荒野の食卓

                                     ウォッチマン・ニー
2月1日
  いつも喜んでいなさい。・・・・すべての事について、感謝しなさい。
                                        I  テサロニケ 5.16,18
  どうしてこんな事ができるのでしょう。どうやって困難のさ中に喜ぶことがで
きましょう。その喜びとはいったいどこから来るのでしょうか。私たちはその喜
びを作り出すことができません。というのは私たちが喜びを持たなければ、喜べ
ないからです。しかし他のところでパウロは秘訣を教えています。私たちは主に
あって喜ぶことができます。私たちは主の喜びによって生きることができ、あな
たや私がたとい絶望していたとしても、主は聖霊によって喜びあふれ、次の勝利
に満ちた言葉を語られます。「父よ、これがみこころにかなったことでした」
(ルカ 10.21)。主の喜びはあなたの喜びです。あなたは困難の真上にあ
る喜びによって生きる訓練をするべきです。気が塞ぎがちになるとき、主を見上
げ、今日は主は喜びを失われたのだろうかと、自問しなさい。主だけが喜びに満
たされているのなら、あなたは喜びのない状態を楽しんでいるのではありません
か。
といっても問題はあなたの喜びはなく、主の喜びです。主の喜びはあなたの力だ
からです。


荒野の食卓 ウォッチマン・ニー 2月2日

私をおおいに祝福し、・・・・わざわいから遠ざけて私が苦しむことのないよ うにしてくださいますように。 I 歴代誌 4.10

祝福の生活がキリスト者の正常な生活であるべきです。祝福の流れを妨げるよ うなことが一つでもあってはなりません。もし祝福が途絶えるならば、原因があ ります。その説明を外的な要因に求めても見出だすことはできません。あるとき 私はあるひとりのキリスト者の働き人を注意して見るようになりましたが、彼は 別のもう一人とうまくいっていなかったのです。自分は正しかったとする彼の主 張に私は耳を傾けましたところ、実際彼の言っていること、してきたことは間違 っていませんでした。しかし私はひそかに考えました。『兄弟。あなたは完全に 正しいかもしれない。しかし私たちの正しさに主の祝福が欠けていたら、いった いそれが何の役に立つというのでしょう』。 神の働きにおいて、神の祝福がなくなったときにすべての事は失敗します。主 のみ心を知ろうという思いが与えらるなら、私たちの発する言葉、すべての生活 様式には制限が設けられていることを知るべきです。正しさは私たちの目標では ありません。私たちの行動の判断基準は「正しいか、間違って いるか」ではなく、 常に「神の祝福がそこにあるか」だけなのです。


荒野の食卓 ウォッチマン・ニー 2月3日

エサウはヤコブの兄ではなかったか。−−主の御告げ。−−わたしはヤコブを 愛した。 マラキ 1.2 神はほんとうに「わたしはヤコブを愛し、エサウを憎んだ」と言われました (ローマ 9.13)。主はその愛する者を祝福されます。これは非常に厳粛な 事実です。ダビデは失敗し、アブラハムは何回も判断を誤り、イサクは弱く、ヤ コブはずるがしこい男でしたが、これら全員の上に神の祝福がありました。現在、 あなたはヤコブよりもずっといい人かも知れません。しかし神の恩恵がないなら、 あなたの立場はどうなるのでしょうか。神の祝福を非常に重んじることを、そし てあなたから祝福を奪うあらゆる物を疑いの目をもってよく調べることを学びな さい。もしかするとあなたは自分より劣った賜物しか与えられていない兄弟を軽 蔑するようになっていたかも知れません。しかし神はそのような人を祝福なさっ ています。あなたはいかがですか。あなたは正しい行いを繰り返し繰り返しして きましたが、神の祝福は止められたままでした。神は間違っているとあなたはお っしゃいますか。神の選択に腹を立てるのは危険です。別の人の召命を妬むこと は自分自身の召命に壊滅的な害を与えることになり得ます。私たちが神に対して 実を結ぶことは神の祝福にかかっていますが、私たちの話、態度、意見がその祝 福の流れを止めるのはまたおおいにあり得るのです。神に信頼して私たちを取り 扱っていただきましょう。主の祝福がなければ、私たちは生きられないのですか ら。


荒野の食卓                 ウォッチマン・ニー 2月4日 この世の取るに足りない者や見下されている者を、神は選ばれました。                       I コリント 1.28  全宇宙で平等を生み出すもっとも偉大なものは十字架です。十字架は私たちす べてのものをゼロにします。十字架は全人類に新しい始まりを提供します。早く 成長するクリスチャンと成長の遅いクリスチャンの違いは、前者の信仰と服従か ら生じるのであって、決して生まれつき持っているものによるのではありません。 神が用いるにはあまりにも強く、人目に付きすぎるものがたくさんあります。そ れにひきかえ主は弱く見下されたものを選ばれるにとどまりません。神は人の目 には弱く、見下されるような者を用いるために選ばれたということを、この使徒 はどのように説明したらよいのかわからず、途方に暮れているように思われます。 彼は引用した聖句の中で、彼らのことを「取るに足りない者」と結論づけました。  あなたもその部類にはいるのでしょうか。絶望しないでください。他の人々と 比べて負い目を感じているうちは、あなたは本当は彼らよりも優位に立っている のかも知れません。少なくともあなたはすでにゼロになっていますから、神の出 発点はもうそんなに遠くはありません。ただ神を信じ、従いなさい。


荒野の食卓                       ウォッチマン・ニー

2月5日

 アブラハムは神に祈った。神はアビメレクとその妻、および、はしためたちを いやされたので、彼らはまた子を産むようになった。 創世記 20.17  この神の人は、妻に関することで祈りの答えがまだ与えられていないときに、 ほかの人々に子どもが与えられるようにと祈ることができたのは、この人物の霊 的な生活の有力な証左です。彼はアビメレクのために取りなし、神に聞き届けら れたのです。  半分うそをついて、サラを自分の妹と言うようなアブラハムの逆戻りを理解す るのは、特に神との深い交わりはその事件に先立っていたことも考えると、難し いことです。しかし今回の彼らの間での取り決めはまさしくメソポタミアまでさ かのぼることを彼は明らかにしています。隠れた不信仰と恐れの根はこれらの年 月ずっと残存し、そして今やついに光に出されました。さすらいの旅に出たとき、 アブラハムはサラが自分から離れていってしまうのではないかと恐れを感じてい たようです。すくなくともこのときまでに神が全責任を負ってそれが起こらない ようにしていてくださるのを彼は悟るべきだったのです。  そしてついにここゲラルにおいて、胸中に潜んでいた恐れが白日の下に引きず り出され、一掃されることになったのです。そしてアブラハムはほかの人々のた めに自由に祈れるようになりました。彼はサラのためには祈りませんでした。も はや彼にはそうする必要がありませんでした。この直後、イサクは生まれたので した。


荒野の食卓                     ウォッチマン・ニー 2月6日

 「それはわたしです」と言われたとき、彼らはあとずさりし、そして地に倒れた。                     ヨハネ18.6

 明日はカルバリという晩、すべては悪い方へと向かっているように思われまし た。密告や否認の憶測は飛び交い、人々は隠れ、あるいは逃げたい一心で裸で走 り去っていきました。しかしイエスを連行しようとしてやってきた者たちに向か って主はいたって穏やかに、そして静かに答えられました。「それはわたしです」。 どぎまぎし、後ろへ倒れたのは彼らの方でした。この内面の平安はいつでも主の 特徴でした。主は嵐のさなかにも眠ることができました。こらえきれずに押し迫 る群衆の中で、信仰によって触れた者を主は心に留めて、わたしに触ったのは誰 かと尋ねることがおできになりました。「わたしの平安」と主は命名されました。  この平安を「わたしはあなたがたに残します」と主は言われました。主はそれ を取り去りませんでした。なぜなら主はここにおられるからです。いにしえの殉 教者もまた同様にそれを表明しました。彼らは拷問を受け、あるいは火で焼かれ たかも知れませんが、彼らは自分自身に対して何人も否定し得ない静かな尊厳を 有していました。そうです。私たちはどこへ行っても問題に巻き込まれるでしょ う。しかし私たちにはまた主の平安があるのです。それはパウロが断言している とおり、人知をはるかに越えているのです。


荒野の食卓                     ウォッチマン・ニー 2月7日

 わたしは、あなたがたに平安を残します。わたしは、あなたがたにわたしの平 安を与えます。       ヨハネ 14.27  平安ではなく、「わたしの平安」が問題なのです。神は平安を与えてください ましたが、そればかりでなく、「神の平安」、すなわち神の深い静謐は私の心を 守ってくだいます(ピリピ4.7)。物事がうまく行かないとき私たちは困難を 感じます。しかしほかの何かを悟りたいものです。神はご自身で中心的になそう とされているご計画の舞台としてこの世界をお選びになりました。主は明確なご 目的を持っておられました。そこへサタンが入ってきてじゃまをしましたが、そ れにもかかわらず(私たちは聖書の言外の暗喩についてほとんど何も悟っていま せん)、主は何にも動じない深い平安を持ち続けられます。主はそれが必要とさ れるならばもう1000年お待ちになることも辞されません。それが私たちに与 えられている平安なのです。  パウロは神の平安は私の心の砦であるべきだあると言います。それはどういう 意味でしょう。それはつまり敵が私に届こうとするならば、まず砦を突破しなけ ればならないという意味なのです。私の心が触れられる前に砦が打ち破られねば なりません。ですから私はどうしたって神と同じように平安でいられます。 というのも神の平安−−つまり神を守っている平安−−が私を守っているからで す。


荒野の食卓                  ウォッチマン・ニー 2月8日

 キリストは来ようとしていることがらの大祭司として来られ、・・・ご自分の 血によって、ただ一度、まことの聖所にはいり、永遠の贖いを成し遂げられたの です。 ヘブル9.11〜12 もし私がキリストの血の価値を正しく理解しようとするならば、神の血潮に対 する判定を受け入れなければなりますまい。というのは血は元来私のためのもの ではなく、神のためのものだからです。「贖罪の日」の記事ほどこの事実をわか りやすく説明しているものはありません。レビ記16章を読むと、その日どのよ うにして罪のいけにえから血が採られ、至聖所に運ばれ、7回主のみ前で振りか けられたかがわかります。いけにえはもちろん幕屋の中での、そして衆前での公 の行事でした。しかし聖所そのものには大祭司以外誰も入ることが許されません でした。ただ一人大祭司は、血によって恩恵を被る人々の目の届かない神のみ前 で、贖いの血を振りかけました。私たちは次このことについてはっきりと確信し ていなければなりません。キリストの尊い血潮は第一に、人ではなく、神のため のものと理解されるべきだということ。聖く正しい神はその血潮を受け入れられ、 ご自身満足されたと宣言なさいました。そして私たちの血潮の正しい理解はこの 意味深い事実に由来するのです。


荒野の食卓                  ウォッチマン・ニー 2月8日

 キリストは来ようとしていることがらの大祭司として来られ、・・・ご自分の 血によって、ただ一度、まことの聖所にはいり、永遠の贖いを成し遂げられたの です。 ヘブル9.11〜12 もし私がキリストの血の価値を評価しようとするならば、神の価値判断を受け 入れなければなりますまい。というのは血は元来私のためのものではなく、神の ためのものだからです。「贖罪の日」の記事ほどこの事実を実例で明白に表して いるものはありません。レビ記16章を読むと、その日どのようにして血が罪の ためのいけにえから採られ、至聖所に運ばれ、そこで7回主のみ前で振りかけら れたかがわかります。いけにえはもちろん公の行事であり、幕屋のあるところを 人々が取り巻いていました。しかし聖所そのものには大祭司以外誰も入ることが できませんでした。ただ一人大祭司は贖いによって恩恵を被る人々の目の届かな い神のみ前で贖いの血を振りかけました。私たちはこのことについてはっきりと していなければなりません。キリストの尊い血潮は第一義に人ではなく神のため のものであることを理解するべきです。聖く正しい神はその血潮を受け入れられ、 ご自身満足されたと宣言なさいました。そして私たちが捉えた血潮の価値はこの ことから深遠な事実であると思われます。


荒野の食卓 ウォッチマン・ニー 2月9日 恵みとまことはイエス・キリストによって実現したからである。 ヨハネ 1.17 この声明はこの後のヨハネの福音書全体にとっての鍵となるものです。まさし くその鍵によって、あなたは一方のまことと、もう一方の恵みが等しく二重に強 調されていることに気がつくでしょう。まことはいつでも要求を喚起します。そ して恵みは要求に対抗するためにいつでもそこに存在します。8章に記載された 姦淫で捕らえられた婦人の記事で、まことは外へと輝きを放っています。主は婦 人に「いいのです。あなたは罪を犯しませんでした」とはおっしゃいませんでし た。主はユダヤ人たちに、彼女がやったことはどうでもいいことで、私自身たい して気にもしていない、とも言いだしませんでした。断じて。主のことばはこう でした。「あなたがたのうちで、罪のない者が、最初に彼女に石を投げなさい」。 まことはそこに存在します。彼女はほんとうに罪を犯したのであり、律法によれ ば石打ちにされなければいけないのです。しかしそこにまた恵みが存在します。 みなが離れていった後で、主は彼女に身を起こして言われました。「わたしもあ なたを罪に定めない」。ヨハネの福音書全体を通してまことは常にこのようにし て恵みに融和させられていることが発見できることでしょう。


荒野の食卓                    ウォッチマン・ニー 2月10日

 アブラムが99歳になったとき主はアブラムに現れ、こう仰せられた。 「わたしは全能の神である。あなたはわたしの前を歩み、全き者であれ。」                           創世記17.1  神はこの言葉をイシュマエルによって子を得ることができた強いアブラムに向 かって仰せられたのではありません。神はご自身の僕がたとえ望んだとしても同 じ行為を繰り返すことができない時まで待っておられました。そのとき、たった そのときだけ、神は彼の所へ全能の神としてのご自身を新たに示されたのでした。  アブラムが自分の行為を悔い改めた形跡はありません。それどころかイシュマ エルがアブラムにとってますます大切な存在になっていたのは明らかです。それ では彼は自分の過ちを悟ってはいなかったのでしょうか。もしほんとうにそうで あるならば、私たちは人間的な立場から、彼にはあまり希望がないといわなけれ ばなりません。しかし希望はアブラムが神に望みを託すかどうかにはほとんど無 関係に、神が彼を望むかどうか、にかかっていました。そして確かに神は彼を望 みました。神はなおご自分の僕に働きかけていました。神は彼を行かせませんで した。「わたしが全能であることを身をもって知りなさい」と神は言われました。 「そして知識の光のうちを歩みなさい」。「全き者であれ」とはひとつには「弱 さの中で完全であれ」という意味です。全能の神にすべてをなしていただきまし ょう。


荒野の食卓 ウォツチマン・ニー 2月11日 御座にすわる方と、小羊とに、賛美と誉れと栄光と力が永遠にあるように。 黙示5.13 創造主よりも被造物を拝もうとする生まれつきの傾向が私たちにはあります。 この著者ヨハネ自身ですら引き上げられなければなりませんでした。なぜならこ の黙示の書に叙述されたあらゆる闘争はここに結論を見るからです。天における あらゆる戦いと地上のはなはだしい患難は等しくサタンが自分のために神の賛美 を盗もうと企ていることによって生じます。しかしここ黙示録5章のこの大いな る戴冠の日には、天にあるもの、地にあるもの、地の下にあるもの、海の上のも ののすべてがひとつになって絶対者であるキリストの威光に歓呼の叫びを上げま す。この章はピリピ2章の「すべてが、ひざをかがめ、すべての口が、『イエス ・キリストは主である。』と告白し」に酷似しています。十字架の死がこの結果 をもたらしました。尊いお方はほふられた羊です。


荒野の食卓 ウォッチマン・ニー 2月12日 わたしの手で造ったものについて、わたしに命じるのか。 イザヤ45.11 この時代に至って神は自由ではありません。神は神の子供たちを将棋盤の歩の ように動かすことをなさらず、自らに制約を課して彼らの自由選択にまかせてお られます。主は最後にその結果がどうなってご自分に戻って来るかをご存知の上 で、故意にそうされています。永遠の昔、神には制約がありませんでしたので、 第2の意志は存在しませんでした。再び永遠の未来において主は制約を受けなく なります。なぜなら愛は勝利を収め、人の自由意志は主と一つになっているでし ょうから。 しかし今のこの時代、神はご自身を制約しておられます。今日、自由意志を持 った人々が主とともにあってはじめて神はご自身の目的に到達することができま す。自由意志とは選択に際して、従えるか、従えないかを選べることを意味して います。それはまるで私たちの自由裁量権にとてつもなく大きな馬力の機関車を つなぎ、線路を敷設するようにと命じられたようなものです。力に不足はなく、 目的地も決められています。しかし機関車はレールを支配することはできません。 が、レールには機関車に制約を与える力があります。「あなたがたが求めるもの は何でも、それをしましょう」。私たちは何と大きな責任を負っていることでし ょうか。


荒野の食卓                     ウォッチマン・ニー 2月13日  なんでもあなたがたが地上でつなぐなら、それは天においてもつながれており、 あなたがたが地上で解くなら、それは天においても解かれているのです。                    マタイ18.18  「なんでも」というのは価値ある言葉です。ここでは天の御国が地上のはかり で計られています。天にある力は私たちの願う尺度をいつでもはるかに越えてい るのです。私たちがこの下界での解いてください、つないでくださいという願い をいつでもはるかに越えて、天では解かれ、つながれています。なぜ私たちは罪 からの解放を求めるのでしょうか。なぜ私たちはいつも力を与えてくださいと神 に叫び求めているのでしょうか。「あなたの御心を私のうちになしてください」 と祈ることは正しい出発点ではありますが、私たちの祈りは「みこころが地でも 行われますように」というところまで進まねばなりません。今日神の子どもたち はあまりにもささいなことにかまけてしまっていますが、祈りとは天の力強い働 きを引き出すためのものなのです。自分のための祈りや、自分の当面の必要のた めの祈りは、神の王国のための祈りにまで導かれなければなりません。神の国で は教会が天の窓口、天の力を運ぶ水路、神の御心を成し遂げる手段となるべきで す。神がまだ地上に配送窓口を見い出すことがおできにならず、たくさんのもの が天に積み上げたままになっているのは、教会が祈ってこなかったためです。


荒野の食卓                        ウォッチマン・ニー 2月14日  この女は・・・・わたしに対してりっぱなことをしてくれたのです。                            マタイ26.10  主がもどってこられ、顔と顔とを合わせて主にお目にかかるとき、私たちはす べての宝を主の足許に捧げるようになるとわたしは信じます。しかし今日、−− 今日私たちは何をしていますか。  マリヤが石膏の壷を砕いて主の頭に香油を注いでから数日後、主のみからだに 香油を塗ろうとして朝早く出かけた女たちが数名いました。女たちは香油を塗り ましたか。週の初めの日、女たちは目的を遂げることができましたか。いいえ、 主はもうおられなかった。実際には主のみからだに香油を注ぐことができた女が 一人いました。マリヤです。彼女は前もって主に香油を注いでいたのです。ほか の者たちは間に合いませんでした。主はよみがえられたからです。ですから今す ぐ尋ねるべきです。「私は今日、主のために何をしているでしょうか」と。


荒野の食卓                        ウォツチマン・ニー 2月15日

 私たちの主イエス・キリストの父なる神がほめたたえられますように。                            I ペテロ 1.3  この感嘆文はペテロとパウロの両者の手紙に現れますが、これはこの二人の真 実な霊が自然に現れ出たものの中の一つです。これを通して私たちは彼らの人と なりをうかがい知ることができます。神はこうした個人的な要素がメッセージを 通して伝わることをお許しになりました。それはただ単に私たちが何を語るかと いうことが問題なのでは決してなく、私たちがなんであるかが問題とされるから なのです。  みことばを語るのは私たちの特権ですが、私たちの中で神の御告げを体現して いるものは一人としていません。私たちは自分の個人的なものを持ち出さないで 神のことばを語ることはできません。私たちの多くはすばらしいメッセージを語 ることができますが、自分から出た一つの言葉がメッセージすべてを確証する力 にもなれば、すべてを台無しにする力にもなるのです。「心に満ちていることを 口が話すのです」。謙遜であろうが反抗的であろうが、十字架によって変えられ ていようがまだすっかりそのままで砕かれていない状態であろうが、真実が現れ 出なければなりません。神は役者をお用いになることができないからです。私た ちの霊は、私たちの言葉の中で明らかにされます。


荒野の食卓                ウォッチマン・ニー 2月16日

 主の契約の箱をかつぐ祭司たちがヨルダン川の真ん中のかわいた地にしっかりと立つうちに、イスラエル全体は、・・・・ヨルダン川を渡り終わった。                      ヨシュア 3.17  私たちはすべての神の民がそれぞれの相続財産を受け取ることを信仰によって 知らなければなりません。相続は主の御心であり、必ず受け取るようになるから です。しかしそうした御心を実現する手段として、必要ならば死をも辞さず、ま た民全体が安全に渡りきってしまうまで忠実にそこに喜んで立ち続ける人々を神 は必要とされています。なぜなら小さな祭司の一団がそれを行いました。彼らは 死の恐れのあるところで箱をしっかりとかつぎ、民全体は足を濡らすこともなし にヨルダン川を渡りきることができたのでした。たった一つのたましいも後ろに 残されることはありませんでした。約束の地への道を開いたのはもちろん彼らで はなく神の契約の箱でした。それを忘れてはいけません。しかしその箱をそこま で運び、抱えていたのは祭司たちであったということも銘記するべきです。死の 真ん中で主とともに立ち続けていた彼らの信仰の行為によって、人々は豊かない のちを相続したのです。私にはそうした備えがあるでしょうか。


荒野の食卓 ウォッチマン・ニー 2月17日

わたしたちをあなたがたといっしょにキリストのうちに堅く保ち、私たちに油 を注がれた方は神です。 II コリント 1.21 主なる神ご自身が私たちをキリストに付けました。ですから私たちの運命はキ リストに握られています。中国の村々で福音を語るときには極めて単純なたとえ を用いて話さなければなりません。そこで私は小さな本を取り出し、そこに一枚 の紙切れをはさんだことがありました。「さあ注目してください」と私はいいま した。「私は一枚の紙を取り出しましたね。この紙はこっちの本とはぜんぜん関 係ないただの一枚の紙です。今はほかに使うあてもないので、この本の中に挟ん でおきます。さて、私はこの本に用があります。この本を上海に送ります。私は 紙は郵送しません。しかしその紙は本の中に挟まれたままなのです。その紙はど こにいったでしょうか。本は上海に行って、紙はここに残りますか。その紙は本 から離れて別の目的地に行けるでしょうか。いいえできませんね。本が行くとこ ろに紙もついて行きます。私が本を川に落としてしまえば紙もいっしょに川に落 ちてしまいますし、すばやく本を拾い上げれば、紙もまたすくいあげることにな ります。本がくぐりぬけてゆくあらゆる経験を、紙もまたくぐりぬけてゆきます。 なぜなら紙は依然としてこの本の中にあるからです」。キリストのうちにあるこ ともちょうどこのようなことです。それは主がくぐり抜けられたあらゆる事につ いて、主と同一の立場にあることです。主は十字架に付けられました。それでは 私を十字架につけてください、と願うべきでしょうか。断じて、否。私の救い主 の運命はもうすでに私のものとなっています。


荒野の食卓 ウォッチマン・ニー

2月18日

愛をもって互いに仕えなさい。 ガラテヤ 5.13 律法主義には高ぶりがつきものです。律法によって生きようとするなら、私は 意志の力に頼らなければなりません。それはしばしば自分の性向に反することも あります。こうした努力は、私のようには頑張らない人々、あるいはやってもだ めだった人々に対する軽蔑や哀れみの気持ちを間違いなく私の中にひきおこしま す。私の非常な熱心さによって私は優越感を持つようになり、そうした人々に 苦味を持つようになります。自分の気持ちを隠していたとしても、自分より霊的 に劣っていると思っている人々とは祈るときでさえずいぶん距離を置いているこ とにすぐに気づくようになります。律法によって生きることの結末はこれです。 しかし神はご自身の聖徒を決まりきった鋳型に押し込むような小さな方ではあり ません。人々が私とは一致できなくても、主の死とは一つです。それにはまた同 様な根拠があります。つまりりんごの苦味は完熟の印ではないということです。 熟したりんごは甘いものです。もし神がほんとうに私のうちに何かを実らせてく ださっているなら、私とはぜんぜん異なる経歴の聖徒たちと協力することに困難 を一つも感じはしないでしょう。


荒野の食卓 ウォッチマン・ニー 2月19日

急いで一番よい着物をもって来て、この子に着せなさい。 ルカ15.22

神はものすごく富んでおられる方なので、神の一番の楽しみは与えることです。 神の宝の倉はあふれているので神は私たちに宝を惜しみなく与えようとしておら れるのに、私たちが神を拒絶することは主の悲しみです。放蕩息子が家に帰った とき、父親は息子の浪費を非難する言葉も、内容について問いただすような言葉 も口には出しませんでした。単純に父親は、息子の帰還によって息子がさらに消 費してくれる状況を喜んだのでした。父親は、息子が礼服、指輪、くつ、祝宴を 求めている者であることを知ることができて、幸せでした。が、長男にはそうし た要望がないのは父親の悲しみでした。私たちが主に何かを提供しようとすると き、主は心に深い悲しみを覚えられます。神はものすごく、ものすごく、富んで おられる方です。私たちが主に願って与えていただき、与えていただき、もう一 度与えていただいたときに、主に喜んでいただくことができるのです。主は永遠 に「供給者」であることを望んでおられます。そして主は永遠に「行為者」であ ることを望んでおられます。神がどんなに富んでおられ、神がどんなに偉大であ るかを私たちが知りさえすればいいのですが。


荒野の食卓 ウォッチマン・ニー

2月20日

それで、ヘブロンは、・・・・カレブの相続地となった。それは、彼が・・・・ 主に従い通したからである。 ヨシュア 14.14

「必ずそれができるから」。これは主に無条件に信頼する男性または女性のあ かしです。その人は神の約束は信頼にたるものであると信じています。そしてそ の理由は、主が主の民とともにいてくださり、あらゆる敵に対する勝利が保証さ れているからです。あなたはこれを信じますか。多くの人は信じはしますが、な お信仰は揺れ動いています。彼らは賛美の歌を唄い、歌詞も正しいのですが、し かし歌声にどこかためらいが感じられます。しかしカレブの歌はほかとは違って いました。彼はしっかりと正しい言葉で歌い、歌声にはかげりがありませんでし た。ますらおの朗々と響く声に耳を傾けてみましょう。 「私たちはぜひとも(英訳:ただちに)、上って行って、そこを占領し よう。 必ずそれができるから」 彼は神について何一つ疑いませんでした。しかし私たちは最初の文の緊急性につ いて注目すべきでもあります。「私たちはただちに上って行こう」。真の信仰は 一刻の猶予も許しません。神がご自分の言葉をたがえる方ではないことを知って いる者は、ただ単に主のみ心を行なうことによってだけではなく、それを迅速に 行なうことによってあかしをたてます。


荒野の食卓 ウォッチマン・ニー 2月21日

私たちは、律法が霊的なものであることを知っています。しかし、私は罪ある 人間であり、売られて罪の下にある者です。 ローマ 7.14

もしあなたにとても不器用な使用人がいたとします。そして彼は静かに座って いるだけで何もしません。そのとき、彼の不器用さは表に現われません。もし彼 が一日中何もしなかったら、あなたの役にはたたないでしょう。それはそうです。 しかし少なくとも彼がそうしていれば何の損害も出さずにすみます。しかしあな たが、「ちゃんとしてくれ。時間をむだにしてはいけない。立って何かしなさい」 と言ったとたんに問題が生じます。彼は立ち上がろうとして椅子をひっくり返し、 2,3歩いくと足載せ台につまずき、高価な皿を手にしたかと思うとたちまち割 ってしまいます。もしあなたが指図しなければ彼の不器用さは気づかれることが なかったでしょう。しかしあなたが彼に何かするようにと命じた瞬間、彼の不器 用さはたちどころに明らかにされます。私たちみなにとって、命令はまったく正 しいのですが、人間自体が完全に間違っているのです。なぜなら私たちはみな生 まれながらの罪人だからです。問題は律法なしには私たちがそれに気づかないこ とです。神が私たちに何もお命じにならない限り、すべてが順調のように思えま す。私たちの罪深さの壮大な展示の機会は、神が私たちに何かをお命じになった ときにやって来ます。「戒めによって、極度に罪深いものとなりました」。


荒野の食卓 ウォツチマン・ニー 2月22日

私たちの主イエス・キリストのゆえに、ただ神に感謝します。 ローマ 7.15

「私は、ほんとうにみじめな人間です。だれがこの死の、からだから、私を救 いだしてくれるのでしょうか」とはパウロの絶望的な叫びだったのです。その時 一瞬の閃光が絶望の叫びを賛美の歓呼に変えました。 開放されたこの人の最初の言葉はもっとも価値あるのでした。「ただ神に感謝 します」。もしあなたが水を一杯もらったら、ほかのだれかではなく、その水を くれた人にお礼を言いますね。ではなぜパウロは「ただ神に感謝します」と言っ たのでしょうか。なぜなら神がすべてのことをなしてくださった方だからです。 もしパウロがそれをしたのだとしたら、彼は「ただパウロに感謝します」と言っ たはずです。しかしパウロとは「ほんとうにみじめな人間」であり、神お一人が 彼の必要を満たしてくださる方であることが彼にはわかりましたから、彼は神に 感謝したのです。神はすべてを行ないたいと願っておられます。それは主がすべ ての栄光をお受けにならねばならないからです。神は十字架上で私たちの赦しに 必要なすべてをなしてくださいました。そして神は私たちの開放に必要なことす べてを私たちのうちになそうとしてくださっています。どちらにあっても主は 「行為者」です。「神は・・・・あなたがたのうちに働いて」。


荒野の食卓 ウォツチマン・ニー 2月23日

その日ダビデは主を恐れて II サムエル 6.9 ウザの悲劇的な死は私たちにとっておもしろくない話なのではないでしょうか。 ダビデは「万軍の主の名で呼ばれている」神の箱を車を使って運ぶ際、無知のた めに罪を犯しました。万全の方法のように思われても、それが人間の考えから出 たものである限り、常に欠陥を露呈します。牛がつまずき、神の箱がひっくり返 りそうになったとき、ウザはそれを支えるために神の箱に触れました。彼は神の 栄光のために善意からそれを行なったのですが−−彼はその場で死にました。ど うしてダビテが悩まずにいられたでしょう。 神の箱がイスラエルを守ったのであって、イスラエルが箱を守ったのではあり ません。虎は森に守られているのをお聞きになったことがありますか。けれども 神は自分のことはご自分でなさります。神が本来すべきである多くのことを人間 が行なっています。神が語られるのを期待するべきときに、私たちが語ってしま います。神が整えてくださるまで待たねばいけないものなのに、私たちが準備し てしまいます。「どうして説教してはいけないのでしょうか」と私たちは抗議し ます。「話したいのですが」。これは私たちの奉仕の欠点です。これには誰でも 思い当たるものがあるはずです。しかし神を賛美しましょう。私たちが自分の罪 を告白すれば、主は真実で正しい方ですから赦してくださいます。


荒野の食卓 ウォッチマン・ニー 2月24日

その方、すなわち真理の御霊が来ると、あなたがたをすべての真理に導き入れます。 ヨハネ 16.13

一つ確かなことは、啓示は常に信仰に先行するということです。見ることと信 じることは信仰生活の両輪です。神がキリストのうちになされたことを何か見れ ば、信仰は自然に「主よ、感謝します」とお礼を言います。啓示はいつでも聖霊 の働きであり、御霊様は私たちの傍らに来て、私たちにみことばの戸を開くこと によって、あらゆる真実へと私たちを導き入れてくださいます。主に期待しなさ い。主は正にこのことのためにここにおられるのですから。そして理解力が足り ないとか、信仰が足りないというような悩みに直面したら、いつでもそうした悩 みを直接主に申し上げなさい。「主よ、私の目を開いてください。このことを私 にはっきりと見せてください。私の不信仰を助けてください」。主はこうした祈 りを放っておかれはしないでしょう。


荒野の食卓 ウォッチマン・ニー 2月25日

ペテロの声だとわかると、喜びのあまり門をあけもしないで、奥へ駆け込み、 ペテロが門の外に立っていることをみなに知らせた。彼らは、「あなたは気が狂 っているのだ。」と言った。 使徒 12.14〜15 私のところへ来て、主に信頼しようと努めているにもかかわらず、なお恐れや 不安について語った人々は数知れません。彼らには自分たちの願いがあり、それ に対する神の約束をしっかりとつかんでもいました。しかしなお疑いが芽生えて しまうのでした。教会が祈っていたとき、ペテロが牢屋から戻って来て戸を叩く と、信者たちは「それは彼の御使いだ」と叫んだのを思い出すのが私は大好きで す。 今日人々の中には、このマリヤの家に集まっていた信者よりもさらに深い信仰 を自分は持っていると主張する者がいます。彼らは、神が御使いを送り、牢屋の あらゆる扉は御使いの前で開くであろうと確信しています。もし突風が吹けば、 「ペテロが戸を叩いている」。雨がパラパラ降り始めると、「またペテロだ」。 こうした人々はあまりにもだまされやすい信心家さんたちです。彼らの信仰は必 ずしも本物ではありません。というのも、自分を主に捧げつくしたキリスト者 でさえも、神からの答えが与えられなければならないという信仰を働かせている ときにだけ、身近にあって自分が思い違いしているかもしれない問題がなんなの かがわかるからです。


荒野の食卓 ウォッチマン・ニー 2月26日

神は、・・・・いっさいのものの上に立つかしらであるキリストを、教会にお 与えになりました。教会はキリストのからだであり、いっさいのものをいっさい のものによって満たす方の満ちておられるところです。 エペソ 1.22以下 天におられるキリストを極められた理想として仰がないでください。神のあな たへの贈り物として、キリストを見てください。あなたはこの世のものが自分を 引きずり落とそうとするのを感じています。しかしこの世のものがキリストを引 きずり落とすことができないのと同様に、あなたを引きずり落とすなどできよう はずもありません。あなたは疑いますか。私の机の上には黄色い花が何本か飾っ てあります。私は部屋には入らずに次の言葉を繰り返します。「あの黄色い花は ここにある。あの黄色い花はここにある」。そしてある種の自己暗示によって不 思議なことに黄色い花が現われ出るのです。まさか、そんなことはありません。 黄色い花はずうっと机の上にありました。私はそっと目を開けて見たのです。 私たちの信仰は絵空事ではありません。信仰は神がキリストにおいてなしてく ださった永遠の事実に基づいています。もし私たちの信仰を思い切ってその事実 に賭けるなら、そこに聖霊がおられ、それが真実であることを証明されるでしょ う。キリストにある私たちを見ましょう。私たちは落ちて行くのではなく、主の 力によって支えられています。


荒野の食卓                       ウォッチマン・ニー 2月27日

 彼らが主を仰ぎ見ると、彼らは輝いた。「彼らの顔をはずかしめないでくださ い。」                        詩篇34.5  霊的な体験を、自分の側からあれこれと心配するのはよくありません。そして 主との絶縁状態に陥らないように気をつけなければなりません。このことを電灯 の例でお話しましょう。あなたは部屋にいて、外はだんだん暗くなってきたとし ます。あなたは読書をするために電気をつけようとします。あなたの横のテーブ ルには読書灯が乗っています。それからどうしますか。あなたは電気がつくかど うかじっと見つめますか。布を取り出して電球を磨きますか。いいえ。あなたは 立ち上がって反対側の壁へ向かい、スイッチを入れます。あなたは電源に注意を 向け、反対側の壁で必用な行動をとるので、テーブルの上の電気が点ります。  神がキリストにおいてなした御わざがなんであるのかを考え続けなさい。そし て主があなたに何をしてくださるかは、神に心配していただくのです。


荒野の食卓                   ウォッチマン・ニー 2月28日      いつも主にあって喜びなさい。もう一度言います。喜びなさい。                           ピリピ 4.4  迫害はやがてパウロとバルナバをピシデヤのアンテオケで弟子たちと離別させ、 さらなる移動へと駆り立てたのでした(使徒13.50以下参照)。そうした早 い時期での離別は生まれたばかりの教会にどのような影響を与えたでしょうか。 そこには新しい信者の群がありましたが、彼らはキリストにあるほんの乳飲み子 でした。彼らは使徒たちに、少しの間とどまって自分たちの霊的成長のために面 倒を見て欲しいと嘆願したでしょうか。「もし今あなた方が行ってしまったら私 たちは羊飼いのいない羊のようになってしまいます。どうかあなた方のうち一人 でもあとに残って私たちの面倒を見てください。あなた方の助けがなくてはこの 激しい迫害をくぐり抜けていくことはできません。」彼らはこのように説得した でしょうか。いいえ。このような主張の代わりに驚くべき事実をみことばは記録 しています。「弟子たちは喜びと聖霊に満たされていた」。パウロとバルナバが 移動を続けるとき、そこには悲しみはなく、大きな喜びがありました。なぜなら まさに使徒との離別は、別の人々が福音を聞く機会を意味していたからです。し かもそれだけではありません。彼らは自立したのです。すなわち聖霊に満たされ たのです。


荒野の食卓                   ウォッチマン・ニー 2月29日

 わたしの霊をあなたがたのうちに授け、わたしのおきてに従って歩ませ                        エゼキエル 36.27  夏も終わろうとしていた頃、技師と彼の奥さんの山荘に滞在した私は、この二 人が救い主にある素直な信仰へと導かれたのに大きな喜びを感じました。私が上 海に戻らなければならないときが来ましたので、聖書をおいて別れました。  冬の間、その技師には食事の時にアルコールを飲む習慣がありましたが、時に は度を過ぎることもありました。やがて寒い季節になり、今やすっかり習慣とな ったお酒が食卓に上り、彼は食事の感謝をするために頭を下げました。しかし、 その日は一言も言葉が出てこなかったのです。2、3回むなしい試みを繰り返し たあとで、彼は奥さんに振り向いて言いました。「何がいけないんだろうか」。 彼は尋ねました。「どうして今日は祈れないのだろう」。奥さんは聖書を取り、 問題を照らすようなみことばを探しましたが無駄でした。彼らはなんの答えも見 いだせず、私もまた遠くにいました。「お酒を召し上がって」と奥さんは言いま した。しかし彼は飲みません。彼には自分が感謝の祈りを捧げなければいけない のがわかっていました。ですから飲めなかったのです。とうとう彼は「あっちに 持っていってくれ」と大声で言いました。そうして彼らは食事のための祝福を祈 ることができたのでした。  たまたま上海に来られたとき、彼はこの話をしてくれました。彼は中国語で親 しげに話しかけてきました。「ニー兄弟」と彼は言いました。「内住の監督さん は僕に酒を飲ませようとしません」。私は「それは結構ですね。いつでも監督さ んの言うことに従わなければいけませんね」と答えました。