荒野の食卓 12月

荒れ野の食卓 12月


12月1日  私は大きな苦しみと心の嘆きから、涙ながらに、あなたがたに手紙を書きまし た。・・・私があなたがたに対して抱いている、あふれるばかりの愛を知ってい ただきたいからでした。                           II コリント 2.4  いやしといのちをもたらすべき福音宣教は、経験に基づくことが必須の条件で す。この事実は使徒パウロに顕著です。たとえば、コリント第一の手紙における 宣教は第二コリントの手紙で明らかにされているひとりの男に直接立脚している のです。  パウロは第一コリントでは神が「弱いもの」を選ばれたことを書き送り、第二 コリントでは彼自身が神によって弱さを与えられたことを厳粛な事実として示し ています。パウロは前書では読者に一致について注意を喚起し、二番目の手紙で は、コリントの人々の排斥運動にもかかわらず、自分を彼らの一員としています。 前書の13章愛についての規範的な考え方を提示し、第二コリント12章15節 でパウロは「あなたがたのたましいのためには、大いに喜んで財を費やし、また 私自身をさえ使い尽くしましょう」と宣言しています。最後に、第一コリント1 5章では新約聖書のどこよりも明確に天国について私たちに教えてくれますが、 第二コリントでは「死者をよみがえらせた神」にいつ何時もより頼まないではい られない死にものぐるいの欲求を明らかにしています。いずれの論点においても、 パウロの教義の背後には彼の経験があります。他の何物もキリストの宣教の基礎 となることはあり得ません。
12月 2日  どのようにして若い人は自分の道を きよく保てるでしょうか。  あなたのことばに従ってそれを守ることです。 詩篇 119.9  パリサイ人は大皿の外側は洗いましたが、内側は汚れたままにしました。我ら が主はパリサイ人が外側のことだけを重要視し、内側のことは見て見ぬふりをし ていたことに対して激しい非難を浴びせました。このことから、私たちの多くの 者は、霊的真理の内側を強調しさえすればそれでいいと結論づけています。しか し神は内側も外側も両方とも浄めるようにと命令されています。内側なしの外見 だけでは霊的な死があるのみです。しかし内側だけで外見がないのは単なる霊的 感化を受けた生活に過ぎません。なぜなら霊的感化を受けることで、物事を避け て通ろうとすることは霊的とは言えないからです。「これこそしなければならな いことです。ただし、他のほうもおろそかにしてはいけません」(マタイ 23. 23)。神の命令がどんなにどうでもよいことのように思えたとしても、それは 紛れもない神の意志の現れです。断じて軽々しく扱うことがあってはなりません。 どんな小さな神の意志さえも、罰を受けずに拒絶することはできないのです。
12月 3日  わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないからです。                             ヨハネ 15.5  何かしようという欲求は人間の性質に深く根をのばしています。私の国の岩塩 の採掘場で見たことをお話ししましょう。中国ではあるクーリー(苦力:人足) は120キロの塩の袋をかつぐことができます。ほかのクーリーは250キロ。 さて120キロしかかつげないクーリーがやってきたのですが、そこにあるのは 250キロの袋でした。自分にはまるで重すぎる荷物だということが彼にはわか ります。しかしまるで運べる見込みはないのに、それでも彼は試してみます。私 が小さい頃、十人か二十人のこうした人々がやってきては、だれもが自分の手に 余るということがわかっていながら、持ち上げようと試みることに驚きを覚えた ものでした。最後にはあきらめ、持ち上げることのできる人に道をあけなければ ならなくなります。私たちが完全に打ちのめされたときでなければ主を思いださ ず、主が待ちかまえて、いとも簡単になしてくださろうとしている仕事を主にあ け渡さないことがなんとしばしばでしょうか。主に明け渡すのは早ければ早い方 がいいのです。なぜなら私たちが仕事を独占している限り、全能の御霊様に働い ていただく余地を殆ど与えないことになるからです。
12月 4日  キリストは、私たちにとって、神の知恵となり、また、義と聖めと、贖いとに なられました。                          I コリント 1.30  神は私たちにキリストを与えてくださいました。今、私たちには主のほかに受 け取るべきものはありません。聖霊は私たちのうちにキリストに属するものを生 み出すために送られてきたのであって、いかなる主から離れたものも、あるいは いかなる主以外のものも、それを生み出すために聖霊が遣わされてきたのではあ りません。主が「私たちのうちに形作られ・・・・」るのです。これはみことば の中でもっとも気宇壮大な宣言の一つです。私たちがこのみことばを信じるなら、 私たちが必要としているものはなんでもここに要求することができます。そして 神はそれをよきに計らってくださることがわかるはずです。なぜなら、私たちの うちにすむ御霊を通して、主イエス御自身が私たちの足りないところそのものに なってくださるからです。私たちは聖さを徳として、謙遜を恵みとして、愛を神 から捜し求めうる賜物としてみなすことが習慣になっています。しかし神のキリ スト御自身こそが、私たちが必要とするであろうもののすべてなのです。ためら うことなく主に近づきましょう。
12月 5日  そこで、彼らは網をおろした。すると、おびただしい魚のために、網を引き上 げることができなかった。そこで、イエスの愛されたあの弟子が、ペテロに言っ た「主です。」                           ヨハネ 21.6以下  イエスが岸にたたれたとき、不思議なことにだれひとりそれが主であることが わかりませんでした。主のもっとも近くにいたペテロとヨハネにさえわからなか ったのです。もちろん後にキリストの傷口によって主を認めたトマスもわかりま せんでした。よみがえられた主は肉眼だけでも、人の手だけでも認識され得ませ んでした。主が弟子たちに身近な話題を語りかけたときでさえ、彼らは主だとわ かりませんでした。しかし網がいっぱいになったとき、ヨハネは突然気がつきま した。  その後、主イエスが岸で「さあ来て、朝の食事をしなさい」と言われたとき、 その方が主であることがわかっていたので、伝えられるところによれば、だれひ とり「あなたはどなたですか」と敢えて尋ねる者はいなかったのです。ここに逆 説があります。ふつう、あなたが何かを尋ねれば、それはあなたが何かを知らな いことを意味するのです。もし敢えて尋ねようとしないならば、それは知らない ことが露見されるのを恐れていることを示唆します。しかし聖書のこの箇所には 知識と恐れが共存しています。彼らの外なる人は恐れ、内なる人は知っていまし た。内なる人は確かに存在するのですが、しばしば神に与えられた確信を説明す ることができません。これがキリスト者というものです。
12月 6日  私は、私を強くしてくださる方によって、どんなことでもできるのです。                             ピリピ 4.13  今日の神の働きにおいて、神により頼む必要がないほど物事が整然としている ことがしばしばあります。しかしこうした働きすべてに対する神の評定は妥協の ないものです。「わたしを離れては、あなたがたは何もできません」。なぜなら 神の働きはただ神の力によってのみなしうるからです。そしてこの力はただ主イ エス・キリストの内にのみ見い出すことができるのです。預言者とともに私たち が「私には語れません」と言えるようになってはじめて、神が語っておられる、 ということを発見するのです。神は私たちにできることを何かするようにとはお 命じになりません。神は私たちが生活できないような生活を営み、私たちには決 してできないことをするように命じておられます。しかし、神の恵みによって、 私たちはそのような生活を今送り、そのようなことをなしているのです。私たち が今生きているいのちは神の力の内に住みたもうキリストのいのちなのです。そ して私たちが行う働きは、私たちが従っている神の御霊によって私たちを通して 遂行されるキリストの働きなのです。
12月7日 イエスが歩いて行かれるのを見て、、「見よ。神の小羊。」と言った。 ヨハネ 1.36 ヨハネが最初に神の小羊としてのキリストを人々に示したとき、「世の罪を取 り除く方」と補足しましたが、これは主の贖いのみ業を強調したものです。二回 目のとき、ヨハネは「見よ、神の小羊」と言っただけでした。この時には主の御 品性以上に、み業に力点が置かれてはいませんでした。人々が私たちにとって貴 重であるのは、その人々の人となりのゆえであることを真の認識は示しています。 人々が何をしたかという理由よりも、どのような人であるかといういう理由によ って私たちは人々を愛するようになるのです。私たちは主のくださった賜物に感 謝します。と同時に、主の高貴さの故に主を賛美します。十字架上のキリストは 私たちから驚くべき感謝の捧げものを、そして御座に着かれたキリストは私たち の賛美を呼び起こすのです。神がなしてくださった御業を見ると、私たちは深い 感謝に満ち溢れ、神がどのようなお方であるかを見ると、私たちは神をあがめる のです。
12月 8日 だれでも、わたしにつまずかない者は幸いです。 ルカ 7.23 バプテスマのヨハネは自分の置かれた状況を欲していませんでした。彼は、エ リヤの最初期の証しの時のような新たな信仰復興を求めていたのでした。そして ここでヨハネは牢につながれ、死に直面していました。彼に何かをやり遂げるこ とが許されていないなら、イエスがこの第二のエリヤの働きに責任を負ったとし ても当然でした。 私たちがこうして欲しいと思うことを神がなさらないとき、私たちはつまずく のではないでしょうか。私たちは神の御心を知ろうと追い求め、主の御栄光だけ を求め続けました。しかし多くの神の与えられた導きに、私たちは絶望を覚えま した。私たちは袋小路に入り込み、行くべき道を見出せません。私たちは病み、 神に癒しを期待しますが、癒されません。私たちのお金が底をつき、お金は入っ て来ません。さらに悪いことに、ほかならぬ神の栄誉に傷が付けられそうな出来 事。神はご自身の御名の故に来られなければなりません−−しかし神は来られま せん。状況はかわりません。牢屋の門は開きません。心が砕かれるものもいませ ん。「先生方、私は何をしたらいいのでしょう」と叫ぶ人もいません。 すべてが明らかにされる日が来ます。私たちはさばきの座の前に立ち、私たち はたださばかれるのではなく、神は私たちにすべてを説明してくださいます。多 くのことにおいて私たちの間違いが証明されなければなりませんが、しかし「わ たしは正しかった。しかしあなたもまた正しかったのだ」と神に言っていただけ ることが数多くあるに違いありません。
12月 9日 あなたがたもまた互いに足を洗い合うべきです。 ヨハネ 13.14 ここで意味されている洗うという行為は元気を回復させるためのものです。罪 には関係ありません。罪とは違って、私たちの足にまつわりつくほこりと泥は避 けることができません。ほこりの中を転がることは確かに罪になるでしょう。し かし私たちが地面に足をつける限り、私たちの足は汚れ続けることでしょう。事 務所で長時間働いた兄弟が一日の終わりに家に帰ってきます。疲れていろいろな ことで調子が狂っています。兄弟は朝の静けさの中で主と交わり、元気を取り戻 したのですが、今はそうした交わりをすることも難しい。何か兄弟の前におおい がかかり、すぐに主を見上げることを難しくしています。 しかし友達が兄弟に会い、のびのびと主を賛美します。たちどころに兄弟のう ちに力がみなぎってきます。まるでだれかがちりを払い、汚れの被膜を払いのけ てくれたかのようです。兄弟の足は再びきれいになりました。「互いに足を洗い 合う」とはこのように本来の新鮮さに立ち戻ることです。私たちはいっこうに気 がつかないでそうしていることも、また、キリストにある兄弟をこのようにいつ もの習慣のように元気づけていることさえありうるのです。これこそもっとも大 きな奉仕の一つであると、私は申し上げましょう。
12月10日 すると彼は三回打ったが、それでやめた。神の人は彼に向かい怒って言った。 「あなたは五回、六回、打つべきだった。・・・・」 II 列王記 13.18以下 私たちには常に神がおできになることに制限を設けてしまう危険性があります。 今日神は私たちに福音の働きにおける新たな展開のための準備をするようにと望 んでおられますが、私たちが主に置いてしまう目標は、これから信仰の準備を整 えて進んで行くべきところからかけ離れています。私たちは、主の「勝利の矢」 が放たれることの意味を理解していません。何百ものたましいが主のみもとにき たことに対する私たちの満足は、何千ものたましいが主のみもとへ来ることを妨 げているかも知れません。私たちが福音を伝えるために建てた広い集会場は将来 の成長に制限をかす可能性はないでしょうか。神の恵みに制限を与えるという重 大な危険性がたえずつきまとっています。 主の与えたもう祝福はより大きな祝 福へ道を整える性格こそあれ、決して障壁となることはありません。とにもかく にもご計画のために働き、過去のあらゆる障害を振り払って自由となり、絶えず 期待を抱きつつ生活しましょう。私たちの前には後ろにあるものよりも遥かに大 きな仕事が置かれています。神は私たちに空前の祝福を計画しておられます。
12月11日 あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは、自分自 身から出たことではなく、神からの賜物です。 エペソ 2.8 私たちは信仰によって救われたことを正しく話しますが、それはどういうこと なのでしょうか。つまり、私たちが救われたのは主イエスのおかげだということ です。救われるために私たちは何一つしませんでした。私たちは罪にまみれたた ましいを主に負っていただいただけです。私たちはキリスト者の生活を自分自身 の行為により頼むのではなく、神がなしてくださったことにより頼むことによっ て始めました。そうでないならその人はキリスト者ではありません。というのも 「自分を救うために私は何もできません。けれども神は恵みによって、私のため にキリストのうちですべてのことを成し遂げてくださったのです」と言えること が信仰の最初の一歩を踏み出すことにほかならないからです。神が私たちに喜ん でくださろうとしている恵みに、制限はありません。
12月12日 主は彼らを兄弟と呼ぶことを恥としないで、 ヘブル 2.11 第四の福音書の初めで、福音書の著者はイエスを「父のみもとから来られたひ とり子」として描いています。同じ書の最後ではよみがえられた主がマグダラの マリヤに「わたしの兄弟たちのところへ行って、『わたしは、わたしの父またあ なたがたの父・・・のもとに上る』と告げなさい」(ヨハネ20.17)と言っ ています。それまでにもイエスは「父」あるいは「わたしの父」について言及し ています。さて、よみがえられた主は「・・・・あなたがたの父」と付け加えて います。なんと驚くべきことでしょう。話しておられる、父のみもとから来られ たひとり子が、今や長兄となられたのですから。主の受肉と十字架によって、主 は多くの子供たちを神の家族に加えました。そして同様に同じ節の中で彼らを 「わたしの兄弟たち」として話されています。そして神に感謝すべきことには、 主が引き上げられたことにより、あなたにも私にも子にしていただく霊が与えら れ、それによって今や私たちもまた「アバ、父」と叫ぶのです。「私たちが神の 子どもであることは、御霊ご自身が、私たちの霊とともに、あかししてください ます」。
12月13日  それどころか、からだの中で比較的に弱いと見られる器官が、かえってなくて はならないものなのです。                          I コリント 12.22  数年前のこと、私は人生におけるもっとも大きな問題に直面しました。しかも それをひとりで解決することができないことはわかっていました。答えを見い出 すのに神のみことばのあらゆる知識に通暁した別の神の僕の助けがどうしても必 要でしたが、私は遠いところで福音を宣べ伝えていました。私が必要とする仲間 をどこに捜せばよいというのでしょうか。勿論私はその土地のごくわずかしかい ない信者のところに滞在していましたが、彼らはキリストのほんの乳飲み子でし た。どうして彼らにこの問題を解決する助けを期待することができましょうか。  しかしながら、私は行き詰まってしまっていました。もう彼らを呼ぶ以外手だ てがありませんでした。私の求めに応じて幼子のように純真な兄弟たちがやって きてくれました。私が自分のおかれている困難な状況を説明すると、彼らは祈っ てくれました−−彼らが祈っていると、光が差し込んできました。問題の解決に 説明は不要でした。問題は解決しました。決してくり返す必要のないこのような 方法で。私たちの神は、御自身の「弱い器官」がどれほど私たちにとってかけが えのないものであるかを、どれほど喜びをもって私たちに示されることでしょう か。
12月14日  ある人々のように、いっしょに集まることをやめたりしないで、かえって励ま し合い、かの日が近づいているのを見て、ますますそうしようではありませんか。                            ヘブル 10.25  キリストは教会の頭であり、「大ぜいいる私たちも、キリストにあって一つの からだであり、ひとりひとり互いに器官なのです」。ですからキリスト者のつな がりは、いかなる場合も一つの器官からほかの器官に対するものであり、頭から 器官に対するものではありません。使徒がすばらしい説教をしているとき、信者 は全員その通りとばかりにうなずきながら、しばしば熱烈な「アーメン」を加え るのです。なんと霊的に深い集会と思われることでしょうか。しかし彼らの真の 霊的な状態が光に照らされるのは彼らが自分たちで集まるときです。「説教壇と 信者の席」の原則は、罪人に喜ばしい知らせを宣言するにはどうしても必要です が、キリスト者の生活に受動性を育ててしまう危険性があります。教会のいきい きとした成長は、「円卓会議」という相互関係の原則と、信者同士のお互いの励 まし合いによるのです。私たちの交わりには「互いに」という刻印が押されてい るでしょうか。
12月15日  神は、私たちの心を照らし、キリストの御顔にある神の栄光を知る知識を輝か せてくださったのです。                          II コリント 4.6 救いとはなんでしょうか。それは神の光が射し込んでくることです。その光が 覆い隠されていることは滅びを意味しました。しかし神は死んでいた私たちの心 に光を照らしてくださいました。そして見えることこそが救いです。救い主の御 顔の栄光を見ると、その瞬間、たちどころに私たちは救われるのです。単に私た ちが教義を理解して受け入れるだけなら、何も起こりません。なぜなら私たちは 真実なるお方を見ていないからです。しかしカメラのシャッターを切ると映像が フィルムの上にとどまるように、私たちがほんとうの意味で主を救い主として見 た瞬間、私たちの内側に変化が生じ、私たちにとって「天の御国の啓示」は「私 の内に啓示された神の御子」へと変わるのは確実なことなのです(使徒 26. 19;ガラテヤ1.16)。このような生ける経験を私たちは思い起こす必要は ありません。忘れることなどできるはずがありませんから。
 12月16日  「いや、ほかにもうひとり、私たちが主のみこころを求めることのできる者が います。しかし、私は彼を憎んでいます。」     I 列王記 22.8  妄想にとりつかれることは怖ろしいことです。嘘をつくとは人をだますことで すが、本人は嘘だとわかって言っているのです。妄想にとりつかれるとは自分を だましてしまうことであり、自分では嘘だとわからずに嘘をつき、良心の範囲を 逸脱して行動するために、私たちの内にある光が失われて暗くなってしまうので す。つまり端的に言えば真理を閉め出してしまうことです。ただ暗闇を選択すれ ばこういう状態になります。「悪いことをする者は光を憎み、光のほうに来ない」。 「それゆえ神は、彼らが偽りを信じるように、惑わす力を送り込まれます」(ヨ ハネ3.19以下、 II テサロニケ2.11)。ですから妄想を抱く者はつい には忠実になります。彼らは自分のしていることが正しいと信じるようになるか らです。タルシスのサウロも「ほんとうに信じて・・・」いました。  私たちはどのようにして救われるのでしょうか。それはたった一つのもの、す なわち光によってなされます。「真理を行なう者は、光のほうに来る」。神には これ以上の働きをなさる必要がありません。私はときどき尋ねられます。「どう していつも啓示の話ばかりするのですか。神の救いのみわざをなぜ強調しないの ですか」。私は次のように答えます。なぜなら啓示はそのみわざなのですよ、と。 啓示によってサウロは自らが神をけがす者であることを知りました。啓示によっ てヨブも「今、この目であなたを見ました。それで私は自分をさげすみ、悔い改 めます」言うようになりました。第二のみわざはありません。神が私たちを見え るようにしてくださる、それで十分です。
12月17日 苦しめられ、もてあそばれて、慰められなかった女よ。 見よ。わたしはあなたの石をアンチモニーでおおい、 サファイヤであなたの基を定め、 イザヤ 54.11 エデンの園と天の都の双方にある黄金の傍らに、宝石を見つけることができま す(創世記2.12;黙示録21.19)。原石は一日で産まれるわけではあり ません。原石が形成されるために時間は必須の要素です。原石は地熱によって長 い過程を経て精練され、原石の持つ美しさは精巧な研磨によって引き出されます。 霊的な事柄においても同様のことが言えます。このことはあなたや私の内面を神 が忍耐によって価値あるものにしてくださることを示唆しています。この価値は 高価です。支払いを惜しむものには決してこの価値は生まれないでしょう。恵み はただです。しかし宝石を買うにはどうしても高いお金を払わなくてはいけませ ん。私たちは何回も「高すぎます」と叫びたくなります。しかし私たちが神とと もに「火の中と水の中をくぐって」学ぶ課題−−これこそ本当の意味でやってみ る値打ちのあることなのです。神の光の中で、何かがおのずから消え去って行き ます。火を待つ必要はありません。真に価値あるものは、時間という神の試練の 前に立ちおおせるものです。
12月18日 「ナザレのイエス・キリストの名によって、歩きなさい。」 使徒 3.6 宮の門にいた足のきかない男に発せられた次のペテロの言葉をよく考えてごら んなさい。「名によって」。ほかのどんな名前も、少なくとも人につけられた名 前である限り、使徒行伝と同じ結果をもたらすことはなかったでしょう。簡単な たとえでお話しましょう。少し前のこと、私の同労者が私に某かのお金を工面す るようにと言ってきました。私は彼の手紙を読んで、彼の求めている金額を用意 して、使いの者にわたしました。私は正しかったでしょうか。もちろんです。手 紙には友人の署名がありました。それで私には十分です。それとも私は使いの者 に名前と年齢と職業と出身地を尋ね、その結果、彼の人となりに不審を抱いて、 追い返してしまうべきだったのでしょうか。いいえ、そんなことはまったくあり ません。使いの者は私の友人の名によってきたのです。私はその名に信頼を寄せ たのです。 神は栄光に包まれたご自身の御子をご覧になるのであって、地上にいる私たち ではありません。そして神はご自身の御子の名に信頼をお寄せになります。その 日の出来事は、こうした背景のもとで、イエスの名という起爆材によってひき起 こされたのであり、神のしもべを識別するたった一つのものとは、御名を用いる 権限が与えられているということです。
12月19日 苦い根が芽を出して悩ましたり、これによって多くの人が汚されたりすること のないように ヘブル 12.15 主の祝福は、誰かが家の中におびき寄せようとしている野鳥になぞらえること ができます。どんなに頑張っても、野鳥を家の中に呼び込むことはできません。 鳥は自発的に行動しているに違いありませんから、もし飛んできたならば、鳥が 再び飛び立たないように注意しなければならなくなるでしょう。鳥に中に入るよ うに強制はできませんが、鳥が飛び去る原因は簡単につくることができるのです。 ほんの不注意で、鳥は飛び去ってしまいます。 私たちの祝福の主導権は神が握っておられ、私たちの側の努力は必要とされて いません。しかし神の祝福がたっぷりと与えられたときは、ほんのちょっとした 不注意でその祝福が失われてしまうのです。神の祝福は兄弟たちが調和して生活 しているところに現わされます。よく知っているとおり、兄弟同士に不調和があ るところには決して現わされません。不和が誰かひとりの兄弟に対してでも存在 するなら、たといいかなる局面においてもあなたが正しいことが証明されている ように判断できたとしても、それは極めて重大な問題であることをあなたは認識 しているのでしょうか。どんなことがあっても、自分の言葉には注意を払いなさ い。主の祝福を失うことがあるといけないからです。一夜のうちに鳥が飛び去っ てしまうことになりかねません。
12月20日 「あなたがたもそのとおりです。自分に言いつけられたことをみな、してしま ったら、『私たちは役に立たないしもべです。なすべきことをしただけです。』 と言いなさい。」 ルカ 17.10 この節ではしもべに二種類の仕事が割り当てられているようです。つまり「耕 作」か「羊飼い」ですが、どちらもとても重要な仕事です。しかしこのような仕 事から戻ってきたときでさえも、自分の食事を楽しもうと椅子に腰を降ろす前に、 まず主人が喜ぶように給仕することが望まれていることをイエス様は私たちに思 いださせてくれます。野良仕事から帰って、救われていない人々に福音を語った り、群れの世話をするよりも、その日やってきたたたくさんの仕事に自己満足し てしまう傾向があります。しかし主は私たちに言われることでしょう。「腰に手 拭をまとい、わたしに仕えなさい」。もちろん私たち自身も食べたり飲んだりし なければなりません。しかしそれは主の渇きがいやされ、主の餓えが満たされて からです。私たちもまた楽しむべきですが、主の喜びに満たされてからであるべ きです。私たちは「私たちの主に対する働きは何よりも自己満足のためなのだろ うか、それとも主の満足のものなのだろうか」と、しばしば自問してみるべきで す。
12月21日 また、彼らが、おのおのその町の者に、 また、おのおのその兄弟に教えて、 『主を知れ。』と言うことは決してない。 小さい者から大きいものに至るまで、 彼らはみな、わたしを知るようになるからである。 ヘブル 8.11 旧約聖書の時代、神のみ心を探り求めるには、大雑把に言って、律法と預言に 制限されていました。しかしキリスト者の生活は知識だけではなく啓示に基づい ているのです。あなたにはキリストについての本の知識がありますか。あなたは 主の真の僕と言える人々からのいわば風聞によってのみ、主を知っているのでし ょうか。それともあなたは直接主に触れたのでしょうか。私たちキリスト者の生 活にあって、主の近くで生活している兄弟を友とし、その兄弟が主に示されたこ とを私たちと共有してくれことは、何にも増して貴重なことです。兄弟たちの抱 く熱意や、熟慮の上の忠告による平静さを私たちはたびたび必要とします。しか し新約聖書は「みな、わたしを知るようになる」と宣言し、ここで訳されている 「知る」とは、「彼ら自身は、わたしを知る」という意味です。私たちは自分自 身を完全に、そしてひたすら、神のきよい人を通して与えられる光に、たとえそ れが健全なものであったとしても、委ねているわけにはいきません。私たちは主 御自身の声に耳を傾け、主に従うる義務を負っています。
12月22日  ついに、私たちがみな、信仰の一致と神の御子に関する知識との一致に達し、   エペソ 4.13  みことばの解釈が異なる人たちと親しく交際することは肉にはきついことです が、霊にはよいことです。私たちは正しい見解を持っているかも知れませんが、 神は正しい態度を示す機会を私たちに与えてくださっています。私たちは正しく 信じているかも知れませんが、神は私たちが正しさを愛しているかどうかをご覧 になるため、私たちを試しておられるのです。健全なみことばの教えを内側にた くわえるのは易しいことですが、心には愛がありません。キリスト者に忍耐があ ればいいのですが。広い心があればいいのですが。しかし悲しいことに、多くの 神の子どもたちは、自分たちの持っている光について熱心のあまり、自分たちの 聖書解釈と違う人々を即座に「異端者」と決めつけ、そのように扱ってしまうの です。私たちのとても大切にしている見解とは反対の意見を持つ人々に対しても、 神は愛の内を私たちに歩ませようとされます。教師の教えることに反対する意見 ほど、教師の霊性を判断する材料はほかにありません。
12月23日    私たちは、この宝を、土の器の中に入れているのです。それは、この測り知れ ない力が神のものであって、私たちから出たものでないことが明らかにされるた めです。                                                  II コリント 4.7  キリスト者であることの実際面の性質についてもっとも明快な説明がここにあ ります。キリスト者であることは土の器であることでも、宝であることでもあり ません。それは土の器の中の宝です。いかなる人間の弱さも神の力を制限するに 足らないことは神への大きな感謝の根拠となり続けることでしょう。  あまりにもあっさりと私たちは土の器には力がないと考えてしまいます。しか し私たちの祝福に満ちた主御自身は私たちのために「弱さのゆえに十字架につけ られ」ました。弱さを感じることで、悪いことは一切ありません。私たちは人間 の感情を抑圧し、最後には氷のように冷酷になるようになどとは言われていませ ん。実際のところ、こうした冷淡な状態に至った人々は、周囲の人々にとっては いつでも枯渇の元凶なのです。というのは、もし周囲との関係が適度に良好な状 態にとどまってさえいれば、その人はなにがなんでも性格的な愛情の欠乏を補わ なければならなくなります。けれどもそれは間違っています。私たちはむしろ神 の御霊に私たちの感情を用いていただくようにするべきです。勿論主は強制され ません。勿論、私たちは宝を持っているにちがいありませんが−−そうです、確 かに持っています。しかしその宝は冷蔵庫に入れられているのではありません。
12月24日 「これだけで、どうして百人もの人に分けられましょう。」 II 列王記 4.43 信仰は神の奉仕においてなくてはならないものです。なぜなら信仰なしで、本 当の意味での霊的な仕事などありえないからです。しかし私たちの信仰には訓練 と鍛練が必要であり、物質的な不足はそのために神が用いられる一つの方法なの です。手で触れることのできない様々なことにおいては、神に対する信仰を持っ ていると公言することは難しいことではありません。これは自己欺まんに過ぎな いのかも知れません。その理由は一つ。ありのままの私たちの信仰がどれほど欠 けたものであるかを具体的に示す根拠がなにもないからです。しかし食べたり、 飲んだり、現金などの金銭的な必要に迫られたとき、問題は実際的なものとなり、 私たちの信仰の実質が即座に試されるのです。もし私たちがこの世で必要なもの を神が備えてくださることを信頼できない状態で働こうとして、霊的な必要につ いて語ったとしても、なんの益があるでしょうか。私たちはほかの人達に神は生 ける神であると宣言します。神が生きて働かれていることを、まさにこの物質的 な実生活においても証明しようではありませんか。私たちがどうしても知ってお かなければいけないことは、ほかの霊的な仕事の要請が来たとき、私たちの中に 培われるものは、神への信頼以外のなにものでもないということです。
12月25日 幼子を見、ひれ伏して拝んだ。そして、宝の箱をあけて、黄金、乳香、没薬を 贈り物としてささげた。 マタイ 2.11 マタイの福音書は王の福音書です。「私たちはその子を拝みにきました」と、 博士たちは言いました。こうして御子の主権のなんたるかをまず博士たちが確定 したのでした。なぜなら礼拝がすべてだからです。私たちが礼拝すればするほど、 神は礼拝の根拠をますます与えてくださいます。祈る前にまず礼拝しましょう。 説教の中で、礼拝しましょう。あらゆることにおいて、崇拝の念を神に向けまし ょう。これこそ今日、神の礼拝が確立されるために地上の教会に与えられた務め です。私たちが礼拝を神に捧げないなら、神がこの世界で礼拝をお受けになるこ となどなくなってしまいます。もちろん私たちはほかの奉仕をいい加減にしてよ いわけではありませんが、どんなときにも、なによりもまず神に礼拝を捧げまし ょう。博士たちは自分たちの宝の箱を主に開きました。どうして私たちはあらゆ るものを出し惜しむことができるでしょう。そして私たちが神に捧げるものは、 香水ではなく、香でなくてはなりません。香はその香りが失われる前に、香の壇 で完全に焚き尽くされなければなりません。これこそ真の礼拝です。御父が真の 礼拝者を捜し求めている今とは、この私たちの時代なのです。
12月26日 しかし定めの時が来たので、神はご自分の御子を遣わし、この方を、女から生 まれた者・・・・となさいました。 ガラテヤ 4.4 イエスが生まれたとき、イスラエルは属国でした。王国の偉大さは思い出ばな しにすぎなくなり、神の民はカイザルに納付金を払いました。時はアウグストス の治世、ローマは全世界を支配していました。けれども表面的な出来事はともか く、時が満ちてイエスはお生まれになりました。すべてが整えられていました。 キリストの福音はあらゆる人々のためのものであり、一つの狭い国に限定され得 るものではありませんでした。そこで神はローマが世界を吸収することをお許し になり、イエス・キリストはローマ帝国内で、ローマの十字架にかかられたので した。 ローマの通信手段は良好でした。ローマの道とローマの航路は世界中に延ばさ れていました。ユダヤ人は五旬節の時にローマに入ることができ、福音を聞き、 敵国の国境を越えることなくその福音を自国に持ち帰ることができました。それ というのもローマが支配していたからで、使徒たちは帝国内の町から町を自由に 行き交いし、救い主の話をしたことでしょう。使徒行伝はこの世に関しての権威 が公平で公正であったことを示しています。御言葉の中でローマは野の獣に結び 付けられていますが、獅子の口をふさがれる神はローマをご自分の道具として手 懐けられました。神が閉じられると誰も開く者がなく、神が開かれれば、誰もそ れを閉じることはできません。
12月27日 その御座の回りには・・・・虹があった。 黙示 4.3 黙示録4章から11章にかけての啓示は神の御座(4章2節)に関するもので、 12章から22章にかけては神殿(11章19節)に関係しています。最初の部 分の冒頭で、御座の回りの虹が見られ、あとの部分の冒頭では、神殿の中に契約 の箱が見られます。神の御座は天地万有を支配するために用意されたものです。 御座を完全に取り巻く虹は、御座に座したもう神が、いかなる政策においても、 人類との契約に対して永遠に真実を尽くすという天地万有に対する証しなのです。 神殿は神ご自身の住まいとして建て上げられました。その神殿内の神の契約の箱 の存在は、この契約の箱は不信仰なイスラエル人の国の歴史の真ん中から永い間 失われたままになっていたものですが、神ご自身に対する神の証しです。神の契 約の箱は、不信仰な神の約束の民に対してさえも、神ご自身がすると誓約された ことは間違いなく果たすという神の御性質が真実であることを保証しています。 神にはご自身を否むことがおできになりません。キリストにおいて神の御真実は 確実なものとされ−−私たちは今、神のうちにあるのです。
12月28日 「この子のために、私は祈ったのです。主は私がお願いしたとおり、私の願い をかなえてくださいました。それで私もまた、この子を主にお渡しいたします。」 II サムエル 1.27以下 ここでの二つの言い回しにお気づきになりましたか。私にはそれがとても大切で す。両方を読んでみてください。「主はかなえてくださいました・・・・私もまた、 この子を主にお渡しいたします」。悩みのうちにハンナは子供のことで主に嘆願し ました。そしてその願い はかなえられました。この祈りの答えにまさる答えがいっ たいあるでしょうか。彼女の祈りの主眼はこの子供のことでした。けれども彼女の 懇願がすべて受け入れられた今、ハンナは与えたもう方にすべてを返しました。そ してサムエルが母親の手からはなされるとき、「こうして彼らはそこで主を礼拝し た」と聖書は告げています。 ハンナに時至ったように、私にも時が来れば、あらゆる望みの集中していた私にと ってのサムエルは、私の手から離れて神の御手へと移ります。そのとき私は主を礼拝 することの本当の意味を知るでしょう。なぜなら礼拝とは十字架の足跡に付き従うこ とだからです。その十字架も御もとでは神がすべてのすべてとなります。私たちが握 りしめているあらゆるものを手放して、焦点を自分自身から神に向けるなら、それが 礼拝です。
12月29日 岩の裂け目、がけの隠れ場にいる私の鳩よ。 私に、顔を見せておくれ。 あなたの声を聞かせておくれ。 あなたの声は愛らしく、あなたの顔は美しい。 歌の中の歌(雅歌) 2.14 主の御臨在のもとへと自分自身を引き出すことがどれほど難しいかを私たちは よく経験します。私たちは孤独を恐れ、外界のものから物理的に身を退こうとす るときでさえ私たちの思いはなおそれらに惹かれてしまいます。私たちの多くは ほかの人々と楽しんで仕事をすることできますが、いったいどれだけの人が至聖 所で神に近づくことができるのでしょうか。神の御臨在のもとに出て神の御前に 一時間ひざまずくには、私たちの持てる力すべてを振り絞らなければなりません。 そうするには死にもの狂いにならなければなりません。しかし神に仕える誰もが、 一時間神と過ごすために真夜中に起きていることのすばらしさ、あるいは祈りの 時間を過ごすために朝早く起きていることのすばらしさ、といった時間の大切さ を知っています。たいへん率直に申し上げます。遠くから神に仕えることはでき ません。神に近づくことを学ぶことによってのみ、神に仕えることのなんたるか を知ることができるのです。
12月30日 私は・・・・大いに喜んで財を費やし、また私自身をさえ使い尽くしましょう。 II コリント 12.15 1929年、長く福音の仕事に従事したあと、私は消耗し尽くして福州の自分 の町に戻って来ました。ある日、杖をつきながら、とても弱々しく、具合が悪そ うに道を歩いていると、昔の大学の教授に会いました。教授は喫茶店に私をつれ て入ると、私たちはそこで腰をおろしました。教授は私を見つめると言いました。 「いいかね、学生時代の君に我々はずいぶん目をかけてきたつもりだ。君ならき っと何かりっぱなことをやり遂げてくれると期待していたんだ。なのに、これが 君の本当の姿だってい言うわけかね」。この的を射た言葉を聞いたとき、私が最 初にしたかったことは、泣き伏すことであったことを告白しなければなりません。 私の経歴、健康、あらゆるものが失われていました。そうした中、老教授は尋ね てきました。「成功するわけでもなく、成長するわけでもなく、取り柄も何もな い今のままの状態に、君はずっととどまっているのかね」。しかしまさに次の瞬 間、私の上にとどまっておられる栄光の御霊を持つことに、どんな意味があるの かを真実知ることができたのです。私の主に私の人生を注ぎ出すことが可能であ るという考えが喜びを伴なって、わたしのたましいに、文字通り洪水のように押 し寄せてきました。私は黙って顔を上に向けると、こう言うことができました。 「主よ。あなたを賛美します。これこそあらゆる可能性の中の最善の道でした。 私の選んだ道は、正しかったのです」。
12月31日 ダビデは、その生きていた時代において神のみこころに仕えて後、死んで(英 訳:眠りにつき)先祖の仲間に加えられ、 使徒 13.36 ダビデは彼の時代、一世代仕えました。二世代仕えることはできませんでした。 今日の私たちは、組織や社会や制度を作ることで、自分たちの働きを永続化しよ うと懸命ですが、旧約聖書の聖徒たちは自分たちの時代に仕え、消え去って行き ました。これは人生の大切な原則です。麦は蒔かれ、生長し、穂が実り、収穫さ れ、それからあらゆる株は、根に至るまで、掘り起こされます。神の働きは、地 面に根を張らず、まったく土の臭いがしない点で霊的なのです。人は過ぎ行きま す。しかし主は残られます。教会でなすべきあらゆることは、最新のものであり、 活きていて、現在の必要を満たすものでなければならず−−そればかりか現在の 必要さえも過ぎ行くものと言うこともできるほどです。働きを固定して、地に結 び付け、静止させては絶対にだめです。神ご自身がご自分の働き手を取り上げら れるのです。しかし神は別の働き手を送られます。私たちの働きは苦しみを伴な いますが、神の働きは断じて違います。なにものも神を妨げることはありません。 神は常に神であられます。 /PRE>