荒野の食卓 7月

荒れ野の食卓




翻訳 by Tsutomu Suzuki 荒野の食卓                         ウォッチマン・ニー 7月1日

 平和のきずなで結ばれて御霊の一致を熱心に保ちなさい。からだは一つ、御霊 は一つです。あなたが召されたとき、召しのもたらした望みが一つであったのと 同じです。 エペソ 4.3以下

 私たちの共通の世襲財産である御霊の一致にはいくつかの要素があります。一 つは希望です。これはけちな楽天主義ではありません。それは私たちのキリスト 者としての召しに関する希望なのです。キリスト者としての私たちの希望とは何 でしょうか。栄光のうち、いつまでも主とともにいることです。ほんとうに主の ものとなった魂で、この希望を心に宿していない者は一人だにいません。なぜな らキリストを私たちの裡に持つということは、私たちの裡に「栄光の望み」を持 つことだからです。もしだれかが自分は主の者であると主張しながら、天国の希 望も、栄光の希望も持っていないならば、彼の告白は中身のない告白です。さら にこの希望を抱く全ての者は一つです。というのも、永遠にわたってともにいる という希望を私たちは持っているので、どうして私たちがついに分裂してしまう ようなことが起こり得ましょうか。私たちが同じ将来を共有しようとしているな らば、どうして今を喜んで共有しないのでしょうか。


荒野の食卓                         ウォッチマン・ニー 7月2日

 あるサマリヤ人が、旅の途中、そこに来合わせ、彼を見てかわいそうに思い、 近寄って・・・      ルカ 10.33以下

 どうしようもない罪人が自分ではどうしてもできないでいることを、その人に 代わってするために、救い主は罪人のすぐ近くにおられるのです。罪人が主のも とに近づくことを助けるために、主イエスは罪人の友として来られました。私た ちが主の御もとに行くことは、まず主が私たちの所へ来てくださることにより可 能となったのです。それによって天国は私たちの届くところに来ました。かつて ある兄弟と、彼の家で語ったことを思い出します。彼の妻と母親は2階にいまし た。しかし彼の小さな息子は私たちといっしょに居間にいました。やがてその小 さな子どもは何かを欲しがり、母親に大声で叫んで求めました。「上にあるわよ」 と母親は答えました。「上がってきて自分で取りなさい」。しかし子どもは大声 で言いました。「おかあさん、できないよう。遠すぎるよう。持って、降りてき てよう」。実際のところ、その子はとても幼く、階段は急でした。そこで母親は それを持って降りてきました。そして、救いとはそのようなものなのです。主が 私たちの所に来てくださることによってのみ、私たちの必要は満たされます。も し主が来なければ、私たち罪人は決して主に近づくことができなかったことでし ょう。しかし主は「天から下ってきて」くださいました。そして私たちは引き上 げられているのです。


荒野の食卓                         ウォッチマン・ニー 7月3日

 主はあなたがたを取って、鉄の炉エジプトから連れ出し、今日のように、ご自 分の所有の民とされた。                            申命記 4.20

 新旧両方の聖書のどこを探しても、贖い抜きの聖別は存在しません。二つは密 接に関連し合い、片方なしのもう一方を見つけることはできません。使徒パウロ は神に自分自身を捧げるために、囚人となり、あるいはまさに殉教しようとする まで待つことはありませんでした。それはダマスコへの途上の回心で起こりまし た。主の民が自分自身を完全に神に捧げるために、おそらくしばらくの間の特別 な祝福を、何年も待たなければならないとは決して神のご計画ではなかったはず です。神のご計画によれば、神が民を救うとき、神はまた民をご自分のものとし ているのです。神は私を贖ってくださいます。そのかわり神は私が自分自身を聖 別することを求められます。神の私への素晴らしい賜物のゆえに、私は自分自身 を神に捧げるのです。


荒野の食卓 7月4日

 神は喜んで与える人を愛してくださいます。 II コリント 9.7

 神のしもべは受けるのと同様、与えることも学ぶべきです。しかし与えること はしばしばなんと難しいことでしょうか。そこで私は思い出すのですが、以前、 私はある重要な会合に出席するため、川を上って旅に出ようとしていました。旅 費のことでは主に信頼せざるを得ませんでした。手元には僅か18ドルしか持っ ていなかったのです。川船はほんの少ししか私を運んではくれず、船を借りて残 りを旅するためには300ドル以上が必要でした。しかも出発する前に、神は私 にどうしても必要としているお金の中から6ドルを友だちにあげるようにと命じ られました。出発すると、先行きのわからない貧乏旅行でしたが、途中からはも っとも祝福された一週間を楽しみました。帰路の旅は十分に備えられました。何 がなんでも必要だった6ドル、その贈り物が私の手元に戻ってきたのは喜びにみ ちた発見でした。  あまりにもしばしば、私たちは与えることで失敗しているのではないか心配で す。もし私が受け取るばかりで同時に与えることをしないならば、私を遣わして くださった神にふさわしくありません。神の原則は「蓄えなさい。そうすれば豊 かになります」ではなく、「与えなさい。そうすればあなたにも与えられます」。


7月5日                          ウォッチマン・ニー  そこで、イエスはパンを取り、                            ヨハネ 6.11

 ほとんどの奇跡において神は物をお用いになります。イエスはここで5つのパ ンと2匹の魚を喜んでお受けになりました。イエスは石をパンに変えられたかも 知れません。しかしそうはなさいませんでした。そのかわりイエスは御自身に捧 げられたものでことを行うことを選ばれました。「それを、ここに持ってきなさ い」と言われました。主は私たちを通してことを行われます。主の御手にささげ られた私たちの持てる全て、あらゆる奇跡はここから始まります。私がパンをた だ自分のために確保してごらんなさい。そうすれば一人を養うだけです。主に全 て捧げてみましょう。果たして主は私を飢えさせるでしょうか。  国全体が極度の貧困にあえいでいた時代、預言者マラキはイスラエルの問題に 対する神の解答を携えてきました。それは、10分の1の奉納物を宝物倉に携え てくるように−−そしてためしてみよ。とても大きなビンの中身をとめおくのに 必要とされるのは小さなふたです。その小さなものによって、ビンの中身は私た ちに供給されないのです。天国もまた同じです。しばしば私は奇跡を見ることが できません。  それはただ私たちが神にことをなしていただくように捧げていないためなので す。神は私たちにほんの小さなことしか要求なさいません−−つまり私たちの持 っている物。しかし神にはそれが必要なのです。


7月6日

 しかし、こんなに大ぜいの人々では、それが何になりましょう。                             ヨハネ 6.9

 あまりにも大勢の人々の期待が、主の祝福ではなく、自分たちの宝庫の状況、 つまり彼らの手にあったどうでもいいパンに集中していました。私たちの手にあ る物は申し訳ないほどごく僅かです。しかも計算してみると、計算すればするほ ど見通しは暗くなってきます。みなさん、奇跡は主の祝福から起こされるのです。 祝福のとどまるところ、何千もの人々は満腹するのです。祝福がないところでは 200ペニー以上の価値のものがあったとしても決して十分ではないでしょう。 この事実をわきまえなさい。そうすれば私たちの働きに変化が起こるのがわかる ことでしょう。うまくやる必要はもうありません。ごまかす必要はもうありませ ん。人間の工夫を求めることも、大々的で空疎な公演も必要ではないでしょう。 なぜなら私たちは単純に主に信頼し、主の奇跡を待てばよいのです。そして既に 私たちが台無しにしてしまったところでも、そのようなところでさえなぜかうま くいっていることを発見することでしょう。たった僅かの祝福で、私たちは多く の問題を乗り越えていくことができるのです。


7月7日

 わたしが選ぶ人の杖は芽を出す。                            民数記 17.5

 アロンの祭司職をめぐって人々は争ってきました。アロンはほんとうに神によ って選ばれたのだろうかと、民は疑問を呈していました。「この者は神に任命さ れたのか否か」人々は尋ねました。「私たちには実のところわからないのだ」。 そこで神は誰が主のしもべで、誰がそうでないのかを証明しようとされました。 神はどのようにされたでしょう。聖所において、神の御前に12本の杖が置かれ ました。12本の杖は一晩放っておかれました。朝になると、神の選ばれた杖は、 芽を出し、花を咲かせ、実を結んでいたので、すぐにわかりました。  新芽、花、熟したアーモンド。これらはみな復活の奇跡を示しています。神の 召命であることの神の証印は死から生まれた命−−ただそれだけなのです。その 命がなければ、あなたはなにものも持ち得ません。神は、神との交わりを通し、 尽きざる命の力を味わうようになった神の僕しかお用いになることができません。


7月8日

                      神の安息にはいった者ならば、神がご自分のわざを終えて休まれたように、自 分のわざを終えて休んだはずです。 ヘブル 4.10

 人類が創造されたとき、人は神の安息にかなり深いつながりがありました。伝 えられるところによれば、アダムは6日目に造られました。ですからアダムは神 の最初の六日間の働きに役割を演じていないのは明らかです。というのは6日間 の終わるところで彼らは存在を開始したからです。こうして神の七日目はアダム にとっての第一日目となりました。神が六日間働いて安息日を喜ばれたのに対し、 アダムの一生は安息日から始まりました。神は休息の前に働かれます。人は、神 と調和するためには、まず神の安息に入らなければなりません。ただそうしての み、人は働くことができます。この原則はあらゆるキリスト者の奉仕の基礎とな るものです。さらに、神の最初の創造物は実に完全だったので、アダムの生涯の 出発点も満足のいくものでした。ここに福音があります。私たち罪人のために、 神は必要なステップを用意しておられます。そしてまた神は、救いのみわざを完 全に成し遂げてくださいました。私たちはその特権に浴するためになにもする必 要がありません。単純な信仰により、直ちに神の完成されたみわざの安息に入る ことができるのです。


7月9日

 私たちの兄弟たちの告発者、日夜彼らを私たちの神の御前で訴えている者が投 げ落とされたからである。 黙示 12.10

 サタンは人殺しであり、だます者です。サタンは誘惑し、攻撃します。しかし 今日、サタンはもっぱら告発するのです。天はこのことを認識しています。一人 一人のキリスト者もまた認識しなければなりません。日夜サタンは我々を告発し ています。サタンの訴えは根拠のないものですが、私たちの良心−−私たちがサ タンと戦うのに一番力のないまさにその点−−に向けられるのです。サタンの目 的は私たちを考え込ませて絶望の深みに追い込むことなのです。「私はどうしよ うもない失敗者だ。神にもどうすることもできない」。良心は大切です。しかし 際限なく「私は駄目だ。私は駄目だ」と繰り返すのは、キリスト者の謙遜ではあ りません。自分たちの罪を告白することは健全なことです。しかし私たちの罪が キリストのみ業よりも大きな陰となって私たちの前に立ちふさがるまで告白する ことがあってはなりません。あなたや私に対するこの幻影の創造以上に効果的な 武器をサタンは持ち得ません。救済策は何でしょうか。神に対して有罪を認めな さい。神に告白しなさい。「主よ。私は駄目です」。しかしそのとき尊い血潮を 思い起こしなさい。神の栄光を探し求めなさい。そしてこう付け加えなさい。 「しかし主よ、私はあなたにとどまります」。


7月10日

やめよ。 わたしこそ神であることを知れ。 わたしは・・・・あがめられ、                            詩篇 46.10

 もし神の王座が激しく揺れているように思われたら、私たちの手で支えること ができるでしょうか。ある人々はできると考えるようです。一人はヤコブのよう な人物です。神はヤコブが治めるようになるとはっきり語ったのです。彼のした ことと言えば、神のご計画を前進させようと試みたことばかりでした。ヤコブは 神の選びを理解し、それに固執しました−−しかしそんなある日、彼の父は自分 を祝福してもらおうと、エサウを狩りに行かせたのを知ったのです。もしそうな れば、神の約束はどうなるのでしょうか。  何とかしなければなりません。ずるがしこい抜け目のないその男は策謀家でも ありました。神は御自身では何事もできないとでも言うのでしょうか。ヤコブは 神のためにことを起こしたのです−−目的を達成するためにヤコブは父親をだま したのです。しかしヤコブが得ようとしている利益から、彼の欺きは取り去らね ばなりませんでした。そして彼は逃げざるを得なかったのです。そうです。彼は 神に選ばれたものです。神はヤコブを欲していました。しかしそのときヤコブは まだ、神についても自分についてもわからなかったのです。実際に彼が受け取っ たものは神の訓練という厳格な処方箋でした。ずるがしこい者には多くの処方箋 がいるのです。


7月11日

 人は種を蒔けば、その刈り取りもすることになります。                           ガラテヤ 6.7

 神の子どもである私たちに対する神の実際的な扱いは、神の道を忠実に表現し た特別な神御自身の原則に基づいています。私たちの罪はキリストにあって赦さ れているのでしょうか。そうであるなら、私たちの進路が少しでもそれたときは いつでも私たちに警告を与えるように仕組まれた神の道で、優しく取り扱ってい ただくということは大きな特権です。私たちが今日経験することは私たちの過去 と直接結びついている、すなわち以前蒔いたものの刈り取り、ということをしば しば意味するのです。私たちは恵まれてきましたか。それなら恵みは増し加わり ます。だれかの行いを批判しましたか。それなら早晩私たちもまさにその行いを していることを発見し−−結果を刈り取ることになるのです。なぜなら、神によ って、人を量る量りで、自分も量り返してもらうからです。「あなたが兄弟の過 ちに気づくなら、あなた自身に過ちがあるのに気づいているべきだったのです」。 それが原則です。神の道は厳しいものではありません。なぜならそれは愛の道で すから。そして私たちに可能な限りの庇護を受けさせるように計画された神の道 なのです。 神の道を迎え入れよ。そうすれば目に見えぬ多くの危険から我々は逃れることに なるのです。


7月12日

 あなたがたは、人を量る量りで、、自分も量り返してもらうからです。       ルカ 6.38

 私の知っている兄弟は驚くほど批判的でした。彼の18番の見解は「神のみ手 がくだった」でした。だれかが病気なら、「その人に神のみ手がくだった」とそ の兄弟は言ったものでした。あるときには正しかったかも知れません。しかしあ る日、その兄弟が快く思っていない別の兄弟が息子を亡くしました。そして、ま さかと思うでしょうが、先の兄弟によって次のように書かれた手紙を彼は受け取 ったのです。「神のみ手があなたに下った」。私はその手紙を見て、このように 人を裁いたことに対して激しい怒りを覚えました。そして恐るべきことに、それ から2週間もたたないうちに、先の兄弟の子どもは病気にかかり、死にました。 そのとき私に誘惑が忍び込みました。私はペンをとり便箋に書きました。「愛す る兄弟。お子さんを亡くされ、とても悲しく思います。しかし、あの人に神のみ 手が下って、裁きとして子どもをとられたのなら、あなたの場合はどうなのでし ょう。神のみ手があなたに下ったということを喜んで受け入れますか」。そのと きはだいたいこうしたことを言おうとしたようです。私は手紙を書き終え−−そ してそのとき神が私を叱責なさいました。私が快く思っていなかったまさにその ことを、私はしていたのではなかったでしょうか。まだ間に合うときに、神の恵 みが私を思いとどまらせたのです。私は手紙を破き捨てました。蒔こうとしなけ れば、刈り取ることも決してありません。


7月13日

 私たちは神の作品であって、良い行いをするために、キリスト・イエス にあって造られたのです。神は、私たちがよい行いに歩むように、その 良い行いをもあらかじめ備えてくださったのです。 エペソ 2.10

 最初の節は次のようにも訳すことができるかも知れません。「私たちは神の傑 作で」あると。教会は神のお造りになる至上のものです。手を加える余地はあり ません。私たちが見回すと至る所に破綻を見い出します。そして「来るべき教会 とは何なのだろう」と疑問を抱くのです。お教えしましょう。教会は「来るべき」 ようなものではけっしてありません。教会は来ているのです。私たちは教会の目 標を楽しみに待とうとはしません。後ろばかり見ているのです。神はこの世界が 造られる前に、キリストにあって御自身の目的を達成されました。その永遠にか わることのない真実の光のもと、私たちが神とともに行動するときに、今現在で も、一歩進んだ信仰告白を表明できるのです。神はあらかじめ定められた人々を お召しになり、義とし、栄光を授けてくださったとローマ書8章においてパウロ は私たちに教えています。このように神の御心によって神のものとされた全ての 者は、栄光が与えられているのです。キリストにおいて目標は達成されました。 教会は既に栄光を受けているのです。


7月14日

 「あなたは、生いける神の御子キリストです」                           マタイ16.16

 死は力であり、武器であり、地獄の門です。今日においてもこれは依然真理で す。神が私たちの目を開いていてくださらないならば、声を出して神を告白する ことがどれほど大切か、私たちは知ることがほとんどないことでしょう。しかし 突然、今まで予想もしていなかったような状況に見舞われると、あろう事か、明 らかに信仰は役に立たず、祈りも役に立たず、私たちの霊は萎縮してしまいます −−それこそ私たちがキリストに宣言することを修得するときなのです。そうす ることで、神が待ち続けておられたものが何であるかを発見するのです。「あな たは主です。あなたは勝利者です。あなたは王です」。あらゆる祈りの中で最良 の祈りとは「どうかお願いします」ではなく「あなたは」という祈りなのです。 私たちに与えられた啓示によって、私たちは口にしましょう。祈り会において、 主の聖餐において、主の御前に一人出るときに、この世のまっただ中で、あるい は窮乏の暗闇の時に、「あなたは」と宣言することを修得するのです。


7月15日

 アブラムは自分の親類の者がとりこになったことを聞き、・・・・追跡した。 創世記 14.14

 ロトは早々とその土地に根をおろしてしまいました。ロトがそこで自分自身の 立場を見失うまでに長くはかからなかったはずです。それとは対照的にこの章は アブラムはヘブル人であり、「寄留者」であり巡礼者であることを我々に想起さ せます。敵に対して本当の力を持っている人々とは、甘んじて旅人であり続ける 者たちなのです。  アブラムは神との関係を残しておくことにおいて正しかったのです。しかし同 時にロトに対する愛情と気遣いを忘れてしまっていたなら、彼は完全にな間違っ ていたはずです。このことにおいてアブラムは真の勝利者でした。王たちを追跡 する前にアブラムは自分の霊において勝利を収めていました。親類を自分で捜す ことは、不満の対象に容易になり得ることでした。アブラムはどんなに少なくと も、この大災難に対して「言った通りじゃないか」と言うくらいの態度をとって もおかしくなかったはずです。しかしそうしませんでした。不満は勝利に基礎を 置くものではありません。私たちもまた、こうした状況に置かれた場合はいつで も、まず心の戦いで勝利しなければならないのです。その人は私の兄弟でしょう か。そうでしたら彼がどんなに間違っていて、私を傷つけようとも、主のゆえに 私は彼を愛するべきであり、彼のために祈るべきであり、彼を助けるために私は 総力を結集するべきなのです。


7月16日

 すべてのことが、神から発し、神によって成り、神に至るからです。どうか、 この神に、栄光がとこしえにありますように。 ローマ 11.36

 神があらゆる霊的働きの創始者でなければなりません。神の意志がその働きの 始めを支配しなければなりません。この点について私たちのうちで異議を唱える 者はいません。実際には私たちはさらに進んで、最後まで神とともに、と言える といいのですが。そしてパウロのことばのように「神がすべてのすべてとなられ ますように」と。しかしそれだけでも十分とは言えません。神はすべてのことの 創始者そして完成者ばかりではなく、働き人でもあります。そして神の力が及ぶ ところ、すべては栄光のうちにあらわれるのです。私たちの問題は、「神から」 始まり「神に至る」ことで終わることを知りながら、別の大切な事実、つまりそ の中間にあるあらゆる偉大な活動が「神によって」なされなければならないとい う大切な事実を忘れてしまうことにあります。もし神が最後に栄光を現してくだ さるお方だとしたら、私たちは神の栄光を求める立場には一切置かれていないは ずです。神の意志は始めを支配し、神の栄光は最後に。しかし神の力は両者の間 のすべての行いに行き渡らねばなりません。実際のところ、神の栄光への問いか けは最後ではなく中間で解決されるのです。


7月17日

 私たちの主であり救い主であるイエス・キリストの恵みと知識において成長し なさい。                           II ペテロ 3.18

 私たちは人々が滅びから救われ、神に栄光が帰せられるのを待ち望んでいます。 しかし、私たちはそこで止まってしまっているのではありませんか。3,4千人 の回心者が−−あるいは3,4人でもいいのですが−−全員は救われ、主ととも に極めていい状態で過ごしているのを見るとき、仕事は完成したと感じるのでし ょうか。むしろそれは私たちの仕事の始まりとみなすべきなのではないでしょう か。その救われた人々のうち、神が引き上げてくださった天において、どれだけ の人が天の人の姿を垣間みるようになったかを尋ねるべきなのではないでしょう か。彼らはいまだに単なる大勢の中の一人か、網にかかった魚、または「特別集 会の決心者」のリストの数字に過ぎないのでしょうか。あるいは至高の幻が彼ら を捉えているのでしょうか。まず至高の幻が私たちを捉えるのでなければ、絶対 無理な話でしょう。ですからもう一度お尋ねします。私たちは、救われた人たち が頭に結びついてあらゆることにおいて成長し、キリストの身丈まで成長するの を、使徒たちのように重荷を負って見守っていますか。


7月18日

そんな雀の一羽でも、あなたがたの父のお許しなしには地に落ちることはあり ません。 マタイ 10.29

神は目的の神です。創造は偶然ではなく、神の側の明確な目的の表現です。エ ペソ人への手紙の1章にすばらしい聖句は神の私たちの選びについて「愛をもっ てあらかじめ定めておられた」と語っています。そして神の御心については「前 からキリストに望みを置いていた私たちが、神の栄光をほめたたえる者となるた めです」と私たちに教えています。アダムの堕罪、そして自分たち自身の罪と、 神の恵みによって全ての人のために死を味わわれた神への不十分な応答を考える とき、このみことばは私たちを驚倒します。どうしてそんなことがありうるので しょうかと、私たちは自問します。私たちが問題にもしないようなつまらない雀 の死さえも覚えられているということは、つまり神にはそれが重要なことなので あるのは言うまでもありません。全宇宙の創造主は一羽の雀すら御心に留めてお られるのです。「恐れることはありません。あなたがたは、たくさんの雀よりも すぐれた者です。


7月19日

 私の神は、キリスト・イエスにあるご自身の栄光の富をもって、あなたがたの 必要をすべて満たしてくださいます。          ピリピ 4.19

 多くのキリスト者はとても貧しく、自分たちの必要さえ十分に満たすことがで きないでいます。誰がそんな人のところへ助けを求めて行くでしょうか。別の人 々はとても富んでいて、彼らの富をあなたは査定することもできないほどです。 彼らが遭遇していないような困難にはあなたも出会ってはいないようですし、彼 らにして助け出すことができないような局面に、あなたが置かれているわけでは ありません。彼らは自分たちのところへ必要を感じて来る人々に対して、十分な 蓄えを持っているようです。多くのキリスト者が完全に破産してしまわない理由 はただ単にほかの人々によって援助を受けているからに他なりません。その援助 してくれる人々は絶えず自分自身の霊的な富をみからだに惜しみなく与えている のです。こうした同胞はほかの信者への負債をまず知りません。そうした人々は ほかの信者から軽蔑されるようになることさえあるかも知れません。友人が旅か ら戻り、私たちからパンを期待することがあるかも知れません。主は私たちが隣 り人に何か友人に与えてくれるように頼むことをお許しになるでしょう。しかし 主が「あなた方で、あの人たちに何か食べる物を上げなさい」と言われたら、ど うでしょうか。


7月20日

天では、あなたのほかに、 だれを持つことができましょう。 地上では、あなたのほかに私はだれをも望みません。                          詩篇 73.25

 私たちの主へのまったき明け渡しは、しばしば特殊な事柄によって決定されま す。そして神は私たちにそのたった一つの事柄を期待しておられるわけです。神 にはその事柄が必要です。なぜなら神は私たちのすべてを持たねばならないから です。ある偉大な国民の指導者が自伝の中で次のように書いていたのに私は大変 感銘を覚えました。「私は自分のためには何も求めない。祖国のためにはあらゆ るものを私は求める」。もしある人物が祖国があらゆるものを持つことを望み、 自身は何一つ望まないでいられるならば、私たちは神に「主よ、私は自分のため には何も要りません。すべてをあなたのために求めます。私はあなたの望む者に なり、あなたの御心を離れては何一つ所有しようとしません」と言うことはでき ないことなのでしょうか。私たちがしもべの立場に立たない限り、神は主として の立場をとることがおできになりません。神は私たちをご自身の目標に献身させ ようと招いておられるのではありません。神は私たちが無条件に自分自身を神の 御心に従わせることを求めておられるのです。


7月21日

あなたがたは、世界の光です。                        マタイ 5.14

 自分はみことばを宣べ伝えるべきでしょうかと、ある人々は尋ねます。あるい は、自分は職業か商売の口を見つけた方がいいでしょうか、と。神の子どもの前 には2本の道があるとでも言うのでしょうか。みことばのどこにこのようなみこ とばを宣べ伝えるべきか、仕事を見つけるべきかといった二者択一を見い出すこ とができましょう。私たちはそのような選択をするために召されているのでしょ うか。神の民は証のための灯火です。では、証をしないキリスト者というものが 存在するのでしょうか。どこか不思議なことばですが、すべての者が灯火だと 言っている一方で、数人の人だけがみことばを宣べ伝えるということはあり得な いことです。そうです。地上には神の生ける証人がいるのであり、そのことのゆ えに私も生きているのです。私たちすべての者にとってこの一本の道があるので あり、ほかの道はありません。主にある者で、主を証しない者はだれもいません。 すべての者はキリストを宣べ伝えなければなりません。これは重要なことです。 そして2番目の質問として、すべての時間をキリストを宣べ伝えるために費やす べきか、あるいはいくらかはパンを得るために時間を割くべきかという問題があ ります。というのは、すべては私たちの中心がどこにあるかということで決まっ てきます。神は仕事に説教を付け加える者をお用いになることがおできになりま せん。神は説教に仕事を付け加える者を用いることがおできになります。単純に どちらが付随的なものかによって決まるのです。仕事ではなく神が、私たちの生 活の中心であるべきです。


7月22日

 評価はすべて聖所のシェケルによらなければならない。                            レビ記 27.25

 民数記は全イスラエルの中で軍務に就くことのできる年齢の者の人口調査で始 まります。その直前、このレビ記の最後の章で、神の子どもたちの自己献身の度 合いに基づく人身評価の基準を神は示しています。(出エジプト記30章の贖い の代価の記述と注意深く区別しなければなりません。それはあらゆるたましいに とって同一のものであり、神ご自身が彼らになしてくださったものが明示されて いるのです)。ここで神は、各自に限定的な評価を下しています。レビ記27章 3節と民数記1章3節を簡単に比べてみれば、神にとっての人の価値とは軍務に 適する度合いによって量られるということが明らかです。このことは私たちに疑 問を投げかけます。私たちは長く続く主の戦いに参加して、役に立つことができ るのだろうかと。ヤハウェは戦いの神なる方であり、もっとも高く評価なさるも のは戦いへの能力です。年寄りも若い者も、私たちの霊的な経歴が長かろうが短 かろうが、問題は各自が今日、次のように自問しなければならないということな のです。戦備の度合いに基づいた私の価値とは、聖所におられる神にとって、ど れだけのものなのだろうか、と。


7月23日

あなたの目は前方を見つめ、 あなたのまぶたはあなたの前をまっすぐに見よ。                          箴言 4.25

 神の子どもである私たちにとってもっともたましいを傷つけることは、私たち が内側をのぞき込むことなのです。気がついていたでしょうか。罪は生かしてお けないものであるという認識はすでにありますが、内省はそれほど危険視されて いません。内省は明らかな病気よりもさらに恐ろしい、気がつかないでいる病で す。私があなたに「誇ることは間違ったことでしょうか」と質問すれば、あなた にはその答えがわかります。もし私がもう一度、「ねたみはどうでしょうか」と 尋ねれば、「もちろん間違っています」とあなたは答えます。けれどもあなたは 自分が自分自身を見つめるのは特に霊的だからだと想像しつつ、一日に100回 も自分自身を見つめ、そしてそのようにすることの悪に気がつかないでいる可能 性があるのです。  おやめなさい。御霊によって歩むことを学ぶのです。あるたましいにキリスト を宣べ伝えるように動かされるのを感じますか。この切迫感が自分から出ている ことか、神から出ていることか、立ち止まって自己吟味するのですか。あなたが 質問を繰り返している間に、機会は去ってしまいます。行動しなさい。そうすれ ばあなたは解放されるのです。


7月24日

 死者の中から生かされた者として、あなたがた自身とその手足を義の器として 神にささげなさい ローマ 6.13

 この「ささげる」ということばを、多くの人は内容をよく確かめずに、聖別す るという意味で用いてきました。もちろんそういうことを意味してはいますが、 私たちが何気なく捉えているのとは違った意味合いがあるのです。「ささげる」 とは主に用いていただくために、「古い人」をその性向、生まれつきの才能、生 まれつきの才覚、強さ、そのほかの天賦の才とともに神なる主に聖別することで はありません。このことは次の短い節からたちどころに明らかになるでしょう。 「死者の中から生かされたものとして」。このみことばは私たちの聖別の始まる 地点を明確に定めています。なぜなら聖別されるべきものは古い創造に属するも のではありません。そうではなく死からよみがえりに至ったものこそ、聖別され るべきものなのです。語られてきた「ささげること」とは、私の古き人が十字架 につけられていることを知り、キリスト・イエスにあって神に生かされている自 分自身の立場を認識(計算)することの結果なのです。知ること、認識(計算) すること、私たち自身を神にささげること、これが神の順番なのです。


7月25日

そこで、私たちはネフィリム人、ネフィリム人のアナク人を見た。私たちには 自分がいなごのように見えたし、彼らにもそう見えたことだろう。 民数記 13.33

二つの王権が争っています。神は地上に御自身の支配を宣言します。邪悪な霊 の軍勢を従えた神の最大の敵は、神の支配のかわりに地上を悪で制圧しようと懸 命です。それによって神御自身の王国から神を締め出そうとしているのです。神 の民である私たちは、この手ごわい敵どもを現在の王国から追い払い、キリスト に君臨していただくために召されているのです。これについて私たちは今何をし ているでしょうか。 「もし、私たちが主の御心にかなえば、私たちをあの地に導き入れるだろう」。 これは10人の斥候の暗い見通しの前では少数の見方に過ぎませんでした。もし、 私たちが主の御心にかなえば。まずなによりも私たちが清い生き方を学んでいな ければ、あらゆる霊の戦いの話は単なる話にとどまってしまうのは間違いないこ とです。なぜならネフィリム人は大きく、私たちはいなごだからです。この事実 を粉飾することはできません。私たちは悟ります。彼らもまた悟ったのです。ど うすれば私たちは主を喜ばす生き方ができるのでしょうか。それはキリストにあ る真の安息、そしてキリストがなしてくださったことがらに見い出される真の安 息に私たちの生き方の基準をおくことによってのみ可能なのです。もしこのこと が欠けているならば、サタンは私たちを歯牙にもかけぬことでしょう。主の御心 にかなった生き方をすれば、「彼らの守りは、彼らから取り去られている」とあ るとおりです。私たちは主によって征服者以上のものなのです。


7月26日

 こうして、死は私たちのうちに働き、いのちはあなたがたのう ちに働くのです。                       II コリント 4.12

 キリストの十字架はどれほど尊いことでしょうか。十字架はひとつひとつの器 官のそれぞれの中に存します。そしてただその人が自分の生まれつきのいのちを 徹底的に十字架によって対処していただきさえするならば、御からだの全体にい のちの流れを起こすようにるのです。あなたはどうしたらほかの人々にいのちを 十分に伝えられるようになるかとお尋ねになります。それは手当たり次第に何か を始めることではありませんし、あるいは隠遁してまったく何もしないというこ とでもありません。そうではなく、ただ主の死と復活の力が、あなたの神との歩 みの行程において働くようにしていただくことによって可能なのです。言葉ある いは働きによってのみ仕える者は、環境によって不活発や沈黙に封じ込めると必 ず、自分たちの奉仕もまったく停滞していることを見い出します。用いられるた めに、彼らは何かをしていたり、何か話したりしていなければならないのです。 しかしそんなことがあるはずがありませんし、そんな必要もありません。「イエ スの死」をあなたに働かせるだけで、いのちは自ずからほかの人々に明らかにな ります。それでなくてはいけません。なぜなら「死は私たちのうちに働き、いの ちはあなたがたのうちに働く」とは御からだについての不変の法則だからです。


7月27日

 あなたがたの五人は千人を追いかけ。あなたがたの百人は万人を追いかけ、あ なたがたの敵はあなたがたの前に剣によって倒れる。     レビ記 26.8

 ここには間違いなく私たちの祈りの図があります。というのは私たちが地上に 迎合するとき、天は一万の敵を縛りつけているからです。なんとしばしば神の民 は危機の時に、これらのイエスの言葉を目先の価値に当てはめて、みことばを実 証しようとすることでしょうか。ペテロが牢屋に入れられていたとき、エルサレ ム中の教会は跪いて熱心に祈ったのでした。その祈りに対する天の答えの前には ヘロデのいかなる権威も無きがごとしでした。もう一つの王国がヘロデの領土を 攻略しました。そしてあの堅牢な牢獄の扉さえも同調し、自ら道を譲ったのです。


 7月28日

 御霊を消してはなりません。                      I テサロニケ 5.19

 私たちのだれもが祈りによって神に重荷を解放していただくとを期待するべき なのです。私たちが忠実に重荷を降ろすのにつれて、神は私たちに新しい重荷を 委ねてくださいます。私たちがさらに受け取らない理由は一つ。神にすでに与え ていただいている重荷を降ろすことを拒んでいるからなのです。祈りによって解 放されなさい。そうすれば新たなより重い責任を私たちに信頼して負わせてくだ さるという神の報酬を見い出すことができるでしょう。  私たちの霊が神に敏感になっていることはどうしても必要です。なぜなら聖霊 を消すことによってこの務めを失ってしまうことは大いにあり得るからです。も しそうだとしたら、私たちの回復の方法は神に私たちの罪を告白し、それから御 霊の与えてくださった新しい導きのひとつひとつに忠実かつ迅速に応答すること です。神はあなたの心にだれかを思い浮かばせましたか。大急ぎでその人につい ての要望書を神に提出しなさい。私の友よ、もしあなたが神の役に立つものとし て仕えたいと願うなら、失った重荷を取り戻しなさい。祈りにおいて忠実であり なさい。祈りに駆り立てられたなら、すぐに祈りなさい。


7月29日

 主の御手が強く私の上にのしかかっていた。 エゼキエル 3.14

 神への真実な働きはいつでも聖霊があなたの霊をせきたてることに端を発する 祈りの重荷から生まれるのです。こうした重荷を持たずに働こうとしてごらんな さい。あなたのなす事はまず徒労に終わるだけです。そうではなく神御自身によ ってあなたに強制された知識にもとづいて働きなさい。そうすればあなたが前に 進むにつれて、あなたの全存在が徐々に解放されていくのに気づくことでしょう。 さらに成し遂げられた働きは間違いなく御霊の賜物なのです。ですから、もしあ なたが効果的に神に仕えようと求めているなら、神があなたに重荷を与え、そう することであなたに神のみこころを知らしめるまで待ちなさい。キリストをだれ かに伝えることが重荷なのですか。まず祈りの中でそのことを説明しなさい。な ぜなら祈りの奉仕は神の奉仕に不可欠だからです。それから出ていって、それを するのです。


 7月30日

  人に知られないようでも、よく知られ、死にそうでも、見よ、生 きており、罰せられているようであっても、殺されず、悲しんでい るようでも、いつも喜んでおり、貧しいようでも、多くの人を富ま せ、何も持たないようでも、すべてのものを持っています。 II コリント 6.9以下

 キリスト者になるということは、矛盾したように思われるものが共存した人に なることなのです。しかしその人の中で次々と勝利を収めるのは神の力です。キ リスト者とは神秘的な二律背反がその本来のいのちの中に存する人のことです。 そしてこの二律背反は神からのものです。弱い人の中に、どのようにすれば力が 完全に現されるのでしょうか。キリスト者であることによって、キリスト者であ ることのために。これしかありません。それは弱さをどかすことでなければ、今 すぐに神の力をただ現しさえすればいいということでもありません。今現在の人 の弱さの中に、その力が現されることです。なぜなら神が私たちの裡になしてく ださっていることは単なる否定でもなければ、単なる肯定でもないからです。そ の両方です。神は私たちの弱さをとりのぞこうとはなさらず、手当たり次第に神 の力を与えてくださろうともしません。そうです。神は私たちに弱さを残されま す。そしてそこにこそ神の強さを与えてくださるのです。


7月31日

聖徒たち全員が、、そして特に、カイザルの家に属する人々が、よろしくと 言っています。 ピリピ 4.22

パウロがエペソ書1章18節で「聖徒の受け継ぐものがどのように栄光に富ん だものか」という表現を用いて表わした教会に、あなたはこれまで出会ったこと があったでしょうか。あるいは第一コリント6章11節に「主イエス・キリスト の御名と私たちの神の御霊によって、洗われ、聖なるものとされ、義と認められ た」と描写された教会についてはどうでしょうか。あなたはこうおっしゃいます か。それは神の教会の立場について記したのであって、個々の教会の状態につい て観察したものではない、と。それは違うと、私はお答えします。それは教会の 実態を述べたものです。ローマ書の中のパウロはの論述は、何人かの彼の書簡の 翻訳者よりもずっと大胆でした。パウロは「聖徒として召された」あるいは「召 しによって聖徒とされた」と書きました。しかし翻訳者たちはこれを字義通りに 訳すことに危惧を強く感じたのでした。そこで彼らは「聖徒となるように召され た」と記すことによって自分たちの霊的な事柄に対する概念を保守したのです。 もし私たちが、聖徒に「なるように」と召されたいるだけなのでしたら、私たち がほんとうに聖徒に「なる」まで、どれだけの期間「なりつつある」状態でいな ければならないのでしょうか。神を賛美しましょう。私たちはすでに聖徒なので す。