【5−1】祈りの冒険/キャサリン・マーシャル よっちゃん珍訳

  第五章 リリンクィッシュメント(明け渡し)の 祈り

   Relinquish = 掴んでいるものを放す


 それは、みんなが体験するように、わたしだって、はじめて祈りの実験をアクティブに始めようとしたら、いろんな疑問を持ったわよ。たとえば、あるアゴニズィング(苦悶に満ちた)真剣な祈りは聞かれて、またある祈りは、聞かれないの?


 今だって、私には疑問があるのよ。祈りについてのミステリー(神秘)は、いつも知識を越えたところにあって、さらに私たちを次の実験へとおびきよせて招くのよね。


 でもね! ひとつの事を私は知っているわ。私は、私には辛い体験を通して、学びとったのよ。それは、祈りのひとつの方法で、それはコンスタントリー(常に どんな場合も)にグロリアス(恵みに満ちた)答えに終わってきたの。グロリアスって、言うのはね、それが、いつも、人間の計算を越えた力が表されたからなのよ。それが、 リリンクィッシュメント(明け渡し)の祈りよ。


 わたしのその最初の体験は、1943年の秋の事だったわよ。わたしは、その時、六ヶ月も前から、その頃、広範囲に流行った肺の感染症のために病の床に伏せっていたの。そして、専門医たちも、わたしを助ける事ができなかったのよ。


 私は、自分のあらん限りの信仰を奮い立たせてしつこく祈り続けたのよ。でも、結果はゼロだったの。わたしは、ずっと病の床に伏せっていたの。


 ある昼下がり、私に一枚のパンフレットが手渡されたの。そこには、8年間病弱だった宣教師の物語が書かれていたの。彼女は、神様のために働けるように、私を健康にしてくださいって祈り続けました。


 でも、とうとう彼女は、役に立たないお祈りをするのに疲れ果ててしまって、こんなふうに祈ったのよ。


 「 もう、ええですわ。もう、あきらめますわ、わたし。神様が、私に病弱をお望みでしたら、それは、もう ユア ビジネス(あんたの仕事)ですわ。ええですわ。私は、私の健康より、あなた様を望みます。 ユー デサイド。 もう、あなたが、決めてくださいや!」

 
 2週間がたちました。彼女は、ベッドから起きて、完全によくなりました。


つづく




P.S.

「出版された 松代恵美訳 「祈りの冒険」で 「3日の後に元気になって」と
書いてあるのは、誤訳であるのを 見つけました。いのちのことば社に電話しようかな。

つづく

【5−2】祈りの冒険/キャサリン・マーシャル よっちゃん珍訳


 この8年間病弱だった宣教師の祈りは、私には関係なかったんだけど、なぜか忘れる事ができなかったのよ。 その年の9月14日の朝の事なのよ。ああ、どうして、私はその朝を忘れられるでしょうか。わたしは、その宣教師と同じみじめなポイントに来ている事を認めざるを得ませんでした。


 「主よ。もうこの私の病気の事をお祈りするのに私は疲れちゃいましたよ。」わたしは、そう祈りました。 「主よ。わたしは、打ちのめされて、すっかり、もうおしまいです。あなたは、何をお望みですか? あなたが決めてなさってください。」


 涙がわたしの頬を流れました。私は、信仰と私が理解していたものを何も感じない状態でした。私自身の病気は、何の自愛も無しに私に贈られたかのようでした。


 けれども、結果はどうだったでしょうか? 天の窓を開くスイッチに触ったような事が起こりました。まるで、天にある発電機が、どんどん発電を始めたかのようでした。数時間して、私は生きておられるイエス様の臨在を体験しました。疑いが去って、私の生涯の大革命が起こり始めました。その瞬間から、わたしの病気は、回復へと向かったのよ。


 この出来事を通して、これから後の事を通して、神様は祈りについて、大切な事を私に教えようとされていたのよ。自分の思いで方向付けて求める求めが、祈りの妨げになることがわかってきたの。 神様は、私たちの自由意志を制約しようとはされないわ。ですから、その自由意志の妨害を取り去らないと、神様は祈りに応えるために動く事ができないの。


 それからも、私は、他の人達の体験や、生活や書物を通して、リリンクィッシュメント(放り投げ 明け渡し)の祈りについて、もっとよく理解するのようになったわ。ゲッセマネの園での、イエス様の祈りがその模範である事も知りました。キリストは、十字架をアボイド(避ける)する事もできたはずです。あの最後の時、エルサレムに行かなくてもすんだはずです。祭司達と妥協し、カヤパと取り引きする事だって、できたわ。


 民衆を利用して地上の王国の建設に着手して、ユダをなだめる事だってできました。ピラトも、イエス様を釈放したいと思って、イエス様が無実になる事を言わせようとしました。裏切りの夜、ゲッセマネの園で逃げる時間も十分にありました。何度も、自由になるチャンスがありましたわ。


 けれども、イエス様は、自由意志を使う代わりに、父なる神様におゆだねになりました。


つづく



【5−3】祈りの冒険/キャサリン・マーシャル よっちゃん珍訳


 福音書のフィリップス現代英語訳の福音書は、イエス様のお祈りに特別、フォーカスしています。

 マルコ14章36節(フィリップス訳翻訳)
 「愛する父よ。あなたはすべてのことがおできになります。この杯を飲ませないで
  ください! しかし、私が欲することでなく、あなたの望まれることをなさって
  ください。」

  Dear Father...all things are possible to you.
Let me not have to drink this cup!
Yet it is not what I want but what you want.


このお祈りは、人としてのイエス様が欲されたようには答えられませんでした。でも、それ以来、ずっと、イエス様の十字架から力があふれ出してきているのです。


 キリストは、十字架刑による死刑と言う恐ろしい死の可能性にうちのめされそうな時でさえも、決して、神様の臨在も、神様の力もお忘れになる事はなかったのよ。受け入れる事(acceptance) と あきらめる事(resignation) の間には、決定的な違いがあるわ。
リリンクウィッシュメント Relinquishment 明け渡しのお祈りは、あきらめ resignation とは、違います。


 あきらめ resignation は、言います。「これが、私よ。もう、あきらめよ。もう、ええですわ。かまへんですわ。」 あきらめは、神様を信じない宇宙のちりの中に横たわり、もっと悪いものに無感覚になります。


 受け入れること acceptance は 言います。「本当に、これが、今この時の私のシチュエーションよ。わたしは、まばたきもせず、このシチュエーションを見つめるわ。でも、わたしは、愛の神様が与えてくださるものは、どんなものでも、両手を開いて、喜んで受け入れます。」


 このように、受け入れる事 acceptance は、決して、戸を閉めて、希望を閉め出したりしません。


つづく


【5−4】祈りの冒険/キャサリン・マーシャル よっちゃん珍訳


 リリンクィッシュメント(明け渡し、放り投げ)は、希望はありますが、それは、本物のリリンクィッシュメントでなければならないのよ。 そして、自分の意志のリリンクィッシュメントは、わたしたち人間にとって、とーーても、むつかしいものなのよ。どんだけ〜って、ね、


 私は、サラ・Bと言う魅力的な少女の悩みを思い出すわ。彼女は、自分の婚約についての疑問を私に話してくれたの。


 「私は、ジェブを愛してるわ。でも、問題があるの。彼ったら、お酒をたくさん飲むの。アルコール依存とか、そう言う問題じゃないのよ。お酒を飲むと言うこと、そのものが彼の考え方の象徴のように思うの。そのことが、とっても気になって、神様は私に、ジェブを諦めなさいとおっしゃっているんじゃないかなと思うのよ。」


 私たちが話している間に、サラは結論に達したのよ。それは、もう、彼女が彼女の知っている最高で最善ののもに従わないなら、無限に尊いものを、失ってしまうと言う事だったわ。彼女は、涙ながらに言ったのよ。


 「私は、婚約を破棄しようと思うわ。もし、神様がジェブと結婚させたいとお思いならば、神様はお酒を飲む事や何もかもが変わるように顧みてくださるはずですもの。」そして、彼女は、すぐに神様に、単純に明確に決心した事を神様に申し上げたの。彼女は、破れた夢と、いまは未知の将来を、神様の御手にゆだねたのです。


 ジェブの理想や考えには、何の変化もありませんでした。そして、サラは、ジェブと結婚しませんでした。1年後に、サラは、私に喜び溢れた手紙を書いてきてくれましたわ。

 「ジェブの事を諦めるのは、死ぬほど苦しかったわ。でも、神様は、ジェブが私の結婚相手でない事をご存知でした。最近、私は、ひとりの別の男性に出会ったの。そして、私たちは結婚する事になりました。いまね。私は、神様にトラスト(信頼)する事の知恵と喜びについて、リアルに話す事ができます。」


 さて、次の事を覚えておくのは良い事よ。たとえ羊飼いなるマスターでも、勝手に先に走って行ったり、横道にそれて行ったりしちゃう羊を、お導きになる事はできなわ。ですから、キリストはいつもいつも、プラクティカル(実戦的な)な従順をいつも主張なさってきたわ。


 ルカ6章46節
 なぜ、わたしを、「主よ、しゅよ。」と呼びながら、わたしの言うことを行わないので すか?


 Obey オーベイ=従う事、 obedience オベディエンス=従順 trust トラスト=信頼、 これらは、福音書の中の至る所に出てくるわね。 プライアビリティー=柔軟さ。従おうとする心のプライアビリティーは、わたしたちの意志から、行動まで、コンプリート=完全で、なければならないわね。


つづく


【5−5】祈りの冒険/キャサリン・マーシャル よっちゃん珍訳



 私たちの人生のエピーソードの中で、自分の思いを捨てての従順を、いかにしてできるでしょうか? 私たちがそれを理解することができても、できなくてもよ。その問題が悪に起因していてもよ。ですから、応えられた祈りの中心に、このリリンクィッシュメント=明け渡しの祈りがあるのは、驚く事じゃないわね。


 アメリカの有名な作家、ナサニエル・ホーソン夫人の事を話すわね。彼女は、1860年の2月に、祈りの格闘の中で、リリンクィッシュメント=明け渡しの祈りの秘訣を発見したのよ。


 その時、彼女の長女・ウナは、マラリアの重症で死線にあったの。付き添っていたドクターのフランコは、少女の熱が、朝までに下がらなければ、彼女は助からないと告げねばならなかったの。


 ホーソン夫人は、ウナのベッドのそばに座って隣室にいる夫の事、そして、その日の朝、夫が言った事を考えていたの、「 ボクは、もう希望と不安が交互にやってくるのに耐えられない。いっそ絶望してしまう、希望を持たない事にしたよ。」


 けれども、彼女は夫のように希望を捨て去ってしまう事ができなっかたのね。私の娘のウナが死ぬはずがない。死んではならないと思っていたの。ウナは父親に似ていたの。子供達の中で、一番、頭が良かったわ。そして、ちょっと複雑な性格だったわ。どうして、気まぐれな摂理に、娘を諦めなければならないのでしょう?


 ウナは、もう数日間をうわごとを言い続けていたの。そして、誰も見分ける事ができないほどでした。今晩、ウナが死ななければならないのだったら、慰めはどこにあるの。


 夜が更けました。ウナがあまりに静かに伏せっているので、死の隣室にいるかのように思えました。ホーソン夫人は、窓辺に行って、道路の方を見ました。月明かりはなく、暗い静かな空に、雲がどんよりとかかっていました。


 「私は、耐えられません。娘のウナを失う事に耐えられません。とっても、耐えられません。」その時、突然、不思議にも違った思いが、ホーソン夫人に訪れたのです。


 「私は、どうして、神様の憐れみを疑わなければならないのでしょう?それが、神様の最善なら、ウナを神様に取って頂きましょう。いいえ、それよりも、神様に私はウナを差し上げる事ができます。 I can give her to Him! アイ キャン ギブ ハー トー
ヒム・   I do give her to You. 主よ、あならに、ウナを差し上げます。 

 
 I wan’t fight against You anymore! これ以上、私は、あなたと争いません。」



 それから、もっと不思議な事が起こりました。このような大きな犠牲を捧げてしまうとホーソン夫人は、もっともっと悲しくなるだろうと思ったの。でも、このお祈りが出来たときに、長い闘病の看護の中で、はじめて彼女の心は軽くなり幸せを覚えたの・・・



つづく


【5−6】祈りの冒険/キャサリン・マーシャル よっちゃん珍訳


 「 I do give her to You. 主よ、あなたに、ウナを差し上げます。 
 I wan’t fight against You anymore! これ以上、私は、あなたと争いません。」


 そう祈ってから、数分してホーソン夫人は、ウナのベッドサイドに戻りました。そして、彼女の額に手を当てたの。額は、汗ばんでいて、冷たくなっていました。心拍数も正常に戻っていました。ウナは、とても安らかそうに眠っていたのよ。彼女は、隣の部屋に駆け込んで、夫に、奇蹟が起きた事を告げました。


 応えられた祈りの中で、ウナの回復の中で起こった出来事は、とりだててユニークなものではないのよ。どうしてって、ホーソン家のストーリーを聞いてから、数年の間にも、私は、同じような体験をたくさん聞き続けたからなのよ。


 最近、私の友人は、次のような体験を書き送って来たの。


 「3年前、私たちに息子が産まれました。はじめ、彼は健康体を持ったベビーに見えました。けれども、産まれて12時間もしないのに、私が抱いた時に、ベビーは、convulsion=ひきつけを起こしました。 それから数日間も、ベビーは何回も、ひきつけを起こしました。


 ドクター達の説明によると、ベビーは出産の時に、脳になんらかの傷を受けたのかもしれないと言う事でした。そんな説明は、私に恐怖を与えました。もし、ベビーが助かっても、彼は、失明しているか、聾唖か、身体障害か、脳に障害を残すでしょうと。


 そのとき、私は、今まで体験した事のない孤独を覚えました。私は、祈りました。けれども神様は、もう神様が私の事を顧みていてくださると感じる事ができなくいなっていました。どうして、こんな事が私のベビーに起こらなければならなかったのでしょうか?


 今になって、私の祈りは、祈りではなかった事を知っています。それは、神様を非難していました。そして、神様に、私のベビーを癒してくださいと強要していました。


それから私は、肉体的にも精神的にも疲労の極みに達してしまいました。私は神様に命令するのをやめて、完全に神様にゆだねる事にしました。そして、神様に祈りました。


 ーーーー神様、あなたがベビーを取り上げたいと欲されるなら、どうぞベビーをお取り去りください。あなたが決められた事は、私にとって、すべて オーライです。あなたがベビーが身体障害か脳障害になる事を望まれても、わたしはせれを アクセプト(受け入れる)する事を学習したいと思います。ーーーー

 I put myself entireluy in His handa. 私は自分自身を、神様の御手に、まるごと委ねました。


 その瞬間から、ラリーは回復を始めました。そして、私の恐怖と涙が消え去りました。説明不能の平安が、私の心に訪れました。


つづく



【5−7】祈りの冒険/キャサリン・マーシャル よっちゃん珍訳

   「 Obey Me. オーベイ ミー! 」


  I put myself entireluy in His handa. 私が、自分自身を神様の御手にまるごと委ねてから、説明不能の平安が、私の心に訪れました。私は、ただ息子のラリーが命が助かるだけではなくて、ノーマルで有能な生活を送る事でできるだろうと知りました。

 さて、最終的に、今、ラリーは正常で健康な男の子に成長しています。これ以上、活発になれば私の身体がおかしくなりそうです。」


 今、話してきたラリーとウナのストーリーにいくつかの共通点があるのは、明らかだわ。それそれのケースで、同じく、お母さんは、わが子の命と健康を必死に欲したわ。どちらのお母さんも、神様が祈りに応えてくださるように必死に コマンド(指令 命令)しました。


 この Demanding sprit (要求する霊的態度)が、上回っている間は、神様は遠くて、unappriachacable= 届かない所にいるように思えたのでしたよ。それから要求する祈りが無益なことが明らかになり、それに加えて体と霊の疲れを覚えました。そして、この二つの思いは結合して、祈り人は、最も恐れる事態の可能性に自ら明け渡しましたね。


 そこに ターニング・ポイント=分岐点がありました。突然理解不能に、恐れが去り、不思議な平安が心に訪れました。そして、いろいろな現状と関係なく、心が、軽やかな気持ちと喜びへ導かれました。


 それが、ターニング・ポイントdえ、その瞬間から祈りが答え始められたのだったわ。そて、大事な質問は、「このリリンクィッシュメント=明け渡しの祈りに、こめられた秘訣、霊的な法則は何か」ですよね。


 その答えのひとつは、こうです。恐れは、私たちの神様の間にあるスクリーン=ついたてのようなもので、神様の力は、このスクリーンに遮られて、私たちに届かないの。じゃ、どうしたら、恐れを取り除く事ができるかしら。


 その人が心のバランスを失っていて、また、ある事を世界で一番欲しているとき、容易な事じゃないわ。そのような時は、すべての emotion=感情、 passion =情熱が、起こるかもしれない事をドレッド(ひどく心配する)する事に、タイアップしてしまうの。


 そんな時、ドラスティック(思い切った)な手段のみが、巨大な恐れと、それにともなって起こってくる要求を処理する事ができるわ。私の体験では、信仰的な断言を繰り返す事だって、決して、ドラスティックとは言えないわ。


 そこで、私たちは「リリンクィッシュメント(明け渡し)の祈りの法則」に真っ正面から向き合います。「悪い者に手向かってはいあけません。(マタイ5章39節)とイエス様がおっしゃった時に、この法則をどのように用いるように示されたかしら。やめましょう。恐ろしい予想から逃げようとするのを。やめましょう、恐ろしい状態を否定するのを。最も恐れている事の可能性を、直視しましょう。


 そのただ中では、恐れている可能性を認める事が、神様を信頼する事と反対に思えたりもします。わたしたちは、神様にプロテストしてしまいます。



 「 主よ。あなたは、信仰を持って祈りなさいって、おっしゃったでしょう。わたしは、とてもコンフューズ confused =混乱です。 リリンクィッシュメント(明け渡し)は、何かを明確に祈る時に、確信がない事を意味してるのでしょうか? 主よ、もしそうなら、そんなん信仰とちゃいますやんか!?? 」


 このような理解しようとする申し立てに対して、イエス様は、いつも同じ答えをされます。 「 Obey Me. オーベイ ミー! 私に従えばいいんだ。 そうすれば、従った後に、あなたは、知り、理解をはじめるだろう。」


つづく


【5−8】祈りの冒険/キャサリン・マーシャル よっちゃん珍訳


 ああ、ここで私たちは、第一番目のハードなステップを踏むのよ。Steps of Obedienceオビデエンス・ステップ。従順のステップよ。


 それで、私たちは、もう目を覆うのをやめて、自分自身を恐れているものの所まで無理にでも歩かせ、それを直視してみて。神様と神様の力が最高の現実である事を忘れないで。そうしたら、恐れは、エバポレイト(蒸発)してしまいますよ。


 ドラスティック(猛烈)ですって? そうよ。そうなのよー。でもね、これがね、祈りの力を生活に注ぎ込む、ひとつの確かな方法なのよ。


 ときどき、祈りがそのようにすばらしく答えられるミラクルは、そのような所で起こるのよね。別のシチュエーションでは、羊飼いなる主が、リリンクィッシュメント(明け渡し)を、知識(知る事)へと導いてくださるの。


 「知ること」は、ポジティブになることでもないわ。確信を得ようとする事でもないわよ。それは、私たちの行いではなくて、神様がくださるギフト(プレゼント)なんです。(エペソ2章8節、1コリント12章9節参照)


 時には、信仰のギフトは、ご本や私たちの記憶の中から飛び出てくる聖書の言葉を通して、ギフトされ、心を熱くさせられるわ。またある時は、「知る事」は、わたしたちの状況の中で起ころうとしている事についての主ご自身の御言葉を証明した後に来ます。


 時おり、神はサラ・Bにそうされたように、私たちが願い求めるものを与える事はできなよと、おっしゃいます。明らかに、わたしたちも予想しない出来事に直面するまで、、リリンクィッシュメント(明け渡し)の祈りを、ほんとうに真剣に祈らないでしょ。


つづく



【5−9】祈りの冒険/キャサリン・マーシャル よっちゃん珍訳


 愛に満ちた父なる神様が、私たちの望みに答えられる時って、みことばが、わたしたちの置かれた中に出現して、そして、ミラクルが起こるわね。わたしたちは、リリンクィッシュメント(明け渡し)と信仰が、矛盾しないことを理解するの。


 リリンクィッシュメント(明け渡し)の祈りは、こどものような反抗をやめて、父なる神様の御手を握りしめて、暗闇の中を信頼の中で子供のように手をひいて頂くようだわ。

 信仰の祈りの中では、わたしたちの手は、神様の御手に握られているの。わたしたちの心にあるのは、Obedience オビディエンス=従順 です。いまや神様は、御手の中に安心させて、恐ろしい暗闇から、明るい日差しの中へ脱出させてくださいました。


 わたしたちはこの冒険のスリルの中で、みそばに居て導いてくださるお方の顔をのぞき込みます。その神様の御手は、イエス様の御手ではありませんか。おどろき〜〜!


5章完



5章終わり。次から6章の Prayer in Secret 隠れたところでの祈り