重田定義兄
2014年2月11日、吉祥寺学び会
重田定義
詩篇
16:2 「あなたこそ、私の主。私の幸いは、あなたのほかにはありません。」
私たち人間が、普通幸せと感じる時は、いったいどういう時でありましょうか。
この世的に価値があるもの、例えば財産とか地位とか権力とか、あるいは健康、長寿、それらのものがあれば備わっていれば人は幸せに感じるのでありましょうか。けれども、いくら財産があっても、いくら地位が高くても、いくら健康であっても、いくら長寿であっても、その人が幸せに感じているかといえば、決してそうでないという実例を私たちはたくさん見ております。
一方、集会の兄弟姉妹が、証しの中で、異口同音に言っておられる事があります。それは、自分が導かれて集会に初めて来た時、一番強く感じたのは、皆さんの明るい美しい笑顔だったと。どうしてこんな笑顔ができるのだろうと驚いたという事であります。
笑顔にもいろいろな笑顔があると思うのですね。私たちが一番、目にするのは、営業用の笑顔であります。では、集会の兄弟姉妹の笑顔は、営業用のものなのでありましょうか。そうではなくて、心から自分が幸せと感じているところから、自然に出てくる笑顔なのであります。
けれども、集会の兄弟姉妹は、皆何の問題もなく、順風満帆の楽しい日々を過ごしておられるかと言えば、むしろその反対に様々な苦しい困難な状況の中に置かれておられる方が多いのではないでしょうか。にもかかわらず、どうして幸せな笑顔ができるのでありましょうか。それは、イエス様を主と信じることによって、初めて得ることのできた本当の幸せから生まれたものだと思います。
改めてイエス様を主と信じた者の幸せとは、いったい何でありましょうか。それは、まず神の子供とされたという幸せではないでしょうか。
ヨハネ伝
1:12 しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった。
1:13 この人々は、血によってではなく、肉の欲求や人の意欲によってでもなく、ただ、神によって生まれたのである。
イエス様を主と信じた者は、その信仰ゆえに、神様の恵みによって神の子供とされ、この世に属する者から神に属する者に変えられます。そうなりますと、価値基準も自ずと、この世の人間の価値基準から神の子供の価値基準へと変えられるのであります。
そして、イエス様を信じる者であることを明らかにすることによって、人々からそしられたり、敬遠されたり、非難されたり、あるいは迫害されたりするような事が起こるとしても、それは不幸な事ではなく、幸いな事と受け止められるようになるのであります。ペテロはその訳を次のように言っております。
第1ペテロ
4:14 もしキリストの名のために非難を受けるなら、あなたがたは幸いです。なぜなら、栄光の御霊、すなわち神の御霊が、あなたがたの上にとどまってくださるからです。
このように説明しております。私たち信者が恐れずに、イエス様を証ししたために、世の人々から非難されても、その時には信じる者の中に宿ってくださっている主の御霊が守ってくださる、支えてくださるという事を私たちは体験できるから、本当に幸せなのではないでしょうか。
引き続いて、主を信じる者の幸せを聖書から見ていきたいと思います。
順不同になりますが、一つは、神様に選ばれているという幸せでありましょう。パウロは、エペソ人への手紙の中で次のように言っております。
エペソ
1:4 すなわち、神は私たちを世界の基の置かれる前からキリストのうちに選び、御前で聖く、傷のない者にしようとされました。
1:5 神は、ただみこころのままに、私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定めておられたのです。
ここで私たちが、ぜひ知っておかなければならない事があります。それは、神様の選びは、私たち人間が立派であるとか、善行したからということに関係なく、もっぱら神様の愛とあわれみに基づく、ご自身の意思によるものであるということであります。パウロは、神様に選ばれた者が、どのような者かということを次のように言っております。
第1コリント
1:26 兄弟たち、あなたがたの召しのことを考えてごらんなさい。この世の知者は多くはなく、権力者も多くはなく、身分の高い者も多くはありません。
1:27 しかし神は、知恵ある者をはずかしめるために、この世の愚かな者を選び、強い者をはずかしめるために、この世の弱い者を選ばれたのです。
1:28 また、この世の取るに足りない者や見下されている者を、神は選ばれました。すなわち、有るものをない者のようにするため、無に等しいものを選ばれたのです。
このように、信じる者の幸せは、愚かな弱い、取るに足りない、無に等しいような私たちを神様は、ただ恵みによって一方的に目を留めてくださり、しかも生まれるはるか前から、御子イエス様によって、神の子供として選んでくださったという、驚くべき幸せなのであります。
次に、主を信じる者の大きな幸せは、神様に義、すなわち正しいと認められているという幸せであります。パウロは、ローマ書の中で次のように言っております。
ローマ
4:5 何の働きもない者が、不敬虔な者を義と認めてくださる方を信じるなら、その信仰が義とみなされるのです。
4:6 ダビデもまた、行ないとは別の道で神によって義と認められる人の幸いを、こう言っています。
4:7 「不法を赦され、罪をおおわれた人たちは、幸いである。
4:8 主が罪を認めない人は幸いである。」
このように言っております。かつて、私たちは、神様を恐れ敬うどころか、その逆を行くような生き方をしていたような者でありました。しかしながら、そのような者が神様に対する背きの罪に気づいて悔い改めをすれば、神様はその信仰を喜んでくださり、ご自分に対する私たちの不義を、御子イエス様にあって赦してくださり、義すなわち正しいと認めてくださるのであります。
義そのものである神様から義と認められるほど、私たち信者にとって幸せな事はありません。
また、信じる者の大きな幸せは、主に愛されているという幸せであります。イザヤ書には次のように記してあります。
イザヤ
43:1 だが、今、ヤコブよ。あなたを造り出した方、主はこう仰せられる。イスラエルよ。あなたを形造った方、主はこう仰せられる。「恐れるな。わたしがあなたを贖ったのだ。わたしはあなたの名を呼んだ。あなたはわたしのもの。
43:2 あなたが水の中を過ぎるときも、わたしはあなたとともにおり、川を渡るときも、あなたは押し流されない。火の中を歩いても、あなたは焼かれず、炎はあなたに燃えつかない。
43:3 わたしが、あなたの神、主、イスラエルの聖なる者、あなたの救い主であるからだ。わたしは、エジプトをあなたの身代金とし、クシュとセバをあなたの代わりとする。
43:4 わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。
このようにあります。「わたしの目には、あなたは高価で尊い。」とまで仰ってくださる神様は、いったいどのように私たちを愛してくださっているのでありましょうか。それは「わたしがあなたを贖ったのだ。」というみことばにあると思います。
第1ヨハネ
4:9 神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちに、いのちを得させてくださいました。ここに、神の愛が私たちに示されたのです。
4:10 私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。
とあります。神様は、私たちに対する愛を、実に、神の一人子であるイエス様の十字架の死によってという形でお示しになったのであります。神様は、神様を愛するどころか、神様に背き、神様から滅ぼされても当然な私たちの罪を、愛する御子イエス様を身代わりにして、十字架にかけて、贖ってくださっただけではなくて、信じる私たちに、イエス様のよみがえりの命をも与えてくださり、永遠に生きることができるようにしてくださったのであります。これほどに神様から愛されている私たちは、何と幸せでありましょうか。
また、信じる者の幸せには、主に戒められるという幸せがあります。詩篇の作者は次のように言っております。
詩篇
94:12 主よ。なんと幸いなことでしょう。あなたに、戒められ、あなたのみおしえを教えられる、その人は。
このように主に戒められる者の幸いを賛美しております。イエス様を信じた者は、主から戒めを受けます。それは、主がご自分の子供として愛してくださっている証拠であります。このことをよく表しているヘブル人への手紙を拝読いたします。
ヘブル人への手紙
12:5 そして、あなたがたに向かって子どもに対するように語られたこの勧めを忘れています。「わが子よ。主の懲らしめを軽んじてはならない。主に責められて弱り果ててはならない。
12:6 主はその愛する者を懲らしめ、受け入れるすべての子に、むちを加えられるからである。」
12:7 訓練と思って耐え忍びなさい。神はあなたがたを子として扱っておられるのです。父が懲らしめることをしない子がいるでしょうか。
12:8 もしあなたがたが、だれでも受ける懲らしめを受けていないとすれば、私生子であって、ほんとうの子ではないのです。
12:9 さらにまた、私たちには肉の父がいて、私たちを懲らしめたのですが、しかも私たちは彼らを敬ったのであれば、なおさらのこと、私たちはすべての霊の父に服従して生きるべきではないでしょうか。
12:10 なぜなら、肉の父親は、短い期間、自分が良いと思うままに私たちを懲らしめるのですが、霊の父は、私たちの益のため、私たちをご自分の聖さにあずからせようとして、懲らしめるのです。
12:11 すべての懲らしめは、そのときは喜ばしいものではなく、かえって悲しく思われるものですが、後になると、これによって訓練された人々に平安な義の実を結ばせます。
このように、主が信じる者を懲らしめる理由を説明しております。確かに、主の鞭は、私たち信者の肉には痛くありますけれども、その懲らしめは、私たちをご自分の聖さにあずからせるため、そして神の子供の霊を成長させるための愛ゆえであることが解かれば、懲らしめをも私たちは幸せと思うことができます。
また、イエス様を主と信じる者の大きな幸せは、主がいつも共にいてくださるという幸せであります。イザヤ書には次のような主の約束が記されております。
イザヤ
41:10 恐れるな。わたしはあなたとともにいる。たじろぐな。わたしがあなたの神だから。わたしはあなたを強め、あなたを助け、わたしの義の右の手で、あなたを守る。
主を信じる者は、罪のために閉ざされていた霊の目が開かれて、その開かれた霊の目で、主がいつも共にいてくださり、何が起こっても動揺することのないように守ってくださり、導いてくださるということを知ることができます。これについて、ダビデは次のように言っております。
詩篇
16:8 私はいつも、私の前に主を置いた。主が私の右におられるので、私はゆるぐことがない。
16:9 それゆえ、私の心は喜び、私のたましいは楽しんでいる。私の身もまた安らかに住まおう。
ダビデのように、私たちが主がいつも共に居てくださることを確信し、主に拠り頼んでさえいれば、どんなに自分の身の回りに嵐が吹き荒れても、心はいつも平安であり、喜びに満たされるのであります。これもまた、主を信じる者の大きな幸せであります。
また、信じる者の幸いは、キリストのからだの一部として生かされているという幸せであります。
第1コリント
12:27 あなたがたはキリストのからだであって、ひとりひとりは各器官なのです。
キリストのからだというのは、イエス様を頭として有機的に結びついて、一つのからだを形成している信者の群れ、教会のことであります。主は、信じた者をご自分のからだの一部として用いようとなさいます。自分には、何の能力もないからと、しり込みをするそのような信者をも、主はからだの一部として用いてくださるのであります。
第1コリント12章18節から27節までお読みしたいと思います。これは、今申し上げたその理由ですね。私たち信者が、キリストのからだの一部として用いられている理由を、詳しく説明しております。
第1コリント
12:18 しかしこのとおり、神はみこころに従って、からだの中にそれぞれの器官を備えてくださったのです。
12:19 もし、全部がただ一つの器官であったら、からだはいったいどこにあるのでしょう。
12:20 しかしこういうわけで、器官は多くありますが、からだは一つなのです。
12:21 そこで、目が手に向かって、「私はあなたを必要としない。」と言うことはできないし、頭が足に向かって、「私はあなたを必要としない。」と言うこともできません。
12:22 それどころか、からだの中で比較的に弱いと見られる器官が、かえってなくてはならないものなのです。
12:23 また、私たちは、からだの中で比較的に尊くないとみなす器官を、ことさらに尊びます。こうして、私たちの見ばえのしない器官は、ことさらに良いかっこうになりますが、
12:24 かっこうの良い器官にはその必要がありません。しかし神は、劣ったところをことさらに尊んで、からだをこのように調和させてくださったのです。
12:25 それは、からだの中に分裂がなく、各部分が互いにいたわり合うためです。
12:26 もし一つの部分が苦しめば、すべての部分がともに苦しみ、もし一つの部分が尊ばれれば、すべての部分がともに喜ぶのです。
12:27 あなたがたはキリストのからだであって、ひとりひとりは各器官なのです。
こうして、力ある信者も弱い信者も皆、イエス様を頭として御霊によって、一つとされて主のみからだなる生ける教会の部分部分として用いられ、組み合わされ、そして互いに祈り合い、支え合い、助け合い、励まし合い、愛し合う、そういう事ができるのは、信者だけが味わうことのできる幸せではないでしょうか。
最後になりますが、主を信じる者の大きな幸せは、御再臨を信じて、その日を待ち望む幸せであります。ヨハネ黙示録の22章12節から14節で、イエス様は次のように仰いました。
黙示録
22:12 「見よ。わたしはすぐに来る。わたしはそれぞれのしわざに応じて報いるために、わたしの報いを携えて来る。
22:13 わたしはアルファであり、オメガである。最初であり、最後である。初めであり、終わりである。」
22:14 自分の着物を洗って、いのちの木の実を食べる権利を与えられ、門を通って都にはいれるようになる者は、幸いである。
このように仰いました。イエス様の御再臨は、イエス様の救いを拒み続ける者にとっては、恐ろしい裁きの時ですけれども、十字架の上で流されたイエス様の尊い血によって、罪を洗い清められた信者にとっては、イエス様が信者を天の御国にたづさえ上げてくださるために、空中まで迎えに来てくださるという、大きな喜びの時であります。そのことについて、第1ヨハネ3章2節には次のようにあります。
第1ヨハネ
3:2 愛する者たち。私たちは、今すでに神の子どもです。後の状態はまだ明らかにされていません。しかし、キリストが現われたなら、私たちはキリストに似た者となることがわかっています。なぜならそのとき、私たちはキリストのありのままの姿を見るからです。
このようにあります。この地上にある間は、私たち信者は、血肉のからだをまだ着ておりますけれども、御再臨の時、イエス様が迎えにお出でになった時は、私たちは清い朽ちないイエス様のからだに似たからだに変えられて、空中でイエス様に直接お会いすることができ、それからは、永遠に天の御国でイエス様とお交わりをすることが出来ます。こんな幸せは他にあるでしょうか。
これまでご一緒に考えてまいりましたように、まことの幸せとは、目に見える空しい幸せではなくて、目には見えなくても、主から恵みとして与えられる幸せなのであります。そして、その幸せは、すべて私たちの主イエス様ご自身から発している事を、改めて覚え、ご一緒に最初に読んでいただいた詩篇16篇2節のみことばを、もう一度お読みして、心から主に感謝して終わりたいと思います。
詩篇
16:2 「あなたこそ、私の主。私の幸いは、あなたのほかにはありません。」