荒野の食卓 9月

荒れ野の食卓




翻訳 by Tsutomu Suzuki 荒野の食卓                         ウォッチマン・ニー

9月1日 「ああ、あなたの信仰はりっぱです。その願いどおりになるように。」 マタイ 15.28

このカナンの女は自らの必要を痛切に感じ、ついに叫びました。「主よ。ダビ デの子よ。私をあわれんでください」。この女は本気で祈ったのではなかったの でしょうか。もちろん本気でした。それでは彼女の祈りとは、すぐに答えをいた だけることを期待できるような祈りではなかったのでしょうか。私たちはそう考 えがちです。しかも驚くべきことに、イエスは「一言もお答えにならなかった」。 主は彼女には何もおっしゃらなかったようです。しかし弟子の彼女に対する不平 に対しては、主は「イスラエルの家の滅びた羊」につかわされているとお答えに なりました。しかしながらそのお答えは、正しい主への近づき方の糸口を彼女に 与えたようでした。なぜなら主はただイスラエルにとってのみ「ダビデの子」な のです。それ以外の人々には主にその様に言う権利はありません。このことを悟 り、彼女は主張の根拠を変え、イエスに対して、今度は単に主と尊称をつけたの でした。 その女の主への問い掛けは梨のつぶてであったかのように思われました。しか し実際には、主は彼女が主を尋ね求めることに手を貸しておられたのです。彼女 が権利を有さない間違った特権の根拠ではなく、ただ功なくして得た恵みの根拠 のゆえに、主は彼女が主を尋ね求めることに手を貸しておられたのです。そのと き彼女の信仰は即座の回答を得ました。彼女は鍵を見出したのです。


9月2日

 イエスは言われた。「そうまで言うのですか。それなら家にお帰りなさい。悪 霊はあなたの娘から出て行きました。」 マルコ 7.29

 ときどき尋ねられる質問はこうです。キリスト者に不可欠の祈りの奉仕は実際 に声に出すことを求められているのでしょうか。それとも私たちの重荷を黙って 神の御前に持ち出すだけで十分なのでしょうか。それに対する答えは、もし神が 祈りの重荷を与えられたなら、実際に声に出すことを望んでおられると、私は信 じます。私たちの言葉数が少なく、まとまりがなかったとしても、神は祈りに聞 こえるような表現方法が採られることを望んでいます。こうした表現がなければ、 重荷は取り除かれません。私たちの主語自身でさえゲッセマネにおいて「大きな 叫び声と涙とをもって祈りと願いをささげ」ました。霊的なことがらにおいては、 信仰と声に出すことの間には驚くべきつながりがあるように思われます。神は私 たちが何を信じているかばかりを重視なさいません。神は私たちが何を言うかを 重視なさいます。そのシロフェニキアの女性はたった一つの文をしゃべっただけ でした。しかしその結果、彼女は悪霊が退散したことを確かめるために家に戻っ たのでした。


9月3日

 主のために、そこに祭壇を築いた。 創世記 12.7

 アブラムが祭壇を築いた場所は、神が彼に現れたところでした。神が人に現れ るまで、その人は自分からすすんで、神にすべてをささげることはしません。し かし神がその人に出会う日、その日神はその人の生涯を握ります。アブラムは聖 別の教義についてほとんど何も知りませんでしたし、ほかの人から、自分自身を 聖別するようにとせきたてられたこともありませんでした。おそらくそれでよか ったのです。というのは聖別を教える人々は必ずしも聖別された人々と言えない のではないかと、私は心配するのです。そして多くのその教義を理解している人 たちは、聖別そのものについてはほとんど何も知りません。しかしアブラムは神 を見ていました。それで彼は祭壇を築いたのです。神を垣間みるのです。そうす ればあなたは永遠に神のものです。2000年にわたる教会の歴史は、ただこれ を裏付けるためのものにすぎません。


9月4日  ですから、兄弟たちよ。ますます熱心に、あなたがたの召されたことと選ばれ たこととを確かなものとしなさい。 II ペテロ 1.10

 霊的な資産は特別な折りに特別な賜物として得られるのではありません。それ は人間の生涯の中での神の絶えざる活動によって、何年もの時間をかけてもたら されるものなのです。兄弟姉妹が、特別な体験に頼る余り、そうした体験による 折りときどきの助けの合間、彼らを取り巻く邪教による特別な体験をも区別でき ないような生活へと立ち入ってしまうのを見るのは、私にとって大きな悲しみで す。なんと悲惨な状況を呈していることでしょうか。彼らは富を蓄えておくこと ができないでいます。彼らはキリスト者の集会や、そのほかの恵みの方法で得る 当面の助けと助けの間は、敗北の生活を送ります。御霊の生活とはそのようなも のではありません。御霊の生活の富はとぎれとぎれの生活の中で得られるもので はなく、人生に横たわる長い道のりで、絶えざる神の恵みの働きかけを通して得 られるものです。


9月5日  このことをあなたに明らかに示したのは肉と血ではなく、天にいますわたしの 父です。                             マタイ16.17

 教会の基礎はキリストだけではなく、キリストの知識です。今日の悲劇は、教 会−−実際にはあまたの何々教会−−の中にいる私たちの多くがこうした基礎に 不足していることです。私たちはキリストを知りません。私たちにとってキリス トは理論上か教義上のキリストであって、啓示されたキリストではありません。 しかし理論は地獄に打ち勝てません。その地獄を教会は打ち負かすとキリストは 言明しておられます。私たちは何のために存在しているのか忘れてしまっている のではありませんか。西部の家庭を訪ねると、ときどき美しい陶器の皿が、使う ために食卓の上に置かれずに、貴重な装飾品として壁に吊るされているのを見か けました。多くの人々は、教会とは形の完全さによって称賛されるその皿のよう なものだと、考えているように思えてなりません。しかしそうではありません。 神の教会とは使うためのものです。飾りではありません。いのちの現れは、条件 が整えば充溢するように思われます。しかし、地獄の門が私たちに立ち向かって くるとき、私たち一人一人に必要なものは結局のところ神が与えたもう神の御子 の姿であることがよくわかるようになります。試みの時に重要なのは、直の知識 です。


9月6日

わたしにとどまりなさい。わたしも、あなたがたの中とどまります。枝がぶど うの木についていなければ、枝だけでは実を結ぶことができません。同様にあな たがたも、わたしにとどまっていなければ、実を結ぶことはできません。 ヨハネ 15.4

このよく知られた言葉は、私たちをキリストにつなぎあわせてくださったお方 が神であることを思い起こさせてくれます。私たちはそこにいます。そしてそこ にとどまるように命じられています。それは神ご自身の行為です。そして私たち 神の行為に固くとどまるべきなのです。「わたしにとどまりなさい。わたしも、 あなたがたの中とどまります」。これは約束を伴なった命令の形をした重文です。 つまり、神の働きには客体的な側面と主体的な側面があるということです。そし て主体は客体に依存しています。つまり、「わたしも、あなたがたの中とどまり ます」とは、私たちがキリストにとどまった結果なのです。私たちは物事の主体 的な側面にとらわれ過ぎないように注意を向ける必要があります。それはぶどう の枝が珍しい大きさや色のぶどうの実を実らせようとして努力するようなもので す。私たちがよくよく考えてみる必要があるのは客体−−「私にとどまりなさい」 −−です。そうすれば産み出されるものも神が面倒を見てくださいます。そして 神はそのことを約束してくださいました。実の性質はいつでもぶどうの木によっ て決まるのです。

訳注 主体:行為・実践をなす当のもの 客体:行為・実践の対象となるもの


9月7日

ところが、夜中になって、「そら、花婿だ。迎えに出よ。」と叫ぶ声がした。 マタイ 25.6

娘たちの立場を明らかにしたのは花婿の遅延でした。主が来られるために、ど うすれば用意を整えることができるでしょうか。ある者たちは、主の来るのが5 年前だったら用意ができていたかも知れません。しかし主が今日来られたのでは だめです。主が今来られてもいいように準備するのはよいことですが、主が遅延 したとしたら、準備し続けていることが重要でなくなるわけがありません。私た ちは待ち続け、準備していることがなおできるでしょうか。ある人々は3日間待 つことはできますが、3年は待てません。ある人達は3年間、切羽詰まった気持 ちで頑張れるかも知れません。しかし彼らは30年間見張り続けることを要求さ れるかもしれないのです。ですから考えてみてください。もし花婿が真夜中が来 る前に到着していたなら、娘たちは全員賢かったことでしょう。彼女たちの愚か さを明らかにしたのは主の延着でした。どうか神が、時の移ろいと共に私が愚か になることからお守りくださいますように。時間の試練に対して一つだけ私に保 証を与えてくれるものがあります。主の御霊の満たしです。ただ主の絶えざる満 たしを私に教えてください。そうすれば大いなる真夜中の叫びが発せられる時、 私の灯の油が切れていることはないでしょう。


9月8日

いや、わたしは主の軍の将として、今、来たのだ。 ヨシュア 5.14

7つの強国の国土をめぐって イスラエルを導く立場に立って、ヨシュアが意 気消沈したとしても、不思議ではないはずです。しかしここエリコの近くで、ヨ シュアにこの光景が備えられました。抜き身の剣を携えたひとりの男がヨシュア の前に立っていました。「あなたは、私たちの味方ですか。それとも私たちの敵 なのですか」とヨシュアは尋ねました。すると断固とした調子で答えが返ってき ました。「いや」。その人はどちらの側にもくみしませんでした。その人は「将 として」来ていたのです。 神を賛美しましょう。神が万軍の将としての立場をおとりになることこそ、神 の御心なのです。私たちは私たちを取り囲むあらゆるもの、私たちに利益を供す るあらゆるものを欲します。しかし神はそうはなさいません。神は争いの真ん中 に立ってここやあそこに小さな助けを与えるような方ではありません。私たちに とって懸案事項は、助けを受けるという類いの話ではなく、指導性を受け入れる かどうかということです。戦争において神が低い地位にいることがおできになる とでも考えているなら、あなたは神を知ってはいません。神の地位は導くための 地位です。そのとき初めて、あなたの代わりに神が抜き身の剣を持っておられる ことが何を意味するのかがわかることでしょう。


9月9日

 見よ。わたしはあなたとともにあり、・・・・わたしは、あなたに約束したこ とを成し遂げるまで、決してあなたを捨てない。                           創世記 28.15

 ここベテルにおいては、ヤコブの霊的状態にかかわらず、神はヤコブに対する 非難を口にされませんでした。私たちでしたらきっとヤコブに小言を並べたでし ょうに。そして神は聖なるおかたです。神はヤコブのペテンに荷担はなさいませ んでした。それにもかかわらず、神はヤコブをたしなめませんでした。叱責がな んの役に立っていたというのでしょうか。ヤコブは自分自身を変えることができ ませんでした。ですから神はヤコブに自分を変えるようにと促すことをなさいま せんでした。しかしヤコブには不可能なことも、神にはお出来になりました。そ して神は御自身の言葉によって絶対的な自信のほどを示しておられます。「わた しは・・・・成し遂げるまで、決してあなたを捨てない」。神は御自身の僕が神 の御手から逃れ得ないことを知っていました。そして数年後、ベテルに戻ってく るヤコブはまったく別人になっていることも神はご存知でした。「見よ。わたし はあなたとともにあり」。これこそ私たちの慰めです。


9月10日

 信仰によって、ノアは、まだ見ていない事がらについて神から警告を受けたと き、恐れかしこんで、その家族の救いのために箱船を造り、その箱船によって、 世の罪を定め、信仰による義を相続する者となりました。 ヘブル 11.7

 私たちは「洗礼の回心」については話すことができませんが、「洗礼の救い」 すなわち、宇宙、この世の制度からの救いについては話せるかも知れません。私 たちはサタンの支配するこの世の制度にがんじがらめになっています。救われる とはこのサタンの世界から脱出し、神の世界に導き入れられることです。私たち の主イエスの十字架によって、世界は私たちに対して十字架に付けられ、私たち は世界に対して十字架に付けられました。これについてペテロは「水を通って救 われた」(Iペテロ3.20)8人のたましいについて記すことによって、表現 しています。箱船にはいったとき、ノアと彼とともにいた者たちは、古い堕落し た世界から新しい世界に信仰によって一歩踏みだしました。彼らが直接的に溺れ なくてすんだということばかりではなく、彼らはあの堕落した制度から抜け出し たのです。これが救いです。あなたが洗礼を受けるとき、水の下に沈み、見える 形として、あなたの世界もあなたといっしょに沈むのです。あなたはキリストに あって起きあがりますが、あなたの世界は水にのまれてしまいます。


9月11日

 地の果てのすべての者よ。  わたしを仰ぎ見て救われよ。                            イザヤ 45.22

 死を目前にした強盗の経験を表現するものとして、このみことばはぴったりで す。それまでの歴史はキリストの十字架をきたるべきものとして指し示していた のでした。今やその出来事が人類の目の前で起こっていたのです。そしてこの犯 罪人は重要な証人だったのです。この男は罪人の一典型であり、一典型の刑罰を 受けていました。ですから私たちは彼の回心は典型的な回心であると結論しなけ ればなりますまい。ところでこの男はイエスを救い主として認めていたのでしょ うか。この男の言葉をよく味わってごらんなさい。「あなたの御国の位にお着き になるときには、わたしを思い出してください」(ルカ23.42)。主のお答 えはなんだったでしょうか。主はこの男に、彼の裁きは正当であることを教え、 彼に対する償いについて説明することをなさいませんでした。そのかわり、罪の 犠牲として彼の代わりに死のうといていたのはほかならぬ主イエスだったのです。 それは贖いの真理を説明するとても素晴らしい機会のように私たちには思えます。 しかしそうではありません。主はただ、「あなたはきょう、わたしとともにパラ ダイスにいます」とお答えになっただけです。なぜならその強盗はイエスが誰で あるのか、つまり、不当な苦しみを受け、イエスは支配者となり王国を確立する 方となるであろうことをおぼろげに掴んでいたのです。この男は自分の横に全地 の主を見たので、主に叫びました。それで十分だったのです。


9月12日

わたしはあなたのうわさを耳で聞いていました。 しかし、今、この目であなたを見ました。                              ヨブ 42.5

 健全な教義は、私たちの知識や見解を誇らせることで、私たちを膨張させてし まう可能性があります。あるいは巧みな議論や極端な方法論は、私たちから真理 の輝きを奪ってしまうことで、私たちに真理を忘れさせてしまいます。しかし明 視は革命的です。そのほかのものはどうでもいい些細なものになってしまいます。 一度でいいから主を見てご覧なさい。そうすれば主を忘れることは二度とありま せん。サタンの攻撃が増し加わり、友人の助言が私たちをつまずかせるようなと き、試練の中で私たちをたたしめるのは神への内なる知識だけです。  私が回心してから1年か2年の間、近代主義者や無神論者が私のところへやっ てきて、聖書は欺瞞に満ちていて、信じるに足りないものだということを証明し たらどうしようかと恐れていたものでした。もしそんなことをだれかがやっての けたら、すべてはおしまいだと考えたのです。私の信仰は失われると、私はむし ろ信じていたかったのです。しかし今ではまったく平安です。もしそうした人々 全員がやってきて、欧州の兵器庫に格納された弾丸のようにたくさんの議論を聖 書に対して持ち出したとしても、私の答えは唯一不変です。「なるほどみなさん のおっしゃることはごもっともです−−しかし私は私の神を知っています。それ で十分なのです」。


9月13日

 私たちは、心に血の注ぎを受けて邪悪な良心をきよめられ・・・・たのですか ら、全き信仰をもって、真心から神に近づこうではありませんか。 ヘブル 9.13

 私たちが至聖所にはいるとき、尊いキリストの血潮のほかに敢えて私たちは何 かに恃んで入ろうとするのでしょうか。しかし私はほんとうに自分が血潮による 神の臨在に至る道を求めているのか、それともほかの方法によって神の臨在への 道を求めているのか自問してみる必要があるようです。私が「血潮によって」と 言うとき、それは何を意味しているのでしょうか。単に罪を認め、洗い浄めてい ただく必要性を認め、主イエスの完成された御業という基礎の上で神のもとへ行 くことを意味するのです。私はただ神のいさおしだけに頼って神に近づきます。 私の達成という土台に立ってでは決してありません。たとえば、今日は特別に親 切だったとか、我慢強かったとか、あるいは今日は主のために何かしたとか、そ ういう土台に立ってでは決してありません。  私は誤解されるかも知れません。しかし私は私たちのある人々が次のように言 っているのを恐れるのです。「今日私はいつもより注意深かった。今日はいつも よりよくやった。だから今日は私は神に近づくことができ、いい祈りをささげる ことができる」。否、否、否。汚れなき良心は私たちの達成に基づいてはいませ ん。汚れなき良心は、ただ主の血潮が流されることによる主イエスの贖いの御業 に基づいているのです。


9月14日

 「それはイスラエル人ヨアシュの子ギデオンの剣にほかならない。神が彼の手 にミデヤンと、陣営全部を渡されたのだ」     士師記 7.14

 おじまどってしまっている主の僕がいれば、彼を元気づけようとするのが神の やり方です。ここにはいなごの大群のような大勢の侵略者の軍隊がありました。 そしてギデオンは自分の軍勢を前進的に解散するように導かれていたのです。残 された300人にミデヤン人の大群に打ち勝つことを期待するのは常識に反する ように思われました。そしてギデオンは結果については確信を持っていなかった ように思われます。彼が的の陣営に踏み込んだのは、こうした不確定な状況のさ なかでした。  神を褒め称えましょう。私たちが突破口を見い出せないとき、道を開くことは 神にはたやすいことです。その小さな部隊は神の民を救うためのほんとうの意味 での神の道具となり得ました。そしてためらいがちの主の僕は、彼の信仰をたた しめるように仕組まれたみごとな方法によって、確信に満ちた知らせを耳にする ことができました。すなわちその知らせとは彼の敵の預言的な口から発せられた のでした。恐れがすでに敵に襲いかかっていたことをギデオンは知りました。彼 が礼拝しなかったわけがあるでしょうか。


9月15日

偽善者たちのようであってはなりません。 マタイ 6.5

私たちのうちで余りにも多くの者がクリスチャンとして振る舞おうとこだわっ ています。私たちは「霊的な」生活を送り、「霊的な」言葉を語り、「霊的な」 振舞いをよしとします。しかし全てのことを私たちは自分でなしているのです。 もしかすると実際のところ完璧にうまくやっているかも知れませんが、そこには 何かが間違っていると警告するものがあります。私たちが無理してこれをやめ、 あれをやめ、外のものをやめ、そのため緊張のしっぱなしです。あなたは今まで に自分の言語でない言葉で話したことがありますか。もしかするとあなたにも私 のいわんとしていることがおわかりになるでしょう。話そうとしても自分の思っ たとおりに言葉が出て来るものではありません。その様にしてあなたは無理して 話さなければなりません。しかし自分の言語で話す段になったらどうでしょうか。 そんなに容易いことはないはずです。意識しないでもなんなく話すことができま す。まさにその自発性があらゆる人に対してあなたがどんな人であるかを明らか にするのです。 キリスト者の生活を振る舞うことほど有害なものはありません。私たちの言葉 が、私たちの祈りが、まさに私たちの立ち居振舞が、私たちのすばらしい主であ るキリストのいのちを自発的に表わすものとなるとき、それは無上の祝福です。


9月16日

主は、「わたしの恵みは、あなたに十分である。というのはわたしの力は弱さ のうちに完全に現われるからである。」と言われたのです。 II コリント 12.9

パウロがこの章で触れている「主の幻と啓示」についてですが、その性質につ いてはほとんど語っていないことは象徴的なことです。それを自慢することは、 益にならないとパウロは言っています。そしてパウロはその願いとは逆に、強い 衝動に駆られて「14年前」の経験について言及するのです。14年。私たちの 多くの人々は、神から受けたものを直接持ってでもいれば、上海中に知れわたり ます。それを公表しないとはたとえ2年間でもひとつの手柄でしょう。しかしパ ウロはずっとたってからもその幻がどのようなものであったのか私たちに教えま せん。ただそれがキリストをより深く知ったことだということをのぞいては。パ ウロは、しかしながらその結果の「肉体のとげ」と、彼の祈りに対する神の恵み に満ちた答えを私たちに教えています。大勢の人々を力付けてきたのは、幻では なく、その主の答えだったのです。


9月17日

あなたがたは、私に悪を計りましたが、神はそれを、よいことのための計らい となさいました。 創世記 50.20

神はヨセフに特別の任務を与えておられました。飢餓と死からイスラエルを救 うという仕事です。主の僕に採られた主の方法は常識をはるかに逸するものでし た。しかし最後にはヨセフは兄弟たちに次のように言うことができたのでした。 「神はいのちを救うために、あなたがたより先に、私を遣わしてくださったので す」。ヨセフにはわかりました。問題は、私たちはどうかということです。意識 して主に仕えているときばかりか、私たちが一歩を踏み出したばかりの時から神 の御手は私たちの上にあります。私たちが生まれる前から私たちの環境は神の予 見によって整えられていました。神は私たちが誰の子供として生まれるべきかを 決定されました。たとい私たちがときどき、間違った家庭に生まれて来たのでは ないかと感じることがあるとしても。ある人は両親は受け入れるかも知れません が、兄弟や姉妹、あるいは親戚を取り替えたいと、もしかすると思っているので はありませんか。ヨセフもこう考えてよかったはずです。しかもその理由があり ました。なぜなら兄弟たちはヨセフに悪を企んだからです。しかし全ての道は神 によって整えられています。神は全てを意図し、全てをよきに変えられます。神 が選ばれた働きにおいて、もし私たちが神の御手がわからないできたならば、神 に賛美を捧げる大きな機会を逸してきたことになるのです。


9月18日

 天にあるわしの道。                          箴言 30.19

 鳥のことを考えてみてください。もしあなたが鳥たちに、重力の法則は大丈夫 なの、ときくことができたとしたら、鳥はなんと答えるでしょうか。鳥たちはこ う言うでしょう。「私たちはニュートンなんて名前は全然聞いたこともありませ んでした。ニュートンの法則については何も知りません。私たちが飛ぶのは、た だ私たちが飛ぶように生まれてきたからなのです」。鳥の内に飛ぶ力を秘めたい のちがあるばかりではなく、そのいのちは、被造物が重力の法則に本能的としか 言い様のない方法で打ち勝つことのできる法則を宿しているのです。もちろん、 なお重力の法則は存在しています。雪の降り積もった寒いある朝、あなたが早く 目覚めたとします。庭には一羽の雀の死骸がおちています。たちどころにあなた は引力の法則の存在を思い出すのです。しかし鳥たちは生きている間、その法則 に打ち勝っています。そして鳥たちの内のいのちは、鳥たちの意識を司っている ものなのです。そうです。キリスト・イエスのいのちの御霊の原理が、罪と死の 法則から私を自由にしてくださったのです。


9月19日

 ふたりは連れ立ってユダヤ人の会堂に入り、話をすると、ユダヤ人もギリシヤ 人も大ぜいの人々が信仰にはいった。                              使徒 14.1

 私たちが立って話をするとき、人々は私たちが教義に重きを置いているか、い のちに重きを置いているかをたちどころに見抜いてしまいます。私たちが絶対に 危険を冒さないですむのは前者です。私たちは絶対安全で、誤解を与えないよう にと教義の体系の枠組からはずれないようにします。私たちは自分の信条を論理 的な順序で示します。こうした論法を取った後、私たちの動かすことのできない 結論へと到達します。しかし私たちの強調するものが、いのちであるなら、私た ちのやり方は大変異なることでしょう。私たちが技術的な正確さからはほど遠い と思われることは必至です。というのも単なる教義によって私たちは絶対に目的 に達することがないことを、私たち自身が体験してきたからです。聴衆に対して、 生きた人格としてのキリストを示し、人々がキリストとともにいるようにさえな れば、私たちの目的が達成されたことがわかることでしょう。        


9月20日

これらの出来事の後、主のことばが幻のうちにアブラムに臨み、こう仰せられ た。「アブラムよ。恐れるな。わたしはあなたの盾である。あなたの受ける報い は非常に大きい。」 創世記 15.1

神が「恐れるな」とおっしゃるとき、神はその僕の心に恐れか疑いのいずれか をご覧になっているのです。ここでの主の言葉に先行して起こった出来事に注意 してみましょう。アブラムがまずパンとワインをメルキゼデクから受け取ってい たなら、ソドムの王から申し出のあった報酬を拒絶することはたやすかったと思 われます。家に帰っていたなら、疑いと疑問が彼の心にわきあがったかも知れま せん。あらゆる援助を断固として拒否したことは賢いことだったのだろうか。徹 底した態度は新たな敵をつくってしまたのではないだろうか。 神に感謝しましょう。一つ一つの疑いに、神の確証が与えられています。「主 のことばがアブラムに臨んだ」。彼の恐れについてはどうでしょう。神は彼を守 る盾になってくださいます。未来についてはどうでしょう。神は、アブラムの最 高の報酬としてなんとご自身をお捧げになったのです。アブラムは結局これに代 わるソドムの乏しい代替品に誘惑されなかったことを、どれだけ神に感謝したこ とでしょうか。


9月21日

暗やみの中を歩き、 光を持たない者は、 主の御名に信頼し、自分の神に拠り頼め。 イザヤ 50.20

私たちが暗闇に放りだされたと感じるとき、一つの大きな危険は、私たちの周 囲を弱々しい私たち自身の青白い炎でめぐらし、歩くための光をとろうと期待し つつ、火を焚き付け始めることです(11節)。「私はとことん考えぬきました。 総合的に判断したのです。私は自信をもって・・・・私の判断によれば・・・・」 このような思考や感覚は、光を源にしたものではありません。それらはたいまつ です。たいまつを神の光にさらしてごらんなさい。そうすれば、その結論は十分 な深慮に欠け、十分に明確でもないことがわかります。最後に私たちはただ「悲 しみのうちに横たわる」しかなくなります。もしそれが私たちの望んだ困窮であ るならば、どのようなことをしてでも、こうした対処方法を求めることにしまし ょう。しかし暗闇は決して人間の光によっては追い払うことができません。光は ただ神からきます。神を見上げましょう。あたりが暗闇であったとしても、そこ には光があります。そして「あなたの光のうちに、私たちは光を見ます」。


9月22日

群集のだれもが何とかしてイエスにさわろうとしていた。 ルカ 6.19

私たちのうちだれも神の不思議な方法を予知するができなければ、神はこのよ うに働くべきだと規定することもできません。中国の少年がいました。彼が12 歳の時のことです。お母さんに連れられ、丘の頂上の寺にお参りに行きました。 母親とお堂の前に立ったとき、少年は偶像を見つめました。そして思いました。 「おまえは拝むにはあまりにも醜く、うす汚い。おまえが僕を救えるなんて信じ られない。おまえを拝んで、何の役に立つんだ」。しかし母親への礼儀から、儀 式に参加しました。それがすむと、母親は背負ってもらって山を下るために椅子 かごに座りました。そのとき少年は寺の裏にそっと抜け出すと、空き地を見つけ ました。少年は天を見上げて言いました。「神様。あなたがどのような方であっ たとしても、あんな汚ないお堂にあなたがお住まいになれるとは私には思えませ ん。あなたは偉大過ぎます。私はどのようにしてあなたを見出したらよいのかわ かりません。けれども私自身をあなたの御手の中に置きます。なぜなら罪はとて も力が強く、この世は引き込みます。あなたがどなたであろうと、私はあなたに 私自身を委ねます」。30年後、私は彼に会い、福音を語りました。彼は言いま した。「主イエスに出会ったのは今日が初めてですが、神に触れたのは今日が2 度目です。昔、あの山の上で何かが起きたのです」。 「そして、さわった人々はみな、いやされた」。神はいつでも、それがどのよ うにしてなのかは私たちに説明されません。


9月23日

 その棒を、箱をかつぐために箱の両側にある環に通した。 出エジプト37.5

 契約の箱は台座に固定されていませんでした。天幕の記述全体を通して、箱の 下の床についての記述が見あたりません。もちろんそれはイスラエル人の足によ って踏まれていたのとなんら変わらぬ渇いた土だったからです。そして私たちの キリスト者としての証も、私たちの日々の歩みを通してキリスト御自身を証明す ることにあるのです。さらに、ちょうど箱の運ばれる用意が整っていることを棒 が確証したのと同様に、私たちの証も決して静止してはいられないはずです。い つでも動き、新鮮で、活動的であるべきです。これは必要が生じたときにすばや く取り出されるものという意味ではなく、むしろいつでも用意されていて、神に お出来になることの新鮮な証拠を常に提示していることを意味しています。私た ちがキリストのことをなんというかが第一なのではなく、キリストこそ私たちの 生涯の証です。そしてキリストは私たちの行程の一歩一歩に御自身の新しい発見 を与えてくださるのです。


9月24日

 大ぜいいる私たちも、キリストにあって一つのからだであり、ひとりひとり互 いに器官なのです。       ローマ 12.5

 イエスとその民を、からだと器官として捉える考え方は、タルシスのサウロの ほかならぬ回心と召命に密接な関係があります。「わたしは、あなたが迫害して いるイエスである」という主のサウロへの最初の言葉は、主の民に手をかけるこ とで、サウロが主に手をかけている事実を強調しています。その言葉は明確に教 会の奥義をサウロに惜しみなく与えようとする啓示の先触れでした。しかしイエ スはここではそのことに触れませんでした。イエスは天の奥義のうちにとどまる ことをサウロにお許しになりませんでした。この直後の命令は、次のような啓示 の、つまりはなはだ実際的な結果になりました。「立ち上がって、町にはいりな さい。そうすれば、あなたのしなければならないことが告げられるはずです」。 告げられるはずです、とは。サウロは自分が憎む人々の指導を乞わねばなりませ ん。まさにサウロがせん滅しようとしていた弟子たちがいなければ、サウロはど うすることもできなかったでしょう。サウロは何をなすべきか決してわからなか ったでしょう。


9月25日

 私たちの国籍は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主としてお いでになるのを、私たちは待ち望んでいます。 ピリピ 3,.20

 たとい私たちが苦労して大西洋や太平洋をわたって働くことができても、決し て自分たちの労苦で地上から天へと働きかけることはできません。天は遠い未来 に教会が到達するところではありません。教会は今そこに存在します。天は教会 の起源であり、花婿なのであって、教会の目的地ではありません。このようなわ けで、天に到達するための努力そのものが生じ得ないことです。この見解は極端 と思われるかも知れません。無理はありません。しかし真理です。天の召命のす ばらしさを私たちが新たに知ることができれば。その召命は私たちを天に手招き していません。その召命は私たちが天に属し、私たちが天にいることを知らしめ るのです。ですから私たちキリスト者は天に向かって頑張る必要はありません。 私たちは今、あらゆる関心がしっかりと天に向けられている、天の市民なのです。


9月26日  これらのことを、賢い者や知恵ある者には隠して、幼子たちに現してください ました。 マタイ 11.25

 回心してからすぐ、わたしは説教するために村へと出掛けました。私は恵まれ た教育を受け、みことばにも精通していました。ですから村人たちを指導するこ とはとても容易なことと考えていました。彼らの中には識字能力のない女性が大 勢含まれていました。しかし何回か訪ねてみると、彼女たちは字が読めないにも かかわらず、主を心から知っているということがわかりました。彼女たちがたど たどしく読む聖書を私も知っていました。彼女たちは聖書が語っている一人の方 を知っていました。私は自分の中にたくさんの知識を持っていましたが、彼女た ちは聖霊のうちにたくさん持っていました。十字架の訓練を除いて、聖霊の働き を識字能力の劣る人々に上手に説明できるものはまだそのときの私には示されて いませんでした。今日、どんなにたくさんのキリストの教師が、当時の私と同じ ようにほとんど肉の準備の支えによって、ほかの人々を教えていることでしょう か。しかし神に感謝しましょう。神は御自身を幼子に現してくださるのです。


9月27日

 心の中でキリストを主としてあがめなさい。                           I ペテロ 3.15

 非常に多くのキリスト者が御霊の力を体験できないでいる理由は、御霊に対す る崇敬の念が足りないことです。そして人々は内住する御霊の実在という厳粛な 事実に目が開かれていないために、崇敬の念が不足しているのです。その内住の 事実は動かすことができませんが、彼らにはわかりません。どうして神の子ども たちのある者たちは勝利の生活を送るのに対し、別の人々は絶えず敗北の状態に いるのでしょうか。違いは、御霊がおられるとか、おられないとかではなく(な ぜなら御霊はすべての神の子どもに住みたもうお方です)、ある人々は御霊が内 住しておられることを知り、別の人々はそれを知らないでいることにあります。 そして必然的に、ある人々は自分たちの生活の支配権を神に認めるのに対し、別 の人々の支配権は相変わらず自分自身という支配者に委ねられています。自分の 心は神の住みたもうところであるという事実を発見することは、あらゆるキリス ト者の生活に革命をもたらすことでしょう。


9月28日

 私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださった                          ローマ 5.8

 私たちの贖いの代価を思うとき、自分自身を主にささげる以外、なにかできる というのでしょうか。「私は神の恵みのゆえに、あなたがたにお願いします」と パウロはローマ12章で嘆願しました。先行する11章で、パウロはとうとうと 神の恵みを一から十まで語ったのでした。私たちが新しいいのちの歩みをするよ うにと、愛によってキリストは死へと向かわれました。その同じキリストの愛が、 私たちを再びキリストに近づけます。あまりにも私心のない愛に目が向けられた とき、自分自身を明け渡すよりも、自分自身にしがみつくことの方が難しくなり ます。何年もの間、神にすべてを捧げることを怠ったキリスト者でいることは驚 嘆すべきことです。なぜなら、私たちは計り知れない価値で買い取られたのでは ありませんでしたか。ですから私たちは、私たちのからだと霊に住まわれる神に 栄光が帰されることをよろこんで選択します。「あなたがたのからだは、神から 受けた聖霊の宮であり」(I コリント 6.19以下)。これは神の権利です。 私たちが神に示す厚意ではありません。私は私のものではありません。敢えて私 は神のものを横取りするのでしょうか。「主よ。私の持っているもの、そして私 自身、そして願うもの、これらすべては−−ただあなたのものです」。


9月29日

私のあとから来られる方は、私よりもさらに力のある方です。・・・・その方 は、あなたがたに聖霊と火とのバプテスマをお授けになります。 マタイ 3.11

神はその子供たちによい贈り物だけをお与えになりす。しかし残念なことに、 彼らはあまりにも恵まれているので、贈り物を軽く見てしまいがちです。旧約聖 書の聖徒たちは、私たちよりも恵まれた環境には置かれていませんでしたので、 御霊からあふれ出る賜物の価値をより適切に見分けることができたのでした。彼 らの時代には、祭司をはじめ裁き司、王や預言者などの選ばれた少数のものたち に与えられた賜物でしたが、今やその賜物はあらゆる神の子供に割り当てられて います。考えてご覧なさい。キリストに信頼しているだけの取るに足りない私た ちが、神の友モーセや、愛された王ダビデや、力強い預言者エリヤにとどまった 霊と同じ霊にとどまることができるようになるのです。「女から生まれた者の中 で、」とイエスは言われました。「バプテスマのヨハネよりすぐれた人は出ませ んでした。しかも、天の御国の一番小さい者でも、彼より偉大です」。


9月30日

ばらまいても、なお富む人があり、 箴言 11.24

物について神の採られる原則は、マナの原則です。すなわち「多く集めた者も 余ることはなく、少なく集めた者も足りないことはなかった」(出エジプト16. 18 そして II コリント8.14以下)。これは、少ししか集めなかったとし ても欠乏せず、たくさん集めた者もなにも余らないことを喜ぶべきであるという ことを意味しています。私たちのある人達は経験を通してこのことの大切さを証 ししました。少ししか集めない人に対しての重荷を負うとき、私たちはたくさん 集めたと神はご覧になります。しかしそうではなく、もし私たちが自分たちに必 要なことしか考えないとするならば、私たちに期待できるものはたかだか、少し しか集めず足りないものもないという状況です。  主にある兄弟たちを助けることができるということは、たとい私たちの収入面 からの助けがより多く占めていたとしても、それは特権です。拾うことしか学ん でいないものはほとんど受けることができません。しかし与えることを学んだも のは、いつでも受け取り続け、さらにいつでも与えなければなりません。あなた がほかの人々のために使えば使うほど、あなたの収入は多くなることでしょう。 あなたが貯めようとすればするほど、「さび」や「盗人」に悩まされることにな るでしょう。