重田定義兄

神のご性質にあずかる者

2017年6月20日、吉祥寺学び会

重田定義


第2ペテロ

1:1 イエス・キリストのしもべであり使徒であるシモン・ペテロから、私たちの神であり救い主であるイエス・キリストの義によって私たちと同じ尊い信仰を受けた方々へ。

1:2 神と私たちの主イエスを知ることによって、恵みと平安が、あなたがたの上にますます豊かにされますように。

1:3 というのは、私たちをご自身の栄光と徳によってお召しになった方を私たちが知ったことによって、主イエスの、神としての御力は、いのちと敬虔に関するすべてのことを私たちに与えるからです。

1:4 その栄光と徳によって、尊い、すばらしい約束が私たちに与えられました。それは、あなたがたが、その約束のゆえに、世にある欲のもたらす滅びを免れ、神のご性質にあずかる者となるためです。


私たち人間が心から神とお呼びして崇め、恐れ敬い礼拝すべきそのような神は、人間が考え作り出した偶像の神様ではなくて、私たち人間をはじめ天地万物を創造され、すべての被造物を御心のままに支配しておられる主権者にして、全知全能なる生ける唯一まことの神様であります。


けれども、その神様は霊的なご存在であるがために、私たちがいったい神様がどんなご性質のお方かということを知りたくても、直接、人間の肉の目で見ること、人間の肉の耳でその御声を聞くこともできません。けれども、神様は私たち人間をご自分に似た者としてお造りになったほどに愛してくださがゆえに、ご自分がどんな性質を持つものかを私たちに知らせようと、恵みとして見える形をとってこの世に来てくださいました。


そのお方こそが、神の一人子のイエス様であります。かつて、イエス様の弟子の一人ピリポがイエス様に、神様を見せてくださいとせがんだ時に、イエス様はこう答えられました。「ピリポ、こんなに長い間あなた方と一緒にいるのに、あなたはわたしを知らなかったのですか。わたしを見た者は父を見たのです。」(ヨハネ14:9)。


へブル

1:3 御子は神の栄光の輝き、また神の本質の完全な現われであり


コロサイ

2:9 キリストのうちにこそ、神の満ち満ちたご性質が形をとって宿っています。


したがいまして、私たち人間が神のご性質がどんなかを知ろうと思えば、神が人となられたイエス様を見れば、そしてまた、イエス様のなさったことを知れば解るはずであります。では、イエス様のご性質はいったいどのようなものなのでありましょうか。聖書から挙げてみたいと思います。まず、イエス様は父なる神の御心に背くという罪を犯している私たち人間のその罪から救い出して、神様と和解させるために、ご自身の命を捨ててまで愛してくださったほどの大きな自己犠牲の愛をお持ちの方であります。


第1ヨハネ

3:16 キリストは、私たちのために、ご自分のいのちをお捨てになりました。それによって私たちに愛がわかったのです。


また、イエス様はご自分の口から出された言葉は決して否定されない、取り消されない。そのような真実な全き真実な誠実なお方であります。


第2テモテ

2:13 私たちは真実でなくても、彼は常に真実である。彼にはご自身を否むことができないからである。


またイエス様は、ご自分を無にして命を捨ててまで父なる神に従われたほどの従順なお方であります。


ピリピ

2:6 キリストは、神の御姿であられる方なのに、神のあり方を捨てることができないとは考えないで、

2:7 ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられたのです。

2:8 キリストは人としての性質をもって現われ、自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われたのです。


そしてまた、イエス様は一度も罪を犯されたことのない聖にして義なるお方であります。


第2コリント

5:21 神は、罪を知らない方を、私たちの代わりに罪とされました。それは、私たちが、この方にあって、神の義となるためです。


いずれも、生まれつきの人間には絶対に見ることのできない性質であり、また人間がいかに努力しても決して得ることのできない性質であります。けれども、最初に読んでいただいたみことばの中に、「あなたがたが、神のご性質にあずかる者となる」とあります。ということは、私たち人間も神のご性質にあずかることができるということであります。


いったいそのような事が可能なのでありましょうか。人間を軽んじたり、憎んだり、羨んだり、見下したり、立派でもない自分を誇ったりするような、そのような生まれつきの性質を持った私たち人間が、どうして神のご性質にあずかることができるのでありましょうか。もし可能なら、いったいそのために私たち人間は、どうするばよいのでありましょうか。


それには、まず第一に、私たちが神様から罪を赦していただくということが絶対に必要になります。ご存知のように、聖書でいう所の罪は、私たち人間が作った法律を犯すそのような犯罪ではない。神様を第一としない、今述べましたように自分を誇ったり、自分の考えを第一として生きる、そのような事が罪であります。


そして、この罪は私たち人間の生まれつきの性質に由来しておりますので、人間の努力ではどうすることできない。神様に赦していただくほかないのであります。そのために、私たちが成すべきことは、まず自分の今までの生き方が間違っていたこと、そして、生きて働かれるまことの神様を認めずに自分を第一とすることばかり考えて生きてきたことが、神様の御心に逆らう死罪にあたる罪であり、この罪は自分がいかに努力しても消し去ることができない、取り去ることができないということを素直に認め、神様の御前に心から悔い改めることであります。


そして、次にこの自分の罪は、人となってこの世に来てくださった罪汚れの全くない聖い神の御子であるイエス様が身代わりになって、十字架にかかってくださったことによって取り除かれたと、ただ素直に信じることであります。


神様はこの信仰告白を喜んでくださり、イエス様を信じる信仰によって私たちを罪なき者と認めてくださるのであります。しかしながら、神様に背くという罪を認めることも、そしてその罪がイエス様の十字架の御業によって赦されたと信じることも、これは決して自分の頭で理解してできる事ではありません。


心からの信仰告白は、主なる神様、そして御子イエス様がご自分に背いて自分勝手な生き方をしている私たちをも、なおも愛してくださってご自分のご性質に与からせようと救いの対象に選んでくださり、約束の御霊を与えて私たちの霊の目を開いてくださったからこそできるのであります。


第1コリント

2:9 まさしく、聖書に書いてあるとおりです。「目が見たことのないもの、耳が聞いたことのないもの、そして、人の心に思い浮かんだことのないもの。神を愛する者のために、神の備えてくださったものは、みなそうである。」

2:10 神はこれを、御霊によって私たちに啓示されたのです。御霊はすべてのことを探り、神の深みにまで及ばれるからです。


ヨハネ

15:26 わたしが父のもとから遣わす助け主、すなわち父から出る真理の御霊が来るとき、その御霊がわたしについてあかしします。


けれども、主を信じてイエス様を信じて救われただけでは、主のご性質に与かる恵み、特権を得ることはできても、まだそれだけでは主のご性質に与かる所にまでには至っていないのですね。いつまでも生まれたままの幼い信仰の状態に留まっていては、主のご性質に与かることはまだできない。なぜならば、幼い信仰の状態では、まだ信者に根強く残っている肉の性質によって、肉の思いに振り回されることが多いからであります。パウロは、次のように言っております。


第1コリント

3:1 さて、兄弟たちよ。私は、あなたがたに向かって、御霊に属する人に対するようには話すことができないで、肉に属する人、キリストにある幼子に対するように話しました。

3:2 私はあなたがたには乳を与えて、堅い食物を与えませんでした。あなたがたには、まだ無理だったからです。実は、今でもまだ無理なのです。

3:3 あなたがたは、まだ肉に属しているからです。あなたがたの間にねたみや争いがあることからすれば、あなたがたは肉に属しているのではありませんか。そして、ただの人のように歩んでいるのではありませんか。


したがいまして、主のご性質に与かるためには、信じる者に恵みとして与えられた御霊に満たされ、御霊の働きによって肉の思いに打ち勝って生きるようになる必要があるのであります。これについて、パウロは次のように言っております。


ローマ

8:5 肉に従う者は肉的なことをもっぱら考えますが、御霊に従う者は御霊に属することをひたすら考えます。


8:13 もし肉に従って生きるなら、あなたがたは死ぬのです。しかし、もし御霊によって、からだの行ないを殺すなら、あなたがたは生きるのです。


けれども、パウロの言っておりますように御霊の働きによって肉の思いを、肉の行いを殺すことは容易ではありません。このことは、私たち信者も日々の信仰の歩みの中で、痛いほど味わっているのではないでしょうか。


それは、私たち信者の中に根強く残っている肉の思いの根源であるところの自我が、御霊の働きを妨げているからであります。したがいまして、御霊が働かれるためには、この私たちの自我が砕かれなければならないのであります。そして、その事をよくご存知の主は自我を砕くために、私たちの肉に様々な試練、あるいは苦難を与えてくださるのであります。これは恵みであります。これについてへブル書12章4節から10節では次のように言っております。


へブル

12:4 あなたがたはまだ、罪と戦って、血を流すまで抵抗したことがありません。

12:5 そして、あなたがたに向かって子どもに対するように語られたこの勧めを忘れています。「わが子よ。主の懲らしめを軽んじてはならない。主に責められて弱り果ててはならない。

12:6 主はその愛する者を懲らしめ、受け入れるすべての子に、むちを加えられるからである。」


12:10 なぜなら、肉の父親は、短い期間、自分が良いと思うままに私たちを懲らしめるのですが、霊の父は、私たちの益のため、私たちをご自分の聖さにあずからせようとして、懲らしめるのです。

12:11 すべての懲らしめは、そのときは喜ばしいものではなく、かえって悲しく思われるものですが、後になると、これによって訓練された人々に平安な義の実を結ばせます。


主から与えられる懲らしめは、私たち信者の頑なな自我を砕き、主に従順に従うために、そして主の聖さに与かるために、そしてまた、御霊の実を結ぶため、一言で申しますと主のご性質に与かる者となるためにどうしても必要な訓練なのであります。


こうして、主の訓練を受けて、自我が砕かれて初めて私たち信者は、内に住んでくださっている御霊に、自分の主導権を明け渡すことができるようになります。パウロもその一人でした。彼は次のように証ししました。


第2コリント

12:7 私は、高ぶることのないようにと、肉体に一つのとげを与えられました。それは私が高ぶることのないように、私を打つための、サタンの使いです。

12:8 このことについては、これを私から去らせてくださるようにと、三度も主に願いました。

12:9 しかし、主は、「わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現われるからである。」と言われたのです。ですから、私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで私の弱さを誇りましょう。


このように、主の懲らしめは自分の高ぶりを砕くためであり、御霊が働かれるための恵みを訓練として与えられたものと感謝することができたパウロは、次のように証ししました。


ガラテヤ

2:20 私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。


自分の主導権を完全に主に明け渡すことができた彼は、このように証しをしております。私たち信者も、自我が砕かれ、自分のすべてを御霊に明け渡して、これからは自分のためではなくて、命を捨ててまで自分を愛してくださった主のためイエス様のために生きよう、自分のすべてをイエス様にお委ねして生きようと心から決意することができるならば、それは信仰の幼子から主にイエス様に似る者へと成長しつつある証拠であり、主のご性質に与かりつつある証拠であると言えます。


主のために生きたいと心から願う信者は、御心を求め御心に従うことを切望いたします。すなわち、主が「わたしが、あなたがたを愛したようにそのようにあなたがたも愛し合いなさい」と、ヨハネ13-34で仰せになっているから、そのイエス様の仰せに従って人を愛することができるように、自我を砕いてくださり、御霊によって霊を強めてくださいとそのように祈るようになるのであります。


また、イエス様が「わたしが聖であるから、あなたがたも聖でなければならない」(第1ペテロ1-16)そのように仰せになっているから、そのイエス様の仰せに従って、身を慎み汚れた行いから身を守ることができるように、御霊によって霊を強めてくださいと、そのように祈るようになります。


また、イエス様が「わたしが父のもとから遣わす助け主、すなわち父から出る真理の御霊が来るとき、その御霊がわたしについてあかしします。あなたがたもあかしするのです。」と仰せになっているから、その主の仰せに従って、御霊の力によって霊を強められて主をあかしすることができますようにと祈るようになります。


イエス様は、このような祈りを喜ばれ、私たちの自我を砕いてくださり、私たちの内に住んでおられる御霊の力によって人を愛することができるように、また御霊の力によって汚れた行いから身を守ることができるように、そしてまた、御霊の力によって主をあかしすることができるように、私たちを強めてくださり導いてくださるのであります。


こうして私たち信者は、次第しだいに、イエス様に似る者へとイエス様のご性質に与かる者へと成長させていただくのであります。けれども、私たち信者が完全にイエス様のご性質に与かる者に、イエス様に似る者になれるのは、私たち信者を天に携え挙げてくださるために空中まで迎えにきてくださる主のご再臨の時ではないでしょうか。


その時には、私たち信者が、主の復活のよみがえりの体と同じ朽ちない聖い完全な体を与えられるからであります。主のご再臨については、聖書に次のように記しております。


ピリピ

3:20 私たちの国籍は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主としておいでになるのを、私たちは待ち望んでいます。

3:21 キリストは、万物をご自身に従わせることのできる御力によって、私たちの卑しいからだを、ご自身の栄光のからだと同じ姿に変えてくださるのです。


第1コリント

15:47 第一の人は地から出て、土で造られた者ですが、第二の人は天から出た者です。


15:49 私たちは土で造られた者のかたちを持っていたように、天上のかたちをも持つのです。

15:50 兄弟たちよ。私はこのことを言っておきます。血肉のからだは神の国を相続できません。朽ちるものは、朽ちないものを相続できません。

15:51 聞きなさい。私はあなたがたに奥義を告げましょう。私たちはみなが眠ってしまうのではなく、みな変えられるのです。

15:52 終わりのラッパとともに、たちまち、一瞬のうちにです。ラッパが鳴ると、死者は朽ちないものによみがえり、私たちは変えられるのです。


イエス様は、ご再臨の近いことを自ら次のように約束しておられます。


黙示録

22:12 見よ。わたしはすぐに来る。わたしはそれぞれのしわざに応じて報いるために、わたしの報いを携えて来る。


ご再臨がいよいよ間近いことを、私たちは世界に起こっている様々な現象から強く覚えます。私たち信者は、主の性質に与かれるというすばらしい約束が、それによって迫っているということも希望を持って待ち望むことができます。その日に備えて、御霊にしっかりより頼んで、心の備えをすることができるようにと切に祈るしだいであります。最後にみことばをお読みして終わりたいと思います。


第1ペテロ

1:13 ですから、あなたがたは、心を引き締め、身を慎み、イエス・キリストの現われのときあなたがたにもたらされる恵みを、ひたすら待ち望みなさい。


おわり


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