証し ミンヘン姉  2016年11月





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 私は86歳になりました。これまでの全生活を簡単にまとめるのは非常に難しい
と思います。
 
 私の親は主イエス様を信じた者でした。しかし私はヒットラーの時代に大きく
なったので、戦争の影響を強く受けるようになりました。戦争中、敵の飛行機は、
だんだん沢山爆弾を落とすようになり、安全な所は無くなり、仕方なく、毎晩自
宅の地下室で寝るようになりました。私はシュツッツガルトの南の方、とある山
の下に住んでいました。
 
 私の家の隣には役場があり、大きな丸い広場がありました。ある日、山の上か
ら敵の飛行機が近づいてきました。恐らく役場の上に爆弾を落とそうと思ってい
たのでしょう。私は飛行機がこちらに来るのを見て、走って家に入りました。家
の階段には丸い窓があり、そこから爆弾が家の裏の通りに落ち、ゴーっというも
のすごい音とともに大爆発するのが見えましたが、私は無事に地下室まで行きま
した。もしそれが何秒か前だったなら、私は間違いなく死んだのです。
 
 その時のことが私に大変大きな影響を与えました。わずか数秒の差で、私は確
実に死んでいたのです。爆弾にも色々な種類がありましたが、その時の爆弾は簡
単なものではなく、強い破壊力を持ったものでした。このことによって、私の人
生観が根本的に変わったのです。私は主イエスを自分の救い主として体験するこ
とができるようになりました。奇跡でした。私は、もし今爆弾に当たったなら地
獄へ行きます、ということがよくわかりました。

 主人も同じようなことを経験しました。主人は、シュツッツガルトの北の方に
住んでいました。いつも二人のおじいさんたちと、自分の家の屋上から、爆弾が
どこに落ちたかを見ていました。長い爆弾は、拾って道に置いておけば、全く危
なくなかったのです。しかし強い爆弾はあたり全部を破壊してしまうものでした。
 
 戦争から戻ったお父さんが、ここは危な過ぎるからと、家族をお母さんの田舎
に連れていきました。そこは敵の飛行機が来ることのない、のどかな田舎でした。
田舎に戻ってすぐ、シュツッツガルトの彼の自宅に爆弾が落ち、あの二人のおじ
いさんは、いつものように様子を見に屋上へ行っていて亡くなったそうです。で
すから、主人も私も二人とも同じような守りを経験したのです。
 
 それは戦争が終わる直前のことでした。私たちの町にはそれぞれ一回、大きな
爆弾が落ちました。私の町では、私の自宅のすぐ裏の通りに、主人の町では、主
人の自宅に、その爆弾は落ちたのでした。




 戦争が終わって、ケースバーグで1〜2週間くらい続くバイブルキャンプが開
かれました。妹はそのキャンプに行きたいと言いました。ドイツでは全てが壊さ
れ、まだ何の交通手段もありませんでしたが、我が家には二台の自転車がありま
したので、15キロほど離れたそのキャンプまで妹は自転車で行きました。
 
 私は国が作った寮制の専門学校に入っていました。親戚が探してくれたところ
で、一年間そこで学ばなくてはなりませんでした。生まれて初めて親元を離れた
ので、私は寂しくなりました。先に救われた妹は、
「私の所まで来なさい。日曜
日は集会ですから、いらっしゃい。」
と私を誘いました。私は本当に行きたくな
かったけれど、不思議なことに行きたい気持ちになりました。妹に会うために私
も自転車で、15キロほど離れたその場所へ行きました。その日の集会でアイドリ
ンゲンのシスターがしたメッセージが私のうちにすごく入ってきました。自転車
で寮の部屋に戻ると、その夜初めて祈りました。


「イエス様、私のような人が救われることができるならば、お願いします。助け
てください。」
その夜はそのまま眠りましたが、夜中12時頃目が覚め、すごい平
安と力を私は経験しました。それが救いということだと、はっきりわかりました。
そして
「これから毎週日曜日、集会に行きます。」と私は決心しました。


 寮として使われていた家の一階に、家主さんたちと私は住んでいましたが、そ
の二階には別の家族が住んでおり、食事の時はいつも一緒でした。その家族の中
に、手伝いをしている若い青年がいました。その頃は戦争が終わって間もなく、
仕事がなく、学校もない時でしたのでその青年は手伝いをしていました。私は、
この人は誰でしょう?と思いましたが、自分の救いのことで心が支配されていま
したから、男の子には興味はありませんでした。
 
 その青年が、主人でした。疎開したお母さんの田舎、というのがそこだったの
です。私たちがまだ15・6歳の時でした。

 日曜日には私は決まってルッツンベルクにある集会にメッセージを聞くために
出かけて行きました。そこもアイドリンゲンのシスターがメッセージをするとこ
ろでした。
 
 寮では朝昼晩、毎回食事の時、彼とは顔を合わせました。家主さんの奥さんと
二階のおばあさんは、うまくいっていなかったので、奥さんは私に
「二階の人達
と話さないでください。」
と言いました。私は、おかしい、と思いましたが、
「そうなのですか?」という以外、何も言いませんでした。
 
 食事の時、彼は私に
「あなたは日曜日にどこに行きますか?」と聞いてきまし
た。私は救われてまだ一・二週間の時だったので、なんて言ったらよいかわから
ない、と思いながら、
「私は聖書研究会に行きます。」と答えました。
 
 それを聞いたら、彼はきっと、もういい、と思うだろうと思っていましたが、
「そうですか。僕も一緒に行ってもいいですか?」と彼は続けて言いました。私
は少し心の戦いがありました。
 
 
「今私はもう救われました。罪はおかしたくないです。」それに、もし家主の
奥さんが許さなければ、二階の家族と親しくなることは問題です。一度、誰から
も見えないところで、彼は
「どうしますか?」と聞きましたので、私は、「自転
車が一つあります。一つの自転車で行くことができれば一緒に行かれます。私は
後ろに乗りますよ。」
と言いました。
 
 彼は、下の人が見えないように私より先に歩いて、見えないところまで来た所
で一緒に自転車に乗りました。そのようにして2・3回一緒に集会へ行きました。
その3回目の時だったと思いますが、彼が救われました。
 
 その時から、私たちは毎週日曜日に二人で集会に行くようになりました。下の
人に見えないよう、いつも私より先に歩いて途中から一緒に行きましたが、間も
なく下の人にもそのことがわかるようになりました。しかし、家主の奥さんは、
そのことに対して何も言いませんでした。



 一年後、地方の大きなお城が国立の学校になりました。主人は、今のままここ
で手伝いを続けるのか、今後どうしたらよいかわからない状態だったので、彼の
お母さんが、
「一度試験を受けてみてください。」と彼の背中を押しました。試
験に合格し、彼はその学校に入学しました。そこは50キロくらい離れた所にあ
り、学校の先生になるための専門学校でした。

 いつか必ず結婚する、と二人とも決めました。しかし、私たちの霊的面倒を見
てくれていた集会のルデヤ姉妹は、
「あなた方はまだそんなに若いのだから、今
はまだ離れていた方がいいんじゃないですか?一人はシベリアに、一人はアメリ
カにいても主は必ず導きます。」
と私に言いました。
 
 私はそれを主人に言いました。その時の主人はいつもの主人ではなく、
「それ
は従えません。」
と言いました。私は平安がちょっとなくなりました。「やっぱ
り従いましょう。」
となり、彼は学校へ行き、私は寮生活を終え、シュツッツガ
ルトに戻りました。それ以来、3年以上の間、お互いに全く会いませんでした。
手紙も書かず、連絡を一切取らなかったのです。

 
 アイドリンゲンの集会は、毎年お正月に、シュツッツガルトの大きな場所を借
りて有名な集会を行います。そこで、主人と私は偶然再会しました。あれから3
〜4年が経っていました。二人とも守られていました。手紙を書きましょう、と
私は彼の住所をもらって、二人は再びコンタクトを取るようになりました。

 彼は救われた頃、宣教師か牧師になろうと思っていましたが、3年間の学校生
活の中で、先生になってもイエス様のために何か役に立つかもしれない、と思う
ようになり、思いが揺れたそうです。
 
 その頃、スイスのベアテンベルクで、Drマソツークというユダヤ人夫妻が建物
を購入し、神学校を始めました。そこはヨーロッパで一番聖書的で良い、と評判
になりました。主人はその学校にどうしても行きたいと思うようになったのです
が、その学校では、三年間の在学中に女の子と付き合うと、退学させられる、と
聞き、確かに一人退学させられた人がいることがわかってから、怖くなりました。
 
 シュツッツガルトの大きな集会にいる間に、彼はDrマソツークに会い、言いま
した。
「僕はあなたの開いた神学校に行きたいのですが、女の子の友達がいま
す。」
彼は、もしそのことに反対されたら、神学校には行かない覚悟で聞きまし
た。
 
 Drマソツークは
「彼女ならOKです。けれども、日曜日にだけ、手紙を書きなさ
い。」
と言いました。「はい。」と主人は約束しました。主人はそれからスイス
まで行き、三年間その神学校で勉強する間、日曜日にだけ手紙を書きました。
私はアイドリンゲンで開かれた専門学校へ行き、家事全般を一年間学びました。
私の母が、どうしてもそこに行って欲しい、と願ってのことでした。それはすご
く良い訓練でした。その後、シュツッツガルトの専門学校で毎日、洋裁を学びま
した。


 日本で宣教活動をしていたある宣教師が、日本からスイスのベアテンベルクの
神学校に来て、学生たちに話しをしました。日本語を勉強するためには、聖書に
書かれている最も長く生きた人メトセラの957年、ソロモンの知恵、そしてヨブ
の忍耐、この三つのことが必要です、と。
 
 これを聞いた主人は、
「日本での宣教は私には向いていない。」と思い、一年
間心の中で戦いました。日本に行けば、日本語を覚えなくてはならない、しかし、
そんなに難しい言葉では…、と思ったのです。
 
 主人は言語を学ぶことをそれほど得意としていませんでした。日本から来たそ
の宣教師は、
「ここにいる皆さんは、いつかは世界のどこかへ行って宣教をする
ことになります。どなたか日本に行きたい人は?」
と聞かれ、何人かの学生が手
を挙げたそうですが、主人は手を挙げませんでした。
 
 はっきりとした確信を持たないと日本まで行かれない、と思ったからでした。
その後、長い間祈りました。けれども平安にならなかったのです。しかし、日本
に行くことに決めた時は、大きな喜びが湧くようになったそうです。先の宣教師
が、
「日本では天皇陛下が、『私は神様ではない』と公に言いましたので、今す
ごく開いています。日本の人は求めていますから、今一番宣教師が必要な国で
す。」
と話すのを聞いて、その時、彼は決心したのだと思います。
 
 その時は、聖霊がすごく働きました。主人から私はその話を聞きました。私の
中に反対する思いは全くありませんでした。私たちは結婚することに決めていま
した。私は一緒に行くのです。どこに行くかは彼が決めなくてはなりません。彼
が行きたければ、私もそこに行かなければなりません。

 アイドリンゲンの一人のシスターが、宣教師として南アフリカに行く前に、英
語を学ぶためにイギリスに行くことになりました。そこで、
「そのシスターがア
フリカへ行ったら、その代わりにあなたがアイドリンゲンを通してイギリスで英
語を勉強するのはどうですか?」
と提案され、私は、これは導きと思い、英語の
上達のためにイギリスへ一年間行くことになりました。というのは、もし日本に
行くならば、日本語を学ぶ必要があり、そのためには英語を通して勉強するしか
方法がなかったのです。
 
 ドイツ語で日本語を勉強する本が無かったからです。そのため、英語がどうし
ても上手にならなければなりませんでした。学校の英語だけでは十分ではありま
せんでした。
 
 私はイギリスがすごく好きでした。本当に好きでした。アイドリンゲンを通し
てオークという、ロンドンにある集会に行くようになりました。そこはオースチ
ン・スパークスの集会でした。
 
 その集会はブレザレンの集会で、今の私たちの集会と全く同じでした。牧師は
おらず、兄弟たちが皆責任を持っています。そこに一年行きました。5000人位が
集う、とても大きな集会でした。Mr.スパークスは毎年一回、大きな集会を開催
し、そこには全国から信者や責任者が集まってきました。そしてMrスパークスが
メインスピーカーを務めました。Mrスパークスはすごく頭の良い人でしたから、
メッセージもとても深いものでした。

 私はイギリスでは働かなくてはなりませんでした。当時外国へ行く時、20マ
ルクしか持ち出すことができなかったので、私はある病院で看護師としての仕事
を見つけ、その寮に住んでいました。とても良い場所にありました。日曜日と、
木曜日の夜の集会にも電車に長い時間乗って行きました。ある時、アイドリンゲ
ンの学校の先生がロンドンに来て、オークの集会所にしばらく滞在しました。ド
イツ人の彼女とは集会が終わってからいつも一緒に話しました。

 その週は
「イエス・キリストの体」についてのメッセージが続いていました。
先生はそこで話された全てのメッセージを聞くことができました。仕事のため平
日のメッセージを聞くことの出来なかった私は、ロンドンの道の上で先生からそ
の話を聞きました。
 
 彼女は古くからの信者でしたが、聞いたばかりの新しい知識を全部私に話して
くれました。彼女は喜びに満ち溢れていました。そして私はそのメッセージをす
ごく良く理解しました。とても不思議なことでした。彼女から聞いたことを全部
受け取りました。体中で吸収しているようでした。内容は次のことでした。

ローマ
12:5 大ぜいいる私たちも、キリストにあって一つのからだであり、ひとりひとり互
いに器官なのです。



organism
(主のみからだなる教会) とorganization(組織としての教会)の違
いなのです。一人一人の器官が集まって、生きているキリストの体、これが
organism、であり、organizationは、人間が作った組織です。この区別がわかれ
ば、全部わかります。




1コリント
10:17 パンは一つですから、私たちは、多数であっても、一つのからだです。そ
れは、みなの者がともに一つのパンを食べるからです



1コリント
12:12 ですから、ちょうど、からだが一つでも、それに多くの部分があり、から
だの部分はたとい多くあっても、その全部が一つのからだであるように、キリス
トもそれと同様です。

12:13 なぜなら、私たちはみな、ユダヤ人もギリシヤ人も、奴隷も自由人も、
一つのからだとなるように、一つの御霊によってバプテスマを受け、そしてすべ
ての者が一つの御霊を飲む者とされたからです。

12:14 確かに、からだはただ一つの器官ではなく、多くの器官から成っていま
す。

12:15 たとい、足が、「私は手ではないから、からだに属さない。」と言った
ところで、そんなことでからだに属さなくなるわけではありません。

12:16 たとい、耳が、「私は目ではないから、からだに属さない。」と言った
ところで、そんなことでからだに属さなくなるわけではありません。

12:17 もし、からだ全体が目であったら、どこで聞くのでしょう。もし、から
だ全体が聞くところであったら、どこでかぐのでしょう。

12:18 しかしこのとおり、神はみこころに従って、からだの中にそれぞれの器
官を備えてくださったのです。

12:19 もし、全部がただ一つの器官であったら、からだはいったいどこにある
のでしょう。

12:20 しかしこういうわけで、器官は多くありますが、からだは一つなのです。

12:21 そこで、目が手に向かって、「私はあなたを必要としない。」と言うこ
とはできないし、頭が足に向かって、「私はあなたを必要としない。」と言うこ
ともできません。

12:22 それどころか、からだの中で比較的に弱いと見られる器官が、かえって
なくてはならないものなのです。

12:23 また、私たちは、からだの中で比較的に尊くないとみなす器官を、こと
さらに尊びます。こうして、私たちの見ばえのしない器官は、ことさらに良いか
っこうになりますが、

12:24 かっこうの良い器官にはその必要がありません。しかし神は、劣ったと
ころをことさらに尊んで、からだをこのように調和させてくださったのです。

12:25 それは、からだの中に分裂がなく、各部分が互いにいたわり合うためで
す。

12:26 もし一つの部分が苦しめば、すべての部分がともに苦しみ、もし一つの
部分が尊ばれれば、すべての部分がともに喜ぶのです。

12:27 あなたがたはキリストのからだであって、ひとりひとりは各器官なので




エペソ
1:23 教会はキリストのからだであり、いっさいのものをいっさいのものによっ
て満たす方の満ちておられるところです。


2:16 また、両者を一つのからだとして、十字架によって神と和解させるためな
のです。敵意は十字架によって葬り去られました。


4:4 からだは一つ、御霊は一つです。あなたがたが召されたとき、召しのもたら
した望みが一つであったのと同じです。

4:12 それは、聖徒たちを整えて奉仕の働きをさせ、キリストのからだを建て上
げるためであり、


4:16 キリストによって、からだ全体は、一つ一つの部分がその力量にふさわし
く働く力により、また、備えられたあらゆる結び目によって、しっかりと組み合
わされ、結び合わされ、成長して、愛のうちに建てられるのです。


5:23 なぜなら、キリストは教会のかしらであって、ご自身がそのからだの救い
主であられるように、夫は妻のかしらであるからです。


5:30 私たちはキリストのからだの部分だからです




コロサイ
1:18 また、御子はそのからだである教会のかしらです。御子は初めであり、死
者の中から最初に生まれた方です。こうして、ご自身がすべてのことにおいて、
第一のものとなられたのです。


1:24 ですから、私は、あなたがたのために受ける苦しみを喜びとしています。
そして、キリストのからだのために、私の身をもって、キリストの苦しみの欠け
たところを満たしているのです。キリストのからだとは、教会のことです。


2:19 かしらに堅く結びつくことをしません。このかしらがもとになり、からだ
全体は、関節と筋によって養われ、結び合わされて、神によって成長させられる
のです。


3:15 キリストの平和が、あなたがたの心を支配するようにしなさい。そのため
にこそあなたがたも召されて一体となったのです。また、感謝の心を持つ人にな
りなさい




 イエスキリストのからだと私たちとの関係は、いのちの関係です。一つの
organismとイエス様との関係です。こういうメッセージはそれまで聞いたことが
なかったのです。ふつうの教会は
organizationです。「イエスキリストのから
だ」
と、私の関係が大切になりました。

 私はすぐに主人に手紙を書きました。メッセージの内容でいっぱいの長い手
紙になりました。

「私たちが将来日本に行く時は、これをメッセージしなければならない。」と一
生懸命に書きました。ところが主人から来た返事は
「はい、はい、はい、そうで
しょう。」
で、反対はしなかったけれども、彼はピンと来ていなかったのです。

 私が何を伝えようとしているのか、まだわかっていないと私は感じました。
ある日曜日にオークの集会で洗礼式があることがわかり、私はすぐ申込みました。
けれども、赤ちゃんの時に滴礼を受けていましたので、二回洗礼を受けることは
よいのだろうか、と心の中で葛藤が起こりました。でも、やはり受けよう、と申
し込みました。

 その土曜日、主人がロンドンのオークまで来ました。私の洗礼式のことなど全
く知らずに来ました。主人はオークで宿泊でき、それはとても良かったのです。
日曜日、私は集会へ行き、主人と会いました。私は言いました。
「ゴットホルド、
この大切なことが分からなければ、私はあなたと結婚することができません。」

彼は困っていました。
「一度Mrスパークスと、私たちの問題を話してください。」
と私が言うと、彼はMrスパークスと話しに行きました。
 
 そしてMrスパークスが答えとして言ったことは、こうでした。
「あなたがたは、
一緒に日本まで行きなさい。そうすれば問題は解決する。」
それを聞いて私は安
心しました。
 
 Mrスパークスはすごく尊敬する方で無駄な話しをしない方でしたので、そのよ
うな方が言われると、主はそういうことができる、と思いました。

 その後、スイスの神学校で主人はドイツから来る学生の世話をしたりしていま
したが、Drマソツークがフランスで神学校を開くことを決め、主人を責任者にす
るつもりでしたが、主人は考えて、それは断りました。
「やはり、日本まで行か
なくてはならない。」
と言って。

 その後、私たちがドイツに帰ると、主人は宣教団体に入りましたが私は賛成し
ませんでした。団体に入りたくない、と。でも主は私たちを必ず導く、と思うそ
の信仰で、仕方がない、と思うことにしました。
 
 主人は日本まで船で旅することになりました。私は、アイドリンゲンで一年間、
宣教師の妻として派遣されるのを待っていました。Mrスパークスは、ウオッチマ
ン・ニーの集会
「リトル・フロック」とコンタクトを持っていましたので、オー
クに主人が滞在したとき、コロンボ、シンガポール、マニラ、香港、等、港のあ
る町の集会の連絡先をすべて教えてくれていました。
 
 船は貨物船でしたので、安く行くことができ、宣教師がいつも使っていました。
各港に着くと、荷下ろしのために約三日間停舶します。必ずその間主人は
「リト
ル・フロック」
の集会の人達と会いました。日本到着前、最後の港である香港で
は、ウオッチマン・ニーの一番親しい友達と一日過ごしました。
 
 山の上に行って、そのテーマ
「イエス・キリストの体」についてだけ話したの
です。そしてその時、彼はピンと来ました。彼は心の目で見えました。そして彼
から来た手紙には、本当にいっぱいのことが書かれていました。その時、私は思
いました。
「私は黙ります。彼はもう全部わかっていますから、彼に任せま
す。」
彼は完全にわかっていました。私たちはそのように働かなくてはならない、
と。
 
 横浜の港に着くと、宣教団体の責任者の夫婦が迎えに来てくれました。川崎市
中野島にあるご自宅に着くとすぐに主人はお二人に
「この方法で私は働きま
す。」
と話したそうです。けれどもお二人にはよくわからなかった、ピンと来な
かったようでした。




 日本での宣教が始まりました。ドイツでは宣教団体の牧師が、主人を大変よく
守ってくれました
。「皆がそのように決めても、ベックさんは皆とは違う方向に
行っても良い。」
という態度を取っていました。
 
 約9年間、彼は私たちをすごくよく守ってくれました。しかし彼が亡くなられ
た後に牧師になられた方は正反対の方でした。団体として、皆同じでなくてはい
けない、となり、私たちはその団体から離れることにしました。
 
 その牧師さんは、日本まで私たちに会いに来て一緒に話しましたが、私たちは、
もう団体にいることは終わりにしよう、とはっきり団体を離れる決心をしました。
主人がお父さんに電話でそのことを伝えると、お父さんは怒っていましたが、お
母さんは、
「ゴットホルドは間違ったことはしない。」と言いました。
 
 また、私の父は全然反対せず、
「ゴットホルドは必ず宣教団体から離れるとわ
かっていた。」
とだけ、当然のように言いました。問題は、私たちは宣教団体か
らお金をもらうことがなくなったことでした。主人のお父さんが宣教団体を作っ
て、今ではドイツで一番大きな団体となっていますが、そこからお金が来ました
が、私たちはそこからも離れました。
 
 
「主が全てを備えてくださいます。それを教えますし、信じます。それなのに、
どうして実際的なお金をお父さんの宣教団体からもらえますか?」
私たちは決ま
ったお金が入らない、ですから信仰によって主に頼らなければならない、それは
本物だ、と思ったのです。
 
 そしてそれは今まで失敗しなかったのです。お金が無いと、かえって迷うこと
もなくて良かったのでした。主に頼ることは一番大切な、そして必要なことです。
それがわかってから、全ての人間的な助けは切りました。
 
 主は素晴らしいです。その方法を通して主を初めて知ることができるようにな
ります。自分で儲ければ、主に頼らなくてもいいでしょう。素晴らしい道です。
私たちは後悔していません。

 当時、6年に一度、ドイツに帰っていましたが、その頃ドイツに帰ると、ドイ
ツの集会を知るようになりました。ドイツの南の方は集会が少ないのですが、北
の方は集会が多くあります。
 
 子どもたちがまだ小さかったので、私は子どもたちの世話で行かなかったので
すが、主人が三つの集会に行き、話しをしました。すると三つの集会が、
「私た
ちはあなたがたの後ろに立ちます。あなたがたのために祈ります。毎月一回献金
して、それをあなたがたに送ります。」
と言ってくれました。
 
 私たちは、その献金がどのくらいになるかわからなかったけれど、すごく喜び
ました。なぜなら、私たちは信仰によって本当に生きることができるからでした。
現在その中の一つの集会は、自分の集会所を建てているので、献金を送ることが
できない、という手紙が来ましたが、他の二つの集会は今でも私たちのために祈
り、月に一回献金をしてくれています。
 
 それなので、私たちの生活の為に、日本の集会で集まった献金からは一円もも
らう必要なく今日まで来ています。

 うちの子どもたちはドイツ人学校へ行きましたが、それも問題でした。なぜな
ら那珂湊に住んでいましたが、ドイツ人学校は東京にあったのです。宣教師の子
どもたちの寮もありましたが、我が家は5人子どもがいたので、経済的な問題で
した。
 
 けれども、主がすごく私たちに備えてくださいました。全く誰にも頼まないで、
主が導かれたのです。ある日、東京に住むブレザレンの宣教師が、ベックさんは
ブレザレンのように働きたいと聞いて連絡をくれ、次のように話しました。
「古
い家があります。以前住んでいた宣教師が病気になって帰らなければなりません
でした。すごくボロい家ですが、もし住みたいなら、ただで住むことができま
す。」

 
 主人はすぐ東京まで行き、古い家を見て来て言いました。

「大変です。大変古い家です。」

それを聞いて私は言いました。

「大変じゃないです。私たちは掃除するし、部分的に直すこともできます。大丈夫、
大丈夫。全然問題無いです。」

 
 それが、今住んでいるこの吉祥寺の場所でした。この家に私たちはお金を払わ
なくてよい、という条件でしたから、何でもいい!何でもいい!と思っていまし
た。けれども、そんなにひどくはなかったです。それから何年か経って、この土
地を買うことができました。かなり高い金額でした。

 その頃の6年に一度のドイツ帰国は、子どもが5人の大家族でしたから、安い方
法、ロシア経由で帰りました。ハバロフスクまで船で行き、シベリア鉄道と飛行
機を乗り継ぎモスクワまで行き、モスクワからウイーンまで、ウイーンからシュ
ツッツガルトまで乗りました。子どもたちは皆小さかったけれど、守られました。
守られたことが本当によくわかりました。私たちは一週間くらいかかったその旅
行に、サラミと、そのような食べ物だけ持って行きました。奇跡だらけでした。
主が道を開いてくださいました。

 吉祥寺の古い家を壊して建て直すことになりました。この頃から色々な人が救
われて集うようになっていました。また、御代田にも行く場所が与えられました。
これまで色々なところに行くことがありましたが、いつも信仰と信頼が必要でし
た。そして全てがすごく良くなりました。吉祥寺のこの家を建てるときも、御代
田の建物を建てるときも、いつも必要な時に間に合うようにお金が入りました。
 
 しかも、その金額は、ちょっとだけのものではありませんでした。ですから、
私たちは勇気を持って進めました。ある時、隣の土地が売りに出される、という
ことを聞きました。今までの土地よりも広い土地です。主人はすぐ、
「私たちが
買います。」
と言って、問題なく購入することができました。集会に集う人が多
くなり、集まった献金があったのです。すごいことでした。イエス様が生きてお
られ、導いておられる、ということをよく経験しました。

 宣教団体に入って過ごした、最初の9年間は、主によってだけ導かれる、とい
うことを本当に祈りました。

 宣教団体の牧師が本当に主人を守りましたので、団体から離れるチャンスを得
ることはなかなか難しいことでした。しかし、その次の人が来たことは、結果的
にはすごく良かったのです。そのことで、私たちは団体を離れました。反対して
いたベックお父さんは、後になってそれがわかるようになりました。私の妹がよ
くベック家に行きました。そしてだんだんと、お父さんもそのことを理解するこ
とができるようになった、と聞きました。
 
 死ぬ前にお父さんと会うことはなかったのですが、おそらく、イエス様はその
ことを解決した、と思っています。

 現在、日本では45箇所、北海道から沖縄までの集会があります。それは、宣教
師一人ではできない、人間ではできないのです。どこでも主が開きました。
大切なことは、
organismorganizationの土台の区別がはっきりとわかる、とい
うことです。この二つは正反対のものです。大切なポイントです。いのちの問題
です。

 Mr.スパークスは本当に正しかったのです。
「一緒に日本へ行きなさい。」
イエス様に信頼することは、全ての全てです。

ミンヘン姉妹の証し
2016年11月



オークの集会の姉妹達と 中央が ミンヘン姉