重田定義兄

福音を伝えるがゆえに起こる苦しみは喜び

2014年7月15日、吉祥寺学び会

重田定義


第1ペテロ

4:12 愛する者たち。あなたがたを試みるためにあなたがたの間に燃えさかる火の試練を、何か思いがけないことが起こったかのように驚き怪しむことなく、

4:13 むしろ、キリストの苦しみにあずかれるのですから、喜んでいなさい。それは、キリストの栄光が現われるときにも、喜びおどる者となるためです。

4:14 もしキリストの名のために非難を受けるなら、あなたがたは幸いです。なぜなら、栄光の御霊、すなわち神の御霊が、あなたがたの上にとどまってくださるからです。


私たちキリスト者には、信仰ゆえの苦しみというのがあります。その苦しみのおもな原因は、3つに分けられるのではないかと思います。


1つは、主を信じて新しく生まれ変わった霊と、生まれつきの性質である肉的な罪の欲望との戦いから生じる苦しみであります。この苦しみをパウロは、ローマ書7章で言い表していることは皆様よくご存知のとおりであります。


ローマ

7:18 私は、私のうち、すなわち、私の肉のうちに善が住んでいないのを知っています。私には善をしたいという願いがいつもあるのに、それを実行することがないからです。


7:22 すなわち、私は、内なる人としては、神の律法を喜んでいるのに、

7:23 私のからだの中には異なった律法があって、それが私の心の律法に対して戦いをいどみ、私を、からだの中にある罪の律法のとりこにしているのを見いだすのです。

7:24 私は、ほんとうにみじめな人間です。だれがこの死の、からだから、私を救い出してくれるのでしょうか。


イエス様を信じる前は、罪のために霊が死んだようになっておりましたので、霊と肉との葛藤、霊と肉との戦いというのは私たちにはなかったのであります。けれども、イエス様を信じて十字架の上で流されたイエス様の血によって霊が聖められ、罪に対する感受性が高められた結果、こうした苦しみが生じてくるのではないかと思います。


2つ目は、神の子にふさわしく聖め成長させようとしてくださる主のキリスト者に対する訓練によって生じる苦しみであります。この苦しみについては、これも有名なヘブル書12章に詳しく述べられております。


ヘブル

12:5 「わが子よ。主の懲らしめを軽んじてはならない。主に責められて弱り果ててはならない。

12:6 主はその愛する者を懲らしめ、受け入れるすべての子に、むちを加えられるからである。」

12:7 訓練と思って耐え忍びなさい。神はあなたがたを子として扱っておられるのです。父が懲らしめることをしない子がいるでしょうか。


12:9 さらにまた、私たちには肉の父がいて、私たちを懲らしめたのですが、しかも私たちは彼らを敬ったのであれば、なおさらのこと、私たちはすべての霊の父に服従して生きるべきではないでしょうか。

12:10 なぜなら、肉の父親は、短い期間、自分が良いと思うままに私たちを懲らしめるのですが、霊の父は、私たちの益のため、私たちをご自分の聖さにあずからせようとして、懲らしめるのです。


そして3番目が、本日の主題であるイエス様を宣べ伝えることによって迫害を受けるという苦しみであります。今日は、この迫害による苦しみは喜びであるということにつきまして、ご一緒に考えていきたいと思います。


イエス様を信じ、そのイエス様を宣べ伝えるがゆえに迫害を受けるということは、すでにイエス様がはっきり予告をしておられた事でありました。イエス様は早くから弟子たちにその事を仰っています。


マタイ

5:11 わたしのために、ののしられたり、迫害されたり、また、ありもしないことで悪口雑言を言われたりするとき、あなたがたは幸いです。

5:12 喜びなさい。喜びおどりなさい。天においてあなたがたの報いは大きいのだから。あなたがたより前に来た預言者たちも、そのように迫害されました。


そして何故迫害を受けるのか、イエス様を信じた者たちが迫害を受けるのか、その理由についても次のように仰っておられます。


ヨハネ

15:18 もし世があなたがたを憎むなら、世はあなたがたよりもわたしを先に憎んだことを知っておきなさい。

15:19 もしあなたがたがこの世のものであったなら、世は自分のものを愛したでしょう。しかし、あなたがたは世のものではなく、かえってわたしが世からあなたがたを選び出したのです。それで世はあなたがたを憎むのです。


イエス様は、捕らえられる前に弟子たちに心を打つ告別のメッセージをなさいましたけれども、その最後に次のように仰いました。


ヨハネ

16:33 わたしがこれらのことをあなたがたに話したのは、あなたがたがわたしにあって平安を持つためです。あなたがたは、世にあっては患難があります。しかし、勇敢でありなさい。わたしはすでに世に勝ったのです。」


以上のようにイエス様は、ご自分が世を去った後、弟子たちがこの世にあって主の福音を宣べ伝える生涯において、多くの患難に会うと予告なさいました。しかし同時にイエス様は、彼らがご自分と一つになっている限り、患難に会ってもイエス様が罪と死とに決定的な勝利を得られたという確信によって、平安と勇気を味わうことができ、天の御国において報いは大きいから、迫害に会っても勇敢であり、かつ喜びなさいと仰ったのであります。


その当時は、弟子たちにはイエス様が予告された事をまだよく理解できませんでしたけれども、イエス様が十字架に架けられ復活された後、御霊によって力を与えられた弟子たちは、イエス様こそがキリストであるということを、命がけで宣べ伝えたために、イエス様が仰ったとおり迫害に会いました。そして彼らは、イエス様が仰ったように、むしろ迫害に会ったことを喜ぶことができたのであります。弟子のペテロたちの例を聖書から見てみたいと思います。


使徒の働き

5:27 彼らが使徒たちを連れて来て議会の中に立たせると、大祭司は使徒たちを問いただして、

5:28 言った。「あの名によって教えてはならないときびしく命じておいたのに、何ということだ。エルサレム中にあなたがたの教えを広めてしまい、そのうえ、あの人の血の責任をわれわれに負わせようとしているではないか。」

5:29 ペテロをはじめ使徒たちは答えて言った。「人に従うより、神に従うべきです。

5:30 私たちの先祖の神は、あなたがたが十字架にかけて殺したイエスを、よみがえらせたのです。

5:31 そして神は、イスラエルに悔い改めと罪の赦しを与えるために、このイエスを君とし、救い主として、ご自分の右に上げられました。

5:32 私たちはそのことの証人です。神がご自分に従う者たちにお与えになった聖霊もそのことの証人です。」

5:33 彼らはこれを聞いて怒り狂い、使徒たちを殺そうと計った。


このようにあります。ところが使徒たちは、ガマリエルという人のとりなしによって、死を免れ鞭で打たれただけで、この時は釈放されました。これも主のお計らいによるものであります。その時彼らは、どういう態度を取ったのでありましょうか。


使徒の働き

5:41 そこで、使徒たちは、御名のためにはずかしめられるに値する者とされたことを喜びながら、議会から出て行った。


どうして使徒たちは、キリストのために迫害を受けたことを喜べたのでありましょうか。それは迫害を御名のためにはずかしめられるに値する者にされた、言い換えますと真のキリスト者として認められたからこそ、自分たちが迫害を受けた、このように確信できたからであります。パウロも何回となく死を覚悟するほどの苦しみに会いました。彼は第2コリントの手紙の中で次のように述べております。


第2コリントの手紙

1:8 兄弟たちよ。私たちがアジヤで会った苦しみについて、ぜひ知っておいてください。私たちは、非常に激しい、耐えられないほどの圧迫を受け、ついにいのちさえも危くなり、

1:9 ほんとうに、自分の心の中で死を覚悟しました。これは、もはや自分自身を頼まず、死者をよみがえらせてくださる神により頼む者となるためでした。


このように彼は言っております。こうして使徒たちの死をも恐れぬ働きによって、当時の世界中に福音が宣べ伝えられ、各地にイエス様を信じる信者の集いが生まれたのであります。これが初代教会であります。しかし、これらの初代教会もまた迫害を受けました。パウロは各地の初代教会の信者に宛てた手紙の中で、信者が迫害に会う理由について次のように述べております。


第1テサロニケ

2:14 兄弟たち。あなたがたはユダヤの、キリスト・イエスにある神の諸教会にならう者となったのです。彼らがユダヤ人に苦しめられたのと同じように、あなたがたも自分の国の人に苦しめられたのです。


3:3 このような苦難の中にあっても、動揺する者がひとりもないようにするためでした。あなたがた自身が知っているとおり、私たちはこのような苦難に会うように定められているのです。

3:4 あなたがたのところにいたとき、私たちは苦難に会うようになる、と前もって言っておいたのですが、それが、ご承知のとおり、はたして事実となったのです。


ピリピ

1:29 あなたがたは、キリストのために、キリストを信じる信仰だけでなく、キリストのための苦しみをも賜わったのです。

1:30 あなたがたは、私について先に見たこと、また、私についていま聞いているのと同じ戦いを経験しているのです。


第2テモテ

3:10 しかし、あなたは、私の教え、行動、計画、信仰、寛容、愛、忍耐に、

3:11 またアンテオケ、イコニオム、ルステラで私にふりかかった迫害や苦難にも、よくついて来てくれました。何というひどい迫害に私は耐えて来たことでしょう。しかし、主はいっさいのことから私を救い出してくださいました。

3:12 確かに、キリスト・イエスにあって敬虔に生きようと願う者はみな、迫害を受けます。


このようにパウロは、キリストにあって敬虔に生きようと願う者、それはとりもなおさず主の御心に従って福音を積極的に宣べ伝えようとする者のことを指しておりますが、そのような信者は皆迫害を受けると述べております。


また弟子のペテロも初代教会の信者に宛てた手紙で、次のように言っております。


第1ペテロ

2:20 罪を犯したために打ちたたかれて、それを耐え忍んだからといって、何の誉れになるでしょう。けれども、善を行なっていて苦しみを受け、それを耐え忍ぶとしたら、それは、神に喜ばれることです。

2:21 あなたがたが召されたのは、実にそのためです。キリストも、あなたがたのために苦しみを受け、その足跡に従うようにと、あなたがたに模範を残されました。


善というのは、主の御心に忠実に従って生きること、言い換えますと福音を宣べ伝え続けて生きることです。


4:12 愛する者たち。あなたがたを試みるためにあなたがたの間に燃えさかる火の試練を、何か思いがけないことが起こったかのように驚き怪しむことなく、

4:13 むしろ、キリストの苦しみにあずかれるのですから、喜んでいなさい。それは、キリストの栄光が現われるときにも、喜びおどる者となるためです。


このように述べております。イエス様の御心に忠実に従って福音を宣べ伝える時、必ずといってよいほど敵意に基づく迫害を受ける事は、これは歴史が証明しております。有名な皇帝ネロによるローマの信者の大虐殺を初めとして、初代教会の信者はひどい迫害を受けました。


しかしそれでもなおかつ彼らは、その苦しみを主の苦しみに与れる者と受け取って、喜びつつ主の福音を宣べ伝え続けたのであります。こうした彼らの死をも恐れぬ献身的な伝道の実が実って、はるか遠いわが国にも主の福音が伝わりました。


しかし、わが国においても主を信じた信者は、かつては踏み絵を踏まされるなどの迫害に会って、殉教の死を遂げた信者がたくさん出たことはご承知のとおりであります。そればかりではありません。迫害は、第2次大戦中にもありました。投獄されたり、職を失った信者も多くいました。


このようにどの時代でも、どの国でも信者が主に忠実に従って生きようとすればするほど、迫害に出会います。今日、わが国では福音を述べ伝えたために、投獄されたり死ぬほどの迫害を受けるような事はありませんけれども、福音を伝えたために親、兄弟、親族、友人、隣人から非難されたり阻害されたり、白眼視されたり敬遠されるというような経験は、多くの兄弟姉妹がお持ちだと思います。


そのような時に私たちは、信仰の先輩たちに習って、それをキリストのための苦しみとして喜ぶことができるのでありましょうか。確かに迫害を恐れ、この世と妥協するような信者は迫害される事はありません。けれどもそのような信者の信仰は、生ぬるくなりしだいに衰えて、やがてはこの世の人と調子を合わせる事に何だ痛みを感じないような人間になってしまうおそれがあります。


もし、世を恐れて主の福音を宣べ伝える気持ちが萎えてしまっている自分に気づいたら、また主の御心を忘れてこの世と調子を合わせている自分に気づいたら、弟子たち、また主を信じる私たちのためにイエス様が、父なる神様になさったとりなしの祈りを思い出す必要があります。イエス様は次のように、私たちのために祈ってくださっています。


ヨハネ

17:14 わたしは彼らにあなたのみことばを与えました。しかし、世は彼らを憎みました。わたしがこの世のものでないように、彼らもこの世のものでないからです。

17:15 彼らをこの世から取り去ってくださるようにというのではなく、悪い者から守ってくださるようにお願いします。


17:18 あなたがわたしを世に遣わされたように、わたしも彼らを世に遣わしました。

17:19 わたしは、彼らのため、わたし自身を聖め別ちます。彼ら自身も真理によって聖め別たれるためです。

17:20 わたしは、ただこの人々のためだけでなく、彼らのことばによってわたしを信じる人々のためにもお願いします。

17:21 それは、父よ、あなたがわたしにおられ、わたしがあなたにいるように、彼らがみな一つとなるためです。また、彼らもわたしたちにおるようになるためです。そのことによって、あなたがわたしを遣わされたことを、世が信じるためなのです。

17:22 またわたしは、あなたがわたしに下さった栄光を、彼らに与えました。それは、わたしたちが一つであるように、彼らも一つであるためです。

17:23 わたしは彼らにおり、あなたはわたしにおられます。それは、彼らが全うされて一つとなるためです。それは、あなたがわたしを遣わされたことと、あなたがわたしを愛されたように彼らをも愛されたこととを、この世が知るためです。

17:24 父よ。お願いします。あなたがわたしに下さったものをわたしのいる所にわたしといっしょにおらせてください。あなたがわたしを世の始まる前から愛しておられたためにわたしに下さったわたしの栄光を、彼らが見るようになるためです。


イエス様はこのように、私たち信者がご自分と一つになることを父なる神様に祈っておられるのであります。私たちが主と一つになれば、主の御心を自分の思いとすることができ、主の喜びを自分の喜びとすることができ、主の苦しみをも自分の苦しみとすることができます。


しかし、私たちが主と一つであることを強く覚えるのは、いったいどんな時でありましょうか。平穏無事な時、順調な時、この世的な幸せの中にある時よりも、苦難患難の中にある時ではないでしょうか。


私たちが主の僕として、福音を伝えるために迫害に会った時に、主が迫害に会って苦しまれた事を改めて覚えて、この苦しみを主イエス様のための苦しみと思うことができた時に、私たちは主と一つになれた事を強く覚え、心から喜ぶことができるのではないでしょうか。主は福音の種を蒔いたために、迫害に会って流している私たちの涙を見過ごしにはなさいません。その涙を喜びに変えてくださいます。


詩篇

126:5 涙とともに種を蒔く者は、喜び叫びながら刈り取ろう。

126:6 種入れをかかえ、泣きながら出て行く者は、束をかかえ、喜び叫びながら帰って来る。


とありますように、主の福音を携えて迫害に会いながらも福音を伝え続けた者は、実りの束をかかえて、喜び叫びながら天の御国に凱旋するのであります。ヘブル人への手紙の中では、信者に次のように勧めております。


ヘブル人への手紙

13:12 ですから、イエスも、ご自分の血によって民を聖なるものとするために、門の外で苦しみを受けられました。

13:13 ですから、私たちは、キリストのはずかしめを身に負って、宿営の外に出て、みもとに行こうではありませんか。


すなわち、イエス様がユダヤ人からはずかしめを受け、イスラエルの城門の外で、十字架につけられた事を思って、私たちキリスト者も迫害を覚悟の上で、身の安全のためにこの世という場所に留まることなく、恐れずに福音を宣べ伝えつつ、主のみもとに行こうではないかと、このように勧めているのであります。


主のご再臨がいよいよ近づいている今日、福音を宣べ伝える私たちには、これから先どんな迫害に会うかもしれません。けれども、いかなる迫害に会っても、私たちは使徒たちのように、これをキリストの御名のために、はずかしめを受けるに値する者とされたことを喜ぶことができるように、これをキリストのための苦しみとして喜ぶことができるように、私たちの信仰の歩みを御霊によって強めていただきたいと切に祈る次第であります。

最後に第1ペテロから一箇所、お読みして終わりたいと思います。


第1ペテロ

5:10 あらゆる恵みに満ちた神、すなわち、あなたがたをキリストにあってその永遠の栄光の中に招き入れてくださった神ご自身が、あなたがたをしばらくの苦しみのあとで完全にし、堅く立たせ、強くし、不動の者としてくださいます。


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