重田定義兄

わたしから学びなさい

2017年4月18日、吉祥寺学び会

重田定義


マタイ

11:29 わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます。

11:30 わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです。


イエス様はどうして、私たちを救いの対象にお選びになったのでありましょうか、どうして、尊いご自分のいのちを犠牲になさってまで罪から救い出そうと私たちを選んでくださったのでありましょうか。


それは、ただ救うことだけはなく、選んで救い出してくださった私たち一人一人を、ご自分の僕としてご自分の弟子として、父なる神様が立てられた救いのご計画を進めるために用いようとお考えになったからであります。イエス様は、救われた私たちが僕として弟子として、ご自分を主と仰ぎ従うことによって、ご自分の御栄光を現そうとお考えになっておられるのであります。


しかし、そのためには私たちが主が良しとされる御心に叶う主の僕、主の弟子とならなければなりません。しかし、どうしたら主の御心に叶うことができるのでありましょうか。主の御心に叶う僕とはいったいどのような僕なのでありましょうか。


イエス様は、わたしから学びなさいと仰っておられるのです。わたしを手本にしなさいと仰っているのであります。イエス様は、ご自分にふさわし僕とは、自分に似た者でなければならない、だからわたしを自分を手本として、わたしから学びなさいと仰っているのであります。そこで、これから私たちはイエス様の僕、主の僕の手本をイエス様から学んでみたいと思います。


主の御心にかなう僕にまず求められるのは、全き従順、イエス様が従われたような全き従順であります。イエス様は弟子たちに仰いました。


ヨハネ

5:19 そこで、イエスは彼らに答えて言われた。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。子は、父がしておられることを見て行なう以外には、自分からは何事も行なうことができません。父がなさることは何でも、子も同様に行なうのです。


6:38 わたしが天から下って来たのは、自分のこころを行なうためではなく、わたしを遣わした方(父なる神様)のみこころを行なうためです。


ピリピ

2:6 キリストは、神の御姿であられる方なのに、神のあり方を捨てることができないとは考えないで、

2:7 ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられたのです。

2:8 キリストは人としての性質をもって現われ、自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われたのです。


神の御子であるイエス様は、父なる神様と共に天地万物をお造りになったほどの偉大な力をお持ちの方ですから、人として地上に来られてからも、ご自分の力でしようと思われれば、何でもおできになるのであります。


しかし、イエス様は私たち人間を救うご計画を立てられた父なる神様のお考えを実行されるために、卑しい人間としてこの世に生まれてくださっただけではなく、すべて父なる神様の御心のままに、ご自分を無にして十字架の死にまで従われたのであります。


これほどの従順があるでしょうか。主の僕には全き従順が求められます。そして、イエス様ご自身がその手本を自らお示しになったのであります。けれども、全き従順は自分を主に明け渡さなければできない事であります。そして、その姿を私たちはパウロの中に見ることができます。彼は次のように証ししております。


ガラテヤ

2:20 私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。いま私が、この世に生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。


第1テサロニケ

5:10 主が私たちのために死んでくださったのは、私たちが、目ざめていても、眠っていても、主とともに生きるためです。


しかしながら、このパウロのように自分を明け渡すには、どうしても自我が砕かれる必要があります。しかしそれは、決して自分の力ではできないのであります。そのような弱い私たちを、よくご存知の主は、愛の鞭によって私たちの自我を砕いてくださるのであります。


主によって与えられる愛の鞭というのは様々ですけれども、たとえば、不治の病、不治の障害、愛する者との死別、血肉の争い、人から受ける耐えがたい差別、迫害、あるいは経済的な破たんなど、いずれも私たちの肉にとっては大きな痛みを伴うものであります。


けれども、私たちはそのような苦しみを通して弱められ、心が砕かれるのであります。そして、イエス様は、その私たちに「わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。」と優しく励ましてくださっています。


こうして、主の僕とされた私たちは、共にいて励ましてくださるイエス様に支えられて、自我が砕かれしだいしだいに、主が自ら模範を示された全き従順にならう者と変えられ、パウロのように自分を主に明け渡すことができるようになるのであります。また、主の僕にはイエス様の愛が求められます。イエス様は弟子たちに仰いました。


ヨハネ

15:12 わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合うこと、これがわたしの戒めです。


イエス様の愛それは申すまでもなく、私たちの罪の身代わりによって、十字架にかかって死んでくださったことによって現された自己犠牲の愛であります。


第1ヨハネ

3:16 キリストは、私たちのために、ご自分のいのちをお捨てになりました。それによって私たちに愛がわかったのです。


かつての私たちは、愛と言えば人間的な愛、自己中心的な愛しか知りませんでした。自分の愛したい者を愛するけれども、自分を嫌う者、自分を憎む者を愛することなどは決してできないと考えておりました。しかし、イエス様はルカ伝6章27節から29節で「あなたの敵を愛しなさい。あなたを憎む者に善を行ないなさい。あなたをのろう者を祝福しなさい。あなたを侮辱する者のために祈りなさい。あなたの片方の頬を打つ者には、ほかの頬をも向けなさい。」と仰いました。


そして、最高の愛とは、ヨハネ伝15章13節「人がその友のためにいのちを捨てるという、これよりも大きな愛はだれも持っていません。」と仰いました。そして、その最高の愛を自分の命さえ惜しまない自己犠牲の愛を、イエス様は自らお示しになったのであります。


そして、イエス様はその愛を主の僕も持ちなさいと命じておられるのであります。しかし、これもまた自己否定なしにはかなわぬ事であります。その私たちをイエス様は「わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。」と励ましてくださっておられるのであります。


こうして、主の僕とされた私たちは、共にいてくびきを負ってくださるイエス様に支えられて、しだいしだいに、自分を憎む者、自分を迫害する者のためにとりなして祈る者と変えられていくのであります。


また、御心にかなう主の僕には、イエス様の忍耐が求められております。パウロは第2テサロニケ3章5節で「どうか、主があなたがたの心を導いて、神の愛とキリストの忍耐とを持たせてくださいますように。」と言っております。


イエス様の忍耐、それは神様に背いている人間を救う父なる神様のご計画に従って、この世に来られた御子イエス様が33年のご生涯の間に、人々から侮辱され迫害され、最後には十字架にかけられるという辱めをも耐え忍ばれたことによって示された忍耐であります。


イザヤ

53:3 彼はさげすまれ、人々からのけ者にされ、悲しみの人で病を知っていた。人が顔をそむけるほどさげすまれ、私たちも彼を尊ばなかった。

53:4 まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みをになった。だが、私たちは思った。彼は罰せられ、神に打たれ、苦しめられたのだと。

53:5 しかし、彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。

53:6 私たちはみな、羊のようにさまよい、おのおの、自分かってな道に向かって行った。しかし、主は、私たちのすべての咎を彼に負わせた。

53:7 彼は痛めつけられた。彼は苦しんだが、口を開かない。ほふり場に引かれて行く小羊のように、毛を刈る者の前で黙っている雌羊のように、彼は口を開かない。


へブル

12:2 信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。イエスは、ご自分の前に置かれた喜びのゆえに、はずかしめをものともせずに十字架を忍び、神の御座の右に着座されました。

12:3 あなたがたは、罪人たちのこのような反抗を忍ばれた方のことを考えなさい。それは、あなたがたの心が元気を失い、疲れ果ててしまわないためです。


主の僕の忍耐は、何のために必要なのでありましょうか。それは、主に忠実に従って歩む僕が、サタンに属するこの世からの迫害を耐え忍ぶために必要なのであります。なぜ主の僕は迫害されるのでしょうか。これについて、イエス様は次のように仰いました。


ヨハネ

15:18 もし世があなたがたを憎むなら、世はあなたがたよりもわたしを先に憎んだことを知っておきなさい。

15:19 もしあなたがたがこの世のものであったなら、世は自分のものを愛したでしょう。しかし、あなたがたは世のものではなく、かえってわたしが世からあなたがたを選び出したのです。それで世はあなたがたを憎むのです。


そして、迫害を耐え忍んでいる主の僕に対して、イエス様は次のように励ましておられます。


ルカ

21:17 わたしの名のために、みなの者に憎まれます。

21:18 しかし、あなたがたの髪の毛一筋も失われることはありません。

21:19 あなたがたは、忍耐によって、自分のいのちを勝ち取ることができます。


ペテロは主の僕は、イエス様の忍耐に学ぶようにと次のように言っております。


第1ペテロ

2:20 罪を犯したために打ちたたかれて、それを耐え忍んだからといって、何の誉れになるでしょう。けれども、善を行なっていて苦しみを受け、それを耐え忍ぶとしたら、それは、神に喜ばれることです。

2:21 あなたがたが召されたのは、実にそのためです。キリストも、あなたがたのために苦しみを受け、その足跡に従うようにと、あなたがたに模範を残されました。


ここに善を行うとありますが、善を行うということは、主の御心に従って福音を伝えると言うことができます。主の僕が主に従って、まだその事をご存知ないで滅び行く人々に悔い改めてイエス様を信じれば救われますという福音を宣べ伝えたために、そのために迫害にあった時には、主を手本にして耐え忍べば、その私たちを主は御心にかなう僕と喜んでくださるのであります。主は福音の種を蒔いたいたために、迫害にあって流している私たちの涙を見過ごしになさいません。その涙を喜びに変えてくださいます。


詩篇

126:5 涙とともに種を蒔く者は、喜び叫びながら刈り取ろう。

126:6 種入れをかかえ、泣きながら出て行く者は、束をかかえ、喜び叫びながら帰って来る。


ここにあります通りに、主の福音を伝えて迫害にあいながらも耐え忍んで福音を伝え続けた主の僕は、主に祝福されて実りの束をかかえて、喜び叫びながら天の御国に凱旋するのであります。私たちの肉は、忍耐を嫌いますけれども、イエス様は「わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。」と私たちを励ましてくださっておられます。こうして、主の僕とされた私たちは、共にくびきを負ってくださるイエス様に支えられることによって、迫害をも耐え忍ぶことができるようになるのであります。


また、主の御心にかなう僕には、イエス様のへりくだりが求められます。自分を高くする者は、主の僕にふさわしくありません。人に仕えられることを望むのではなくて、へりくだって人に仕えることを喜ぶ、これが主の御心にかなう僕であります。イエス様はその模範を示されました。イエス様はこう言われました。


マタイ

20:28 人の子が来たのが、仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり、


神の御子として、天地万物の支配者としての偉大な権威を持っておられるイエス様は、人間すべてがお仕えすべきお方であります。けれども、イエス様はその私たちに仕えるためと仰いました。そして、ご生涯をとおして自らその模範をお示しになりました。イエス様は次のように仰いました。


ルカ

22:25 すると、イエスは彼らに言われた。「異邦人の王たちは人々を支配し、また人々の上に権威を持つ者は守護者と呼ばれています。

22:26 だが、あなたがたは、それではいけません。あなたがたの間で一番偉い人は一番年の若い者のようになりなさい。また、治める人は仕える人のようでありなさい。

22:27 食卓に着く人と給仕する者と、どちらが偉いでしょう。むろん、食卓に着く人でしょう。しかしわたしは、あなたがたのうちにあって給仕する者のようにしています。


ヨハネ

13:14 それで、主であり師であるこのわたしが、あなたがたの足を洗ったのですから、あなたがたもまた互いに足を洗い合うべきです。

13:15 わたしがあなたがたにしたとおりに、あなたがたもするように、わたしはあなたがたに模範を示したのです。


僕の給仕をしてくださるイエス様、僕の足を洗ってくださるイエス様、何というもったいないありがたい事ではないでしょうか。イエス様は「わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。」と私たちを優しく励ましてくださっておられます。


私たちは、このイエス様のへりくだりを手本として、心砕かれへりくだって主にお仕えし、また人々に仕え、主の御心にかなう僕となれるように、御霊の導きを祈らなければならないと思います。


これまで考えてまいりましたように、主の御心を行う僕に求められる従順、愛、忍耐、へりくだりは、重いくびきのように私たちは感じます。しかし、イエス様は「わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます。」と仰っておられるのであります。


このみことばに従って、共にいて優しく励ましてくださるイエス様に支えられながら、イエス様に学び、御霊に導かれながら少しづつ、主の御心にかなう僕にふさわしく整えられるならば、私たちはやがて主に似た者へと変えられていくのであります。


私たちはこの事に希望をおいて、ご自身を模範として示してくださったイエス様に従いつつ、まもなくイエス様にお会いするその日まで、信仰の歩みを進めていきたいと心から願うしだいであります。ありがとうございました。



おわり


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