重田定義兄

キリストの花嫁に求められること

2011年11月29日、吉祥寺学び会

重田定義


第2コリント

11:2 というのも、私は神の熱心をもって、熱心にあなたがたのことを思っているからです。私はあなたがたを、清純な処女として、ひとりの人の花嫁に定め、キリストにささげることにしたからです。

11:3 しかし、蛇が悪巧みによってエバを欺いたように、万一にもあなたがたの思いが汚されて、キリストに対する真実と貞潔を失うことがあってはと、私は心配しています。


おはようございます。


今日は、はからずも、頭の髪の毛の数がだいたい同じくらい程度の兄弟3人によって、学びをさせていただく事は大変不思議なことでございます。今、水渡兄に読んでいただきましたこの聖書の箇所は、パウロがコリントの教会の信者に宛てた手紙の中の一節であります。これは、キリストと教会の関係を指しているのと同時に、キリストのみからだなる教会を構成しているひとりひとりの信者と主イエス様との関係を思って、彼が言っているわけであります。


パウロはエペソ人への手紙の5章22節から27節、29節から32節でも、これと同様のことをさらに詳しく解き明かしております。


エペソ

5:22 妻たちよ。あなたがたは、主に従うように、自分の夫に従いなさい。

5:23 なぜなら、キリストは教会のかしらであって、ご自身がそのからだの救い主であられるように、夫は妻のかしらであるからです。

5:24 教会がキリストに従うように、妻も、すべてのことにおいて、夫に従うべきです。

5:25 夫たちよ。キリストが教会を愛し、教会のためにご自身をささげられたように、あなたがたも、自分の妻を愛しなさい。

5:26 キリストがそうされたのは、みことばにより、水の洗いをもって、教会をきよめて聖なるものとするためであり、

5:27 ご自身で、しみや、しわや、そのようなものの何一つない、聖く傷のないものとなった栄光の教会を、ご自分の前に立たせるためです。


5:29 だれも自分の身を憎んだ者はいません。かえって、これを養い育てます。それはキリストが教会をそうされたのと同じです。

5:30 私たちはキリストのからだの部分だからです。

5:31 「それゆえ、人はその父と母を離れ、妻と結ばれ、ふたりは一心同体となる。」

5:32 この奥義は偉大です。私は、キリストと教会とをさして言っているのです。


このようにですね聖書では、教会と信者との関係を、花婿がキリストであり、花嫁が信者という関係に、あるいはキリストが夫であり、信者が妻であるという夫婦にたとえられております。人と人との交わりの中で、最も親密なものは夫婦でありましょう。したがって、信者がキリストの花嫁にたとえられているということは、信者が主イエス様との最も親しい、人格的な交わりの対象として選ばれているということであります。


しかしながら、私たち信者は、いったいそれにふさわしい者でありましょうか。そうではなくて、私たちは長い間、偶像に、また自分の欲に仕えていたような、霊的に汚れ果てて死んだ者であったと告白せざるを得ません。


エペソ

2:1 あなたがたは自分の罪過と罪との中に死んでいた者であって、

2:2 そのころは、それらの罪の中にあってこの世の流れに従い、空中の権威を持つ支配者として今も不従順の子らの中に働いている霊に従って、歩んでいました。

2:3 私たちもみな、かつては不従順の子らの中にあって、自分の肉の欲の中に生き、肉と心の望むままを行ない、ほかの人たちと同じように、生まれながら御怒りを受けるべき子らでした。


とある通りであります。しかし、そのような私たちを主は花嫁として、救いの対象に選んでくださり、愛とあわれみをいただき、霊の目が開かれ、神様に対する不従順の罪が示されて、神様の前に心から悔い改めることができました。


その結果、私たちは、十字架の上で流されたイエス様の聖い血潮によって、汚れた罪が洗い清められ、イエス様のよみがえりの命も与えられて、イエス様と共に霊的に新しく生きる者とされるという、考えられないような恵みをいただいたのであります。


エペソ

2:4 しかし、あわれみ豊かな神は、私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに、

2:5 罪過の中に死んでいたこの私たちをキリストとともに生かし、――あなたがたが救われたのは、ただ恵みによるのです。――

2:6 キリスト・イエスにおいて、ともによみがえらせ、ともに天の所にすわらせてくださいました。


このようにイエス様は、ご自分の命を捨ててまで私たちを愛してくださって、罪の中に死んでいた私たちをご自分の命によって、霊的に新しく生まれ変わらせて、最も親しい交わりの関係を結んでくださったのであります。


そして、その私たちに、イザヤ書54章10節にありますように、「たとい山々が移り、丘が動いても、わたしの変わらぬ愛はあなたから移らず、わたしの平和の契約は動かない。」というように、どんな事があっても、わたしの愛は変わらないとイエス様は、約束してくださっておられるのです。


ではイエス様のこのような大きな深いご愛によって、花嫁とされ妻とされた私たち信者は、はたしてイエス様の良き妻、良き花嫁でありましょうか。自分の信仰を吟味した時に、誰ひとりとして「はい」と答えることはできないのではないでしょうか。


私たちは、相変わらず弱い者であります。悪の誘惑には、心では夫であるイエス様に従いたいと思ってはいても、つい弱さに負けて誘惑に負けて、罪を犯してしまうことを認めざるを得ないのではないでしょうか。


ローマ

7:18 私は、私のうち、すなわち、私の肉のうちに善が(この善というのは神様の御心に従うこと)住んでいないのを知っています。私には善をしたいという願いがいつもあるのに、それを実行することがないからです。

7:19 私は、自分でしたいと思う善を行なわないで、かえって、したくない悪(神様の御心に従わないこと)を行なっています。


7:21 そういうわけで、私は、善をしたいと願っているのですが、その私に悪が宿っているという原理を見いだすのです。

7:22 すなわち、私は、内なる人としては、神の律法を喜んでいるのに、

7:23 私のからだの中には異なった律法(自我と言ってもいいと思います)があって、それが私の心の律法に対して戦いをいどみ、私を、からだの中にある罪の律法のとりこにしているのを見いだすのです。

7:24 私は、ほんとうにみじめな人間です。だれがこの死の、からだから、私を救い出してくれるのでしょうか。


このようにパウロは嘆いておりますけれども、これは私たち信者の嘆きでもあります。けれども、私たちの霊が死んでいた時は、このようなことで、苦しみ悩むことすらなかったということも言えると思うのですね。その時は、私たちは何が悪かということも解からなかった。


従いまして、悪をしたくないという思いすら、当時は浮かんでこなかったのではないでしょうか。しかしながら、十字架の上で流された血によって清められ、生まれ変わった私たちの霊は、何が善か何が悪かを見分けることができるようになりました。そして、悪に誘惑されたと気づいた時にも、夫であるイエス様に助けを求めれば、すぐに助け出してくださるという確信を与えられて、そのように導いてくださるイエス様に心から感謝することができるようになったのではないでしょうか。


先ほど、「私は、ほんとうにみじめな人間です。だれがこの死のからだから、私を救い出してくれるのでしょうか。」と嘆いたパウロがすぐそれに続いて、「私たちの主イエス・キリストのゆえに、ただ神に感謝します。」と感謝しているとおりではないかと思います。


夫であるイエス様は、妻である信者が、弱く愚かであることを、ただお責めにはなりません。それはこの世に置かれている間、私たち信者がなお不完全な弱い肉の体を持っていることを、主はよくご存知だからであります。


しかし、夫である主が、妻である私たち信者に求めておられる事があります。それはご自分に対する真実さ、誠実さ、真実な心であります。詩篇51編6節に「ああ、あなたは心のうちの真実を喜ばれます。」とあるとおりであります。イエス様は、真実そのもののお方であります。


テモテ第2の手紙

2:13 私たちは真実でなくても、彼は(・・・・主イエス様・・・・)常に真実である。彼にはご自身を否むことができないからである。


第2コリント

1:19 あなたがたに宣べ伝えた神の子キリスト・イエスは、「しかり。」と同時に「否。」であるような方ではありません。この方には「しかり。」だけがあるのです。


常に変わらない真実なお方、それがイエス様であります。そのイエス様に対して、妻である信者は、不誠実であってはなりません。不真実であってはなりません。裏表があってはなりません。偽善があってはなりません。うわべだけの善行、口先だけの祈りをするような者であってはならないと思います。イエス様は、私たち信者に次のように仰っておられます。


マタイ

6:1 人に見せるために人前で善行をしないように気をつけなさい。そうでないと、天におられるあなたがたの父から、報いが受けられません。

6:2 だから、施しをするときには、人にほめられたくて会堂や通りで施しをする偽善者たちのように、自分の前でラッパを吹いてはいけません。まことに、あなたがたに告げます。彼らはすでに自分の報いを受け取っているのです。


6:5 また、祈るときには、偽善者たちのようであってはいけません。彼らは、人に見られたくて会堂や通りの四つ角に立って祈るのが好きだからです。まことに、あなたがたに告げます。彼らはすでに自分の報いを受け取っているのです。

6:6 あなたは、祈るときには自分の奥まった部屋にはいりなさい。そして、戸をしめて、隠れた所におられるあなたの父に祈りなさい。そうすれば、隠れた所で見ておられるあなたの父が、あなたに報いてくださいます。


またイエス様は次のようにも仰っております。


マタイ

6:24 だれも、ふたりの主人に仕えることはできません。一方を憎んで他方を愛したり、一方を重んじて他方を軽んじたりするからです。あなたがたは、神にも仕え、また富にも仕えるということはできません。


夫であるイエス様は、妻である私たち信者にこのように仰っているにもかかわらず、裏表を使い分けしても、イエス様とこの世という二人の夫に仕えても、心に何の痛みをも感じないとすれば、それは夫イエス様に対して、真実な心を失っている証拠であり、夫イエス様に対して、貞潔を失っている証拠であります。


イエス様は、そのような不真実な妻、貞潔を失った妻である信者に対して、「人の子よ。いつまでわたしの栄光を辱め、空しいものを愛し、まやかし物を慕い求めるのか」と嘆かれるのであります。これは詩篇4編2節にあります。


ずいぶん前になりますけれども、東海大学病院に入院しておられた、一人の老齢の兄弟をお見舞いしたことがあります。この兄弟はすでに天に召されましたけれども、その兄弟が次のようなことを私に話してくださいました。


「自分は若い頃から、父に福音を伝えられていたにもかかわらず、イエス様に対してずっと偽善者であった。主に仕えるふりをして、この世のものを追い求め続けていた。自分は本当に偽善者であった。」とこのように告白をされました。


そして続けて「これから自分がしたい事はただ一つ、主の前に幼子のようになりたいということだけだ。」ということを仰いました。私はこの時、この兄弟の姿にルカの福音書18章13節にしるされている取税人が胸をたたいて、「神様こんな罪人の私をあわれんでください。」と天を見上げようともしないで、胸をたたいて祈った姿を、そしてまた、同じくルカの福音書15章18節にしるされている、放蕩息子が「お父さん、私は天に対し罪を犯し、またあなたの前に罪を犯しました。もう私はあなたの子と呼ばれる資格はありません。」と言った姿を重ね合わせたことを思いだしました。この兄弟の姿こそ、イエス様の花嫁にふさわしく、整えられた姿ではないでしょうか。


ホセア

14:1 イスラエルよ。あなたの神、主に立ち返れ。あなたの不義がつまずきのもとであったからだ。

14:2 あなたがたはことばを用意して、主に立ち返り、そして言え。「すべての不義を赦して、良いものを受け入れてください。私たちはくちびるの果実をささげます。

14:3 アッシリヤは私たちを救えません。私たちはもう、馬にも乗らず、自分たちの手で造った物に『私たちの神』とは言いません。みなしごが愛されるのはあなたによってだけです。」


この兄弟は、病気を通して心が砕かれ、悔い改めて、夫イエス様に立ち返ることができ、イエス様に対する、誠実さ、真実な心を回復することができたのだと思います。主は、真実をもって私たち信者を愛してくださいます。


そして主は、私たち信者にも真実な心でご自分を愛することを求めておられます。私たち信者は、自我の思いが砕かれ、御霊によって強められ、清められて、その主イエス様に「はい。私はあなたを心から愛しています。」といつも答えられるような真実と貞潔をもって、夫であるイエス様にお従いできる花嫁、良き妻にしていただけるように、心から祈るしだいであります。


また世の終わりの真近い今の時にあって、主のみからだなる教会を構成する兄弟姉妹、おひとりおひとりがサタンの悪だくみに惑わされることなく、御霊に満たされ清められることによって、私たちの集会が、キリストの花嫁にふさわしく整えられて、まもなくおいでになる花婿イエス様を喜んでお迎えし、天に上げていただくことができるように、そして清く傷のないものとなった集会によって、主のご栄光が輝かされるように、ご一緒にこれからも祈っていきたいと切に思うしだいであります。どうもありがとうございました。


おわり


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