重田定義兄

復活の主との出会いの大切さ

2016年3月29日、吉祥寺学び会

重田定義


ヨハネ

20:11 しかし、マリヤは外で墓のところにたたずんで泣いていた。そして、泣きながら、からだをかがめて墓の中をのぞき込んだ。

20:12 すると、ふたりの御使いが、イエスのからだが置かれていた場所に、ひとりは頭のところに、ひとりは足のところに、白い衣をまとってすわっているのが見えた。

20:13 彼らは彼女に言った。「なぜ泣いているのですか。」彼女は言った。「だれかが私の主を取って行きました。どこに置いたのか、私にはわからないのです。」

20:14 彼女はこう言ってから、うしろを振り向いた。すると、イエスが立っておられるのを見た。しかし、彼女にはイエスであることがわからなかった。

20:15 イエスは彼女に言われた。「なぜ泣いているのですか。だれを捜しているのですか。」彼女は、それを園の管理人だと思って言った。「あなたが、あの方を運んだのでしたら、どこに置いたのか言ってください。そうすれば私が引き取ります。」

20:16 イエスは彼女に言われた。「マリヤ。」彼女は振り向いて、ヘブル語で、「ラボニ(すなわち、先生)。」とイエスに言った。

20:17 イエスは彼女に言われた。「わたしにすがりついていてはいけません。わたしはまだ父のもとに上っていないからです。わたしの兄弟たちのところに行って、彼らに『わたしは、わたしの父またあなたがたの父、わたしの神またあなたがたの神のもとに上る。』と告げなさい。」

20:18 マグダラのマリヤは、行って、「私は主にお目にかかりました。」と言い、また、主が彼女にこれらのことを話されたと弟子たちに告げた。


今年は一昨日の27日が復活日に当たります。そこで今日は、聖書の今読んでいただきました箇所から、信者が復活の甦りの主に出会うことの大切さについて、ご一緒に考えていきたいと思います。


なぜ、甦りの主に出会うことが大切なのでありましょうか。それは、甦りの主に出会った信者にして初めて主の御心に従う者として、主に用いていただける器となるのであります。


マグダラのマリヤとは、ご存知のようにガリラヤ湖の西岸の町のマグダラの出であることからそう呼ばれておりました。かつて、7つの悪霊に悩まされておりましたけれども、イエス様に悪霊を追い出していただいてから後、イエス様が十字架にお架かりになり、墓に埋葬されるまでずっとイエス様につき従てきた女性であります。


イエス様が墓に葬られて3日目の朝、まだ暗いうちに彼女は、イエス様が葬られている墓に来て、墓から石が取り除けてあるのを見て、すぐにペテロとヨハネに知らせました。二人の弟子は、そこに来て墓の中にイエス様の体に巻かれていた布きれだけが残っていて、御遺体がないのを確かめて帰りました。


その後の出来事が、今読んでいただいた箇所に記されているのであります。あとに残って墓の中を覗き込んだマリヤは、イエス様の体を誰かが持ち去ったのだと思ってしまいました。それは、墓の中に立っていた二人の天使たちと彼女とのやりとりによっても、知ることができます。


けれども、その時彼女は、甦られたイエス様が後ろに立たれて「なぜ泣いているのですか。だれを捜しているのですか。」と聞かれて、振り返ってそのイエス様を見ても、それがイエス様とは解らなかったのですね。


園の管理人だと思ったとあります。彼女がイエス様だとやっと解ったのは、そのすぐ後でイエス様が「マリヤ」と彼女の名をお呼びになった時でありました。悪霊をイエス様に追い出していただいてから、イエス様が十字架に架かられるまで、ずっとイエス様の身近に居たのに何故彼女は解らなかったのでありましょうか。


それは、その時はまだ彼女の霊の目が開かれていなかったからであります。イエス様が、人としてこの世に生きておられた時は、彼女は他の弟子たちと同じように、肉の目でイエス様を見ていたのであります。


けれども、甦られたイエス様は肉の目では見わけられません。霊の目でしかイエス様と知ることができません。私たち人間は、霊の目が閉ざされていても、肉の目さえ開いていれば、この世を生きる上で何の差支えもありません。


けれども、主なる神様、そして主なるイエス様の御心を知るというような、人間にとって最も大切なことは霊の目が開かれていなければ決して解らないのであります。マリヤの霊の目は、イエス様に「マリヤ」と名を呼ばれた時に初めて開かれました。霊の目が開かれたことによって、甦りの主に出会うことができた彼女は、それまでの悲しみ、嘆きがいっぺんに吹き飛んでしまいました。喜びに変えられました。


そして彼女は、その喜びに心を躍らせつつ、弟子たちに「私は、主にお目にかかった」と報告して、イエス様が自分に命じられた事をそのまま弟子たちに伝えたのであります。


エマオという村に行く途中で復活の主に出会った二人の弟子たちも、またマグダラのマリヤと同じ経験をいたしました。この出来事は、ルカの福音書24章に詳しく記されております。彼らは、近頃エルサレムに起こった大事件、すなわち葬られたイエス様の遺体が墓から無くなっており、墓に行った女たちの話では、主が甦られたという噂を聞いて、気が動転しその事を夢中になって話合って論じ合って歩いていました。


その彼らに、復活されたイエス様が近づいて来られたのであります。けれども霊の目が閉ざされている彼らには、その方がイエス様だとは気づきません。イエス様がご一緒に道を歩きながら、彼らの疑問に対して聖書の中に書かれているご自分に関する事柄を説き明かされても、まだ彼らは気づきません。


エマオの村に着き、一緒に泊まっていただくようにお願いして、夕食になって食卓に着かれたイエス様が、パンを取って祝福し裂いて彼らに渡された時、やっと彼らの霊の目が開かれて、その方がどなたかということが解ったのであります。


イエス様は、その後で彼らの肉の目では見えなくなりましたけれども、霊の目が開かれた彼らは、道を歩きながら聖書を説明してくださった間、自分の心が燃えていったのは復活された主に出会ってからだったと、喜びに心を躍らせながら、さっそくエルサレムに戻って他の弟子たちにこの事を報告したとあります。


甦られたイエス様が、今自分の前に立っておられるのに、霊が開かれていないマリヤが、そしてまた二人の弟子たちが、それに気づかないで絶望し、嘆き悲しみおろおろしているその姿は、復活の主にまだ出会っていない霊の目が開かれていないキリスト者の姿そのものでもあると言ってもよいと思います。


私たち信者はみな、神様に背いていた罪を認めて悔い改め、十字架に架かって自分の罪を身代わりに負って死んでくださったイエス様を主と信じて、罪赦され救われた者であります。


けれども、こうしてイエス様を信じた者のすべてが、復活の主に出会ったかと言えば、悲しいことにそうとは言えないのであります。


では、復活のイエス様に出会ったかどうかは、どうして知ることができるのでありましょうか。それは、イエス様を救い主と信じていると言いながら、自分の肉の思いを第一として歩んでいるか、いないかによって解るのであります。


パウロは信者に対して、「この世と調子を合わせてはいけません」ローマ書12章2節にありますが、あるいはコリント第2の手紙6章14節で「不信者と、つり合わぬくびきをいっしょにつけてはいけません。」と戒めております。


もしイエス様を主と信じていると言いながら、この世と妥協しているならば、あるいは、もしイエス様を主と信じていると言いながら、この世の肉的なものに依存しているならば、あるいは、もしイエス様を主と信じていると言いながら、この世の肉的なものに執着、執心、愛しているなら、もしイエス様を主と信じていると言いながら、心に喜びや平安がないのなら、もしイエス様を主と信じていると言いながら、自分の身に何か起こるとすぐに動揺してしまうならば、あるいは、もしイエス様を主と信じていると言いながら、御前に静まって祈り御心を問う前に、自分の思いによって何かをしてしまうような者であるならば、それはまだ、復活のイエス様に出会っているとは言えないのであります。


そしてその原因は、主に出会う前のマグダラのマリヤや二人の弟子のように、まだ霊の目が開かれていないからであります。


かつての私自身も、全くそのような者でありました。若い時から聖書に触れ洗礼まで受けておりながらも、長い間この世にどっぷり浸かっておりました。それでもいっこうに心の痛みを感じることがなかったような、本当にイエス様を信じているとも言えないような者でありました。


そのような私が、復活のイエス様に出会ったということができたのは、私の一人娘の死という私にとって人生最大の出来事を通してでありました。その時、イエス様は私のような愚か者をも憐れんでくださり、この大きな痛みを通して私の頑なな自我を砕いて、霊の目を開いてご自身と出会わせてくださったのです。


そして、それによって娘が主の憐れみによって御許に迎え入れられたという確信を与えてくださったのみならず、イエス様を信じるとしながらも主にイエス様に信頼するよりもこの世のものに頼るというような、大きな過ちを犯していたようなそのような私をも赦してくださったという確信を与えてくださったのであります。


それによって、私の心は悲しみから主に対する感謝と信頼と、そして天の御国への希望へと変えられました。


ヨブは、ヨブ記の中で「私はあなたのうわさを耳で聞いていました。しかし、今、この目であなたを見ました。それで私は自分をさげすみ、ちりと灰の中で悔い改めます。」と言っておりますけれども、これはそのまま私自身に当てはまる悔い改めと感謝の祈りでありました。


またパウロは、第1テモテ1章15節から16節で「キリスト・イエスは、罪人を救うためにこの世に来られた。」ということばは、まことであり、そのまま受け入れるに値するものです。私はその罪人のかしらです。しかし、そのような私があわれみを受けたのは、イエス・キリストが、今後彼を信じて永遠のいのちを得ようとしている人々の見本にしようと、まず私に対してこの上ない寛容を示してくださったからです。」と証ししておりますけれども、それはそのまま私自身の証しとなりました。


甦りの主との出会いは、人によって様々であります。ある人は大病を通して、ある人は家族の問題を通して、ある人は仕事の失敗を通して、ある人は人間関係の破たんを通して、ある人は人生に絶望したことを通してなど、様々の事によって悩み苦しみ、自我が砕かれ、そして霊の目が開かれて復活の主に出会うのであります。


しかし、そのような試練に会わなくても、心静かに聖書を読んでいる時に、あるいは一人で祈っている時に、突然霊の目が開かれて主に出会うこともあります。このように、主との出会いは様々でありますけれども、それは一人ひとりに対して主ご自身が、その人に最もふさわしい方法によって御計画されたものなのであります。


しかしながら、どのような出会い方をするにしても、一度甦りの主に霊的な出会いをした経験をした者は、主との人格的な交わりが与えられて、心から主を愛するようになり、主がいつも自分と共におられ、自分を内から導いてくださることを覚えて喜ぶのであります。


そして、それまでの自分を中心としてイエス様を信じていたような自己中心、自己本位の信仰から一変して主を中心とした信仰、すなわちイエス様を生涯の主としてすべてをお委ねし、御心に従う信仰こそが、一番の喜び、一番の幸せであることを知って、そのように歩みたいと切に願うようになるのであります。


パウロは自らの体験を通して、ピリピの3章8節で「私の主であるキリスト・イエスを知っていることのすばらしさのゆえに、いっさいのこと(いっさいの人間的なこの世的なこと)を損と思っています。私はキリストのためにすべてのもの(この世的なもの)を捨てて、それらをちりあくたと思っています。」


このように、イエス様に出会ってイエス様を自分の主と知った喜びのすばらしさ、この世の何ものにも代えがたい、まさに天と地との違いであると証ししております。


パウロには、はるかに及びませんけれども私自身も、気が付いてみますとイエス様に出会ってから、この世的に価値あるものとされている様々なものがみな、色あせて見えるようになってまいりました。それらのものに大きく心を動かされることがなくなってまいりました。


これは本当に我ながら不思議な思いがいたします。けれども、霊の目が開かれて甦りの主に出会ったからといって、喜んでばかりはおられません。信者がこの世に置かれている間は、まだ肉の衣を着ていなければならないがゆえに、絶えず霊と肉とのせめぎ合い、争い合いが起こり、油断をしておりますとサタンにそそのかされた肉が、霊に打ち勝って、イエス様から離れてしまうことも起こり得るからであります。


このためイエス様は、ご自分と信者との霊的な堅い結びつきの大切さを、ご存知のようにぶどうの木と枝にたとえて警告してくださっておられます。「わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人の中にとどまっているなら、そういう人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないからです。だれでも、もしわたしにとどまっていなければ、枝のように投げ捨てられて、枯れます。」


マグダラのマリヤは「私は甦られた主に出会った」と喜んで証しをいたしました。これこそ真の福音伝道ではないでしょうか。世の終わりが間近い時にあたって、私たちも同じように喜んで「私は復活のイエス様に出会いました。主は生きておられます。」と証しすることができるようになれば幸いであります。


主は大いに喜ばれて、その信者を弟子として用いてご自分の御栄光を現されるのであります。前にも申しましたように、人は復活の主に出会わなくても、神様の前に自分の罪を認めて心から悔い改めて、神様に救いを祈り求めるならば、イエス様の十字架の贖いの御業のゆえに救われます。


「主の御名を呼ぶ者は、みな救われる」というみことばの通りであります。けれども、イエス様は私たちが主を信じて罪が赦されるだけでは充分だとはお考えになっておられません。イエス様は、御自分を信じた人々が、信者としていつまでも生まれたばかりの信仰に留まっているのを決して喜ばれません。


主の救いに与かった信者がみな、さらに御自分と霊的な人格的な交わりを通して、主の御心に叶う信仰の成長した信者になって、主の器として用いられるようになってほしいと切に望んでおられます。そのためイエス様は次のように、まだ御自分に出会っていない信者の心の扉を外からたたき続けておられるのであります。


黙示録

3:20 見よ。わたしは、戸の外に立ってたたく。だれでも、わたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしは、彼のところにはいって、彼とともに食事をし、彼もわたしとともに食事をする。


何という愛に満ちたみことばでありましょうか。まもなくイエス様は、信じる者を迎えに天から下って来られます。その時は、第1コリント13章12節に「今、私たちは鏡にぼんやり映るものを見ていますが、その時には顔と顔とを合わせて見ることになります。今、私は一部分しか知りませんが、その時には、私が完全に知られているのと同じように、私も完全に知ることになります。」


そのように、その時はイエス様と直接、顔と顔とを合わせてお会いすることができ、またその時は、主の御心を今まで私たちがはっきりとは解らなかった、その主の御心を完全に私たちも知ることができるようになるのであります。私たちはその日を待ち望みながら、甦られた主を力強く証しして行くことができますように、さらなる御霊の満たしとお導きを祈らなければならないのではないでしょうか。



おわり


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