荒野の食卓

荒野の食卓                        ウォッチマン・ニー 4月1日

 大きな家には、金や銀の器だけでなく、木や土の器もあります。また、ある物 は尊いことに、ある物は卑しいことに用います。ですから、だれでも自分自身を きよめて、これらのことを離れるなら、その人は尊いことに使われる器となりま す。                     II テモテ 2.20以下

 これらの器はどのように区別されているのでしょうか。まず材質が違うことが あげられます。その機能ではありません。家の威容を保つためには、機能はそれ ほど有用ではなく、材質の如何が問題になります。金や銀の器は木の家具や土の 壷にくらべて実用的ではありませんが、神はこの箇所でそれらが何に使えるかを 論じているわけではありません。神はご自身にとっての価値を判断しておられる のです。堕落した世にあって、神は単なる使いやすさを越えた、そのもの本来の 価値をご覧になります。つまり数オンスの金は木製ベンチでいっぱいになった集 会所と同等の価値かもしれないのです。霊的な点から見てみましょう。二人の人 物が全く同じ言葉を発っするかもしれません。しかし言葉の力は彼らが単に何を 話したかに宿るのではなく、彼らが誰であるかに関係してくるのです。バラムと イザヤはともにキリストの王国について語りました。しかし私たちの個人的な必 要を二人のうちどちらが満たしてくれるかは断るまでもありません。


荒野の食卓 ウォッチマン・ニー 4月2日

神の御霊によって礼拝をし、キリスト・イエスを誇り、人間的なものを頼みにしない私たちのほうこそ、割礼の者なのです。 ピリピ 3.3

割礼はユダヤ人をそうでない人々から識別する一つの印でした。これに呼応す る人々の前でのキリスト者の印とはなんでしょうか。ほどこしでしょうか。知恵 でしょうか。誠実でしょうか。熱心でしょうか。ほかの人々だってこうした印を 持っています。その中には神の民に固有のものはどれひとつとしてありません。 しかしたった一つだけ固有のものがあるのです。それは当を得た自信の欠如です。 肉への信頼が滅ぼし尽くされ、神に回帰していることこそ、神ご自身の民を識別 する印なのです。神の御心はよくわかっていると、確信に満ちたキリスト者たち と知り合いになりましたが、そういう彼らは一瞬たりとも自分たちが間違ってい るかもしれないという認識は持たないでしょう。しかし私はあなたに、彼らには この上もなく大切な霊的「割礼」、すなわち「肉に頼らない」という印がまだ見 えていないと申し上げなければなりません。霊的な人の歩みは、いつでも自分は 間違っているかもしれないと感じ、へりくだっています。そのような人は、聖書 外典の至福の教え、「自分の誤りを悟るものは幸いです」に喜んで賛意を示すの です。


荒野の食卓 ウォッチマン・ニー 4月3日

キリストは、死んだ人にとっても、生きている人にとっても、その主となるた めに、死んで、また生きられたのです。 ローマ 14.9

パウロは4節で非常に強い口調で尋ねています。「あなたはいったいだれなの で、他人のしもべをさばくのですか」(ギリシャ語では「あなた」という代名詞 が強調されている)。主お一人に責任を負った主の僕をさばくとは、私たちのと んだ了見違いではないでしょうか。あなたや私が、自分たちがいなければ神はご 自分の僕の管理ができないかのように、聖徒たちを正そうと、主人のように振る 舞うのは分を越えています。私たちは彼らのために死にませんでした。死んだ人 にとっても生きた人にとっても私は主ではありません。では、私にほかの人々の 生活の管理に責任を負う勇気があるでしょうか。神が私に忍耐深いように、私も 彼らに忍耐強くありますように。というのも結局のところ、私の心におられる主 の御霊の働きに信頼するばかりです。同様に、キリストにある兄弟の心に主が働 いてくださることを信頼していけないことがあるでしょうか。


荒野の食卓 ウォッチマン・ニー 4月4日

見よ。兄弟たちが一つになって共に住むことは、なんというしあわせ、なんと いう楽しさであろう。それは頭の上にそそがれたとうとい油のようだ。 詩篇 133.1以下

詩篇133篇は都上りの歌で、エルサレムに礼拝を捧げるために上ってきた人 々によって年に3回歌われたものです。そこへ向かう人々は様々でしたが、共通 のものを一つ持っていました。彼らは神の御住まいであるシオンを目指して進ん でいたのです。これらの多種多様の人々は一つになった兄弟姉妹でした。なぜで しょう。たとえが説明しています。それは油のようだと。 「そそがれたとうとい油」とあるのは、神の御霊のことです。そしてその油は 上から下へ流れしたたっています(2節)。下から上ではありません。言葉を換 えれば、主の油は直接肢体にかけられるものではなく、キリストの頭にかけられ るものだということです。御霊は休息と満足をほかならないキリストの内に見出 だされるのです。頭にかたく結びつきなさい。あらゆることについて主に従いな さい。そうすれば同じように歩んでいる全ての人と歩調を共にすることになるの です。いろいろな規則は社会においては大切なものかも知れませんが、御からだ にはたった一つの法則があるだけです。つまり御霊のいのちの法則です。聖霊の 油注ぎを軽視しただけで、あらゆるものが不安になります。主に従いなさい。そ うすればあなたの心は平安に満たされます。それこそ神の子供に不可欠の素直さ なのです。なぜかと尋ねる必要などあるでしょうか。


荒野の食卓 ウォッチマン・ニー 4月5日

シロから主の契約の箱をわれわれのところに持って来よう。そうすれば、それ がわれわれの真中に来て、われわれを敵の手から救おう。 I サムエル 4.3

イスラエル人にとって主の箱とは主の契約の箱のことでした。ですから人々は、 たとい自分たちが契約に対してはどれほど不真実なものであったとしても、主は 自分たちを敵から守ってくださる。そのようにして主はご自身の契約を果たして くださるのだ、と民は考えていたのでした。しかし神の民がふた心から神に背い たとき、神は彼らを打ち負かされるがままにしました。神は御自身の栄光の故に 自分たちを救われるに違いないと思いましたが、神は見せかけだけの栄光を現わ すよりも、御自身の聖いご性質を現わすことにより大きな関心をお示しになりま す。神の僕がひどい失敗をしてしまうとき、うまく収拾できたらいいと感じます。 そこで私たちはそうなるように、また主の栄光のために、恥をかかなくてすむよ うに、そして失敗は隠されたままであるようにとさえ、神に期待しつつ祈ります。 しかし神の道はこれとは正反対です。民の汚れから神ご自身を分離させるため、 神は御自身の民を世界中の人々の目の前で敗北させなければなりません。主は決 して彼らの汚れを覆いません。神の栄光は道徳的な価値観に支えられ、上辺だけ のごまかしによるよりも、むしろ神の民の人前での敗走によって保たれるのです。


荒野の食卓 ウォッチマン・ニー 4月6日

するとダビデは地から起き上がり、からだを洗って身に油を塗り、着物を着替 えて、主の宮にはいり、礼拝をして II サムエル 12.20

ダビデの息子はダビデの罪が原因で死にました。ダビデが悔い改めたのは本当 です。そして祈りの人であるダビデは断食をして、熱心に子供の命のために祈り ました。にもかかわらず息子は死にました。神の訓練を知らず、それほど霊が砕 かれていない人ならば、神を責め、不平をならしたことでしょう。が、ダビテは そのような態度をとりませんでした。子供の死を教えられると彼はすぐに立ち上 がって礼拝したのです。時々神はこのように、ご自分の僕を悩みの炉に投げ入れ ることによって、ご自分の聖さをお示しにならなければなりません。そうしたと き、僕の支配なさる主の御手に対する反応は大事な試金石です。もちろんダビデ は刺すような悲しみ−−おそらく人がまず体験することがないような−−を覚え ていました。しかし、これは神が自分に取られた道であり、事態が好転する可能 性はないことをついにダビデが悟ったとき、彼は神の道に頭を下げ、神の御心を 礼拝しました。万が一このようなことが起こった場合、私たちもこのようにする ことができるでしょうか。ダビデは神ご自身の御思いを知るものとして記録され たのです。


荒野の食卓 ウォッチマン・ニー 4月7日

あなたがたは真理を知り、真理はあなたがたを自由にします。 ヨハネ 8.32

神の御言葉に書かれたことを読み、それを過剰なまでに霊的な事柄として捉え ることは避けるべきです。たとえば、ヨハネの記した新しい天と、新しい地は、 主のよみがえりが真実であるのと同様、ゆるがない事実なのです。神に関する事 柄を霊的な象徴にしてしまうことは、自分たちでは真実を知ってもいない人々が 用いる目を覆うばかりの速成方法論なのです。私たちの多くは霊的な真理を集積 していますが、それはただ自分たちのために真理で偽りの世界を組み立てている だけなのではないかと私は恐れています。私たちには真理と教義の区別がつきま せんが、その二つは同じではないのです。教義とはすなわち地上で言う永遠の真 実のことです。私たちの truth という言葉は中国語の聖書では chen −li (だいたいの意味は「真実な理論」)となっているのは私もよく知って います。しかし実際のギリシャ語の意味はchen(訳注「真」)だけで、li (訳注「理」)は含まれていない「真実」のことなのです。ですから教義は後回 しでよいのです。「あなたがたは真理を知ります」と言われたほかならぬイエス は、全ての真実をご自分に具現されました。私たちの霊的成長の印は、神に関す る事柄がいつでも私たちにとって真実になっていることなのです。なぜなら主は 私たちに真実な方だからです。


荒野の食卓 ウォッチマン・ニー 4月8日

わたしは、彼らのため、わたし自身を聖め別ちます。彼ら自身も真理によって聖 め別たれるためです。 ヨハネ 17.19

一つ確かなことは、あなたと主との間に何かあると、あなたはほかの人々を弱 くすることしかできないということです。あなたは彼らを引き上げることができ ません。彼らが沈んでいるとき、あなたはますます彼らを沈めてしまいます。彼 らが重荷を抱えているとき、あなたの介入はただ彼らの重荷を増すだけでしょう。 神の民との交わりで、あなたは有用な者になるどころか、人々に何の貢献もでき ません。いや、むしろ力を奪ってしまうことになるのです。 しかしあなたと主との間の問題が全て解決すれば、逆も真なりです。あなたは 疲れた人々を力づけます。そして聖徒の礼拝全体に、また聖徒の祈りや賛美に、 いのちを付け加えることで、あなたの存在そのものが祝福となりうるのです。神 との生きた交わりを保ちなさい。そうすれば神との交わりを失ったような人々が、 神との生きた交わりを回復するために、あなたは用いられるようになることでし ょう。


荒野の食卓 ウォッチマン・ニー 4月9日

信仰によって、アブラハムは、試みられたときイサクをささげました。彼は約 束を与えられていましたが、自分のただひとりの子をささげたのです。・・・ 「イサクから出るものがあなたの子孫と呼ばれる。」と言われたのですが、 ヘブル 11.17以下

アブラハムが言ったであろうことを私たちが推察することは可能です。アブラ ハムは、イシュマエルを追い出すようにとの命令は理解できたものの、今度の新 しい命令は追い出すどころかイサクをいけにえとして捧げることであり、極めて 理解に苦しむと主張したかもしれませんね。アブラハムの見当違いの努力の結果 がイシュマエルでした。ですからアブラハムはイシュマエルが家から追い出され るという決定を尊重するのです。しかしイサクは。イサクは違うのです。イサク は、ただ単に息子へのアブラハムの父性愛を満足させるために与えられたのでは なく、神が誓われたあらゆる御目的を成就するための手段となるべく、完全に神 から来た者でした。イサクが除かれでもしたら、神には何がおできになるという のでしょうか。 しかしアブラハムはことを論じないように訓練されていました。彼はまったく 反論しませんでした。いけにえについて話すことさえしませんでした。彼はただ モリヤの山に行って礼拝するのだと言っただけです。それこそ真の礼拝でした。 それは、私たちにくださった神の賜物を全て神にお返しするのです。私たちの豊 かな経験の全ても、神にある私たちの希望の全ても。神ご自身の内にはかりしれ ない喜びを見出すために。


荒野の食卓 ウォッチマン・ニー 4月10日

いったい自分の費用で兵士になる者がいるでしょうか。自分でぶどう園を造り ながら、その実を食べない者がいるでしょうか。 I コリント 9.7

私たちの目が釘付けにされているのは神に対してであり、私たちの物質的な必 要を打ち明けるべき相手は神であり、神の子供たちの必要を満たすことで彼らを 感動させるのも神です。もちろん、労働者は賃金を払うだけの価値があります。 そして、主は、福音を語るものは福音によって生活するようにと定められたので す。しかし私たちは自問してみるべきです。私たちはだれに属する労働者なのか と。もし私たちが人に仕えているならば、何が何でも私たちを援助してくれる人 々を探さなければなりません。しかしもし私たちが神の労働者であるならば、た とい神が人間たちを用いて私たちの必要を満たしてくださるようなことがあると しても、私たちが求めるべきお方は神なのであり、ほかの者ではありません。も し召命と任命が神から与えられたら、私たちの主への服従にかかわることは全て 神が責任を負ってくださいます。そしてどのように神が責任を果たしてくださる かを尋ねる必要は絶対にありません。


荒野の食卓                         ウォッチマン・ニー 4月11日

 彼らが出かけて行く必要はありません。あなたがたで、あの人たちに何か食べ る物を上げなさい。 マタイ 14.16

 教会の主要な問題点は霊的貧困と霊的逼迫の二つです。あまりにも多くのクリ スチャンは自分の必要を満たすこともできないほどの貧しさの中にあります。そ んな信者の所に助けを求めに行く人はなんと気の毒なのでしょう。貧しさは結果 であって原因ではありません。同様に逼迫も結果であって原因ではありません。 貧しさと逼迫の原因は霊の訓練の不足です。富んでいる者は、そして富んでいる 者だけが、このような訓練を知っています。彼らは神と霊的な歴史をともにして きました。なぜなら彼らは「みからだ」のゆえに苦しみを受けたからです。彼ら の病、非常に深刻な問題、彼らの逆境、これら一つ一つは神の民のうちでキリス トが大きくなるために備えられたものなのです。与えるものを絶えず持っている のはまさにこの人々です。一方。、こうした訓練を避けて通ってきた人々、すな わち安楽で幸運な生活をかわりに送ってきた彼らは、逼迫と困窮に見舞われた人 々です。困窮して貧乏な人々が彼らの所に来て助けを求めても無駄です。彼らに は溢れ出るものがありません。


荒野の食卓                        ウォッチマン・ニー 4月12日

 これはその死によって悪魔という、死の力を持つものを滅ぼし、                            ヘブル 2.14

 キリストの死によって、サタンの死の力は手強い敵とたった一度の出会いを経 験したのでした。キリストの死はほかのいかなる死とも違った死だったのです。 アダムにおける死は人間を完成させませんが、キリストの死は人間を完成させま す。それは強力な死でした。キリストにあって死ぬべきものはすべて死に、その 結果、死の力を持っていたあの者はもはや彼らを支配するすることがないのです。 彼らは死んだのです。あなたは灰に火をつけることはできないはずです。キリス トの御わざは単なる贖いにとどまらず、死を、そして死が意味するあらゆるもの をともに滅ぼされたのです。一度焼けて灰になってしまった家はもう二度と灰に なることがありません。というのはもし最初の火がしっかり焼き尽くしていれば、 2回目に燃えるものは残っていないのです。すでにキリストの死にあって死んだ、 我々贖れし者にとって、死そのものが古びてしまっています。私たちは主の朽ち ないいのちの所有者となったのです。


                荒野の食卓                      ウォッチマン・ニー 4月13日

 あなたがたも、自分は罪に対しては死んだ者であり、神に対してはキリスト・ イエスにあって生きた者だと、思いなさい(直訳:勘定しなさい)。                         ローマ 6.11

 「勘定しなさい」とは何を意味しているのでしょうか。「思いこみ」ではない ことは確かです。ギリシャ語の「勘定すること」とは「収支をつけること」とい う意味で、帳簿のことです。会計は世界中で、我々人間が正確に行うことのでき る唯一のものです。画家は写真のように正確に風景を描くことはできますか。歴 史家はあらゆる記録を絶対に間違いなく確証することができますか。地図の制作 者は完全に正確な地図をつくることができますか。彼らはせいぜいよく似たもの をつくることしかできません。それでは人間がすることで完全に信頼の置けるも のは何なのでしょうか。計算です。そこには誤りの入る余地がありません。1脚 の椅子プラス1脚の椅子は2脚の椅子になります。これはロンドンでも、ケープ タウンでも、ニューヨークやシンガポールでも真理です。世界中、どんなときで も、1足す1は2です。  神の断言は真実味にかけるでしょうか。神がどうしても私の帳簿に虚偽を記載 するようにとお命じになることがあり得るのでしょうか。もちろんあり得ません。 それでは神が私たちに対して、自分たちは罪に対しては死んだ者だと勘定するよ うにと命令されているならば、キリストにあって私たちが罪に死んでいるのは事 実なのですから、それこそが永遠に信頼を置くべき事実であるのです。


荒野の食卓 ウォッチマン・ニー 4月14日

枝をもって、祭りの行列を組め。祭壇の角のところまで。 詩篇 118.27

ヤハウェの祭壇の上に置かれた火による捧げものの目的はなんだったのでしょ うか。神に完全に焼き尽くしていただくためでした。動物は捧げる者の財産にあ わせて、小牛であったり、羊であったり、鳩であったりしたのですが、それらに 共通して要求されたことは完全に焼かれることだったのです。神は完全ではない いけにえをお受け取りにはなりません。今日、祭壇が意味するものは神のために 何かすることではなく、神のための何者であるかなのです。神は私たちの働きを ではなく、私たち自身を求めておられます。断末魔で捧げられた旧約聖書の供え ものとは違って、新約聖書の捧げものは「生きた供えもの」(ローマ12.1) なのです。祭壇の意味は私たちの生活そのものを神に捧げ、まだ生きているとこ ろを必ず焼き尽くしていただくことなのです。まだ生きているのは、まだ焼き尽 くされていないのです。


荒野の食卓 ウォッチノン・ニー 4月15日

しみや、しわや、そのようなものの何一つない、聖く傷のないものとなった栄光の教会 エペソ 5.27

キリストは栄光の教会に御自身を捧げられるという記述において、神の恵みは 神の永遠の目的を表現しました。いまや堕落によって傷を負った教会が、栄光の うちに神に捧げられるためには、いのちの言葉とみことばの聖めが必要とされて いることを私たちは気がつきます。なぜなら私たちは今、堕落した人々の贖いの 歴史の中におり、そこにはまだ救済されていない欠陥や癒されるべき傷が残され ているのです。しかし教会に対して用いられる言葉は何と感謝なことでしょうか。 「しみのない」−−罪の傷跡、まさに展開中のこの歴史が忘れ去られているので す。「しわのない」−−過ぎ去った時代と過ぎ去った過去の印、すべては償われ、 新たにされます。そして「傷のない」−−この結果、サタンやその手下どもや人 間は、教会を非難する根拠を一つも見出せないのです。神は御自身の栄光の教会 を見るために、その歴史全体にかかわる考えをひらめかれました。すなわち人間 の堕落は一切触れず、御自身の栄光を授けた御子の姿を表現することによって。


荒野の食卓                      ウォッチマン・ニー 4月16日

 この務めに任じられているのですから、勇気を失うことなく、                          II コリント 4.1

 私たちは神の至高の御目的を賜物の働きに見い出すのでしようか。それともい のちの務めのうちに見い出すのでしょうか。なるほど教会の一時的な啓発は、あ る場合には奇跡的な賜物よって行われるかもしれません。しかしパウロはこの箇 所で、パウロは私たちの目をもっとも重要視されるべきものへと転じさせていま す。それはそうした奇跡の賜物ではなく、キリストのいのちの、すなわち死を通 してもたらされたいのちの、務めなのです。賜物ではなく、十字架のみわざ。こ の十字架は人の身丈を測る物差しでもあるのです。  若い教会の啓発とたましいの獲得にとって、霊的賜物は、特別な意味あいを帯 びているかもしれません。しかし賜物自体は成長の印ではありませんし、もちろ ん決して自慢すべきものでもありません。良識のない者だけが神が与える言葉を 誇ります。神は示してもいないのに。必要があれば神はろばの口を通して語るこ とだってできるのですが。


荒野の食卓                       ウォッチマン・ニー 4月17日

 御霊に満たされなさい。・・・・主に向かって、心から歌い、また賛美しなさい。 エペソ 5.18以下

 Plerousthe すなわち「満たされていること」が、ここでは聖霊に関連づけて表 現されています。「あなたがたは絶えず満たしていただくようにしなさい」。 これは五旬節の重大局面を記しているのではなく、私たちがいつも喜んでいられ るための条件の記述です。そしてこれは霊の賜物や表面的な聖霊の顕現ではなく、 神の聖霊が私たちの霊の中に個人的に現れて活動することでもあります。それは ちょうど、必要ならば真夜中過ぎまで灯火が燃え続けることを保証するランプの 油のようです。さらに「満たされていること」は個人に属することであるばかり か、一人一人に関することがらでもあります。つまり他のキリスト者と共有して いる何かがあるのです。パウロは、ともに主に賛美しなさいと語ります。私たち の中には、合唱でテンポとハーモニーを合わせて歌うよりも、一人でうたった方 が面倒がないことを感じる人がいることでしょう。そんな人には重唱でさえも難 しいかもしれません。しかし聖霊の満たしは、まさにこの目的で与えられている のです。つまり御座の前で私たちがともに新しい歌を歌うという目的のために。


荒野の食卓                      ウォッチマン・ニー 4月18日

 器がいっぱいになったので、彼女は子どもに言った。「もっと器を持って来な さい。」子どもが彼女に、「もう器はありません」と言うと、油は止まった。                        II 列王記 4.6

 神の全能の力は、すすんで私たちの受け入れる能力に合わせられます。神の霊 の油は人が神に用意したはかりに応じて溢れ出るのです。神の祝福は人間の活動 分野の制限が条件になっています。「この谷にみぞを掘れ」とエリシャは別の時 に言いました。「主がこう仰せられるからだ。『風も見ず、大雨も見ないのに、 この谷には水があふれる・・・・』これは主の目には小さなことだ。主はモアブ をあなたがたの手に渡される」(3:16以下)。神が与えてくださるものより もたくさんのものを手にする力は人間にはありません。しかし人はそれ以下のも のを選ぶこともできるのです。「あなたがたは、いのちを得るためにわたしのも とに来ようとはしません」。


 荒野の食卓                     ウォッチマン・ニー 4月19日

 イエスは言われた。「『あなたの神である主を試みてはならない。』とも書い てある。」      マタイ 4.7

 神を試みることと、神を試すことには違いがあります。前者は禁じられていま すが、後者は奨励されています。表面的には両者は同じように見えるかもしれま せんが、違うものなのです。両者を区別するものは、神のみことばを通して示さ れた神の御心の知識です。イスラエルとエジプト人を例に挙げましょう。紅海を 渡るのにともに大きな危険を冒しました。その危険はイスラエル人を栄光の救い へと導きましたが、エジプト人にとっては死と不名誉に至るための危険となりま した。なぜでしょうか。なぜなら両者のうち、イスラエルだけが神のみことばに 基づいて行動したからでした。彼らが試して勝利を得たのはみことばだったので す。  もう一つの例として、パウロと彼の若い親友、テモテについて考えてみましょ う。使徒パウロは肉体に弱さを覚えていたにもかかわらず、その生涯で成し遂げ たことは屈強の男が10人かかってもかなわないほどでした。彼が働き続けるこ とのできた理由が見い出せないことは、神の力が満ちていたことの証明でもあり ます。しかしテモテはこのことについてはパウロに習うようにとは強く勧められ ませんでした。実際のところ、テモテは特に健康に留意するようにとパウロから 忠告を受けたのでした。テモテにとっては、神がそうするようにと命じてもいな いのに、パウロのように行動しようと試みたことは、疑いもなく神を試みること であったはずです。しかし神の命令に従うことは、神の御真実を証明することに 他なりません。


荒野の食卓                        ウォッチマン・ニー 4月20日

 神よ。私を探り、・・・・私のうちに傷のついた道があるか、ないかを見て                       詩篇 139.23以下

 自分を省みても真の自己知識に到達しません。内省はけっして私たちを明確な 理解へとは導きません。そうです。神からの光受けて初めて私たちはわかるので す。難しいことはありません。顔が汚れていないことを確かめたいときにはどう しますか。手で顔中をそっとなでまわして確かめてみますか。もちろんそんなこ とはしませんね。鏡を見つけて、それを持って明るいところへと行きます。光に よってすべては明らかになります。  「私を探ってください」とはどういう意味かおわかりになりますか。自分で自 分を探るという意味でないのは明らかです。「探ってください」とは「神よ、 あなたが私を探ってください」という意味です。それが照らし出される方法です。 私たちのところへ来て、探ってくださるのは神です。私の自己に対する真の知識 は自分自身を探ることによっては得られず、神に自分を探っていただくことで得 られるのです。


荒野の食卓                         ウォッチマン・ニー 4月21日

 キリスト・イエスにあるいのちの御霊の原理が、罪と死の原理から、私を解放 したからです。 ローマ 8.2

 かつて中国の商人達にとって離郡税はたいへんな負担でした。何人も逃れるこ とができなかったその税は秦王朝時代に端を発し、我々の今日までそのまま引き 継がれてきたのでした。それは物資を運搬するときに生じる内国税で、帝国全土 で運用されていたため、徴収のための検問所が数え切れないほどたくさんのとこ ろに設けられ、役人はその絶大な権力を謳歌していました。しかし数年前に2番 目の法律が施行されることになり、それによって離郡税は効力を失いました。あ なたは古い法律のもとで苦しんできた人々の解放された気分を想像することがで きますか。もう煩わされる必要はなくなりました。新しい法律が古い法律から解 放してくれたのです。 離郡税の役人に会ったらなんと言おうかと、あらかじめ考 えておく必要がなくなったのです。  神は別の法則を導入することによって、私たちを一つの法則から解放してくだ さいます。一つの法則は私たちを罪と死に縛り付けて、逃げることができません でした。もう一つの法則は、いのちの御霊との祝福された交わりへと私たちを解 放してくれます。


 荒野の食卓                       ウォッチマン・ニー 4月22日

 このいのちが御子のうちにあるということです。御子を持つものはいのちを持 っており、  I ヨハネ 5.11以下

 キリストの恵みと、キリスト。この違いを発見できるなら、それは祝福となる でしょう。すなわち、従順とキリストの違い、忍耐とキリストの違い、そして愛 とキリストの違い。これらの違いをを知ることは祝福です。謙遜にせよ、忍耐に せよ、あるいは聖さにしろ、愛にせよ、神は私に神の恵みを別々の贈り物として くださることはないでしょう。神は、忍耐がないところには忍耐を、愛のないと ころには愛を、傲慢には従順をといった具合に、小分けされた恵みを、私たちが 大量に受け入れて自分たちの資本として運用できるようにと分配してくださる小 売業者ではありません。私たちの必要を満たすことのできるたった一つの贈り物 を神はご用意されました。すなわち神の御子、イエス・キリストです。  ふつう一般にはきよさとは生活のあらゆる行動がきよくなることと考えられて います。しかしそれはきよさではありません。きよさの実なのです。きよさとは キリストです。主は、私たちがきよめられるようにと私たちに与えられました。 ですからあなたはそこにあらゆるものを当てはめることができます。愛、謙遜、 力、自制。今日、忍耐が必要ならば、主は私たちの忍耐なのです。明日は純粋さ が必要になるかもしれません。主が私たちの純粋さなのです。私たちの個人的な 欠乏がどうであろうとも、必要なものは数え切れないほどたくさんあろうとも、 主が私たちの欠乏を満たしてくださるのです。


 荒野の食卓                         ウォッチマン・ニー 4月23日

 女は夫に言った。「いつも私たちのところに立ち寄って行かれるあの方は、き っと神の聖なる方に違いありません」  II 列王記 4.9

 エリシャは何という印象をシュネムの裕福な女に与えていたことでしょう。こ のときまでエリシャは彼女の家で奇跡を行ってもいなければ、神からの預言を記 した記録を彼女のところへ持ってくることもなかったのです。彼はただそこを通 りかかる度に、立ち寄って、食事をしただけです。彼女はエリシャをよくは知り ませんでした。しかし夫にはこう言いました。「私にはあの方が神の人であるの がわかります」。そのような印象を与えたのは、エリシャの話したことでもなけ れば、振る舞いでもありませんでした。ただ、彼の人となりだったのです。エリ シャがやってきたとき、彼女は神が彼とともにいることを感じたのです。  人々は私たちに対してどのように感じているのでしょうか。私たちはだれでも ある種の印象を残します。人々は私たちを、賢いものだと記憶するでしょうか。 そして才能に恵まれたものだと感じるでしょうか。そして、あれを感じ、これを 感じ、さらにもっと別の何かを感じるのでしょうか。エリシャの訪問はたった一 つの印象を与えました。エリシャの一行が去ったあと、家に残されたものは神ご 自身の香りだったのです。


荒野の食卓                       ウォッチマン・ニー 4月24日

 さて、主の囚人である私はあなたがたに勧めます。召されたあなたがたは、そ の召しにふさわしく歩みなさい。    エペソ 4.1

 「私の内におられる神の御霊は人格を持っていらっしゃる」ということを私は もう気づきはじめているでしょうか。私はただの土の器です。しかしこの器の中 に言葉で言い尽くすことのできないほどの価値ある宝、すなわち主の栄光を、入 れているのです。もし神の子どもたちの目が、自分たちの運んでいる財産の価値 に開かれるならば、彼らのあらゆる心配といらいらは解消されることでしょう。 その財産は今後彼らが出会う要求に十分に応じることのできるものなのです。神 の子どもたちが、自分たちの心の中に隠された宝がどんなに価値あるものである かに気が付けば、彼らのあらゆる軽薄な言動もまたなくなることでしょう。もし あなたがポケットに千円しか持たずにいたら、お金を落としたって大したことは ないのがわかっていますから、陽気に通りを行進できるでしょう。千円が死活問 題になることはそんなにはないからです。けれども総額500万円を持ち歩いて いたらどうでしょうか。立場は大きく変わります。それだけでなくあなたの立ち 居振る舞いも変わってくるでしょう。あなたの心には喜びがあふれている反面、 道を気楽にぶらぶらすることはないでしょう。そしてときどき歩調をゆるめては、 ポケットに手を滑り込ませ、指でお札をもう一度そっと確かめてみることでしょ う。それからおごそかな喜びとともに、道を歩き続けるのです。そうです。私は 謹んで申し上げます。神の御霊によって新生したあなたがたは、心の中に神をお 入れしているのです。


荒野の食卓                        ウォッチマン・ニー 4月25日

 王の仕事をするため、王とともにそこに住んだ。  I 歴代誌 4.23

 ダビデは多くの屈強の男たちをそばにかかえていました。ある者は将軍であり、 別の者は門番でした。王の指示に従って彼らの仕事が割り当てられたのです。私 たちの分担は私たちの選択ではなく、神の御心によって割り当てられたのですか ら、将軍にも門番にも喜んでならなければいけません。あなたがキリスト者であ るならば、神はあなたの行くべき道に印を付けておられるのです。それがすなわ ち第2テモテ4章7節で使徒が用いた言葉、「走るべき道のり」なのです。パウ ロの行程ばかりか、神の子ども一人一人の進むべき道は、主によってはっきりと 示されています。それゆえ、各々が自分のために神が印を付けられた走るべき道 のりを知り、そこを進むことが最重要課題となるのです。「主よ、私は次のこと だけお願いしてこの身をあなたに捧げます。あなたが定められた道に私を導いて ください」。これが真の献身です。私たちの生涯の終わりに、パウロとともに 「私は走るべき道のりを走り終えた」と言うことができるなら、私たちは本当に 幸いです。なぜなら私たちには、この地上の生はたった一度しかありません。そ して生涯の終わりに、自分の選んだ道が、ずっと間違っていたことに気づくこと ほど悲劇的なことはないでしょうから。


荒野の食卓                      ウォッチマン・ニー 4月26日

 義人の道は、あけぼのの光のようだ。  いよいよ輝きを増して真昼となる。     箴言 4.18

 ソロモン王を始めとする数名の王の事例はあるものの、人生の最期の日々は霊 的に衰退した日々であると決めつける必要はありません。カナンに戻ってからの ヤコブのことを考えてごらんなさい。いつも落ちつきがなかったヤコブが、その 土地に定住したのでした。そこで彼は、自分の家族のことで、たくさんの悲しみ と絶望を味わいはしましたが、そのさなかにあっても、ヤコブは忍耐を示し、若 年期の利己的性格をみじんも外部にあらわしませんでした。あるいはエジプトで の、絶大な権力者であるヨセフの父親としてのヤコブをもう一度見てご覧なさい。 以前のヤコブであれば、自己の利益のために、この新たな機会を懸命になってつ かんだことでしょう。しかし円熟したこの老人は、今や目立たないところに引き こもっているだけで満足しきっているように思われます。こうした人物に対する 十分に計画された預言的な祝福の数々は、創世記のクライマックスにふさわしい ものです。


荒野の食卓                        ウォッチマン・ニー 4月27日

 ここに聖徒の忍耐と信仰がある。     黙示 13.10

 「いつまででしょうか」と叫ぶ人々がいます。彼らはもうこれ以上忍耐するこ とができないと思うのです。ところで審判について扱ったこの書物のまさに冒頭 で、ヨハネは自分自身を「あなたがたの兄弟であり、あなたがたとともにイエス にある苦難と御国と忍耐とにあずかっている者」と表現しなければならなかった ことは意味深いことです。この黙示録は、神がついに忍耐することをやめてさば きを行う、その現場へと私たちを連れて行きます。忍耐は、さばきがまだ将来の ものであるときにのみ求められるのです。一度さばきが始まれば、もう忍耐は必 要とされません。しかしそのときはまだ来ていないのですから、ヨハネのように 私たちはまだ忍耐が必要とされている時代に生きているわけです。圧制と悪に対 して剣を振るおうと願うことは易しいのですが、殉教した聖徒たちでさえ、殉教 者の数が満ちるまで待ちなさいと命令されているのです(6.10以下)。神は 絶対に忍耐できないことを正しいこととはお認めになりません。神ご自身がずっ と苦しんでおられるのです。私たちは神の忍耐を用いて、神にある真の信仰を示 そうではありませんか。


荒野の食卓 ウォッチマン・ニー 4月28日

神はみこころに従って、からだの中にそれぞれの器官を備えてくださったので す。 I コリント 12.18

手と足ではどちらがより優れた器官なのか教えていただけますか。比べようと しても、比べようがありませんね。人間のからだの中でそれぞれが果たす役割は たいへん異なっています。そしてそこでは、それぞれが等しく必要とされいます。 しかし多くの人々は神の召しを過小評価しています。なぜなら、彼らは自分たち がほめそやす特別な器官にはなりえないので、はなから自分の場所につくことを 辞退します。この立場はマタイ25章で主イエスが語られた男たちとタラントの 訓話に正確に表現されています。しもべのひとりは5タラント預かり、もう一人 は2タラントを預かりました。しかしこの訓話で重点がおかれているのは1タラ ント預かった者だったのです。1タラントの兄弟の危険性は自分のタラントを 埋めてしまうことにあります。「どうせ目立つ場所につくことができないのだっ たら、」と彼は考え、自問します。「ほかのどんな場所につこうとも、いったい どうなるというのだろう」。それが、どうにもなるのですよ、絶対に間違いなく。 この訓話は2タランとが4タラントになるなら、1は2になれることを教えてい るからです。自分の生きる道を発見することは、自分の役割を果たすことによる のです。教会の成長は1タラントを隠してしまう器官によって妨げられ、低迷さ せられているのです。


荒野の食卓                       ウォッチマン・ニー 4月29日

 この身とこの心とは尽き果てましょう。  しかし神はとこしえに私の心の岩、私の分の土地です。                         詩篇 73.26

 私の友人である一人の兄弟は、福音伝道のために数カ月間、旅に出るようにと 導かれました。その友達は奥さんをとても愛していたのですが、そのとき奥さん は健康状態が優れませんでした。友人は私に見送ってくれるようにとの走り書き の手紙をよこしました。私は彼の家が見えるところまでくると、彼にはこちらは 見えませんでしたが、彼が家から出てきて、何歩か歩くと立ち止まり、少しため らってから、ゆっくりと引き返すのを観察していました。私は待ちませんでした。 しかし彼のたましいの闘いを感じながら、別の道を通って渡し船へと向かいまし た。彼がそこに到着したとき、私は次のように書かれた手紙を渡しました。「主 があなたを祝福されますように」。それに対する友人の答えは、彼がまったき平 安のうちにいることを明らかにしました。数カ月語、彼が旅行から戻ってきたと き、例のことをそれとなく話してみました。「そうでした」と彼は告白しました。 「私があそこで立ちすくんだとき、手伝いも、お金もほとんどなしで、妻と子ど もをとても残しておくことはできないと思いました。しかし私がきびすを返した とき、聖句が浮かんできました。『だれでも、手を鋤につけてから、うしろを見 る者は、神の国にふさわしくありません。』そして私はもう一度向き直り、船へ と向かったのでした」。涙を拭いながら、手を鋤につける−−それがキリスト者 というものなのです。


荒野の食卓                        ウォッチマン・ニー 4月30日

 あなたがたは・・・恐れてはならない。気落ちしてはならない。この戦いはあ なたがたの戦いではなく、神の戦いであるから。                        II 歴代誌 20.15

 勝利を得ようとして戦ってごらんなさい。まさに初戦から敗退してしまいます。 あなたのキリスト者としての敗北は、「自分が」勝たなければならないと思いは じめた瞬間から始まっているのです。サタンが家庭や仕事であなたに猛攻撃を仕 掛けてきたと仮定しましょう。難問は山積し、誤解が生じ、手に負えない状況に 置かれ、かといって逃げ出すことは自分を駄目にすることにつながります。あな たは祈り、断食し、もがき、数日間抵抗をします。しかし何事も起こりません。 なぜでしょう。あなたは勝利を得るように戦っています。そしてそうすることで あなたは自分のよって立つところを放棄しているのです。というのは、イエス・ キリストのうちで、神はすでに勝利を収められたからです。勝利は私たちのもの です。なぜならそれは神のものだから。神は私たちに神の勝利を与えてくださり、 それを持つようにとされました。サタンは討ち負かされた敵です。サタンを片づ けるには、主からの祝福以外の何物も必要とされません。それなのにあなたとき たら、嵐を起こそうと必死になっているのです。では、秘訣とは何でしょう。た だ神を見上げて賛美することです。「主よ。あなたの勝利はすべてに及びます。 あなたを賛美します。この状況もあなたの勝利に包まれていますから」。ですか ら神によってすでに確保された勝利のなかに自分を休めなさい。