重田定義兄
2014年1月28日、吉祥寺学び会
重田定義
イザヤ
6:1 ウジヤ王が死んだ年に、私は、高くあげられた王座に座しておられる主を見た。そのすそは神殿に満ち、
6:2 セラフィムがその上に立っていた。彼らはそれぞれ六つの翼があり、おのおのその二つで顔をおおい、二つで両足をおおい、二つで飛んでおり、
6:3 互いに呼びかわして言っていた。「聖なる、聖なる、聖なる、万軍の主。その栄光は全地に満つ。」
6:4 その叫ぶ者の声のために、敷居の基はゆるぎ、宮は煙で満たされた。
6:5 そこで、私は言った。「ああ。私は、もうだめだ。私はくちびるの汚れた者で、くちびるの汚れた民の間に住んでいる。しかも万軍の主である王を、この目で見たのだから。」
6:6 すると、私のもとに、セラフィムのひとりが飛んで来たが、その手には、祭壇の上から火ばさみで取った燃えさかる炭があった。
6:7 彼は、私の口に触れて言った。「見よ。これがあなたのくちびるに触れたので、あなたの不義は取り去られ、あなたの罪も贖われた。」
おはようございます。ご一緒にしばらく、聖書から学んでいきたいと思います。イザヤという預言者、大預言者と言われておりますが、紀元前8世紀にイスラエルに生きていた預言者であります。今、読んでいただいたみことばで、イザヤが言っておりますように、彼は神様を自分の目で見てしまいました。
その時に、彼がまず思ったことは、自分のような唇の汚れた者が、神様を見てしまった。だから、もう自分は死ぬのだというふうに思いました。神様を見た者は死ぬということは、ずっと昔に神様がモーセに仰せになっておられます。
出エジプト記
33:20 また仰せられた。「あなたはわたしの顔を見ることはできない。人はわたしを見て、なお生きていることはできないからである。」
このように神様はモーセに仰っておられるのですね。ですからイスラエルの民は、神様を見ることをたいそう恐れておりました。人間が神様を見たら、生きていることはできません。なぜならば、私たち人間は誰一人、神様の前に正しくなく、聖くない者だからであります。正しくなく、聖くない者が完全に正しく、完全に聖い神様をこの目で見ることを、神様はお赦しにならないのであります。
イザヤは、唇が汚れていると言いました。唇が汚れているとは、いったいどういうことでありましょうか。それは、唇から出る言葉が汚れているからであり、言葉が汚れているというのは、その言葉が汚れた心から出てくるからであります。すなわち、心が汚れていれば、その汚れた心を表す言葉によって、唇も舌も口も汚れるのであります。イエス様は、これについて次のように仰っておられます。
マタイ伝
15:18 しかし、口から出るものは、心から出て来ます。それは人を汚します。
15:19 悪い考え、殺人、姦淫、不品行、盗み、偽証、ののしりは心から出て来るからです。
この心の汚れというのは、これは神様に対する罪の結果として生じたものであります。そして、私たち人間はすべて神様の仰せに背いて、エデンの園から追放された最初の人間であるアダムの子孫として、アダムの遺伝子を受け継いでおります。したがって、いやおう無く私たちは、アダムの罪の性質を持って生まれ出てきましたために、たとえ表面は取り繕っていても、生まれつきの口、そして生まれつきの心は、悲しいことに汚れた言葉しか出すことが出来なくなってしまったのであります。
このように、神様に従わないで、自分を主張し、自我によって生きる者となってしまった人間の唇から出る言葉が、どのようなものであるか聖書には、いろいろ書いてありますけれども、その一つとして詩篇17篇10節に「彼らは、鈍い心を(神様に対して)堅く閉ざし、その口をもって高慢に語ります。」と、生まれつきの私たちの唇は、高慢に語る。それから詩篇12篇2節から4節、ここにもつぎのように書いてあります。
詩篇
12:2 人は互いにうそを話し、へつらいのくちびると、二心で話します。
12:3 主が、へつらいのくちびると傲慢の舌とを、ことごとく断ち切ってくださいますように。
12:4 彼らはこう言うのです。「われらはこの舌で勝つことができる。われらのくちびるはわれらのものだ。だれが、われらの支配者なのか。」
詩篇
10:7 彼の口は、のろいと欺きとしいたげに満ち、彼の舌の裏には害毒と悪意がある。
それぞれたいへん厳しいなと思われるみことばですけれども、私たちが素直に、自分の心を顧みた時に、自分の唇から出る言葉は、聖書で言われているとおり、呪いとかへつらいとか、欺きとか、あるいは悪意、高慢によって汚されたものがいかに多いかということを認めざるを得ないのではないでしょうか。そのような言葉が、私たちの唇から出て来るわけは、先ほども申しましたように、私たちがそのような言葉を出してしまう、生まれつきの心が汚れた人間だからなのでであります。
どんなに自分は、清い善良な人間であると思っているそのような人でも、自分の心の中をよく見つめた時に、そこに一点の汚れもないと言える人はないはずであります。改めて私たち人間の舌や口や唇には、いったいどんな働きがあるのでしょうか。まず肉的に言えば、これはご存知のように私たちは、食べ物を食べるためにそれらを使います。あるいは言葉を話す時にこれらを使います。けれども、神様はこれらの器官を肉的な目的以上に大切な事のためにお用いになろうとして、私たちをお造りになったのであります。
それは、ご自分と交わるためのものであります。神様と交わるために使うことが、私たち人間の口や舌や唇の霊的な本来の正しい働きなのであります。ところが創世記に記されておりますように、アダムとエバはサタンに誘惑されて、神様からエデンの園の中で「この木の実だけは、食べてはいけない。」と言われた禁断の木の実を仰せに背いて食べてしまって、その時から人間の心に罪が入った結果、神様と交わるべき口や舌や唇を、自分の欲を満たすために、自分の考えを主張するために、あるいは人と争ったり、人を裁いたりするために使うようになってしまったのであります。
こうして、私たちの口や舌や唇は、そのような肉的な目的に用いる、汚れた言葉を出すようになってしまいました。しかも、私たち人間は、イエス様の光に照らされるまでは、それを特に悪いともおかしいとも思いません。いったいどうしてでしょうか。それは、私たちに霊の目が、神様への背きの罪のために閉ざされてしまっているからであります。
こういうわけで、肉の目は見えても、霊的に盲目である私たち人間は、自分が罪に汚れていることが見えません。ですから、汚れた人間の口から汚れた言葉が出てくるのは、これは当然でありましょう。しかしながら、このような霊的に盲目の私たちも、神様の光に照らされますと、自分の唇が汚れていることに、言い換えますと、自分の罪に気づいて神様を恐れるようになります。
最初に読んでいただいたみことばにあるイザヤは、まさにこの体験をいたしました。では、イザヤが恐れたように、神様はイザヤを滅ぼされたでありましょうか。そうではありませんでした。読んでいただいたみことばを見ますと、セラフィムすなわち天使が、火を彼の唇にあてたとあります。この火は、汚れを焼き聖めるものであり、この火は、神様の御手の力であるところの御霊の聖霊の火であります。
私たち人間は、自分の罪を自分で聖めることは決して出来ません。人間の側からは、どうする事も出来ないこの汚れと背きの罪は、神様の側からの一方的なあわれみと恵みによって、神様の御手によってのみ聖められるのであります。イザヤは、神様の御手によって、罪が聖められ同時に、唇も聖められました。
では、なぜ神様はイザヤの唇を聖められたのでありましょうか。イザヤの唇を聖められた神様のご目的、お考えはいったい何なのでありましょうか。それは、最初に読んでいただいたみことばに続く、イザヤ書6章8節に記されている、神様とイザヤの問答によって知ることができます。
イザヤ
6:8 私は、「だれを遣わそう。だれが、われわれのために行くだろう。」と言っておられる主の声を聞いたので、言った。「ここに、私がおります。私を遣わしてください。」
神様がイザヤの唇を聖められたのは、罪から人間を救うために、神の御子をこの世に遣わすというメッセージを、イスラエルの民、ひいては世界のすべての人間に告げるのにふさわしい唇とするためでありました。
そこで神様は、イザヤに「わたしは、だれを遣わそう。だれが、われわれのために行くだろう。」と仰せになったのであります。言うまでもなく我々とは、主なる神様と御子イエス様をさしておられます。
イザヤは、聖められた唇によって、さっそく神様に「私を遣わしてください。」と答え、それからの彼の唇は、神様のメッセージを正しく伝えることに使われるようになりました。こうして、イザヤの聖められた唇は、神様に対する私たち人間の背きの罪を身代わりに負って、神様から罰を受けてくださるために、人となってこの世に来てくださったイエス様について、神様に命じられるままに預言をしたのであります。
イザヤ
9:6 ひとりのみどりごが、私たちのために生まれる。ひとりの男の子が、私たちに与えられる。主権はその肩にあり、その名は「不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君」と呼ばれる。
9:7 その主権は増し加わり、その平和は限りなく、ダビデの王座に着いて、その王国を治め、さばきと正義によってこれを堅く立て、これをささえる。今より、とこしえまで。万軍の主の熱心がこれを成し遂げる。
イザヤ
53:1 私たちの聞いたことを、だれが信じたか。主の御腕は、だれに現われたのか。
53:2 彼は主の前に若枝のように芽生え、砂漠の地から出る根のように育った。彼には、私たちが見とれるような姿もなく、輝きもなく、私たちが慕うような見ばえもない。
53:3 彼はさげすまれ、人々からのけ者にされ、悲しみの人で病を知っていた。人が顔をそむけるほどさげすまれ、私たちも彼を尊ばなかった。
53:4 まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みをになった。だが、私たちは思った。彼は罰せられ、神に打たれ、苦しめられたのだと。
53:5 しかし、彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。
53:6 私たちはみな、羊のようにさまよい、おのおの、自分かってな道に向かって行った。しかし、主は、私たちのすべての咎を彼に負わせた。
神様が、イザヤの聖められた唇を用いて、このように約束してくださった通り、神の御子のイエス様は、2000年前にこの世に人としておいでくださり、十字架と復活による救いの御業を成就してくださったのであります。
幸いなことに、私たちキリスト者も、イザヤと同じように一方的な神様のあわれみによって、救いの対象として選ばれ、イエス様を信じる者とさせていただきました。
では、イエス様の十字架の贖いの御業を信じることによって、罪が聖められた私たちの唇から出る言葉は、それまでとはどのように違う言葉が出せるようになったのでありましょうか。
一つは、私たちの聖められた唇は、イエス様を救い主と告白する言葉を出すことができるようになったのであります。
ローマ
10:9 なぜなら、もしあなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせてくださったと信じるなら、あなたは救われるからです。
10:10 人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われるのです。
このみことばの通り、聖霊によって聖められた私たちの唇が、イエス様を救い主として信じて、それを唇から告白することができるようになりました。
2番目に、私たちの聖められた唇から、神様、イエス様を賛美する言葉が出るようになりました。
ヘブル
13:15 ですから、私たちはキリストを通して、賛美のいけにえ、すなわち御名をたたえるくちびるの果実を、神に絶えずささげようではありませんか。
私たちの聖められた唇は、イエス様が自分のためにしてくださった十字架の贖いの御業を初めとする数々の身に余る恵みをいただいて、感謝と賛美を捧げる言葉を出すことができるようになりました。
3番目、私たちの聖められた唇は、神様やイエス様に祈る言葉を出すことができるようになりました。
詩篇
17:1 主よ。聞いてください、正しい訴えを。耳に留めてください、私の叫びを。耳に入れてください、欺きのくちびるからでない私の祈りを。
このように私たちは、神様やイエス様に向かって、自分の心の内にある思い、悩み、苦しみ、悲しみを隠すことなく、素直に唇から出して、主に祈ることができるようになりました。
4番目、私たちの聖められた唇は、聖書のみことばを口ずさむようになりました。
詩篇
1:1 幸いなことよ。悪者のはかりごとに歩まず、罪人の道に立たず、あざける者の座に着かなかった、その人。
1:2 まことに、その人は主のおしえを喜びとし、昼も夜もそのおしえを口ずさむ。
5番目に、私たちの聖められた唇は、イエス様の救いの良き知らせ、すなわち福音を証しする言葉を出すことができるようになりました。
詩篇
40:9 私は大きな会衆の中で、義の良い知らせを告げました。ご覧ください。私は私のくちびるを押えません。主よ。あなたはご存じです。
神様は、イザヤだけではなくて、神の御手すなわちイエス様ご自身のいのちによって、罪が聖められ、神様との交わりが回復され、唇が聖められたすべての者に対して、その唇をもって神の救いのメッセージ、福音のメッセージを語り伝えるようにと望んでおられます。
イザヤは「ここに、私がおります。私を遣わしてください。」と神様に答えました。しかし、自分にはとても出来ない、自分にはそのような知識も力もないと、しり込みをなさる信者も少なくないでしょう。
実はモーセもそうでした。彼は、神様から「わたしのことばを、イスラエルの民に伝えよ。」と言われた時に、彼はどう言ったか。「私は、舌が重く、言葉の人ではないから。」としり込みをしました。しかし、神様は次のように仰せになられました。
出エジプト記
4:11 主は彼に仰せられた。「だれが人に口をつけたのか。だれがおしにしたり、耳しいにしたり、あるいは、目をあけたり、盲目にしたりするのか。それはこのわたし、主ではないか。
4:12 さあ行け。わたしがあなたの口とともにあって、あなたの言うべきことを教えよう。」
このように神様は聖められ、開かれたモーセの口に、語るべき言葉を教えてくださったのであります。預言者エレミヤの場合も、そうでありました。
エレミヤ
1:4 次のような主のことばが私にあった。
1:5 「わたしは、あなたを胎内に形造る前から、あなたを知り、あなたが腹から出る前から、あなたを聖別し、あなたを国々への預言者と定めていた。」
1:6 そこで、私は言った。「ああ、神、主よ。ご覧のとおり、私はまだ若くて、どう語っていいかわかりません。」
1:7 すると、主は私に仰せられた。「まだ若い、と言うな。わたしがあなたを遣わすどんな所へでも行き、わたしがあなたに命じるすべての事を語れ。
1:8 彼らの顔を恐れるな。わたしはあなたとともにいて、あなたを救い出すからだ。――主の御告げ。――」
1:9 そのとき、主は御手を伸ばして、私の口に触れ、主は私に仰せられた。「今、わたしのことばをあなたの口に授けた。
ここでも、神様はエレミヤの口に御手を触れて、口を聖められ、神様のメッセージを語れるようにしてくださったのであります。このように、神様は、年齢やあるいは舌の滑らかさや、聖書の知識の有無や、資格や信仰暦の長さなどに関係なく、聖めてくださった者の口を、神様のメッセージを伝えるためにお用いになるのであります。
しかしながら、イエス様によって聖められた私たちキリスト者は、いつも自分の唇から出る言葉に注意していなければなりません。その訳は、私たちの唇から出る言葉が、私たちの霊的状態の良し悪しを表すサインとなるからであります。霊がイエス様と結びついていれば、私たちの唇からは聖い言葉が出てきますけれども、イエス様から少しでも離れると、たちまち汚れた言葉が出るようになります。
それは、私自身の経験からも痛いほど思い知らされる事であります。確かに私たちは、自分の意思の力で、舌や唇を制御することはできません。けれども失望することはないのであります。私たちが、内に住んでくださる御霊に自分自身をお委ねして、御霊により頼んでさえいれば、御霊の力で私たちの唇を制御してくださるのであります。
せっかくイエス様によって聖められた私たち信者の唇が、神様を悲しませるような言葉を出して汚されないために、意識して私たちは、イエス様から離れることがないように、いつも霊の目をイエス様に向け続けて、間近に迫ったイエス様のご再臨の日を、待ち望みながら御霊のお導きに従って、日々聖められた唇をもって、主を証しする信仰の歩みを続けたいと切に思います。最後にみことばをお読みして終わりたいと思います。
詩篇
141:3 主よ。私の口に見張りを置き、私のくちびるの戸を守ってください。