荒野の食卓        ウォッチマン・ニー

1月1日

天を見上げて祝福を求め、パンを裂き、人々に配るように弟子たちに与えられた。
                    マルコ 6.41.
 私たちが生活を送り、神への奉仕をおこなうにあたり、どうしても必要なもの
は神の祝福です。ほかに必要なものはありません。祝福とはなんでしょうか。祝
福とは、神の働きとしか考えられないような「神の働き」なのです。たとえば、
10円で買えるものは10円の価値のものだとあなたは考え、計算します。とこ
ろがあなたがお金を払わなかったのに、神があなたに10万円の価値があるもの
を与えてくださったらどうでしょう。あなたの最初の計算は根拠のないものとな
ります。5つのパンが5千人に配られ、パン屑が12かごを満たしたとき、それ
はつまり、私たちの持てるすべての賜物を絶する奉仕の実が与えられるとき、そ
こにあるのは祝福なのです。あるいは極端なことをいえば、私たちが自分の失敗
と弱さを覚え、働きからはなんの実も結ばれないようなときに、なお実が結ばれ
ているとすれば、それこそが祝福なのです。私たちがどうであるかとは無関係な
のが祝福の実です。そしてそれは原因と結果の法則に従いません。祝福は、私た
ちの思いを越えて、主の御名のゆえに、すべて神が働かれるときにもたらされま
す。

1月2日 私たちの主、主よ。あなたの御名は全地にわたり、なんと力強いことでしょう。                           詩篇 8.1,9  人々が主の御名を辱めているさなかにあって、詩篇の作者はただ主の偉大さを 叫びます。彼自身は詩人であるかもしれませんが、そのすばらしさをことばにす るのは容易ではありません。彼はただ「あなたの御名は、なんと力強いことでし ょう」と叫ぶばかりです。そしてこの語りつくし得ない力強さは「全地にわた」 っているのです。ここには間違いなく創世記1章が反映されています。そこでは 神のごらんになったすべてのものは「非常によかった」とあります。しかもこの ように書きはじめた詩篇の作者は、詩の最後にも同一の御名への賛辞を置いて、 人間の堕罪については触れることさえしていません。もし私たちが書いたとした なら、堕罪について触れようとすることに気づくでしょう。しかし神は変わるこ とがありません。そして詩人に対しても変わることがありません。アダムの罪で さえ、終わりのときに人間に「すべてのものを支配させよう」という主のご計画 を無効にすることができなかったのです。というのは主イエスがここに介入され るからです。詩篇8篇はへブル2章を照射します。主は約束の人なのであり、そ して主はすでに罪を処理されました。主のうちに神のあらゆる願いが実現しまし た。そして主は私たちの兄弟となられたのです。神に曲がった道はありません。 それはまっすぐに続いています。「私たちの主、主よ。なんと力強いことでしょ う」。 

1月3日 機会を十分に生かして用いなさい。悪い時代だからです。                   エペソ5.16  神があなたに示された道においては、今日という日ははあなたの人生の中で最 も重大な一日になるはずだったのかも知れません。しかし、あなたは他の日と同 じようにやり過ごしてしまうことでしょう。今日を昨日と同じように過ごしてし まう人は、神の時間の感覚に鈍感な人なのです。現在の状態で満足している主の 僕はいないはずです。なぜなら、現状に満足することは機会を失った人になるこ とだからです。  1月3日、主は私の心にある人物を出かけて探すように語られたと仮定してみ ましょう。その人物とは、主の御心によってこれから5年間、魂の救いのために 力強い主の御手の道具となるよう導かれているとします。この語りかけに従うこ とは私の生涯で最も重大なご奉仕になるかも知れません。しかしこの日、私は 風邪を引くことを恐れて、あるいは同じようなささいな理由でもいいのですが、 行かなかったと仮定してみてください。私は機会を逸したのです。そして神のた めの力ある器をおそらく失ってしまったのです。そしてやっかいなことは、こう した機会は私たちを待っていないということなのです。機会は足早に通り過ぎて 行きます。ですから神が動かれるときには私たちも主とともに動きましょう。神 の与えてくださる機会が失われてはなりません。  

1月4日                          ウオッチマン・ニー 私たちは神とともに働く者として、あなたがたに懇願します。    神の恵みをむだに受けないようにしてください。   コリントU 6:1  神はご自身のために、私たちを救ってくださったのです。パウロはピリピ3章12節 で次のように言っています。 私は、すでに得たのでもなく、すでに完全にされているのでもありません。ただ捕えよ うとして、追求しているのです。 そして、それを得るようにとキリスト・イエスが私 を捕えてくださったのです。 私たちは永遠の救いを得るために捕らえられただけでなく、極めて明確な目的を持っ て、つまり神とともに働く者として捕らえられているのです。今日、神の働きとは何で しょうか。キリストにあって総集計すること、つまり一つにまとめること。高く引き上 げられた神の子との調和を欠いた宇宙の中にあるガラクタをすっかり整理すること。 では私はどのように神に協力できるのでしょうか。そのような偉大な働きにどのよう に関われるのでしょうか。私にはわかりませんが、パウロとともに、何よりもまず、こ の働きにあずかりたいのです。

1月5日 神の恵みによって、私は今の私になりました。                      I コリント 15.10  あなたは自分の人生にかかわることで神が働かれ、感動を覚えたことがありま すか。主はあなたを大勢の中から選んでご自身のものとされました。あなたは主 のこのような方法によって、捕らえられたのではありませんか。私はしばしばこ のことを考えます。救われたとき、私は学生でした。私には400人以上の学友 がありましたが、彼らを差し置いて、神の選びによって私に光が照らされたので した。いったいどうしてそんなことになったのでしょうか。私は大勢の学生の一 人でした。ところが、主はすべての学生の中でほかならぬ私を選ばれたのです。 どうなってしまっているのでしょう。主から恵みを受けた様々なすばらしい導き を考えると、主こそが神であり、主おひとりであることを称賛し、また告白しつ つ主の御前にひれ伏さざるを得ません。  あなたはどうして自分は救われたのかと尋ねます。私に答えさせてください。 あなたを救うことは主の喜びだったから、主はあなたをお救いになったのです。 主はあなたを求めておられたからこそ、あなたを選び、ご自身のもとにあなたを 引き寄せられたのです。ですからあなたに申し上げる言葉はありません。何かあ なたのためにすることもありません。ただ、主を賛美します。

1月6日  私の敵の前で、あなたは私のために食事をととのえ、私の頭に油をそそいで くださいます。私の杯は、あふれています。     詩篇 23.5  私たちの兄弟、パウロは、重要で格調高い論説をピリピ人に書き送っています。 物資の面で彼らはほとんど唯一と言えるパウロの支援者でした。ですからパウロ はあえて「私は、すべての物を受けて、満ちあふれています」と語っているので す。パウロは不足している物資の手がかりすらあたえようとはせずに、かえって 裕福な父親を持つ裕福な息子の立場に立ちました。しかも彼はこのような態度を とることによって、物資の供給が途絶えてしまうのを恐れるなどということはあ りませんでした。使徒の一人が困窮している未信者に向かって、「金銀は私にな い」と言っているのはもっともでしょう。いかなる援助も惜しまないで応じよう と待ちかまえている信者に、同じ言葉を語ることは彼にはけっしてできないこと でした。主の代理人が窮乏を打ちあけ、聞いている者の同情心をあおるなら、そ れは主をはずかしめることです。私たちに神への生ける真の信仰があるなら、常 に私たちは主にあって誇るべきです。

1月7日  もし敵であった私たちが、御子の死によって神とさせられたのなら、和解させ られた私たちが、彼のいのちによって救いにあずかるのは、なおさらのことです。                          ローマ 5.10  あらゆる人間の必要に対して、主はたった一つの答えを用意しておられること を神のみことばは明らかにしています。その答えとは神の御子、イエス・キリス トです。主の私たちへの対応は、あらゆる点で私たちを除外し、身代わりのキリ ストを代わりに立てることでした。神の御子は私たちの罪の赦しのために、私た ちの代わりに死なれました。同様に主は私たちの解放のために、私たちの代わり に生きてくださいます。ですから私たちは二つの身代わりについて話すことがで きるのです。すなわち私たちの罪の赦しをもたらした十字架上の身代わりと、私 たちに勝利をもたらす身代わりです。私たちがこの事実を常に前に置いているな らば、神はたった一つの方法、つまり私たちにさらに神の御子を示すことによっ て私たちの問題に答えを与えてくださいます。これこそは私たちの大きな助けと なることでしょう。

1月8日 激しい大雨の音がする               I 列王 18.41  エリヤはなんと徹底的に主にすべてを賭けていることでしょう。3年半の間、 全国的な干ばつが起こり、水はほとんどありませんでした。しかしエリヤは主な る神が正しいことをしめすために、捧げ物の上に水をふんだんにかけるように命 じました。「なんだって私たちの貴重な水の蓄えを浪費するのだ。雨なんて降り そうもないではないか」。「水を注ぎなさい」と、エリヤは言いました。「それ を2度しなさい。それを3度しなさい」。そしてそれだけでは満足できず、エリ ヤは自ら回りの溝を水で満たしたのでした。  私たちもまた神が正しいことを知りたいのであれば、私たちは自分の持ってい る物を持ってきて、それを主に委ねなければなりません。「しかし雨が降らなか ったらどうなるのでしょう」とあなたは反論するかも知れませんね。「私は自分 の持っている水にしがみついていなければならないんです」。神はお許しになり ません。それは干ばつと不毛の道です。主に委ねなさい。主の雨のすごさに比べ れば、あなたの失う物など何もありません。

1月9日 聖徒たちは栄光の中で喜び勇め。おのれの床(寝台)の上で、高らかに歌え。                         詩篇149.5  ここにはキリストの勝利を心から喜ぶクリスチャンの様子が描かれています。 彼らは勝利のうちに寝台で横たわり、主にある休息を喜んでいます。この体勢は 何を意味しているのでしょうか。彼らの背中は地面を向いています。言ってみれ ばこれは世界を後ろにしていることです。一方、顔は天を向けて永遠に価値ある ものを常に視野に入れています。こうした彼らにとっての「寝台」は単なる休む ための寝床ではなく、実際的な礼拝の台だったのです。あなたはおそらく仕方な く横になるのではないでしょうか。神へのいと高き賛美が絶えずあなたの口から きかれますように。

1月10日 なぜ国々は騒ぎ立ち              詩篇2.1  その答えはすぐに出ます。なぜなら「治める者たちは相ともに集まり、主と、 主に油そそがれた者とに逆らう」からです。彼らの間の敵対心はすさまじくとも、 この世界の政府はキリストの支配に逆らうという一つのことで心が結ばれていま す。私たちはある国々を悪い国と、別のある国々をよい国と判断します。しかし 聖書はすべての国々の背後の「この世の君」を指し示します。この君に導かれて 地上の支配者たちは、キリストの律法によって課せられた拘束からの絶対的な自 由をいつも求めているのです。彼らには愛はもうたくさん、謙遜ももうたくさん、 真実ももうたくさんなのです。「さあ、彼らのかせを打ち砕き」と、彼らは叫び ます。「彼らの綱を解き捨てよう」。  聖書全体の中で神が笑われたと書かれているのはこの箇所だけです。神の王は すでに神の聖なる山におられます。初期の教会は、キリストの支配を非常に意識 していました。今日の私たちは今までにましてそのことを覚える必要があります。 やがてすぐに、もしかすると私たちの生きているうちに、主は鉄の杖で国々を牧 されます。私たちの仕事は人々に「賢く」あるように、すなわち「主に信頼を置 くように」と強く勧めることです。

1月11日 しかし、私は主にあって喜び勇み、私の救いの神にあって喜ぼう。                       ハバクク 3.18  ガリラヤの少年がイエス様に自分のパンを持ってきたとき、イエス様はそのパ ンをどうなさったでしょうか。パンを裂きました。神はいつでも神に捧げられた ものを裂かれます。主は手にされるものを裂き、あるいは砕き、それからそれを 祝福なさると人々の必要を満たすためにお用いになります。  あなたや私はこうしたことを経験してはいないでしょうか。自分自身を主に捧 げると直ちにすべてがうまく行かなくなり、主のやり方に不平を言いたいような 気になります。こうした態度をとり続ける頑なさはまさに砕かれなければなりま せんが、その目的はなんでしょうか。あなたをこの世が用いるには、あなたはあ まりにも遠くに行ってしまいました。しかし神にとってはまだ十分な距離ではあ りません。ここに多くのクリスチャンの悲劇があります。私たちは主に用いられ たいと願っているでしょうか。そうならば、主の方法に不平を言うのはやめて、 賛美と期待をいだいて主の私たちへの取り扱いを受け入れて、毎日毎日、主に捧 げ続けようではありませんか。

1月12日  彼らは、神および小羊にささげられる初穂として、人々の中から贖われたので ある。                         黙示14.5  私の故郷、福建省はみかんで有名です。身びいきを承知の上であえて言えば、 あんなにすばらしいところは世界中どこを探してもほかにありません。みかんの 季節の始まる頃に丘の上を見ると、一面そこは緑の畑です。けれどもよく観察す ると、緑の木のあちらこちらに点々と金色のみかんが顔を覗かせています。深緑 の木々の間に点在する金色の斑点は大変すばらしい見ものです。やがてすべての 実は熟して畑は金色に色づきます。そしてこのときこそ最初の実が集められると きなのです。初物は注意深く手でもがれると、市場で一番高い値段を付けられま す。それは収穫期の3倍くらいの値段になることもしばしばです。  すべてのクリスチャンはどうにか成熟することは間違いありません。しかし小 羊は主の最後の審問の時のための初穂を探し求めておられます。

1月13日  アブラムはロトに言った。「どうか私とあなたとの間、また私の牧者たちとあ なたの牧者たちとの間に、争いがないようにしてくれ。私たちは、親類同士なの だから。全地はあなたの前にあるではないか。                    創世記 13.8〜9  見当違いのエジプトへの危険な旅からもどったばかりのアブラムの目には、神 に与えられた土地が非常に価値あるものとして映ったに違いありません。しかし 今や彼は新しい重要な課題を学ぶときにさしかかっていたのです。すなわち所有 物にしがみついてはならない、ということです。「しかし確かに」と、彼は主張 したかも知れません。「貴重な贈り物は何がなんでもつかみ取り手にしなければ ならないのです」。そして神がご自身の贈り物を私たちにくださろうとしたとき、 私たちも同様の主張をします。しかしアブラムは、自分が握っているものを手放 さなければならないことがわかりました。彼の甥のロトにまず、欲しいものをす べて選ばせるべきだったのです。  これは私たち全員が学ばなければならない課題です。神が与えてくださったも のを生まれつきの所有欲から自分で手に入れようとするのでは断じてなく、神は 私たちにそれを残しておいてくださることを信頼して委ねることができますか。 神が与えるものを、アブラムは与えます。私たちは神が与えてくださるものを何 とか保有しようと頑張る必要はありません。実際にもし私たちがそれをびくびく しながら握ったままでいるなら、私たちはそれを失う危険にさらされるでしょう。 主にお委ねした私たちの持ものだけがまさに真の意味で私たちのものとなるので す。

1月14日 ヨセフは実を結ぶ若枝、泉のほとりの実を結ぶ若枝、その枝は垣を越 える。弓を射る者は彼を激しく攻め、彼を射て、悩ました。しかし、彼 の弓はたるむことなく、 創世記49.22〜23 旧約聖書中、多くの代表的な神のしもべの中でもヨセフはおそらくも っとも完全でした。みことばは彼の行状の明白な誤りについてまったく 触れていませんが、私たちはそれがたやすい小道ではなかったことをよ く知っています。彼の災難はいつ始まったのでしょうか。間違いなくは 彼の見た夢で始まりました。その夢は霊的な予見を表わしていました。 ヨセフは夢の中に神がなそうとしておられることを、そしてその神聖な ご計画の中で自分の占める位置を見たのです。ことの起こりはこうした 彼の夢でした。というのは彼の兄弟たちが見られなかったものを彼は見 たからなのです。兄弟たちは「この夢見るもの」とヨセフを呼び、彼の 失墜を図りました。そうしてヨセフは奴隷に売られ、鉄のかせの中に入 ったのです(詩篇105.17〜18)。それでもヨセフは、ついには 神の民にたてられた偉大なるご計画を遂行する上で必要な道具となるた めに、すべてを堪え忍ぶことができました。見える者は最後まで堅く立 ち続けます。

1月15日 アドナイ・イルエと名づけた。今日でも、「主の山の上には備えがある。」 と言い伝えられている。 創世記22.14 「全焼のいけにえのための羊は、どこにあるのですか」。伝えられる ところによれば、これがイサクが自分の口からたずねたとされる唯一の 質問です。その答えはきっぱりとしたものでした。「神ご自身が備えて くださる」。このことはイサクをよく表わしています。彼の相続人とし ての権利は彼の父親からただで与えられたものを黙って受け取っただけ のものでした。彼には井戸を掘る必要もありませんでした。彼への要求 はせいぜいかつて父が掘った井戸を掘り起こすことくらいでした。実際 のところ、彼は自分の結婚についてもなにも語っていないのです。彼は 相手の女性に相談しなかったし、彼には彼女を見つけだすために払う努 力もなんら期待されませんでした。彼が埋葬された墓でさえ、すでに父 親によって購入されていたものでした。 私たちもまた、イサクのように、裕福な家庭に生まれついたものです。 私たちの父である神が私たちのために提供してくださるものを受け取る ように、私たちは期待されています。イサクの神は私たちの神です。そ して神は与えてくださる神ではないのでしょうか。

1月16日 主の名を呼ぶ者は、みな救われる。 使徒2.21 どうしてこんなことが可能なのでしょうか。なぜなら、この引用とは 別のヨエルの預言を神が成就したからです。すなわち「私の霊をすべて の人に注ぐ」。なぜなら、聖霊はすべての人の上に注がれているので、 罪人のほんのつまらない神への叫びで十分なのです。 このことを信じない限り、いかなる福音の宣教師といえども何の役に 立ちません。私たちの宣教においては、聖霊の罪人への接近が決定的に 大切なことなのです。天の神は遠く離れて存在され、人は届くことがで きません。しかし「あなたは心の中で、だれが天に上ぼるだろうか、と 言ってはいけない。それはキリストを引き降ろすことです・・・・みこ とばはあなたの近くにある」のです。私が人にキリストを伝えたとき、 創造のときに神の霊が水の上にあったのと同様に、聖霊がその人の上に 臨まれるのを私はいつでも信じています。キリストをその人の人生に導 くように聖霊はすべてを整えています。みたまの働きは日光のようです。 雨戸を少しでも開けると、光はいっぱいにひろがり、部屋の中すべてを 照らします。ただ心からの神への叫び。その瞬間、聖霊は彼の心に入り、 罪の自覚、悔い改め、信仰と、彼の心を変革し始めるのです。これこそ 新生の奇跡です。

1月17日  悔い改めなさい。そして、それぞれ罪を赦していただくために、イエス・キリ ストの名によってバプテスマを受けなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受け るでしょう。                 使徒 2.38  私が本屋さんに入ったとします。上下二巻の本を選び、そしてお金を払い、う っかりカウンターに一冊残したまま店を出てしまったとします。ミスに気がつい たとき、私はどうするでしょう。忘れた一冊を取りにまっすぐ店に引き返すでし ょう。しかしその本には一銭たりとも払おうとは思いません。ただ店員に上下揃 えでお金がちゃんと払われていることを思い出してもらえばいいのです。そして 二冊目のことでまたお礼を言い、それ以外の面倒もなしに、買ったものを手に抱 え、意気揚々と店を出ることでしょう。このような状況にあなたが置かれれば、 あなただって同じようにするのではありませんか。  ところであなたはこのような状況に置かれているのです。もしあなたが条件を 満たしているならば、あなたにはたった一つではなく、二つの賜物を受ける権利 があるのです。あなたはすでに罪の赦しを得ています。いかがですか。もしあな たがまだ一度もしたことがないのなら、今、聖霊の賜物について主に感謝しまし ょう。

1月18日  恵みをもって召してくださった方が、・・・・御子を私のうちに啓示すること をよしとされた ガラテヤ 1.15〜16  もし私が、主と変貌の山にご一緒できたとしても、私は弟子たちと代わりたい とは思いません。弟子たちと一緒に暮らしたキリストは時間と空間に制約されて いました。主はガリラヤにおられたのでしょうか。そのとき主をエルサレムで見 かけることはできませんでした。主はエルサレムにおられましたか。そのとき主 をガリラヤでお捜ししてもむだでした。しかし現在、キリストは時間にも空間に も制約を受けておられません。というのは主は永遠のいのちの力の中に生き、父 なる神は御子を私のうちに啓示することをよしとされたからです。主はあるとき、 弟子たちとともにおられましたが、主は私といつもともにいてくださいます。弟 子たちは当時、肉において主を知り、主を見、主に触れ、たいへん親密に主と生 活をともにしました。「今はもうそのような知り方はしません」。しかし、真実 私は主を知っています。なぜなら、神が私のうちに啓示することをよしとされた ので、私は主を知っているのです。主は私に、主を知ることにおいて、知恵と啓 示の御霊を与えてくださらなかったと言えるのでしょうか。

1月19日 こういうわけで、アグリッパ王よ、私は、この天からの啓示にそむかず、 使徒 26.19 生涯にわたるパウロの自己献身を喚起したのは天からのまばゆい光でした。彼 の服従は幻から生まれました。というのも自分自身を主に明け渡すことが神の目 に尊いのは厳然たる真理である一方、盲目的に自分自身を主に捧げても、ずっと 先まで主にお仕えすることはできないでしょう。私たちが回心した後の純粋だが 導きに頼っていない初期の献身と、より多く自分自身を主に捧げ、神の計画を知 ることから生まれる献身とでは、違いがあるように私には思えます。私たちが救 われたままの状態の土台に立ってるとき、主はすぐには厳しい命令をおくだしに ならないかもしれません。しかし私たちに望まれることを心を開いて主がお示し になり、私たちの喜んでお仕えする気持ちを求められ、そして私たちの初々しい 答えをお受けとりになったとき、そのとき主の私たちへの要求はより高度なもの となります。私たちは新しい合意の土台の上で堅い誓約をしました。そして主は 私たちの新しい誓約の言葉をもって、私たちをお召しになります。これから後ず っと私たちの持っているものすべてはそこに通じていなければなりません。

1月20日 イスラエル人は、旅路にある間、いつも雲が幕屋から上ぼったときに旅立った。 出エジプト40.36 この遠い時代、神はいつでも栄光のケルビムの中からその民に語られましたが、 同様に、神はいつでもまさに同じ栄光によって彼らを前進させました。昼は雲の 中に、そして夜は火の中に神の栄光は現われました。そしてその栄光に導かれて 彼らは移動しました。私たちに対してもまた、主の栄光から神の御心のあらゆる 啓示があふれ出ています。あらゆる事物に関する神の栄光を見なさい。そうすれ ばそれに対する神の導きを発見するでしょう。「これが主の御心ですか。あれが そうですか」と、あなたは私に尋ねるかもしれません。私は答えるかわりに逆に 質問します。「神の栄光はそこにとどまっていますか」。その栄光をみつめなさ い。そうすればもうあなたはなにもそれ以上待ち続ける必要はありません。なぜ なら神の栄光そのものが神の御心を説明しているからです。こうして導きは単純 に神の栄光と一致した事物に帰されます。神の栄光のとどまるところでは私たち は道を尋ねる必要がありません。

1月21日 上って行ってはならない。主はあなたがたのうちにおられないのだ。あなたが たが敵に打ち負かされないように。 民数記 14.42 神がお気持ちを翻されるかもしれないという容易ならぬ可能性は常にあります。 この事実に私たちは謙虚な恐れを主の前で抱きます。というのも私たちの内側に 主の御心に反抗する何かがあるなら、イスラエルの場合のように、主は私たちへ の命令をしかたなく変更されるかもしれません。彼らが罪を犯したと白状したこ とは本当のことでした。しかし彼らはそれから何事もなかったかのように進軍す ることができると考えたのは誤りでした。何かがあったのです。このような状況 で、主が20年前に、あるいは昨年ということもありえますが、私たちに与えて くださったものを後生大事につかんで放さないのは愚かな行為です。私たちは今 に生きるべきであり、神をつかんでいるべきなのです。現在の関係こそが要点な のです。無論、モーセでさえ神を怒らせたとき、別の道が導かれたのでした。し かし神のその時の御心に頭を下げたので、彼は祝福されました。一方、主の現在 の御心を無視しようとしたイスラエル人は悲惨でした。私の内側の何かが主のお 気持ちを翻させたのでしょうか。そうでしたら主の調整に身を委ねられますよう に。いつの日か主は回復してくださるでしょう。

1月22日 ああ、ご主人様。どうしたらよいのでしょう。 II 列王記 6.15 神が奇跡を行なわれるとき、私たちは自らの愚かさ加減を笑うべきです。私た ちが未だに思い煩い、思案し続けるならば、私たちは主の弟子でもなんでもあり ません。悲しいことですが、多くの人々は神が自分たちのために働いていてくだ さることをけっしてわかろうとしません。なぜなら彼らはいつも道をはずれてい るからです−−神が助けてくださらなくても、多分友だちが少しは助けてくれる、 等と。もっとも憐れむべきは、絶対的な危機にひんして、なお脱出のための安易 な道を見出だしてしまう人々です。必要は奇跡の母です。逃げようとするために、 別のものを見失います。大きな困難は、もっぱら私たちが自分自身から離れて主 に信頼する者となるように備えられたものなのです。前にも後ろにも道がない、 そのとき神はおできになります。主にはご計画があります。ですから不可能を恐 れてはなりません。主にはなんでもないことです。主の足元にひざまづき、主が 行動を起こされるのを待ちなさい。奇跡は先にあります。

1月23日 マルタ、マルタ。あなたは、いろいろなことを心配して、気を使っています。 どうしても必要なものはただ一つだけです。 ルカ 10.41〜42 正直なところ、主への働きは人を引きつけるものがあります。人々があなたの 話を聞きに集まるのは、ぞくぞくすることかもしれません。反対に、もしあなた が家にいることを強要されて、朝から晩までこの世の仕事に忙殺されたなら、あ なたはすぐに、「人生はなんと無意味なんだ。外に出て主に仕えることはなんと 大きなことだろう。あちこちに出かけられて、説教さえできればいいのに」と、 思い始めるでしょう。 しかしそれは霊的ではありません。それは生来の好みの言いなりになってしま っているにすぎません。私たちの神への某かの奉仕が、ただ単に自分自身の趣向 の追求に過ぎないことはありえないことなのでしょうか。私たちは落ち着きがな いので、家でじっとしていることができません。それで自分の息抜きのために、 あちこち走り回って神の仕事をするのです。私たちは兄弟に仕えるために目一杯 何かをするかもしれません。あるいは罪人を救うために働いているかもしれませ ん。しかし、どうしても必要なことはただ一つだけです。私たちはまず何よりも、 主にお仕えしているのでしょうか。

1月24日 神である主は、私に弟子の舌を与え、疲れた者をことばで励ますことを教え、 イザヤ50.4 私は、神から出たことをそのまま口に出しているという自覚を持たないで話し ていることが気がかりなのでしょうか。これやあれを私に言わせているのは聖霊 なのか、それとも違うのかと気に病むべきなのでしょうか。私の話すことが本当 に神から来ているのか十分気を付けるようにという命令においては、私はいかに 霊的に貧しいものであるかをあらわに示すばかりなのでしょうか。  豊かなクリスチャンは自分の生活におけるあふれるばかりの恵みを話します。 毎朝毎朝目を覚ますと神のみことばを教えられ、いつでも振り出すことができる ように霊の富を蓄えます。特別な恵みの配慮で、その日暮らしの生活を何とか耐 えるのとは反対に、新しくて古いものを生み出すために、恒常的な余剰を何年間 もため込みます。このような経験を通してその人は、必要があれば、神の直接の 導きを自覚しながら、うぬぼれることなく聖霊の心について語ることができるよ うになるのです。

1月25日  私たちの仕える神は、火の燃える炉から私たちを救い出すことができます。                           ダニエル 3.17  どのようにして教会は目的地に到着するのでしょうか。迫害から拡大へ、貧し さから豊かさへの小径を旅することによってのみ、それは可能です。あなたは尋 ねます。「迫害を通して拡大するとはどういうことなのでしょうか」。3人が炉 に投げ込まれるとき、3人は4人になります。これが迫害を通しての拡大です。 ある者は、その炉が3人にとっては相当窮屈であることがわかると、逃げ道を探 します。別の者は制限を受け入れ、制限を受け入れながら第四の人のために部屋 を準備します。困難が私たちを神から隔絶するのを許すのではなく、困難が私た ちに神を招き入れることを許すこと、これこそ迫害を通しての拡大です。ある人 は迫害を通して神の目的に到達します。別の人は迫害の中で事切れてしまいます。 ある人は苦境の中で死にますが、別の人は苦境を通してあふれるいのちを見い出 します。試練の時、ある者は自分たちの束縛と限界と死だけを発見してつぶやき ます。別の者は試練について神に感謝し、そうすることで拡大と自由とあふれる いのちへの小径を発見します。

1月26日 イエスは、酸いぶどう酒を受けられると、「完了した」といわれた。 ヨハネ 19.30 キリスト者の信仰の始まりは「為す」ではなく、「為された」です。私たちの 理性がこれに逆らうのはもちろんです。動き始めなければ、どうやって目的地に たどり着くことができましょう。なんで努力もしないで到達できるでしょう。今 までに、何かを得ようと働きかけもしないで、手にしたことがいったいあったで しょうか。しかしクリスチャンというのは妙なものです。休息から始まるのです から。最初に私たちがなんでもやろうとしてみれば、何も得られません。もし私 たちが到達しようと求めれば、私たちはすべてを失います。イエスは「完了した」 と言われました。そしてパウロは次のようなことばでエペソ人への手紙を書き始 めます。「神はキリストにおいて、天にあるすべての霊的祝福をもって私たちを 祝福してくださいました」。ですから私たちは、自分の力で達成するのではなく、 まさにこの始まりに、休息するように、そして神が為してくださったことを喜ぶ ようにと招待されているのです。

1月27日 今ここで、わたしは契約を結ぼう。・・・・わたしは、あなたの民すべての前で、 ・・・・奇しいことを行なおう。 出エジプト34.10 私たちの多くは、神の約束と神の御約束の成就(主の力強い働き)、そして 神の契約を明確に区別していません。約束は信仰を強めていただく目的で与えら れたものですが、しばしば私たちは主の約束に奮い立つことができません。とき どき私たちは神の御約束の成就を把握することさえできなくなり、状況はその成 就に逆らっているように思われます。しかしなお、そのようなときにも私たちに は契約があるのです。そして契約は約束以上のものを意味し、より強力な働きで すらあるのです。契約は神ご自身が、そのなさるところを明らかにされたものな のです。契約は信仰がつかめるように神が与えてくださった取っ手です。実際の ところ、私たちには神に要求するものがなにもありません。しかし神は喜んで契 約を守り続けてきてくださり、私たちのためにことを為してくださることを誓っ てこられました。主は今も、−−私は畏敬の念を込めて言いますが−−私たちの ために契約を果たしてくださることを誓われています。ここに契約の価値があり ます。信仰が弱り果てたとき、信仰に力を与えてくださるものはまさにこれなの です。

1月28日 主はその愛するものを懲らしめ、受け入れるすべての子に、むちを加えられる。 ヘブル 12.6 霊的な幻は、それ自体では、人生をつくりかえるのに十分でないことは明らか なようです。ヤコブのはしごを考えてみましょう。彼の不正な行ないのため、ヤ コブは家庭と地位を失っていました。しかしそれにもかかわらず、神のヤコブへ の偏愛ゆえのベテルにおける驚くべき幻に、ヤコブは「この場所は、なんとおそ れおおいことだろう」と叫ばずにはいられませんでした。幻を伴なった約束は十 分でしかも無条件でした。それにもかかわらず、ヤコブの神への問いかけは対照 的でした。「もし・・・・もし・・・・もし・・・・そうしたら私はしましょう」 *。相手が神であっても彼は取引をしました。彼は以前のまま変わっていないヤ コブだったのです。 しかし、やがて彼はラバンと関係する運命にありました。この男はもう一人の ヤコブ自身でした。そうこうして、何年間もかけて、神はもっとも有効な訓練を ヤコブに課したのです。甘やかされて駄目になっていたその家の息子は荒々しく 使われる肉体労働者になりました。しかし神の道はいつでも正しかったのです。 最後にベテルに戻る道を見い出したヤコブは、新しい人でした。

1月29日 わたしはイスラエルには露のようになる。 ホセア 14.5 このことばには神の子供たちが体験するあらゆることの始まりが表現されてい ます。露はいのちと木や花の成長に欠くことのできないものです。そして私たち の露に、主ご自身がなってくださると約束されています。私たちのクリスチャン としての生活の中ではキリストが源となられて、あらゆるものを降り注いでくだ さいます。キリストは私たちにとって、知恵となり、義となり、聖めとになられ ました。そうです。あらゆるものです。つまり主から受けたものにしては不適当 だと人間が判断する必要はまったくありませんし、あるいはキリストとは関係な く、別の賜物が私たちに与えられるようなことも実際にはありません。 「わたしは露のようになる」と主は確言なさいました。そしてこの節の後半で ホセアは、いのちの源であるようなこの露を受けたいのちが、いかに神秘的な二 面性を帯びているかを明らかにします。露の中で花咲くゆりにポプラの根が関連 づけられる。つまりはかない美しさとがっしりとした強さが一つの植物に結びつ いています。こうした奇跡はただ天の露によって可能な業なのです。

1月30日 彼はゆりのように花咲き、レバノン(*)のように根を張る。 ホセア 14.5 ここでは二つの対照的な性格が、神の子供の中で結び付けられています。地面 の上には神の植えられたゆりによって、あたかも信頼と信仰において純粋で世慣 れしていないいのちが象徴されています。人の目に付くのはまさにここです。し かし目に見えない地中深く、このひ弱な植物にまったく思いもつかない強さが与 えられています。それは杉(*)の強靭な根なのです。ここに確かに十字架で知 られるいのちの逆説が成立します。外面的にはそのいのちは地上で花咲くゆりの ようにはかないのですが、さらに地下にはひそかに百倍のいのちがあるのです。 これは試験です。私のいのちはどれだけ見えますか。人が表面だけ見るならば、 すべてが見えたと言えるのでしょうか、あるいはさらにいのちがあるのでしょう か。私には目に見えないところでのひそかな神との記録を残しているのでしょう か。人はかよわく咲くゆりの花に注意を払うだけです。神は根に注意を向けられ、 強靭さにおいては杉のようになさるのです。

1月31日 モーセが私を遣わした日のように、今も壮健です。私の今の力は、あの時の力と 同様、戦争にも、また日常の出入りにも耐えるのです。 ヨシュア 14.11 神の救う力を証明した私たちの中に、まだ神の力の持続性について疑いを感じ ている者がいるのは残念なことです。恵みの提供者であられる主は、私たちを主 の恵みの中に保っていてくださる方であることをどうして悟ろうとはしないので しょうか。カレブを見てください。彼はモーセが地を偵察して来るようにと遣わ したころと変わらない壮健さを持ち続けていました。彼の壮健さは彼の言葉に比 べ遜色がありません。さらに日常の普通の命令に十分だと証明された力は、戦争 の特別な重圧にも通用するのです。苦しい年月がありましたが、彼の活力は85 歳になっても40のときからまだ減退することはありませんでした。彼の体験の ちょっとした説明をしましょう。最後には私たちの説明でもあってもらいたいも のですが。つまり、彼は神の力で保たれてきたのです。 2月1日 いつも喜んでいなさい。・・・・すべての事について、感謝しなさい。 I テサロニケ 5.16,18 どうしてこんな事ができるのでしょう。どうやって困難のさ中に喜ぶことがで きましょう。その喜びとはいったいどこから来るのでしょうか。私たちはその喜 びを作り出すことができません。というのは私たちが喜びを持たなければ、喜べ ないからです。しかし他のところでパウロは秘訣を教えています。私たちは主に あって喜ぶことができます。私たちは主の喜びによって生きることができ、あな たや私がたとい絶望していたとしても、主は聖霊によって喜びあふれ、次の勝利 に満ちた言葉を語られます。「父よ、これがみこころにかなったことでした」 (ルカ 10.21)。主の喜びはあなたの喜びです。あなたは困難の真上にあ る喜びによって生きる訓練をするべきです。気が塞ぎがちになるとき、主を見上 げ、今日は主は喜びを失われたのだろうかと、自問しなさい。主だけが喜びに満 たされているのなら、あなたは喜びのない状態を楽しんでいるのではありません か。 といっても問題はあなたの喜びはなく、主の喜びです。主の喜びはあなたの力だ からです。