高齢者の幸せのために(2008年)

高齢者の幸せのために

目次

一、長生きは幸せか

二、人の愛と神の愛

三、ケアとキュア

四、生活の質といのちの質

五、霊の痛みとその癒し

六、尊厳死とリビング・ウィル

七、死は終わりではない

私事で恐縮ですが、私は今月で八十一才七ヶ月になりました。


この私が「高齢者の幸せのために」という題でお話しができるのは、高齢者にとって何が最も大切な幸せであるかを、高齢者である私自身がよく知っているからだと思っています。そういうわけで、これから私自身の学んだこと、体験したことを含めてお話ししたいと思います。


長寿という言葉があるように、かつては長生きをすること自体が幸せであるとされ、七十歳ともなれば家族一同が古希の祝いをするというのが日本の昔からの習慣でした。古希とは古来稀ということで、中国の有名な詩人杜甫が「人生七十古来稀」と詠んだ詩から取ったものです。しかし、高齢者の人口が著しく増加した今日では、七十歳まで生きる人は稀どころかどこにでも見られるようになりました。


一、長生きは幸せか


では、このような高齢者時代に生きる老人が、みなさん長生きしていることを喜び、幸せかといえば、悲しいことにそうとは言えないのが実情です。


少し前になりますが、朝日新聞に「いのち長き時代に」という特集が連載されました。この特集が主張しているのは、長生きするということが、いかにたいへんかということです。その記事の中から二つの例を紹介します。


その一。妻に連れられて七十六歳の老人が相談室にやってきた。来た時この老人のぼけの症状は中程度に進んでいた。医者の前に二人は並んで座った。妻は嘆いた。「ぼけたから、デイ・ケアに行ってくれたらいいのに、言うことを聞いてくれんのです。」医者がとりなした。「だれでも、ぼけることはあるんですよ。偉い人でも長生きすれば、ぼけるしね。」そして続けた。「奥さんだって、ぼけるかもしれませんよ。」無表情だった老人がその医者の言葉に反応した。「そしたら、ざまみろと言ってやりますわ。」意外な言葉に妻は驚いた。しかし医者はその一言の意味を理解した。医者は妻を差し置いて老人と話し始めた。「物忘れについて奥さんから何か言われることはありませんか。」「ある。」「叱られている感じですね。」「そうだ。」「ぼけたこと周りに知られたくないですよね。」「ああ。」呼び水に誘われるように、老人は心のうちを語り始めた。「物忘れして情けないことですわ。今までのように話せんようになって、仲間うちに出ると辛いもんで、外にも出なくなりました。」夫の言葉を妻は目を見張るように聞いた。ひどい言葉を浴びせてきたわけではない。でも、ささいな言動が夫に悔しい思いをさせていたのだ。そんなことは考えもしなかった。妻はポツリと医者に言った。「もう何もわからないと思っていました。」この例は認知症の人でも自分を理解してくれる人には心を開くということを私たちに教えてくれます。


その二。若いころから「おしゃれの清二さん」と呼ばれていた老人は、八十を過ぎても一人暮らしを続け、みんなに感心された。ほかの老人とは違うという自負があった。だが、老いは容赦なくやってくる。八十九歳のある日、自宅から行きつけの喫茶店まで、いつものように自転車を走らせた。気がついたときは路上に転んでいた。足をついたのに、片足で体重を支えられなかった。通行人に助け起されたとき、清二さんは「自転車はもう無理や」と思った。この年で自転車に乗れることは自慢だった。その自慢の足をあきらめなくてはならない。昨日までできていたことが今日からできなくなる。これが老いなのかと寂しくなって、だれもいない家で泣いた。足腰はすっかり弱っていた。長女が手押し車を買ってくれた。でも、どうしても使う気にならなかった。目も耳も衰えた。ますます追い詰められ、自分の殻に閉じこもった。思わず口走ったこともある。「生きていても仕方ない、死んでしまいたい。」それでも外では見栄を張って「幸せ」をつくろった。これがその記事の内容です。


昔から人間の最大の願望は不老長寿でした。医学医療はその人間の願望をかなえるために進歩してきたといってよいでしょう。しかし、高齢者のこのような実例を見ると、私たちがこれまで漠然と長生きは幸せと考えていたことは当たっていないと思わざるを得ません。すでに約三千年前に、世界一の知恵者と言われたソロモン王は次のように警告しています。


人は長年生きて、ずっと楽しむがよい。だが、やみの日も数多くあることを忘れてはならない。(伝道者の書 一一・八)


長生きをして楽しもうと思って長生きしても、そこにはやみの日、すなわち、老いて心身が衰え、苦しみ悩む日が多いことを忘れないように、という警告です。もちろん、家族に囲まれて幸せそうに見える老人も少なくないでしょう。しかし、一見幸せそうに見える老人であっても、からだの衰え、頭の衰えを知った心の奥底にある寂しさ、悲しみは身近にいる家族にもなかなか理解できないのは今の例のとおりです。まして、そのような老人の心のうちを理解して慰め、心の悩み、寂しさを取り除いてあげることは最も親しい家族でも難しいのではないでしょうか。


以上のことから、私たちは高齢者医療にしても福祉にしても、また介護にしても、人間のできることは高齢者の外側の部分にしか及ばないことを認めざるを得ません。


では私たちのできることは無いのでしょうか。あります。それは高齢者を心から愛するということです。今お話ししたように、高齢者はだれでも、それが表面に現われても現われなくても、心に孤独感や心身の衰えに対する不安、恐れ、ひいては死に対する恐れや不安を持っています。このような高齢者が幸せと感じるのは、自分が愛されている、受け入れられていると実感するときです。これによって心に安らぎが、喜びが、希望が生じるからです。かつて私自身次のような体験をしました。


二、人の愛と神の愛


私が東海大学に勤めていましたころ、同僚に渡辺泰教授という癌の遺伝を研究していた分子生物学者がいました。しかし、その彼は前立腺癌に罹り、脳に転移して目が見えなくなり、死を待つばかりの状態になってしまったのです。そのようなときに、私は彼に呼ばれて病室に行きました。入ったとき私が見たのは、彼が夫人の手をずっと握って離さない光景でした。彼は死を前にして、目が見えない真っ暗闇の、孤独の恐怖から逃れようとして、ただ夫人の手を握り続けていたのです。彼は私が信仰を持っている人間であることを、かつて私が書いた『私たちの国籍は天にあります』という本を読んで知っていて、藁にもすがる思いで私を呼んだのだと察しました。


私は彼に「先生、あなたももうわかっておられるように、いつかご夫人の手を離さなければならない時が来ます。しかし、たった一人だけ永遠に先生の手を離さず、しっかり捕まえていてくださる方がいます。その方は先生が神などいないと言っていた、その先生を愛してくださる神様ですよ」と言って、罪とは神などいないと言い張って、自分勝手に自分中心に生きることであり、その結果として人間は死ななければならないこと、そして、そのようなわがまま勝手な人間をも愛し、罪を赦して死から解放し、永遠のいのちを与えて天国に迎え入れてくださるために、神はご自分のひとり子の神イエス・キリストを人としてこの世に遣わし、人間の罪を身代わりに負わせて十字架にかけてくださったことを話しました。黙って話を聞いていた彼は、「天国には行きたいが、自分は仏教徒だからいまさらキリスト教を信じるわけにはいかない」と言いました。


私は天国に入るにはキリスト教という宗教を信じる必要はないこと、ただ神様に心からごめんなさい、ありがとう、よろしくお願いしますと祈れば、神はその祈りを聞き届けてくださり、天国に迎え入れてくださることを話しました。そして、「よかったら私が先生に代わって神様に祈るから、先生も心の中で私に合わせて祈ってください」と言って次のように祈りました。


「神様、今まで神などいないと言って生きてきた傲慢な私をお赦しください。そしてそのような私をも愛してくださり、私の罪の身代わりに御子イエス・キリストを十字架につけてくださったことをありがとうございます。これから私のいのちをあなたにゆだねますから、よろしくお願いします。」祈りを終えたとき、閉じていた彼の目から涙があふれ出たのを見ました。


それから数日後、私が学会で東京を離れていた間に、渡辺教授が亡くなったという知らせを受けました。葬儀に出られなかった私に、葬儀直後、夫人から手紙をいただきました。それには、私とともに祈られてから、それまでいつもいらいらしていた先生が、人が変わったように穏やかになり、亡くなるまで、とても安らかであったという報告と感謝が書かれていました。その手紙から、私は渡辺教授が神に愛されているという幸せを得られたのだという確信が与えられたのです。


ここで愛には二つの愛がある、ということをお話ししたいと思います。一つは人間の愛、一つは神の愛です。私たちが普通考えている愛は人間の愛です。


人間の愛は愛の対象を限定するという限定的な愛、自己犠牲を嫌う自己中心的な愛、自分が愛するから自分も愛して欲しいと相手に要求する見返りを求める愛です。これについて具体的な例をお話ししましょう。


かつて私が医学部で倫理委員長を務めていたときのことですが、腎移植が必要な患者に、自分の腎臓を提供したいと申し出た家族の方々に対して、その気持ちが本当に自分の意思から出たものかどうかを確かめたことがあります。そして、いのちの危険を冒してまでも愛する家族のために自分の腎臓をあげたいという愛の深さに感動を覚えました。


しかし、そのとき私はいつも一つの質問をしました。その質問とは「もしあなたが腎臓をあげようとする相手が愛する親や子、あるいは夫や妻ではなく、見ず知らずの他人だったらどうしますか」というものでした。それに対する答えは、表現は異なっても内容は同じでした。それは例外なくすべての人が「他人には痛みと危険を冒してまで自分の大切な腎臓を提供することはできない」というものでした。この答えを非難することはだれもできないでしょう。しかし、このように人間は愛の対象を限定してしまうのです。


聖書には、


人がその友のためにいのちを捨てるという、これよりも大きな愛はだれも持っていません。(ヨハネの福音書 一五・一三)


とあります。そのとおり、最高の愛は自分のいのちをさえ惜しまない自己犠牲の愛です。


二つある腎臓でもその一つを提供するのには自己犠牲が必要です。しかし、もし仮に一つしかない心臓を提供するとなると、文字通りいのちを捨てなければなりません。実際にはそのようなことは許されていませんが、たとえ許されたとしても、いのちを捨ててまで自分の心臓を他人に提供したいというような大きな愛を誰が持てるでしょうか。ここに人間の愛の限界があります。


十数年前に亡くなりましたが、かつて優れた内科の医師であり、大阪大学の総長もされたことのある山村雄一教授は、ご自分の座右の銘として、人を愛すること、人を信頼すること、人を赦すことの三つを挙げられました。そしてその理由を次のように説明されました。


「人生において人間関係ほど大切なものはない。しかし、それをいかに築き上げ、どのように維持するかということは難しい。私はこのために次の三つのことを提唱したい。まず人を愛することである。それは人が生きて行くうえで最も大切であろうが、また容易なものでもない。医者が大ぜいの患者に接するとき、あるいは教授が教え子に接するとき、その一人ひとりに心からの愛情を持っているといえば、うそになる。しかし、愛のない医者と患者との間、愛のない教師と学生との間には、まことの人間関係は成立せず、医者となり、教師となった甲斐はなくなるだろう。


ところで真の愛ということを突き詰めて行くと、その背景に人を信頼するということがなくてはならないことに気づく。砂漠の太陽に似た灼熱の恋も、色褪せてみれば動物的感情のみ残っていたということは、愛に信頼が伴わなかった場合であろう。だが、人を信頼するということも、言うは易しいが実行は難しい。世の中で人が人を信頼することの難しさは時代とともに増大している。このような人間関係の中で、人を信頼するためには、人を赦す心がなくてはかなわない。しかし、人を赦すことも難しい。人によっては最も難しいと言うかもしれない。それができれば、なにもかも問題ではないと言われるかもしれない。このように、考え方によっては最も難しい人を赦すということを可能にするには、最初に戻って人を愛することである。人を愛するということが初めにあれば、人を赦すことができるであろう。」


これをお聞きになった方はどなたも山村先生がたいへん誠実な人格者であることがお分かりだと思います。しかし、ここで気がつくのは、人を愛するためには人を信頼しなければならず、そのためには人を赦さなければならず、そのためには最初に戻って人を愛さなければならないというように、この三つは互いに輪のようにつながって限りなく堂々巡りをしてしまうということです。どうして私たちはこの輪を断ち切ることができないのでしょうか。


それは先ほど申しましたように、私たち人間の愛には限界があるからです。私たちは自分を愛してくれる人は愛することができます。また、愛する相手に自分を愛するように求めます。私たちは自分を嫌っている人を愛すること、自分を憎んでいる人を愛することはできません。このように人間の愛はいつも限定的であり、見返りを求めます。人を本当に愛するには自己犠牲が伴います。しかし、私たちは生まれつきの自己中心、自己本位の性質ゆえに、自分が大きな犠牲を払ってまで人を愛することはできないのです。


自分を愛する者を愛したからといって、あなたがたに何の良いところがあるでしょう。(ルカの福音書 六・三二)


とありますが、これが人間の愛なのです。


この愛に対してもう一つの愛があります。それは無償の愛、自分を犠牲にする愛であり、その愛はイエス・キリストの十字架によって示された神の愛です。聖書にはこの神の愛について語られているところがたくさんありますが、そのいくつかを紹介します。


女が自分の乳飲み子を忘れようか。自分の胎の子をあわれまないだろうか。たとい、女たちが忘れても、このわたしはあなたを忘れない。見よ。わたしは手のひらにあなたを刻んだ。(イザヤ書 四九・一五~一六)


神はこのように決して変わることのない愛を私たちに誓っておられます。この神は、聖書に、


偶像は銀や金で、人の手のわざである。口があっても語れず、目があっても見えない。耳があっても聞こえず、鼻があってもかげない。手があってもさわれず、足があっても歩けない。のどがあっても声をたてることもできない。(詩篇 一一五・四~七)


とあるように、私たち人間が考え、作り出した宗教の神や仏、木や石や金属で作ったいのちのない偶像の神や仏ではありません。目には見えませんが私たち人間一人ひとりに「あなた」と呼びかけて、母親が自分の子を愛する愛よりもはるかに大きな愛をもって愛してくださる人格を持った、生きた神なのです。その証拠として私たち人間に対するその大きな愛を、ご自分の御子イエス・キリストのいのちを犠牲にしてくださるという形で現実に示してくださったのです。これについて聖書は次のように記しています。


神は、実に、そのひとり子(イエス・キリスト)をお与えになったほどに、世(この世に住む私たち人間)を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。(ヨハネの福音書 三・一六)


キリストは、私たちのために、ご自分のいのちをお捨てになりました。それによって私たちに(神の)愛がわかったのです。(ヨハネの手紙第一 三・一六)


三、ケアとキュア


ところで皆さんの仕事が高齢者の日々の介護、ケアであることは改めて申すまでもありません。ケアという言葉には心配する、思いやるという意味があります。このことから介護するには相手に対する心配り、思いやりの心が求められなくてはならず、その根底には無償の愛、自己犠牲の愛が必要となります。ここでケアとキュアについて少しお話しします。


キュアとは治す、癒すという意味です。まだ医学が未発達だった中世までは、病気になっても治療の手段がないため、キュアよりもケアに重きを置いた医療が行なわれていました。日本には昔から「手当てする」という言葉が治療の意味で使われていたことからもわかるように、痛む患部に手を当てるというケアの行為が医療行為としてあったのです。中世にはヨーロッパでは病人は修道院に収容され、尼僧たちによって神の愛に基づく手厚いケアが行なわれていました。これが病院の原点です。


しかし、十八世紀から十九世紀、さらに二十世紀にかけて医学は科学技術の発達とともに急速に進歩し、病気は科学技術に支えられた医学によってキュア、治すという考えが支配的になり、医療の場におけるケアとキュアの関係は逆転し、キュアが中心的役割を演じ、ケアは補助的役割に甘んじることになってしまったのです。


病気は科学に支えられた医学技術によって治すことができるという、人間のおごり高ぶった思いに対し、すでに十六世紀における近代外科学の開拓者として有名なフランスの外科医アンブロワーズ・パレは次のような二つの言葉を残しています。


その一つは「私が処置をし、神が癒す(キュアする)」というもので、もう一つは「私はときには癒すが、和らげることはしばしばできる。だが病む人に慰めを与える(ケアする)ことは、いつでもできる」という言葉です。これらの言葉は医療にケアの心を失った現代医学、医療に対する戒めとして、今日でも高く評価されています。


四、生活の質といのちの質


ところが近年になって、医療におけるケアの重要性が再び認識されるようになりました。その理由はいかに医学技術が進んでも、それだけでは人は癒されないということがはっきりしたからです。むしろ進歩した医学技術によって、いのちは取り留めることができたけれど、からだに障害を残したまま長生きをするというケースが増えたからです。


そこで考え出されたのは「生活の質」QOL、クオリティ・オブ・ライフという概念です。「生活の質」とは障害の残った病人が日常生活をするのに必要な能力の高さ、低さを言います。この「生活の質」に対して、もはや改善の余地のない病気の末期の段階でのQOLがあります。これを「いのちの質」と呼びます。新しい医学技術や新薬の開発によって、重症患者の延命が可能になるに伴って、治癒させることができずにただ死を待つほかない病人のQOLは「生活の質」ではなく「いのちの質」が問題となります。この末期の段階ではターミナルケアと呼ばれるとおり、ケアが主役です。


「いのちの質」とは心の幸せの状態の良し悪しを意味しており、自分の今の状態の中で満足しているかどうかを現わすものです。今の病気の状態がどうであれ、自分が幸せと感じれば、その病人にとってのQOLは高いということができます。


ここでターミナルのステージにある人の「いのちの質」QOLが高い例と、低い例をご紹介したいと思います。一般にターミナルステージとは病気の末期を言いますが、人生の末期である高齢者も広い意味でターミナルステージにあると言えます。


まず人生のターミナルステージにある一人の老いた医者の「いのちの質」を、彼の書いたエッセイから見てみたいと思います。これは以前米国医師会雑誌に掲載された文章です。笑い話のような話ですが、次のようなものです。


「私は八十歳代の友人の医師二人と車でレストランに行った。そして車の中で、どの病気なら楽に死ねるかということが話題になった。私は友人たちよりも長生きしそうである。酒も飲まないし、たばこも吸わない。血圧も正常だし、コレステロールも高くない。だから心筋梗塞や脳梗塞で急死することはなさそうだ。すると私が死ぬ病気は苦痛が長く続く癌しかない。これはたいへんだ。友人たちがうらやましい。そこで私は自分の運命にもっと積極的に関わる決心をした。レストランの席に着いてメニューに目を通し、一番厚いレアのローストビーフを注文し、山盛りのフレンチフライを添えてもらった。またこれまでブラックで飲んでいたコーヒーに砂糖と生クリームをたっぷり入れた。そしてウェイターに言った。『すまないがバターをたくさんこっちにまわしてくれないか』。」


この老いた医師は医者であるがゆえに、どんな病気で死ねば苦しみが多いか、少ないかという知識を持っていました。その知識を自分のいのちに当てはめた結果、癌と死の恐怖に恐れおののきながら、何を食べようか、何を飲もうかと毎日心配しながら生きてゆかなければならないのです。人生のターミナルにある彼の「いのちの質」は決して高いとはいえません。


次に人生のターミナルにある「いのちの質」の高い、あるひとりのドイツ人の例を、彼の書いた「最上のわざ」と題した詩によって見てみたいと思います。


最上のわざ


この世の最上のわざは何か。

楽しい心で年を取り、働きたいけれども休み、

しゃべりたいけれども黙り、失望しそうなときに希望をもち、

従順に、平静に、おのれの十字架をになう。

若者が元気いっぱいで人生を歩むのを見てもねたまず、

人のために働くよりも、謙虚に人の世話になり、

弱って、もはや人のために役立たずとも、親切で、柔和であること。

老いの重荷は神の賜物。古びた心に、これで最後の磨きをかける。

まことのふるさと(天国)へ行くために。

おのれをこの世につなぐ鎖を少しずつはずしていくのは、まことにえらい仕事。

こうして何もできなくなれば、それを謙虚に受け入れるのだ。

神は最後に一番良い仕事を残してくださる。

それは祈りだ。

手はもう何もできない。けれども最後まで祈ることはできる。

愛するすべての人のうえに、神の恵みを求めるために。

すべてを終えたら、臨終の床に神の声を聞くだろう。

「来なさい。わが友よ。われ汝を見捨てじ」と。


これが老いたドイツ人の詩です。


聖書には次のような神の約束が記されています。


胎内にいる時からになわれており、生れる前から運ばれた者よ。あなたが年をとっても、わたしは同じようにする。あなたがしらがになっても、わたしは背負う。わたしはそうしてきたのだ。なお、わたしは運ぼう。わたしは背負って、救い出そう(天国へ)。(イザヤ書 四六・三~四)


この神の約束を堅く信じていた老人は、老いから来る心身の衰えを神からの賜物として謙虚に受け取り、何もできなくなっても、愛する者たちのために祈ることができることを感謝し、死を恐れず、残された自分のいのちを神にゆだねて、喜びと希望をもって天国に入る日が近づくのを待ち望むという、すばらしい人生のターミナルの日々を送っていたのです。これこそ、「いのちの質」が高いと言うべきでしょう。


五、霊の痛みとその癒し


さて、ホスピスの創始者として知られる英国のシシリー・ソーンダース女史は、癌のターミナルステージにある病人には身体的な痛み、精神的な痛み、社会的な痛み、そして霊的な痛みの四つの痛みがあることを明らかにしました。


身体的な痛みはモルヒネなどの鎮痛鎮静剤を適切に使うことによって緩和させることが可能になりました。しかし、かつて私の友人の医者から次のような話を聞いたことがあります。


末期癌で鎮痛薬が効かず、夜も眠れずに苦しんでいた彼の患者がいました。そのとき、ひとりのナースがその患者の足を暖かいお湯で優しく洗ってあげたら、その患者はぐっすり眠ることができ、それを見た彼はたいへん心を打たれたというのです。なぜこの患者は痛みから解放され、安眠することができたのでしょうか。ただ足を洗って気持ちよくなったからでしょうか。そうではなく、自分の足を優しく洗ってくれたナースの行為の中に、自分が愛されているということを実感して心が平安になったので、苦痛をも忘れて安眠できたのだと思います。このように身体的な痛みも、愛に基づくケアによって和らげることができるのです。


精神的な痛みとは、孤独感や家族や親しい者との別れなどによる心の痛みであり、これもまた周囲の人々の愛に基づく思いやりのケアによって緩和されます。


社会的な痛みとは、死後における家族の生活の心配や、やり残した仕事への執着や、自分が社会から忘れ去られるのではないかという寂しさなどに悩むことなどであり、これにはソーシャルワーカーや友人などの協力、支援が必要になります。この場合もまた愛のある配慮が必要であることは申すまでもありません。


そして、末期の癌患者のケアだけでなく、高齢者のケアにおいても、これと同様の愛に裏づけされたさまざまな配慮から出た行為が、ケアを受ける側とケアを行なう側との間に心の絆を通わせ、良い結果をもたらすのは間違いないところです。


四番目の霊的な痛みとは、自分はなぜ死ななければならないのか、あるいは死後自分はどこに行くのだろうかという不安、恐怖です。


信仰を持つ、持たないに関係なく、人間は霊的な問題意識を持ちます。画家ポール・ゴーギャンは「われわれは何者なのか、どこから来て、どこに行くのか」という題の有名な絵を残しました。


この疑問は人間の霊から出たものであり、人間だけが持つ疑問です。そしてこの疑問に答えることができるのは聖書だけです。聖書は人間が何者か、どこから生れたのか、どこに行くのか、そしてまた、このような疑問を抱かせる霊とは何かを明確に語っています。


神は人間をご自身のかたちに創造された。(創世記  一・二七)


神である主は、土地のちり(物質)で人を形造り、その鼻にいのちの息(神の霊)を吹き込まれた。そこで、人は、生きるものとなった。(創世記 二・七)


この言葉は、人間がほかの動物とは本質的に区別された存在であり、神が人間をご自分との親しい霊的な交わりができるように、特別に造られたことを現わしています。よく人間のいのちは尊いと言います。しかしなぜ尊いのかと聞いても、答えられる人はなかなかいません。その答えは聖書だけにあります。すなわち人間のいのちが尊いのは、人間の尊厳性は、人間が神の形に造られ、神のいのちの息が霊として吹き込まれ、神と交わることができる霊的存在だからなのです。そして、「自分は死後どこにいくのだろうか」という疑問は、人間が死を恐れる思いから出たものであり、この疑問は人間の霊の働きであり、人間だけが持つ霊的痛みなのであります。


六、尊厳死とリビング・ウィル


ここで尊厳死について触れてみたいと思います。


尊厳死とは、生命維持装置や延命技術の発達、普及によって、病の末期にある人間の尊厳性が無視されるような状態で、無理やりに生かされることが多くなったことに対する批判から生れた概念で、具体的には本人の明確な意思表示があれば、その意思を尊重して、いたずらな延命のための措置は打ち切り、人間が尊厳性を保って自然に死を迎えるようにすることです。


この尊厳死に関連して、リビング・ウィル(訳すと生前有効の遺書、あるいは事前意思表示書)の運動が盛んになってきました。リビング・ウィルには「日本尊厳死協会」の書式のほか、さまざまなものがあります。しかし、せっかく書かれたリビング・ウィルも、家族の反対などで本人の意思が無視されることが少なくないのが実情です。反対の一つの理由として考えられるのは、死ねば終わりであり、永遠に別れなければならないから、一日でも長く生きて欲しいという、家族の死に対する恐れ、悲しみが強いからではないかと思われます。


そこで、この四月に悪性リンパ腫で、六五歳で亡くなったひとりの女性の「医学的処置についてのお願い」と題した次のようなリビング・ウィルを紹介します。


「私の病が不治であり、かつ死が迫った場合に備えて、私の医療に携わってくださっている方々に次のことをお願いいたします。

一、私の病が現在の医学では不治の状態であり、すでに死が迫っていると診断された場合には、死期を引き延ばすための延命処置(たとえば人工呼吸器の装着、心臓マッサージ、電気ショック、気管挿管、薬剤による蘇生行為、胃管による無理な栄養補給など)は一切不要です。

二、ただし、私の苦痛を和らげる処置は、最大限に実施してください。」


ここまでは、どのリビング・ウィルにも共通しています。しかし、彼女は続けて、なぜ延命処置を断るのか、その理由を次のように記しています。


「私は天地万物を創造された主なる神様、御子イエス様を信じております。私がこの世に生を受けたことも、今まで生かされて来たことも、また天の御国へ凱旋する時も、すべては主イエス様のみこころであり、ご支配されていることであると信じています。ですから「すべては時にかなって最善である」と信じることができ、喜ぶことができます。」


このような文章に続いて次の聖書の言葉が記されていました。


私たちの住まいである地上の幕屋(病んだり、痛んだりする地上に生きる不完全なからだ)がこわれても、神の下さる建物があることを、私たちは知っています。それは、人の手によらない、天にある永遠の家(病むこともなく苦しむこともない、永遠に生きる完全なからだ)です。私たちはこの(地上の)幕屋にあってうめき、この天から与えられる住まいを着たいと望んでいます。確かに、私たちは見るところによってではなく、信仰によって歩んでいます。私たちはいつも心強いのです。そして、むしろ肉体を離れて、主(神)のみもとにいるほうがよいと思っています。(コリント人への手紙第二 五・一、二、七、八)


なぜ延命処置を断るのか、なぜ喜んで死を迎えられるのか、その理由がこのように明確であれば、医療側も家族も納得するのではないでしょうか。彼女は、神が御子イエス・キリストを自分の身代わりに十字架にかけてくださったほどに自分を愛してくださったことを心から感謝し、その神に自分のいのちをゆだねることができました。その信仰に答えて、神が彼女の霊的痛みを完全に癒してくださり、彼女はこのように死は終わりではなく、むしろこの世での肉体を脱ぎ捨てた後には、神の用意してくださる天にある永遠の住まいに入ることができるという確信を、天国に凱旋するという表現で言い表し、希望と喜びをもって、安らかに死を迎えることができたのです。彼女の「いのちの質」はまことに高いと言えます。


七、死は終わりではない


確かに私たち人間は本能的に死を恐れます。高齢者の中には自分はもう十分に生きたから、いつ死んでもいいと言う人はあるかも知れませんが、心の奥底には未解決の死後への恐れがあるはずです。死が目前に迫っている病人に対して、家族や周りの人々も真実の慰めの言葉を知りません。「がんばって」とか「だいじょうぶ」などと励ましても、その言葉は病人にも、言っている本人にも空しく響くだけにしか過ぎないでしょう。まして、あした何が起こるかさえ知ることのできない人間には「なぜ生き、そして死に、死後には何があるのか」と、いくら考えてもわかるはずはありません。けれども聖書はこう言っています。


神はそのひとり子(イエス・キリスト)を世に遣わし、その方によって私たちに、(永遠の)いのちを得させてくださいました。ここに、神の愛が私たちに示されたのです。私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。(ヨハネの手紙第一 四・九、一〇)


見よ。神の幕屋(神の住まわれる天国の住まい)が人とともにある。神は彼らとともに住み、彼らはその民となる。また、神ご自身が彼らとともにおられて、彼らの目の涙をすっかりぬぐい取ってくださる。もはや死もなく、悲しみ、叫び、苦しみもない。なぜなら、以前のものが、もはや過ぎ去ったからである。(ヨハネの黙示録 二一・三、四)


これらの言葉によって、神は、すべての人間にとって一番大切なことは神の愛を受け入れることであることを、私たちに告げ知らせてくださっているのです。この神の愛を心を開いて素直に受け入れた人々は、神の愛に満たされ、心安らかに生き、そして死は終わりではなく、死後には自分を愛してくださる神とともに永遠に生きる幸せが待っていること、また死は天国で永遠のいのちに生きる出発点であることを確信して、この地上での死を高い「いのちの質」をもって迎えることができるのです。そのような人生を自分も生きたいと心から願うならば、神はその願いを喜んで聞き入れてくださいます。聖書に、


彼が、わたしを呼び求めれば、わたしは、彼に答えよう。わたしは苦しみのときに彼とともにいて、彼を救い彼に誉れ(天国の国籍)を与えよう。わたしは、彼を長いいのち(永遠のいのち)で満ち足らせ、わたしの救いを彼に見せよう(体験させよう)。(詩篇 九一・一五、一六)


神の下さる賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです。(ローマ人への手紙 六・二三)


とあるとおりです。


これまでお話ししてきたことからおわかりのように、さまざまな不安、恐れを心に抱いている高齢者が幸せになるには、いくら医療や介護の制度を整えてもそれだけでは不十分なのです。


また最近、人間に代わって働くロボットの研究が進んでおり、近い将来にはすべての介護作業が行なえるようなロボットも開発されることでしょう。しかし、どんなに精巧にできたロボットでも、ロボットに世話をしてもらったり、ロボットと話しをしたりする自分の姿を想像したら、幸せどころか惨めな気分になるのではないでしょうか。それはいくら人間に似たロボットでも、ロボットには心がないから、愛がないからです。けれども、ここで考えなければならないのは、ともすれば私たちも、ロボットのように機械的に高齢者に接してしまうことがありはしないだろうかということです。


今日は「高齢者の幸せのために」というテーマでお話をさせていただきました。高齢者が幸せと感じるのは、自分が心から愛されているときであること、そして、それには限りある人間的な愛ではなく、自己犠牲の愛に立つケアが大切だということであり、それによって初めてケアする側とケアされる側との心の通った信頼関係が成り立つということを知っていただければ幸いです。


入居者の中には素直に感謝してくださる方ばかりでなく、わがままを言う方や、認知症などのため自分のことがわからない方もおられるでしょう。そういう方にこそ、愛の心をもって接していただきたいと思います。


最後に次のことを申し上げて終わりとさせていただきたいと思います。


皆さんの日々のお仕事は、たいへんにご苦労の多いこととお察しします。その中にあって、仕事の重荷に疲れ苦しまれるとき、難しい問題に出会って思い悩まれるとき、次の聖書の言葉を思い出していただけたら、きっと心が慰められ、楽になられることと思います。


すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたし(私たちを愛してくださる、生ける、まことの神)のところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。(マタイの福音書 一一・二八)


わたしは、あなたがたにわたしの平安を与えます。わたしがあなたがたに与えるのは、この世が与えるのとは(この世的な、一時的な平安とは)違います。あなたがたは心を騒がしてはなりません。恐れてはなりません。(ヨハネの福音書 一四・二七)


今日、このように皆さんにお話しできたことを、私はたいへんに幸せに思っています。このお話が少しでも皆さんのお役に立つことをお祈りしております。


※二〇〇八年七月一七日

第一五回「ハーフセンチュリーモア」介護研究会における講演




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