重田定義兄
2015年5月12日、吉祥寺学び会
重田定義
エペソ
2:1 あなたがたは自分の罪過と罪との中に死んでいた者であって、
2:2 そのころは、それらの罪の中にあってこの世の流れに従い、空中の権威を持つ支配者として今も不従順の子らの中に働いている霊に従って、歩んでいました。
2:3 私たちもみな、かつては不従順の子らの中にあって、自分の肉の欲の中に生き、肉と心の望むままを行ない、ほかの人たちと同じように、生まれながら御怒りを受けるべき子らでした。
2:4 しかし、あわれみ豊かな神は、私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに、
2:5 罪過の中に死んでいたこの私たちをキリストとともに生かし、――あなたがたが救われたのは、ただ恵みによるのです。――
2:6 キリスト・イエスにおいて、ともによみがえらせ、ともに天の所にすわらせてくださいました。
おはようございます。私たちは、普通は「死」と言いますと体の死のことを考えるのが一般的ではないかと思います。ですから、イエス様を信じていない人が、このみことばを読みますと、罪の中に死んでいるという、いったいその死とはどんなものだろう。何の死だろう、体が生きているのに死んでると言っているのは、いったいどういうことなのだろうかと困惑するのも当然のことだと思います。
けれども、ここで言っております死とは、私たち人間の体の死ではない、霊の死、霊的な死のことであります。霊とはいったい何でしょうか。多くの方はご存知だと思いますけれども、私たち人間はすべての被造物の中で、特別に神様に愛されて、神様との親しい交わりを持ち、御心に従って生きるように造られた特別な被造物であります。
ですからそのために、他の被造物にはないものを私たちに与えてくださったのですね。それが私たちの体を造ってくださった後で、神様がご自分の息を私たちの体の中に吹き込まれた、それが霊であります。
このように神様から特別に愛されている者であるのに、神様によって最初に造られたところの最初の人間、アダムそしてその妻のエバは、エデンの園で神様の御心に背いてしまいました。悪魔にそそのかされて、神のように賢くなりたいという欲望に負けてしまいました。そして、食べてはいけないと命じられていた善悪を知る木の実を取って食べてしまうという罪を犯してしまったのであります。
その時以来、アダムとエバの子孫であるすべての人間に、彼らの性質が受け継がれました。人間は生まれながらにして、神様に背を向けて肉の欲、自我の欲を満たすことだけを求めて生きるようになってしまったのであります。聖書で言うところの罪というのは、アダムのように神様の御心に従わないで、肉の欲、自我の欲を満たすことだけを第一として、自分中心に生きることであります。
人間がこの罪を犯した報いとして、神様との交わりに欠かすことのできない大切な役割を果たす霊は死んでしまいました。霊が死ぬということは、霊本来の働きが全く機能しなくなる、全くできなくなることを意味しております。霊が死んだ者は一人残らず、肉の欲の中に生き、自我の望むままに生きております。肉の行いとはいったいどんなものか、それはパウロがガラテヤ書5章19節から21節に記してあります。
ガラテヤ
5:19 肉の行ないは明白であって、次のようなものです。不品行、汚れ、好色、
5:20 偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、憤り、党派心、分裂、分派、
5:21 ねたみ、酩酊、遊興、そういった類のものです。前にもあらかじめ言ったように、私は今もあなたがたにあらかじめ言っておきます。こんなことをしている者たちが神の国を相続することはありません。
今の世の中の有様を見ますと、あらゆる職業、あらゆる立場の人々が皆、このように肉の欲の中に生き自我の望むままを行って生きているということが解るのであります。こうした人々は皆、霊が死んでいて肉だけで生きているのであります。そしてこのような人間に対して主は、ヨハネの黙示録3章1節で「わたしは、あなたの行ないを知っている。あなたは、生きているとされているが、実は死んでいる。」と仰っているのであります。ところが、実はこのみことばは、私たち信者に対して言われているみことばなのであります。
信者でも霊が死んでいる者がいるということであります。自堕落な生活をしている信者、肉の欲に心を奪われている信者、御霊により頼まないで人間に頼っている信者、神を恐れず人間を恐れている信者、神の栄光を求めないで自分の栄誉を求めている信者、これらの者はここに言われている、生きているとされているが、実は死んでいる信者なのであります。霊的に死んでいる者は、そのままの状態では神の国に入ることはできないと、先ほどのみことばにありました。神様の怒りを受けて裁かれ、滅びの刑罰を受けなければならないのであります。
第2テサロニケ
1:9 そのような人々は、主の御顔の前とその御力の栄光から退けられて、永遠の滅びの刑罰を受けるのです。
とありますように、神様に見捨てられ、神様から永遠に引き離されて苦しむという永遠の滅びの刑罰を受けなければならないのであります。私たち人間は、体の死は恐れます。そして知恵を絞ってあらゆる方法で、一日でも長く生きようといたします。けれども、体の死よりも恐ろしいのは、霊の死の結果、神様から永遠に見捨てられるということなのであります。
では、どうしたらこの恐ろしい刑罰を免れることができるのでしょうか。どうしたら恐ろしい滅びの刑罰を受けないで、神の国に入ることができるのでありましょうか。イエス様は、ユダヤ人の議会の議員であり、そして優れた教師でもあるニコデモという老人と対話をなさいました。その中でその答えを出しておられます。
ヨハネ
3:3 イエスは答えて言われた。「まことに、まことに、あなたに告げます。人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません。」
3:4 ニコデモは言った。「人は、老年になっていて、どのようにして生まれることができるのですか。もう一度、母の胎にはいって生まれることができましょうか。」
3:5 イエスは答えられた。「まことに、まことに、あなたに告げます。人は、水と御霊によって生まれなければ、神の国にはいることができません。
3:6 肉によって生まれた者は肉です。御霊によって生まれた者は霊です。
ご存知のように御霊は、神の霊であります。聖霊とも申します。イエス様は、肉によって生まれた者、すなわち罪の性質を持って生まれた者は、どんなに努力してもその性質を自分では変えることができない。したがって、そのままでは神の国に入ることはできない、罪のために死んだ霊が御霊によって新しく生まれなければ、人は神の国に入ることができないと仰っているのであります。
恐ろしい滅びの刑罰を免れ、神の国に入るためには、どうしてもこの御霊による霊的な新生が必要なのであります。主なる神様は、霊が死んだ人間をお見捨てになることなく、あわれまれ、滅びに至る背きの罪から救い出そうと呼びかけてくださるのですけれども、悲しいことに霊が死んでいる人間には、神様のその呼びかけの御声が聞こえない。
そのために、神様の呼びかけに答えることができません。そこで神様は、御霊によって私たちの死んだ霊を、新しく生まれ変わらせ、ご自分の御心を知って悔い改め、ご自分に立ち返らせようという救いのご計画をお立てになりました。ご存知のようにそのご計画とは、御子イエス様を人としてこの世にお遣わしになり、御子の命を犠牲にして私たちに、罪の赦しと御霊を与えるという、そういうご計画だったのですね。
イエス様は、父なる神様のこのご計画に従って、十字架の上で私たちの罪を身代わりによって死んでくださり、そして甦って天に上られた後に、今度は御霊を私たちに与えてくださいました。復活されたイエス様が、天に上られたのは、霊が死んでいる世界中の人々に、時間と空間を越えていつでもどこでも、御霊を助け主としてお与えになるためでありました。
ヨハネ
16:7 しかし、わたしは真実を言います。わたしが去って行くことは、あなたがたにとって益なのです。それは、もしわたしが去って行かなければ、助け主があなたがたのところに来ないからです。しかし、もし行けば、わたしは助け主をあなたがたのところに遣わします。
事実イエス様は、そのようにしてくださいました。この御霊の働きについて、パウロは次のように書いております。
第1コリント
2:9 まさしく、聖書に書いてあるとおりです。「目が見たことのないもの、耳が聞いたことのないもの、そして、人の心に思い浮かんだことのないもの。神を愛する者のために、神の備えてくださったものは、みなそうである。」
2:10 神はこれを、御霊によって私たちに啓示されたのです。御霊はすべてのことを探り、神の深みにまで及ばれるからです。
2:11 いったい、人の心のことは、その人のうちにある霊のほかに、だれが知っているでしょう。同じように、神のみこころのことは、神の御霊のほかにはだれも知りません。
2:12 ところで、私たちは、この世の霊を受けたのではなく、神の御霊を受けました。それは、恵みによって神から私たちに賜わったものを、私たちが知るためです。
テトス
3:4 しかし、私たちの救い主なる神のいつくしみと人への愛とが現われたとき、
3:5 神は、私たちが行なった義のわざによってではなく、ご自分のあわれみのゆえに、聖霊による、新生と更新との洗いをもって私たちを救ってくださいました。
3:6 神は、この聖霊を、私たちの救い主なるイエス・キリストによって、私たちに豊かに注いでくださったのです。
このようにあります。御霊が注がれて、死んだ霊が生き返った者は、生き返ったその霊によって、初めてまことの神様とはどのような方か、その神様に背いた自分の罪がどんなに恐ろしいものかを知ることができます。
そして、霊的に死んでいた自分を、そのような者も愛して救ってくださり、生き返らせてくださるために、父なる神様の御心に従って、この世に遣わされ身代わりに罪を負って十字架の上で死んでくださった御子イエス様に、心から感謝することができ、そしてそのイエス様に悔い改めて、イエス様を救い主として信じ、イエス様に身も心も捧げて御霊のお導きによって生きることこそが、主のご愛に応える唯一の道であると示されます。
コロサイ
3:9 互いに偽りを言ってはいけません。あなたがたは、古い人をその行ないといっしょに脱ぎ捨てて、
3:10 新しい人を着たのです。新しい人は、造り主のかたちに似せられてますます新しくされ、真の知識に至るのです。
霊的新生によって、人は物の見方、考え方、あるいは物の価値、価値観が一変いたします。それまで、肉の目で見えるものだけに頼り、肉の目で見えるものだけを求めていたのが、肉の目で見ることはできないけれども、霊の目で見ることができるものに頼り、また求めるようになります。
肉の目で見えるものがいかに空しいか、それに反して生き返った霊の目で見えるものは、いかにすばらしいかを知ることができるようになるからであります。たくさんあると思いますけれども、その中ですばらしいものを挙げてみたいと思います。
第1ヨハネ
3:2 愛する者たち。私たちは、今すでに神の子どもです。後の状態はまだ明らかにされていません。しかし、キリストが現われたなら、私たちはキリストに似た者となることがわかっています。なぜならそのとき、私たちはキリストのありのままの姿を見るからです。
これは、御霊によって霊が生き返り、神の子供とされたことを知った信者が、主のご再臨を喜ぶ喜びを表わした言葉であります。ご再臨を喜ぶ信者の喜びは二つあると思うのですね。
一つは、ここにありますように、今まで鏡に映るものを見るようにしか知ることのできなかったイエス様に、今度は直接、顔と顔とを合わせてお会いすることができるという喜びでありましょう。
二つ目は、ご再臨の時には、私たちの罪を犯しやすいこの汚れた肉の体を、イエス様の聖い朽ちないからだと同じからだに変えてくださるという喜びであります。このすばらしい喜びの時を、ご再臨の時を霊が新生した信者は、希望を持って待ち望むことができ、しかもヨハネ黙示録22章12節に主が「見よ。わたしはすぐに来る。わたしはそれぞれのしわざに応じて報いるために、わたしの報いを携えて来る。」と約束されたその日が、まもなく来るということも、これもまた、御霊によって確信することができるというのは、何という喜びではないでしょうか。
また、生き返った霊によって、私たちは自分が救われたのは、神様が自分に、御子イエス様による救いの福音を宣べ伝える務めを委ねよと、お考えになっておられるということも知ることができます。
第2コリント
5:17 だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。
5:18 これらのことはすべて、神から出ているのです。神は、キリストによって、私たちをご自分と和解させ、また和解の務めを私たちに与えてくださいました。
5:19 すなわち、神は、キリストにあって、この世をご自分と和解させ、違反行為の責めを人々に負わせないで、和解のことばを私たちにゆだねられたのです。
けれども、霊的に新生した者が神様から任されたこの大切な務めを行うには、これは自分の力によっては不可能ですね。自分の中に住んでくださっている御霊の満たしと働きにお委ねしなければ出来ないということも、これもまた霊的に目覚めた者が知ることができます。
肉には何一つ良きものはなく、何の益ももたらされないということを、新生した私たちの霊がよく知っているからであります。優れた聖書学者であり、知識も知恵も豊かなパウロは次のように言いました。
第1コリント
2:4 そして、私のことばと私の宣教とは、説得力のある知恵のことばによって行なわれたものではなく、御霊と御力の現われでした。
2:5 それは、あなたがたの持つ信仰が、人間の知恵にささえられず、神の力にささえられるためでした。
ご再臨の日が真近いことを強く覚える今こそ、霊的に新生した私たちは、霊が死んでいるために神の裁きの時が迫っていることも知らないで、肉の思いを満たすことだけを求めて生きているこの世の人々に、主から委ねられている使命であるところの主の恵みの福音を、臆することなく宣べ伝えなければならないのではないでしょうか。
そのためにパウロが、ガラテヤ書2章20節「私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。いま私が、この世に生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。」と言っておりますように、肉に従って生きていた古い自分は、イエス様とともに十字架にかけられて死んだ。
そしてイエス様の御霊が、新しく生まれた自分の中に生きておられ、支配してくださっているということを確信して、自分をすべてイエス様に明け渡して、御霊の満たしと導きによって、人々に福音を宣べ伝えることができるように、これからも切に祈り続けなければならないと思う次第であります。
最後にローマ書6章4節をお読みして終わりたいと思います。
ローマ
6:4 私たちは、キリストの死にあずかるバプテスマによって、キリストとともに葬られたのです。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中からよみがえられたように、私たちも、いのちにあって新しい歩みをするためです。
おわり