重田定義兄

信仰におけるまことの悔い改めの大切さ

2014年9月9日、吉祥寺学び会

重田定義


マタイ

3:5 さて、エルサレム、ユダヤ全土、ヨルダン川沿いの全地域の人々がヨハネのところへ出て行き、

3:6 自分の罪を告白して、ヨルダン川で彼からバプテスマを受けた。

3:7 しかし、パリサイ人やサドカイ人が大ぜいバプテスマを受けに来るのを見たとき、ヨハネは彼らに言った。「まむしのすえたち。だれが必ず来る御怒りをのがれるように教えたのか。

3:8 それなら、悔い改めにふさわしい実を結びなさい。

3:9 『われわれの先祖はアブラハムだ。』と心の中で言うような考えではいけません。あなたがたに言っておくが、神は、この石ころからでも、アブラハムの子孫を起こすことがおできになるのです。

3:10 斧もすでに木の根元に置かれています。だから、良い実を結ばない木は、みな切り倒されて、火に投げ込まれます。

3:11 私は、あなたがたが悔い改めるために、水のバプテスマを授けていますが、私のあとから来られる方は、私よりもさらに力のある方です。私はその方のはきものを脱がせてあげる値うちもありません。その方は、あなたがたに聖霊と火とのバプテスマをお授けになります。

3:12 手に箕を持っておられ、ご自分の脱穀場をすみずみまできよめられます。麦を倉に納め、殻を消えない火で焼き尽くされます。」


今日は「信仰における真の悔い改めの大切さ」ということにつきましてご一緒に考えてみたいと思います。ユダヤ人は、世の終わりに神の怒り、神の裁きを免れて神の国に入ることができるのは、自分たちだけである、すなわち神に選ばれたアブラハムの子孫である自分たちだけであると信じ込んでおりました。


けれどもバプテスマのヨハネは、ここでそのようなユダヤ人の特に形式的、表面的な律法の守り方をしていても、それを良しとしているような偽善的なパリサイ人、サドカイ人の安易な考えを厳しく戒めて、そしてアブラハムの子孫なるがゆえに天国に入れるのではない、良い実を結ぶ者だけが入ることができる。


そしてすでにメシアが来られて麦と殻が選り分けられる裁きの日が近づいている。だから悔い改めにふさわしい実を結ぶように、このように薦めて洗礼をさずけていたのであります。一方イエス様は「時が満ち神の国が近くなった。悔い改めて福音を信じなさい。」と福音伝道の第一声をあげられました。


マルコ伝

1:14 ヨハネが捕えられて後、イエスはガリラヤに行き、神の福音を宣べて言われた。

1:15 「時が満ち、神の国は近くなった。悔い改めて福音を信じなさい。」


このイエス様の仰ったみことばは、バプテスマのヨハネが言ったことと一見同じように見えますけれども、何のために、あるいはどのように悔い改めをするのかという点については、全く異なっております。


神の国が近いと説いたバプテスマのヨハネは、神の裁きの日が近づいているから、悔い改めにふさわしい良い実を結ぶようにという事でありました。これは言うなれば律法的悔い改めといっても良いのではないかと思うのですね。


けれどもイエス様は違うのですね。神の裁きの日は近いが、その神の裁きを免れる救いの福音が来ているのだから、神の国に入るためには、罪を悔い改めて福音を信じなさい。良い実を結ぶのではなくて、福音を信じなさいと言っておられるのですね。これは言うなれば福音的悔い改めとも言えるのではないかと思います。


アダムが神の言いつけに背いて以来、その性質を受け継いだ人間は、神の掟である律法を正しく守り行うことができなくなってしまいました。そのような人間をあわれまれた神様は、律法を守ることによってではなく、福音を信じることによって罪を赦すご計画をお立てになりました。


そしてそれを自ら実行なさったのであります。この福音とは、言うまでもなく罪に汚れた人間を救うために遣わされた神の御子であるイエス様ご自身であります。そしてこのイエス様の十字架の死と復活の御業が、自分のためであったことを知って悔い改め、イエス様を救い主として信じる者には、罪の赦しと永遠のいのちが与えられるということであります。


このように神の国に入るには、イエス様が仰ったように自分の罪を悔い改めて福音、すなわち今申し上げたように私たちの罪を身代わりに負って、十字架の上で死んでくださった神の御子イエス様を救い主と信じることが是非とも必要なのであります。パウロは、これについて次のように言っております。


ガラテヤ

2:16 しかし、人は律法の行ないによっては義と認められず、ただキリスト・イエスを信じる信仰によって義と認められる、ということを知ったからこそ、私たちもキリスト・イエスを信じたのです。これは、律法の行ないによってではなく、キリストを信じる信仰によって義と認められるためです。なぜなら、律法の行ないによって義と認められる者は、ひとりもいないからです。


神様は私たち人間に、この福音を信じることによって、今まで律法の行いによっては決して神様に義と認められない人間すべてを、義と認めるという恵みを私たちに与えられたのであります。これによって私たち人間は、初めて律法の束縛から解放されました。まさに言葉通り文字通り「福音」であります。


しかしこの福音を信じるためには、イエス様が仰ったようにまず悔い改めることが必要となります。悔い改めには、向き変わり、あるいは立ち戻り、あるいは心の転換という意味があります。


つまり悔い改めの要点は、自分たちが自分自身に向いていた思いから、神様への思いに向き変わること、自己中心の心を捨て去って神様中心の心に転換することなのであります。預言者や使徒たちが、人々に悔い改めを迫ったのは、まさにこの一点すなわち自分の罪を知って神様を恐れ、御前にひれ伏して真心からの悔い改めによって、神様に立ち戻るように立ち返るようにということでありました。


預言者サムエルも、そのようにイスラエルの民に悔い改めを迫っております。


第1サムエル

7:3 そのころ、サムエルはイスラエルの全家に次のように言った。「もし、あなたがたが心を尽くして主に帰り、あなたがたの間から外国の神々やアシュタロテを取り除き、心を主に向け、主にのみ仕えるなら、主はあなたがたをペリシテ人の手から救い出されます。」

7:4 そこでイスラエル人は、バアルやアシュタロテを取り除き、主にのみ仕えた。


こういうふうに記されておりますように、悔い改めるということと、主い立ち返るということは同じなのであります。神様は私たちに罪の赦しを提供される時に、それと引き換えにという言葉は適当かどうか解りませんけれども、悔い改めを主に立ち返ることを、私たちに望んでおられる要求しておられるのであります。これについてイザヤは次のように言っております。


イザヤ

55:6 主を求めよ。お会いできる間に。近くにおられるうちに、呼び求めよ。

55:7 悪者はおのれの道を捨て、不法者はおのれのはかりごとを捨て去れ。主に帰れ。そうすれば、主はあわれんでくださる。私たちの神に帰れ。豊かに赦してくださるから。


すなわちイザヤは、ここで神様はいつも私たちをあわれもうと待っておられる。しかしそのあわれみをいただくためには、私たちが悔い改めることが、すなわち神様に立ち返ることが是非とも必要であると言っているのであります。


神様に立ち返ることのない悔い改めはありません。ここで大切なことは、第1に、この悔い改めは、単に外見的な行いが変わるということではないのです。魂、霊そのものが変わらなければならないということであります。形だけの悔い改めは、悔い改めになりません。主なる神様は、人の心をご覧になる方だからであります。


第1サムエル

16:7 人はうわべを見るが、主は心を見る。


とあるとおりであります。したがいまして、口先だけのうわべだけの悔い改めではない、偽りのない真心からの悔い改めが、私たちに求められているのであります。


第2に、悔い改めには、天地万物の創造主にして支配者であり、全き聖にして義なる生ける神様に対する心からの恐れが先立つ必要があります。聖書は、悔い改めを薦める時に、しばしば神様の裁きについて言及しております。たとえば、パウロは偶像の神を拝んでいるアテネの人々に対して、次のように言っております。


使徒の働き

17:23 私が道を通りながら、あなたがたの拝むものをよく見ているうちに、『知られない神に。』と刻まれた祭壇があるのを見つけました。そこで、あなたがたが知らずに拝んでいるものを、教えましょう。

17:24 この世界とその中にあるすべてのものをお造りになった神は、天地の主ですから、手でこしらえた宮などにはお住みになりません。

17:25 また、何かに不自由なことでもあるかのように、人の手によって仕えられる必要はありません。神は、すべての人に、いのちと息と万物とをお与えになった方だからです。

17:26 神は、ひとりの人からすべての国の人々を造り出して、地の全面に住まわせ、それぞれに決められた時代と、その住まいの境界とをお定めになりました。

17:27 これは、神を求めさせるためであって、もし探り求めることでもあるなら、神を見いだすこともあるのです。確かに、神は、私たちひとりひとりから遠く離れてはおられません。

17:28 私たちは、神の中に生き、動き、また存在しているのです。あなたがたのある詩人たちも、『私たちもまたその子孫である。』と言ったとおりです。

17:29 そのように私たちは神の子孫ですから、神を、人間の技術や工夫で造った金や銀や石などの像と同じものと考えてはいけません。

17:30 神は、そのような無知の時代を見過ごしておられましたが、今は、どこででもすべての人に悔い改めを命じておられます。

17:31 なぜなら、神は、お立てになったひとりの人により義をもってこの世界をさばくため、日を決めておられるからです。そして、その方を死者の中からよみがえらせることによって、このことの確証をすべての人にお与えになったのです。」


このように言っております。ここでパウロは、神様は人間が無知なるがゆえに、偶像の神を拝むというような時代を、お見過ごしにはならない。御子イエス様の復活をもって裁きの日が近いことの確かな証拠とされている。だから時期を失わないように、時を失わないように悔い改めなさいと、このように呼びかけているのであります。


パウロはまた私たち人間が、罪の裁きを恐れるだけではなくて、自分の罪がどんなにか神様の御心を悲しませているかを知って、心から悲しみ悔い改めれば、この悔い改めは救いをもたらすとも言っております。


第2コリント

7:10 神のみこころに添った悲しみは、悔いのない、救いに至る悔い改めを生じさせますが、世の悲しみは死をもたらします。


心からの悔い改めには、私たちの肉が死んで御霊によって生きるということが、それに伴わなければなりません。パウロは、ローマ書の中で次のように言っております。


ローマ書

6:4 私たちは、キリストの死にあずかるバプテスマによって、キリストとともに葬られたのです。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中からよみがえられたように、私たちも、いのちにあって新しい歩みをするためです。

6:5 もし私たちが、キリストにつぎ合わされて、キリストの死と同じようになっているのなら、必ずキリストの復活とも同じようになるからです。

6:6 私たちの古い人がキリストとともに十字架につけられたのは、罪のからだが滅びて、私たちがもはやこれからは罪の奴隷でなくなるためであることを、私たちは知っています。

6:7 死んでしまった者は、罪から解放されているのです。

6:8 もし私たちがキリストとともに死んだのであれば、キリストとともに生きることにもなる、と信じます。


パウロが言っておりますように、もし私たちがキリストの死に本当の意味で与かるならば、キリストの力によって、私たちの古き人は十字架につけられ、もはや私たちの生まれつきの肉の性質は、力をふるうことができなくなるはずであります。


またもし私たちが、キリストの復活に預かるならば、私たちは神様の義に応えうる新しいいのちによみがえらせられるのであります。したがいまして、悔い改めの目指す所は、アダムの罪によって失われてしまった神の形に似て造られた人間本来の形を、私たち信者の上に再び形成されることにあるということができるのではないでしょうか。


第2コリント

3:18 私たちはみな、顔のおおいを取りのけられて、鏡のように主の栄光を反映させながら、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられて行きます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。


コロサイ書

3:9 あなたがたは、古い人をその行ないといっしょに脱ぎ捨てて、

3:10 新しい人を着たのです。新しい人は、造り主のかたちに似せられてますます新しくされ、真の知識に至るのです。


しかし、私たち信者が主に似た者に変えられるためには、信じた後も私たちの肉になお根深く残っております自我のゆえに犯してしまいがちな罪を、そのたびに心から悔い改める必要があります。そして私たち信者が、心から悔い改めるならば、その悔い改めをとりなしてくださる主の御霊の力によって、私たち信者は聖められながら、一歩一歩主の似姿に変えられて行くのであります。


ローマ書

8:34 罪に定めようとするのはだれですか。死んでくださった方、いや、よみがえられた方であるキリスト・イエスが、神の右の座に着き、私たちのためにとりなしていてくださるのです。


8:26 御霊も同じようにして、弱い私たちを助けてくださいます。私たちは、どのように祈ったらよいかわからないのですが、御霊ご自身が、言いようもない深いうめきによって、私たちのためにとりなしてくださいます。


しかしここで私たちは、悔い改める余地のない罪について考えなければなりません。聖書では、次のような者は再び悔い改めに立ち返らせることはできないと言っております。


へブル書

6:4 一度光を受けて天からの賜物の味を知り、聖霊にあずかる者となり、

6:5 神のすばらしいみことばと、後にやがて来る世の力とを味わったうえで、

6:6 しかも堕落してしまうならば、そういう人々をもう一度悔い改めに立ち返らせることはできません。彼らは、自分で神の子をもう一度十字架にかけて、恥辱を与える人たちだからです。


大変厳しいことばですが、ここで言う堕落というのは、単にだらけた生活によって主に従わないという、そういう事ではなくて、意図的に意識して主の御心をはっきり拒絶する、拒むような人のことであります。このように、一旦聖霊に与かり救いの恵みを体験していながら、主に対して意識的に逆らう態度をとり続けるような者については、次のようなみことばがあります。


へブル書

10:26 もし私たちが、真理の知識を受けて後、ことさらに罪を犯し続けるならば、罪のためのいけにえは、もはや残されていません。

10:27 ただ、さばきと、逆らう人たちを焼き尽くす激しい火とを、恐れながら待つよりほかはないのです。

10:29 まして、神の御子を踏みつけ、自分を聖なるものとした契約の血を汚れたものとみなし、恵みの御霊を侮る者は、どんなに重い処罰に値するか、考えてみなさい。


このようにありますように、こういう信者に対しては悔い改めの余地は残されていないということであります。イエス様ご自身も次のように仰っておられます。


マタイ伝

12:31 だから、わたしはあなたがたに言います。人はどんな罪も冒涜も赦していただけます。しかし、聖霊に逆らう冒涜は赦されません。

12:32 また、人の子に逆らうことばを口にする者でも、赦されます。しかし、聖霊に逆らうことを言う者は、だれであっても、この世であろうと次に来る世であろうと、赦されません。


すなわち、人がまだ霊の目が開かれていない時に、イエス様を否定したり冒涜するような発言や行動をしても、それは無知なるがゆえに赦されます。けれども、御霊によって開かれた霊によってイエス様を信じた後になって、神様、イエス様を非難したり御心に逆らったりする事をはばかる事がないような者は、御霊を冒涜する者であって、そのような者は赦されることがないとここでイエス様は仰っているのであります。パウロは、これを主に出会う前の自分に当てはめて次のように告白しております。


第1テモテ

1:13 私は以前は、神をけがす者、迫害する者、暴力をふるう者でした。それでも、信じていないときに知らないでしたことなので、あわれみを受けたのです。


初めに申しましたように、悔い改めとは、自分中心の生き方から神中心の生き方に向き変わること、立ち返ることであります。それは自分の肉が死んで、御霊によって生まれ変わることによって初めて可能となります。私たち信者は、こうして自我が砕かれた自分をイエス様に明け渡し、御前にへりくだり、日々自分の思いを主に調べていただいて、もし悔い改めるべき罪が示されたならば、直ちに心から悔い改めて主に立ち返ることができるように、御霊の支えとお導きを絶えず祈る必要があります。


主のご再臨の近い今、私たち信者は悔い改めのない自己中心の信仰に生きる者ではなく、自分をかえりみて日々悔い改め、イエス様中心の信仰に生きる、主に喜ばれる僕としての歩みができるように、心から願うしだいであります。最後にみことばをお読みして終わります。


黙示録

3:19 わたしは、愛する者をしかったり、懲らしめたりする。だから、熱心になって、悔い改めなさい。


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