荒野の食卓 10月

荒れ野の食卓 10月


10月1日  
 神はアブラムを覚えておられた。それで、・・・・神はロトをその破壊
の中か らのがれさせた。             創世記 19.29

 神がまさにソドムに裁きを下だそうとしていることに気がついたアブラハムは、
ただちに祈り始めました。アブラハムがどのように祈ったのか、それは多くの教
訓を与えてくれます。アブラハムは単に町を救ってくださいとは祈りませんでし
た。そうです。アブラハムの願いは神の御性質を踏まえていました。神は正義の
神であるという事実をアブラハムはわきまえていました。それが彼の祈りの秘密
でした。深い謙遜と執拗な熱心さを伴ないつつ、アブラハムは神へ質問を次々と
行うのでした。アブラハムの質問は彼の願いでもありました。そしてあらゆる質
問は神の正義に基づいていました。アブラハムの最後の質問が終わると、「主は・
・・去って行かれた」と語られています。ある人々は、アブラハムは尋ね続け
だったと考えています。しかしアブラハムは神を知っており、なによりも祈りの
秘訣を心得ていました。アブラハムのとりなしの祈りは、正しい基の上に 置かれ
ていたが故に、親族を救うことができたのです。神が町を滅ぼされたとき、 神は
「義人ロトを救い出されました」(II  ペテロ  2.7)。


10月2日  ロトの妻を思い出しなさい。自分のいのちを救おうと努める者はそれを失い、 それを失う者はいのちを保ちます。        ルカ 17.32以下  私の間違いでなければ、これは喜びにあふれた召命に対する私たちの反応につ いて教えた新約聖書中の聖句です。その瞬間、私たちの心の中のほんとうの宝が 判明します。その宝が主語自身であるなら、後ろを振り返ることがないでしょう。 贈り主よりも、神の賜物により深い愛着を持つということは容易なことで−−付 け加えてもよければ、神御自身よりも神の働きにより愛着を持つということすら も容易なのです。しかし屋根の上に上った彼は、自分の持ち物を振り返りません。 たとえでお話ししましょう。私は本の執筆に従事しています。わたしは8章書き 上げ、もう一章を書いて9章にしなければなりません。そしてそれは主の前で真 剣に訓練を受けた事柄についてです。さて、「ここに上れ」との呼びかけがあっ たとしたら、わたしの反応はどうでしょうか。「わたしの本はどうなりますか」。 わたしが家の階下で行っている価値ある仕事が、あたかも私を地面に留め置く釘 になって、私を金縛りにしてしまうことがあり得ないと言い切れるでしょうか。 問題は常に、私の心はどこにあるか、です。


10月3日

 神は、みこころのままに、あなたがたのうちに働いて志を立てさせ、ことを行
わせてくださるのです。
                          ピリピ 2.13

 私は今キリストのうちにありますから、神の道徳律は変わっていませんが、私
はそれがもはや守りません。神を賛美しましょう。玉座に在す律法をお与えにな
る方は、今や私の心の中で律法を守る方になってくださっているのです。律法を
お与えになる方が、そのままそれをお守りになるのです。神は命令を作案します
が、自らお守りになります。私たちが律法をすべて行おうと努力していたときに
は神は何もお出来になりませんでした。私たちが失敗に失敗を重ねたのは、律法
に到達しようともがいていたからでした。私たちの問題は、私たちが余りにも弱
くて神のみこころを行えないということですが、近づかないですませるには弱く
なりきっていないということなのです。完全な幻滅だけが、人を絶望の状態で、
律法のすべてを行う用意のできている神によりたのませることができるのです。

10月4日
 
 何事でも神のみこころにかなう願いをするなら、神はその願いを聞いてくださ
るということ、これこそ神に対する私たちの確信です。
                              I ヨハネ 5.14

 信仰は神の御心の領域でのみ自由に働きます。神のみこころをはずれて、私た
ちが叫び、信じ、信仰によって行動し、もっとたくさんのことをしたとしても、
思うような結果は得られず、神は私たちの後ろ盾になってくださっていません。
私たちの考えの延長線上で信じようとするとき、山盛りの信仰も困難からは一粒
のからし種さえも見つけ出すことができないということを実証するだけです。よ
い目的だからという私たち自身の基盤のもとに引き起こすことに対して、神は責
任をおとりになりません。神の力は神の御心のうちで発揮されます。そこに物事
を正しく据えなさい。そうすればもっとも大きな試練の時にも大胆でいられるか
も知れません。なぜなら「その願いを聞いてくださる」からです。

10月5日

  あなたがたは信仰により、神の御力によって守られており、
                         I  ペテロ  1.5

  神の力を保持するのに必要なものがあります。私たちは信仰によって守られて
いるのです。私たちが神に信頼しなければ、神は私たちを守ることがおできにな
りません。神の加護を知るために、私たちはまごごろから神の御約束を信じねば
なりません。試みに出会ったとき、私たちの安全に対して疑いの気持ちを抱くな
ら、神には私たちを守っる力があるということを信用していないのではありませ
んか。というのは、サタンの誘惑に立ち向かわなければならないのは私たちでは
ないからです。毎朝起きたとき、私たちは神にこう申し上げるべきです。「きの
うは守ってくださってありがとうございました。今日はどんな誘惑が待ち構えて
いるのかわかりませんし、それにどうやって打ち勝ったらいいのかもわかりませ
ん。でもあなたはもう一度無事に過ごせるようにしてくださることを信じます」。
神に、私たちの力の神に絶対的な信頼を置きなさい。そうすれば、たとえ邪悪な
者の予期せぬ火矢も、何かが驚くように防いでくれるのです。それが信仰の盾で
す。

10月6日

祭司のくちびるは知識を守り、
人々は彼の口から教えを求める。
                             マラキ 2.7
 
 リバイバルとかいわれるものが多くの場合、間違った土台の上に据えられてい
る可能性があります。霊的賜物は示されますが、キリストを宣べ伝えることはお
ざなりです。それはちょうどたくさんの道具を持ちながら、それを用いる対象が
まったく見当たらないのも同然です。さらによくないことに、キリストを閉め出
したため、賜物は虚しいばかりか、まやかしですらあるのです。彼らのうちのあ
る者は、キリストの宣教では絶対にあり得ない方法を用いて、ふりをしているだ
けの場合もあるのです。神の民にとって重要なことは、説教や祈りやあなたの何
かというような私たちの賜物ではなく、賜物によって私たちが伝えるキリストを
個人的に知ることなのです。病院で二人の看護婦が、まったく同じスプーンを使
うとします。大切なことはそのスプーンに盛られた中身です。片方は高価な特効
薬かも知れませんし、もう片方は単なる緩和剤かも知れません。私たちが何を宣
べ伝えるかが問題なのです。

10月7日

 昔の人々に・・・・と、言われたのをあなたがたは聞いています。しかし、わ
たしはあなたがたに言います。
                          マタイ 5.21以下

 律法への隷属は、生活に関する過去の規定の頑固な執着と定義することができ
るかも知れません。現代、私たちはそれによってはいつまでたっても主のことば
に従う用意ができません。私たちは律法を生活の基準として理解します。しかし
それは固定された基準なのです。私たちが学校の児童だった頃、体育の先生は走
り高跳びのひもを私たちの年齢と能力に合わせて下げたり上げたりしました。基
準は調整を必要としました。そして進歩の余地がありました。しかし律法の基準
は頑固です。与えられた定点をはずれて進歩する余地はありません。
 「しかし、わたしはあなたがたに言います。」この言葉はいつでも通用します。
私は人々が議論を次のように片づけるのを耳にしたことがあります。曰く「そん
なことでしたらカルヴァンの(あるいはウェスレイの、あるいはダービィの)時
代に解決していますよ」。しかし彼らの時代は「昔」です。私の昨日もあなたの
昨日もおんなじです。今日主が導いてくださったという理由で、私が一月前にし
たことを今日もするなら、そこにはいのちがあります。しかし主が一月前に導い
てくださったことを、今日するなら、それは律法です。律法は生後一週間、ある
いは生後何百年もありえます。しかし御霊による導きは、生後24時間すらも決
してありません。究極の問題は、私たちが神とともに今日を歩む新鮮さを味わっ
ているかどうかです。

10月8日

 この女は、乏しい中から、あるだけを全部、生活費の全部を投げ入れたからで
す。
                           マルコ 12.44

 今日、私たちは「清潔なお金」と「汚いお金」について語りますが、神の目に
は「不正の富」があるのみです。このことを確かめてみるには、お金があなたを
神に近づけているか、それとも引き離しているかを自問してみさえすればいいの
です。あなたは神に仕え、富にも仕えることはできません。それではどうしてサ
タンの利益に仕えてきたこのお金を用いて、神の国を建てあげるために使うこと
が可能なのでしょうか。カイザルに結びつけるものを断ち、神の銘を刻んだもの
が必要とされているのでしょうか。
 もしあなたのお金がこの世から分離しなければならないものなら、あなた自身
もこの世から出ていかなければならないでしょう。単にお金を神の庫に捧げるだ
けではあなたが捧げたものの性格が変わることはないでしょう。あなたの生活が
お金に付き合っている限りは、あなたのお金がサタン王国から神の王国へと解き
放たれることは期待できません。パウロはマケドニヤの人々について「まず自分
自身を主に捧げ」と言いました。今日、お金に関して言えばサタンの財源が無制
限であるのに対し、効果的に神の手元にある現金は神に献身したたくさんの人々
によって制限されています。あなたの稼いだ円を直ちに聖所の通貨に両替するこ
とを確約しなさい。それはサタンの帳面から二重線で消され、神の帳簿に転記さ
れていることを確かめてご覧なさい。どうしてそんなことが。送金してはいけま
せん−−神のもとへ携えて行くのです。

10月9日

取税人や罪人の仲間だ。
                            ルカ 7.34

 私は主を罪人の友として見ていますから、たくさんの一風変わった、そして難
しい人々が主のもとへ連れてこられるのを見てきました。あるとき若い女性が、
自分は救われたくないと言って、私にかみついてきたことがあります。彼女が言
うには、自分は若く、うまくやろうと計画している。自分は罪の道から離れる気
になれない。それどころか救われたいとも思っていない。そんなこんなをひとし
きり彼女がぶちまけてから私は言いました。「祈ってもいいかな」。「なんだっ
て祈ったりしなきゃいけないの」と、彼女はばかにしたように答えました。「君
の祈りについてぼくに責任がとれるはずはないけど、でも最初にぼくが祈るから、
そうしたら君がぼくに言ったこと全部を主イエスに告げてみたらいい」と私は言
いました。「だめよ。とてもできそうもない」。と彼女はいくぶんめんくらって
言いました。「いいえ、大丈夫」と私は答えました。「主は罪人の友だというこ
とはご存知ではありませんでしたか」。この言葉は彼女の心に届きました。彼女
は祈りました−−たいそう八方破れの祈りでしたが−−しかしその時から主は彼
女の心に働きかけはじめてくださいました。というのも2,3日もしないうちに
彼女は見事に救われたのです。

10月10日

あなたの重荷を主に委ねよ。
主は、あなたのことを心配してくださる。
                           詩篇 55.22

 多くのキリスト者は、重荷を背負いすぎているために、祈りのご奉仕の中で主
のお役に立っていません。人々は祈りによって重荷から解放されるどころか、重
荷を集めています。そして最終的に人々はその重荷の重圧に押しつぶされて、全
然祈れなくなってしまいます。
 あなたがだれかに何か助けを求めようとしたと考えてみてください。しかし相
手の両手はもうふさがってしまっているのがわかりました。その人に助けを乞う
のは意味のないことではないでしょうか。同様に、神にすでに任せられたことで
あなたが押しつぶされているなら、それ以上どうして神はあなたにお任せになろ
うとするでしょうか。この祈りの奉仕は自由な霊が求められます。さもなくば、
神の働きは深刻な阻害を被ることになります。あなたは自由な道具となって、神
のために用いる手を用意しておくことができますか。それからあなたの重荷を神
に委ね、そこから来る霊的な解放を追い求めるのです。

10月11日

 目が手に向かって、「私はあなたを必要としない。」と言うことはできない
                        I コリント 12.21

 上海での最初の頃、私は常に集会の水準を、特に祈り会の水準ですが、ある高
い基準まで引き上げようと試みていたことを告白しなければなりません。その結
果、ある兄弟たちの祈り方がとても不満足に思えたのでした。その祈りはとても
よくないと思いましたから、そのことを言いました。なんと私は間違っていたこ
とでしょう。
 というのも、しばらくして、神はしばらく私をほおっておかれ、私は肉体的に
深刻な欠乏状態におかれました。私は熱心に祈りました。しかし私の強く攻撃的
な祈りはどこにも届いていないように思えるのでした。結局主は私に「あなたは
ある兄弟達の祈りがとても弱々しいと考えています。彼らを招いてあなたの必要
なことについて祈ってもらいなさい」と言われているようでした。それは難問で
した。私はまさにその兄弟達に手紙を送り、来てもらい、そしてひざまずき、祈
りました。私は生涯ではじめて彼らの単純で、まっすぐな祈願の真価を認めたの
でした。さらに主は、そうした祈りを聞き届けてくださいました。私はたて直さ
れました。

10月12日

  御国が来ますように。
  御心が天で行なわれるように、
  地でも行なわれますように。
                           マタイ  6.10

  私たちは次のように祈るべきです。「御国が来ますように」。もし神の国が自
然とやって来るなら、このような命令が私たちに課せられたはずがありません。
だから神の民は祈るべきなのです。なぜなら民の叫びに対する答えとして神の働
きはなされるからです。「御心が行なわれますように」。そうです。しかし、ど
こで。「地で」。なぜなら神の御心が行なわれていない唯一の場所がこの地上な
のです。それではどのようにして神の国がこの地上に到来するのでしょうか。そ
れは、神の大いなる御心と一つとなって、神の意志に敵対する悪魔の意志が排除
されることを求める私たちの意志によってなのです。祈り人にはいつでも3つの
面があります。だれかに祈る人、何かを祈る人、何かに対抗して祈る人であり、
地上では−−神に逆らう意志−−に対抗して祈っている者が必要です。反逆的な
意志に対抗して神はお一人で働こうとしてはおられません。神は私たちの祈りを
待っておられます。主の祈りは私にとっては祈りの見本ではありません。それは
神の御心の表われなのです。

10月13日

  神は、夜昼神を呼び求めている選民のためにさばきをつけないで、いつまでも
そのことを放っておかれることがあるでしょうか。
                            ルカ  18.7

  ある男があなたの家に入り込み、許しもなく家に滞在したとします。あなたは
どうしますか。治安判事のところへ行き、国の法律に訴えて、その男の有罪判決
を勝ち取ります。それからあなたは裁判所の裁定を盾にして、その男を追い出し
ますね。その男は鎖につながれて出て行くかもしれません。けれどもこの地上の
状況もこれと大差ありません。神の「法令全書」には、すでにこの世の不法滞在
者であるサタンに対する罰則が定められています。サタンは出て行くべきです。
天の御国の法律は、サタンには外国の法律だとしても、それだからなんなのでし
ょうか。カルバリーはサタンに対する神の王国の優位を揺るがないものにしまし
た。十字架においてキリストはサタンのあらゆる訴える手段を封じました。さて、
今度はもう一つの法律が施行されたことを理解するのが教会の仕事です。教会は
たとえばなしの中のやもめのように、「私の相手(サタン)をさばいてください」
と神に叫んで、神からサタンに対する立ち退きの命令をいただくべきであり、サ
タンを追い出すべきなのです。神はその叫びを待っておられます。

10月14日

「あなたがたは何の権威によって、また、だれの名によってこんなことをしたのか」
                              使徒  4.7

  主の昇天によってもたらされた力強い変化に、私たちの目は開かれていなけれ
ばなりません。イエスの御名は、ナザレの大工とともに御座におられる御方とし
て、はっきりと確立されています。しかし主はそれだけの方ではありません。イ
エスの御名が示しているものは、天と地、そして地の下にある全ての者が膝をか
がめて礼拝しなければならない力と支配です。ユダヤ人の指導者たちが、足なえ
の癒しについて弟子たちに問いただしたとき、ありふれた名前の中に、そうした
力や支配の兆候を感じていたのでした。
  今日、その御名は、神が全ての権威を御子に委ねられたことを私たちに教えて
います。その結果、まさにその御名そのものに力が宿っています。しかも、その
力はひとり主のものではなく、「人々に与えられて」います。神は私たちが用い
るために、その権威を私たちの手に託されています。主の最後の説教の3ヵ所で、
主イエスは「わたしの名によって求めなさい」という言葉を繰り返しておられま
す。次のようにおっしゃるとは、私たちにたいへんな信頼を置いておられるに違
いありません。「あなたがたがわたしの名によって求めるものは何でも、それを
しましょう」。

10月15日

わが君、ダビデ王の王座
                         I 列王記 1.37

 ダビデは正真正銘の王でしたから、人々は敬愛を込めて「ダビデ王」と呼びま
した。父の羊の番をして、主の御名によって獅子を追い払うそのとき、ダビデは
荒野における王でした。後にゴリヤテがイスラエルを脅かし、イスラエルの民は
もちろんのこと、サウルさえも怯えたとき、ダビデはいっこうに恐れませんでし
た。王の心には恐れがありません。しかしその真骨頂は、サウルのもとから逃亡
生活をしていたとき、思いもかけずサウルの追跡者が自分の手中にあることを認
めたときのことです。手っ取り早く危険から逃れることができたはずなのですが、
ダビデは断固として追跡者への急襲を拒みました。これこそまことの王の精神で
した。自分の心を制することのできないものは王ではありません。まことの王と
は、いかなる環境のもとにあっても王であることです。その者はあまねく全地を
統治します。

10月16日

 神の栄光ある権能に従い、あらゆる力をもって強くされ、喜びをもって*忍耐
と寛容を尽くし、
                          コロサイ 1.11

        訳注:「喜びをもって*」のこの部分での挿入は英訳による。

 使徒職にはそれを証明するものがあります。まことの神の使命のあるところで
は、使徒であることを証拠立てるしるしに欠くことはありません。パウロが正真
正銘の使徒であったことの証拠はいくらでもあります。「私はあの大使徒たちに
どのような点でも劣るところはありませんでした」とパウロは第2コリント12
章で書いています。「使徒としてのしるしは、忍耐を尽くしてあなたがたの間で
なされた、あの奇跡と不思議と力あるわざです」。このことから私たちが推察で
きるできるのは、忍耐が霊的な力を真っ先に証明する証拠だということです。そ
の力とは、ほんとうに私たちが主に「遣わされた者」なのかどうかを試験するた
めの絶え間ない圧力のもとで、じっと忍耐する能力のことです。喜びをもって忍
耐と寛容を尽くすことは、「神の栄光ある権能に従う」ことが何であるのかを心
得た者だけに見い出されます。

10月17日

 そこで人々は、彼らの食料をいくらか取ったが、主の指示をあおがなかった。
                        ヨシュア 9.14

 神の御前に2種類の罪があります。一つは主の命令に従うことを拒否する罪で
あり、もう一つは主が何も命じておられないのに、勝手に進んでいってしまう罪
です。片方の罪は、主が命じたことを行わないという反抗です。もう片方の罪は、
主が要求しておられないことをやってしまうというでしゃばりです。私たちの主
への働きはどれだけ明確な主の命令に基づいて行われてきたことでしょうか。そ
してどれだけ、それはよいことだからという理由で、ことを行ってきたことでし
ょうか。私たちの良心さえとがめなければ、あるいは良心の命じる命令が積極的
によいものと判断できるなら、進んでいってそれを行うに十分な理由があると考
えます。兄弟姉妹よ。どんな僕でも、主人に給仕するには、まず主人の命令をあ
おぐべきだとはお思いになりませんか。

10月18日

 なぜ、あなたは自分の兄弟をさばくのですか。また、自分の兄弟を侮るのです
か。私たちはみな、神のさばきの座に立つようになるのです。
                         ローマ 14.10

 ここでは外に表れる行動の「さばくこと」と内面の態度である「侮ること」の
二つが禁じられています。私はまだ一人の兄弟をあからさまにさばいたことがな
いかも知れません。すばらしいことです。しかし、彼を好まざる人物と評価して
はいないでしょうか。彼は物事を私が見るようには見ないので、私は密かに彼を
憐れんではいないでしょうか。弱さや変わっていることのゆえに、私は彼を心の
中で軽蔑してはいないでしょうか。もしそうなら私はめったにないほどの危険な
状態におかれています。というのは次の段階は、私は彼よりもすぐれていると結
論することだからです。私がもし彼を軽蔑しているなら、私は自己を過大に評価
していることは間違いありません。自分を霊的に力あるものとみなすことから守
られますように。なぜならそれは私の肉を神にさらけ出すだけのものですから。
もちろん神は正しいことと間違っていることを私にはっきりと判定してくださる
ことでしょう。しかしほかの人々を私の判定の被害者にしてしまうことは絶対に
避けなければなりません。さばきの座はキリストのものであり、さばきはまだ先
のことです。今、その役割を不当に演じようとするものが、私たちの中にいると
いうのでしょうか。

10月19日

 もし、食べ物のことで、あなたの兄弟が心を痛めているのなら、あなたはもは
や愛によって行動しているのではありません。
                         ローマ 14.15
 
 実例によって人を教えることは、議論を尽くした場合に勝るとも劣らず、言い
過ぎてしまう場合があります。たとえば、良心によって肉を食べない兄弟がいた
とします。そこで私はどうするでしょうか。私は彼の見えるところに座って、食
べられるだけの肉を食べ、そうすることでキリスト者の自由とは何かを兄弟に示
せると愚かにも信じているのです。私は兄弟と議論していません。ただ、ここや
あそこで肉を持ち出し、キリストにある自由の本質について示そうとします。私
は兄弟を助けているでしょうか。それとも「滅ぼして」いるのでしょうか。この
引用した聖句の後がどのように続くのか注目してください。「あなたの議論によ
って、滅ぼさないでください」ではなく「あなたの食べ物のことで、滅ぼさない
でください」と書いてあります。ですからこうしたことで、もし兄弟と私の見解
が異なった場合、その違いを表ざたにすることはせず、兄弟の良心を踏みにじら
ないようにするべきです。神は私に兄弟を傷つけるような命令は一切なさいませ
ん。どうしてでしょうか。その人のためにキリストは死んでくださったからです。

10月20日

  神の不動の礎は堅く置かれていて、それに次のような銘が刻まれています。
「主はご自分に属するものを知っておられる」
                         2  テモテ  2.19
  
  人は離れていくかも知れません。フゲロとヘルモゲネ、ヒメナオとピレト。そ
して、そう、アジアにいる全ての人々も主に対して不忠実であったことを示して
いるようです。そして彼らにしてそうであるならば、いったい誰があてにできる
信仰者なのかと、私たちは周囲を見回して当惑します。多くの人々が信仰を失い、
基準を失いつつあるこの時代においては、当惑することがむしろ当然でしょう。
神の子供たちの信仰がそれほどまでに容易に変質してしまうのなら、いったい変
わらぬものがあるのだろうかと尋ねたくなります。ですがもう一度考えてみてく
ださい。今まで、主を失望させなかったものが私たちのうちにどれだけいるでし
ょうか。人間の性質ならわかっているという慢心は禁物です。人間の本当の性質
は神だけがご存知です。御霊はここで何といっているでしょうか。主はご自分に
属するものを知っておられる、と。私たちは誤りに陥るかも知れません。しかし
神は誤ることがありません。人には失望させられるかも知れませんが、神には失
望させられることがありません。そしてここでは、もうひとつけっして変わらぬ
ものとして、次の御言葉が与えられています。「主は・・・知っておられる」。

10月21日

  自分のからだをもって、神の栄光を現わしなさい。
                          I コリント  6.20

  イスラエルの宿営地には何百という幕屋が張られていましたが、たった一つだ
けは、ほかの幕屋とまったく異なっていました。普通の幕屋では、食事だろうが
断食だろうが、働こうが休もうが、快活であろうがまじめであろうが、騒いでい
ようが、静まっていようが、好きなことをしてかまいません。しかしさきほどの
もう一つの幕屋には、崇拝と畏敬が要求されました。その幕屋に近づくにつれて、
気づかないうちにだんだんと歩き方は静かになり、天幕の真正面に立ったときに
は、黙ったまま厳粛な思いで頭を下げたのでした。何がそうさせたのでしょうか。
その幕屋の外側はごくありふれた材料でできていました。しかし内側には生ける
神が臨在していました。「あなたがたのからだは聖霊の宮であることを、知らな
いのですか」。新しく生まれかわったときに、ほかならぬ神が、私たちの心を住
まいにされたという厳粛な事実に、私たちの目は開かれているのでしょうか。

10月22日

 12の門は12の真珠であった。どの門もそれぞれ一つの真珠からできていた。
                             黙示  21.21

  真珠はほかの宝石とは違って生き物から採取されます。真珠は死の働きに反発
し、それに打ち勝ったいのちによって産み出されるのです。海の深みでカキがひ
そかに傷つけられて、カキは真珠をはらみます。主の器官である私たちに主のい
のちが与えられたのは、私たちの罪のためにキリストが傷つくことによってでし
た。こうした神の不思議な方法によって、しみや傷の何一つない、キリストの御
性質の満ちあふれた「栄光の教会」は生み出されました。そしてマタイ13章で
は、このもっとも美しい真珠は、父なる神にとって、計り知れない価値があるこ
とを私たちに教えています。

10月23日

  主の使いハガイは、主から使命を受けて、
                            ハガイ 1.13

  神はご自身の僕に預言の賜物をお与えになり、神の教会には預言者をお遣わし
になります。この預言者とは神とともに過ごした経験をもつものであり、生活の
中に聖霊による御業を経験している者のことです。私たちは説教者を志す人々か
ら、説教のために何日くらい準備したらよいでしょうかという質問をときどき受
けることがあります。少なくとも10年。ひょっとすると20年。これがその答
えです。少なくともこのことに関しては「古いものはよい」という箴言に偽りが
ないと言わなければなりません。神にとっては説教の内容と同様に、いやそれ以
上に説教者そのものが重要なのです。神の現代へのメッセージを、言葉としてだ
けではなく、神によってすでに体験している者を、神はご自身の預言者として選
ばれるのです。

10月24日

  生きていてわたしを信じる者は、死んでも生きるのです。
                        ヨハネ  11.26

  イエスは人々にいのちを与えるために来られました。そのことを心に留めてヨ
ハネの記したものを読んでご覧なさい。イエスを信じる者には誰にでも永遠のい
のちがあります。イエスはいのちの水、いのちのパンであり、私たちにいのちを
「豊かに」与えるために来られた方です。さらに主は、何よりも十字架の死を選
んでくださった故に、私たちのよみがえりでありいのちとなられました。
  大災害を受けて危険が身に迫ったとき、いのちを必死になって守ろうとします。
なぜならいのちほど大切なものはほかにないからです。日本軍の南京への空爆に
よる死者と破壊は戦慄すべきものでした。楽しい家庭は一瞬にして瓦礫の山と化
してしまいました。「誰か下敷きになっていないか」と誰もが思いました。突然
一つの山が動き始めました。梁が取りのけられ、ちりとかけた瓦を払いながら男
がはい上がって来ました。彼にそれができたのは、いのちがあったからからです。
  私たちが生きているのはイエスのいのちによります。このいのちは十字架の死
による試みを経て来ました。「わたしは・・・・生きているものである。死とハ
デスのかぎを持っている」と主は宣言なさいます。死者をよみがえらせた神に信
頼することは一番安全な道です。

10月25日

  箱の中には、二枚の板のほかには何もはいっていなかった。・・・
・これは・・・・モーセがホレブで入れたものである。
                    II  歴代誌  5.10

  石の板に刻まれた律法は神の民に対する永遠の証しとなるはずでした。彼らは
律法の要求に対して無力であったので、もし石の板が箱の中に隠されていなけれ
ば、ひたすら律法の非難とさばきを感じずにはいられなかったことでしょう(I 
サムエル 6.19参照)。金とアカシア材の箱が私たちの救い主キリストを象
徴するということはよく知られています。ところでキリストは私たちと神のさば
きの間に立たれるばかりか、私たちのために身をもって律法を「成就」するため
に来られたのです。その結果、石の板に刻まれて私たちを訴えていたものは、い
まや神の箱の中にあって私たちを擁護するものとなりました。これが証しの箱が
契約の箱とも呼ばれる所以です。「律法の中の一点一画でも決してすたれること
はありません。全部が成就されます」。

10月26日

  「わが父よ。できますならば、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。」
                           マタイ  26.39
  神の御心を行うために主イエスは来られたので、主がこのような祈らなければ
ならなかったことに違和感を覚える人がいるかも知れません。しかしその祈りは
重要な違い−−目に見える「何か」とその背後に潜む神の御心−−を明らかにし
ています。実際に、杯がとりのけられるようにと主には祈ることがおできになり
ました。その一方で、神の御心から離れることを主が祈り求めるということは絶
対に考えられないことでした。杯は神の御思いにとってはいわば二義的なもので
した。神の御心は一つの目に見える形となって−−この場合は十字架の死でした
−−表わされます。主イエスは完全に取り去られましたが、これは主イエスの熱
意とかいったものではなく、あらかじめ定められた御心によってそのようになっ
たのです。主イエスは父なる神の御心の故に杯を受けたのであって、単なる杯を
お受けになったのではありません。
  イエスにとって「この杯」にはしりごみさせる何かがありました。そして私た
ちとって杯は、手放したくない何かを明らかにする働きをしばしば演じてくれま
す。私たちの大きな危険は、私たちへの神のご計画に類する「何か」に教条主義
的にしがみついていることではないでしょうか。一つ一つの杯は、たといそれが
神によって示されたものであったとしても、余裕を十分にもって手にされていな
ければなりません。杯は絶対的な要求を私たちに課すものではなく、いま現在の
父なる神の御心です。

10月27日

  わが神。私はみこころを行なうことを喜びとします。 
                            詩篇  40.8

  私が神に選ばれたのは、神が私にある仕事をさせるという目的を持っていらっ
しゃるからだとはっきり知る機会がありました。しかし私は当時病気で、その時
点ではとてもその仕事をやり遂げる元気はありませんでした。そこで私は神に力
をくださいと祈りました。私を力づけてくださることは神の御心にちがいない、
と私は考えましたから、神に力を与えていただいたら、それから仕事をやろうと
しました。私はそのことについて何回も何回も祈り続け、そうこうするうちに3
ヵ月が過ぎました。すると神はこうおっしゃっているようでした。「もう祈りは
十分です。やめなさい」。そのとき私は杖を突きながら砂浜を歩いていました。
私は立ち止まると、見えなくなるまで砂の中に杖を突き刺しました。私はその上
に立って宣言しました。「私はここに身体的要求と決別した」。私は歩き続けま
した。しかしいくらも進まないうちに、私の引きずっていた現実の弱さが、再び
私に襲いかかってきました。新しくされた私の力を通して神の御目的は実現され
るに違いない、と私は思いました。するといつのまにかもう一度祈りへと導かれ
ていました。しかし私は自分をたしなめました。私は神の御心を自分の要求の水
準にまで引き降ろしてはいなかったでしょうか。杖が埋められたところまで歩い
て戻ると、そこを指差して言いました。「主よ。これが決別の証しです。二度と
手にすることはありません。弱くても、強くても、私はあなたの御心を行いまし
ょう」。個人的な問題を放棄し、主の仕事についたその日から、私の身体的な要
求は見事に満たされるようになったのでした。

10月28日

 そういうわけですから、兄弟たち。私は、神のあわれみのゆえに、あなたがた
にお願いします。あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供
え物としてささげなさい。それこそあなたがたの霊的な礼拝です。
                            ローマ 12.1
 
 このみことばは統一された完全体への献身を示唆していますから、単なる個人
を越えたところへと私たちを導きます。「ささげる」とは、個人で行われること
であり、礼拝は集団で行われることです。多くのからだが神に捧げられます。し
かし、その結果はたった一つの生きた供え物になります。神への知的で霊的な礼
拝はすべてこうです。これこそなくてはならない一つの礼拝ですが、そこにはな
お私たちが個人で役割を果たさなければならない余地が残ります。神に携えた物
が無価値であるとはよもやだれも思いますまい。というのもたくさんのそれぞれ
の捧げ物の中にあって、ある人の捧げ物は一つの捧げ物として確かに覚えられて
いるからです。私たちは次のように確信しています。神の要求とは、神に明け渡
された各自の生活が、ひとつになって、神に受け入れられる完全体を構成するこ
とであると。もしそれで神が満足なさるなら、私たちも満足していいのではない
でしょうか。

10月29日  それは、父よ、あなたがわたしにおられ、わたしがあなたにいるように、彼ら がみな一つとなるためです。また、彼らもわたしにおるようになるためです。そ のことによって、あなたがわたしを遣わされたことを、世が信じるためなのです。                            ヨハネ 17.21    「教会によって」神の知恵は霊的な力となって現されます。御霊を通して私た ちは「いっしょに」神のところに住む者となります。今日神の子どもたちはひと つになって神のからだとして機能していませんから、神の子どもたちは水の漏る 花瓶になってしまいました。ガラスの水差しを粉々に砕くとどうなりますか。 一つ一つのかけらには水が付着してはいるでしょうが、それは砕かれる前に入っ ていた水に比べれば問題にならない分量です。霊的なことにおいても同様です。 ちょうど、個人は二次元の広がりで物を受け取り、教会は三次元で受け取るとい ったらよいでしょうか。一万人のキリスト者とキリストの一万の器官とを比べた ら両者はまったくの別物です。神のあふれるばかりの恵みをキリストはもっとも っと与えようとしてくださいます。しかしそれを受けとめるには私たちは一つの 花瓶、すなわち一つのからだとなっていなければなりません。

10月30日

 しかし、わたしはあなたがたに言います。自分の敵を愛し、迫害する者のため
に祈りなさい。
                         マタイ 5.44

 わたしはある人を知っていましたが、その人は別の人を憎んでいました。彼は
別の人にとてもひどいことをされたので、その人を殺しても足りないくらいの深
い心の傷を負ってしまったのでした。ひどい仕打ちを受けた人は主を知るように
導かれました。そして何年もその相手に会うこともありませんでした。彼はある
町を訪れ、その地方の信者といっしょに聖餐にあずかるために日曜礼拝に出かけ
ました。彼が皆に紹介されてからふと見ると、思いもかけず集会の中に例の仇敵
がいるのに気がつきました。彼は心の中で言いました。「奴がここにいる。奴が
救われたとは知らなかった。どうしようか」。次の祈りの間に、彼は静かに立ち
上がると、外へ出ていきました。彼は歩き始めると、片一方では自分の救いにつ
いて考え、もう片一方では例の男への復讐を考えていました。さらに遠くまで行
けば行くほど、集会を飛び出したときよりもさらに気分が悪くなり、その一方で
は仇敵に対する怒りがこみ上げてくるのでした。そのとき彼は自分が救われた1
0年前を振り返り、どんなに主が自分のことを赦してくださったかに思いを潜め
ました。しかし自分にはとても相手を赦すことができないと彼は感じました。し
かし御霊が彼の心にみことばを与えました。「もしあなたがたの互いの間に愛が
あるなら、それによって、あなたがたがわたしの弟子であることを、すべての人
が認めるのです」。彼は急に立ち止まりました。「主よ。彼を赦します」と叫ぶ
と向きを変え、頬に涙をつたわせながら集会へと戻ったのでした。彼が集会につ
いたとき、信者たちはちょうどパンを裂くところでした。そこで彼は立ち上がっ
て、神がどうやって自分の心から憎しみを取り去ってくださったかを証し、すべ
てを告白しました。

10月31日

 神は光であって、神のうちには暗いところが少しもない。
                            I ヨハネ 1.5

 ヨハネの福音書において、イエス・キリストは人々の間に恵みとまことを現し
ましたが、このヨハネの手紙においては、同じ主が、光と愛として、父なる神と
ともなる存在として明らかにされています。福音書のまことは手紙では光となり
ます。福音書の恵みは、手紙では愛になります。なぜでしょうか。それは、神の
光が人に届くとまこととなり、神の愛が人に伝わると恵みとなるからです。まこ
とと恵みは今ここにあり、光と愛は神のもとにあります。これが、恵みを間違っ
て用い、まことを誤って扱う危険性を絶えず拭えない理由なのです。人々は光と
愛は自分たちの思うままにできないできました。神は光であり、神は愛です。人
々はその高みにまで登ることはできないし、触れることもできません。ですから
光と愛を誤って扱う心配は無用です。失敗を取り戻すために、ヨハネは私たちに
何か目新しい提案をしてはいません。ヨハネは私たちをもう一度御座に連れ戻し、
創造主の御前に引き出すのです。なぜなら、私たちが最初のものを再発見するの
には自分たちの原点に立ち返ることが必要だからです。