荒野の食卓 11月

荒れ野の食卓 11月


11月1日  サラは言った。「神は私を笑われました(*)。聞く者はみな、 私に向かって笑うでしょう。」 創世記 21.6  * 英訳:「神は私が笑われるようにしました。」  神は不可能なことにおいてその練達のわざを存分に発揮なさいました。サラの 笑いはほんとうに驚きの笑いでした。それよりも前に笑ったのはアブラハムでし た(17章17節)。それはアブラハムの不信仰の笑いでしたが、そのとき不従 順になってしまっていた神に向けられたものではなく、間違いなく自分自身に対 して向けられたものだと解釈されるべきものです。神の示したことに対して、あ らゆる点でまったくあり得ないという判断ほど神への礼を失したものはありませ ん。  それまで何年間かのアブラハムの信仰はどこへ行ったのでしょうか。真の信仰 はありましたが、そこにある種の「現実主義」、すなわちわずかばかり正当化さ れた自己へのよりたのみが混入してしまったのではないでしょうか。それはいわ ば神にアブラハムを付け足した信仰でした。そしてついに「アブラハム」的献身 は破局を迎えたことを知るようになりました。信じるべきお方としては神おひと りが残されました。しかしここで、信仰は新しい性格を帯びました。それは好ま しい状況は信仰を助けるどころか、しばしば信仰をどこかへ隠してしまうという ことです。条件が整えば整うほど信仰は難しくなり、状況が厳しくなればなるほ ど信仰は易しくなるようです。そしてまったく不可能な状況に置かれると、すが りつくことのできるお方は神だけというなりふり構わぬ信仰によって、ついには 驚きの笑いを伴うような約束が与えられるのです。
11月2日  主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりが、あなたがたすべてとと もにありますように。 II コリント 13.14  神の愛は、あらゆる霊的祝福の源です。そしてイエス・キリストによって体現 された恵みは、その霊的祝福を私たちの身近なものにしました。そして聖霊によ る交わりは、その霊的祝福が私たちのものとなるための手段です。神の私たちへ の計画を、御子が私たちのために成し遂げ、そしていまや聖霊がそれを私たちに 伝えるのです。ですからキリストにあって私たちに与えられたものを新たに発見 したとき、神が定めた方法にのっとって、その働きがなされることを期待しまし ょう。御霊によって歩みましょう。あらゆることについて神に従い通しましょう。 そうすることで、私たちは神への扉を大きく開き、神の御旨を余すところなく実 現していただけるのです。
11月3日  内庭の門、および神殿の中で務めをするときは、毛織物を身に着けてはならな い。・・・・汗の出るような物を身に着けてはならない。 エゼキエル書 44.17以下  この命令は意外ですが、そのいわんとするところは納得できるものです。目に 見える宮で仕える者は毛織物(ウール)を身に着けることが禁じられ、そのかわ り亜麻布(リネン)を着なければなりませんでした。なぜなら来るべき世の礼拝 の条件によると、一切の人間の汗を流したわざは主に受け入れられないからです。 これは何を教えているのでしょうか。その雛形をたどると私たちは創世記3章の 人間の堕罪まで遡ることができると思います。なぜなら人間の堕罪の呪いは地に とどまり、その結果人間の骨折りなしには地は作物を生じなくなり、アダムは次 のような宣告を受けたのでした。「あなたは、顔に汗を流して糧を得なければな らない」   今日の主の働きはそのようなものではなく、来るべき時代の努力を必要としな い性格を帯びています。あるいは、主の働き神の祝福によって特徴づけられるた めには、努力をなくすべきなのです。神の祝福がないときに初めて肉の努力は必 要となります。霊的な働きは神の働きだと、私が申し上げるのを許していただき たいのです。そして神が働かれるとき、人は汗を流して努力する必要などないの です。
11月4日  ダビデが主のみこころを伺うと(*)、 II サムエル 21.1  * 英訳:ダビデが主のみ顔を捜し求めると(RV.改訂訳)−−原文採用 :ダビデが主の御姿を追い求めると(ASB−米標準訳)  熱心に祈りに励んでも神から何もお答えをいただけないことがあります。にも かかわらず、何がその原因なのかを追求することのなんと少ないことことでしょ うか。なぜなら御心にそぐわない祈りに神がお答えくださることをどうして期待 できるでしょう。祈るよりもまず、祈りの鍵を発見しなければなりません。飢饉 の続くその時、ダビデは主のみ顔を捜し求めたと、この章に記述されています。  ダビデは単純に次のようには叫びませんでした。「飢饉が3年も続いています。 どうかあわれんでくださり、今年は豊作にしてください」。そうではなく、ダビ デは主の御顔を捜し求めました。神はご不満だったでしょうか。ダビデの実直な 質問に対し、神も単刀直入にお答えになり、そのことによって答えられる祈りへ の鍵もお与えになりました。サウルはキブオン人たちを殺したことで、彼らを生 かしておこうという神とイスラエルの合意を踏みにじってしまったようでした。 実際、サウルは神への熱心のあまり彼らを殺してしまっていました。サウロは罪 を犯しました。神は厳粛な誓約が破られることをお許しにはなりません。ですか ら何かが正しい状態にもどされねばなりません。「その後、」と14節に書かれ ています。「神はこの国の祈りに心を動かされた」。ダビデは鍵を発見しました。
11月5日  神に近づく者は、神がおられることと、神を求める者には報いてくださる方で あることを、信じなければならないのです。 ヘブル 11.6  神に関する三つの事実が信仰の基礎となっています。すなわち、神はできる (マタイ9章28節以下)、神はいとわない(マタイ8章2節以下)、それにこ こで引用した事実、神はおられる。しかしこの信仰の最後の項目によって、私は 神はおられますよ、という空虚な信仰について話そうというのではありません。 神はおられ、生きて、存在し、活動しているという確信についてお話ししたいの です。  あなたが罪人に対してキリストを指し示したとしましょう。あなたが彼ととも に祈り、彼があなたについて祈ったとき、彼に、今の自分の立場を尋ねます。も し彼が、神は自分をお救いになることができると答えるなら、あなたは満足しま すか。たとえばもう一歩踏み込んで、神は間違いなく自分を救ってくださるだろ うと確信したら、それで十分ですか。そうではありませんね。神は私を救ってく ださった、神は我が救い主だという確信を得たことを彼が示すまであなたは満足 できないはずです。「神はおられる」というところに達していなければ、「神は できる」「神はいとわない」というところも全然うまくいきません。なぜなら神 の力と神の憐れみは、それだけではただ私たちに望みを抱かせるばかりだからで す。こんな時、信仰は神の働き次第になります。あなたが、「神がおられるから、 私は・・・・であり、私は・・・・を持っている」と言えるまで、自分には信仰 があると主張するのは控えてください。
11月6日 悪魔の策略に対して立ち向かうことができるために、神のすべての武具を身に 着けなさい。 エペソ 6.11 ここで用いられている「立ち向かう」という動詞は、「一歩も退かない」とい う意味です。現代の用法で言えば、進軍の命令−−外国の土地を占領して支配す るための侵略−−ではありません。神はこのようには命じなかったのです。「立 ち向かう」という言葉は、私たちが立っているところ、すなわち敵に攻撃をしか けられところこそ実は主の領土であり、それ故に私たちのものでもあることを暗 に示しています。サタンの王国に対して圧倒的な勝利を得るために、死と復活に よる攻撃をしかけたのは主イエスでした。今日の私たちは、主がおさめられたこ の勝利を維持し堅持するために戦えばよいのです。これがおそらく、ここで記述 された部具の大部分が防御用だという理由でしょう。なぜなら領土は主のもので す。私たちはここに橋頭堡を築くために戦う必要はありません。挑戦者から領土 を守りさえすればよいのです。
11月7日 私たちは、私たちを愛してくださった方によって、これらすべてのことの中に あっても、圧倒的な勝利者となるのです。 ローマ 8.37 キリストにあって、私たちはすでに勝利者です。ですから、ただ勝利を得よう と祈ることは−−その祈りがたとい賛美によって捧げられたとしても−−私たち のよって立つ基礎を放棄する行為であり、そのことによって敗北を自ら招くこと は明白ではないでしょうか。お尋ねします。あなたは敗北を経験したのでしょう か。いつか強くなって絶対勝って見せる、と思ったことはなかったでしょうか。 そうでしたら私の祈りは使徒パウロがエペソの読者のために捧げた祈りとなんら 変わるところがありません。どうか神が、あなたがたの心の目を新たに開いてく ださって、はっきりと見えるようになって、ご自身の座を「*すべての支配、権 威、権力、主権の上に・・・・すべての名の上に高く置かれた」主と、あなたも 一緒に座っていることを教えてくださいますように。あなたの周りの困難な問題 は変わらないかもしれません。獅子は前にもましてうなり声を高く上げるかもし れません。しかしあなたはもう勝とうと思わなくていい。現にあなたはキリスト にあって戦いの勝利者なのです。 * エペソ 1.20以下
11月8日 王の娘は奥にいて栄華を極め、 その衣には黄金が織り合わされている。                           詩篇 45.13  花嫁は、たいへんな手間がかけられた実に巧みな「刺繍」がなされた花嫁衣装 を身にまとって、王の前に出ることが定まっていました。全くの贈り物であった 衣服が一着ありました。しかし花嫁は単なる黄金をぜいたくにきかざっていたの ではありませんでした。つまり、黄金は純粋に神から由来したものを意味してい ました。花嫁の衣装にはこの「黄金が織り合わされて」いたのです。これは間違 いなく黄金の糸が布地それ自体に編み込まれたか、あるいは刺繍されたことを意 味しているのです。これはキリストの栄光が示されるために、花嫁がカルバリー の十字架を実際に経験するようにとの聖霊の絶えざる要求を示唆しています。花 嫁が進んで協力者となるとき、神は働かれます。小羊の妻は「身支度を整えて」 いました。
11月9日 主を恐れることは知恵の初め、 聖なる方を知ることは悟りである。                             箴言 9.10  愚かさか賢さか。この問題はただ、ぐずぐずと服従を遅滞するか、あるいはて きぱきと機敏に服従するかによって決定されます。私たちの中には子供を持つ親 もいることでしょう。子ども達の気質はなんとそれぞれに異なっていることでし ょうか。ある子どもはすぐに言うことに聞き従い、別の子どもはそれを後回しに することで、やらなくてもよくなるだろうと考えています。もし実際にそのよう なことが起こった場合、あなたがしっかりできずに、子どもにそのような逃げ道 を許してしまうとします。そうするとぐずぐずしていた子どもは賢いということ になります。なぜならその子は何もしないですんだからです。しかしもしあなた が自分の言いつけを断固曲げず、服従させるならば、その子はまったく同時に同 じ問題に直面する子どもよりも間違いなく賢くなります。神のみこころをはっき りと認識しなさい。もし神が御自身のことばを割り引くことがあるならば、神の みことばが指し示すことを忌避しようとしても、あなたは愚かとは呼ばれないで しょう。しかし神は不変の意志を持つ、不変の神であるならば、あなたは賢明で あるべきです。今行動するのです。失われた時間を取り戻すのです。
11月10日  この人たちは・・・・みな心を合わせ、祈りに専念していた。    使徒 1.14  神の御心はどのようにしてこの地上に実現するのでしょうか。ただ神がみここ ろを喜んでする人々をご自分のものとすることによってです。私たちのうち、だ れもが次のことを忘れないでいるとき、御心はなされるのです。すなわち、今日 の差し迫った状況のなかで、祈りに専心する教会は天国からの開かれた窓口であ り、天の力を解き放つ道であり、そして祈りというその使命は私たちに許された もっとも大きな仕事なのです。神は御自身の求めるものをお示しになります。私 たちは御前に立ち、求めます。すると神は天からことをなしてくださいます。こ れがほんとうの祈りです。そしてこれとまったく同じことが私たちの祈り会でも 見られなければなりません。もし、よそはともかくここ上海の教会がこの祈りの 使命を知らないでいるならば、神よ、どうかお赦しください。祈りの使命がなけ れば、ほかの一切は虚しい。神に用いられる器はここには一つもありません。
11月11日 私はあなたの仰せの道を走ります。 あなたが、私の心を広くしてくださるからです。                                                 詩篇 119.32  今日の病の多くは、単なる教義の客観的な受容に私たちが満足していることに 起因します。私たちはみことばの外面を求めています。つまりみことばに心を照 らす光を求めるのです。しかしみことばの実体を実生活に応用することをやめて しまっています。聖書を読むと、私たちはたくさんの知的な難問に出くわします。 そして「光」はこうした難問を私たちに解きあかしてくれるのです。多くの人々 が、自分たちの教義が保守的か正統的で、気持ちの問題としてこれに賛成し、あ れに反対すればそれで十分とするのは、要するに感覚の問題なのです。この理由 によって原理主義者(ファンダメンタリスト)は自分たちが近代主義者よりもは るかに高いところにいると考えます。しかし私たちが、神の御子に関する実質を 伴った真の知識を持つ度合いに応じて、ただ神の眼によって霊的に測られること は明らかなことであって、それ以外の尺度はありません。私たちは完全に正しい かも知れません。しかし私たちが主のいのちを持たず、それによって生かされて いなければ、私たちはなくてはならないものを欠いているのです。
11月12日  自分の着物を洗って、いのちの木の実を食べる権利を与えられ、門を通って都 にはいれるようになる者は、幸いである。 黙示 22.14  アダムが世界に罪を招き入れたのは、殺人を犯したからではありません。殺人 はその後で行われます。2本の木にまつわる自由選択によってアダムは罪を招き 入れてしまいました。その一本の木の名前はいのちの木であり、もう一本の木は アダムに善悪の問題を自分で判断できる力を与えたのでした。アダムはよく考え た上であとの方の木を選び、神から離れて一人でやっていけるところまで自分の 魂を発達させるという選択をしたのでした。それゆえ神が、御自身の栄光のため に、この宇宙で神のみこころを成し遂げる器となるべき人類を確保されるとき、 彼らは自分のいのちを−−そうです。まさしく息、生命−−神にまったく依存し ていることでしょう。神はそうした人々にとっては「いのちの木」となることで しょう。
11月13日  だから、こう祈りなさい。 「天にいます私たちの父よ。御名があがめられますように」                                                  マタイ 6.9  私たちの父、とは。神の民の相互依存は単なる慰めに満ちた思想ではありませ ん。相互依存とは神の民の死活にかかわる要素なのです。私たちはお互いに相手 がいなくてはうまくいきません。「神がおのおのに分け与えてくださった信仰の 量りに応じて」(ローマ12.3)というみことばはもっともですが、この節の 文脈が明確に示しているとおり、独り、孤立した人間にはそのみことばを完全に 実践することは絶対にできません。キリストの身丈に達しキリストの栄光を現す ためにはすべてが整えられた御からだが必要とされます。これが祈りによる交わ りがとても大切な理由です。自分一人で主に信頼することはいいことですが、そ れだけでは十分とは言えないでしょう。同時に私はほかの人々とともに主に信頼 しなければなりません。キリストにあって一つであるという基盤に立って祈るこ とを学ばなくてはなりません。なぜならいっしょでこそ私たちは初めて祈りにお いて神の御目的に到達することができるのです。私には主の助けが必要であり、 主のいのちは御からだのいのちでもあるという理由から、御からだからの助けを 必要とします。
11月14日  イエスは言われた 「人々をすわらせなさい。」   ヨハネ 6.10  私たちキリスト者の生活は、まだ到来していない天の御国の祝宴に一足先にあ ずかるようなものです。なぜなら、神は私たちを「ご自分の右の座に着かせ」て くださった、すなわち神は全能の力によって、私たちを一切のものの上に立つ天 にすわらせてくださったから(エペソ1章20節、2章6節)。このことは救い のわざは私たちのものではなく、神のものであることを意味します。つまり、私 たちが神のために働くのではなく、神が私たちのために働いてくださいました。 神は私たちに休息を提供しています。神は御子の完成した救いのわざを用意され、 私たちへの贈り物としてくださり、「すわりなさい」と声をかけてくださってい ます。神の救いの招きは、盛大な披露宴への招待のことばにこれ以上考えられな いほど適切に表現されているように思います。「何もかも整いました。どうぞ宴 会にお出かけください」。
11月15日  そうすればたましいに安らぎが来ます。                        マタイ 11.29  「わたしがあなたがたを休ませてあげます」とはすなわち備えられた休息。し かし探さなければ見つからない休息でもあります。まずは神のところへ行き、神 のいのちの賜物を受け取るだけで得られる安らぎです。そのためには純粋に語ら れた福音をただ信じればいいということではなさそうです。それは弱さを身にま とい、罪人の重荷を負い、主イエス御自身と個人的な生きた交わりを持つことを 意味します。このような交わりは間違いなく安らぎをもたらします。このような 贈り物が神の子ならばだれにでも与えられているとは、神になんと感謝したらよ いでしょう。  しかし、安らぎに至ると、何かもう一つ別の出発点にいるような気がしてきま す。私たちが神から学ぶべきことは−−主御自身に対する知識において成長する ことに、深い満足が潜んでいることが発見できること。なかんずく、私たちが学 ぶべきことは主の心の優しさとへりくだりです。そうすれば、と主は言われます。 私たちに安らぎが来ます。なぜならこの安らぎは賜物ではなく、弟子たち、すな わち学ぶ者に用意されたものです。そして学ぶには時間がかかります。しかしそ こには測り知れない報酬も用意されています。
11月16日    わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負 って、わたしから学びなさい。           マタイ 11.29    主とくびきをともにするとはなんでしょうか。それは自発性、神のご計画にお いて主に喜んでする協力することを意味しています。もちろんくびきとは牛が畑 の中を好き勝手に歩き回らないように牛を拘束するもので、前を一直線に揃えな ければなりません。そうしてのみ、役割を果たすのです。そしてそこでは、自分 は大したものだというおごった思いを持つ替わりに、どんなにひどい状況でも神 の示すところで喜んでいるへりくだった思いが大切なのです。  このマタイによる福音書の章には、幼子たちだけが主の公の奉仕を理解し、そ れに応えたということで、一見、主の公の奉仕における挫折があるように思える のです。「なんて安っぽい福音」と私たちは叫ぶかも知れません。しかしそうで はありません。「天地の主であられる父よ。あなたをほめたたえます」と主は祈 られています。「これがみこころにかなったことでした」。主はなんでもかんで もなさろうとはしません。ただ神が命じられたことだけを心から喜んでなされる のです。問題は、私たちが主の制限を喜んで受け入れ、喜んで主とともに進もう とするかどうかです。そのときこそもっとも深い安らぎが「私たちのたましいに 来る」からです。
11月17日  あなたがたといっしょにいたときの私は、弱く、恐れおののいていました。・ ・・しかし(*)御霊と御力の現れでした。 I コリント 2.3以下      *英訳聖書による  みことばは私たちに2種類の信者の経験について教えています。そのどちらも 同じように聖書に根ざし、私たちに必要なものです。一つは力強い、あるときに は殆ど自慢とも聞こえる次のような宣言です。「神はいつでも、私たちをキリス トにある勝利へと導いてくださいます」であり、「私にとって、生きることはキ リストです」。そして「私は私を強くしてくださる方によってなんでもできるの です」。いまひとつは、同じ人々が、同様の真実さをもって、告白しなければな りません。「ほんとうに、自分の心の中で死を覚悟しました」。「キリスト・イ エスは、罪人を救うためにこの世に来られ、私はその罪人のかしらです」。「だ れかが弱くて私たちが弱くないということがあるでしょうか」。後者は欠点があ り、ひ弱で、大丈夫かなと心配になるほど自信を喪失しています。しかし実際の ところ神の子どもの実人生はこれら二つの経験の板挟みなのです。勿論あとの方 をなくして、最初の経験だけがあればいうことないのですが。しかし双方を経験 することはイスラエルの神−−そして同時にヤコブの神でもある、主を知ること なのです。
11月18日  ただ、主にそむいてはならない。その地の人々を恐れてはならない。彼らは私 たちのえじき(英訳:パン)となるからだ。 民数記 14.9    キリストにあって私たちが約束のものを受け継ぐという喜びが満たされる途上 で、私たちの前に置かれる試練は、カナン人の場合と同じくらい巨大かも知れま せん。しかし神はカナン人を通して私たちが増え広がるように導かれるのです。 信仰は彼らを食べ物と見ます。そのことにさえ気がつけば、私たちは困難によっ て成長し、大きくなれます。しかし逆も真なり。10人の斥候は意気消沈して 「探った地は、その住民を食いつくす地だ」(13.32)と報告しました。神 にある信仰を投げ捨て、問題に背を向けてご覧なさい。あなたの成長のために用 意されたものに、逆に呑み込まれてしまうような状況に自分を追いやることにな るのですよ。大勢の人は困難から身をかわします。私たちは楽な道、楽な道へと 向かいます。私たちは問題に正面からぶつかる替わりに、それを避けようとしま す。私たちはヨルダン川を渡るような危険なことや、私たちが想像もできないよ うな怖ろしいことにも直面しないでしょう。確かに私たちは逃げています。だか ら飢えて死ぬのです。  食物は私たちのいのちです。しかし私たちはそれを霊的な意味での休日に手に 入れることはできません。主がおられることを証明する機会を逸しないようにし ましょう。敵は私たちを悩ますかも知れませんが、そこにこそ食糧と霊的成長が 約束されているのです。
11月19日  陶器師は、粘土で制作中の器を自分の手でこわし、再びそれを陶器師自身の気 に入ったほかの器に作り替えた。 エレミヤ 18.4    天の陶器師の意匠は粘土の中の思い通りにならない何かによって台無しにされ ました。そうです。台無しになったのですが、粘土そのものが壊されたわけでは ありません。なぜなら陶器師はそこからもう一つ別の器をつくったからです。も し私たちがいつでも主の修正に対して備えができていれば、意に添わない状態に なってもなお神はそこから御心にかなうものをおつくりになるとはすばらしいこ とです。私たちはどこかで神のお役にたてなかったのでしょうか。そうなのでし たら、陶器師は没にしているのに、まだ続行するようにと陶器師は強要している のではないかという誤った想像を働かせて、いつまでもそこに固執するのは愚か なことではないでしょうか。  ひょっとすると陶器師は考えを変えたのでしょうか。私は今、「別の器になる ように」と命令されているのでしょうか。もしそうなら、最初の器になろうと努 力することは命取りになりかねません。「この陶器師のように、わたしがあなた を扱うことができないとでも言うのだろうか」と主は言われます。私たちは神の みこころの役割を演じることはできません。どんなに私たちが天の父を愛してい ても、御父が主権者であることにかわりありません。私たちは「私をあなたの御 そばに置いて、あなたを恐れるようにしてください。そしていつでもあなたの最 前に応える用意ができているようにしてください」という態度をとるべきです。 私は個人的に大きな慰めを、ペテロの忠告に見い出すのです。「あなたがたは、 神の力強い御手の下にへりくだりなさい。神が、ちょうど良い時に、あなたがた を高くしてくださるためです」(I ペテロ 5.6)。
11月20日 「先生。私たちは、夜通し働きましたが、何一つとれませんでした」                               ルカ 11.20  私たちが主のために骨折って働き、その努力の結果を当然求める場合がありま すが、結果は現れず、意気消沈してしまいます。「なぜ骨折り損なのだろう」と 自問してみます。「一晩中働いて祝福されないことがあるなんて」。しかしその 議論はここでは無意味です。現実に神はその祝福を止めておられるのですから。 人間的な問題に関して、私たちは原因から結果を推測します。しかし私たちの推 測はことごとく神の御心という分野では意味をなしません。その分野では、神た だおひとり原因が、原因そのものであられるから。  「でもおことばどおり、網をおろしてみましょう」。これは神の奉仕において 用いられる一つの信仰を示しています。その信仰とは、私たちのいさおしを超越 して、神が私たちを祝福してくださることを信じることです。もし私たちの期待 がただ主にだけ寄せられているなら、私たちは将来、至る所で主の祝福を目の当 たりにすることができると確信しています。ひとりの人の生活にとどまった主の 御心は、五十のいのちの救いに結びつくかも知れません。あるいは神に捧げられ る百人の人生につながるかも知れません。神の祝福には山のような結果が伴いま す。超自然的な現象を期待しましょう。奇跡を求めて神を見上げましょう。
11月21日  私は、自分の信じてきた方をよく知っており、                           II テモテ 1.12    キリストにあるいのちに満ちあふれたあまたの信者に、どのような経験を経て 今のようになったのですかと尋ねたとすると、ある人はこう言い、別の人はああ 言うでしょう。それぞれの信者はそうした生活に踏み入れることになったその人 だけの特殊なきっかけについて強調し、自分の経験を補強するためにみことばを 用います。そして不幸なことに多くのキリスト者は自分たちの特別な経験と特殊 なみことばをほかのキリスト者と争うために用いているのです。キリスト者がそ れぞれの方法で満ち足りた生活に導かれ、しかもキリストが彼らの中心であるな らば、私たちは自分以外の信者の経験や教義を互いに矛盾するものとみなす必要 はなくなるばかりか、相互に補完し合うものとして認めるはずです。これは事実 です。なぜなら動かし得ないことがあるからです。神の目から見て価値ある経験 とは、いかなる場合もほかの人の価値と主イエスの働きを新たに発見することに よって得られたものに違いないからです。ほかの方法によっては得られません。 これこそ試金石であり、避けて通れぬ道なのです。
11月22日  信仰は望んでいる事がらを具体化し、   ヘブル11.1(英ダービー訳)   私たちはどのようにして「具体化」しますか。私たち毎日、具体化しながら生 活しています。具体化することなしに、私たちはこの世界に生きていくことがで きません。「本質」とは、音や色そのものをさわることが出来ないのと同様に、 触れることのできないものかもしれませんが、それでも私の前に置かれた対象で あることに変わりはありません。「具体化する」とは、私に何か聞いたり見たり する能力があって、さわれない「本質」を現実のものとして捉えることを意味し ています。たとえば、黄色い色とは実際に存在していますが、私が眼を閉じると その実体は私から失われてしまいます。私には無になってしまいます。具体化す るものを見るという能力によって、私にとって黄色は黄色という色になります。 色がそこにあるだけでは成り立たず、それを私の意識の中に取り込み、具体化し なければなりません。視覚とはどれほど大切な賜物でしょうか。  しかし音楽や色でさえも、キリストの「望んでいる」ものであるなら永遠であ り、それ故現実なのです。そして私にはキリストの「望まれている」ものを具体 化する貴重な能力を与えられています。信仰。その能力とは神の御子の信仰です。 その信仰が私の経験の中で、神の事がらを現実のものにするのです。神の御真実 のうちに憩うとき、私がまだ十分に望んでいるとは言えないような未知のものま で、神の信仰は具体化してくれます。
11月23日  彼は私に言った。「いけません。私は、あなたや、・・あなたの兄弟たちと同 じしもべです。神を拝みなさい。」   黙示 19.10  何が起こったというのでしょうか。ヨハネは度を失い、御使いを礼拝しようと したとでも言うのでしょうか。なるほど。ヨハネは度を失っていた可能性がない わけではありませんが、その心がすっかり興奮していたことだけは確かでした。 彼のように優秀な頭脳を持った人は決してそのような愚かなことはやらかさない でしょう。しかしヨハネはそうした範疇の人ではありませんでした。なぜなら二 会も失敗をくり返したからです(22章8節と比較せよ)。ヨハネは正しい心を 持っていて、そうした正しい心とは混乱しやすく、ときどき愚かなことをしでか すというのがほんとうのところではないでしょうか。ヨハネの心は「神のみもと から出て天から下ってきた」栄光の教会のすばらしさと、ヨハネが忍耐と労苦の さなかに、あらゆる時を通しての神のもっとも偉大な傑作である神の教会におい て、同労者たちとともに座につくという驚嘆すべき事実の不思議さに、ヨハネの 心は圧倒されました。ヨハネの行動は間違っていました。これを疑うことは出来 ませんが、正しい態度から生まれたことでもありました。私たちが見習ってもい いことかもしれません。
11月24日  文字に仕える者ではなく、御霊に仕える者です。文字は殺し、御霊は生かすか らです。 II コリント 3.6  不可欠な霊的なものに殆ど注意を払わないくせに、完全に表面的な正しさだけ に目標を置いている人々と話すことは、たとい不愉快でなかったとしても、うん ざりです。「伝道方法」とかいった類のものに私はまったく興味がありません。 生まれつきの人間の力によって生きることがどれだけ有害であるかを実のところ まったく知らないで、イエス・キリストを主として従うもっとも大切な経験さえ も殆ど積まず、それでいて神の奉仕における方法論の無謬性に到達しようと誠実 に注意を向ける神の子どもと出会うのは、実際、とても悲しいことです。神御自 身が神の葡萄酒のためにもっともふさわしい、そして葡萄酒を熟成させるのに役 立つ皮袋を用意してくだっています。確かに葡萄酒を皮袋にたくわえないことは もったいないことですが、もったいないことよりももっといけないこと、致命的 と言ってもいいでしょうが、それは、葡萄酒のない皮袋を持っていることです。
11月25日  私たちの古い人がキリストともに十字架につけられたのは、・・・・私たちが もはやこれからは罪の奴隷でなくなるため       ローマ 6.6  主キリストが死んだことをあなたはなぜ信じますか。その確信の根拠はなんで しょうか。主は死んだような気がするからですか。いいえ、あなたは今までそん なふうに感じたことは一度もありませんでした。神のみことばがそう教えている からあなたは信じるのです。主が十字架につけられたとき、二人の強盗も同時に 十字架につけられました。あなたはその二人のどちらも十字架につけられたこと を疑いません。なぜなら聖書は極めて明確にそのことを語っているからです。さ て、あなた御自身の死についてはどうでしょうか。あなたのキリストとともなる 死は、二人の強盗の場合よりも身近なものです。彼らは主と同時に十字架につけ られましたが、別々の十字架でした。一方あなたは主とまったく同じ十字架につ けられたのです。なぜなら、主が死んだとき、あなたは主のうちにいたのです。 これはあなたの感覚に基づくものではありません。神がそうだ言われたという十 分な理由のゆえに、あなたはそうだと認知できるのです。キリストが死なれたの は事実です。二人の強盗が死んだのも事実です。そしてあなたが死んだのもまた 事実です。あなたの唾棄する自己も、キリストにあって十字架の上です。そして 「死んでしまった者は、罪から解放されている」のです。
11月26日  『なぜ、一日中仕事もしないで(英訳:何もしないで)ここにいるのですか・ ・・・あなたがたも、ぶどう園に行きなさい』 マタイ 20.6以下 この「何もしないでいる」、つまりギリシャ語の「アルゴス」という単語は、 罪からの救いに関するパウロの教義に光を当てています。なぜならその言葉は、 パウロがローマ書6章6節で、罪のからだが「無力となり(新改訳聖書脚注別訳)」 つまり十字架によって「影響力がなくなって」、もしくは「作用しなくなって」 と書いたときに、そこで用いられたことばの語源となっているからです。古い主 人である罪は依然動きまわっています。しかしキリストにあって罪に仕える奴隷 は死んでいます。ですから罪は私たちの手の届かないところにあり、罪に仕えて いた肢体は失業中です。ばくち打ちの手は失業中。小言幸兵衛の口は失業中。そ してこれらの肢体、器官はうってかわって今や「神への義の器」として用いてい ただくことができるのです。主の問いに対する答えとして、このような状況下で 「だれも雇ってくれないからです」と言えるということは、そこにもっとも報酬 の豊かな仕事への神の招きが隠されています。「あなたがたも、ぶどう園に行き なさい。相当のものを上げるから」。
11月27日  あなたがたは、以前は自分の手足を汚れと不法の奴隷としてささげて、不法に 進みましたが、今は、その手足を義の奴隷としてささげて、聖潔に進みなさい。                             ローマ 6.19  以前、中国人の兄弟が電車で旅行をし、三人の未信者と同席になりました。時 間をつぶすために、三人はトランプをしようとしましたが、ゲームをするには四 人が必要でした。彼らは兄弟を誘いました。「申し訳ありませんが」と兄弟は言 いました。「いたしかねます。というのも、私は手を連れてこなかったのです」。 「いったいそれはどういう意味ですか」と、一瞬三人は呆気にとられたあと、聞 き返しました。「この両腕は私のものじゃございません」と兄弟は答えると、そ れに続いて、兄弟の人生に起こった所有権の移管についての説明をしたのでした。 「あなたがたの手足(肢体、器官)を神への義の器としてささげなさい」と、パ ウロは言っています。そして先の兄弟はそれゆえ自分の身体の器官は完全に主に 属していると判断しました。これは実際的な聖潔の実です。
11月28日  キリストの十字架がむなしくならないために、ことばの知恵によってはならな いのです。                          I コリント 1.17  私がもう少し若かった頃、神の真理を指し示すことにおいて、非の打ち所のな い高い水準に到達することを追い求め、聴衆に誤解される可能性のあるものは何 一つ残すまいと念入りに吟味しました。説教においては危険性を排除することに 多く注意を払いましたが、その説教の霊的な価値は皆無に等しかったと言わざる を得ません。じきに私は、神は弱い人々を御自身の語り手としてお用いになるこ とを発見しました。神は私たちから簡明直截な説明を求めているのではなく、神 の光の輝きを人々にもたらすようなこの言葉、あの一節といった、ことばの端々 をお用いになるのです。神は完全な理解や、誤りのない説教を求めておられませ ん。実際そうした事柄での私たちの完全性への執着が、死んだ魂にいのちをもた らし、飢えた心への天のマナを与えるべき神の第一の御目的の前に立ちふさがる なら、その執着はまさに神を覆い隠してしまっているかも知れないのです。「わ たしがあなたがたに話したことばは、霊であり、またいのちです」。
11月29日  わたしはあなたの顔を、神の御顔を見るように見ています。                            創世記 33.10  この驚くべきことばは何を意味するのでしょうか。ペヌエルで、顔と顔とを合 わせて神にまみえたヤコブは、エサウとの会見を、神の御顔を再び見るかのよう に表現しているのです。それは多分にお追従だったかも知れません。ヤコブの以 前の奸計を弄する生まれつきの性格がここで尻尾を覗かせたのかも知れません。 それはまたヤコブの家族と持ち物の周到な準備が時間の浪費だったことの現れだ ったかも知れません。エサウの歓待に、ヤコブは、自分の小賢しい小細工ではな く神の超然とした支配によって救いがもたらされたことを認めたかも知れません。 しかしここにはさらにもう一つ、意味が隠されている可能性が残されています。 そしてこれは普遍の霊的真理でもあります。その真理とは私たちが不当に扱った 人々が私たちにいつでも神を示してくれることなのです。私たちが彼らに出会う と、まるで神に出会ったような気がします。それはさばきでもあり得ます。もし 私たちの心がほんとうの意味で主の御前にへりくだっている、そういうことがあ るなら、神に感謝しましょう。その普遍の真理はまた恵みと和解をあらわし得ま す。「まずあなたの兄弟と仲直りをしなさい。それから、来て、その備えものを ささげなさい」。
11月30日  主よ。わたしはあなたの救いを待ち望む。 創世記 49.18  創世記49章は預言者としてのヤコブを明らかにします。ヤコブは神の御思い を真に理解することで、この驚くべき予測をたてることができました。しかしこ の章の真ん中に位置するこの節はヤコブ自身の叫びです。というのも、至聖所に は悲しみと罪の予感が、喜びとよきことの予感と同様に存在したのでした。ヤコ ブはダンのことを道の傍らの蛇として暗い絵にして描かざるを得ませんでした。 そして、この箇所でヤコブは自分自身を語っています。目を天に向け、預言者で ある自分の出自を明らかにします。説教をすることは簡単です。しかしひとたび 説教をすると、私たちは神がその説教者を捉えているかいないかをたちどころに 知ることができます。年老いたヤコブはダンをどのように扱うかという計画を練 り始めることもできたはずです。ヤコブにはいつでも人を出し抜くことができま したが、この時は違います。この時にはヤコブは神を知ることを学んでいたので した。「主よ。わたしはあなたの救いを待ち望む」。