まえがき

まえがき

「主よ。多くの人々の心の内に働きかけてくださり、奇跡を行ない、人々を迷いからまことの救いへと立ち返らせてください。」


これが私たちの切なる祈り、また心からの叫びです。この本は、吉祥寺キリスト集会で毎週火曜日に持たれている「婦人の集い」での、ローマ人への手紙による連続メッセージをそのまま収録したものですが、これらのメッセージの目的も、まさにそれだったのです。


したがってこの本はいわゆる注釈書や解説書では決してありませんし、また参考書でもありません。研究発表でもありません。「真理を求め、知ろう」と切に望む方々のためのものなのです。主なる神は、人間の意志を非常に尊重され、人間に選択の自由意志を与えておられます。「救いを得ること」は「意志の決定」なのです。


だれでも神のみこころを行なおうと願うなら、その人には、この教えが神から出たものか、わたしが自分から語っているのかがわかります。(ヨハネ7・17)


渇く者は、来なさい。いのちの水がほしい者は、それをただで受けなさい。(黙示22・17)


この本は、ローマ人への手紙の説明書ではありません。いうまでもなく、ローマ人への手紙に宣べられているメッセージは、比類のない福音です。誰もが万物の造り主によって義と認められることができ、完全な永遠の救いを提供されていることを、主なる神ご自身が啓示してくださったのです。


私はこの本に、次のような革命的な題名を付けたいという気持ちを持っています。すなわち、「キリスト教に対する反対!」と。


なぜなら私たちは、現代のキリスト教のためには宣伝をしたくないからです。現代の組織されたキリスト教というものは、主なる神の望んでおられるようなものではなく、人間が作りあげた産物、一般的な宗教組織になりさがってしまっているからです。


万物の創造主は、人間が作った宗教とは何の関係もないお方です。神の目から見ると、人間が作りあげた宗教なるものは、子供の遊びのようなものであり、犯罪よりもひどいものであり、無意識のうちに神を冒するものであり、そして真の救いを拒むものです。現代の多くの宗教は、うまみのある商売にすぎません。


「宗教」は、人間の罪の債務の問題を解決することができません。人間はみな悩んでいます。そして数えきれないほどの多くの人は、いわゆる宗教としてのキリスト教に対して反発します。いったいどうしてでしょうか?人は束縛されたくないからです。人は自由になりたいからです。生けるまことの神は、人間に向かって、次のように約束してくださっています。


もしわたしがあなたがたを自由にするなら、あなたがたは本当に自由なのです。(ヨハネ8・36)


それでは人は、どのようにして自由になることができるのでしょうか?一つの宗教を持つ、とによってでしょうか?教会の会員になることによってでしょうか?または洗礼を受けることによって、毎週礼拝に出席することによって、十分の一を献金することによってでしょうか?決してそうではありません。たしかにそれらによって、人は「宗教的」にはなるでしょう。しかしその結果は、自己満足、間違った思い込み、そして盲目に陥ることになります。


あなたは、精神的な拠り所、すなわち生ける真の神を、永遠なる岩として必要としているのではないでしょうか。


多くの教会は、文字通り「教える会」になってしまっています。そこでは、いわゆる「教え」が宣べ伝えられ、そうして人はその「教え」を良しとして認め教会の会員になれば「クリスチャン」になれる、つまり救われる、と信じ込んでしまっています。こういう風に洗脳された人は、惑わされています。この考え方は間違っています。なぜかというと、どんな人でも、単なる頭の知識を持つことによっては救われることはないからです。


主イエスは、この地上におられたとき、多くのことを語られました。しかし、いろいろなことを語られたあとで、ただの一度も「どうですか、理解できましたか?大切なことが分かりましたか?もう一回ゆっくりと説明しましょうか?」とお聞きになったことはなかったのです。どうしてでしょうか?それは、大切なことではないからです。重要なのは、次のことだけです。一つの教えを勉強して、理解し、肯定するようになることではなく、聖書の中心であられる天と地の創造主を個人的に識り、その創造主と交わりを持つこと」です。


すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。(マタイ11・28)


わたしのところに来る者を、わたしは決して捨てません。(ヨハネ6・37)


この本の呼びかけも、同じです。どうか主イエスのみもとに来てください。主イエスのみもとに来て自分のわがままを認め告白する人は、主イエスを自分の救い主として知るようになります。そして次のように告白します。


「主イエスは、私を受け入れてくださった。

私の罪は、許されている。

みめぐみによって、私は神の前に正しい者とされた。

何ものも、私を『神の愛』から引き離すことはできない」。


この本のメッセージを通して、一つの教えが宣べられ人を納得させるのではなく、「主イエスだけが中心になられる」ことができれば嬉しく思います。そうしてきっとあなたも、主のめぐみによってパウロがしたように告白することでしょう。


私はそれを人間からは受けなかったし、また教えられもしませんでした。ただイエス・キリストの啓示によって受けたのです。(ガラテヤ1・12)


しかし、私にとって得であったこのようなものをみな、私はキリストのゆえに、損と思うようになりました。それどころか、私の主であるキリスト・イエスを知っていることのすばらしさのゆえに、いっさいのことを損と思っています。(ピリピ3・7、8)



目次


まえがき


第Ⅰ部――全人類の救いの必要性(ローマ人への手紙該当章と節)

1.導入部(1)――1・1~7

2.導入部(2)――1・8~17

3.異邦人の罪に対する神の怒り――1・18~32

4.ユダヤ人に対する神の啓示――2・1~16

5.ユダヤ人の罪に対する神の怒り――2・17~29

6.誰ひとり神の前に義と認められない――3・1~20


第Ⅱ部――提供された主の救い

7.人間はいかにして神の前に義とされるか――3・21~26

8.恵みによって信者に与えられる神の義――3・27~31

9.信じるとはどういうことか――4・1~25

10.与えられた義の祝福と富(1)――5・1~11

11.与えられた義の祝福と富(2)――5・12~21


第Ⅲ部――新しい生活の歩み

12.キリスト者が罪に対して取る態度――6・1~23

13.キリスト者の新しい生活の歩み――7・1~13

14.人間のジレンマ――7・14~25

15.新しい生活の歩みのための力――8・1~10

16.私たちの救いのすばらしさ――8・11~17

17.生ける望み――8・18~30

18.至上の頌栄――8・39~39


第Ⅳ部――神の義と人の義の戦い

19.神の義と人の義――9・1~13

20.人に対する神の主権――9・14~26

21.つまずきの石であるイエス――9・27~33

22.提供された義に対する態度――10・1~21

23.されど神は――11・1~36


第V部――神と人とを愛せよ

24.徹底的な献身――12・1~2

25.真の交わり――12・3~8

26.生きた集会(具体的な勧め)――12・9~21

27.信者の公的生活(1)――13・1~7

28.信者の公的生活(2)――13・8~14

28.信者と主にある兄弟姉妹(1)――14・1~12

30.信者と主にある兄弟姉妹(2)――14・13~23

31.信者と主にある兄弟姉妹(3)――15・1~13

32.イエス・キリストのしもべパウロ――15・14~23

33.パウロの個人的なあいさつ――16・1~16

34.警告・奨励・賛美――16・17~27


あとがき


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