荒野の食卓 8月

荒れ野の食卓




翻訳 by Tsutomu Suzuki 荒野の食卓                         ウォッチマン・ニー

8月1日

 都は混じりけのないガラスに似た純金でできていた。 黙示 21.18

 金はもっぱら私たちに神の何かを訴えかけます。ガラスは透き通った純粋さを 訴えかけます。私たちは後者の直喩を受け入れ、来るべき純粋さはガラスがよく 表現し、現在の純粋さは水によって説明されると提言してはいけないものでしょ うか。というのは、水は容易に汚れて濁りますが、ガラスの中には不純物が入り 込むことはないからです。私たちの今日の純粋さは未だうつろい易いものです。 かの日の純粋さは決して変わることはありません。私たちに与えられた「神の御 性質」は純金です。このことに疑問をはさむ余地はありません。しかし、悲しい ことに、そこに惨めなかなかすが混じり合う原因を私たちがつくっています。そ のため私たちへの神の主要な働きかけは、取り去ることなのです。十字架によっ て神は、私たちの中にあるものを主の死の裁きへと持ち出すことによって、不純 物を除こうとされています。私たちの生み出すことのできる最良のものは−−せ いぜいかなかすです。神の永遠の都の純金の中央に私たちが置かれる前に、かな かすはすべて取り除かれねばなりません。


8月2日

「父よ。御名の栄光を現わしてください」                          ヨハネ 12.28

 たくさんのキリストの教えが私たちに与えられています。しかしここでは神御 自身の栄光をお現しになるという内密の出来事が珍しく語られています。教義は 26節で終わり、いよいよ人の子御自身が現れいでます。「何と言おうか。『父 よ。この時から私をお救いください。』と」。主は御自身の壁を取りのけられ、 まるで御自身のほんとうの姿を顕しておられるかのようです。しかし主は不用意 な言葉は発しておられません。人々に説教するときに劣らず、父にお話になると きも十字架が支配していました。「このためにこそ、わたしはこの時に至ったの です」。「私を救ってください」と私は言うことができません。私が言える言葉 は「父よ。御名の栄光を現してください」。  心が騒ぐとき、注意深く語りましょう。主はそうされました。


8月3日

 この方は、銀を精錬し、これをきよめる者として座に着き、レビの子らをきよ め、彼らを金のように、銀のように純粋にする。                              マラキ 3.3

 価値が失われていく日、私たちは何を重要視するのでしょうか。人間のこざか しさやこの世の富のという屑をでしょうか。それとも神から来る金や銀、そして キリストによる贖いをでしょうか。今日信仰生活の多くの事柄はあまりにも貧弱 になっています。しかし御霊の価値はたやすく減じることがありません。みこと ばを宣べ伝えること、祈り、証し、これらは難しいことに思えないかも知れませ ん。しかしそれらが価値あるものであるためには、数年間にわたって高価な代価、 血潮と神の訓練が必要でしょう。神の「尊いことに用いる器」とは、御霊の示し を待ち続けている人のことです。そしてその人はまた一方では自分でもわからな いことを受け入れることを潔しとします。なぜなら物事の本質が試される日が来 るからです。説教が始まるや混乱の1時間、人々がそこに神をほとんど見ること ができなければ、その説教は何の価値もありません。このようなとき、説教者が ほんとうに神によって捉えられて、語ったことを通して神が語られたかどうか人 々は言い当てることができます。あらかじめ説教者に深く触れていなかった霊的 真理は、当日ほかの人々に触れる力にはなり得ません。


8月4日

 「私たちはあなたの神々に仕えず、あなたが立てた金の像を拝むことも しません」 ダニエル 3.18

 イスラエルの浮沈の鍵は真の礼拝を行うか、それとも偶像を礼拝するかにかか っていました。ヒゼキヤ王のもとで行われた信仰復興はまず何よりも礼拝の復興 だったのです。ゼルバベルのもとで行われたのも同じでした。捕囚は厳しい裁き でした。しかしそのイスラエルへの厳しさの原因は、何よりもまずイスラエルが 礼拝をやめてしまっていたことが挙げられるのです。というのも神が御自身の分 け前をお受け取りにならないとき、神の民は自分たちの分け前も失うからです。 そして何よりも大きな裁きとは、神に仕えることを禁じられることなのです。  「私たちの神は焼き尽くす火です」。私たちのうちで燃えるものならなんでも 焼かれることでしょう。インドの兄弟達が礼拝している顔を見ると私はいつでも 感動します。神の御前での「崇拝と畏敬」は私たちにふさわしく備わっています。 これらが備わり、神との私たちの心の関係が正しくあるとき、神の子どもである 私たちは焼かれるはずがありません。これはダニエルと3人の友人の経験でした。 彼らは何をおいても礼拝は欠くべからざる問題であることに確信を持っていまし た。私たちの仕える神は私たちを解放することができる、と言われています。永 遠に燃え盛る炎の前で頭を下げた男たちに、ネブカデネザルの取るに足りない炉 は何の意味を持ち得たでしょう。彼らは何によっても損なわれませんでした。


8月5日

 これらのことが書かれたのは、イエスが神の子キリストであることを、あなた がたが信じるため、また、あなたがたが信じて、イエスの御名によっていのちを 得るためである。 ヨハネ 20.31

 中国南部の大学で、集会を持ったことがありました。私は古い学友がそこで心 理学の教授になっているのを知りました。そこで私は集会の始まる前に彼を訪ね、 キリストの話をしました。彼は少しの間礼儀正しく話を聞くと、ほほえんで言い ました。「私に説教しても無駄です。神がいるなんて、信じていませんから」  翌日、驚いたことに、最初の集会が終わるとき、立ち上がって救われたという 証しをしたのは、あろうことかまさにその教授だったのです。そのあと私は彼の ところへ行きました。「いったい何が起こったのですか」と私は尋ねました。 「あなたが行ってから」と、教授は言いました。「あなたが置いていった聖書を 手にしてみると、ヨハネ1章に目が釘付けになりました。『その翌日』『その翌 日』『その翌日』。私は思いました。この記者は自分の語っていることをわきま えている。彼はそれをすべて見たのだ。まるで日記のようだと。それから私は考 えました。もしやはり神がいるとしたらどうだろう。神を信じないとは愚かでは ないか。あなたは存在を疑っている神にも祈ることはできると教えてくれました。 そこで私はひざまづき、祈ったのです。何も期待していませんでしたが、祈るに つれて、神がおられることがわかりました。どうしてわかったのかは説明できま せん。ただ、わかったのですよ。それから目撃者ヨハネのことばが記憶によみが えってきました。神がおられるから、ただその理由のゆえにイエスは神の御子で あり得るのだ−−つまり私は救われたのだ、と思いました」


8月6日

 「獅子や、熊の爪から私を救い出してくださった主は、あのペリシテ人の手か らも私を救い出してくださいます」      I サムエル 17.37

 ダビデはベツレヘムで油を注がれた王でした。しかしすぐにダビデはそれまで の生活の場へと戻り、そこに主がおられることを証明するのでした。ダビデが戻 ったのは羊の群のところでした。特別な帝王学の訓練学校ではありません。サウ ロの使いは「羊の番をした」ダビデを見い出しました。そしてダビデがゴリヤテ を迎え撃つときに使った武器は、そこで試されたのでした。サウルの兜と剣、鎧 についてダビデは「慣れていない」と言うと、それをはずしてしまいました。か わりに羊飼いの投石器と小川の石を選んだのでした。「この全集団も、主が剣や 槍を使わずに救うことを知るだろう」。  執務室の中にいるだけでことは足りません。単なる地位はそこに霊的な力を発 揮することができないからです。あなたは公衆の面前で敵と対決する前に、隠れ たところで敵と対決することが必要です。あなたは外国を統治する前に、家庭で 神の御霊と一致するよう調整する必要があります。これこそ私たち一人一人に門 戸を開放している訓練学校なのです。


8月7日

 彼がペヌエルを通り過ぎたころ、太陽は彼の上に上ったが、彼はそのもものた めにびっこをひいていた。 創世記 32.31

 ここペヌエルで顔と顔とを合わせ、ヤコブはイスラエルという新しい名前を受 け取りました。それでも地の文では彼をヤコブと呼び続けています。そのわけは こうです。一晩で完全に変わってしまう人間などいないことはもちろん真実だか らです。ヤコブは自分でも大きな変化に気づいてはいませんでした。彼にわかっ ていたことは神に会ったということ、そしていまや一生びっこをひくようになっ たということだけでした。  特に神が特別な方法で私たちと引見したようなとき、私たちの経験を解釈する ためにみことばを用いるのは理にかなっています。しかし完全という誤った観念 をつくりあげてしまうことにみことばを用いないように注意しましょう。神のこ とばは実際の事実と固く結びついています。見せかけほど霊的成長を妨げるもの はありません。ヤコブにとって、ペヌエルは完全な接触ではありませんでした。 それは神との新しい、そして絶えず変化する経験の単なる新しい始まりに過ぎま せん。「太陽は彼の上に上ったが」。


8月8日

信仰によって、ヤコブは・・・・自分の杖のかしらに寄りかかって礼拝しました。 ヘブル 11.21

 ヤコブの信仰を叙述するために、この新約聖書の記者はなんと見事に顕然たる 弱さの徴を選んだことでしょう。神に打たれてびっこをひくようになったペヌエ ルで、生まれつきの力をありあまるほど備えた横取り屋に終止符が打たれたので した。そのとき彼の傍らには、神とともいる祝福に満ちた王子が立っていました −−そして礼拝したのです。  私はあるとき若い兄弟と食卓に着いていました。主はその兄弟にまさにこの私 たちの生まれつきの力の問題について語り続けていたのでした。兄弟は私に言い ました。「神があなたに出会い、根本的な方法で、神があなたを対処したことが わかるとき、つまりびっこをひくような一撃を受けているなら、それは祝福です」。 彼と私の間には、テーブルの上にビスケットを載せたお皿がありました。私はビ スケットを一枚つまむと、食べようとしているかのようにそれを半分に割りまし た。それから私は注意深くその2片をつなぐと、言いました。「いいように見え ますが、もう二度ともとには戻りませんね。一度あなたの背骨が折られてしまう と、神からのどんな小さな接触にも然りと言う態度を取り続けることでしょう」。


8月9日

すべてのわざわいから私を贖われた御使い。 この子どもたちを祝福してください。                       創世記 48.16

 ヤコブとイサクはキリスト者の経験の目的と主題という両面を例示してくれま す。イサクは一方的な恵みを表す型です。彼はあらゆるものを受け取りました。 一方ヤコブはほかの人々から何一つ受け取りませんでした。彼の性格はすべてを 得ようと必死に努力しなければならないという訓練を通して形成されました。両 者ともに預言的に息子たちを祝福しました。しかし彼らの預言はどんなに違うこ とでしょうか。イサクは自分で何をしているのかわかりませんでした。イサクが 望んだいた息子とは逆の息子が祝福の受取人となりました。しかしヤコブは知っ ていました。ヨセフが、ヤコブは間違えていると抗議したとき、ヤコブは答えま した。「わかっている。わが子よ。私にはわかっている」。ヤコブは子どもたち 一人一人の名前を呼びました。ヤコブは一人一人のことと、その将来を正確に理 解していました。ヤコブは神の救いを待つということがどういうことであるのか を知っていたのでした。


8月10日

 みなが一つ所に集まっていた。                               使徒 2.1

 受肉した神が御自身の民を訪ねられたとき、イスラエルの救いを求めたのは彼 らのうちのほんの一握りでした。彼らは神がことをなしてくださっていると信じ ていました。そして彼らを通して、そして彼らのゆえに、神は働かれました。イ エス様が地上を歩まれたとき、群衆は主イエスに付き従いました。しかしここで 気炎を吐いたのはまたもや数のずっと少ない小さな集団だったのです。「私たち がだれのところに行きましょう。あなたは、永遠のいのちのことばを持っておら れます」。そしてもう一度、主は御自身の昇天の前に、父の約束を待つようにと 御自身の者を諭したのでした。この命令は主の受難後、主が生きておられること を目撃した五百人以上の兄弟たちにもよく行き届きました。しかし五旬節には、 神の新しい働きに協力しようと祈った人々は、わずか百二十人にすぎませんでし た。ほかの三百八十人はどこにいたのでしょうか。たぶんあとから全員参加した のでしょう。それにしてもその前、彼らは・・・・  実際には神はいつでも残った者を通して働きをなさらなければならないように 思われてなりません。残された者とは、多くの群衆の中で、そして群衆全体が神 の御目的にかなうように、主への服従において今日も完全であることでしょう。


8月11日

彼らは、主がイスラエル人を顧み、その苦しみをご覧になったことを聞いて、 ひざまずいて礼拝した。 出エジプト記 4.31

実際のところ、彼らの状況はまったく変わっていませんでした。40年の間、 いやそれ以上の年月、神は彼らをお忘れになっていなかったことを、モーセとア ーロンによって、ただ確信しただけなのでした。この確信は十分なものでした。 彼らはひれ伏して礼拝したのです。 神は私たちを試みの中に忘れ去り、私たちを私たち自身の持てる力に委ねてし まわれたと考えるなら、私たちは神を礼拝することができないような気がします。 私たちは病気で、癒されることを待ち望んできました。私たちは何ヵ月も失業し ていて、まだ仕事が見つかりません。私たちの家庭の問題は果てしなく続くよう に思われます(430年には届かないにしても)。これらの圧迫は、私たちのあ らゆる祈りにもかかわらず、主を信じることの妨げとなります。このしつこく苦 しめる昔からの状況は変わりません。どうすれば主を礼拝できるのでしょうか。 私たちの唇は黙らされています−−私たちが見るまでは。神の方法を知る日がや って来ます。そのときたちどころに神は私たちを忘れておられなかったことを知 るのです。その日、閉じられた唇は開かせられ、憤懣やる方なかった頭はひれ伏 します。私たちはあらゆる事において神の恵みを受け取ったことがわかり、神の 方法を讃えるのです。


8月12日

私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからで す。 ローマ 5.5

主イエスが十字架の上で死んでくださった故に、私は罪の赦しを受けました。 主が死からよみがえられた故に、私は新しいいのちを受けました。主が御父の右 手に引き上げられた故に、私は御霊の賜物を受けました。全ては主の故であって、 私の故ではありません。罪の赦しは私の功にではなく、主の磔刑に基づくもので す。新生は私の功ではなく、主の復活に基づくものです。聖霊を身にまとうこと は私の功ではなく、主の昇天に基づくものです。神の御子が栄光に包まれている 証拠となるために、そして、神の愛の力によって私たちをその栄光の座へと導く という二つの目的のために、私とあなたに聖霊が与えられました。神の証しによ って私たちはナザレのイエスを知っています。彼は2千年近く前、邪悪な人々の 手にかかって十字架に付けられました。単なる殉教の死を遂げたのではなく、私 たちのために、栄光の神の右の座に引き上げられたのです。ハレルヤ。


8月13日

 神のことばは生きていて、力があり、両刃の剣よりも鋭く、たましいと霊・・ ・・の分かれ目さえも刺し通し、 ヘブル 4.12

 神の子どもの中には真理のことばを正確に分析することを非常に強調する人々 がいます。確かに私たちはそうするべきであるとみことばそのものが教えていま す(II テモテ 2.15)。しかしみことばはまた、神のみことばが私たちを 分析するべきであるとも教えています。私たちの間違いは、神のみことばが私た ちの上に働いて、私たちを分析する前に、先ず神のことばを分析しようとすると ころにあるのかも知れません。私たちはこの神のことばの生ける力強い御性質に 気づいているのでしょうか。みことばは私たちにとって鋭い両刃の剣なのでしょ うか。あるいは、研究し、分析するための本以上のものとして、私たちはみこと ばを扱っているでしょうか。  みことばで不思議なのは、それ自体、教義を体系的に理解させることを目的と していないということです。もしパウロやほかの使徒達がいっしょになって、キ リストの教義の詳細な案内書を出していてくれたらどんなによかったかとたぶん 思うでしょう。しかし神はお許しになりませんでした。なんと神はやすやすと私 たちの神学的な反目に終止符を打ってこられたことでしょうか。しかし神はただ 知識欲から聖書に近づく人々を混乱させることを愛されているようにも思われま す。神は、単なる教義だけを持つことから人を守りたいのです。神は人々を神の 真理が捉えることを欲しておられます。


8月14日

 ペテロがなおもこれらのことばを話し続けているとき、みことばに耳を傾けて いたすべての人々に、聖霊がお下りになった。                            使徒 10.44

 神はいつでもペテロを遮らなければならなかったのでした。変貌の山で「彼 (訳注:ペテロ)がこう言っているうちに」御父はお語りになりました。「これ は、わたしの愛する子」と神は言われました。「彼(訳注:御子イエス)の言う ことを聞きなさい」。ペテロが宮の納入金の支払いを促そうとして、まさに主に そのことを言おうとしていたそのとき、ペテロの誤った考えをただすために「先 にイエスのほうからこう言い出された」。そしてカイザリヤでも、ペテロがまだ 話し続けているとき、聖霊が力強いわざを見せながら説教に割って入りました。 そこでペテロの6人の連れ*の者たちは「驚いた」のです。こうして彼らは、エ ルサレムへの帰途、ペテロの証を支持するように強く働きかけを受けたとも考え られます。御父、御子、聖霊、それそれがペテロを遮るために干渉しました。 割り込んでこられる方がほかならぬ神御自身であるならば、私たちの言葉の羅列 に対するいかなる検閲も歓迎しようではありませんか。

訳注 引用された聖書の箇所は使徒10章。    しかしペテロの連れが6名であった根拠は不明。    念のため英語原文を付す : Peter's six companions8月15日

 こころのきよい者は幸いです。その人は神を見るからです。 マタイ 5.8

                         神の恩寵という目的を成就するために、神が要求する心の条件がこれです。心 がきよいとは、ひとえに神を見ることをじゃまするものが何もないという状態を 意味します。天の御国はここにあります。ですから、人が自分で障壁を置かない 限り、だれかが神を見失うという理由は存在しません。  物を見るのを妨げるために、けがれた物を目の前に置く必要はありません。完 璧に清潔な物でも同じことです。詩篇の作者の「けがれない心」とは汚い物をど かす行為を伴っていなければなりません。山上の垂訓の「きよい心」とは、清潔 な物でも不潔な物でも、あらゆる物をどかす行為を伴っていなければなりません。 多くの人々は自分の心を荒れ果てたままにしておくために神に対する正しい知識 を持っていません。その結果、心の中は神から離れた興味がたけのこのように芽 を出して張り合うのです。心のきよさはひたむきな視線に呼応します。神こそが 一意専心注目の対象なのです。こうした一心不乱からは無駄な物は生まれないで しょう。「あなたの全身が明るい」*。

*訳注 マタイ6.22からの引用。     「もしあなたの目が健全(明らか・澄んでいる)なら、あなたの全身が      明るいが」  


8月16日

 主は・・・・ご自分の王に力を授け I サムエル 2.10

 士師記は信仰復興(リバイバル)を記録した本です。神の民の歴史は、神が民 を修復するためにここに一人、あそこに一人と御自身の器をお選びになりながら も、後じさりの繰り返しといってもいいものでした。しかしこれが民に対する神 のまことの意図なのでしょうか。今日の私たちはもう一つのリバイバルを期待す るべきでしょうか。確かに私たちは考えをそのように変えてはいます。しかし神 はそのようなことを、あるいは別のことをなそうとしておられるのでしょうか。  神の目は王国に向けられています。神は王となるおつもりです。預言者サムエ ルは士師の残念な歴史とダビデに表わされる究極の満たしのつなぎ役となります。 祈りの人サムエルは、神の意図への道の中継点に立っています。大きな変革が起 こされ、王国が到来しなければなりません。そして祈りが大きな溝の橋渡しとな り得るのです。ここにハンナの奉仕の不可思議な点があります。ハンナの生まれ つきの健康状態にまったく問題はありませんでした。しかし神に試されました (1章5節)。その試練はハンナを絶望の淵まで追いやりました。しかし神を仰 ぎ見て神とともにいたハンナは、そうした試練を決定的なものとして受け入れる ことをしませんでした。「万軍の主よ」とハンナは祈りました。そして驚くよう な方法によって、ハンナのたましいの活動は天国の利益にしっかりと結び合わさ れたのでした。ハンナの一生でもっとも大切なものをあらかじめ天国の利益に捧 げたのでした。そして時が来て、ためらうことなく、そのもっとも大切なものは 天国の利益を満たすために捧げられたのでした。


8月17日

 あなたは私が着くまで七日間、そこで待たなければなりません。私があなたの なすべき事を教えます。 I サムエル 10.8

 サウルは2つの点で試験されました。すなわち信仰と服従です。13章の重大 な立場での設問は、サウルには神を待つだけの信仰があるだろうか、というもの でした。もしあなたが窮地に追いやられて、あなたに対してあらゆるものが、何 かをするべきだと叫んだとしたら、それはあなたが肉的であるか霊的であるかの 試験の時なのです。「私が着くまで」。神の時が打ちならされるときまで、私た ちが事を起こさないようにすることは神にはお出来になれないのでしょうか。  もう一度15章でサウルはアマレク人を聖絶するように命じられます。しかし 羊の鳴き声がサウルの正体を暴露しました。しばしばほんの些細なものが私たち を告発するのです。サウルはよい肉の欲と悪い肉の欲を判断しようという誘惑に 駆られていました。そうして人のうちの何か「よい」ものを持ってきて、主に捧 げようとしたのです。それは服従の代用にはなりません。しかも「私は主のこと ばを守りました」とサウロは反論したのです。そうです。その心は欺瞞に満ちて いました。サウルの物事の進め方は改善の余地がありません。神は何かを完全に 新しく、そして別のものにしなければなりません。神は、自分の判断を脇に置き、 天国に完全に支配された人物を探し求めておられます。「今は、あなたの王国は 立たない。主はご自分の心にかなう人を求め」。


8月18日

ダビデはそこを去って、アドラムのほら穴に避難した。・・・・約400人の 者が彼とともにいるようになった。 I サムエル 22.1 以下

そのほら穴は霊的困窮に対する救済策を表わしています。サウルには王の執務 室があり、大勢の家来がいました。政治機構は全てサウル王が掌握し、そして神 もサウルの統治権を認めていたのです。しかしあなたは神がサウルとともにおら れるのを見出すことはないでしょう。聖霊の油注ぎを受けていたのはダビデです。 そのダビデは神とともに荒野に退かなければなりません。そこでほら穴はダビデ の指令室になりました。そのとき疲れきった状況に置かれていた人々の集団がと にもかくにもそのほら穴へやって来てました。そして、ダビデは彼らの長になり ました。彼らは自暴自棄になってアドラムに来ました。なぜなら彼らの窮乏は、 そこをおいて解決できる場所はかったからです。 主は現在疎外されていますが、ダビデはその意味での主イエスのひな形になっ ています。今日でさえ、群集は主の隠遁しておられる所へ向かっているのです。 彼らは御霊が支配するところで、実体が明らかにされることを切望しています。 彼らは主のもとへ来ます。そして主は彼らをご自身に忠実な軍隊としてご自分の ものにされます。それは孤独な道です。人間の造り上げた制度に抗して立つのは、 いつでも孤独です。しかし主が疎外されている今日、主のもとへと集められたそ の首脳部は、主が玉座に着かれるとき、主にとってとても大切なものとなるでし ょう。


8月19日

ほめたたえよ。主のしもべたち。 主の家で仕え、 私たちの神の家の大庭で仕えるものよ。 詩篇 135.1 以下

主のみ前で賛美するとは何という特権でしょうか。今日、私たちはいつでも先 に進もうとしているように私には思えます。私たちはじっとしていることができ ません。とてもたくさんの事が、永久に何かしているようにと、私たちの注意を 呼びかけます。私たちは一瞬たりとも立ち止まることができません。しかし霊的 な先の詩人はじっとすることを心得ていました。神がご自身のみ心を彼に示す間 中、彼は神のみ前で礼拝することができたのです。 愛する同労者の皆さん。質問させてください。あなたのすべての仕事は予定表 通りに実行されていないのではありませんか。しかしそれを大慌てで行う必要が あるのでしょうか。あなたは立ち止まって、主のみ前で賛美することを約束でき ますか。そこであなたは多くのものを学ぶでしょう。


8月20日

あなたがたの先祖たち・・・・は・・・・ほかの神々に仕えていた。わたしは あなたの先祖アブラハムを、ユーフラテス川の向こうから連れて来て、カナンの 全土を歩かせ、彼の子孫を増し、 ヨシュア 24.2 以下

アブラハムは召しを受けて選ばれましたが、それは彼自身のためではなく、彼 の子孫のためでした。そして、恵みを受けるだけではなく、恵みをほかの人々に も伝えるためだったのです。信仰の人はアブラハムの前にもいました。それはア ベルやエノクやノアといった人々で、彼らは、ほかの仲間たちの誰とも異なり、 気高く際だっていました。しかし記録から判断すると、彼らはほとんど生まれた ときからそうであったと思われるのです。それにひきかえ、アブラハムは周囲の 人々と同じような偶像礼拝者として出発しました。神の召しを受けなければ、ア ブラハムがその特性によって、これら3人と並称されることは起こりえないこと でした。 けれどもマタイの福音書はアブラハムの名前から始まっています。旧約聖書の あらゆる名前の中で、彼の名前はもっともよくイエスの口から出されます。そし てこの偶像礼拝者は数えきれないほどたくさんの人々に祝福をもたらすために選 ばれた人物でした−−ただ神が彼をお選びになられたというだけの理由で選ばれ たのです。彼によって、それほどまでに大勢の人々が祝福にあずかれるようにな る特筆すべき生来の性格は、彼の内に何一つありませんでした。神はアブラハム を採りました。彼を導き、彼の子孫を増やしました。神はあなたにも同じ事がお できにならないでしょうか。


8月21日

 しかし、聖霊に満たされていたステパノは、天を見つめ、神の栄光と、神の右 に立っておられるイエスとを見て、                             使徒 7.55

 ステパノの議会での最初の言葉は、神と神の栄光に関することでした。「兄弟 たち、父たちよ。聞いてください」、とステパノは言いました。「栄光の神が、 私たちの父祖に現れて、・・・・そこでアブラハムはカルデヤ人の地を出て、カ ランに住みました」。栄光を仰ぎ見るものは、アブラハムが応じなければならな いことを知っています。アブラハムにはほかの行動がとれません。アブラハムは 応じました。そして彼の生涯のあらゆるつまずきと落胆の中を、神の栄光の幻は 勝ちほこるようにしてアブラハムを抱いて運びました。ステパノはまず何よりも 聴衆にこのことを思い起こさせるところから始めたのです。  聴衆はステパノの証を耳にしました。そして拒絶しました。ステパノが話して いるそのことをステパノ自身が見つめていることに、聴衆が突然気づいたという だけで。聖霊に満たされて、ステパノはまっすぐに「神の栄光を見ました」。ア ブラハムに現れた主と、ステパノが見た主とは同一のお方でした。主は変わるこ とがありません。そしてその同じ神が、少しも暗いところない輝きで、恐ろしい 危機の中、今度はステパノを抱いて運ばれたのです。神の栄光を見るものには、 石が一つ増えようが十増えようがそれがどうだと言うのでしょう。


8月22日

川の両岸には、いのちの木があって、12種の実がなり、毎月、実ができた。 黙示 22.2

一本の川がありました。創世記のように4本ではありません。4本の川の内の 2本、ヒデケルとユーフラテスは、あるとき神の民の悲しみの光景となったので した。ここでは一本のいのちの川が、神の都を潤すために、満々と水をたたえな がら王座から流れ出ています。 そこには一本の木があり、毎月実を実らせていました。落葉もなく、不毛の冬 もなく、前の月の収穫を蓄える必要もありません。その木のおかげで、いつまで も新鮮な知識によってキリストを知り続けることができるのです。なぜならその 木の結ぶ異なった種類の実によって、一面ではなく、あらゆる側面から主を味わ うことになるからです。 川と木。キリストの満ち満ちたさまとキリストの変わらぬ新しさ。私たちはそ こを離れては行動できません。どこへ行こうとも、私たちは今やそれを運ばねば なりません−−国々に光と癒しを与えるキリストのいのちの道を。


8月23日

どうか、あなたの光とまことを送り、 私を導いてください。 あなたの聖なる山・・・・に向かって それらが、私を連れて行きますように。 詩篇 43.3

「あなたの光とまこと」この両者は結びあっています。まことはキリストのう ちに完成し、私たちの心の飢え渇きは神の光をそこにふり注いでいただいて完全 に満たされます。しばらくの間、私たちの確信の土台はキリストの人格の実在性 とキリストの勝利のみ業でした。そしてまだなお、私たちは神の助けをいただい て、この土台を見る必要があります−−とともにキリストは、これからではなく、 すでに治めたもうという栄えある事実を知る必要があります。今日神が私たちの うちになされるみわざは、すでにキリストのうちでなされたものなのです。私た ちの究極の必要性はこの事実が示されることです。全ての霊的な経験は、とこし えの真理へ神の光が降り注がれることに起因します。神からの光がないのに説教 した場合、真理は単なる教義にとどまってしまいます。神からの光は、あなたや 私を造り替え、その結果、今までキリストにのみ見出されていた実体が、神によ ってキリストのうちにある者とされて作り替えられた私たちの中にも見られ始め るようになるのです。そしてこの道筋は神の「聖なる山」にまっすぐ続いている のです。


8月24日 私たちは、あなたの光のうちに光を見るからです。 詩篇 36.9

主の光は私たちのもとへいろいろな方法で射しこんで来ます。私たちのある人 々は真の意味で主を知っている聖徒たちと交わりがありました。彼らとともに祈 り、あるいはともに語ることを通して、彼らから発っせられる神の光のうち、私 たちはそれまで見たこともなかったものを目撃したのでした。私はそうしたひと りの姉妹と出会いました。その人は今も主とともにいます。私はいつも彼女のこ とを「光に照らされた」キリスト者と考えています。私はただ彼女の部屋に入る だけで、たちどころに神の気配を感じてしまうのでした。当時私はたいへん若く、 認証してもらうべき、主のための計画や立案を数多く持っていました。私は彼女 のところへそれを全て持ってゆき、説得しようと試みました。これやあれや彼女 に教えることがしようとしたことでした。しかし私が口を開こうとする前に、お そらくいつもの穏やかな調子で彼女はふたことみこと言ったのでしょう。光が輝 きだしました。それだけで私は恥ずかしくなりました。私の振舞いや計画はどれ もみな生まれつきの性質のもので、余りにも人間的なもので満たされていること に気づきました。というのは、彼女は神おひとりのためだけに生きていましたか ら、そしてこのような人物はほかの人々をも照らす光に浴しているからなのです。


8月25日

主よ。立ち上がってください。 あなたの安息の場所(直訳:安息の箱)に、お入りください。 詩篇 132.8

ソロモンの宮の全ては新しく造られたものでした−−すべてが、ただし箱を除 いて。新しい祭壇、新しい洗盤や海、新しい幕に机に燭台やそのほかのものがあ りました。さらに、あらゆるものの規模が幕屋の中のものに比べて大きくなって いました。洗盤と燭台は数が増やされていました。そして建物の寸法とその中の あらゆるものは以前よりも大きくなっていました。ただ一つ、箱だけは同じでし た。 荒野の幕屋は、旅を続ける神の民の中心に神がおられることを象徴しました。 より大きな宮は、確立された王国で、民の間に神がおられることの象徴でした。 そして来たるべき神の国において、キリストの犠牲について言うなら、私たちに 今ある認識よりもさらに深く正しい理解を得ることになるのは間違いありません。 そうです。そして御霊の満たしについて、より豊かな理解力を持つことができる のも確かです。けれども不変の箱は、神の御子の人となりが永遠に同じであるこ との神の証しを思い起こさせます。これはけっして拡大することも、手を加える こともできません。成長の余地があるのは、主と主のみわざに対する私たちの側 の把握する力なのです。主は変わりません。


8月26日

しかし、わたしが、それを取り巻く火の城壁となる。−−主の御告げ。 ゼカリヤ 2.5

黙示録において大いなる神の都を描写するために、ヨハネは城壁から始めます。 なぜならすべて神ご自身のものの境界を定めるのが城壁だからです。城壁とは安 全と強さを連想させます。そしてまた分離をも想起させます。キリスト者の救い 出された世界からの分離は、ひとつのキリスト者の際だった徴です。サタンはこ のような分離を憎悪します。(サタンが大好きなのは聖徒の間の分離の壁です)。 エズラの時代、同様に後期のネヘミヤの時代、そうしたすさまじい敵意を引き起 こしたのはエルサレムの城壁の再建でした。それゆえ、主ご自身がこう言われる のは何という慰めでしょうか。「わたしが、それを取り巻く城壁となる」。


8月27日

生まれながらの人間は、神の御霊に属することを受け入れません。それらは彼 には愚かなことだからです。 I コリント 2.14

誤解を与えるようなことをたくさん言っておいて、それをいちいち説明しない ことを神はお喜びになっています。しばしば聖書の中に、矛盾するような声明や、 いのちについてよく知られた事実を冒涜するような声明が盛り込まれているよう に思われますが、そのままにしておくことを神はお喜びになっています。私たち にははっきりと説明できない聖句がたくさんあります。もし私たちが書いていた ら、もっとはるかにわかりやすく表現していたことでしょうに。その結果人間は あらゆる教義を、自分たちの前に、極めて簡明に体系を整えた形で持っていよう としたのです。しかし彼らはいのちを持ちえたのでしょうか。 神の力強い永遠の真理はみことばの中で半分隠れています。その結果、生まれ つきのままの人間にはその真理を捕らえることができないのかも知れません。神 はその真理を幼子に明らかにするために、賢い人々からは隠されました。なぜな ら彼らは霊的な意味でよりわけられているからです。神のみことばは研究書では ありません。私たちの御霊様による日々の歩みにおいて、私たちを満たし、私た ちに語りかけることをみことばは目的にしています。みことばは私たちに、いの ちにかかわる故に経験的な知識を与えようとしています。もし私たちが神を知る ために体系的な神学を用いようとするなら、絶対に私たちは道を誤っています。


8月28日

 お互いに親切にし、心の優しい人となり、神がキリストにおいてあなたがたを 赦してくださったように、お互いに赦し合いなさい。                          エペソ 4.32

 もしあなたが兄弟を赦すなら、その表現とは無関係に、あなたの赦しの行為そ のものがみからだにいのちを与えることになるでしょう。あなたがほんとうに兄 弟を愛するなら、たとえあなたがどんなに兄弟を愛しているかを伝えなかったと しても、その愛がみからだを建て上げることになるのです。  かつて私は大きなイギリスの大会の集いで、予告無しに講壇に立たされていま した。そこでは、私にとっては未知の日本人の兄弟が説教者の一人として予定さ れていました。私たちはそれ以前に面識がありませんでした−−お互いの国同士 は戦争中でした。私はその兄弟が何を感じたかはわかりませんでした。しかも私 たちはほんの短い会話を交わす機会が与えられただけでした。ただ、私にはその 兄弟が話している間、主にある兄弟の愛と交わりに気づくばかりでした。その愛 とは、国境を越えた愛です。そしてその愛とは表現を選びません。


8月29日

 あなたがたは・・・・聖書を調べています。その聖書が、わたしについて証言 しているのです。                           ヨハネ 5.39

 旧約聖書には律法、歌、預言だけが記されているのではありません。キリスト がおられます。しかしどのようにして主はそこにおられるのでしょうか。私たち はキリストの雛形と、キリストの預言と、救い主の詩篇を理解します。しかし主 は単にそのようにして記されているだけなのでしょうか。それとももっと別のと ころでも表されているのでしょうか。  アブラハムは主の日を見て喜んだとイエスは断言しています。そしてアブラハ ムは見たのです(ヨハネ 8.56)。モーセは重大な決定をする時、キリスト のゆえに受ける辱めを喜んで選び取り、エジプトの富を拒絶しました(ヘブル  11.23以下)。私たちはダビデの溜息と望みと賛美を読んで、「これぞダビ デだ」と言います。いいえ、違うのです。それはキリストです。というのは、ダ ビデは自分自身の経験を表現しながら、「キリストの復活について語ったのです」 (使徒 2.25以下)。そしてイザヤは与えられた情報を聞き流すことはあり ませんでした。イザヤは主の栄光を見て、主について語りました(ヨハネ 12. 41)。あなたは神の僕から神を引き離すことはできません。僕の内のキリスト のいのちは、彼らに何らかの経験をさせ、彼らはその経験を記録しました。数世 紀来、これらの多くの人々の中に、キリストは御自身を表現しようとして来られ ました。その記録の集成が神のみことばです。すなわち「神御自身に関すること」 です。


8月30日

彼女が答えた。「私は・・・・ベトエルの娘です。」そこでその人は、ひざま ずき、主を礼拝して、 創世記 24.24 以下

神を礼拝するとはどういう意味かおわかりになりますか。あなたが主に助けを 求めていた難しい任務に直面し、そしてその後求めたとおりの成り行きになった とき、あなたはただ自分の思ったとおりにいったことを喜ぶのでしょうか。もち ろんあなたにはその成功のいくぶんかは自分の能力や偶然のおかげだと思う傾向 がありませんか。それはアブラハムの僕には当てはまりませんでした。アブラハ ムの僕は、引き受けていた任務の事態が好転したからといって悦に入ることはあ りませんでした。彼はレベカと話すために手を休めることさえありませんでした。 ためらいも当惑もなく、彼はひれ伏すと、彼の唇にことばが上りました。「主が ほめたたえられますように」。彼の即座の反応は神をあがめるのにふさわしい方 法でした。しかも新たに事態が好転する毎に、彼はそのようにして主をあがめる 新たな機会を見出したのでした。真の礼拝者であるためには、即座の賛美と私た ちが遭遇する全てのことへの感謝を捧げることによって、神に栄光を帰す必要が あります。なぜなら、神は私たちのあらゆる道程に命じて、私たちが神の望んで おられる礼拝を捧げられるようにしておられるからです。


8月31日

イエスは彼らに言われた。「モーセは、あなたがたの心がかたくななので、そ の妻を離別することをあなたがたに許したのです。しかし、初めからそうだった のではありません。」 マタイ 19.8

パリサイ人には 神が結びあわせたものを引き離してはならないというイエ スの教えと、離婚についてのモーセの命令との間に食い違いがあるように思えた のでした。表面的には、もちろん食い違いがありました。しかし神には変更があ りません。最初禁じられたものが、後になって、主の目からは律法にかなうもの になり、さらにその後、再び禁じられるといった、あたかも神の気まぐれはあり えません。そうです。イエスが「しかし、初めからそうだったのではありません」 と言われるとき、状況にかかわらず、神の意志は一貫しています。神の意志に変 更はありません。ここにとても重要な原則があります。神の認可ではなく、神の 直接の意志を私たちは絶えず発見する必要があるのです。始めからの神の御目的 は何であったのかを、私たちは自問してみるべきです。状況が神の御思いから純 粋な形でやってくるとき、神の民の心のかたくなさのゆえに変化してしまったよ うにではなく、私たちはありのままに理解する必要があります。