重田定義兄
2015年12月29日、吉祥寺学び会
重田定義
創世記
6:11 地は、神の前に堕落し、地は、暴虐で満ちていた。
6:12 神が地をご覧になると、実に、それは、堕落していた。すべての肉なるものが、地上でその道を乱していたからである。
6:13 そこで、神はノアに仰せられた。「すべての肉なるものの終わりが、わたしの前に来ている。地は、彼らのゆえに、暴虐で満ちているからだ。それで今わたしは、彼らを地とともに滅ぼそうとしている。
おはようございます。今、読んでいただいたこの箇所は、神様がご自分の前に堕落した世界をご覧になって、この地上のいっさいのものを滅ぼそうと決心して、ノアに仰せになったみことばであります。昨今の世の中の有様は、まさにこのように地上に人の悪が増大している、ここに記されているノアの時代とそっくりではないでありましょうか。
創世記
6:5 主は、地上に人の悪が増大し、その心に計ることがみな、いつも悪いことだけに傾くのをご覧になった。
まったくそのまま当てはまるような昨今の世の中であると思わされます。世の中が、ノアの時代のように、いやそれ以上に悪と暴虐に満ちた世の中になってしまったのは、元を正せば私たち人間を愛してくださる生けるまことの神様から、人間の心が離れ去ったことの結果であります。
人々が世の中の悪に鈍感になったのは、神様から心が離れたためにせっかく神様から与えられた良心が衰え果てて、悪に鈍感になってしまったことの表れだと思います。けれども、イエス様を信じる私たちは、信仰によって与えられて御霊によって、開かれた霊の目で今の世がまさに、最初に読んでいただいたみことばのような状態にあることを見分けることができるのは、本当に幸いであります。
と申しますのは、神様がノアに「「すべての肉なるものの終わりが、わたしの前に来ている。地は、彼らのゆえに、暴虐で満ちているからだ。それで今わたしは、彼らを地とともに滅ぼそうとしている。」と仰せになったように、今の世こそ主が腐敗堕落した世界を裁くために、再び来られる時がいよいよ近いことの前兆であると知ることができるからであります。ヨハネは黙示録の中で次のように記しております。
黙示録
22:10 また、彼は私に言った。「この書の預言のことばを封じてはいけない。時が近づいているからである。
22:11 不正を行なう者はますます不正を行ない、汚れた者はますます汚れを行ないなさい。正しい者はいよいよ正しいことを行ない、聖徒はいよいよ聖なるものとされなさい。」
22:12 「見よ。わたしはすぐに来る。わたしはそれぞれのしわざに応じて報いるために、わたしの報いを携えて来る。
22:13 わたしはアルファであり、オメガである。最初であり、最後である。初めであり、終わりである。」
22:14 自分の着物を洗って、いのちの木の実を食べる権利を与えられ、門を通って都にはいれるようになる者は、幸いである。
このように彼は言っております。私たちは、これからもますます悪が増大する大変な世の中になっていくことを、このヨハネの黙示録のみことばによっても、知ることができることは本当に幸いです。
けれどもそれは同時に、イエス様が信じる私たちを天に携え上げるために空中まで迎えにきてくださるという、空中再臨の時がすぐ近くまで迫っている証拠であると知ることができるのは、本当に私たちに与えられた大きな恵みであり、また希望でもあります。そして、このような時こそ、改めてイエス様のご再臨を待ち望む信仰の歩みを、私たちが新たにする決意をしなければならないと強く思わされるのであります。
ペテロは、イエス様のご再臨を待ち望む信者の信仰生活について、初代教会のキリスト者にあてた手紙の中で次のように言っています。
第1ペテロ
4:7 万物の終わりが近づきました。ですから、祈りのために、心を整え身を慎みなさい。
4:8 何よりもまず、互いに熱心に愛し合いなさい。愛は多くの罪をおおうからです。
4:9 つぶやかないで、互いに親切にもてなし合いなさい。
4:10 それぞれが賜物を受けているのですから、神のさまざまな恵みの良い管理者として、その賜物を用いて、互いに仕え合いなさい。
4:11 語る人があれば、神のことばにふさわしく語り、奉仕する人があれば、神が豊かに備えてくださる力によって、それにふさわしく奉仕しなさい。それは、すべてのことにおいて、イエス・キリストを通して神があがめられるためです。栄光と支配が世々限りなくキリストにありますように。アーメン。
ペテロのこの手紙の箇所には、ご再臨を待ち望むための私たち信者の信仰生活の心得がいくつか含まれております。そこで、これからその一つづつをご一緒に考えていきたいと思います。
第1に、祈りの生活であります。パウロもテサロニケの信者に宛てた手紙の中で、「絶えず祈りなさい」と勧めております。絶えず祈るというのは、日々の生活の中で、絶えずイエス様の御心、御霊の導きを求めながら過ごすことではないでしょうか。そのような祈りの生活の中において、イエス様は私たちの霊に御心を示してくださるのであります。
ここで私たちが注意しなければならない事は、主が御心を示される時に、私たちは御心を聞き洩らすことがないようにしなければならないということであります。主は、大きな声で私たちにいつも聞こえるようには、ご自分の御心を示してくださいません。囁くような声で示してくださることも多々あります。その主の声を私たちは、聞き洩らさないよういつも霊の目を覚まし、霊の耳を覚ましている必要があると思います。
マタイ
26:41 誘惑に陥らないように、目をさまして、祈っていなさい。心は燃えていても、肉体は弱いのです。
イエス様は、私たちの肉体が弱いことをよくご存知で、このように私たちに勧めてくださっています。終わりの世には、サタンが光の天使を装って主にある私たちキリスト者を、神様からイエス様から引き離そうと大いに活躍いたします。
私たちには、サタンの巧妙な変装を自分の力で見破ることはなかなかできません。ですから、世の終わりが近い今、主にある私たち信者は、サタンの変装を見破るためにもいよいよ霊の目を覚まして祈ることが大切であります。
2番目に、ペテロは言っておりますように、心を整え身を慎む生活、これが必要だと思います。イエス様は、ご再臨に備える私たち信者の心構えを、次のようなたとえをもって教えてくださっています。
マタイ
25:1 そこで、天の御国は、たとえて言えば、それぞれがともしびを持って、花婿を出迎える十人の娘のようです。
25:2 そのうち五人は愚かで、五人は賢かった。
25:3 愚かな娘たちは、ともしびは持っていたが、油を用意しておかなかった。
25:4 賢い娘たちは、自分のともしびといっしょに、入れ物に油を入れて持っていた。
25:5 花婿が来るのが遅れたので、みな、うとうとして眠り始めた。
25:6 ところが、夜中になって、『そら、花婿だ。迎えに出よ。』と叫ぶ声がした。
25:7 娘たちは、みな起きて、自分のともしびを整えた。
25:8 ところが愚かな娘たちは、賢い娘たちに言った。『油を少し私たちに分けてください。私たちのともしびは消えそうです。』
25:9 しかし、賢い娘たちは答えて言った。『いいえ、あなたがたに分けてあげるにはとうてい足りません。それよりも店に行って、自分のをお買いなさい。』
25:10 そこで、買いに行くと、その間に花婿が来た。用意のできていた娘たちは、彼といっしょに婚礼の祝宴に行き、戸がしめられた。
申すまでもなく、ともしびとは信仰の歩みを照らす霊のともしびであり、油とは聖霊のことであります。イエス様は、信じた者を御霊、聖霊をお入れする器として御霊の油を注いでくださいますけれども、うっかりしておりますと、私たちはその器に自我という蓋をしてしまって、聖霊の油の注ぎを遮ってしまうおそれがあります。
ですから、御霊に満たされるために常に自己中心の思いに支配されがちな自分を、意識的に排除して自分の思いを取り除いていただくように御霊を満たしていただくための空の器とされるように祈る必要があると思います。これが、心を整え身を慎む生活をするために必要な心構えではないでしょうか。
3番目に、信者が互いに愛し合う生活であります。世の終わりの前兆の一つとして、イエス様は人々の愛が冷たくなると仰っております。全くそのとおりであります。
マタイ
24:12 不法がはびこるので、多くの人たちの愛は冷たくなります。
まさに悪がそして不法がはびこる今の世には、人々の愛が全く感じられないような恐ろしい事件が、毎日のように起こっております。しかし、イエス様は世の人々だけではなくて、イエス様を信じる者の愛も冷めていると次のように仰っています。
黙示録
2:4 しかし、あなたには非難すべきことがある。あなたは初めの愛から離れてしまった。
2:5 それで、あなたは、どこから落ちたかを思い出し、悔い改めて、初めの行ないをしなさい。もしそうでなく、悔い改めることをしないならば、わたしは、あなたのところに行って、あなたの燭台をその置かれた所から取りはずしてしまおう。
終わりの世である今こそ、ヨハネが初代教会の信者に宛てたヨハネ第1の手紙4章10節から12節の中で
ヨハネ第1の手紙
4:10 私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。
4:11 愛する者たち。神がこれほどまでに私たちを愛してくださったのなら、私たちもまた互いに愛し合うべきです。
このように言っておりますように、主にあるキリスト者は、初めの愛に立ち返ってイエス様を愛し、また肉の思いによって左右されることなく、共に一つの御霊をいただき共に天の御国を持つ者として、信者同士が互いに愛し合う、そのような生活をすることが大切であります。そして、このような愛こそが、まだ救われていない世の人々に対しての証しになることを、私たちは覚えなければなりません。
4番目に、つぶやきを言わない生活であります。つぶやきは、私たちの思いが肉によって支配された場合に出てくるものであります。
ピリピ
2:13 神は、みこころのままに、あなたがたのうちに働いて志を立てさせ、事を行なわせてくださるのです。
2:14 すべてのことを、つぶやかず、疑わずに行ないなさい。
2:15 それは、あなたがたが、非難されるところのない純真な者となり、また、曲がった邪悪な世代の中にあって傷のない神の子どもとなり、
2:16 いのちのことばをしっかり握って、彼らの間で世の光として輝くためです。
そのように、世の終わりが近いこの曲がった時代の中に置かれた、私たちキリスト者には神の子供として、イエス様の福音の光を輝かす使命が与えられております。神様は、私たち信者の日々の生活の中で私たちの内に住まわれる御霊を通して、成すべきことを示してくださいます。
ですから、自分がどんなに肉に支配されやすいかをしっかりとわきまえて、自分の肉にとっては意に添わない事であっても、意識して肉の思いを排除して、御霊に導かれて過ごす日々であるように、常に祈る必要があると思います。
【4】
5番目に、神様から受けた賜物を用いて奉仕する生活であります。イエス様を信じる者は、一人ひとりが神様から様々に異なる賜物をいただいておりますけれども、その賜物をそれぞれがどのように管理し、またその賜物をどのように主のために用いるかということを、私たちは考える必要があります。パウロはローマの信者に次のように勧めております。
ローマ
12:6 私たちは、与えられた恵みに従って、異なった賜物を持っているので、もしそれが預言であれば、その信仰に応じて預言しなさい。
12:7 奉仕であれば奉仕し、教える人であれば教えなさい。
12:8 勧めをする人であれば勧め、分け与える人は惜しまずに分け与え、指導する人は熱心に指導し、慈善を行なう人は喜んでそれをしなさい。
イエス様は、神様から受けた賜物は、一人ひとり人によって異なるけれども、大切なのは賜物の種類や大きさではなくて、自分に与えられた賜物を主のためにいかに生かして用いるかであるということを仰っています。タラントのたとえをちょって見てみたいとおもいます。
マタイ
25:14 天の御国は、しもべたちを呼んで、自分の財産を預け、旅に出て行く人のようです。
25:15 彼は、おのおのその能力に応じて、ひとりには五タラント、ひとりには二タラント、もうひとりには一タラントを渡し、それから旅に出かけた。
25:16 五タラント預かった者は、すぐに行って、それで商売をして、さらに五タラントもうけた。
25:17 同様に、二タラント預かった者も、さらに二タラントもうけた。
25:18 ところが、一タラント預かった者は、出て行くと、地を掘って、その主人の金を隠した。
25:19 さて、よほどたってから、しもべたちの主人が帰って来て、彼らと清算をした。
25:20 すると、五タラント預かった者が来て、もう五タラント差し出して言った。『ご主人さま。私に五タラント預けてくださいましたが、ご覧ください。私はさらに五タラントもうけました。』
25:21 その主人は彼に言った。『よくやった。良い忠実なしもべだ。あなたは、わずかな物に忠実だったから、私はあなたにたくさんの物を任せよう。主人の喜びをともに喜んでくれ。』
その後、お読みいたしませんけれど、2タラント儲けた人、1タラント隠した人に対して主は何と仰ったか。主人は5タラント儲けた僕にも2タラント儲けた僕にも、5タラント儲けた僕と同じ祝福をお与えになったのです。けれども、預かった1タラントを地に埋めて全く活用しなかった怠け者の僕は、主人から厳しく叱られた。
これがこのたとえであります。私たちも、主からそれぞれに与えられた賜物を、その大きさを人と比べるのではなくて、自分に与えられた賜物を主に仕えるために、本当に生かして用いているかどうか、そのことを主の光に照らしていただいて、主によって吟味していただきながら、日々の生活を歩む必要があると思います。
6番目に、恐れずに主を証しするという生活であります。復活されたイエス様は、弟子たちに次のように仰いました。
使徒行伝
1:8 聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまで、わたしの証人となります。」
このように仰って、天に昇られました。そしてイエス様が仰ったように、聖霊の力を受けたペテロ、ヨハネ、パウロをはじめ弟子たちは、イスラエルのみならず、世界各地に出かけて行ってイエス様こそ、人となられた神であり、十字架にかかられ3日目によみがえられた、私たちの罪の贖い主であることを自分の命をかけて証しいたしました。パウロはテサロニケの信者に宛てた手紙の中で次のように言っています。
第1テサロニケ
2:4 私たちは神に認められて福音をゆだねられた者ですから、それにふさわしく、人を喜ばせようとしてではなく、私たちの心をお調べになる神を喜ばせようとして語るのです。
このように言っております。終わりの世に置かれた私たちキリスト者は、滅び行く人たちにイエス様を証しするために、自分の力や自分の知恵に、知識によってではなくて、自分の中に住んでくださっている主の御霊に導かれて証しするようにと選ばれた者であります。
私たちは、自分のような者も主の重大なご用のために召し出してくださった、そのイエス様の御心を深く覚えて、常に御霊の満たしを祈り求めながら、御霊の導きを祈り求めながら、いつでもイエス様を証しすることができるように整えられる必要があります。最初に申しましたように、昨今の世相は、すべての肉なる者が地上でその道を乱しているという聖書のみことばがそのまま当てはまります。
そして、そのような乱れた世界の現象がますます加速していることを、日々私たちは覚えます。歴史はどんどん加速しているとある人は申しましたけれども、ただ単に加速しているのではなくて、世の終わりに向かって加速しているということに、世の人々もそろそろ気づき始めているのではないでしょうか。
そして私たちキリスト者は、歴史がこのように加速しているのは、主が信じる私たちを天に携え上げてくださる、その空中再臨の時が本当に近いという証拠であると知ることができますのは、本当に幸せであります。
このような大切な時に生かされている私たち信者は、希望を持って一人ひとりがはっきりと、霊の目を覚まし、ますますイエス様から御霊の油を満たしていただいて、御霊によって導かれ、絶えず祈り、心を整え、身を慎み、兄弟姉妹が互いに愛し合い、そして自分に与えられた主からの賜物を活用して、人々の救いのためにイエス様の福音を証ししながら、ご再臨の1日も早いことを待ち望む日々を送りたいと思うものであります。