重田定義兄

ノアの箱舟によって示された警告

2015年3月24日、吉祥寺学び会

重田定義


創世記

7:13 ちょうどその同じ日に、ノアは、ノアの息子たちセム、ハム、ヤペテ、またノアの妻と息子たちの三人の妻といっしょに箱舟にはいった。

7:14 彼らといっしょにあらゆる種類の獣、あらゆる種類の家畜、あらゆる種類の地をはうもの、あらゆる種類の鳥、翼のあるすべてのものがみな、はいった。

7:15 こうして、いのちの息のあるすべての肉なるものが、二匹ずつ箱舟の中のノアのところにはいった。

7:16 はいったものは、すべての肉なるものの雄と雌であって、神がノアに命じられたとおりであった。それから、主は、彼のうしろの戸を閉ざされた。


ノアがどんな人か、また何故箱舟を作るようになったか、その事について今日はご一緒に考えてみたいと思います。


創世記には、今のところのちょっと前に次のように書いてあります。


創世記

6:9 これはノアの歴史である。ノアは、正しい人であって、その時代にあっても、全き人であった。ノアは神とともに歩んだ。

6:10 ノアは三人の息子、セム、ハム、ヤペテを生んだ。

6:11 地は、神の前に堕落し、地は、暴虐で満ちていた。

6:12 神が地をご覧になると、実に、それは、堕落していた。すべての肉なるものが、地上でその道を乱していたからである。

6:13 そこで、神はノアに仰せられた。「すべての肉なるものの終わりが、わたしの前に来ている。地は、彼らのゆえに、暴虐で満ちているからだ。それで今わたしは、彼らを地とともに滅ぼそうとしている。

6:14 あなたは自分のために、ゴフェルの木の箱舟を造りなさい。


7:1 主はノアに仰せられた。「あなたとあなたの全家族とは、箱舟にはいりなさい。あなたがこの時代にあって、わたしの前に正しいのを、わたしが見たからである。

7:2 あなたは、すべてのきよい動物の中から雄と雌、七つがいずつ、きよくない動物の中から雄と雌、一つがいずつ、

7:3 また空の鳥の中からも雄と雌、七つがいずつを取りなさい。それはその種類が全地の面で生き残るためである。

7:4 それは、あと七日たつと、わたしは、地の上に四十日四十夜、雨を降らせ、わたしが造ったすべての生き物を地の面から消し去るからである。」

7:5 ノアは、すべて主が命じられたとおりにした。


人間とは、天地万物の創造主にして聖なる神が、ご自分と親子のように親しく交わることができるように、ご自分に似た者として特別に愛してお造りになった被造物でございます。


ところが、そのようにして造られた最初の人間のアダムとエバが、サタンに誘惑されて神様の言いつけに背くという罪を犯してしまった。その結果アダムとエバは、神様との交わりを失い、聖い神様の前に堕落した状態に陥ってしまいました。


そしてこの堕落は、アダムの罪を遺伝子のように受け継いだ人間すべてに及び、そのためノアの時代に地上には悪と暴虐に満ちた様になってしまっていたのであります。


しかしながら、ノアだけは正しい人、全き人であったと記されております。これは、完全無欠という意味ではないのですね。神様の仰せに忠実に従う人、すなわち神様との関係において正しい人という意味であります。「ノアは、すべて主が命じられたとおりにした。」とありますように、ノアは洪水の兆しなど全く見られなかった時に、疑うことなくただ神様の仰せに従って、人々に馬鹿にされながら巨大な箱舟を作りました。


そのようなノアを神様は、ご自分の前に正しい者とお認めになったのであります。ノアたちが箱舟に入り、主がうしろの戸を閉ざされてから7日後に、神様が仰ったとおりの事が起きました。


雨が40日40夜降り続いた結果、大洪水が地の表を覆い、地のすべての生き物は死に絶えたのであります。聖書には、水が150日間も引かなかったと記しております。最近は、世界各地で大洪水が起こり、大きな被害が出たことはご存知のとおりですけど、ノアの洪水はそれらとはとうてい比較にならない地球規模の大きさだったのであります。


その間、箱舟の中の様子はどんなだったでしょうか。創世記8章1節には「神は、ノアと、箱舟の中に彼といっしょにいたすべての獣や、すべての家畜とを心に留めておられた」と書いてあります。


そのことからも解りますように、神様は箱舟の中のノアたちをずーと守っていてくださいました。ですから、150日もの長い間も箱舟の中は主の平安に満ちていたのであります。


一方、箱舟の外には恐ろしい光景がありました。高い山々もすべて水没するほどの洪水の中で、避難する所はどこにもなく、人間を含めてすべての生き物は荒れ狂う大水に流され、助けを求めながら溺れ死んでいったのであります。


その違いは、どうして生じたのでありましょうか。それは、神様の仰せに従って生きていたか、神様の仰せに背き自分の思いに従って生きていたかの違いであります。その違いが生きるか死ぬかという大きな差になったのであります。


ノアの箱舟の時代からはるかに下った今日、世界の状態はどうでありましょうか。私たちが目にする世界の状態は、まさにノアの時代と同じように、いやそれ以上に悪と暴虐が満ち満ちていると言えるのではないでしょうか。


世界中で戦争やテロ、殺人、暴行、詐欺、裏切りなど数え上げればきりがないほどの事件が、毎日毎日起こっております。それは、相変わらず人間が神様に背を向けて、自分の思いを満たす事だけしか考えないような勝手放題な生き方をしているためであります。


自分はそのような事はしていないと思う人も少なくないと思いますけれども、神様は人の心の中をご覧になります。ですから、行為として外に現れなくても心に思うだけで行為をしたのと同じと見なされるのであります。イエス様は次のように仰っています。


マルコ伝

7:20 また言われた。「人から出るもの、これが、人を汚すのです。

7:21 内側から、すなわち、人の心から出て来るものは、悪い考え、不品行、盗み、殺人、

7:22 姦淫、貪欲、よこしま、欺き、好色、ねたみ、そしり、高ぶり、愚かさであり、

7:23 これらの悪はみな、内側から出て、人を汚すのです。」


私たちが、謙虚に自分の心をかえりみる時に、誰でもイエス様が心の中から悪として挙げられたうち、いくつかは思い当たるのではないでしょうか。では、神様はこのような悪に汚れた人間、この世を滅ぼされるために再びノアの時のような大洪水を起こされるのでありましょうか。


もし、起こされるとすればその時はいつであり、またその時ノアのように救われる人は、いったいいるのでありましょうか。この大変気になる疑問に、聖書は次のように答えております。


第2ペテロ

3:3 まず第一に、次のことを知っておきなさい。終わりの日に、あざける者どもがやって来てあざけり、自分たちの欲望に従って生活し、

3:4 次のように言うでしょう。「キリストの来臨の約束はどこにあるのか。先祖たちが眠った時からこのかた、何事も創造の初めからのままではないか。」

3:5 こう言い張る彼らは、次のことを見落としています。すなわち、天は古い昔からあり、地は神のことばによって水から出て、水によって成ったのであって、

3:6 当時の世界は、その水により、洪水におおわれて滅びました。

3:7 しかし、今の天と地は、同じみことばによって、火に焼かれるためにとっておかれ、不敬虔な者どものさばきと滅びとの日まで、保たれているのです。


このみことばによって、神様はノアの時代には洪水によって、不敬虔な者を滅ぼされましたけれども、今度は洪水ではなく火によって滅ぼされるということが解ります。具体的に火が何を指すのかは私たちには解りませんけれども、洪水よりもさらに恐ろしいものであることは、容易に想像がつきます。そしてその滅びの日がいつであるかにつきましては、イエス様は次のように仰っておられます。


マタイ伝

24:32 いちじくの木から、たとえを学びなさい。枝が柔らかになって、葉が出て来ると、夏の近いことがわかります。

24:33 そのように、これらのことのすべてを見たら、あなたがたは、人の子が戸口まで近づいていると知りなさい。

24:34 まことに、あなたがたに告げます。これらのことが全部起こってしまうまでは、この時代は過ぎ去りません。

24:35 この天地は滅び去ります。しかし、わたしのことばは決して滅びることがありません。

24:36 ただし、その日、その時がいつであるかは、だれも知りません。天の御使いたちも子も知りません。ただ父だけが知っておられます。

24:37 人の子が来るのは、ちょうど、ノアの日のようだからです。

24:38 洪水前の日々は、ノアが箱舟にはいるその日まで、人々は、飲んだり、食べたり、めとったり、とついだりしていました。

24:39 そして、洪水が来てすべての物をさらってしまうまで、彼らはわからなかったのです。人の子が来るのも、そのとおりです。


イエス様が仰った「これらのこと」とは、滅びの日の前兆としていろいろな現象が明らかになってまいりますけれども、たとえば、にせキリストが現れて人を惑わす、あるいは人々が互いに憎しみ合い、不法がはびこり、愛が冷たくなり、飢饉や大地震が起こる、民族間の争いが起こる、そういうふうな様々な事が起こってきている。


これをイエス様は、夏が近くなった時のいちじくの木の枝と葉の変化にたとえて、説明をなさっているのであります。まさに今の世の中の有様は、そのとおりの状況となっております。そして2000年前に、私たちの罪を贖うために貧しい人の姿をとって、この世に来てくださったイエス様は、今度は神様に逆らい続ける罪と悪に満ちたこの世を滅ぼされる裁き主としての栄光のお姿で、ノアの日と同様にこの地上に突然来ると、はっきり仰っているのであります。


ではこのような恐ろしい事態から脱出するには、いったいどうしたらよいでしょうか。その時が来てからではもはや手遅れなのは、これまでご一緒に見てきたとおりであります。イエス様は、先ほどのみことばに続いて、不思議な事を仰いました。


マタイ伝

24:40 そのとき、畑にふたりいると、ひとりは取られ、ひとりは残されます。

24:41 ふたりの女が臼をひいていると、ひとりは取られ、ひとりは残されます。


これはどういう事なのでしょうか。それは世の終わりに起こる、今だかつて経験したことのないような苦難が起こる前に、すなわちイエス様が裁き主としてこの地上にお出でになる、ご再臨なさる前に、イエス様を信じた者は空中まで迎えに来てくださったイエス様によって、天の御国に一挙に携え上げられ、その時にまだイエス様を信じていない者、イエス様を拒んでいた者は地上に残されるということであります。


パウロは第1テサロニケ4章16節から17節で、この主のご再臨の様子について次のように言っています。裁きのためにこの地上に来られるのが、これが地上再臨と申しますけれども、イエス様を信じた者を空中に迎えに来てくださって、携え上げてくださるのを、それに対して空中再臨と申します。第1テサロニケの手紙には、その空中再臨の様子について次のように言っております。


第1テサロニケの手紙

4:16 主は、号令と、御使いのかしらの声と、神のラッパの響きのうちに、ご自身天から下って来られます。それからキリストにある死者が、まず初めによみがえり、

4:17 次に、生き残っている私たちが、たちまち彼らといっしょに雲の中に一挙に引き上げられ、空中で主と会うのです。このようにして、私たちは、いつまでも主とともにいることになります。


ノアの箱舟から私たちが学ぶことは、いったい何でありましょうか。一つは、聖にして義なる神様は、そのご性質ゆえにご自分の義を曲げることは、決してなさらない。ご自分に似た者として造られたほどに愛する人間が犯す罪を、そのまま見過ごすことは決してなさらない。厳しく罰せられるということ、これが一つであります。


そして二つ目は、その義そのものの神様は、同時に愛に満ちた神様でもあるということであります。ですから、ご自分が造られた人間が一人でも滅びることを望まれず、すべての人間が悔い改めて天の御国に携え上げられることを望んで、終わりの日、裁きの日を忍耐をもって伸ばしておられるということ、これが二つ目であります。


そのために、神様はノアの箱舟とは比べものにならない、すばらしい救いの箱舟をすでに2000年前に提供してくださっておられるのであります。その箱舟こそ、私たちを滅びから救い出してくださるために、神様がこの世にお遣わしになった神のひとり子のイエス様であります。


ヨハネ伝

3:16 神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。

3:17 神が御子を世に遣わされたのは、世をさばくためではなく、御子によって世が救われるためである。


第2コリント

5:21 神は、罪を知らない方を、私たちの代わりに罪とされました。それは、私たちが、この方にあって、神の義となるためです。


ではこの救いの箱舟に入るには、いったいどうすればよいでしょうか。そのために、もう一度ノアがどうして箱舟に入ることができたかという事を考えてみたいと思います。ノアが箱舟に入ることができたのは、神様から正しいと認められたからでありました。ということは私たちも、神様から正しいと認められればよいのであります。


しかし、いったどうすれば神様から正しいと認められるのでありましょうか。これからは真面目に正しく清く生きる努力をしますと、神様に誓えば、神様はそれを認めてくださるのでありましょうか。あるいは、一生懸命世の中に役立つ行いや、良き行いを積み重ねて、その成果を神様に認めていただく事でありましょうか。


そのいずれでも駄目なのであります。なぜなら、人の心の中まで見抜かれる神様は、私たちの心の中に聖い生き方をしたとか、良い行いをしたとかいう、これは誇りであります。自負であります。それらが少しでもあれば、そのような私たちを正しいとはお認めにならないのであります。


ではいったいどうすれば良いのでしょうか。イエス様は、パリサイ人と取税人のたとえによって、それに答えてくださっています。有名なルカの福音書18章9節から14節にあります。パリサイ人は、自分は神様の掟を正しく守っていると自負しておりました。一方、取税人は自分の胸をたたいて「神様、こんな罪人の私をあわれんでください」と神様にあわれみを乞いました。


イエス様は、この取税人こそが正しいと認め、自分を高くする者は低くされる、自分を低くする者は高くされると仰っておられたのですね。私たちも、この取税人のように自分が神様の前に、正しいことなど何一つできない者である。自分の欲を満たすことを第一として生きた者でしかすぎないということを認めて、神の前にへりくだり、心砕かれて神様に許しを乞い願う時に、御子イエス様が十字架の上で流された聖い血潮によって、私たちの罪を聖め、私たちを義と認めてくださるのであります。


すなわち、自分の罪を認めて神様の御前に悔い改めること、これがイエス様の救いの箱舟に乗る条件なのであります。けれども、こういうふうに考える方がおられるかもしれない。イエス様という箱舟に乗るには、どうしたらよいか解った。でもちょっと待ってほしい。もう少し自分のやりたい事があるから。


やり終えたらイエス様の箱舟に入りますと考える方があるかもしれません。けれども、その人はいつイエス様が救いの箱舟の扉をお閉めになるのかが全く解っていない方であります。最初に読んでいただいたみことばの中にこういうみことばがありました。「それから、主は、彼のうしろの戸を閉ざされた。」すなわち、ノアたちが箱舟に入った後、箱舟の扉はノアが中から閉めたのではなくて、神様の手で外から閉められたのであります。


いったん神様によって閉められた扉は、もう決して開かれることはなく、閉ざされてからでは、いくら中に入りたいと望んでも、決して入ることはできないのであります。それと同様にイエス様も、時が来れば救いの扉をご自身の手で閉ざされます。そして一旦閉ざされた扉は、二度と開かれません。


イエス様は、やがて来る恐ろしい永遠の滅びから、一人でも多くの人々を救おうと、愛と忍耐を持って扉を閉ざす時を伸ばしておられますけれども、それにも限度があります。第2コリント2章6節には「確かに、今は恵みの時、今は救いの日です。」とあります。


そのとおり、今こそがその恵みの日、救いの日なのであります。この恵みの時、救いの日が終わる前に一日も早く、イエス様の御前に出て、「イエス様、私の罪、私のわがままを身代わりに負ってくださって、死んでくださったことを心から感謝します。これからすべて、イエス様にお委ねします。」と祈ることのできる人は、何と幸いな人でありましょうか。


なぜなら、その人は裁かれることなく、滅びることなく、終わりの日が来る前に空中まで迎えに来てくださるイエス様という箱舟によって、天の御国に携え上げられるからであります。そしてまた、イエス様を信じている私たちは、イエス様がいつご再臨があってもよいように、霊の目を覚まし、心を整え、身を慎んでご再臨を待ち望む日々を過ごすことができるように、さらに祈り続けたいと切に思うしだいであります。最後に黙示録からみことばをお読みして終わりにいたします。


黙示録

22:12 「見よ。わたしはすぐに来る。わたしはそれぞれのしわざに応じて報いるために、わたしの報いを携えて来る。

22:13 わたしはアルファであり、オメガである。最初であり、最後である。初めであり、終わりである。」

22:14 自分の着物を洗って、いのちの木の実を食べる権利を与えられ、門を通って都にはいれるようになる者は、幸いである。


おわり


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