荒野の食卓 ウォッチマン・ニー 6月1日その若枝は伸び、 その美しさはオリーブの木のように、 そのかおりはレバノンのようになる。 ホセア 14.6
ホセアは間違いなく針葉樹の匂いに何かあるのを知っていました。他の人々に 対する影響という点から、キリスト者の生活がどうあるべきかについての絵を、 ホセアはレバノンから描いています。レバノンが与えるはキリストの印象は、松 の芳香のように至る所に染み渡ります。人間の感覚の中でも嗅覚はもっとも敏感 です。離れて触れられないものや、見えないものでさえも、嗅覚によって印象が 得られます。全然話題に取り上げられている必要もありません。というのも、香 りのあるところなら、影響はどこにでも見い出され、しかも一面に広がっている のです。あなたはその香りを隠すことができません。同様に誰かが根をキリスト に張っているなら、レバノン杉のように、いのちの見えない源であるキリストの 甘い香りが外へ流れ出るのです。私たちは、オリーブに描かれたような聖霊のひ かえめな美しさを担っています。そして聖霊のひかえめな美しさの効果はキリス トの香り良き感化を人々に意識させることにのみあります。キリストが隠される ことはあり得ません。
荒野の食卓 ウォッチマン・ニー 6月2日
彼らは帰って来て、その陰に住み、 穀物のように生き返り、 ぶどうの木のように芽をふき(英訳:花を咲かせ)、 ホセア 14.7
ぶどうの開花に今までだれが注意を払ったことでしょう。実際のところ、ぶど うの花は、花の中でも一番寿命の短いものの一つです。花が散ってすでに実に変 わりかけるまで、ほとんど気づかれることがありません。自然界で、我々は植物 を3つの型に識別することができるかもしれません。花は咲かせても全く実を結 ばないもの。桃のように、花も実も両方目立つもの。そしてぶどうのように、花 は取るに足りないのですが、その実によってのみ人々の称賛を得るもの。神はこ れらの植物の中で一番最後のものに高い価値を置かれておられるのは明らかです。 人々を惹きつけるものをひけらかそうとする誘惑を、私たちが受けるのはいっ たいどういうことでしょうか。称賛を受けようとする花のように。しかし父なる 神は私たちをぶどうの木の枝として置かれています。そこでは、神が求めておら れるのは何よりもまず、結実なのです。
荒野の食卓 ウォッチマン・ニー
6月3日
実を結ぶものはみな、、もっと多く実を結ぶために、刈り込みをなさいます。 ヨハネ 15.2
今日、あらゆる訓練に類するものは、生まれつきの魂を啓発するためのもので す。独立心、誇り、利発、自信、これらのものを身につけさせるものなのです。 同世代の人々は、ぬきんでた人々を大切にします。このようにサタンが用いやす いように人々を調整することで、そうした訓練はサタンためにサタンの働きをし ていることになるのです。 神が私やあなたのために従事している仕事は、ぶどう園の園丁の剪定作業です。 私たちのたましいの中に時期はずれに育った枝は検査され、対処されなければな りません。神はそれを切り落とさなければならないのです。神は一方では私たち が、新生によって私たちのうちに植え付けられた神の御子のいのちによって生き る場所に私たちを導こうとされています。しかしもう一方で神は、まず第一にア ダムの罪へと導いた私たちの生まれつきの資質の蓄えを減らすために、私たちの 心に直接働きかけておられるのです。毎日私たちはこの二つの課題を実習してい ます。すなわち、キリストのいのちの現れ。そして、別の生まれつきのいのちが 検査され、死に渡される。その結果、この世の尺度で言うと、私たちは弱く、無 知であることを認めないわけにはいかないのです。「私は知りません。−−しか し神はご存知です。それで十分なのです」。神よ、今日のたましいの肥大から私 たちを救ってください。
荒野の食卓 ウォッチマン・ニー 6月4日
私が弱いときにこそ、私は強いからです。 II コリント 12.10
この逆説はまことのキリスト者の経験の心臓部に位置しています。私はこの逆 説を、自分自身の個人的な試みの中で理解するに至りました。その試練の中で私 は救済を求めて祈りましたが、パウロの肉体のとげのように、それに対して「否」 という答えを受けたのでした。そのとき私の頭には川船のことが浮かんだのでし た。その川船は深い川峡を渡ることができません。というのも川の中の大きな岩 が川底から150センチ以上も突き出しているからです。私が試みを受けている 間、ずうっと私はその巨大な岩を取り去ってくださいと主に願い続けていました。 そのとき私の中に疑念がわき上がってきました。航路から150センチの巨岩を どかしていただく方がいいのだろうか、それとも神に水位を150センチまで上 げていただく方がいいのだろうか、と。パウロの訴えに対する答えは次のもので した。「わたしの恵みは十分です」。もちろん水位が上がってくれた方がいいの です。私の問題は消えてなくなりました。なぜならキリストの信仰とは大きな石 を取り除くということにあるのではなく、岩よりもさらに深い水を得ることにあ るのです。
荒野の食卓 ウォッチマン・ニー 6月5日
さわった人々はみな、いやされた。 マルコ 6.56
パリサイ人と取税人の宮での祈りを思い出してみてください。パリサイ人は十 戒も奉納物もよくわきまえていました。しかしパリサイ人には神への心からの叫 びがありませんでした。「主よ。私をあわれんでください」と叫んだのは、取税 人の方でした。何かが神に向かってこの男から出ていき、その何かに対してすぐ に反応がおこりました。イエスは取税人を神が義と認めた人物として指名したの です。何によって義とみなされるのでしょうか。神に触れることによってです。 現在における大多数の福音宣教の大きな欠点は、私たちが人々に救いのご計画を わからせようとすることにあり、その結果、ほとんど、あるいは全く実を結ばな いということが余りにも頻繁に起こるのです。私たちはどこで失敗したのでしょ うか。私はその敗因はここにあるとはっきり申し上げることができます。それは、 聞き手が神を見ていないことなのです。私たちは十分に神を示すことをしません でした。私たちは単に人々の罪や神の救いを人々に指し示すだけです。ところが その一方で、人々がほんとうに必要としているものは、救い主ご自身を見ること であり、神に出会うことであり、神と交わりを持つことなのです。
荒野の食卓 ウォッチマン・ニー 6月6日
みな互いに謙遜を身につけなさい。 I ペテロ 5.5
からだ(訳注:目に見えないキリストのみからだなる教会をさす)はそれ自体 を愛によって建て上げています。まるで「物質」のように、からだから離れて自 立できる特別な伝道の働き人がいるということはあり得ませんし、外側からから だを建て上げることのできる人もいません。キリストの教会を、私たちが自分た ちの外側で仕えている何かであると考えてしまう危険性に、私たちのだれもがさ らされています。そんなことは不可能です。もしみからだのいのちに寄与しよう と言うのなら、謙虚になってみからだのいのちに服従しなければなりません。そ うすれば、いのちの働きに寄与すると同様に、そのいのちの働きを受けとること にもなるのです。私たちは仲間の信者に対してよりも、神に対して自分自身を低 くすることが容易だということに気づいているでしょうか。謙遜の絶えざる訓練 なしには、互いに仕え合うことはきわめて難しいことを銘記してください。なぜ ならよくも悪くも私たちはからだの器官です。そこから逃れることはできません。 他人を攻撃してごらんなさい。それは神を攻撃することです。兄弟からの助けを 受け入れてごらんなさい。それは他人を助けているにすぎないことかもしれませ ん。仕えなさい。そうすれば私たち自身が世話を受けることになるのです。私た ちは神の同労者です。神の建物です。
荒野の食卓 ウォツチマン・ニー 6月7日
イスラエルの神、主が、こう仰せられるからです。『主が地の上に雨を降らせ る日までは、そのかめの粉は尽きず、そのつぼの油ははなくならない。』 I 列王記 17.14
私たちはこの世界における神の代表です。神の御真実を立証し表すために置 かれているのです。私たちの態度、私たちの言葉、私たちの行動は、神おひとり が私たちの供給源であることを余すところなく明らかにしなければなりません。 ですから、ほんとうの意味で私たちが人々から独立し、完全に神を仰ぐ状態であ ることは必要なことですし、こと財政的なことに関しては万難を排してもそうで あるべきです。もしここに何らかの弱さがあるなら、当然神に帰せられなければ ならない神の栄光が、盗まれることになるでしょう。神の僕として、神の富の豊 かさを外へ示さなければなりません。人々の前で、富んでいるように見られるこ とを恐れてはなりません。私は、我々は虚偽を通すべきだと提案しているわけで はありません。そうした富んだ者と見られるような立ち居振る舞いは、正直さと 完全に一致しているのです。私たちの財政的な要り用は秘密にしておきましょう。 たとい私たちの秘匿によって、実際には私たちが何も持っていないときに、私た ちはたくさん持っていると人々が結論するようなことがあったとしても。隠れた ところでご覧になる神が、私たちの要り用を記し、擦り切りのはかりではなく、 「キリスト・イエスにあるご自身の栄光の富をもって」私たち要り用を備えてく ださいます。私たちはあえて神に難題をもちかけます。なぜなら神はご自身の奇 跡を行うにあたり、私たちの手助けを一切求めませんから。
荒野の食卓 ウォッチマン・ニー 6月8日
淵が淵を呼び起こし、 詩篇 42.7
淵に答え得るのは淵だけです。単なる浅瀬は淵に答えることができません。私 たちの深淵に潜むものだけが、他の人々の深い要求を満たすことができます。も し私たちが、洪水に巻き込まれている人々を救いたいと思ったなら、私たち自身 が洪水を経験していなければなりません。私たちは神の密かな取り扱いを受けた という経歴を持っているのでしょうか。あるいは人々が目にするものは、すべて 私たちがすでに経験したことの再現なのでしょうか。私たちの多くは浅薄です。 私たちは表面的に成長しているように見えるだけで、何も蓄えていません。もの ごとの上っ面だけで生きることを選ぶなら、必要なときに、人々の助けになるこ とができるかもしれませんが、幸福を人々に分け与えることはできません。人々 のいる場所で、ほんとうに人々の要求に応えることが私たちにはできていなかっ たでしょう。パウロには14年間も守り続けてきた秘密がありました。そして満 を持しての秘密の暴露は何という測り知れない助けをもたらしたことでしょう。 神が深い淵で私たちに語りかけておられるのに気づいたときこそ、他の人々が試 練に置かれた際に彼らと分かち合うための暗闇の宝を身につける時なのです。
荒野の食卓 ウォッチマン・ニー 6月9日
その目は、燃える炎のようであった。その足は、・・・・光輝くしんちゅうの ようであり、その声は大水の音のようであった。 黙示 1.14以下
神は、福音書では示されなかった神の御子の側面を、黙示録において私たちに 明示しています。福音書では神の御子を救い主として我々は見ますが、黙示録で は王として見ます。前者はキリストの愛を、後者はキリストの威厳を表していま す。二階の広間で、イエスは仕えるために腰に手ぬぐいをまといました。パトモ スではイエスは戦いのために胸に帯を締めた姿で現れるのです。福音書において はイエスのやわらかな眼差しはペテロの心をとかしました。黙示録において、イ エスの目は燃える炎のようです。福音書ではイエスの声は優しく、ご自身の羊を 名前で呼んでいます。そしてイエスの口からは恵みにあふれた言葉が発せられる のです。ここではイエスの声は大水の音のようにすさまじく、イエスの口からは 両刃の剣が出て、敵を打ち倒すのです。イエスを、神の子羊、この世の救い主と して知っているだけでは十分ではありません。私たちは同時にイエスを神の王、 神の審判者として知らねばなりません。私たちがイエスを救い主としてあがめる とき、「なんと慕わしい」と叫び、イエスの胸にもたれます。私たちがイエスを 君主としてあがめるとき、「なんと恐ろしい」と叫び、イエスの足許にひれ伏す のです。
荒野の食卓 ウォッチマン・ニー 6月10日
キリスト・イエスにおいて・・・・ともに天の所にすわらせてくださいました。 エペソ 2.6
すわるということのほんとうの意味は何でしょう。歩いたり立ったりするとき、 私たちの全体重を両足が支えます。それに対してすわるときには、私たちの体重 はそっくりそのまま腰掛けた椅子や長椅子にあずけられるのです。歩いたり立っ たりして疲れますが、すこしの間でもすわれれば楽になります。歩いたり立った りすることでとてもたくさんの精力を使いますが、腰掛けていればすぐにくつろ ぐことができます。なぜならもはや私たちの筋肉には負担がかからず、私たちの 外部のものに負担がかかるようになるからです。霊的な事柄についても同様です。 腰を降ろすことは単純に私たちの全体重−−私たちの道、私たち自身、私たちの 未来、ありとあらゆるもの−−を主にあずけることなのです。私たちは主に責任 を負っていただきましょう。もう自分で背負い込むのはやめにするのです。
荒野の食卓 ウォッチマン・ニー 6月11日
彼らが主を礼拝し、断食していると、聖霊が、「バルナバとサウロをわたしの ために聖別して、わたしが召した任務につかせなさい。」と言われた。 使徒 13.2
まず主を礼拝することを学んでいないで、どうしてほんとうの意味で主に仕え ることができるでしょうか。特別の奉仕への御霊の召命の声が聞こえたのは、ま さにバルナバとサウロが主を礼拝し、断食しているときでした。 そして彼らの答えは神の召しに対してであり、人間の要望に対してではありま せんでした。二人は人喰人種や首狩り族の報告を聞いてはいませんでした。二人 は児童結婚や足かせや阿片吸引の悲惨な物語に同情心をあおられたわけではあり ませんでした。彼らが聞いたのはほかでもない御霊の声でした。彼らが呑み込ん だ要求はほかならないキリストの要求だったのです。彼らに奉仕の要求を課した のはキリストの主権であり、二人が出かけて行ったのはただ主の権威によるので す。
荒野の食卓 ウォッチマン・ニー 6月12日
私たちには五つのパンと二匹の魚のほか何もありません。私たちが出かけて行 って、この民全体のために食物を買うのでしょうか。 ルカ 9.13
「あなたがたで、何か食べるものを上げなさい」とイエスが言われたのは、弟 子たちが何かを計画することをイエスが期待されたからではなく、弟子たちに奇 跡を期待して欲しかったからでした。しかし弟子たちは、私たちのように、安直 な方法を選んでしまいました。つまり信仰や祈りの実践を必要としない方法です。 弟子たちの解決方法は「出かけて行って、買う」ことでした。それは弟子たちの 無価値な提案でした。パリサイ人やサドカイ人でさえも同様な提案をしたことで しょう。そこには信仰が見られません。イエスへの信頼が見られません。ヨハネ の福音書が明らかにしているように、彼らはふところ具合だけを考えていたので す。弟子たちは十分なお金をもっていませんでした。 私たちは、自分は何ができるかということだけを見ています。私たちは神と神 の無尽蔵の富に対して目を閉ざしています。しかし神は、私たちには、はかり知 ることができません。私たちは何ができて、何ができないか、そんなことを気に してはいけません。神は私たちに、ご自身の奇跡を示すことを待っておられるの です。
荒野の食卓 ウォッチマン・ニー 6月13日
私はキリストとともに十字架につけられました。 ガラテヤ 2.20
私にとって「十字架につけられる」とは何を意味するのでしょう。群集がイエ スに対して使った言葉がもっともよくその答えを要約しているように思えます。 「除け」。キリストと共に十字架に付けられることを単なる理論にとどまらせて おくことを神は決してお許しにはなりません。たとい何年間も、もはや私にとっ ては理論ではなくなっていると告白してるとしても。私自身十字架を、十字架を 自分の体験としては知ってもいない、まさに用語によって、宣べ伝えていたので す−−十字架で主とともに死んだのは私、ニー・トゥーシュンであったことが、 突然劇的にわかるその日まで。「除け」と群集は叫びました。そのように人々は イエスのことを言いながら、彼らはまた意識せずに私に対する神の評決を繰り返 していたのです。神の私に対する判決はイエスに執行されました。この新しい発 見は最初に救いを発見したときと同じくらい大きな影響を私に与えました。その 結果、私はたいへんへりくだらされたので、しばらくの間説教がまったくできな くなるほどであったことを申し上げます。ところでその一方、その日までの私の 説教といえば、自分の情熱の燃焼にすぎなかったことを告白しなければなりませ ん。
荒野の食卓 ウォッチマン・ニー 6月14日
きょう、主に身をささげよ。主が、きょう、あなたがたに祝福をお与えになる ために。 出エジプト 32.29
「死者の中から生かされた者として」(パウロの言葉を用いれば)自分自身を 神にささげることは、私はこれからは完全に主の者であると認めることを意味し ています。自分自身をささげることはイエスキリストを信じることと同じく、明 確な行為です。人生の中で、自分の責任を離れて主に責任を引き継いでいただく 日がなければなりません。そしてその日からというもの、私はキリストの者であ り、もう自分のものではありません。このことは、私が宣教師や伝道師に献身す ることを意味していません。ああ、なんとたくさんの人々が、単に自分たちの生 まれつきの賜物を神の働きにささげてきたというだけの宣教師なのでしょうか。 しかしそれは真の献身とは言えません。それでは私たちは何に対して献身するの でしょうか。「キリストの働き」に対してではありません。そうではなく、神が 望むならそれがなんであれ、また何をすることであれ、神の御心に対して献身す るのです。
荒野の食卓 ウォッチマン・ニー 6月15日
ふたりでも三人でも、わたしの名において集まる所には(英訳:わたしの名に おいて集められる所には)、わたしもその中にいるからです。 マタイ 18.20
その前の聖句は、聞き届けられる祈りについての素晴らしい約束を与えました。 しかし約束には条件があります。少なくとも条件は二つあり、二つとも満たされ ていなければなりません。なぜ彼らの祈りは聞き届けられるのでしょうか。なぜ なら「ふたりでも三人でも、わたしの名において集ま」ってているからです。す なわち、彼らはただ集まっているのではなく、彼らは集められている(受動態) のです。私たちにはその違いがわかります。というのも集められることは単に自 分たちで出かけるのではなく、神の御霊に導かれて集められることだからです。 そして人々は自分たちの努力ではなく、たった一つの共通した主の御名への関心 をいだいて、やってきます。まさしくこれは彼らが主イエスの御名において一つ に結びついていることなのです。そしてこのようなとき、イエスは言われます。 「わたしもその中にいるからです」。そしてイエスは導きを与え、ご自身を明ら かにされ、光を照らされるのです。神を賛美しましょう。それは約束ではなく、 事実を述べているのですから。
荒野の食卓 ウォッチマン・ニー 6月16日
真の礼拝者たちが霊とまことによって父を礼拝するときが来ます。・・・・ 父はこのような人々を礼拝者として求めておられるからです。 ヨハネ 4.23 十戒は、なによりもまず神だけを礼拝するようにと、始まっています。神の御 心は神の命令としてばかりでなく、神の望みとしても表現されています。しかし 十の命令は、何が神に喜びを与えるかを私たちに示しているとするなら、荒野で の試みは、何がサタンに喜びをもたらすかを明らかにしています。それはどちら の場合も礼拝なのです。ですから私たちは神とサタンの両方が求めるものを持っ ていることになるわけです。礼拝によって、私たちは天国か地獄のどちらでも満 足させることができます。礼拝の価値は測り知れません。サタンのもくろみの全 体像は、神の民をある種の偶像礼拝に誘い込むことによって、神から礼拝を奪い 取ることです。偶像礼拝は、神以外の礼拝に値するものを要求します。ただ神に 対してのみ礼拝を守ることで、この偶像礼拝に立ち向かうことは、私たちだけに 許された栄誉なのです。
荒野の食卓 ウォッチマン・ニー 6月17日
その永遠のいのちとは、彼らが唯一のまことの神であるあなたと、あなたの遣 わされたイエス・キリストとを知ることです。 ヨハネ 17.3
人々はキリストは何をしたかという根拠からではなく、キリストは誰かという 根拠によって、キリストを拒絶しました。そして人々はなによりもまずキリスト が何をしたかではなく、キリストはどんな人物で、キリストはだれであるかを信 じるようにと招かれているのです。「御子を持つものはいのちを持っており、」。 キリストの御業の正しい理解はどうしても必要ですが、一番の問題はあなたが御 子を持っているかどうかということであって、まずなによりも救いの計画全体を 理解しているかどうかではありません。救いの第一の条件は知識ではなく、キリ ストと出会うことです。 不適切なみことばで救われたのではないかと、あなたが感じるような人々がい ます。彼らは救いの道の要点を捉えていないと思われる聖句で語りかけられまし た。そこであなたは、そうした土台によっては救われることができないと感じて しまうかも知れません。私はかつて、自分が主のみもとに導いた人々はヨハネ3 章16節のような基礎的なみことばに基づいて救われて欲しいとよく願ったもの です。しかし第一歩が求められているすべての人は、個人的な神との接触がなけ ればならない、ということがわかるようになりました。ですから、極めて重要な 最初の第一歩のために、神がどのみことばを選んでお使いになろうとそれは大し たことではないのです。
荒野の食卓 ウォッチマン・ニー 6月18日
ひとりの人がすべての人のために死んだ以上、すべての人が死んだのです。 II コリント 5.14
なぜ神は、自分は死んでいると私たちが計算するようにおっしゃるのでしょう か。なぜなら私たちは死んでいるからです。私がポケットの中に2,000円を 持っていると仮定しましょう。帳簿にはどのように記帳しますか。1,950円 とか2,050円とか記帳できますか。できませんね。帳簿には私のポケットに 入っている実際の金額を記入しなければなりません。それより多くても、少なく てもいけません。会計は事実を計算することです。幻想ではありません。帳簿に 事実に反することを書き込むようにと、神は私に命令できますまい。神は私がま だ生きているのに、私は死んでいると計算するようにとはお命じにはなれますま い。というのは、このような精神的な知的鍛錬の言葉「計算」が極めて不適切に なってしまうでしょうから。 神は私たちに簿記をするように、そして「私は死んだ」と記入し、それからそ れにとどまり続けるように要求しておられます。なぜでしょう。なぜならそれが 事実だからです。主イエスが十字架につけられたとき、主イエスの内で私もそこ にいました。ですから私が死んだのは真理だと帳簿につけるのです。私は罪に対 して死んでいる。しかし神に対してはキリスト・イエスにあって生かされている、 と帳簿につけます。
荒野の食卓 ウォッチマン・ニー 6月19日
私は、主の日に御霊に感じ、 黙示録 1.10
だれが啓示を学ぶ資格があるのでしょうか。その答えはヨハネ自身の来歴に見 い出すことができます。彼の最初の幻は出来事についてではなく、イエス・キリ ストご自身に関するものでした。主の胸に飛び込んでいたヨハネには、彼を塵の 中に粉々に打ち砕いてしまう永遠の主の姿を見ることがどうしても必要でした。 そのときに初めて「起こるはずの事」がヨハネに示されたようです。ヨハネが目 撃したものを最初に見なかった者は、次に起こるべき事を学ぶ資格がありません。 なぜならこのように主を見るまでは、私たちには闘争のための身支度を整えては いません。 これ以前にヨハネは主の愛を知っていました。今やヨハネは主の尊厳を見たの です。そして主を憐れみに満ちた救い主として知ったヨハネは、今度は栄光に満 ちた王として主を知ったのでした。このように私たちがまず主を見、主の足もと に倒れて死者のようになるのでなければ、来るべき事柄に対する知識は私たちの 好奇心をなぞるだけのものとなり、私たちを舞い上がらせるだけでしょう。その 結果は混乱や場合によっては不信仰までも生み出す結果に行き着くのです。この 書物は主の戦いを宣言しています。主の王国を無視するすべてのものへの宣戦布 告です。このようにこの書物の目的は、玉座の王としてのキリスト・イエスを我 々に示すことにあります。こうした視点だけが勇士をつくりあげるのです。
荒野の食卓 ウォッチマン・ニー 6月20日
わたしはそこであなたと会見し、その『贖いのふた』上から、すなわちあかし の箱の上の二つのケルビムの間から、イスラエル人について、あなたに命じるこ とをことごとくあなたに語ろう。 出エジプト 25.22
神との交わりの土台とは何でしょうか。神の栄光です。ケルビムに暗喩される 恵みの座は私たちに備えられた神との交わりの場です。それは「栄光のケルビム」 です。私たちが栄光を見い出すのは、まさに神の御栄光が顕されているところで あり、人間に対するさばきをほのめかしてはいますが、−−そこ、そこ以外にあ りません。神は神であられる方なので、御心の所でしか恵みをお現しになれない のでしょうか。そうです。神はまた、神の倫理的な栄光が達成されているところ でしか恵みをお現しになることができないのです。神はケルビムから恵みの座を 取り払うことをしません。 血の注ぎは罪深い人間に交わりをもたらします。血の注ぎのゆえに神はご自身 の栄光を汚すことなく恵みをお示しになることがおできになります。すなわちご 自身を否むことなく人と交わることがおできになるのです。このようにキリスト の血潮は交わりに不可欠です。絶対に欠くことができません。それにもかかわら ずキリストの血潮は交わりの土台ではありません。神の恵みの座で私が神と交わ るとき、尊い血潮ではなく、神の栄光に目を注ぎます。おおいは取りのけられて います。そして顔の覆いを取りのけられて私たちはみな、神の栄光を見るのです。
荒野の食卓 ウォッチマン・ニー 6月21日
「兄弟サウロ。あなたが来る途中でお現われになった主イエスが、私を遣わさ れました。」 使徒 9.17
私たちはなんとしばしば思わず軽蔑してしまうような人々から助けを受けるこ とでしょうか。目が見えなくなったサウロがダマスコに到着したとき、サウロに わかっていたことは、神がお遣わしになった使者が何をしたらよいかを告げ知ら せてくれる、ということだけだったのです。最初は誰も来ませんでした。何も見 えない暗闇の三日間がたってはじめて、とうとう誰かがやって来ました。しかし そのときの人物はただの「弟子」にすぎませんでした。ルカの用いた素朴な評に よれば、いかに敬虔で立派であったしとてもアナニヤはごく普通の兄弟だったと 結論付けるよりほかありませんし、教会の偉大な使徒になるべき人物の助け手と しての取り立てた資質はなにひとつありませんでした。 そして彼の役割も同様でした。タルシスのサウロの世評を知り、彼を恐れる十 二分な理由があったアナニヤは、いまや自分の心の中の神の恵みの奇跡を、実際 に表現しなければなりません。アナニヤは単純な挨拶によって、キリストのもう 一つ別の器官という認識を表現しました。一つの御霊のもとでいまや兄弟となっ た二人の間で、世界を揺るがす反響を与えるようにと神によって導かれた勧告の 授与が行われたのです。
荒野の食卓 ウォッチマン・ニー 6月22日
もし、だれかがこの土台の上に、金、銀、宝石、木、草、わらなどで建てるな ら、各人の働きは明瞭になります。その日がそれを明らかにするのです。という のは、その日は火とともに現われ、 I コリント 3.12以下 ものは重さで量ります。木、草、わらは安く、軽く、朽ちやすいものです。金 や銀、それに宝石は高価で重く、永遠です。ここにパウロのいわんとすることへ の鍵があります。神は働きばかりか材質さえもご覧になり、堅実な人々を表面的 な働き人からなんなく区別されるのです。神の御性質と栄光の金、神の贖いの御 業の銀、これらの重い金属は、主が高く評価なさる材質です。単に私たちが何を 説教するかではなく、私たちが何であるかを神は重視なさるのです。つまり「一 番の窮乏はどこにあるのか。どんな発想や手段を用いるべきか。どれだけのこと がきるか」ではなく、「神はどこで働いておられるのか。その点でキリストに関 する何があてはまるのか。このことで御霊の御思いは何か」なのです。私たちの 働きがそのような性格を帯びたとき、その働きが残ることを私たちは確信できる のです。
荒野の食卓 ウォッチマン・ニー 6月23日
私は、とこしえまでも、あなたに感謝します。 あなたが、こうしてくださったのですから。 ・・・・ いつくしみ深いあなたの御名を待ち望みます。 詩篇 52.9
時間の試練はあらゆる試練の中でもっとも厳しいものです。しかし神を待ち望 むことを学ぶことによって初めて、私たちは実際に神によってなされたあること に自分がかかわっていることを発見するのです。息子のことでアブラムが神を信 じてから10年後、アブラハムはもはや待てないと感じました。アブラムは神が 相続者を与えようとしておられることを知っていましたので、跡取りをもうけよ うと努力しました。イシュマエルはその努力の結果でした。間違っていたのはア ブラムの動機ではなく、出発点だったのです。子どもをもうけることについて、 自分はまだ何かできるとアブラムは感じました。実際彼はできましたし、そうし ました。86歳で彼にはまだその力がありました。 そこからさらに長く待たされました。100歳になってアブラムはもはや用を なさなくなりました。彼の肉体は「死んだも同然」(ローマ 4.19)でした。 素晴らしい恵みの賜物は、イサクという人となって、このような自分自身のうち にもはや神を喜ばす力を宿さない人物にやってきたのです。これはすべて神の業 であり、待つに値することです。私たちを通して神に御自身の御業をなしていた だくことは、たといそれが一度だけであったとしても、人間的な努力を一生傾け るよりもすぐれたことなのです。
荒野の食卓 ウォッチマン・ニー 6月24日
こうして、主のことばは驚くほど広まり、ますます力強くなって行った。 使徒 19.20
使徒が働くとき、主の祝福がその働きの上にとどまりました。使徒たちの足跡 をたどれば私たちもうまくいくはずです。しかしただ単純に使徒たちのやり方を 取り入れるだけでは十分ではないということを、私たちははっきりと理解しなけ ればなりません。使徒たちの献身、使徒たちの信仰、使徒たちの力を私たちが持 たなければ、使徒の結果を得ることは依然として失敗してしまいます。私は使徒 の方法の真価を控え目に見るべきだと提案しているのではありません。もし私た ちが同等の結果を得ようとするならば、使徒たちの方法は不可欠です。しかし使 徒の霊性の必要性を拡大して、ことさらに重視したり、その方法に従って、使徒 の試練に出会ったとしても、意気消沈するべきではありません。
荒野の食卓 ウォッチマン・ニー 6月25日
あなたがたは神の神殿であり、神の御霊があなたがたに宿っておられることを 知らないのですか。 I コリント 3.16
内住の御霊の啓示は、パウロがコリントの信者に与えた彼らのけがれに対する 処方箋でした。彼らが必要としていたものは、今日の私たちと同様、神御自身が 彼らの中に居を定められたという事実を把握することでした。私たちの多くの者 にとって、神の聖霊は極めて非現実的です。私たちは聖霊を単なる影響とみなし てしまいます−−好ましい影響であることは疑いを挟みませんが、それ以上のも のではありません。私たちの考えでは、良心と御霊は、私たちが悪かったときに 私たちに弁明を求め、よいこととはどのようなことであるのかを私たちにわから せようとするような「何か」であるとおおかた位置づけています。コリントの人 々と同じように、私たちの問題は内住の御霊という神の賜物が欠如していること にあるのではなく、私たちがまだ御霊の実在に目が開かれていないことにあるの です。私たちは、御住まいを私たちの心に定めてくださる聖霊の、その本質的な 聖さを正しく理解することを怠っています。
荒野の食卓 ウォッチマン・ニー 6月26日
「近寄って、あの馬車といっしょに行きなさい。」 使徒 8.29
神の働きは神によって始められなければなりません。働き人は御霊から直接召 命を受けるかも知れません。あるいはみことばを読むことを通して、また説教を 通して、あるいは環境を通して、間接的に召命を受けるかも知れません。しかし 神がどのような方法を用いてご自身の御心を人に知らせようとも、主の御心は、 どんな声を通しても聞き取れる御声にちがいありません。神は語られるおかたに 間違いありません。ですからどんな道具を通して召命が下るかはどうでもいいこ とです。もちろん同労者の意見を即座に拒絶してしまうことは間違いです。しか し同労者の意見を、聖霊の直接の証印の代わりとして受け入れてしまうこともま た誤りなのです。私たちは御からだの他の器官から絶対に独立していてはならな いことは真理である一方、全ての私たちへの指令は御頭から来ることもまた忘れ てはなりません。
荒野の食卓 ウォッチマン・ニー 6月27日
万軍の主はわれらとともにおられる。 ヤコブの神はわれらのとりでである。 詩篇 46.11
ヤコブの生涯はなんと私たちに似通っていることでしょう。神が私たちを整え るまでは、私たちはヤコブの策略に対して優位の態度をとる傾向があります。し かし私たち自身の考えがひねくれていることがわかり始めるにつれて、人間の根 源的な性質が私たちの内にあることをやがて認識するようになります。だから忘 れないでください。ヤコブの人生を虚しさから価値あるものへとつくりかえたも のは神の恵みの力に他ならなかったことを。 イシュマエルはアブラハムの神について話したかも知れません。もしかすると エサウはアブラハム、イサクの神と関わりを持ちたいと主張することができたか もしれません。しかし彼らはそうすることによってもせいぜい過去を振り返るこ としかできませんでした。主との個人的な体験が彼らにはなかったのです。イシ ュマエルやエサウの神の物語を読むことは一切できません。ヤコブにとっても私 たちにとっても、これは十分ではありません。私たちの神はそこにあるとりでで あり、そこにある力です。燃える柴に出会ったモーセのように、私たちは神がお っしゃるのを聞かねばなりません。「わたしはアブラハムの神、イサクの神、ヤ コブの神である」。こうした神に、私たち全ての者の希望があるのです。
荒野の食卓 ウォッチマン・ニー 6月28日
あなたがたは、バプテスマによってキリストとともに葬られ、また、キリスト を死者の中からよみがえらせた神の力を信じる信仰によって、キリストとともに よみがえらされたのです。 コロサイ 2.12
悲しいことに、埋葬を死への手段として理解するようにと教えられてきた人た ちがいます。彼らは自分自身を埋葬してもらうことによって、死のうと試みるの です。私は声を大にして申し上げたい。私たちの目が神によって開かれて、自分 たちはキリストにあって死んでいて、キリストとともに葬られているということ が見えるようになっているのでなければ、洗礼を受ける権利はないと。水の中に 降りて行く根拠は、神の目から見て私たちはすでに死んでいることを、私たちが 認めることにあるのです。私たちはそのことをあかしするのです。神の質問は単 純明快です。「キリストは死にました。わたしはあなたもそこに一緒に含めまし た。さて、あなたはそれについてなんと言いますか」。私の答えはなんでありま しょうか。「主よ。私はあなたが十字架に付かれたことを信じています。あなた が私を死と埋葬に付したことに「然り」と申し上げます」。神は私を死と墓に引 き渡しました。洗礼への申し出によって、私はその事実に対する同意を公にする のです。
荒野の食卓 ウォッチマン・ニー いと高き方の隠れ場に住む者は、 全能者の陰に宿る。 詩篇 91.1
誘惑の目的はいつだって私たちに何かさせようとすることです。中国国内での 日本との戦いにおいて、最初の数カ月間というもの、わが方はおびただしい数の 戦車を失ってしまいました。その結果、以下の作戦が発案されるまでは、わが方 は日本の装甲部隊に応戦できなくなったのでした。つまり、日本の戦車に向かっ て、我が方の待ち伏せしていた狙撃兵の一人が一発発射するようにしたのです。 かなりの間をあけて、最初の発砲に続いて2回目の発砲が続きます。そしてさら に沈黙の後、もう一発発砲します。こうして戦車の機関士が目障りな相手の居場 所を突き止めようとして、頭をひょいと上に出し、あたりを見回すまで発砲は続 けられます。注意深く狙いをつけた次の一発は、機関士が標的です。機関士が装 甲板の下にいる限り、彼は全く安全なのです。その作戦の全ては、機関士を外へ おびき出すために発案されたのでした。同様にサタンの誘惑は、私たちが自分自 身をさらけ出すように誘い込むことにその目的があるのです。私たちが隠れ場か ら外に踏み出したとたん、たちどころにキリストのおおいから外れてしまい、自 分に頼って行動してしまうことをサタンはよく知っていて、こうなれば自分の勝 ちだとサタンはよくわかっているのです。
荒野の食卓 ウォッチマン・ニー 6月30日
肉の願うことは御霊に逆らい、御霊は肉に逆らうからです。この二つは互いに 対立していて、そのためあなたがたは、自分のしたいと思うことをすることがで きないのです。 ガラテヤ 5.17
これが何を意味しているのかよく考えてご覧なさい。私たちの「肉」は私たち に逆らうのではなく、神の御霊に逆らうのです。肉の欲求に対応し処理するのは 私たちではなく、神なのです。そしてどのような結果になるのでしょうか。「あ なたがたは、自分のしたいと思うことをすることができないのです」。私たちは この最後の節の論旨を取り違えてきてしまったのではないかと私は思います。 「自分のしたいと思う」とは本来何なのでしょうか。自分たちの本能の命じるあ る振る舞いにおいては、私たちは神のみこころをないがしろにし、後退してしま います。ですからキリストのおおいから私たちが外れて、自分で行動してしまう ことを拒否するならば、その結果は聖霊が自由に働くことになります。−−自由 とは、すなわち、私たちの肉を処理し、取り扱うということで、その結果、実際 には、本来私たちがしたいと思っていることができなくなるのです。計画と自分 自身の道を放棄すれば、そのかわり、神の完全なご計画の中に私たちは喜びを発 見するのです。