荒れ野の食卓


荒野の食卓
                        ウォッチマン・ニー
5月1日

 それでも、彼らはかまわずに山地の峰のほうに登って行った。しかし、主の契 約の箱とモーセとは、宿営の中から動かなかった。山地に住んでいたアマレク人 とカナン人は、・・・・彼らを打ち、・・・・彼らを追い散らした。     民数記 14.44以下  カデシュに持ち帰った10人の報告をイスラエルの人々が聞いたとき、反抗し、 カナンの地に入ることを拒否しました。その後、彼らの選択を神がとがめると、 彼らはもう一度反抗し、自分たちの力で、とにかく前進しようと主張したのです。 彼らは、モーセと、それまで旅の間、民の先頭に立って進んだ契約の箱を無視し ました。これが彼らの命取りとなりました。彼らは敵に徹底的に追い散らされた ばかりか、この出来事の後、契約の箱は38年間消息を絶つのです。これはなん と象徴的なことでしょうか。私たちが自分自身の道を押し通そうとするとき、神 の導きに対する忠実さの証を失っています。私たちの強情な態度によって、導か れるという私たちだけの特権を自ら奪ってしまったのです。


荒野の食卓                     ウォッチマン・ニー 5月2日

 こうして、彼は主の箱を、一度だけ町のまわりを回らせた。                            ヨシュア 6.11  ここではただ主の箱にだけ触れられているので、信仰によって城壁のまわりを 箱に付いて回った人々を記者はまるで無視しているかのような印象を与えるので す。しかし真に問題にされるべきは主の箱です。この難攻不落のエリコが破壊さ れ尽くしたのは、イスラエル人の行進によるばかりではありません。わかりすぎ るほどわかっていることですか、私たちが1000回自分のエリコを回っても、 何も起こりません。イスラエルの力は契約の箱が彼らの間にあるという事実にあ りました。彼らはそれまで神の御真実の証を運んでいたのです。彼らが敵と対し て、依って立っていたものは、自分たちの努力ではなく、彼らの神がすでに為し てくださった事実でした。今日の私たちにとっての「証の箱」は神のよみがえり し御子です。御子を中心に据えなさい。出ていって主の復活をのべ伝えなさい。 そうすれば神は様々な壁を取り払ってくださるでしょう。


荒野の食卓                      ウォッチマン・ニー 5月3日

 この後、私は、天に大群衆の大きい声のようなものが、こう言うのを聞いた。 「ハレルヤ。救い、栄光、力は、われらの神のもの。                            黙示 19.1  この黙示録での最初のハレルヤは、何回も何回も「大」を冠して記されてきた ある都の滅亡によって生まれたものです。なぜバビロンが投げやられたときに、 天はそれほどまでに歓喜の声を上げるのでしょうか。なぜならバビロンは見せか けとむなしさの霊が具体的に姿をとって現れたものだからです。カナンに入植し てから人々が犯した最初の罪は、バビロンの服を身にまとったことでした。アカ ンはバビロンのぜいたくな生活をむさぼりました。彼は見栄えを飾りたかったの です。そして初代教会において最初に記録された罪もそれと似ていました。アナ ニヤとその妻サッピラは実際に払った犠牲よりも多くのものを捧げたように見せ かけて、ひとびとの称賛を得ようとしました。彼らも見栄を飾りたかったのです。 今日の教会において、我々はなんとあっさりと他人に印象づけようと芝居を打ち、 自分たちのために称賛と喝采の席を設けることでしょう。これこそバビロンの本 質、すなわち淫婦。そして神の忌み嫌われるもの。


荒野の食卓                       ウォッチマン・ニー 5月4日  あなたがたがこれらのことを知っているのなら、それを行うときに、あなたが たは祝福されるのです。           ヨハネ 13.17

 家に押し入った泥棒に恐い思いをさせられた年輩の日本人女性のことを聞いた ことがあります。その婦人は泥棒がハラペコなのがわかりました。彼女は素直で はありますが主にある実際的な信仰によって、その男に食事の用意をしました。 そしてしまいには彼に鍵まで渡してしまったのです。婦人のとった態度に泥棒は 大いに恥じ入りました。そして神はこの男に語りかけられたのです。婦人の証を 通して、その男は今ではキリストにある兄弟になっています。  とても大勢のキリスト者の頭の中にはありとあらゆる教義が詰まっていますが、 日々の歩みはその教義を否定しています。たとえばそうした人々は、エペソ書の 1から3章は熟知していますが、実際的な命令の書かれた4章から6章は無視し ます。つまり、偽りを捨てなさい。親切にしなさい。赦しなさい。互いに仕え合 いなさい。妻を愛しなさい。主人に従いなさい。脅すことをやめなさい。祈りな さい。反対するくらいなら教義など全然ないほうがましなくらいです。神は何か を命じられましたか。それなら助けを求めて主にすがりつきなさい。そしてそれ をなすのです。


荒野の食卓                          ウォッチマン・ニー 5月5日

 こういうわけですから、兄弟たち。私たちは、イエスの血によって、大胆にまこ との聖所にはいることができるのです。   ヘブル 10.19

 私が最初に神に近づいた時、私はキリストの血によって引き寄せられました。 そして新しい関係を持続するために、私はいつでも血潮をくぐってきたのです。 私が救われたのは一つの基礎に基づき、神との交わりの持続は別の基礎に基づく のではありません。あなたはおっしゃいます。「それはわかりきったことです。 福音のイロハですよ」と。その通りです。しかし私たちの多くの者の問題は、こ のイロハから離れてしまっていることなのです。私たちは、自分は成長したから、 もうイロハなしですませられると考えています。しかし決してそうはいきません。  なぜならそのイロハこそは神への唯一安全な道なのです。もちろん尊い血潮が 変化することが考えられるとするならば、私たちが神に近づく基礎は価値を減じ るかもしれません。しかしキリストの血は決して変わりませんでしたし、これか ら変わることもあり得ません。神はキリストの血潮に目を注ぎ、満足されます。 ですから私たちはいつでも神に大胆に近づくことができるのです。


荒野の食卓                       ウォッチマン・ニー 5月6日

 キリストの御霊を持たない人は、キリストのものではありません。 ローマ 8.9

 神のあなたへの贈り物である聖霊は、ひとえに神の御子の昇天の賜物です。そ れでは主イエスが栄光を受けられて、信じるあなたが聖霊を受け取っていないと いうことがあり得るのでしょうか。ある人は依然このことで迷ってしまっていま す。上海で知り合った若い男は、栄光を受けられたキリストとあふれ出る主の御 霊について話を聞き、認識を新たにしました。家に帰ると真剣に祈りはじめまし た。「私の信じる主よ。あなたの聖霊の力が欲しいのです。主よ、私はあなたが 栄光を受けられていたのがわかりましたから、あなたの聖霊を私の上に降り注い でください」。そこで彼は中断して、訂正しました。「ああ、主よ。すべて間違 っていました」。そして彼はもう一度祈りはじめました。「主イエスよ、あなた と私はともに一つのいのちにあずかる者です。そして父はあなたと私に二つのこ とを約束なさいました。あなたへの栄光と、私への御霊。あなたはすでに栄光を お受け取りになりました。ですから私がまだ聖霊を受け取っていないとは考えら れないことです。主よ、この素晴らしい賜物に感謝します。」。


荒野の食卓                    ウォッチマン・ニー 5月7日

 ヨセフは父ヤコブを連れて来て、パロの前に立たせた。ヤコブはパロを祝福し た(新改訳聖書脚注訳)。         創世記 47.7

 ヤコブはパロを二回も祝福したと告げられています。どうしてこの片足を引き ずった年老いた難民が、その時代もっとも偉大だった君主に祝福を授けることが できたのでしょうか。ヤコブにとって、そのような野心は過去のものとなってい ました。今や彼が自分で求めているものは何もありませんでした。  しかし、神はヤコブとともにおられました。エジプトに入る前、ヤコブはこの ことを確信するようになりました。ヤコブよりもはるかに偉大なアブラハムはエ ジプトに下り、罪を犯しました。たとえ自分の息子ヨセフがエジプトにいるから とはいえ、ヤコブは彼の父の神にいけにえを捧げるために、ベエル・シェバで足 を止めました。こうして、彼は計画を主のみ手にお返ししたのです。そして神か らの再確認が得られました。「わたし自身が、あなたといっしょに下る」。こう して彼は、自分のための祝福をつかもうとしていた昔の強さは砕かれ、しかし君 主を祝福するじゅうぶんな霊的な力強さを伴うにいたったのです。


荒野の食卓                     ウォッチマン・ニー 5月8日

 人が見るようには見ないからだ。人はうわべを見るが、主は心を見る。 I サムエル 17.7

 サウルはぬきんでた資質の人でした。「彼は民のだれよりも、肩から上だけ高 かった」。イスラエル人がサウルを歓迎したのは不思議ではありません。みんな から彼の頭が見えたからです。しかしこの頭一つぬきんでた人物は何回主の御心 の道に立つというのでしょうか。ダビデはこのことを心得ていました−−ダビデ とは神ご自身のみ心を追い求める者、彼は幾度も人間の理性を脇に置き、そのか わり素直な信仰によって行動しました。ゴリヤテ(彼の頭はサウルよりも突出し ていました)と対したとき、ダビデは兜と鎖かたびらを断って、投石器一つで迎 え出たのでした。投石器からの狙いすました一撃は、巨人の額に喰い込み、巨人 を打ち倒したのでした。この日を境に、イスラエルの王としてのダビデが注目を 浴びるようになりました。 今日、自分たちの頭に左右されるキリスト者がいます。歴史的に、私たちのゴ リヤテはカルバリーで失墜しました。しかし霊的なサウルは今もって私たちの中 に生きています。しかし内面をのぞき込むのはやめましょう。サウルは私たちの 相手ではありません。彼の治世はいくばくもありません。しかし羊飼いの思いや りを持ったダビデが君臨するなら、無割礼のペリシテ人に対する私たちの態度は 明確にされなければなりません。ペリシテ人の代表に、私たち一人一人は対峙し なければなりません。そして敵の代表は除かれねばなりません。


荒野の食卓                     ウォッチマン・ニー 5月9日

 『それゆえ、人はその父と母を離れて、その妻と結ばれ、ふたりの者が一心同 体となるのだ。』と言われたのです。        マタイ 19.5

   エヴァは一人で、孤独でした。そして彼女は完全にアダムのために作られまし た。旧約聖書の教会の雛形になりうると感じられる女性達の中にあっても、こう したエヴァの特徴は彼女に独特な、あるいは唯一と言えるほどの立場を与えてい ます。彼女たちそれぞれには教会の救いの表情が刻まれています。私たちは彼女 たちに花嫁を見て取り(リベカ)、異邦人からの選びを見て取り(アセナテ)、 荒野を旅することを見て取り(チッポラ)、相続地を受け継ぐことを見て取り (アクサ)、買い戻しの権利のある近親者により頼むことをまた見て取り(ルツ)、 主人のための果敢さを見て取るのです(アビガイル)。しかし彼女たちのどれも エヴァほどには示唆に富んではいません。というのも彼女たちは全員堕罪を受け 継いでいますが、しかし罪が入る前の祝福された時代にあったエヴァは、神が教 会に望んでおられる神の御子との一致の成就を私たちに示してくれるのです。エ ヴァは最初にアダムから作られました。そしてアダムの助け手として彼のもとに 連れてこられるために。一つのものが二つになったのです。二つのものは、そし て再び、一つになりました。このエヴァに見られるものは教会の奥義です。すな わちキリストから出たものは、再びキリストのもとに還るのです。


荒野の食卓                      ウォッチマン・ニー 5月10日

 信仰によって、彼は、王の怒りを恐れないで、エジプトを立ち去りました。目に 見えない方を見るようにして、忍び通したからです。                          ヘブル11.27

 僕を訓練するときの神はもっとも厳しい。イスラエルの民をエジプトから導き 出すのにふさわしいものとなるために彼が受けた訓練のことを考えてご覧なさい。 彼の一生は水からひきあげられるところから始まりました。まさにモーセの名前 のとおり、彼の前には常に一つの経験が置かれていたのでした。この最初の脱出 はそれ自体が死に対する勝利でした。次に彼はパラオの宮殿を放棄しするという 重大な選択をしなければなりません。こうしてこの世もまた彼に対する支配権を 持っていなかったことをもう一つの脱出によって明らかにするのでした。この後 暗黒への転落が続きます。そこでは、モーセは才能ある人物でしたが、40年に わたり人々の視界から消えるのです。その後の燃える柴。弱さと隠遁生活から、 イスラエルの解放者としての資質と新しい力へと脱出するようにとの召命が再び 彼に下るのでした。この世も死もその人にとっては無力になっていることが立証 されている者だけを、イスラエルの救いにおいて、彼らを支配して導く役割を果 たすようにと、神は用いることがおできになるのです。


荒野の食卓                   ウォッチマン・ニー 5月11日

 わたしが天から下って来たのは、自分の心を行うためではなく、私を遣わした 方のみこころを行うためです。 ヨハネ6.38

 私に対する神の御心が自分の感情であってはなりません。私たちがある人の性 格を知ったとき、皆はあまりにも安易に彼がどんな「導き」を得るかと推測して しまいます。なぜなら人の生まれつきの傾向は神の導きを巧妙に侵害するからで す。私たちの間で導きと呼ばれているもののほとんどは私たちの個人的な先入観 以上のものではありません。気の弱い兄弟の「導き」は後ろの席に座ることです。 厚かましい兄弟の「導き」は前の席に着くことです。それぞれが主に導かれたと 主張します。そうでしょうか。あるいはその人の感情が支配しているのでは。私 に対する純粋な神のみこころは、感情的な私が脇にどけられることです。私が霊 に満たされているならば、神がどのように私を導こうとされているのか、私のそ ばにいる人間が私の感情的な面からだけで予知することはできないでしょう。神 のみこころを私の生まれつきの性癖へと傾けてしまうことに気づくことができま すように。主イエスですら、そのお考えは絶対に間違っていませんでしたが、自 らの思いを脇にやってご自身をお遣わしになられた父のみこころを選ばれました。 もし主がそうされたのであれば、いわんや私たちをや。


5月12日

 あなたがたが召されたのは、実にそのためです。キリストも、あなたがたのた めに苦しみを受け、その足跡に従うようにと、あなたがたに模範を残されました。

                          I ペテロ 2.21  霊的な経験をそれが目的で追い求めるのは、我々キリスト者にとって何という 誘惑なのでしょうか。聖書は経験の切り売りは一切しません。神の恩寵のもとで 為された神のわざに、キリストにあって私たちもあずかっているはずなのです。 神はキリストを捌(さば)くときに、キリスト者も捌きました。神は頭を捌くこ とですべての器官を捌いたのです。ですから、私たちだけで、そしてキリストな しで、私たちは霊的ないのちのあらゆるものを享受できると考えるのは完全な誤 りです。私たちがきわめて個人的なものを神から得るべきであると、神は意図し ておられません。しかもそのような何かを、私やあなたにもたらすことを神はし ようとはしていません。キリスト者のあらゆる真の経験は、何よりもまずキリス トにある真理です。「自分たちの」経験と私たちが呼んでいるものは、神の歴史 と神の経験のほんの一部にすぎません。それぞれの枝に特徴を与えるものは、葡 萄の幹です。


荒野の食卓

                     ウォッチマン・ニー 5月13日

 それでモーセは民に言った。「恐れてはいけない。しっかり立って、きょう、 あなたがたのために行われる主の救いを見なさい。」                        出エジプト 14.13

 右と左を山に遮られ、後ろからは敵、前は海。いつだってこうなればしめたも のです。なぜならそのときこそ信仰の出番だからです。信仰の大きな妨げの一つ は信仰が必要とされないことなのです。もし神があなたの必要なものを恵んでく ださるとするなら、神は信仰を恵んでくださることでしょう。信仰はどうしても 必要なところでもっともよく働くのです。私たちに語られているところでは、信 仰は山をも動かします。一言も蟻塚については語られていません。あなたがみこ とばを探しても、主が軽い頭痛をお直しになられたという記録を見つけることは できないでしょう。そうです。主は不治の病に取り組みました。問題は、神が私 たちに信仰を働かせる機会をお与えになったときに、私たちがあまりにもしばし ば信仰を捨ててしまうことなのです。  もし信じると同時に代わりの脱出の道も自分で用意するなら、そんな信心は意 味を為しません。どこにも脱出の道がないときにこそ信仰はもっともはっきりと 働くのです。ですから、大胆に祈りなさい。イスラエルがそうであったように、 海によって遮られるようにと。そうすれば「神はおできになるのか」という不信 仰の問いに対し、あなたの個人的な告白として、敢然と断言できるでしょう。 「神はおできになる」と。


荒野の食卓                          ウォッチマン・ニー 5月14日

 あなたがたは、このようにしてそれを食べなければならない。腰の帯を引き締 め、足に、くつをはき、手に杖を持ち、急いで食べなさい。これは主への過越の いけにえである。             出エジプト 12.11

 血のそそぎは神のためのものでした。血は家の外に塗られ、このおかげで救わ れた家の中の初子には見ることさえもできなかったのです。そうです。血は神が ご覧になるためのものでした。そして神は血を見たらその家を過ぎ越そうと約束 されました。神の要求は血で満たされたのです。しかし私たちの必要は祭りの食 事で満たされました。家の中ではその血で私たちを守ってくれる羊の肉を常食と する必要があります。羊の肉を常食とすることで私たちは前に置かれた巡礼の旅 のために強められることができるのです。いけにえの血によってたといエジプト で守られたとしても、過ぎ越しの肉はエジプトに投降する人々のためのものでは ありませんでした。過ぎ越しの肉は神とともに脱出し、神とともに行動すること が人生の目的であると告白した人々のためのものでした。私たちについても同様 のことが言えます。私たちがキリストのみからだを食するとき、自分たちの必要 がキリストの内で満たされていることを発見します。しかし忘れないでいただき たいのです。神の御心のうち、前方に向かって進んでいく心構えを。


荒野の食卓                     ウォッチマン・ニー 5月15日

 神のすばらしいみことばと、後にやがて来る世の力とを味わったうえで、                       ヘブル6.5

 神の国はすぐに来るものであり、そして来ているはずのものなのです(マタイ 6.10,同12.28)。時間的には神の国は私たちの将来にあるのであり、 経験的には、今現在、神の国は私たちのものです。神は私たちに次に来る世の力 の前触れをあちこちで試食するようにとご計画されました。ですから普遍的な真 理となるあらゆるものは、今、多少なりとも教会の経験となっていなければなり ません。なぜならすべては教会のものだからです。神の国の条件や、永遠のいの ちや、永遠の契約や、サタンに対する勝利や、神そして神のキリストの権威やら についてただ知っているだけで何の役に立つのでしょう。これらは単に将来の見 通しにとどまらず、ここあそこで現に味見されている力なのです。味見をしてみ るとは少しだけ食べることを意味しています。それは祝宴の前の試食会なのです。 私たちはまだ神の国のすべてのごちそうを堪能できません。しかしその香りを嗅 ぎ続けているべきなのです。霊的な富が求められているところでは、現在だけで 生活するのをやめましょう。次に来る世の力は私たちのものです。


荒野の食卓 ウォッチマン・ニー 5月16日

真理を買え。それを売ってはならない。知恵と訓戒と悟りも。 箴言 23.23

嘘には値段がありません。それは安くて巷にあふれています。しかし真理には 常に代価がつきまといます。まず第一にへりくだりという代価。なぜならへりく だりは神が従順な人々に与えてくださった光だからです。もし私たちが自分自身 を低くするという代価で真理を買う用意が為されていないなら、真理は手中にで きません。そして忍耐には代価が必要です。性急な判断やせっかちな決定は、神 に仕え、神を待ち望む人々に与えられる神の光とは無縁のものです。そして決定 的なことですが、服従には代価が必要です。「誰でも自分の思いを為そうとする なら、その人は知らねばならない」。もし私たちが神のみ心と神の方法を知ろう とするなら、服従が不可欠なのは疑念の余地がありません。私たちの信仰は廉価 版で、代価を払わないほど安易なのでしょうか。それとも神の真理によって、ど んなに大きな代価であろうとも、その真理の上に信仰を建て上げていただく心積 りができているのでしょうか。


荒野の食卓                        ウォッチマン・ニー 5月17日

 信じた私たちは安息にはいるのです。         ヘブル4.3

 仕事の次に安息があります。どう見ても仕事が満足のいくところまでできて初 めて安息は可能になります。神が創造の6日間の後に休まれたことはどうでもい いことではありません。必ずやり遂げられるこの神が、躍動感にあふれたこの神 が、どうして休むことができたのでしょうか、と私たちは尋ねるかもしれません。 創世記1章31節にはこの理由が記されています。「神はお造りになったすべて のものをご覧になった。見よ。それは非常によかった」。神はご自身の喜びとな るものを造り上げられたのです。神の御心にかなったものが実現されていました。 目的は達成されたのです。安息によって神はご自身の承認を宣言しました。  今日、キリストにある神の安息を私たちが神とともにあずかるようにと神は招 いておられます。もう一つのみわざが完成されました。新たにもたらされた創造 です。神の御心は実現されました。そして更なる実現は不必要であり、不可能で す。自分たちのがんばりをやめて、キリストの内に私たちがすべてを満足すると きに、私たちは神の安息にはいるのです。


荒野の食卓                          ウォッチマン・ニー 5月18日

 すると何人かの者が憤慨して互いに言った。「何のために、香油をこんなに無 駄にしたのか。 マルコ 14.4

 無駄とは何でしょうか。ほかの場合でしたら、無駄とは必要とされている以上 のものを費やすことです。千円ですむところを一万円払ったとすれば、無駄です。 50グラムですむところを1キログラム使えば、それは無駄です。3日で十分仕 上げられる仕事に5日も1週間も費やせば、無駄です。無駄とはあまりにも少な いところにあまりにも多くのものを与えることです。もし誰かが分不相応と思わ れるものを受け取れば、それは無駄です。12弟子さえこの女性の犠牲は度を超 していると思いました。もちろんユダにとっても、この男は一度もイエスを「主」 と呼びませんでしたが、主に注がれるものはすべて無駄だったのです。それはち ょうどこの今日の世界が、神の奉仕への私たちの献身を、まるで無駄なことだと みなすのと同じです。しかしひとたび神が私たちの目を主イエスの真の価値へ開 かせてくださるなら、主イエスにもったいないものは一つもなくなります。


荒野の食卓                      ウォッチマン・ニー 5月19日

 「わたし、イエスは御使いを遣わして、諸教会について、これらのことをあな たがたにあかしした。わたしはダビデの根、また子孫、輝く明けの明星である。                         黙示 22.16

 この黙示録はイエスキリストの啓示を明らかにするものです。主を明らかにす るためにおおいは取りのけられました。その第一義の目的は、私たちを啓蒙して、 来るべき事柄−−反キリスト、比喩としてのローマ帝国の再興、聖徒の至福、千 年王国またはサタンの最終追放−−に注意を払うようにすることではありません。 私たちの災難に対するヨハネの救済策は、たくさんの封印やラッパや鉢とは無関 係です。実際のところ、黙示録は私たちの知的好奇心を満たすためのものでは全 くなく、キリストご自身が余すところなく啓示されることにより、私たちの霊的 な要求が満たされ、私たちが神を知るようになることにその目的が置かれている のです。キリストこそ私たちのすべての疑問の解答です。まず主を明らかにして いただきなさい。そうすれば「来るべき事柄」について知らねばならないことは なんでも知ることができるでしょう。主イエスこそ高く引き上げられた勝利の王 の王。次に続くすべての出来事は、主が王の王であられる結果です。


 荒野の食卓                         ウォッチマン・ニー 5月20日

 あなたがたはこのことを知らないのですか。あなたがたが自分の身をささげて 奴隷(英訳:召使い)として服従すれば、その服従する相手の奴隷(英訳:召使 い)であって、 ローマ 6.16

 ここで使われている「召使い」(英訳)という言葉は実際には下僕、あるいは 奴隷を意味しています。その違いは私たちにとって重要です。というのもこの言 葉はローマ書6章の後半で何回も用いられているからです。パウロはそこで私た ちが神にとって有用な者となることについて書き記しています。召使いと奴隷の 違いは何でしょうか。召使いは別の主人にも仕えるかもしれません。しかしその 召使いの所有権を別の主人に譲ることはしません。もし召使いが主人を気に入れ ば彼に仕えることができますが、気に入らなければ、彼は退職願を出して、別の 主人を探すことが許されています。しかし奴隷はそうはいきません。奴隷は他の 人の召使いになれないばかりか、主人の所有財産なのです。どのようにして私は 主の奴隷になったのでしょうか。主の側からいえば、主がご自身のいのちを捨て るという代価を払って私を買い取ってくださいました。そして私の側からいえば、 自分自身を値なしに、完全に主に捧げたのでした。2番目の記述を見落とさない ようにしましょう。買い戻しの権利により、私は神の所有財産です。しかしもし 私が神の奴隷として有益な者でありたいと願うなら、買い戻していただいたこと に対し、私は喜んで神にこの身を捧げなければなりません。神は決して強制なさ りません。

荒野の食卓 5月21日                     ウオッチマン・ニー 人知をはるかに越えたキリストの愛を知ることができますように。こうして、 神ご自身の満ち満ちたさまにまで、あなたがたが満たされますように。 エペソ3:19 イエス・キリストはこの地上におられる間、神に選ばれた器として歩まれま した。民衆がイエス・キリストに触れる時、それは神に触れることでありました。 イエス・キリストを見ることは、神を見ることでした。イエス・キリストのお からだには満ち満ちた神の性質が宿っていました。このことは父なる神の喜びで した。(コロサイ1:19、2:9)  では今日、人は何を見るのでしょうか。信じる者である私たちはキリストのい のちをいただいています。私たち信徒は主の満たしをいただいたと言われていま す。未信者の人たちが私たちに出会った時、彼らはキリストの圧倒的な愛に出会 うでしょうか。その人たちが私たちに触れる時、幾分かでも神に触れたと感じる でしょうか。

荒れ野の食卓

5月22日

 私たち生きているものは、イエスのために絶えず死に渡されていますが、それ は、イエスのいのちが私たちの死ぬべき肉体において明らかに示されるためなの です。 II コリント 4.11

 これは何を意味するのでしょう。私はただ神に頼っているときにだけ行動しよ う、という意味です。私は自分の内に満足すべきものが見い出せないでしょう。 私は一歩も進めないでしょう。なぜならそのような力しか遺伝的に引き継いでい ないからです。禁断の実によってアダムは行動する力の相続者となりました。し かしその力はまさにサタンの手に操られたのです。あなたが主を知るようになる ときにその力は失われます。あなたはいま、別のいのちによって生きています。 そして主からあらゆるものを引き出しているのです。  私の親友達よ、私たちは自分自身を適切に理解していると私は考えています。 しかしほとんどの場合、自分自身のことで本当に恐れおののいていません。私た ちは恭しく神に申し上げるかもしれません。「もし神がそれを望んでおられない なら、私はそれをすることができません」。しかし現実には、私たちがそれを自 分でやってのけてしまうのは間違いないところです。あまりにもしばしば自分が 原因になって私たちは決定し、行動し、神から離れた力を持ってきたことでしょ う。私たちが明らかにしているキリストはあまりにも小さいのです。なぜなら自 分自身の内側に、私たちはあまりにも大きく成長してしまったからです。神よ、 私たちをお赦しください。


荒野の食卓                     ウォッチマン・ニー 5月23日

 ああ、神の知恵と知識との富は、なんと底知れず深いことでしょう。そのさば きは、なんと知り尽くしがたく、その道は、なんと測り知りがたいことでしょう。                         ローマ 11.33

 神のみことばの教義を調べていると、再三再四、神の僕たちの真心からの礼拝 のほとばしりに突然出会います。使徒パウロはこうした幸いな特技を見せてくれ ます。ローマ書1章でパウロは創造主である神に対する賛美の叫びによって、人 間の堕落の厳格なリストの列挙を中断します。「造り主こそ、とこしえにほめた たえられる方です」(25節)。そしてこれにパウロ自身の個人的な「アーメン」 を付け加えています。さらに9章では、イスラエルの歴史的優位性についての論 述を、非常によく似たキリストへの頌詞で中断しています。「*万物の上にある 神は、とこしえにほめたたえるべき方です。アーメン」(*新改訳聖書脚注訳)。 そして今度は11章の終わりに、全く同じ快活な自発性を発見します。異邦人に 対する神の恵みと、異邦人の応答がどのようなものになるかを話した後で、パウ ロは結論します。「神は、すべての人をあわれもうとして、すべての人を不従順 のうちに閉じ込められたからです」(11.32)。そしてこれは論旨の上では 12章1節に引き継がれます。「そういうわけですから、兄弟たち。私は、神の あわれみのゆえに、あなたがたにお願いします・・・・」。しかしパウロはもう 一度自分で遮ります。そして私たちのテキストには途切れが生じます。パウロに は自分の感情を抑えることができません。「すべてのことが、神から発し、神に よって成り、神に至るからです。どうか、この神に、栄光がとこしえにあります ように。アーメン」。このような中断は、神のみ前には問題になり得ません。


荒野の食卓                      ウォッチマン・ニー 5月24日

 その必要とする物・・・・毎日怠りなく彼らに与えよ。                         エズラ 6.9

  もしほんとうに神に信頼しているなら、私たちの必要としているものと、私た ちの働きの双方の霊的な重荷を、誰からの手助けを借りずに負うつもりでいるべ きなのです。人間的な筋からの援助を心の隅で期待していてはなりません。私た ちの信頼は神と人に置くべきではなく、ただ神に置くべきです。もし兄弟が愛を 示したなら、神に感謝しなさい。しかし愛を示さなくても、なお神に感謝しなさ い。なぜなら、片一方の目を神に向け、もう片一方を人に向けているのは、神の 僕として恥ずかしいことだからです。いかなるキリスト者にもふさわしいことで はありません。神に信頼していることを告白しながら、足りないものを求めて兄 弟達にふりむくことは、ただ主の御名に不名誉をもたらすだけです。私たちの信 仰による生活は透き通るような真実さにあるべきで、生活を慈悲にすがるような 信仰に後退しては絶対になりません。そうです。あらゆる物質的なことについて、 私たちは敢然と人から全く独立しているべきです。なぜなら、私たちは敢然と神 を全く信じるからなのです。私たちはほかの望みは捨て去りました。なぜなら私 たちには神にあって無限の希望を持っているのですから。


荒野の食卓                          ウォッチマン・ニー 5月25日

 というのは、罪はあなたがたを支配することがないからです。なぜなら、あな たがたは律法の下にはなく、恵みの下にあるからです。                         ローマ 6.14

 最初に神の光が私の心に差し込むとき、私の叫びは救いを求める叫びです。と いうのは、私は神の御前に罪を犯したことを悟るからです。しかしひとたび罪の 赦しをいただくと、新しい発見をするのです。すなわち、私は依然として罪人の 性質を持っているということです。生まれつき罪に荷担する傾向があり、罪の力 が私を強制するのです。この罪の力が充満すると、私は罪を犯すのです。私は赦 しを乞い求め、それを得るかもしれません。しかしやがてもう一度罪を犯すので す。ですから人生は罪を犯し、赦され、また罪を犯すという悪しき循環を繰り返 すことになります。私は神の赦しの事実を正しく捉えてはいますが、それだけで は決定的に何かが足りないのです。私のしてしまったことが赦されているので、 私は喜びますが、同様に、私という人間から救われる必要があるのです。罪を犯 す私の能力の根幹にキリストの十字架を打ち込んでいただく必要があるのです。 キリストの血潮は私の一つ一つの罪を処理してくださいました。しかし私を処理 するには、キリストの死と復活があるのみなのです。


荒野の食卓                       ウォッチマン・ニー 5月26日

 あなたがたはみな、キリスト・イエスにあって、一つだからです。                       ガラテヤ 3.28

 私たち信じる者にとってキリストの十字架は中心です。いついかなる時でも中 心です。なぜなら神のすべてのみわざの中心だからです。神がこの事実を私たち の心に明らかにしてくださいましたから神を賛美しましょう。そしてさらに、十 字架は私たちの生活の中心でもあります。しかし罪人個人に対する御わざの中に 十字架は存在しているのであり、十字架は目的に対する手段であって、それ自体 が目的ではないということを忘れてはなりません。十字架という手段が導く神の 目的はキリストにある新しき人です。  救い、個人的聖さ、勝利の生活、御霊に従った歩み。こうしたもっとも価値あ る贖いの実はすべて私たちが享受するためのものです。しかしそれらの実は、神 のためにこの地上に散らされた無数の個々の単体にすぎない私たちに求めようと されてはいません。贖いの実の価値はさらに高みに置かれるように定められてい ます。各々の実はキリストのみからだのゆえに私たちのものです。なるほどアブ ラハムの子孫があまたの星のごとくなるのは事実でしょう。それにもかかわらず、 神は、私たちが自分自身を「人々」としてではなく「人の子」として、つまりキ リスト者として、見るようにされたのです。神の御思いの目的は実際には天の人 の子おひとりなのであって、大勢のつまらない人間たちではありません。


荒野の食卓                        ウォッチマン・ニー 5月27日

 約束された方は真実な方ですから、私たちは動揺しないで、しっかりと希望を 告白しようではありませんか。 ヘブル 10.23

   私たちの神の告白ほど神を満足させるものはありません。イエスはしばしば言 われました。「わたしだ」。イエスは私たちが「あなたです」というのをお聞き になるのがお好きです。私たちはまずめったにそう言いません。すべてがうまく いかなくなり、途方に暮れたときは、祈ってはいけません。「あなたは主です」 と告白しなさい。世界中が混乱している今日、イエスは王の王であり、主の主で あることを立ち上がって宣言しなさい。主は、私たちが知っていることの話をお 聞きになるのが大好きです。  そしてサタンも−−聖徒が事実をすすんで明言するのを耳にするとき、ふるえ るのです。イエスの御名は他のすべての名前を冠絶しています。御名を宣言しな さい。敵に言ってやりなさい。私たちの証の言葉は、しばしば祈りが結果をもた らさないところに効果を表すでしょう。私たちは直接山に向かって「動け」と言 うように命じられているのです。


荒野の食卓                            ウォッチマン・ニー 5月28日

 祈って求めるものは何でも、すでに受けたと信じなさい。そうすれば、そのと おりになります。 マルコ 11.24

信仰は神の事実の受け皿です。このことを考えてみたことがありましたか。真 の信仰は常に過去に根をおろしています。未来に関係するの信仰ではなくむしろ 希望です。もちろんこの二つは密接に関連しあってはいるのですが。イエスのこ れらの言葉はあなたに保証しています。つまり、もしあなたが自分が求めるもの は(もちろん主にあって)、「すでに受けた」と信じるなら、「そうすれば、そ のとおりになります」。何かをもらえるかもしれないとか、何かをもらえるだろ うとか、何かをもらおうと信じることは、ここで言っているところの信仰ではあ りません。信仰とは、もうすでに受けたと信じることなのです。この信仰には 「神にはできる」とか「神はなさるかもしれない」とか「神はされるだろう」 「神はなさるべきだ」という台詞はありません。「神は」−−ここで信仰は断言 します−−「なされた」と。キリスト者の生活は、最初に掲げられているように、 神の事実に基づく信仰によって生かされるものなのです。


荒野の食卓                           ウォッチマン・ニー 5月29日

 私たちは、だれにも不正をしたことがなく、だれをもそこなったことがなく、 だれからも利をむさぼったことがありません。                          II コリント 7.2

 主の僕は喜んで利益を奪われるべきです。しかし絶対に他の人の利をむさぼる ようなことがあってはなりません。神に信頼すると公言しながらしかもなお乞食 の役を演じて、自分の足りないものを表に出して、他の人々のあわれみを乞うの は恥ずべきことです。神の栄光をほんとうの意味で見て、神の働き人の一人とし ての自分の栄(は)えある立場を理解したものは、ほかの人々から独立する余裕 があります−−独立、そうです。自由と言ってもいいのです。しばらくの間、兄 弟の看護を喜んでするのは当を得たことでしょう。しかし夜泊まるところ、夜食、 夜の明かりや石炭や家財道具の利用、果ては新聞にいたるまで、こうしたつまら ない細々としたものに対してでさえも、自由を用いることから厳しく自分を守る べきなのです。そこそこの利益をむさぼろうと待ちかまえている心ほどさもしさ を表わすものはありません。私は施しを求める乞食なのでしょうか。それとも私 は生ける神の僕なのでしょうか。


荒野の食卓                         ウォッチマン・ニー 5月30日

 鶏が、二度目に鳴いた。そこでペテロは、「鶏が二度鳴く前に、あなたは、私 を知らないと三度言います。」という主のおことばを思い出した。それに思い当 たったとき、彼は泣き出した。 マルコ 14.72

 私たちはペテロと同じくらいには立派か、ひょっとしたらもう少しましではな いかと考えているかもしれません。なぜなら彼は試みられて駄目になったからで す。そうです。しかし、駄目にならなかったひとたちよりも、彼は立派ではなか ったのでしょうか。ペテロは拒みました。しかし彼は無神経な男ではありません でした。彼は主の言葉を思い出しました。そしてそれを考えるとすぐに彼は泣い たのです。神の言葉に何の説得力も感じないキリスト者は看板倒れの貧しいキリ スト者です。なぜなら主の言葉は洗いと更新の主の道具であるからです。もし私 たちがこのことにさえ気がつき、みことばのに働く余地を与えるなら、実際に私 たちは失敗していても、失敗したことにいつまでも気がつかずにいるようなこと はありません。


荒野の食卓                        ウォッチマン・ニー 5月31日

 あなたがたが・・・・贖い出されたのは、・・・・・傷もなく汚れもない、子 羊のようなキリストの、尊い血によったのです。   I ペテロ 1.18以下

 罪は神に三重の問題を提出します。罪は不従順となって入ってきます。不従順 は何よりもまず、神と人との仲違いを引き起こします。神はもはや人間と交わり を持つことができません。なぜならいまや隠されているものがあるからです。何 よりもまず神がこう言われるのです。「すべての人が罪の下にある」(ローマ3. 9)。そして二番目に、人の罪は、神との交わりの仕切となって、罪の意識を生 じさせます。ここでは良心のとがめに助けられて、「罪を犯しました」(ルカ1 5.18)と言うのは人間自身なのです。しかもこれだけにとどまりません。罪 はまたサタンに告発する素地を私たちの心の中に提供するため、その結果第三番 目になりますが、実際に「あなたは罪を犯したと」言うのは、兄弟たちの告発者 (黙示12.10)なのです。  それ故、私たちを贖うために、そして神の御目的に私たちを連れ戻すために、 この三重の、罪、咎め、私たちに対するサタンの訴えについて、主イエスは手を 打たなければなりませんでした。これらの問題を解決し、神を満足させ、私たち の罪科を覆い、大いなる告発者を完膚無きまでに打ち負かして余りあるのは、多 くの人々のために流された、主イエスの尊い血潮があるのみです。


荒野の食卓 5月