重田定義兄

私たちはこの方によって神の義とされた

2015年12月1日、吉祥寺学び会

重田定義


第2コリント

5:21 神は、罪を知らない方を、私たちの代わりに罪とされました。それは、私たちが、この方にあって、神の義となるためです。


義と言いますと、一般には倫理的な意味での個人的な正しさ、あるいは社会的な正義を指します。けれども問題なのは、その正しさや正義が何を基準としているのか、いったい何に対して正しいのかということではないかと思うのですね。


私たち人間は、争う時いつもお互いに自分の正しさを主張して争います。それぞれが自分の正義を振りかざして争います。そのような事は、個人と個人の間にも、また、国と国との間にも見られるのを、私たちはよく知っております。ということは、人間の義はすべて自分を中心としたもの、自分の立場を正当化するための、自我による義に基づいているからであると言わざるを得ません。


これは人間の義が、永遠に揺るぐことのない絶対的な規準に立っていないからであります。これに対して、聖書で言うところの義とは、生けるまことの神様の絶対的な義、神の義を基準としており、この義こそが本当の義なのであります。


神様は、全き義なる方であり、その義を全うされる真実な方であります。聖書には、神様が義そのものの方であることを表わしているみことばが多く記されています。その内のいくつかを挙げてみたいと思います。


詩篇

89:14 義と公正は、あなたの王座の基。


申命記

32:4 主は岩。主のみわざは完全。まことに、主の道はみな正しい。主は真実の神で、偽りがなく、正しい方、直ぐな方である。


イザヤ

45:22 わたしが神である。ほかにはいない。

45:23 わたしは自分にかけて誓った。わたしの口から出ることばは正しく、取り消すことはできない。


では、私たち人間がこの全き義なる神様の前に、義と認められるにはいったいどうしたらよいのでありましょうか。もし、自分の行いによって神様に義と認められようとするならば、その生き方が義なる神様の前に、義と呼ばれるに値するほどに正しいとみなされる者、自分の行いが義なる神様の裁きに応え得るほどに完全に正しい者でなければなりません。


けれども、いったい私たち人間にそのような生き方ができるのでありましょうか。神様は、私たち人間に対して、自分が神様に認められるような義を行い得ない事を思い知らせるために、まず、ご自分の民として選ばれたイスラエルの民に、ご自分の義を示す律法、掟を与えてそれを守り行うように、イスラエルの指導者のモーセを通じて命じられました。モーセは神様の仰せに従って、神様がイスラエルの民に約束されたカナンの地に入るにあたって、次のようにイスラエルの民に告げました。


申命記

6:24 それで、主は、私たちがこのすべてのおきてを行ない、私たちの神、主を恐れるように命じられた。それは、今日のように、いつまでも私たちがしあわせであり、生き残るためである。

6:25 私たちの神、主が命じられたように、御前でこのすべての命令を守り行なうことは、私たちの義となるのである。」


神様はこのように、もしご自分の掟とさとしをすべて守り行うことができるなら、それがイスラエルの民の義となる、すなわちイスラエルの民は正しいと認めようと仰せになりました。


しかしながらイスラエルの民は、主の命令である律法に従うことができませんでした。かえって主に背いて偶像に仕え、自分を第一とし、おごり、妬み、むさぼり、不品行など、数々の罪を犯し、しばしば主から厳しい裁きを受けました。けれどもこれは、イスラエルの民ばかりではなく、すべての人間にも同様に言えることなのであります。これについてパウロは、次のようい言っております。


ローマ

3:9 では、どうなのでしょう。私たちは他の者にまさっているのでしょうか。決してそうではありません。私たちは前に、ユダヤ人もギリシヤ人も、すべての人が罪の下にあると責めたのです。

3:10 それは、次のように書いてあるとおりです。「義人はいない。ひとりもいない。

3:11 悟りのある人はいない。神を求める人はいない。

3:12 すべての人が迷い出て、みな、ともに無益な者となった。善を行なう人はいない。ひとりもいない。」


3:19 さて、私たちは、律法の言うことはみな、律法の下にある人々に対して言われていることを知っています。それは、すべての口がふさがれて、全世界が神のさばきに服するためです。

3:20 なぜなら、律法を行なうことによっては、だれひとり神の前に義と認められないからです。律法によっては、かえって罪の意識が生じるのです。


このようにパウロは言っております。神様は、すべての被造物の中で人間をご自分に似て造られるほどに、愛しておられます。


創世記

1:25 神は、その種類にしたがって野の獣、その種類にしたがって家畜、その種類にしたがって地のすべてのはうものを造られた。神は見て、それをよしとされた。

1:26 そして神は、「われわれに似るように、われわれのかたちに、人を造ろう。そして彼らに、海の魚、空の鳥、家畜、地のすべてのもの、地をはうすべてのものを支配させよう。」と仰せられた。

1:27 神はこのように、人をご自身のかたちに創造された。神のかたちに彼を創造し、男と女とに彼らを創造された。

1:28 神はまた、彼らを祝福し、このように神は彼らに仰せられた。「生めよ。ふえよ。地を満たせ。地を従えよ。海の魚、空の鳥、地をはうすべての生き物を支配せよ。」


けれどもそのように神様に愛されて造られた最初の人間のアダムが、神様の御心に背くという罪を犯してしまったために、その罪の性質を受け継いだすべての人間は、生まれながらにして神様の戒めに従うことができなくなってしまったのであります。そして義なる神様は、ご自分の義を示す律法に、自分の力では従い得ないことによって、かえって罪の意識を生じた私たちを憐れまれて、御子イエス様を信じる者を義と認めると約束され、それを実行なさいました。


ローマ

3:21 しかし、今は、律法とは別に、しかも律法と預言者によってあかしされて、神の義が示されました。

3:22 すなわち、イエス・キリストを信じる信仰による神の義であって、それはすべての信じる人に与えられ、何の差別もありません。

3:23 すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず、

3:24 ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められるのです。

3:25 神は、キリスト・イエスを、その血による、また信仰による、なだめの供え物として、公にお示しになりました。それは、ご自身の義を現わすためです。


神様は、律法の戒めを守り行えない人間をあわれんでくださって、ご自分の義を曲げることなく、その義を全うされるために、ひとり子のイエス様をこの世にお遣わしになって、十字架にかけて私たちの罪の贖いの供え物とするという、考えられないような大きな犠牲を払ってくださって、そのイエス様を救い主と信じる者を、イエス様のその贖いの御業のゆえに値なしに義と認めてくださったのであります。


すなわち私たち人間は、神の御子イエス様の義を信仰によって与えられ、そしてまた、神様の御前に罪人としてではなくて、イエス様の義を着ることによって、義なる人として主の御前に立つことができる、そのような恵みを与えられたのであります。ルカの福音書には、義と認められる人とは、いったいどんな人かそのことについて、イエス様が語られた有名なたとえ話が記されております。


ルカ

18:10 「ふたりの人が、祈るために宮に上った。ひとりはパリサイ人で、もうひとりは取税人であった。

18:11 パリサイ人は、立って、心の中でこんな祈りをした。『神よ。私はほかの人々のようにゆする者、不正な者、姦淫する者ではなく、ことにこの取税人のようではないことを、感謝します。

18:12 私は週に二度断食し、自分の受けるものはみな、その十分の一をささげております。』

18:13 ところが、取税人は遠く離れて立ち、目を天に向けようともせず、自分の胸をたたいて言った。『神さま。こんな罪人の私をあわれんでください。』

18:14 あなたがたに言うが、この人が、義と認められて家に帰りました。パリサイ人ではありません。なぜなら、だれでも自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるからです。」


この取税人が義とされたのは、彼が自分は神様の御前に不義である者にすぎないと認めて、心から嘆いて御前にあわれみを乞うて出たことによって、罪の赦しを受けた結果、神様の前に値なしに義なる者とみなされたからであって、ローマ書3章24節に「ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められるのです。」このようになったのであります。


またパウロは、ローマ書5章19節「すなわち、ちょうどひとりの人の不従順によって多くの人が罪人とされたのと同様に、ひとりの従順によって多くの人が義人とされるのです。」と言っておりますけれども、その通り御子イエス様が父なる神様の御心に従順に従われて、十字架による罪の贖いの御業を成し遂げてくださったがゆえにこそ、私たちは値なしに神様の前に義と認められることができるのであります。


そういうわけで、パウロは、ピリピ3章8節「私の主であるキリスト・イエスを知っていることのすばらしさのゆえに、いっさいのことを損と思っています。私はキリストのためにすべてのものを捨てて、それらをちりあくたと思っています。


それは、私には、キリストを得、また、キリストの中にある者と認められ、律法による自分の義ではなくて、キリストを信じる信仰による義、すなわち、信仰に基づいて、神から与えられる義を持つことができる、という望みがあるからです。」とイエス様を信じる信仰によって、値なしに神様に義とされるという恵みのすばらしさというのは、この世のどんな価値のあるものにも代えられないほどに、価値があると心から証しをしております。


では、値なしにそのような恵みをいただいた、私たち信者は、いったいこれからどのように生きたらよいのでありましょうか。神様から値なしに義と認められた者の生き方とは、いったいどのようにあるべきでしょうか。私たちはただ義とされた事を喜んでいれば、それで良いのでありましょうか。ペテロは、イエス様を義と信じた者に宛てた手紙に次のように書いております。


第一ペテロ

2:24 そして自分から十字架の上で、私たちの罪をその身に負われました。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるためです。


すなわち、信仰によって値なしに神様に義と認められた者は、それからの人生を、ペテロが言っておりますように、義のために生きる、言い換えますと義なるイエス様を主として、信頼しイエス様に心から従順に従って生き通すこと、これが義のために生きるということであります。


ローマ

6:16 あなたがたはこのことを知らないのですか。あなたがたが自分の身をささげて奴隷として服従すれば、その服従する相手の奴隷であって、あるいは罪の奴隷となって死に至り、あるいは従順の奴隷となって義に至るのです。

6:17 神に感謝すべきことには、あなたがたは、もとは罪の奴隷でしたが、伝えられた教えの規準に心から服従し、

6:18 罪から解放されて、義の奴隷となったのです。

6:19 あなたがたにある肉の弱さのために、私は人間的な言い方をしています。あなたがたは、以前は自分の手足を汚れと不法の奴隷としてささげて、不法に進みましたが、今は、その手足を義の奴隷としてささげて、聖潔に進みなさい。


このように、神に義と認められた者は、かつてのように罪の奴隷として肉にあって生きるのではなく、義の奴隷、すなわちイエス様の奴隷として、主にあって生きること、これこそが主が私たちに求めておられる生き方なのであります。しかしながら、そのように生きることは、とうてい自分の肉の力では出来ない。


自分の力では出来ないということは私たちは身に染みて知っております。ではいったいどうしたら良いのでしょうか。それは、私たち信じる者の中に宿ってくださる主の御霊に、全面的により頼み、御霊に従って生きることであります。パウロは次のように言っております。


ガラテヤ

5:16 私は言います。御霊によって歩みなさい。そうすれば、決して肉の欲望を満足させるようなことはありません。

5:17 なぜなら、肉の願うことは御霊に逆らい、御霊は肉に逆らうからです。この二つは互いに対立していて、そのためあなたがたは、自分のしたいと思うことをすることができないのです。


けれども私たち信者は、霊においては私たちの生まれ変わった、聖められた霊においては、御霊に従いたいと願っておりますが、生来の肉の性質である自我が、私たちの中に住んでくださっている御霊に逆らってしまうことが、何と多いことでありましょうか。私自身をかえりみても、肉によって考え、肉によって行動してしまう事の多いことを告白せざるを得ません。


主は、そのような私たちをあわれまれて、様々な懲らしめ、その多くは痛み、苦しみ、悩みを伴っておりますけれども、そのような懲らしめを与えることによって、私たちの頑な自我を砕いてくださり、主の御霊に従うことができるように、また主の聖さに与かることができるように、そして主の御心に従う私たち信者の生き方を通して、主ご自身がご栄光を現してくださるようにと、日々導いてくださっています。主によって自我が砕かれたパウロは、次のように証しすることができました。


ローマ

14:7 私たちの中でだれひとりとして、自分のために生きている者はなく、また自分のために死ぬ者もありません。

14:8 もし生きるなら、主のために生き、もし死ぬなら、主のために死ぬのです。ですから、生きるにしても、死ぬにしても、私たちは主のものです。


ガラテヤ

2:20 私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。いま私が、この世に生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。


主は、自我が砕かれたこのパウロをご自身のご栄光を現す器として、大いに用いられたのであります。主の御再臨の間近い今の時にあたって、私たち信者も義の奴隷として、主から訓練を受け、自我が砕かれて自分の内に住んでくださっている御霊に明け渡し、パウロのように生きるにしても死ぬにしても、私たちは主のものです。


もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのですというふうに、心から確信をもって証しできるようになりたいと切に思います。もう一度、最初のみことばをお読みして終わりたいと思います。


第2コリント

5:21 神は、罪を知らない方を、私たちの代わりに罪とされました。それは、私たちが、この方にあって、神の義となるためです。


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