 ローマ書の要旨は、肉の義と知恵を、たとえ人間の目に     それが、いかに大きく優れたものであろうと、それが、
ど     れほど真心から真剣に行われたものであろうとも、この肉     の義と知恵を、こわし、取り除き、滅ぼすことなんだ。

    そして人間の罪をたとえそれが、どれほどわずかしかなく     あるいは、存在しないように思われても、上、縦、大きく
    見つめさせることなんだぁ。

     なぜなら、神は、俺達の中にある義と知恵によってでは     なく、俺達の外にある義と知恵によって救おうとされるん
    だ。 この義と知恵は外から、天からくる。そのために俺達     の中にある義が、破壊され、こわされ取り除かれなければ
    ならないんだ。・・・・」

そして、マルチン君の中にあった「自分を義としようとする心」が、いま徹底して崩 壊する中で、「外から賜る義、救い」に、ようやく目を
向けはじめたのでした。その事 がカトリック1500年の歴史と向き合う事になる事を 彼は、いまは、知りません。