荒野の食卓

荒野の食卓                      ウォッチマン・ニー  3月1日

 彼は主の前に若枝のように芽生え、砂漠の地から出る根のように育った。                        イザヤ 53.2

 根は植物の生長を支え、維管束によってそのいのちは伝えられます。どんな植 物も根の働きがなければ枯れてしまいます。しかし根さえあればもっとも過酷な 条件下でも植物が生き延びることがあるでしょう。イザヤの言葉は、イエスご自 身は主のいのちと力を外部の環境から引き出してはいなかったことを示唆してい ます。私たちもまたそうするべきです。必用があったとしても、キリストにある 兄弟姉妹の援助を受けずに生活することができるようにしなければなりません。 私たちのまわりに兄弟姉妹がいたとしても、同労者とともに生活はしますが、同 労者によって生活を立てることはしません。私たちの生活の秘めたる源はただ神 おひとりです。

 しかし「砂漠の地から出る」ように生きるとは、もう少し深い意味が隠されて います。つまりどんな環境も私たちを滅ぼすことができないということを意味し ているのです。どんな日照りも神の若枝をしおらせることはできません。不毛の 地にあっても、適さない条件にあっても、神の子どもたちは「圧倒的な勝利者」 となるだけのものが与えられています。そのいのちとはキリストご自身です。


荒野の食卓               ウォッチマン・ニー 3月2日

 あなたがたを、つまずかないように守ることができ、・・・・大きな喜びをも って栄光の御前に立たせることのできる方   ユダ 24

 自分の生活を主の御手に託した私たちへのすばらしい約束がここにあります。 というのは私たちの「栄光の御前」への小道にはたくさんの罠が仕掛けられてい るのですが、主はそうした罠から私たちを守ることを引き受けてくださっている からです。私たちはどんなときつまずきますか。障害物に全然気づかず、道で足 が隠れていたものにぶつかったときです。しかしこのみことばは、私たちが普段 意識の及ばないまさにその領域で神の加護があることを確信させてくれます。も し私たちが無制限に主に面倒を見ていただくことに決めたのなら、未知のものを 恐れる必用はなくなります。神は何回も何回も、そのときは全く気づかないでい る様々な危険から、私たちを守っていてくださることを知ったなら、私たちはど んなに驚くことでしょう。


荒野の食卓 ウォッチマン・ニー 3月3日

主はアブラムに仰せられた。「あなたは・あなたの生まれ故郷・・・・ を出て、わたしが示す地へ行きなさい」 創世記 12.1

これはアブラムにとって2回目の召しでした。1回目は「カランに住む以前」 (使徒7.2)メソポタミヤにいたときのものです。アブラムはカルデヤから出 て行きましたが、それだけでは十分ではなかったようです。カランで過ごした日 々についての記録がなにも残されていないのは厳粛な意図があります。神はご自 身の召しを貫かれました。私たちは時々、ぐずぐずすることで主の要求に手心を 加えていただこうと願います。しかし主は要求を緩和することはなさいません。 なぜなら主が何年も前に私たちの前におかれた目的地をあきらめてしまわれたな どということはありえないからです。私たちが目的地を失ってしまっても、神は それを失っていません。

神の目から見たとき、カランはメソポタミヤからほとんど前進していません。 アブラムは移動したということに満足していたのかも知れません。しかし神はア ブラムをある地へと召しだされました。真の召しはいつでも高度な召しです。途 上の家で自己満足してはなりません。問題は私たちが出発地点からどれだけ遠く に行ったかということではなく、私たちの心が今でも主の目的地に向いているか どうかなのです。


荒野の食卓                    ウォッチマン・ニー 3月4日  私たちの古い人がキリストとともに十字架につけられたのは、 罪のからだが滅び・・・・私たちは知っています。   ローマ 6.6

 私が回心してから数年間というもの、「思う(*直訳:数える)」ことをずっ と教え続けられていました。しかし私が罪に対して死んだと思えば思うほど(*)、 私が罪に対して生きたものであることがますますはっきりしてくるのです。私は 単純に自分が死んでいると信じることができませんでしたし、死を演出するすべ も見つかりませんでした。他の人に相談すると、いつだって返事はローマ6章 11節を読め、だったのですが、ローマ6章11節を読んで思おう(*)とすれ ばするほど死は遠ざかっていきました。私にはそれをつかむことがかないません でした。悩んだ末、私は主に申し上げました。「こんな基礎的なこともわからな いようでしたら、私はもう説教ができません。私はここではっきりとした確信を 持たなければならないのです」。何カ月も祈り求め、ときには断食もしましたが、 何も応えられませんでした。

 そしてある朝、そしてその朝を私は決して忘れることができません。私は座る と、みことばを開いて、もう一度申し上げました。「主よ、私の目を開いてくだ さい」。その瞬間、私がキリストと一つになっているのがわかりました。私は主 にあり、主が死なれたときに私も死んだのがわかったのです。私たちの古い人は 主とともに十字架につけられたのです。私にとってそれはまさに現実です。私は うれしさで興奮したあまり、この私の大発見を大声で叫びながら、上海の町中に 知らせて回りたくていられなくなったほどでした。

* セスナ注 「思う」の原語ならびに英語訳は「数える」または「計算する」。つまり 真偽を度外視して「思いこむ」のではなく、事実に基づき正確に事実を事 実として認識する行為。

たとえばローマ6.11のこの部分を直訳すると ・・・・自分は罪に対しては死んだものであり、神に対してはキリスト・イエス にあって生きたものだと、数えなさい(または「計算しなさい」)。

このあたりの訳語についてはニー兄弟の「キリスト者の標準」、 またはベック兄の福音カセット「イエスの救い」を参照されたし。


荒野の食卓                   ウォッチマン・ニー 3月5日

 世界中のどこででも、福音が宣べ伝えられる所なら、この人のし たことも語られて              マルコ14.9

 なぜ主はこう言われたのでしょうか。福音はこのような行動を引き起こすよう にできているからです。このためにこそ福音は存在します。福音は罪人を満足さ せるためにあるのではありません。神を賛美しましょう。罪人には罪人の果たす べき分があるのです。神は罪人の必要を満たし、祝福の雨を罪人に降らせてくだ さいます。しかしそれは福音本来の目的ではなく、福音の副次的な祝福と言える かもしれません。福音はまず第一に神が満足されるために宣べ伝えられなければ なりません。しかし私たちは次のことを忘れてはなりません。すなわち自分自身 を主に対して「消耗させる」ことなしに主は決して満足されないということです。 あなたはもう十分に主に捧げていますか。いいですか、神の奉仕において、消耗 の原理はすなわち力の原理です。神のみ手の内で真に役立つものは、その消耗の 度合いによって知られます。私たちの主に対する働きの源は主への献身であり、 またあらゆる働きの実も主への献身がもたらすのです。


荒野の食卓 ウォッチマン・ニー 3月6日

あの方はあなたのなすべきことを教えてくれましょう。 ルツ 3.4

イスラエル人はヨシュアの時代からキリストの到来まで、家の相続財産を守ら なければなりませんでした。それゆえヨベルの年を設けて、譲渡した財産を返還 したのでした。そして所有を継続するときには元の持ち主が相続人となることが 要求され、律法もまた夫が死に、未亡人になり、なお子供がいないとき、近親者 が彼女をめとり、家系を存続させることを求めていました。ナオミの場合はこの 条件に照らしてもさらに厳しいものがありました。彼女はやもめでしたが、もう 子供を生めないほど年を重ねていたのです。どうすれば死んだ夫の相続財産を再 興することができるでしょうか。ナオミの義理の娘ルツは心に決めたものがあり ましたが、彼女は外国人でした。年老いたボアズだけが助けになりうる近親者で した。ボアズは外国人を買い戻したりするでしょうか。なぜならルツの土地を買 い戻して(贖って)もらうだけでは役に立ちません。彼女は既婚者である必要が ありました。ルツはボアズに身を捧げなければなりませんでした。

自分自身を神に捧げることなしには贖い(買い戻し)は不毛で空疎なものにな ってしまいます。若い男たちの魅力に惑わされず、神の律法を全うしようとした ルツをボアズは当然のことながら褒めました。そして彼女の子孫を一瞥すれば、 実際に彼女がどれほど多くの報いを得たかがわかります。神への献身は豊かな報 いを伴います。


荒野の食卓                   ウォッチマン・ニー 3月7日

  わたしはあなたの、苦しみと貧しさとを知っている。 −−しかしあなたは実際は富んでいる。 黙示 2.4

 私たちが周囲を見渡したとき、とても多くのクリスチャンの体験に、悲劇的な 欠落が見受けられるのは残念でなりません。満たされた生活を送ろうという意識 がほとんど感じられないような気がします。彼らはめったに自分の必要を満たす ことができません。まして他の人に何かを取っておくことなどできません。なぜ 彼らはそんなに貧しいのでしょうか。聖霊の与える訓練が自分たちを何に導こう としているのかがわかっていないことが原因なのでしょうか。詩篇の作者は言い ます。「苦しみの中で、あなたは私を大きくされます」(詩篇4.1 J.N. ダービー訳)。今の貧しさの目的は永遠の豊かさです。困難と貧しさが無に帰す ことを神は決して意図しておられません。主の御目的は、すべての困難が拡大の 入口になることであり、すべての貧しさは豊かさに通じるようになることなので す。神の民への神の目的地は苦境の延長上にあるのでも、貧しさの延長上にある のでもありません。苦境や貧しさは決して目的ではありません。これらは単なる 神の目的のための手段にすぎません。苦境は拡張のための小道であり、貧しさは 富へ通じる小道なのです。


荒野の食卓 ウォッチマン・ニー 3月8日

また言われた。「事は成就した。わたしはアルフ ァであり、オメガである。最初であり、最後であ る。 黙示 21.6

「事は成就した」。とうとうついに神の永遠のご計画は実現したのです。では どのようにしてでしょうか。なぜみことばはこのように大胆に断言しているので しょうか。絶対間違いないことは主がアルファでありオメガであるからです。神 が御わざを始められ、主はそれを完成なさるのです。主は一度手掛けられたもの を完成させないではいられない方です。なぜなら主とはそういうお方だからです。 主は初めだけのお方ではなく、終わりでもあられます。ハレルヤ。私たちの神は アルファであられるのと同じようにオメガでもあられます。この事実は、主が私 たちに始められた御わざで未完成のまま放置されるものは何一つないことを確信 させます。神は人の無能力に、またサタンの敵意にじっと我慢させられることが できません。罪は私たちの手には負えません。しかし、主にとっては手に負えな いものではありません。主の御性質そのものである主の御名は、私たちへの御わ ざを最後まで完全に成し遂げてくださることの保証です。


荒野の食卓 ウォッチマン・ニー 3月9日

・・・・追求しているのです。そして、それを得るよ うにとキリスト・イエスが私を捕えてくださったので す。 ピリピ3.12

私たちの主人ほど多くの僕を抱えている主人はほかにいません。そして私たち の主人は一人一人にふさわしい仕事をお与えになっておられます。名もなき僕す らナアマンの必要が満たされるような進言を与えるために近くにおかれていまし た。私たちの多くは神が与えてくださった私たちの立場についてぶつぶつと不平 をもらします。これをしたいのに、神はあれを割り当てられます。ここで主に仕 えたいという抱負があるのに、神の私たちへのご計画はほかにあります。このよ うな明白なくいちがいに直面したとき、神の私たちに対するご目的を、私たちが 回心したときにまでさかのぼって思い出してみるのがいいでしょう。というのも 神はあらかじめ、私たちが生まれる前から、私たちを取り巻く状況を定めておら れたからです。神は決してその場の思いつきでことを行われません。神はずっと、 ずっと以前から用意しておられるのです。ですから神の召しについて、不平を言 う必要もなければ、それを誇る必要もありません。同様にねたまれるものもいま せん。なぜならほかの人々の優れたところも私たちには関係ないからです。私た ちが人生を振り返るとき、すべては神によって備えられていたものであることを 認め、屈服します。ですから私たちは捕らえ損なったと恐れるには足りません。 この確信を持つことこそ真の休息にほかなりません。


荒野の食卓 ウォッチマン・ニー 3月10日

しかし、あなたがたはわたしを見ます。わたしが生きる ので、あなたがたも生きるからです。 ヨハネ 14.19

ヨハネの福音書のいたるところから、最後の日々のためにヨハネは記している という事実をうかがい知ることができます。彼の力点は永遠のいのちに置かれ、 さらにあなたの正しいつながりに重きが置かれています。もしあなたがそこに立 ち返るならば、ほかのすべてのものは後からついて来るだろうと彼は暗示してい るのです。彼は外面的で世的なことにとらわれてはいません。彼のもっぱらの関 心はあなたがそれらのことをいのちの後ろに追いやるようになることなのです。 今、全ては荒廃しています。「天から下って来た」いのちに立ち返りましょう。 そしてあなたがそこへ立ち返ったときに、失いそうになっていたものも全て守ら れることでしょう。ある意味で、ヨハネはほかの新約聖書の記者が教えなかった ことを改めて提供するといったことを一切しませんでした。彼は私たちをより深 遠なところへと導きません。なぜならもっとも深い奥義は、もうすでに神によっ て解き明かされているからです。ヨハネに任された啓示の目的は、人々をよみが えりし主ご自身との生き生きとした交わりに招き入れることによって、彼らの本 来の目的に立ち返らせることにあったのです。


荒野の食卓                        ウォッチマン・ニー 3月11日

  彼女は「栄光はイスラエルを去りました。神の箱が奪わ れたから。」と言った。    I サムエル 4.22

 神の箱は奪われました。しかし神の箱は自己防御が可能です。神の箱を奪った ものは彼らが支払う代償がいかに高価であるかをすぐに思い知らされます。神の 箱は第一に神ご自身の性質の証しですから、汚れたイスラエル人は手が出せない でいたペリシテ人に何かして見せたのでした。神の栄光にふさわしい器を神は探 し求めておられます。しかしそうした器を主が見い出し得ないとき、主は自ら働 かれ、そうすることでご自身の証しをおたてになるのです。神は神の民に汚れが ある間は彼らの大義に決して手を貸さないことを全世界に示すために、あえて神 の箱が奪い取られることをお望みになったのでした。神の御性質と人の汚れは決 して結びつくことができません。ましてや主の約束の民にあっては。


荒野の食卓                    ウォッチマン・ニー 3月12日

  わたしは、あなたに天の御国のかぎを上げます。 マタイ 16.19

 ペテロによって、信仰の扉がまずユダヤ人に開かれ、やがては異邦人に 信仰の扉が開かれました。何がペテロに資格を与え、彼は主のみことばを 語る器となったのでしょうか。間違いなく、ペテロは話をする前に、まず 話しかけられていたのでした。ペテロは天の御国の鍵を使うようになる前 に、まず彼に対する天の御国の要求に応えなければなりません。

 御国とはいったい何を意味する言葉なのでしょうか。それは間違いなく 王の領土であり、王の権威の及ぶ領域です。このあとすぐ、山上の変貌の とき、ペテロは、主の横にモーセとエリヤのための場所を用意しましょう かと、すばらしい提案をしました。しかし御国ではそれができません。ほ かにもう一つの権威を持つことは許されません。そこにはたった一つの声 があるだけです。御国においては王ご自身が語られることと、王の言葉に 私たちが注意を向けるというこの二つにすべてがかかっていることを明ら かにするために、「彼がまだ話している間に」父なる神が割り込んで叱責 されたのは、この課題のまさに重要な点なのです。


荒野の食卓 ウォッチマン・ニー 3月13日 あなたがたの教師はただひとりしかなく、 マタイ 23.8

あらゆるキリストの「弟子」は、字義とおり見習いですから、この状態に とどまっていなければなりません。ほかの人々の「教師」に祭り上げられる と、あなたは背伸びをし、純朴な聖徒たちの心に問題を引き起こすだけの結 果になるかも知れません。「私は知っている」という自信過剰から生じた優 越感が心の戸を閉ざしてしまう結果になるのです。 あなたは心して次のように言わなければなりません。「私にはわかりませ ん。神がまだ私にそのことをお示しになっておられないのです」。偉大な知 識を信奉しなさい。そうすればあなたは何に対しても批判的になります。し かし次のような態度を取る働き人に人々はよそよそしくはしないのです。 「もしあなたがなにかおっしゃりたいのでしたら言ってみてください。喜ん で伺いましょう。私もまた主の弟子なのですから」。

「私の兄弟たち。多くの者が教師になってはいけません」とヤコブは言っ ています。ですからずっと見習いの状態でいるように、私はあなたに忠告し ておきます。


荒野の食卓 ウォッチマン・ニー 3月14日

キリストこそ私たちの平和であり、二つのものを一つにし、 隔ての壁を打ちこわし エペソ 2.14 七重の撚り糸のように、聖霊の一致は世界中至るところの信者を結びつけ ます。どんなに信者の性質や置かれた環境が多種多様であったとしても、内 住の主なるお方が与えてくださる至上の一致を自分のものにするならば、信 者を引き離すことがでるものは何もありません。 私たちの一致の土台は、私たちが一致の真理を正しく理解することに基づ くのでもなければ、私たちの一致を否定する可能性のある全てのものから離 れていることでもありません。主の十字架によってもたらされ、そして内住 の主の御霊によって私たちの体験の中に形造られた一致。それは全面的に私 たちとキリストとの一致という実際の事実にかかっています。これ以上に堅 固な基礎はありえません。


荒野の食卓 ウォッチマン・ニー 3月15日 ハンナは祈って言った。「私の心は主を誇り、」 サムエル 2.1

普通に考えれば、これはハンナの人生でもっとも悲しい瞬間であったに違 いありません。彼女は幼い息子に別れを告げねばならなかったからです。し かし私たちはここに悲しみのあとも自己憐びんの形跡も見つけることができ ません。

そのかわりここには全てを主に捧げたものに訪れる比類のない喜びが彼女 の心からあふれ出て、それを表現しているのを見出だすのです。ハナにとっ ては、主の要求権に関する、まさしく魂の訓練だったように思われます。彼 女は自分の生活でもっとも愛すべきものを主の要求に応じて捧げました。サ ムエルが生まれる前に、彼女は神に誓いをたてていたのでした。息子の幼少 時代、彼女はこのときのために備えていました。サムエルが乳ばなれした今、 ときは至り、彼は神の許に帰されました。母親は今まで味わったこともない ような喜びに満たされました。

全てを委ねたものの喜びでした。ハンナの歌は、何百年もあとにマリアが そこから霊感を受けたのですが、勝ち誇ったような喜びを表現しています。


荒野の食卓 ウォッチマン・ニー 3月16日 あなたのおことばどおりこの身になりますように。 ルカ 1.38

処女マリヤの内で、生ける言葉を送られた神のご計画が成就するには、生 ける言葉が自由に働けるようになることがどれだけ必要なことだったでしょ うか。神は語られました。そして彼女の信仰がそれに応じたからこそ主の奇 跡は行われたのです。しかし何と私たちの多くは正統的な教義を信奉してい ればそれで十分と思い込み、真理のみことばに対していいかげんな思いで同 意しているだけなのでしょうか。しかし真理が内面で働かなければ、真理に 対して同意していても反対していても実際は大差がないのではありませんか。

違いは真理が生活の一面を変化させながらが生きたものとして働き始めた ときにようやく現われます。真理が心の内側で働くことをまだほとんど体験 していないのに、聖書についての該博な知識をため込むことは悲劇です。神 の偉大なご計画の中で、私たちが用いられるためには、神のみことばが個人 的に与えられたときに、単なる頭の知識としてではなく、私たちの心でそれ を受け留めることがどうしても必要です。私たちもマリヤのように祈れます か。


荒野の食卓                      ウォッチマン・ニー 3月17日 私の仕えている神             使徒 27.23

 私はもはや私のものではなく、主のものであることを最初に発見したとき、そ れはもう大事件でした。ポケットに入れたお金が私のものなら、それをどうしよ うと私の勝手です。しかしそれがもし別の人から預かっているものだとしたら、 自分の気に入ったものをそのお金で買うわけにはいきませんし、わざわざ使おう と言う気持ちにもならないでしょう。自分たちの時間、お金、才能は実は主のも のであって自分たちのものではないという認識のもとに、それらを使いたくても あえて使わないでいるような者は私たちの中で何人くらいいるでしょうか。私た ち自身が別の人に属している者だという強い認識のもとで、一円たりとも無駄に しない、あるいは一時間たりとも時間を浪費しない、知力あるいは労力を一切無 駄にしないという意識を持つ者が私たちのうちで何人いるでしょうか。私たちは 神に対して生きている者です。自分に対して生きてはいません。本当のキリスト 者の生活はここから始まるのです。


荒野の食卓                      ウォッチマン・ニー 3月18日   こういうわけですから、キリストが神の栄光のために、私たち を受け入れてくださったように、あなたがたも互いに受け入れ なさい。  ローマ 15.7

 教会生活に関する異なった見解を表したこの箇所は「神がその人を受け入れて くださった」(ローマ14.3)というみことばに始まり、「キリストが・・・ ・私たちを受け入れてくださった」(15.7)という力強さにおいて引けを取 らない言葉で終わります。ここには私たちがほかの人々と交わるうえでのすべて の基礎が記されています。つまりほかの人々は主に属し、私たちも主に属してい るということです。それがすべてです。

ところがあなたが私に会うと、たいていは意見が一致しない問題について議論 してしまう。私たちがともに仕えている主について語り合うかわりに、私たちの 違いという否定的な次元に話題を転じ、その違いのうちどれが正しくどれが間違 っているかを力説するのです。引用した聖句にも「違い」は満ちていますが、パ ウロは誰が正しいかは教えていません。というのも彼はキリストの交わりに入れ られて、人間の見方が正しいか間違っているかどうかはキリストの交わりにはど うでもいいことだからです。

問題は別の人が自分と同じように信じているかどうかではなく、私がした経験 と同じ経験をしているかどうかでもありません。

たった一つの問題は、神がその人を受け入れてくださったかどうかなのです。 もし受け入れてくださったなら、私もその人を受け入れます。


荒野の食卓                         ウォッチマン・ニー 3月19日  律法によらない では、私は罪を知ることがなかったでしょう。 律法が、「むさぼってはならない。」と言わなかったら、私は むさぼりを知らなかったでしょう。 ローマ 7.7

 神は私が何者であるかをご存知です。私のてっぺんから爪先まで、罪に満ちて いることを神はご存知です。主を喜ばせようとしても、私は肉の弱さを持ったも ので、何もできないことを主はご存知です。ただ問題は私がそのことに気づいて いないことにあります。すべての人は罪人ですから、私も罪人だということを私 は受け入れていますが、ある人々のように自分もどうしようもない罪人だとは考 えていません。私は弱いものであるということに同意する一方で、完全にそれを 信じてはいませんので、神は何かを用いて、私にありのままの姿を認めさせなけ ればなりません。神が私たちに律法をお与えになった理由はそこにあります。な ぜなら私たちが律法の要求に応じようとすればするほど、私たちの破綻は明らか にされます。パウロは−−むさぼってはならない−−という文言に始まる律法を 通して真に自分自身を知るようになったのでした。残りの律法でパウロがどのよ うな経験をしたかはいざ知らず、彼の正体を明かるみに出したのは10番目の律 法で、文字通り訳せば、「あなたは欲しがってはならない」でした。この律法に よってパウロは聖い神と向かい合うことになりました。


荒野の食卓 ウォッチマン・ニー 3月20日 神はご自分の御子を、・・・・お遣わしになり、肉において罪 を処罰されたのです。それは、肉に従って歩まず、御霊に従っ て歩む私たちの中に、律法の要求が全うされるためなのです。 ローマ 8.3以下

御霊に従って歩むとは何を意味するのでしょうか。それは二つのことを意味し ています。第一にそれは労働ではなく、ただ歩くことです。神を賛美しましょう。 神を喜ばせようとして「肉に従って」いたときの辛く実を結ばない努力は、いま や「私たちのうちに働く力」に対するおだやかで実り豊かな信頼に取って変わり ました。ガラテヤ書でパウロが肉の行いと御霊の実を対比させた理由がここにあ ります。

二番目に、「従って歩む」とは「後をついて行く」ことです。それは従属関係 をほのめかしています。つまり先頭は御霊ではないのですか、と。御霊に従って 歩むとはあらゆるものが御霊の支配下にあることを意味します。これからは人生 の主導権を御霊様に握っていただかなければなりません。ところで御霊に従って 歩む者に一つだけできないことがあります。それは御霊の前を走ることです。


荒野の食卓                    ウォッチマン・ニー 3月21日   見なさい。耐え忍んだ人たちは幸いである    ヤコブ 5.11

 神が人に働かれるとき、神は彼を整えた場所にみちびくまでは放すことをしま せん。ヨブへの働きかけにおいては、神はいかにも徹底したものでした。最初に 神はヨブの全家畜の命が奪われることをお許しになりました。そして彼の家畜と 牧童の群は灰燼に帰したのでした。次に息子と娘たちが死にました。それから 「足の裏から頭の頂まで、悪性の腫物」に覆われて横たわり、抗議していたとき は、彼の試みはまだ終わってはいませんでした。しかしヨブが神へ完全に服従す る中、彼の抗議が沈黙し、神が自由にお語りになるその日がやってきました。そ してついにヨブの試みは最終的な勝利に終わったのです。ヤコブはこれについて 「主が彼になさったことの結末」と言及しています。つまりこれによって明らか なことは、重要なのは私たちの試練の数ではなく、試練を通して神の目標に到達 することなのです。


荒野の食卓 ウォッチマン・ニー 3月22日

あなたに1ミリオン行けと強いるような者とは、いっし ょに2ミリオン行きなさい。 マタイ 5.41

中国南部に住む兄弟が、岡の中腹に水田を持っていました。乾季には足踏み式 の水車を使って、用水路から自分のたんぼへと水をくみあげるのでした。彼の隣 人は彼のたんぼの下に2枚たんぼを持っていました。ところがある夜、その隣人 は境界の土手に穴を開け、兄弟の水田の水を残らず引き込んでしまいました。兄 弟は穴を塞ぎ、新たに水をくみあげましたが、隣人はまたも同じことをやっての けたのでした。そうして3回か4回同じことが繰り返されました。そこでその兄 弟は別の兄弟たちに相談したのです。「私は辛抱して復讐しないようにとつとめ てきましたが、それでよかったのでしょうか」と彼は言いました。

全員で祈った後、兄弟のひとりが意見を述べました。「もし私たちが単に正し いことをなそうと努めているだけなら、それはとても貧しいキリスト者と言わな ければなりません。私たちは、正しいこと、以上のことをするようにつとめなけ ればなりません」。

兄弟は非常に心を動かされました。次の朝、兄弟は下の2枚のたんぼに水をく みあげました。そして午後からは自分のたんぼに水をくみ上げました。それ以来、 兄弟のたんぼの水は張られたままになりました。隣人は兄弟の行動に驚嘆し、そ の理由を、時が来て自分がキリスト者になるまで、詮索するようになったのでし た。 「正しいか、正しくないか」は異邦人と取税人の法則です(46節)。その法 則ではなく、神への服従が私たちの生活を支配しなければなりません。


荒野の食卓 ウォッチマン・ニー 3月23日 生きるにしても、死ぬにしても、私たちは主のものです。 ローマ 14.8

キリスト者としての技術的な側面を強調するのは絶対に避けるべきです。そう ではなく私たちはキリストのものであるという基本的な事実をいつでも強調する べきなのです。そして私たちのなすことは全て、主に対してなされるのです。私 たちは「主に対して」生き、「主に対して」死にます。単に私たちの判断や行動 のゆえに私たちと意見が衝突する人々を無理に説得しようとしてもだめです。私 たちの一つの目標は、彼らをより主の近くに導くことでなければなりません。で すから私たちは表面的な正しさのために働くのでも、何か良いことを共有するた めに働くのでもありません。神ご自身とのより深い交わりのために働くのです。 私と全然違った考え方をする兄弟がいたとします。その人と私のしていることが、 神に対して為されているかが私の一番の関心事となりますように。そこに私たち の目標が置かれているならば、たとえ表面的には異なるものがあったとしても、 私たちの間は全て良好と言っていいのです。イエス・キリストの主権はキリスト 者であることの中心点です。もしイエス・キリストがあなたの主であり、イエス・ キリストが私の主であるならば−−実際その通りなのですが−−、そのとき主ご 自身が、ほかのことも調整してくださるのです。


荒野の食卓 ウォッチマン・ニー 3月24日 途方にくれていますが、行きづまることはありません。 II コリント 4.8

私が回心した日から、私の心からの望みは真のキリスト者になることでし た。もちろん私にはクリスチャンはかくあるべしという自分の考えがありま した。そしてそのようなキリスト者になろうと全力を尽くしたのです。私が 考えていた真のキリスト者とは、なんと、朝から晩までにこやかな顔をして いなければなりませんでした。涙を流しただけで、その人はもう勝利から転 落したのです。加えてキリスト者たる者、常に勇敢でなければなりません。 わずかな恐れの兆候も、主への信頼が致命的に足りなかったことを表わして いるのです。つまりその人は私の基準にはるかに及ばなかったことになりま す。

しかしやがて私は学びました。キリスト者の生活はまったく違うものでし た。それは、弱さの中の力、苦しみのさ中の喜び、疑いと隣り合った信仰に よる勝利、といった矛盾に満ちたものなのです。主にあってキリスト者がも っとも強められているとき、彼はしばしば自分の能力のなさを意識していま す。キリスト者がもっとも勇敢なとき、彼は内に恐れを深く抱いているかも 知れません。そして彼が喜びの絶頂にあるとき、再び不安が彼をあっけなく 沈めてしまうかも知れません。彼を高きに引き上げるのは「この測り知れな い力」あるのみです。


荒野の食卓                       ウォッチマン・ニー 3月25日

  隠れた所におられるあなたの父に祈りなさい。そうす れば、隠れた所で見ておられるあなたの父が、あなた に報いてくださいます。  マタイ 6.6

 自分たちの働きに注意を引こうと工夫する必要はありません。神の至高の摂 理の中で、やすやすと神が責任を引き受けてくださいます。私たちは生活上の ことで神に信頼しています。しかし人に教える何かがあるのでしょうか。神の 僕たちが、自分は信仰によって生活していると強調するのを聞くと、私は不快 になります。私たちは本当に神の法則を信じ、神の摂理を信じているのでしょ うか。もし信じているなら、主が私たちの必要をその聖徒たちに間違いなく示 してくださることを信じられるでしょう。そして私たちが彼らにはっきりとし た意志表示をしないでも、それらが備えられるように神がはからってくださる ことをも信頼できるでしょう。たとい、私たちの生活様式から私たちには隠れ た収入があると人々が結論し、その結果彼らが援助を渋ったとしても、気にす ることはありません。私は自分たちの個人的な必要ばかりか、神への信仰につ いても黙っているようにと私よりも若い兄弟に忠告したものでした。そうすれ ばよりよく神を立証することができるでしょうから。信仰があればあるほど、 それについての発言は少なくなるものです。


荒野の食卓 ウォッチマン・ニー 3月26日

湖に行って釣りをして、最初に釣れた魚を取りなさい。その 口をあけるとスタテル1枚が見つかるから、それを取って、 わたしとあなたの分として納めなさい。 マタイ 17.27

この恵みに満ちた奇跡は、確かにペテロへの訓話として語られなければならな かったのです。それと同時に、私に対する、そしてあなたに対する訓話として。 この記事は主がご自身のために奇跡を行われた唯一の実例であることを指摘する 人々もいます。なるほど、しかし半分だけが主のためのもので、あとの半分は、 ペテロのための奇跡でした。もっともここにあなたや私は「自分のための」と付 け加えていいのです。一枚のスタテルのおかげで、二人分の宮の納入金は満たさ れ、すばらしいことに私たちは、僕とその主人との深い内面的な交わりを体験す るようになったのでした。

そして奇跡に用いられた魚はなんなのでしょう。わたしたちが神の御心に関し て正しい基準に立っているとき、費用は神ご自身が面倒見てくださるということ を、その魚は保証してくれているのでしょうか。いつだって愛は義務に先行しな ければいけません。そのとき私たちは主が費用を調達してくださることを期待し てよいのです。


荒野の食卓 ウォッチマン・ニー 3月27日

家は香油のかおりでいっぱいになった。 ヨハネ 12.3

主のために壷は砕かれ、そのベタニヤの家庭は甘いかおりに包まれました。全 ての人が高められるようにと、何かが解き放たれました。しかし誰もそのことに 気づくことができませんでした。これは何を意味しているのでしょうか。

あまりにもひどく苦しみ、主お一人のほかに満足を見出だせないという状況に 追い込まれた人とあなたは今までに出会ったことがありますか。出会えば、何か にすぐに気づいたはずです。すぐにあなたの霊はかおり−−パウロの用語では 「かぐわしいキリストのかおり」−−を感じます。神ご自身の内にあるものを開 放するために、彼の生活の中の何かが砕かれたのです。そしてあなたはそれを見 誤るはずがありません。そうです。その日、ベタニヤの家を満たしたかおりは、 今日も教会を満たします。マリヤの香油のかおりは決して消えゆきません。


荒野の食卓 ウォッチマン・ニー 3月28日

かつては人間的な標準でキリストを知っていたとしても、 今はもうそのような知り方はしません。 II コリント 5.16

「週の初めの日に、マグダラのマリヤは朝早くまだ暗いうちに墓に来た。そして、 墓から石が取りのけてあるのを見た」。しかしマリヤには空っぽの墓だけでは十 分ではありませんでした。彼女は主の御身体を見たいと思いました。「どこに置 いたのか、私にはわからないのです」とマリヤは御使いに叫びました。そうして、 振り向くと、マリヤがよく知っている主を見たのです。しかしマリヤはイエスを 見知らぬ人と取り違えてしまいました。あなたは神の啓示の必要性を疑いますか。 それならよく考えてごらんなさい。

つまりここには大切な原則があります。「人間的な標準」のキリストは十字架 に付けられてしまったのです。このような標準で主を知ろうとすることは、死体 を空しく探し求めることで終わることができました。マリヤはあまりにも没頭し ていたので、そこに立っておられる主を見ましたが、主ではないと思ってしまっ たのでした。彼女の能力は確実にはまだ改まっていなかったのでしょうか。そう です。偉大な力でよみがえり、主の栄光を再び現わされるのは主です。そして主 が変わられたので、主を知る方法も必然的に変化したのです。主の語りかけを通 して始めてマリヤは主であることがわかりました。そしてあらゆる啓示はただこ のようにしてのみ現わされるのです。あなたはこの認識の内なる確信を人間の言 葉を用いては簡単に説明できません。あなたは、ただわかっている。それで十分 です。

マリヤは泣きました。死体を探し求めているとき、主を見間違えました。私た ちの多くも涙するべきことがあります。私たちは八方塞がりで、どこにも脱出す る道がありません。しかしそのとき、すぐ近くで声がするのを聞きます。「マリ ヤよ」−−そして見よ。私たちの前には、見失ってしまったと思っていたあの方 が立っておられるのです。


荒野の食卓                        ウォッチマン・ニー 3月29日   ですから、神の右の手に上げられたイエスが・・・・この聖霊を お注ぎになったのです。          使徒 2.33

 奉仕するための聖霊の力は、どのようにしたら受け取れるのでしょうか。努力 すればいいのでしょうか。神に嘆願すればいいのでしょうか。断食と自己否定に よって魂を苦しめるべきでしょうか。決してそうではありません。そんなことを 聖書は教えていません。おさらいしてみましょう。私たちはどのようにして罪の 赦しを受けましたか。それは主の恵みの富によるものであり、その恵みは「神が その愛する方によって私たちに(* ただで)与えてくださった」とパウロは私 たちに教えています。私たちはその恵みに引き合うことを何一つしませんでした。 私たちは主の血潮を通して贖われましたが、それはつまり、主が為してくださっ たことに基礎を置いているのです。それでは、御言葉によると、聖霊があふれ出 る基礎とは何なのでしょうか。答えは主イエスが高く引き上げられたことです。 主が十字架上で死んでくださった故に私の罪は赦されました。主イエスが玉座に 引き上げられた故に、私は上からの力に与かっているのです。 * 英訳聖書


荒野の食卓 ウォッチマン・ニー 3月30日

「誇る者は主にあって誇れ」と書かれているとおりになる ためです。 I コリント 1.31

ある箇所でパウロは自らを「キリストの律法を守るもの」と言っています。こ れは、あなたや私が必死になって律法を守ることをまったく意味していません。 私たちもそれがどこで終わったかをよく知っています。そうではなく、律法を守 るようにキリストの力が私たちの内に働いてくださることを私たちが証しするこ とを意味しています。そこに非常な違いがあるのです。こうした主への依存は私 たちの内にはひたすら深い謙遜をもたらします。間違いなく神がもたらすひとつ ひとつの恵みによって、私は謙遜にさせられます。私がなにかをやり遂げて、誇 りを感じようでもすれば、自分の努力の結果だから誇るのは当然だと思い込むか も知れません。自分でやらなかったものには全然誇りなんか持ちそうもありませ んから。つまり誉れを得る者は、働きをする者です。神に全ての栄光が帰されな ければなりません。だから主は全てのことを為すと宣言されるのです。私の分担 は、主が私に働いてくださることを喜び、確実に主に賛美を捧げる、ということ です。


荒野の食卓 ウォッチマン・ニー 3月31日 昔書かれたものは、すべて私たちを教えるために書か れたのです。 ローマ 15.4

キリスト者の信仰は、指針のほかに実例という土台の上に建て上げられていま す。神の指導法の一つは歴史です。歴史は人々がどのように神の御心を知り、そ れを実行したかを教えています。そして、彼らの生き方を観察すると、私たちに 対する神の御心を発見することができるばかりか、私たちがどのように行動した らよいのかも知ることができるでしょう。人々の生活をおおった主の御手は、 主の願望を提示しました。そして主は私たちに銘記するように命じられます。そ うすれば神が私たちの内でどのようなことを為そうとご計画しておられ るのかがよりよくわかるでしょうから。

どのようにするべきか、あらゆることについてのはっきりと指図が子供には必 要でしょうか。あらゆる項目について、許されているか、許されていないかがは っきりと決められるべきでしょうか。子供はただ両親を見て学んでゆく、それで は不十分なのでしょうか。私たちは聞いたものよりも見たたものによって、容易 に学ぶことができます。そして印象もその方が深いのです。なぜならもちろん指 針は抽象的であるのに対し、実例は手を取るように、しかも手早く教えてくれま す。原則的に、神の方法は聖書の時代と現代で違いはありません。御言葉の示す 忍耐と慰めによって私たちも希望を持つことができるようにと、神は新約そして 旧約聖書を通して私たちにたくさんの歴史をお示しになりました。