重田定義兄
2015年7月14日、吉祥寺学び会
重田定義
詩篇
90:10 私たちの齢は七十年。健やかであっても八十年。しかも、その誇りとするところは労苦とわざわいです。それは早く過ぎ去り、私たちも飛び去るのです。
90:11 だれが御怒りの力を知っているでしょう。だれがあなたの激しい怒りを知っているでしょう。その恐れにふさわしく。
90:12 それゆえ、私たちに自分の日を正しく数えることを教えてください。そうして私たちに知恵の心を得させてください。
おはようございます。短く学びをさせていただきます。今日は、今読んでいただいたこの聖書のみことばから、自分の日を正しく数えるということとは、どういうことか、この事について考えたいと思います。
自分の日とは、自分の人生に残された時間、この世に残された自分の命のことであります。けれども私たちは、はたして自分の人生に残された命の時間を、正しく数えることが、正しく予測することがいったい出来るのでありましょうか。これについてイエス様は、次のようなたとえを話しておられます。
ルカの福音書
12:16 それから人々にたとえを話された。「ある金持ちの畑が豊作であった。
12:17 そこで彼は、心の中でこう言いながら考えた。『どうしよう。作物をたくわえておく場所がない。』
12:18 そして言った。『こうしよう。あの倉を取りこわして、もっと大きいのを建て、穀物や財産はみなそこにしまっておこう。
12:19 そして、自分のたましいにこう言おう。「たましいよ。これから先何年分もいっぱい物がためられた。さあ、安心して、食べて、飲んで、楽しめ。」』
12:20 しかし神は彼に言われた。『愚か者。おまえのたましいは、今夜おまえから取り去られる。そうしたら、おまえが用意した物は、いったいだれのものになるのか。』
この金持ちは、自分に残された命の日数を正しく数えることができたでしょうか。可哀想にできませんでした。しかし、この金持ちのように、目に見えるこの世のものに頼って、自分に残された命の日数を予測して生きている人の何と多いことでありましょうか。
けれども、この金持ちに限らず、私たち人間は誰でも、自分に残された命の日数を正しく予測することはできません。たとえば、医者が癌にかかった人を診察して「あなたの命は、あと半年です」と宣告しても、その通りにならなかった例が少なからずあることを、私たちは知っております。
イエス様は、ルカ伝12章25節で「あなたがたのうちのだれが、心配したからといって、自分のいのちを少しでも延ばすことができますか。」と仰っているとおりであります。ただ神様だけが、その人の命をお決めになることができるのであります。詩篇90篇3節に「あなたは人をちりに帰らせて言われます。「人の子らよ、帰れ。」」
あなたというのは神様をさしています。「帰れ」というのは、土に帰れということでありますけれども。神様が、私たち人間に「人の子よ、帰れ」と仰った時が、私たちがこの世を去る時であります。
私たちが、もっとこの世に長く生きたいと望んでも、あるいは反対に早くこの世を去りたいと願っても、神様の定められた時が来なければ、この世を去ることはできません。世界一の知恵者と呼ばれたソロモンは、伝道者の書の3章1節、2節で「天の下では、何事にも定まった時期があり、すべての営みには時がある。生まれるのに時があり、死ぬのに時がある。」と言っておりますけれども、その時とは神様に定められた時という意味であります。
医学の大きな目標は、人間の命をいかに長くするかということであります。そのために、老化はどうして起こるのかというような研究が、どんどん進んでおります。けれども、最近の研究で解ったことは、老化は人間の力や知恵では阻止することは出来ないということでありました。
創世記
6:3 そこで、主は、「わたしの霊は、永久には人のうちにとどまらないであろう。それは人が肉にすぎないからだ。それで人の齢は、百二十年にしよう。」と仰せられた。
神様は、人間のこの世の命を、どんなに長生きしても120年までとされたのであります。肉にすぎない人間とは、いったいどんな人間でありましょうか。それは、神様の仰せに背いた結果、神様からいただいた霊が正しく働かなくなり、肉の思い、言いかえれば自分の欲望を満たすことだけを考えて生きることになった、最初の人間のアダム、そしてそのアダムの性質を受け継いだ私たちすべての人間のことであります。
神様によって、肉にすぎない人間のこの世の命が120年と定められているので、どんなに医学が進歩しても人間はこれ以上生きられません。さらに神様は、一人ひとりの命をも定めておられます。
ですから、100歳まで生きる人もいれば、生まれてすぐに亡くなる赤ちゃんもいるのであります。私たち人間は、自分の意思や知恵で生きていると思ったり、あるいは、医学の進歩が命を伸ばしてくれると思いがちですけれども、実は神様によって一人ひとりが生かされているのであり、神様が定められた時が来た時に私たちは死ぬのであります。
このように、神様によって造られ、神様によって生かされている私たち人間のこの世の命を、いったいどのように使ったら正しい良い生き方ができるのか、それを知ることが最初に読んでいただいた箇所の「自分の命の日を正しく数える」ということなのであります。
自分の命なら自分のものだから、自由に使ってもよいのではないかと、そういうふうに考える人も多いのでありましょう。けれども神様によって生かされているこの世の命を、自分の楽しみを追い求めることだけに使うことが、はたして自分の命の日を正しく数えることになるのか、よく考えてみる必要があるのではないでしょうか。
ソロモン王は次のように言っております。
伝道者の書
11:8 人は長年生きて、ずっと楽しむがよい。だが、やみの日も数多くあることを忘れてはならない。すべて起こることはみな、むなしい。
11:9 若い男よ。若いうちに楽しめ。若い日にあなたの心を喜ばせよ。あなたの心のおもむくまま、あなたの目の望むままに歩め。しかし、これらすべての事において、あなたは神のさばきを受けることを知っておけ。
ここに神様から私たち人間に与えられた、この世の命を自分の楽しみに使う者に対する神様の警告が示されております。では、自分に残された時間を正しく数える生き方とは、いったいどんな生き方なのでありましょうか。結論を先に申しましょう。
それは、私たちの我儘、身勝手のために身代わりに十字架の上で死んでくださったほどに、私たちを愛してくださった神の御子イエス様に心から感謝し、イエス様に自分の命を委ねて生きること、これこそが人間の正しい生き方なのであります。しかしそれにはまず、神様がどのように人間をお造りになったかを知る必要があります。
創世記
1:26 そして神は、「われわれに似るように、われわれのかたちに、人を造ろう。
2:7 その後、神である主は、土地のちりで人を形造り、その鼻にいのちの息を吹き込まれた。そこで、人は、生きものとなった。
そのように記しております。ここで神様が「われわれ」と仰っているのは、申すまでもなく父なる神と御子イエス様であります。そして、そのようにご自分たちと親しい交わりができるように、人間だけにいのちの息、すなわち霊を入れて私たちを、神様、イエス様は造ってくださいました。これによって、神様、イエス様がいかに私たち人間を愛してくださっているかを知ることができます。
この神様、イエス様に私たち人間が心から信頼し、心からお従いすることこそ、人間の本当の幸せであり、人間の生きる本当の意味があるのであります。神様が、最初に造られた人間アダムとエバは、初めはエデンの園で、神様に愛された幸せの日々を過ごしておりました。
ところが、この木の実を食べれば神のように賢くなれるという、悪魔の蛇の誘いにのって、神のように自分たちが賢くなりたいという、その欲望に負けて神様から「この木の実だけは、食べてはならない。食べると必ず死ぬ」と言われた戒めを破るという大きな罪を犯してしまいました。
神様はなぜ人間に、その木の実を食べることを禁じられたのでありましょうか。それは、人間が神のように賢くなれば、自分を神としておごり高ぶり、創造主であり全知全能の真の神様を無視して、我儘勝手に生き、その結果、神様がお造りになった調和のとれた美しい世界を破壊し、ついには人間自身も破滅するのを、神様は知っておられたからであります。そしてまさに、現在の世界は、その通りになりつつあります。神様は、ご自分の戒めに背いたアダムに仰いました。
創世記
3:17 また、アダムに仰せられた。「あなたが、妻(サタンの誘惑にのった妻)の声に聞き従い、食べてはならないとわたしが命じておいた木から食べたので、土地は、あなたのゆえにのろわれてしまった。あなたは、一生、苦しんで食を得なければならない。
3:18 土地は、あなたのために、いばらとあざみを生えさせ、あなたは、野の草を食べなければならない。
3:19 あなたは、顔に汗を流して糧を得、ついに、あなたは土に帰る。あなたはそこから取られたのだから。あなたはちりだから、ちりに帰らなければならない。」
しかし、これはアダムとエバだけの問題ではありませんでした。
ローマ書
5:12 そういうわけで、ちょうどひとりの人によって罪が世界にはいり、罪によって死がはいり、こうして死が全人類に広がったのと同様に、――それというのも全人類が罪を犯したからです。
このように神様から心が離れ、自分の欲望を満たすために生きるようになった人間は、その報いとして人生に生じる様々な労苦のみならず、最も恐ろしい死をも味わわなければならなくなったのであります。
人間の不幸の源は、この生まれながらの神様に対する背きの罪にありました。ご存知のようにこの罪を原罪と申します。しかし、そのような私たち人間を神様は、なおも愛しあわれまれ、私たち人間がいかに努力しても消すことができない、この恐ろしい罪を御子イエス様に身代わりに負わせて、十字架にかけるために人としてこの世にお遣わしになったのであります。
そして、イエス様が自分の罪を贖うために、十字架にかかってくださったことを信じる者に、死に打ち勝つ永遠のいのちを与えてくださるために、イエス様を父なる神様は死からよみがえらせてくださいました。何という大きな主の御愛でありましょう。
このことがヨハネ伝3章16節に記されております。「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世(この世に住む人々)を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」
かつてイエス様を、私たち人間を救うためにこの世に来てくださった神の御子として信じられないで、イエス様を信じる者を敵として迫害していたパウロがおりました。このパウロは、復活されたイエス様に出会って、神様に背いていた自分の罪を示されて、一心に悔い改めてイエス様に従う者に生まれ変わりました。そのパウロは次のように証しをしております。
ローマ書
6:6 私たちの古い人(救われる前の罪に振り回されていた自分)がキリストとともに十字架につけられたのは、罪のからだが滅びて、私たちがもはやこれからは罪の奴隷でなくなるためであることを、私たちは知っています。
6:8 もし私たちがキリストとともに死んだのであれば、キリストとともに生きることにもなる、と信じます。
キリストとともに生きるとは、自分のために十字架にかかって死んでくださり、自分に永遠のいのちを与えるためによみがえってくださったイエス様に、これからの人生を委ねて生きるということであります。
イエス様に、自分自身を委ねていれば、ダビデが詩篇の23篇で言っておりますように、すなわち「主は私の羊飼い。私は、乏しいことがありません。主は私を緑の牧場に伏させ、いこいの水のほとりに伴われます。たとい、死の陰の谷を歩くことがあっても、私はわざわいを恐れません。あなたが私とともにおられますから。」とこのように証ししておりますように、どんな事があっても、たとえ死の危険にさらされるような事があっても、イエス様が守ってくださり、導いてくださるという確信を持って、恐れることなく平安な心で希望を持って日々を過ごすことができるのであります。
このようにイエス様にお委ねして日々を生きることこそが、私たちが自分に残された命の日を正しく数える生き方なのであります。生まれながらの人間は、どんなに知恵をしぼっても自分に残されたこの世の命の日数を正しく憶測することはできません。
もし私たちが、神様によって生かされている自分の命を、自分の肉の望むままに使い続けるならば、最後にはその人の上に神の裁きが下ります。そうならないように、神様の前にへりくだって、どうか自分に残された命の日を正しく数えることのできる知恵の心をお与えくださいと、お祈りすれば神様は必ずその祈りに答えて、その知恵を与えてくださり、イエス様を信じ、イエス様に委ねて、イエス様とともに日々歩むことこそが、自分に残された命の日を正しく数えることであると、教えてくださるだけではなく、イエス様は、そのように歩むことのできる力をも私たちに与えてくださいます。
実はこれは、私が今住んでおります老人マンションで、毎月1回、聖書のお話を聞きたいという方が集われ、今10人ぐらい、その方々にお話しをする予定の原稿でございます。ちょっと難しいかなと思いますけれども、是非、御霊によって聞いてくださる高齢者の方々が、心が開かれるようにお祈りいただければ感謝であります。
おわり