ハドソンテーラーの生涯  テキスト版 はしがき この記録は、ハドソン・テーラー氏の生涯について詳細に知らない読者たちのために、特に書かれたものである。本書の共著者による別の詳伝、および、マーシャル・ブルームホール氏のもっと新しい著書を読まれたかたにとっては、特に新しい事実は記録されていない。しかし、欧米にはハドソン・テーラーの名前を聞いたこともないような人たちが多い。その人々の中で、二巻もの大冊を続読む時間はないが、ハドソン・テーラーの得ていた内的な喜びと力を必要とし、心からそれを願っている人が少なくない。 著者たちの願いは、多忙な人々が父の経験を知りうるようにすることである。その働きの実によってだけでなく、父の存在そのものを、父が神のうちに見いだしたことによって著者たちがみずから祝されたことを感謝している。 神の方法は人である。教会はよりよき方法を捜しているが、神はよりよき人を捜しておられる。今日、教会が必要としているのは、より多くの、よりよい機構ではない。新しい組織でも、より多くの珍しい方法でもない。聖霊が用いうる人である。祈りの人、力ある祈りの人である。聖霊は機構の上にではなく、人の上にくだるのである。主は計画をではなく、人ー祈りの人ーを任命する。 十二弟子の訓練は、キリストの偉大な、困難な、忍耐を要するわざであった。…… 神が必要とされるのは、特別の才能の人でも、大学者でも、大説教家でもない。神が必要とされるのは、聖潔において、信仰において、愛において、忠実さにおいて偉大な人、神のために偉大な人である。説教壇でのきよい話と、その結果としてのきよい生活によって常に説教する人である。このような人によって、神のための世代が生まれうるのである。                   E・M・バウンズ ヘンリー・W・フロスト博士にささぐ      四十二年の長きにわたり、チャイナ・インランド・      ミッションの北米代表として、父の愛と尊敬を受け      られし博士に、父と子の二代の愛をもって。       目   次    はしがき・・・・・・・・・・・・・・・・・・・2    一 公然の秘密・・・・・・・・・・・・・・・・・・4  二 若い魂の成長・・・・・・・・・・・・・・・・・6  三 信仰の第一歩・・・・・・・・・・・・・・・・・9  四 信仰による前進・・・・・・・・・・・・・・・14  五 試練に強められた信仰・・・・・・・・・・・・21  六 友情とそれを越えるもの・・・・・・・・・・・29  七 「完全」ー神の方法・・・・・・・・・・・・・38  八 収穫の喜び・・・・・・・・・・・・・・・・・46  九 陰での数年間・・・・・・・・・・・・・・・・53 一〇 神に対して沈黙する人・・・・・・・・・・・・58 一一 神につかわされた人・・・・・・・・・・・・・6〇 一二 霊的な緊張事態・・・・・・・・・・・・・・・66 一三 暗黒の日々・・・・・・・・・・・・・・・・・76 一四 新たにされた生涯・・・・・・・・・・・・・・81 一五 かわくことなく・・・・・・・・・・・・・・・88 一六 あふれ出る・・・・・・・・・・・・・・・・1〇〇 一七 あふれ流れて・・・・・・・・・・・・・・・113 一八 今も尽きぬ流れ・・・・・・・・・・・・・・128    付  記・・・・・・・・・・・・・・・・・131      あとがき・・・・・・・・・・・・・・・・・136    年  譜・・・・・・・・・・・・・・・・・136 一 公然の秘密   思いわずらってはならない   ただ一つのことだけでも   その一つがあなたにとって   すでに重荷にすぎるのだ   わざをなすのはわたしの務め   ただわたしの果たすべき分なのだ   あなたの務め   それはわたしのうちにいこうこと ハドソン・テーラーは隠者ではなかった。実務家であり、一つの家族の父であり、大きな責任をかかえた人であった。きわめて実際的で、あらゆる階層、あらゆる環境の人々の間で、落ち着くひまもなく生きた人であった。特に体力的にすぐれていたわけでもなく、その双肩に地球をになうといったたぐいの人でもなかった。背たけは低くて、とてもじょうぶとは言えない、いつも肉体的な制約に直面しなければならない人であった。若 いころの彼にとって最も幸いであったのは、敬けんな両親に育てられたことを別にすれば、十六歳のころから自活を余儀なくされたことである。彼は努力家となり、有能な医師となった。彼は大事業を始めたり、世界じゅうの思慮ある人々の霊的指導をすることもできたが、一方また、それに劣らぬくらいよく赤んぼうの世話や料理、経理などもできたし、病める人や悲しむ人の慰めとなることができた。 特筆しなければならないことは、彼が実際に神の約束を信じて生き、最高の水準を保った霊的生活を、一貫してなしうるという事実を証明したことである。過去においてもほんのわずかの人しか経験していないような困難を克服して、彼は一つの事実を残したが、それは彼の死後二十七年を経た今もますます発展している。中国の内睦地方が福音に対して門を開いたのは、主としてこの人の働きを通してであった。それまでは福音の伝えられていなかった地域で、何万という魂がキリストにかちとられた。給料の約束もなく、すべての必要が満たされるために、ただ主に信頼して働く千二百人の宣教師がおこされた。経済的な援助を求めて訴えることを一度もしないのに、負債の経験 もなく、だれに参加を願ったわけでもないのに最近も二百人の新しい奉仕者を、祈りに答えられて送り出している。こうしたことからわたしたちは、ハドソン・テーラーの信仰と献身にならえという呼びかけが心に迫るのを覚える。 このような生涯を送る秘訣はなんであろうか。常に神とともに進む彼には、こうした秘訣も多かった。しかも結局それは、ただ一つのことであった。すなわちその秘訣とは、物質的にも、霊的にも、すべての必要を、「キリストの測り知れぬ富」から得るという、単純で、深淵な事柄であった。彼がどのようにしてそれをしたかを知って、わたしたちも霊的な問題に対して、彼と同じように実際的な態度をとり、それによって問題を解決していただき、重荷を軽くしていただき、神の期待どおりの器になることができるであろう。 ハドソン・テーラーの聖書はわたしたちの聖書であり、彼の神はわたしたちの神である。それゆえわたしたちも、ハドソン・テーラーの秘訣を悟って、彼のような成功を得たいし、またそうする必要がある。  …指導者たちのことを、いつも思い起こしなさい。彼らの生   活の最後を見て、その信仰にならいなさい。   イエス・キリストは、きのうも、きょうも、いつまでも変   わることがない。 二 若い魂の成長   あなたの目をイエスに向け   すばらしいみ顔をはっきり仰ぎなさい   この世に属するものは   栄えと恵みの光の中に   不思議に薄れて行くでしょう              H・レムメル 若いハドソン・テーラーが、父親の書架をあさっていたある静かな時に、すべては始まる。彼はおもしろい本はないかと思って捜していたのである。母親がるすの家の中は、まるであき屋のようで、少年は寂しかった。彼は飽きるまで読むつもりで、見つけた本を持って、古い物置きの中のいつもの場所へ行った。 その土曜日の同じころ、八十キロも離れた所にいた母親は、むすこのために何か特別の重荷を感じていた。母親は友だちから離れて、ひとり主の前に何時間もひざまずき、むすこの救いのために熱心に祈り求めた。やがて祈りが聞かれて答えられたという確信に満たされるようになった。 一方、少年は捜してきた小さな本を読んでいたが、話が核心に触れて行くところで、「キリストの完成されたわざ」という表現に捕えられていた。聖霊の働きの不思議を、いったい、だれが説明できようか。少年は正確に考えつきはしなかったが、とにかく長い間よく知っていた真理が思い出され、心によみがえってきたのである。 「このような表現をしているのは、どういう理由からだろう。あがないとか、和解のわざと言わないのはなぜだろう」と考えた。するとすぐに「すべてが終わった」という文字が、光で書かれているかのように輝くのを覚えた。「何が完成されたのだろう」。 「罪の十分で完全なあがない」。彼の心は答える。「身代わりとなられたすばらしいおかたが、負債を払って下さった」。「キリストはわたしたちの罪のために、否、わたしたちのみでなく、全世界の罪のために死んで下さった」。 その時、次のような考えが非常にはっきりと心に迫ってきた。「すべてが完了し、借りになっていた分が、みな支払い済みになってしまったのなら、自分のすべきこととしては、何が残っているのだろう」。 彼の心には、ただ一つの解答があった。「ひざまずいて救い主と、その救いを受け入れ、いつまでも主を賛美すること以外に、この世になすべきことは何も残っていない」。 長い間の疑いや恐れは消えた。あのすばらしい経験のゆえに、彼は平安と喜びでいっばいであった。彼はキリストをすなおに受け入れ、新しい生命を得たのである。「彼を受けいれた者、すなわち、その名を信じた人々には、彼は神の子となる力を与えた」からである。この新しい生命によって生まれた変化は、まことに大きかった。 二週間ほどして母親が帰宅した時、まず迎えたのは彼であった。彼はこの新しい経験をいっしょに喜んでもらおうと、その帰りを待っていた。 「おかあさんは知っていますよ」、彼をかかえるようにして優しく母親は言った。「あなたが話そうとしていることが何かは、もう二週間も前から知っていました。わたしはこのうれしい知らせを喜んでいました」。 それからほどないある日、彼は自分のものだと思って取り出したノートを見た時、またまた驚いてしまった。そこには妹の字で、「神が祈りに答えて下さって、ただひとりの兄が救われるまで、いっしょうけんめいに祈ります」という意味のことが書かれてあった。この決意は、ちょうど一か月前にノートに書かれたものであった。彼は言う。  このような人たちの間で青ち、このような環境で救われたの  で、信仰生活の初めから聖書の約束が真実そのものであると  感じ、祈りは、それが自分のためのものでも、他の人々のた  めに祝福を求めるものでも、現実に神との取り引き」である  と感じるようになっていたのは、おそらく当然のことだろ  う。 兄と妹とは、今は新しい意味で一体であった。兄の彼がわずか十七歳にすぎなかったのだから、ふたりは確かに若かった。しかも彼らは全力を尽くして、人をキリストに導く努力を始めた。彼らがこの時から急速に霊的成長をした秘密は、実にここにあった。ふたりは、失われ滅びてゆく人々に対する主ご自身の熱いみ思いを、最初からよく知る者となった。 彼らが導かれて行った方向は、「社会奉仕」ではなく、何よりも魂の救いを重荷として人々のために生きることであった。それは絶対に優越感などによるものではなく、ただ主イエス・キリストへの深い愛から出たものであった。 日がたつにつれて、昔の道に陥ったり、主の臨在の喜びを失ったりする時、非常に彼を苦しめたのはこの愛であった。若いキリスト者に見られるように、調子に波があったり、祈りやみことばの学びを怠ったりすると、心が冷たくなるのが常であったからである。それでもハドソン・テーラーの若いころの経験で目だっていたことは、神の最善以外の何物によっても満足することができなかったということである。それは神の臨在を、いつも現実に楽しむことであった。これなしに過ごすことは、日光なしに生き、力もないのに働くということにほかならなかった。彼が若い時から主の喜びを知っていたということは、次に引用する回想からも明らかである。特に用事もなかったある 午後、彼は祈りの機会を得て、深いかわきを覚えつつ、ひとりで神と交わるために自室へ行った。  喜んで神の前に魂を差し出したことを、よく思い出すことが  できる。わたしのためにすべてを成し遂げて下さったかた、  救いの望みまでも含めてすべての希望を捨ててしまった時  に、わたしを救って下さったかた、このかたの愛を、感謝と  ともに何度も告白した。わたしの愛と感謝の現われとして、  何かなすべき仕事を与えて下さることを神に求めた。  わたしが、自分自身も、自分の生命も、友人も、わたしのす  べてを祭壇に置いた時、わたしのささげ物が受け入れられた  という確信が与えられ、同時に深い厳粛な思いに迫られたこ  とをよく思い出すことができる。  神の臨在は、ことばでは表わせないほど生き生きとして祝さ  れたものであった。地面に身を伏せ、言いがたい恐れと喜び  をもって、主の前にひれ伏したことを覚えている。どういう  奉仕のために受け入れられたのかは知らなかったが、わたし  がわたし自身のものではないという強い自覚を与えられた。  この自覚は、今日までもずっと続いている。  このような霊の経験をするには、十代の少年少女では若すぎ  る、という考えは確かにまちがいである。もし心の底にある  ものが、キリストの愛に向かって開かれているなら、人の一  生を通してこの時期ほど献身にふさわしい時期はない。 三 信仰の第一歩   彼の行くところ   目に見えないキリストが   いつもかたわらにいて   感動を与えられる   彼がみ腕によりかかって   尋ねることができるように   「これは許されることでしょうか」と           H・W・ロングフェロー この意味での召命を受けた時、彼は決して完全な人間ではなかった。忙しい毎日を送っている普通の少年であった。銀行員として勤めたり、父の店の手伝いとして働いたりするうちにも、誘惑は多かった。元気のよいいとこが同じへやに住むよ うになると、第一のことを第一にしたり、祈りの時間を見いだしたりすることさえも容易ではなくなった。しかしこれをなくしては、ただ失敗と不安だけが残る。飢えた魂は主を喜ぶことができない。ハドソン・テーラーは霊の真の祝福を得るために、ほかには道のないことを学ばなければならなかった。 神に対して深い知識を持っているある人は「わたしは主を見て、主を尋ねた。主を得て、主を求めた」と語っている。このバーンズリーの若者は、まだ霊的な歩みを始めたばかりであったのに、これと同じ幸いな飢えとかわきを感じていたのである。それは、主が喜んで満たして下さる飢えでありかわきであった。「わが魂はあなたをかわき望む」。これはダビデの熱望したところであった。「わたしの魂は……飽き足り」るが、そこ にはすぐ「わたしの魂はあなたにすがりつき」ということばが続いている。 ハドソン・テーラーが新しい意味で神の取り扱いを受けたのは、敗北、かわき、より豊かな祝福というような一連の経験においてであった。だれのことばも聞かずに彼は、一瞬のうちに理解したのである。彼はぎりぎりのところまで来た。彼のみが救われるところであり、神の救いとその救いの力を得なければならないところである。もし神が彼のために働こうとされ、罪の力を破って、キリストにあるうちなる勝利を与えて下さりさえすれば、彼は地上のすべての望みを捨て、どこへでも行き、なんでもして、主のために必要な何事にも耐え、全く主のみ手に自分自身をゆだねるのであった。もし神が彼を聖別し、つまずかないようにして下さりさえしたならーというのが彼の心 の叫びであった。ずっとあとになってから、彼は次のようにしるしている。  決してその時の気持ちを忘れないであろう。ことばでは言い  表わすことができない。神の臨在の中にあって、全能者との  契約関係にはいっているという感じだった。わたしは自分の  約束を撤回したいと感じたが、それができなかった。「あな  たの祈りは聞かれた。あなたの条件は受け入れられた」と何  かが言っているようだった。その時以来、中国への召命の自  覚を失ったことはない。 中国ー彼は、父親の祈りの中に、幼い時からこの大国の名を聞きなれていた。彼が誕生する以前からそのためにささげられていた中国。その必要と暗黒が、遠くから彼を幾度となく招いている中国。彼の生涯についての神の目的は、ほんとうにそこにあったのであろうか。彼は、だれかの語りかけを聞いているかと思うほどはっきりと、声なきことばを聞いたのであった。「それでは、わたしのために中国へ行きなさい」。 この瞬間から彼のすべては、唯一の大きな目的と祈りに集中された。ハドソン・テーラーは「天よりの啓示にそむか」なかった。彼にとって神の御旨への服従は、きわめて実際的な事柄であった。彼は肉体の耐久力を要求される生活のために、ただちにできるだけの準備を開始した。屋外での運動量をふやし、羽毛のベッドを堅いマットレスに替え、食事のえり好みをしないように注意を払った。日曜日には二回、朝と晩に教会へ行っていたが、晩の集会に出席することをやめて、貧民街へ出かけて行き、トラクトを配布したり、家庭集会をすることにした。まもなく彼は満員の安宿にも好意をもって迎えられるほどになった。明るく、親切に語る彼は、競馬場でさえも、みことばをそのままに幾度も語ることができた。こうしたすべてのことによって彼は、さらにより多くの聖書研究と祈りに努めるようになった。彼はまもなく、わたしたちを「人間をとる漁師」とすることができるのは、主だけであることに気づいたからである。 中国語の勉強も熱心に始めた。この容易ならぬ言語の文法書は、二十ドル以上もし、辞書にいたっては少なくとも七十五ドルはした。彼にとっては、いずれも高嶺の花であった。彼は中国語のルカによる福音書一冊を用いて、忍耐強く、何節ずつかを対照するという方法で、六百以上の漢字の意味を学んでしまった。この方法と他の方法とを併用して学びを進めた彼は、ついに自製の聖書をまとめあげるまでに至った。彼は、学校にいた妹にあてて書いている。  五時起きを始めたので、早く寝床につかねばなりません。中  国へ行くつもりなら勉強が必要です。わたしは行く決意を固  め、できるだけの準備をしています。ラテン語の復習をし、  ギリシア語とさらにヘブル語の基本をも学び、できるだけ広  く知識を得たいと願っています。お祈り下さい。 薬剤師として父親とともに数年間を過ごした彼は、その間に医学研修をいよいよ強く願うようになった。ハルの有力な医師の助手になる機会があった時、彼はちゅうちょせずにそれを捕えた。これは彼が肉親のもとを離れることを意味していたが、彼はそれをもいとわなかった。家を離れた彼は、最初はその医師の家に住み、次に母かたのおばの家に住むようになったが、この若い助手の置かれた環境は、それまで過ごした自分の家庭での生活と同じように、上品で豊かなものであった。 このことも、新しい生活において彼が真剣に考えさせられるようになったことの一つである。ハーディ博士からは十分な生活費が支給されたが、ハドソン・テーラーは与えられるすべてのものの十分の一を神のわざのためにささげていた。それは彼の責任であり、特権であった。聖日には、物質的にはもちろんのこと、霊的にもきわめて貧しい人々の住んでいるその町の中の一地域へ行って、伝道に専心していた。このことから彼は、自分のための消費をもっと切りつめ、より多くを他人に与える喜びにあずからなくてはならないと考えるようになった。 この町の郊外にある空地の向こうに運河があった。運河に沿って小屋の群れが二列に並んでいたが、この運河のためにこの地城は、ドレイン・サイド(どぶ町)と好ましくない名前で呼ばれていた。この運河はただの深い溝で、人々は習慣的にここにごみを投げ捨て、満潮の時に水がそのごみのいくぶんかでも運び去るのを待つのであった。 ハルは港町であった。さやの中の豆のように、曲がりくねった運河沿いに、ドアが一つ、窓が二つという構造の小屋の群れが一キロ近くも続いていた。 ハドソン・テーラーは、シャルロッテ通りの快適なおばの家を離れて、小屋の一室を借りて住むことにした。その家の主婦のフインチ夫人は真のクリスチャンであったので、若い医師に同居してもらうのを喜んだ。おそらく彼は、へやをきれいに住みよくするために、窓の反対側にある暖炉をみがいたり、できるだけ入り口から離れた所にベッドを置いたりしたに違いない。安い簡単な木製のテーブルと、一、二脚のいすのほかには、別 に置くものもなかった。へやは三メートル半四方ほどであったから、たいして家具も必要ではなかった。へやの床は地面と同じ高さで、台所からは直通であった。窓からは道を隔てて居酒屋の、”ファウンダーズ・アームズ”が見えたが、その照明が溝のどろ水を照らしてくれるので暗い夜には便利だった。 夏の間はとにかくとして、ハドソン・テーラーが住みつくようになった十一月末のドレイン・サイドは相当わびしいものだったに違いない。彼は環境が変わっただけでなく、自炊もするようになっていた。病院からわずかの食物を持ち帰って食べ、まともな食事をすることはまれであった。歩く時も、くつろぐ時も、彼はひとりであった。日曜日には近所で、またハムバー波止場に出入りする人たちの間で、長い時間働いた。彼は回想して いる。  困難に耐えることに慣れようとすることと、わたしが福音を  伝えて奉仕する相手の人々の何人かを助けるために節約する  という二重の目標を得て、以前考えていたよりもはるかに経  済的な生き方ができるのに気づいた。、バターやミルクなど  のぜいたく品の使用はやめ、時には変化をもたせたがオート  ミールと米を主食とした。その結果、自分の生活費はごく僅  少ですみ、収入の三分の二以上を、他の目的にふり向けるこ  とができた。自分のための費用を節約すればするほど、他に  与えれば与えるほど、さらに豊かな喜ぴと祝福を得るという  のがわたしの経験であった。 神はだれに対しても、債務を負わせるようなかたではない。孤独の中でハドソン・テーラーは、いっしょうけんめいに従う者にとって、主がどのようなおかたでありうるかということを学んでいた。犠牲を喜ばぬ現代のキリスト教の中で、神の用いられる器になるには、現実に価を払わねばならぬということを思い起こすのは尊いことである。何もしないでキリストに似た者となることはできない。大きな価を払うことをしないで、キリ ストのようなわざをなすことはできない。「わたしが飲む杯を飲み、わたしが受けるバプテスマを受けることができるか」。 当時は長髪賊の乱が異常な方向に展開していたため、多くの人の注意が中国に向けられていた。祈る人も多く、多少なりとも中国伝道に心を動かされた人は無数にいた。しかし、将来性を約束されていた計画が失敗に終わると、大多数の人々は祈りもせず、気にもかけなくなってしまうという失望すべき結果が明らかにされた。祈り会は衰えてついに消滅し、宣教師になりたがっていた人々も他の仕事につくようになり、献金の額も急激に低下して、このために現実に存続できなくなった団体も一つにはとどまらなかった。しかし、主に認められる人々は、そこ、ここにいたーおそらく彼らは貧しく、弱く、人に知られず、重要な人物ではなかったであろうが、主のご計画実現のた めには、どこへでも行こうとしていた人たちである。 ドレイン・サイドの静かな下宿に、この種の人物がいた。いろいろな意味での自分の限界を知りながらハドソン・テーラーは、何よりもキリストのような品性と生活を願っていた。避けられたかもしれない試みが、次から次へとやってきた時、彼はおのれをむなしくする道、十字架の道を選んだ。それは彼自身が認められるためではなく、ただ聖霊に導かれたゆえである。このような態度は、与えられるべき祝福をのがさぬ態度であった。 「見よ、わたしは、あなたの前に、だれも閉じることのできない門を開いておいた。なぜなら、あなたには少ししか力がなかったにもかかわらず、わたしの言葉を守り、わたしの名を否まなかったからである」。 「有力な働きの門がわたしのために大きく開かれているし、また敵対する者も多いからである」。 この時、ハドソン・テーラーの前進をはばもうとする敵は確かにいた。その時は、彼にとっても、また他にとっても、きわめて豊かな時であり、生涯の最も実り多い時期にさしかかってい た。そこに誘惑者が待ち構えていたとしても、不思議ではなかった。若い者にとって、決して容易ではない自己否定の生活をしていた彼は、孤独であり、愛と同情とに飢えていた。それはまさにサタンのチャンスであった。事実、しばらくの間最悪のわざをなすことがサタンに許されたが、それも結局はただ最善に変えられるためのものにすぎなかった。 彼がドレイン・サイドに来てからニ、三週間しかたたないころ、このことに関して彼はたいへんなショックを経験した。彼は非常に愛していた人を、永遠に失ったように思われた。二年という長い期間、彼は希望をもって待ち続けていた。彼は将来の見通しがはっきりしないために、何が変わっても彼女だけがともにいてくれることを、いよいよあこがれ、いよいよ願うようになった。がしかし、夢はもう終わった。この美人であり美しい声を持っている若い音楽教師は、その友に海外宣教の計画をやめさせることは全く不可能であると知って、ついに自分には中国へ行く用意のないことをはっきりとさせたのであった。彼女の父親も相手にしてくれそうもないし、彼女自身さえも、 自分がそうした生活に適しているとは思っていなかった。彼女を最も愛していた彼にとっては全く耐えられぬほどの苦しみであったが、このことが意味しているものは、ただ一つしかなかった。誘惑者は「どれだけの価値があるのか」と訴える「要するに、なぜ中国へ行こうと言うのか。なぜ責任感とやらのために苦労したり悩んだりするのか。まだ彼女をかちとることができる。他の人のように普通の生活をして、国内で主に仕えなさい。まだ彼女を得ることができるのだから」。 愛ゆえの苦痛は激しかった。それはよろめきの瞬間であった。敵は洪水のように押し寄せ、この青年は悲しみに打ちひしがれてしまった。彼は主に慰めを求めず、自分だけで苦しみ悲しんでいた。しかし、彼が見捨てられることはなかった。翌日、彼は次のように書いている。  手術室でただひとり、感動的な時間を過ごした。全く砕か   れ、へりくだらせられ、神のすばらしい愛を示された。「砕け  た、悔いた心」を神は軽しめられず、祝福を求めるわたしの  叫びに、わざと真理をもって答えられた。しかり、神はご自  身を、ともにいますかた、悩みの時のいと近き助けとして現  わされた。わたしをへりくだらせ、わたしがなんであるかを  示されたのだ。試みの時わたしが全く苦しみを感じないよう  にはなさらないが、苦しみのうちにも神は歌わせて下さるの  だ。「しかしわたしは主によって楽しみ、わが救の神によっ  て喜ぷ…」。(ハバクク3:18)  今、救い主の愛の中でわたしは幸いである。すべてについ  て、過去の最も苦しかった経験についてさえ主に感謝し、き  たらんとするすべてについて恐れなく主に信頼できる。 四 信仰による前進   変わることのない神の愛に信頼する者は、動   かされることのない岩を礎とする。             ニューマーク 「わたしは犠牲を払うというようなことはしたことがない」。ハドソン・テーラーは、明らかに犠牲的であった生涯を回想してこう言っている。彼のこのことばは別に誤りではなかった。それは彼が神のお取り扱いを真心から受ける時、そこですでに報いを受けたという実感があまりにも生き生きとしていたためであり、放棄することがそのまま受け取ることとなっていたからである。その冬、ドレイン・サイドにおいて、特にこのことの真実さが経験された。彼の生命の一部になっていた愛、彼の最善であり最高であるものを、キリストに従うことの妨げにならないようにあきらめ、外的にも内的にも神の御旨を受け入れたのであった。犠牲は大きかったが、報いはそれよりもはるかに大きかった。彼は語っている。  一日じゅう、そして毎日、言い尽くせぬ喜びが、わたしのう  れしい経験となった。神は、実にわたしの神は、生きて輝く  実在であった。わたしがしなければならないすべては、喜び  の奉仕であった。 彼の手紙には新しい調子が感じられた。その時から内省的な要素は少なくなり、宣教師としての目的に貫かれたものとなっていった。ふたたび中国は彼の思いを支配するものとなった。キリストの救いを知らない人たちの霊的な状態について、さらに心を砕く人の姿がそこにあった。 彼はそのころ、母親にあてた手紙の中で述べている。  母上様、何物によっても心を乱されなさることがありません  ように。宣教のわざは、有限の人間が従事しうる最も崇高な  わざなのです。もちろん、血族の結びつきについて無感覚で  いることはできません。しかし、救い主のために何かを捨て  うるのを喜ぶべきではないでしょうか。続けてわたしのために  お祈り下さい。物質的な必要は満たされ、幸いな、感謝の  日々ですが、なお祈っていただく必要を感じています…。母  上様、自分が宣教師になり、気の毒な滅びゆく魂によきおと  ずれを伝えること、わたしのために死んで下さったおかたの  ためにみずからを用い、また用いられ尽くすことを、どれだ  け待ちこがれているか、十分に語ることも書くこともできま  せん。母上様、神なく、永遠への望みもなく、毎年死んでゆ  く千二百万の中国の魂のことを考えて下さい。そうです。千  二百万とはあまりに大きな数字でちょっとピンときません  ね。この人たちのことをあわれみをもって考えましょう。神  はわたしたちに対してあわれみ深くあられました。わたした  ちも神にならうものとなりましょう……。  ここで筆をおかなければなりません。あなたのために死なれ  たイエスのために、すべてを捨てて下さい。母上様、あなた  がそうなさって下さることはよくわかっております。神がと  もにあってあなたを慰めて下さいますように。旅費さえ備え  られれば、すぐにも出帆しなければならないでしょう。わた  しは中国のために何かがなされなければ、生きられないよう  に感じています。 行くこと、それもすぐに行くことを、彼が心から願っていたにもかかわらず、彼の出発を遅らせた問題があった。ドレイン・サイドの小べやで彼は、神のみが知っておられる多くの戦いと勝利とを経験していた。この冬のことを彼は次のようにしるしている。  人間的なすべての助けを離れ、守られること、必要を与えら  れること、その他すべての助けを与えられることについて、  ただ生ける神にのみより頼んで行くことは、わたしにとって  非常に重大なことであった。こうした仕事をするために、人  は霊的に強められる必要があると感じた。信仰さえ失わなけ  れば、神には失敗がないということは疑いえなかった。しか  し、もし信仰が不十分であるということになれば、どうであ  ろう。この時わたしは「わたしたちは不真実であっても、彼  は常に真実である。彼は自分を偽ることが、できないのであ  る」ということを学んではいなかった。したがってこれは、  わたしにとって重大な問題であった。神が忠実であられるか  どうかではなくて、前に置かれた事業への船出を正当化する  だけの強い信仰が、わたしにあるか、ないか、ということであ  る。  わたしは考えた「中国へ出かけて行けば、何についても、だ  れにも依存することはできない。わたしはただ神にのみ求め  ることができる。そうなると英国を離れる前に、神を通し、  析りのみによって人を動かすことが、いかにたいせつなこと  であろうか」と。 このことのために彼は、どんな価を払うことも惜しまなかった。判断に欠けたり、行き過ぎたりしたこともあったであろうが、神はまた、なんとすばらしく彼を理解し、彼に臨在を示されたことであろう。「神を通し、祈りによってのみ人を動かすこと」、それは、あの寂しい冬にドレイン・サイドで、栄光の輝きのうちに悟ることのできた大きな願いであった。彼はさらに続けて言っている。  ハルの町の親切な雇主は、彼がわたしの給料日を忘れていた  ら知らせてくれるようにと言っていた。わたしはこのことを  自分でしないで、神が彼に事実を思い起こさせ、祈りに答え  てわたしを励まして下さるように祈る決意をした。給料は年  四度であったが、ある時の給料日が近づいたころ、わたしは  これについて例のように熱心に祈っていた。やがてその日が  来た。しかし、ハーディ先生はこのことには全く触れなかっ  た。わたしは祈り続けた。何日か経過したが彼は思い出さな  かった。とうとう土曜の夜になった。わたしは、自分の手も  とには銀貨がたった一枚、約一ドルほどしかないことに気が  ついたが、それでもほかには欠けたものもなかった。わたし  はただ祈り続けた。  まことに幸いな聖日のことであった。この日も心には祝福が  満ちあふれていた。朝の礼拝を守り、午後からタ刻にかけて  はいつものように貧民街を訪れ、何軒かの安宿で伝道に時を  過ごした。わたしにとってこのような時は、地上に下って来  た天国のように思われ、そのうえ望みうるのは、与えられて  いるものにまさる満たしではなく、喜びを味わう能力が拡大  されることだと思われた。  その晩十時ごろ、最後の集会が終わってからある貧しい人   が、自分といつしょに行って妻とともに祈ってほしいと言う。  彼女は、重病で床についているということだった。わたしは  すぐに承知したが、彼のことばのなまりから、彼がアイルラン  ド人であることがわかっていたので、どうしてカトリックの  司祭に助けを求めないのかと尋ねた。彼は、カトリックの司  祭に頼みはしたが、十八ペンス支払わなければ…と言って断  わられたと言う。飢餓にひんしているこの家庭に、そんな金  はなかった。その時、わたしの有り金のすべてはクラウン銀  貨一枚だということが、すぐに頭に浮かんできた。さらに夕  食のための水がゆと、翌朝のための食物は十分にあるが、昼  食のためには確かに何もないことを思い出した。  どういうことか、絶えることのなかった心の喜びがすぐ止  まってしまった。しかし、わたしは、自分を責めず、かえっ  てこの貧しい人を叱責して、こうなるまで事態をほうってお  くべきではなかった、民生委員に助力を求めるべきであっ  た、と言った。すると彼は、そうしたけれども、翌朝十一時  に来るようにと言われたので、妻が翌朝まで生きていられる  かどうか心配だったと答えた。  「半クラウン銀貨(ニシリング六ペンス)ではなくて、同じ  額でも一シリング貨が二枚と六ペンス貨が一枚あればよいの  に。そうすれば一シリングは喜んでこの気の毒な人たちにあ  げるのに」とわたしは考えたが、この半クラウン銀貨を放棄  する気持ちは少しもなかった。問題はわたしが、神プラス一  シリング六ベンスを信じることはできたが、一文なしで神の  みに信頼する備えがなかったことだという事実には、考え及  ばなかった。  路地を案内されながら、わたしはいささか神経質になってい  た。以前ここに来たことがあるが、その時には手荒い応待を  受けたのだった。みじめな気持ちで階段を上がり、荒れ果て  た一室に導かれた。そこにはなんとも言えない情景が展開さ  れていた。四、五人の子供が立っていたが、そのほおとこめ  かみは落ちくぼみ、栄養失調がしだいに迫ってきている様子  がはっきりとしていた。みじめなわらぶとんの上に、疲れ  きった哀れな母親が横たわり、そのかたわらには、泣くとい  うよりはむしろうめいている、生後わずか三十六時間ほどの  嬰児が置かれていた。  なんということだろう。半クラウン貨でなく、ニシリングと  六ベンスを持っていれば、喜んで一シリング六ペンスをあげ  るだろう、とわたしは考えたが、ぶざまな不信仰によって、  持っているすべてを与えてこの人たちを助けてやれ、という  うちからのささやきに従うことができなかった。  わたしがこの気の毒な人たちを慰めようとしても、多くを語  れなかったことに不思議はない。わたし自身が慰めを必要と  していたのだ。それでもわたしは彼らに、失望してはならな  いこと、非常にみじめな状態ではあるが、天には親切なあわ  れみ深い父がおいでになることを話しはじめた。しかし何も  のかがわたしの心に叫びかける声を聞いた、「偽善者よ、ま  だ救われていない人に向かって、優しく愛すべき天の父のこ  とを語りながら、神に信頼して半クラウンも放棄できないの  か」。  わたしは今にも窒息しそうだった。もし二シリング貨と六ベ  ンス貨があれぱ、わたしは喜んで自分の良心と妥協したこと  であろう。二シリング貨を彼らに与え、残りだけを手もとに  取っておいただろう。それでも、六ペンスもなしに主にのみ  たよる備えはわたしになかった。  こうした状態のもとで語ることは不可能であったが、それで  も奇妙なことに、祈ることには困難はないはずだと考えてい  た。そのころのわたしにとって、祈りはまことに楽しみで  あった。  祈りにものうさを感じたり、何を祈ってよいかわからぬとい  うこともなかった。わたしがしなければならないことは、た  だひざまずいて祈ることで、そうすれば彼らもわたしもとも  に助けられると思っていた。  「奥さんといっしょに祈るために来てくれと言われましたね。  では祈りましょう」とわたしは言って、ひざまずいた。  しかし「天のおとうさま」と祈りはじめるやいなや、良心の  声が聞こえてきた。「おまえは神を侮ろうというのか。その  半クラウン貨をポケットに入れたままひざまずいて、神をお  とうさまと呼ぷのか」。  それから、それまで経験したことのないほどの心の戦いが  あった。どのようにして祈ったのか知らない。そのことばが  意味をなしていたかどうかも知らない。とにかくなんとも言  えない苦しい気持ちで頭を上げた。  気の毒な父親がわたしのほうを向いて言った。「先生、わた  したちがどれほどみじめな状態だかわかっていただけたと思  います。お助け願えるのでしたら、なんとか、ぜひお願いしま  す」。  この瞬間、みことばがひらめいた。「あなたに求めるものに  は与えてやり…」。それは王であるかたのみことばであり、  そこには力があった。  「わたしが比較的豊かに見え、あなたがたを助けることは、  わたしにとってなんでもないとお考えになるかもしれません  が、実はこの銀貨がわたしの有り金の全部です」と言いなが  ら、わたしはボケットに手を入れて、半クラウン貨を静かに  取り出してこの人に渡した。わたしが彼らに語ったことは確  かに真実であった。神は確かに父であり、信頼しうるかたで  あった。わたしの心には満潮の時の海水のように喜びがも  どってきたのだった。それからわたしはなんでも話すことが  でき、また感じることができた。祝福を妨げるものは去っ  た。永遠に去ったとわたしは信じる。  気の毒な婦人の生命が救われただけでなく、わたし自身も救  われたことがよくわかった。その時、神の恵みの支配と、聖  霊の働きへの服従がなかったなら、キリスト者としてのわた  しの生活は破船していたかもしれない―実際そうなってし  まったことであろう。  その晩、下宿へ帰る時、わたしの心がポケットと同様にどん  なに軽々としていたかをはっきりと覚えている。暗く、人通  りの絶えた道が、押えきれずに歌う賛美に共鳴するかのよう  であった。床につく前に水がゆをすすった時の喜びもまた、  王侯の宴席にも代えがたいほどだった。ベッドのかたわらに  ひざまずきながら、主に向かってご自身のみことばについて  念を押したものである。「貧しい者をあわれむ者は主に貸す  のだ」。わたしは翌日の昼食にことかくようにならないため  に、この貸しがあまり長びかぬように願った。このようにし  て内的にも外的にも安らかに、幸いないこいの一夜を過ごし  たのである。  翌朝、朝食のオートミールがまだ残っていたが、それをまだ  食べ終わらないうちに、戸口に郵便配達夫のノックの音が聞  こえた。両親も友人も土曜日には手紙を書かないようにして  いたので、月曜日に手紙を受け取ることは珍しく、下宿のお  ばさんがぬれた手をエプロンでふきながら、手紙か小包を  持ってはいって来た時は、ちょっと驚いた。手紙を見たがそ  の字からはだれのものかわからなかった。それは知らない人  の字のようでもあり、わざと字体を変えたようでもあった。  消印もはっきりしていなかったのでどこから来たのかもわか  らなかった。開封しても書いたものは何も出てこず、白紙に  包まれたキッドの手袋があり、それを開くと驚いたことに半  ポンド貨がころがり落ちてきた。  「主はほむべきかな。投資をした金を十二時間のうちに四倍  にして下さった。こんな割りで金を貸せたら、ハルの商人た  ちはどんなに喜ぶことであろう」。そこでわたしは、絶対に  破産しない銀行にこのお金を預けておこうと決意した。こう  決めたことをわたしは、今日まで悔いたことはない。  このできごとをわたしは幾度も思い出した。そしてあとに  なってから困難な環境の中で、どんなにすばらしい助けと  なったかということを言い尽くすことはできない。小さなこ  とにおいて神に忠実であるならば、そこから生涯のもっと深  刻な試みの時の助けとなる尊い経験や強さを得るだろう。 けれども話はこれで終わりではなかった。また、これがこの時のハドソン・テーラーの信仰を確かめるはずの祈りの、唯一の答えでもなかった。  このすばらしい恵みの救いは、それによって信仰をはっきり  と確認させられたばかりでなく、わたし自身にも大きな喜び  をもたらした。もちろん十シリングの金は、どんなに節約し  てみても、そんなに長く使えるわけではない。わたしはすで  に受け取っているはずのもっと多額の金のことをハーディ博士  が思い出して、支払ってくれるようにと願い、祈り続けなけ  ればならなかった。だがいくら祈っても答えられないよう  だった。二週間もたたないうちに、あの忘れがたい日曜日と  同じような状態になってしまっていた。神がご自分でハーディ  博士に、わたしの給料が未払いであることに気づかせて下さ  るようにと、熱心に、熱心に祈った。わたしが苦しんだの  は、金がないためではなかったことはいうまでもない。金は  願えばいつでも与えられ得るものだった。わたしにとって最  も重要な問題は、「中国へ行けるだろうか。あるいは信仰も  神による力もわたしにはあまりに欠けているので、この幸い  な奉仕の生涯にはいることは許されないのだろうか」という  ことだった。  週末に近づくにつれて、わたしはいよいよ困惑しきってし  まった。考えなくてはならないのは、自分のことだけではな  い。土曜の夜までに、信者である下宿のおばさんに下宿代を  払わなければならない。金がはいってこなければおばさんが  困ることくらいは、わたしも知っていた。おばさんのために  もハーディ博土に給料のことを言うべきではないだろうか。し  かしそうすることは、この宣教事業に不適格であること  を、みずから認めるようなものである。木曜日と金曜日は終  日仕事にも出ないで、熱心に祈りつつ、神に向かっていた。  土曜日の朝になっても事情は変わらなかった。わたしはなお  天の父の時を待ち続けるべきかどうか、導きを求めて神に叫  びかけた。わたしの判断しうるかぎりでは、主の時を待つの  が最善であり、神がわたしのためになんらかの方法で干渉し  て下さるという確信が与えられた。それでわたしは、心の重  荷もなくなり、安らかな気持ちで待っていた。  土曜日の午後五時ごろ、その日の往診を終わり、処方箋も作  り終わったハーディ博士は安楽いすに寄りかかり、いつものよ  うに神のことを話しはじめた。彼は真のクリスチャンであ  り、わたしたちはよく幸いな交わりをともにしていた。その  時わたしは、慎重な取り扱いを要するある薬草をなべに入れ  て、注意しながら煮出していた。博士は突然、それまでのこ  ととは全く関係なしにこう言った。  「ところでテーラー君。君に給料をあげなければならないこ  ろではないかね」。  わたしの感動を想像していただきたい。答えができるまでに  二、三度息を吸い込まなけれぱならなかった。なべを見つめ  ながら、博士に背を向けてできるだけ静かに、給料日から何  日かたっている旨を答えた。わたしはどれほど主に感謝した  ことであろう。神は確かに祈りを聞いて下さり、非常な必要  に迫られているこの時、わたしが何も言わないのに、博士に  給料のことを思い出させて下さった。  「それならば、教えてくれればよかった。わたしの忙しい生活  を君は知っているだろうに。もう少し早く気がつけばよかっ  たのだが…午後手もとの現金をみんな銀行に預けてしまった  のだ。そうでなければすぐ払えたのに」。予期に反したこの  ことばがひき起こした感情の激動は、なんともいえぬもの  だった。わたしはどうしてよいかわからなかった。幸いなこ  とになべの中のせんじ薬が煮えたぎってきたので、それをよ  い理由にしてわたしはなべをもってへやを飛ぴ出してしまっ  た。それでハーディ博士と顔を合わせなくてもよくなり、博士  はそのまま帰宅した。彼がわたしの激情に気づかなかったこ  とは、まことに幸いであった。  彼が去るとすぐわたしは、密室を求め、主の前に心を注ぎ出  さなければならなかった。落ち着きを取りもどすまで、落ち  着きというよりも感謝と喜びがもどって来るまで、わたしは  祈らなければならなかった。神には神ご自身の方法があり、  わたしを見放されることはないと深く感じさせられた。その  日の朝、主の御旨を求めた時、判断を与えられたかぎりで  は、忍耐して待つべきだという導きを受けていた。今、神は  何か別の方法で、わたしのために何事かをなそうとしておら  れるのだ。  その日の晩は、いつもの土曜日のように、みことばを読み、  翌日いろいろな安宿で話すつもりの主題について準備をし  た。いつもよりちょっとおそくまでいたであろうか。何事も  なかったので十時ごろオーバーを着て、帰宅の準備をしてい  た。下宿のおばさんは早く寝てしまうのでかぎがなければ表  戸からはいれないことを知っていたのも、むしろ感謝であっ  た。その晩は確かにもう助けはなかった。しかし神は、月曜  日にはなんとかして下さり、期日の過ぎた金を来週早々にも  おばさんに手渡すことができるだろう。  まさにガスを消そうとしていた時、家と病院との間にある庭  を歩いて来る博士の足音が聞こえた。博士は何か非常におも  しろいことでもあったかのように、ひとりで大笑いをしてい  た。はいって来た彼は、不思議にも、ちょうど金持ちの患者  がひとり診療費を払いに来たのだと言って、元帳を出させ  た。変わったことをする人もいるものだと思ったが、これが  わたしの問題と関係しているかもしれないとは、全然気がつ  かなかった。もし気がついていたなら、わたしはあわててし  まったであろう。特に興味もない第三者の立場から見てい  て、いつでも小切手を書いて簡単に始末できるような診療費  を、わざわざ十時過ぎになって持って来たことを、わたしも  大いにおもしろがっていた。どういうことか、この人はこれ  が気になって落ち着けず、借金をなくすために、このような  異常な時間に出かけて来ないではいられなかったようであ  る。  入金を記帳してからハーディ博士は去ろうとしていたが、突然  ふり向いて受け取ったばかりの札をわたしに渡し、驚いたこ  とに、また感謝なことに、こう言った。  「時にテーラー君、この金は君が取っておけばよいだろう。  細かいのがないが、来週精算しよう」。  わたしの感動に気づかぬまま彼は去って行った。わたしは小  さな密室にもどり、結局は中国へ行けるのだといううれしさ  でいっばいになり、主を賛美した。 五 試練に強められた信仰   父なる神が知っておられる   これで十分だー   この信仰を曇らせうるものは何もない   選択をみ手にゆだねる者に   主は最善を与えられる 「結局は中国へ行ける」。しかしそれまでにはなお多くの試練が待ち構えていた。特に豊かな実を結ぶ生涯は、特別の意味で神に根ざし、神の中に建てられなければならなかった。 ハルに続く舞台は、ロンドンである。そこでハドソン・テーラーは、医学生としてある大病院にはいった。依然として彼は、すべての必要についても主以外にはたよらなかった。結局彼を中国へ派遣することになる宣教協会とともに、父親も費用の分担を申し出てくれたが、彼は神の約束をさらにためす機会を失うべきでないと感じた。父親の惜しみない援助の申し出を彼が拒否した時、近親者たちは、協会が彼の費用を引き受けているのだろうと考えた。協会ではロンドンの病院での費用を負担し、ソホのおじが二、三週間の宿を提供してくれたが、この大都市での必要を満たすものは、それ以上にはただ神のご忠実さだけであった。彼はハルを離れる前に、母親にあてて書いて いる。  「あなたは全き平安をもってこころざしの竪固なものを守ら  れる。彼はあなたを信頼しているからである」というみこと  ばの真実を確認させられています。ポケットに百ポンドも  持っているような気持ち、いやそれ以上に平安です。いつも  このようにただ主のみに信頼して、霊的にも物質的にも祝福  を与えていただくことができますように。 彼は、妹のアメリアにあてても書いている。  ロンドンでの情勢は、わたしの条件にかなうようにはなって  いません。しかしそれを気にしてはいません。主は、きのう  も、きょうも、永遠までも変わらぬかたですから。主の愛は  完全であり、そのみことばは変わりなく、その力は常に同じ  です。だから主にたよる心は、全き平安によって守られま  す。わたしへの試みは、信仰を増し加えられるためであり、  すべては愛のゆえです。主があがめられれば、わたしは満足  です。 ハドソン・テーラーは将来のことについては、一つの確信を持っていたが、それは遠い将来であっても、近い将来であっても、すべてにあてはめられるはずであった。もしそれがあてはまらないようなことがあるとすれば、遠い中国で知るより も、ロンドンにいるうちに知っているほうがよい。慎重でなおかつ自由な決断をもって、彼は物質的な必要について考えられる供給源を、みずから断わってしまった。彼が要していたのは、生ける神であり、そのご忠実さをよく理解できる強い信仰と、どんな場合にも神を相手としていく実際の経験を積むことであった。すべてのことの基であるおかたについての深い知識に比較すれぱ、ロンドンでの愉快なこと、不快なこと、便利なこと、不便なことなどは、全くささいなことに思われた。いよいよ知識を実行に移す時がくれば、多くの試練がありうることを知りながらも、彼はちゅうちょしなかった。 結果として、この若い医学生の決意は、主の導きであったことが明らかになった。ロンドンで与えられた祈りの答えは、多く、かつ実にはっきりとしたものであって、彼はそれによって信仰を強められたのであった。それは一年もたたないうちに 彼が中国へ出発しなければならなくなるという、事態の測り知れない発展に備えるためには、まさに必要なことであった。自著「回想」(注1)の中で、彼はこの間の経験を語っている。ここでは、なお若年にすぎない彼を信仰の人とするのに大いに役だったこととして、ただ二、三のことをあげておこう。それは、あえて避けようとしなかった孤独と欠乏であり、何か月も黒パンとりんごだけを食料とし、往復十二、三キロもある病院への道を歩いた耐久の訓練であり、大学教育を受けていない彼 を中国へ送る準備のある唯一の団体との間に、どうしてもはっきりしない経験をしたことであった。 ハドソン・テーラーがわずか二十一歳の時、突然道が開かれて、中国伝道協会が、船便のあり次第、上海へ向けて出帆するようにと求めた。長髪賊の乱は、反徒にとって絶好調の時期にあった。彼らは首都を南京に決定し、北部および中部の諸州は、この名目上のクリスチャン兵力に征服されていた。北京さえも落城しかかっていた。「教師を送って下さい。多くの教師を送って真理を教えるのを手伝って下さい」。反徒の指導者は、信頼していたアメリカ人宣教師(注2)にこう書いている。「この事業が成功を収めて終わったなら、国じゅうに神の教えを伝えたい。だれもが唯一の主に立ち帰り、真の神のみを礼拝できるようになるためです。これがわたしのせつなる願いです」。 簡単に言って中国は、すぐにも福音宣教のための門を大きく開くように思われたのである。クリスチャンたちは、どこでも大いに心を動かされていた。この重大な時期を失わないようにするためには、すぐ何か手を打たねばならない。しばらくの間は、まるで流れ込むかのような調子で献金が集まった。機会を生かすための計画の一つとして、英国外国聖書協会は、創立五十周年記念に、百万部の中国語の新約聖書を印刷した。ハドソン・テーラーが手紙で連絡をしていた伝道協会は、二名の人を上海に送って、中国内陸部で働かせることを決定した。その一名はスコットランド人の医者で、彼はすぐに出発するというわけにはいかなかったが、他の若い一名は、そのために学んでい た内科と外科の学位とを放棄しなければならなかったにしても、とにかく短時日の準備で出発できるものとされていた。このことは重大な問題であったので、ハドソン・テーラーは当然のことながら、両親と相談し、ともに祈った。中国伝道協会 の書記のひとりと会見してから、彼は母親にあてて書いている。  バード氏は、わたしの持っていた問題のほとんどを取り除い  てくれました。わたしは彼の勧めに従って、ただちに委員会  に申し出るのがよいと思います。でもお返事をお待ちします。  そちらのお析りにたよっています。もし受け入れられ、ただ  ちに出発するようになりましたら、出帆の前に一度帰るのを  お望みでしょうか。わたしももう一度ごいっしょに過ごしたい  と考えておりますし、母上様もきっとわたしに会いたいとお  思いのことでしょう。けれども永遠にお別れするためでした  ら、お目にかかるよりか、お会いしないほうが、もっと容易  であるようにも思ってしまいます。もっともこれは永遠のお  別れではありませんが…。   しばしだけ やがて過ぎてしまうのだ   約束の十字架をどうして避けるのか   主のためにほかのすべてを損と思い   み足の跡を踏みながら急ごう   そうすればこのしばしの苦しみに   主はほおえんで豊かに報いて下さるのだ  これ以上書けませんが、どうかできるだけ早くお返事を下さ  い。わたしのためにせつにお祈り下さい。キリストのために  すべてを捨てることを語るのは容易ですが、実際のこととな  ると、「主にありて完全なもの」として立つのでなければ、  とてもそこを通り抜けることはできません。主がともにあっ  てわたしの愛する母上様を祝して下さいますように。母上様  にイエスの尊さを悟らせて下さり、たとえ苦難の交わりの中  にあったとしても、主を知ることのほかには、母上様が何も  望まないでおいでになれますように。 また、妹に対しても彼は書いている。 」  「愛するアメリア、長いこと予期していたこととはいうもの  の、やはり苦しい経験です。すべての必要を満たす約束をし  て下さった主が、わたしとともにおられるように祈って下さ  い。  自分たちのことー愛に欠け、奉仕は実らず、完成への歩みが  あまりにも遅々としていることを思う時、目を主に転じるの  は、全く生き返るような思いです。「罪と汚れのために開か  れた泉」の中にもう一度浸り、「わたしたちの知恵となり、  義と聖とあがないとになられた」「愛する御子の中に受け入  れられた」ことを思うのは、全くすばらしいことです。 ハドソン・テーラーは、一八五四年に、五か月にわたるたいへんな航海ののちに、中国へたどり着いた。そのころの中国は、伝道者にとって今よりもむずかしい所であった。外国人の居留が認められていたのは、上海をはじめとする五つの開港場だけであった。海岸から奥へはいった内陸部には、ただひとりの宣教師もいなかった。内乱はいよいよ激しくなり、長髪賊も初めのころのような宣伝をしなくなっており、すでに腐敗した政治運動に堕落しつつあった。反乱の続いた残りの十一年間は国じゅうが言うに言われぬ流血と苦難に満たされた期間となった。彼は南京へ行って、そこからさらに奥地に向かうどころか、上海に拠点を得ることさえきわめて困難で、非常な危険を冒さなければ、地方への巡回もできなかった。 この初期の試練のすべてが必要なものであったことが、容易に認められるようになったのは、何年ものちに、彼自身が多くの宣教師を導く責任を持つようになってからである。彼自身にも、また他のだれにもほとんど想像できなかったであろう が、彼はあとに続く何百という働き人のために、道を切り開いていたのである。彼はすべての重荷をにない、経験を通してのみ知りうるすべての試みの本来の姿に触れたのであった。鉄が鍛えられて鋼鉄となるように、彼の心は、より多く愛し、より多く苦しむことによって、より強く、より忍耐深くならなければならなかった。無数の人々に向かって、子供のような信頼の生活にはいることを勧める人として、彼はみ父の愛のお取り扱いについて、自分でももっと深く学ばなければならなかった。彼が困雌に取り囲まれるようになったのもこのためであった。まだ印象を受けやすく、それが長く心に刻まれる初期には特別にそうだった。多くの困難がやって来たが、同時にまた助け も備えられ、それが一生涯の祝福となったのであった。 まず、上海は戦争状態に置かれていた。外人居留地の近くの上海旧市街は、「赤ターバン」として知られていた反徒の手中にあり、それを四、五万の政府軍が包囲していた。戦いはほとんど絶え間なく行なわれ、居留地の守備のために、外人の民兵が招集されることもしばしばだった。物価はききんの時と同様で、市街も居留地も人であふれ、高い金を払ってもほとんど宿は見つけられなかった。ロンドン・ミッションのロッカート博士が引き取ってくれなかったなら、新参のハドソン・テーラーは、非常な困難に巻き込まれたであろう。博士のところに落ち着いてからでさえ、激しい戦いの状況は自室の窓から見え、どちらの方向へ歩いても、今まで夢にも見たことがないような悲惨な光景を目撃せざるを得なかった。 ハドソン・テーラーが上海に着いた時は、ちょうど酷寒で、石炭が一トン五十ドルもしていて、ろくに暖房もできなかった。彼はぜいたくには慣れていなかったし、陸上に宿があるだけでも感謝したのだが、膚を刺す冷気と、湿気とには少なからず苦しめられた。到着してからまもないころに、彼は書いている。  わたしは非常にむずかしい立場に置かれています。ロッカー  ト博士が一時わたしを引き取って下さいました。愛も金も、  家を得る役にはたちません…だれも市中に住むことはできま  せん。これを書いている今も戦いが続いています。大砲の音  でこの建物が震えています。寒くて、考えることも、筆をと  ることも、ろくにできないほどです。わたしがどんなに困惑  したか、パース氏(注3)への手紙によってもわかって下さる  と思います。お返事をいただくのに四か月はかかります。両手  を広げてわたしを迎えて下さった宣教師の親切を思うにつけ  ても、彼らに迷惑をかけることを恐れます。 中国での最初の聖日について、彼は書いている。  ロンドン・ミッションでの二つの集会に出席し、午後はワイ  リ氏と町へ出かけました。包囲下の町の様子をごらんになっ  たことはないでしょう。そんな必要がありませんように…城  に沿って少し歩いてみました。積み重なって倒れている家が  並んでいるのは、悲しい光景でした。そこにあるのは、焼け  くずれ、吹き飛ばされてつぶれ、ばらばらになってしまっ  た、程度の違いこそあれ破損した廃虚の見本でした。かつて  そこに住んでいた人々は、今このきびしい季節に住む家を  失ってしまったのです。気の毒な彼らのことを考えるだけで  も恐ろしいことです。北大門に到着した時、すでに外には激  しい戦いが行なわれていました。ひとりが死んで運び去ら  れ、もうひとりが胸を撃ち抜かれました。わたしが診察した  もうひとりの人は、腕を撃ち抜かれ、骨も砕かれていかにも  苦しそうでした。少し行くと、大破した戦利品をひっぱって  行く者や、哀れな捕虜の弁髪をつかんでひっぱって行く者な  どが続いていました。せきたてられながら引きずられて行く  この気の毒な人々は、わたしたちに向かって「助けてくれ」  と叫ぶのですが、なんということでしょう、わたしたちにはど  うすることもできないのです。彼らはすぐに首を落とされてし  まうのでしょう。これらのことは全く考えるだけでさえ身の  毛のよだつできごとです。 周囲の苦しみを見ながら、人々のためにほとんどというよりも、全く完全に何事もできなかったという事実は、耐えがたいことであった。だれよりも苦しまれたかたが強めて下さらなければ、とても彼は耐えられなかったであろう。彼はさらに書いている。  遠く故国を離れて、戦争に巻き込まれながら、人々を理解す  ることも、また理解されることもできないということが、何  を意昧しているのかよくわかりました。なんとも哀れでみじ  めな人々を見ながら、彼らを助けることもできず、イエスを  彼らに示すことさえできない無力さに、わたしは打ちのめさ  れるような思いでした。サタンは洪水のような勢いで襲って  来ましたが、そこにはサタンに対抗して戦いの旗を上げるお  かたがおいでになりました。イエスはまさしくここに臨在し  ておられます。ほとんどの人々は主を知りませんし、主を  知っているかと思われる人々も無関心でおりますが、なお、  ご自身に属する者には主の尊い臨在がわかります。 ハドソン・テーラーには、個人的な面での試練もあった。彼は生まれてから初めて、自分の経済的な必要も満たせないような立場に立たされた。故国にいた時には、許された範囲で生きるために無一物に近い生活をも喜んでしたが、彼は今、自分の収入をはるかに越えて支出しなければならなかった。彼は自分の三、四倍の給料を得ている人々と同居したために、彼らと同じようにして暮らさなければならなくなり、わずかばかりの資金は目に見えて減っていった。本国で外国伝道資金を集めて来た彼は、貧しい人たちの激しい働きの実である献金を受けることが何を意味するかよく知っていた。彼にとって宣教資金は、神聖な預金であり、この時のような使い方をしなけれぱならな かったことを、非常に苦しんだ。さらに彼が協会にあてた手紙に対しては、まともな返事が来なかった。最も緊急な問題について指示を求めた質問に対してさえ、返答をもらえない状態だった。ロンドンの委員会はあまりにも遠く離れており、彼の置かれている環境をよく理解できなかった。委員たちはほとんどが多忙な人々であり、自分たちのことで手いっぱいであった。彼らのひとりびとりはこの上なく善意に満ちた人々であって、神のみわざの前進を真剣に願ってはいたが、自分たちの全く知らない環境を想像することができなかったのである。ハドソン・テーラーは、彼らに問題をはっきりさせようとして最善を尽くしたが、指示を与えられないまま何か月も過ぎてしまい、経済的にも苦境が続いた。 上海ドルは以前には五十セントに相当したのだが、だんだんと価値は半減し、さらに低落を続けていた。生活費が収入を超過するようになったので、彼はしかたなく緊急の事態のために用意してあった信用状を用いなければならなかった。しかしこれも受け入れられるものかどうか、確認は得られなかった。金銭問題についてあれほど良心的であった彼にとって、これは実に苦しい状態であった。このために彼は、眠られない夜が多かっ た。 夏を迎えるとともに耐えられないほどの酷暑が襲ってきたが、それよりもさらに困ったことが起きた。彼は本国の委員会からではなく、間接に、彼の同労者となるスコットランド人のパーカー医師が、妻子を伴ってすでに英国を出発したことを聞いた。彼のもとには、この家族の宿舎の準備についてなんの指示もこなかった。しかし、何週間かたつうちに彼は、自分が行動しなけれぱこの家族が雨露をしのぐ場所がないだろうと考えた。こういうことのための出費については委任されていなかったが、それでも五人のために適当なへやを捜さなければならなかった。これは簡単なことではなかった。かごに乗るのが普通なのだが、彼は目もくらむような暑熱の中をてくてくと歩いて、居留地や市中の空家を捜して回った。けれども家を見つけることもできずに、疲れ果ててしまうばかりだった。上海の友人たちは、土地を買って建築する以外には打つ手がないことを教えてくれたが、どうして彼らにほんとうのこと、つまり金の ないことが言えたであろう。それでなくてさえ彼が所属している中国伝道協会のやり方については、人々の間に相当な批判が広まっていたのである。したがって彼は、この心労をできるかぎり人に知らせないようにして、ただ主にのみ重荷をゆだねるようにしなければならなかった。こうした状態の中から彼は書いている。  愛する主に真により頼んでいる者は、いつでも「わざわいを  恐れません。あなたがわたしと共におられるからです」と言  うことができます。でもわたしはペテロのように信ずべきおか  たから目を離して、すぐ風や波を見てしまうのです。ああ  もっと着実でありたいと思います。みことばを読むことと、  お約束について考えることとを、最近いよいよすばらしく感  じるようになりました。初め中国語を早く習得しようとして  あまり比重をかけすぎてしまいましたので、霊的な生命を失  う結果を招いてしまいました。しかし、今、主は測り知れぬ  恵みによって、もうひとたびみ顛の光を仰がせて下さいまし  た。 妹に対しても書いている。  家のことなどでまた頭を痛めていますが、別によい結果は出  ていません。ですからこれを祈りの問題として全部主のみ手  にゆだねてしまいました。今はこれについても平安を与えら  れています。主は備え、このことについても、その他の一つ  一つの困難についても、わたしの導き手となって下さるで  しょう。 この手紙を書いてからわずか二日ののちに、貸家があるということを聞いた時、ハドソン・テーラーは夢のような心持ちであったに相違ない。その月のうちに彼は、同労者のために、二階に五室、階下に七室という広々とした住宅を準備すること ができた。木造でがたがたの貧しい建物ではあったが、町の中にあり、北大門にも近かった。彼は中国上陸後六か月目にここに落ち着くことができた。危険な情勢下であったので、彼の中国語の教師は同行しようとしなかったが、彼は上海のクリスチャンで教育のある人を新しく教師に得て、土地のことばの勉強を助けてもらうことができた。中国人ばかりの中にある自分の家で、他の外人たちとひとり離れて、新しい教師の助けを得ながら毎日集会を開き、自由に診療活動ができるのは、実に大きな喜びであった。しかし、まもなく、その場所が想像以上に危険であることがわかった。居留地の守備もそこまでは及ばなかった。しかもそこは、いつも北大門を警戒している政府軍の砲兵隊の射程圏内にあった。その家があき家になった理由も、自然に明らかになった。この若い宣教師は、情勢が好転するのを期待して、三か月ぐらい様子を見ていたが、事態はついに破局を迎えるに至った。彼は毎日毎日残虐な光景をまのあたり にしていなければならなかったし、また幾度も危険にさらされなければならなかった。そしてついに隣家が放火されるに至った。これは彼を早く追い出そうとするいやがらせであった。それで彼はしかたなくまたロンドン・ミッションにもどらな ければならなかった。ちょうどパーカー一家が到着する時に、ひとりの難民がそこにいたというわけである。ロンドン・ミッションの構内に住んでいるロッカート博士宅の近くに、若い英国人宣教師バードン夫妻(注4)の小さな家があった。夫妻は中国に来てからのハドソン・テーラーの親友であって、幸いな交わりを楽しみながら、三人で暖炉を囲むこともしばしばであった。しかし、夫妻に最初の子供が生まれた時、バードン夫人は死去してしまった。まだ若い父親は、生まれたばかりの母親のない子供を同労者の世話にゆだねなければならなかった。ハドソン・テーラーは、この親しい友人の不幸を心から悲しんだが、楽しく幸いな思い出に満ちたこの空家と、彼の置かれた立場とが特に関係があるとは露ほども知らなかった。しかし彼が、北大門のそばの危険な場所を離れる前にバードン家は貸家になっていた。パーカー一家の到着はきょうあすに迫っていた。ハドソン・テーラーの手もとにはわずかに三ドルしか残っていなかったが、航海中に生まれた子供も加わった同労者の家族を迎えるのにまにあうように、自分の責任でこの家を確保した。 彼はその家の半分を、同じように困難に直面していた別の家族に喜んで提供した。ところがそのために、パーカー一家と彼自身とは三室だけで満足しなければならないことになった。そんな狭い所でも置くものといってはろくになかった。彼の持っている家財は、六人の家族を迎えるためには、あまりにも少なかった。しかし問題は、まだそれからであった。長い航海のあとでパーカー博士の手にはわずかに二、三ドルしかなく、協会の信用状をあてにしていたのに、それもどういう手違いからか到着してはいなかった。パーカー博士が英国を出発する前に送られたことになってはいたが、それについては何か月たっても知らせがなく、未着の照会をしてもなんのさたもなかった。彼らは、酷寒のことも知らなかったので、何も準備がなく、どうしても暖かい衣類や寝具が必要であった。試みの多かった何か月かを、彼らがどのようにして暮らしたかを知ることはむずかしい。居留地の人々のうわさも容易に想像することができる。 パーカー博士夫妻は、静かに踏みとどまっていた。医師を待っている上海で、よい地位に招かれるという誘惑を受けても、宣教師の任務を離れるようなことはなかった。若い同労者といっしょに市中や近郊の村々を規則的に訪れて伝道し、狭い家にいる時には、たゆみない学びを続けていた。 ハドソン・テーラーの心は、これらすべてのことから忘れえぬ教訓を与えられていた。それは人間的な意味で自分にたよっている人々に対して示してはならぬ態度であった。ロンドンの委員たちは、宣教師の親しい友人であった。トッテンハムやその他の地での彼らとの霊的な交わりは忘れがたいものであった。彼らの誤りを最も敏感に感じている時でも、彼はそのふんい気をなつかしく思うのだった。それは祈りとみことばへの愛のあふれた交わりであった。しかしどういうことか、何かが欠けていた。若い宣教師が見いださなければならなかったその欠陥とは、きたるべき日に人々を指導しようとする時、霊的であるばかりでなく、実際的でなければならないということだった。ずっと昔のヨセフの場合のように、彼の魂は寄せくる激しい苦難にぶつかっていた。しかし、この忍耐の中から、試みがいくら襲ってきても変わらない心の安らぎがわき出てきたのである。彼は妹と、別の親しい人に書き送っている。  どのようにして困難を乗り越えたかと言われるのですか。そ  れはこうです。問題を主のところへ持って行くのです。ここ  まで書いてから夕べのみことばとして、詩篇七十二篇から七  十四篇を読んでいました。読んでみて下さい。このみことば  はいかにもよくあてはまります。どうしてか知りませんが、  今わたしは喜びと感謝の涙なしに聖書を読むことがほとんど  できません。わたしが今ある状態、中国到着以来わたしの  あった状態が、向上と前進のために他のどの立場よりも役  だっていたことがわかります。もっともそれは、多くの点で  苦痛であり、わたしがみずから選んだであろうこととは全く  違っていましたが、ああ、神の知恵と愛にもっと従順に信頼  する者となれますように。      注   (1)テーラー氏の若い時代についての自伝的な書物、「回   想」の邦訳は、三一書店から出版されている。   (2)これは米国バプテスト宣教師連合(American Baptist   Missionary Union)のF・J・ロバート牧師であった。長髪賊   の運動の創立者であり指導者であった洪秀全は、モリソン   の回心者のひとり里阿華(リャンアファー)が、広東で   あった学科試験の間に手渡したトラクトによって初めて真   理を学んだ。のちに披はこの新しい教理についてもっと聞   こうとして広東に帰り、そこでロバート氏の指導のもと   に、二、三か月を聖書研究に過ごした。あまり長くそこに   いなかったので、受洗したり、教会員になったりするとい   うことはできなかったが、キリスト教の精神と教えについ   ては十分に学び、彼が異常な熱心をもって宣伝活動を始め   た所である広西(コアンシー)省へ帰って、同郷の人々に   伝道することができた。この運動が革命的な性格を持つよ   うになったのは、中国政府の激しい迫害によって、彼に従   う者たちが武器を執るようになったからである。   (3)バード氏と同様に中国伝道協会の書記。   (4)のちに香港の監督となり、中国でほとんど五十年にわた   る献身的かつ実り多い働きをした、軟会伝遭協会のJ・S・   バードン牧師。 六 友情とそれを越えるもの   兄弟の重荷の下に低くかがむ愛   それはどんなにその人を高め   その悲しみを吹き飛ばすことだろう   答えられることも   報いられることも求めない愛   その人はどのようにして会うのだろうか   自分の目より、もっともっと慕わしい目に            F・W・H・マイヤー ハドソン・テーラーが中国で過ごした最初の二年間の記録の中で、最も鷲かされることは、彼の開拓伝道に対する全き献身である。戦争のただ中に置かれて、中国語の学びを続けながら、圧倒されるばかりのさまざまの試練を受けていた彼が、よもや当時の「内陸」をたびたび巡回する計画などを立てはすまいと人々は思うだろう。ところがこの期間に、十回にわたる伝道旅行が記録されている。そのいずれもが驚くほどの勇気と忍耐とを要する働きであった。 上海の北、南、西には、無数の小路で通じる人口の多い地帯が広がっていた。ジャンクがたくさんあり、それは日中、交通機関として利用されるぱかりでなく、夜になると一種の宿の役割を果たしていたので、旅行者はあまり中国人の宿屋には依存しなかった。ジャンクの中では、簡単な料理で船頭の家族と「客」との食事がまかなわれたが、客は自分が持ってきたものでそれを補うこともできた。床に近い所に小窓がある場合が多かった。ベッドはただの板で、横になったり腰をおろしたりすることはできたが、立つことはできなかった。ジャンクの宿は不便も多かったが、それによって市から市、町から町へと、人々に接触することができた。ゆっくりと行く舟からは、どこまで行っても村落が視界から消えなかった。 ずっと昔の彼の師である主の場合と同じように、このことは非常にハドソン・テーラーの心をひきつけた。主と同じ「しなければならない」という思いが彼の心にあった。「わたしをつかわされたかたのわざを…しなければならない」、「わたしはほかの町にも神の国の福音を宣べ伝えねばならない」、「わたしにはまた…他の事がある。わたしは彼らをも導かねばならない」。上海の大路、小路を行くだけでは十分ではなかった。それなら他の人たちもある程度までのことはしていた。彼はそのかなたにいる人たちへの責任感に責められる思いであった。救いの道について聞いたことがなく、またキリストに満たされたメッセンジャーが伝えなければ聞く手段もない人たちである。冬の厳寒も、夏の酷熱も、また西欧の人たちの生命をいつでも危険にさらし、上海への帰還を不可能にするような戦争の恐怖も、この人をとどめることはできなかった。 一つの旅が終わると、すぐ次の旅行の準備に取りかかるのだった。ある期間、学びに専念してからは、その地方語ばかりでなく、北京語で話ができるようになった。続く巡回伝道は非常に激しいもので、十五か月の間に、十回の巡回旅行をしたほどであった。パーカー博士が到着する以前には、上海の周辺十六キロないし二十四キロの地城に、たびたび出かけていた。博士といっしょになってからの三か月間には、千八百冊の新約聖書と 分冊、二千冊の注釈やトラクトを配布した。極力むだのないように努力して、文字の読める人たちだけに渡したのだが、大部分の人が文盲であったことを考えれば、配布した地城がどんなに広く、常に異なった群衆に彼らがあかしして歩いていたかということがわかる。一月から三月までの冬の間は、零度以下の酷寒もいとわずに、四回にわたる巡回伝道が試みられた。さらに四月、五月、六月、八月、九月にも同じことがくり返された。人々の間で過ごす日中も、どろぼうに備えて戸を閉じた船中での夜間も、暑さの苦しみからはほとんどのがれられなかった。しかし、この若い伝道者をとどめるものは何もなかった。 旅行の危険は相当なものであり、また仲間のない時の孤独も格別であった。彼は他の外国人からは遠く離れ、あまり好意的ではない群衆の中で働いて、自分の務めを果たしていた。そしてその際に、医療器具が人々の心を開くのに役だつことも知ったのであった。その間に彼は、キリストなしに生き、また死ぬことが何を意味するかを、いよいよ深く知るようになっていったし、その視野もいよいよ広げられていった。頂上に神殿のある丘や古塔のある高台から、何百万という人々の家のある町や村を見おろしたことであろう。そこには、救われるべき唯一の名を一度も聞いたことのない男がおり、女がおり、子供がいる。彼の心に去来する思いは、大きく、深く、終わりまで変わらないものであった。 このような中で、内乱は最後的な段階に達し、ついに上海は政府軍の手に落ちた。ハドソン・テーラーは当時、年輩の宣教師とともに蘇州湖へ向かって旅行していた。ある丘の上から広い範囲にわたって大火事の煙が見えたのは、出発してからまだ何日にもなっていない時だった。その方向の火はただ一つのことを意味している。上海が燃えている。居留地にいる家族はどうしているか。すぐもどりはじめたが、彼らは途中で保護を求めた逃走中の反徒から聞いて、恐れていたとおりであることが確かめられた。もちろん宣教師たちに反徒を助けることはできなかった。反徒たちはやがて捕えられ、彼らの目の前で斬首されてしまった。彼らはいよいよ心配をしながら道を急いだが、やがてなまなましい惨状が繰り広げられていった。しかし、居留地はもとのままであった。人殺しに飽きた政府軍兵士は、征服者の満足に酔ってしまい、外国人などには全く注意を払わなか ったようである。ハドソン・テーラーは書いている。  上海は、今はきわめて平穏ですが、それは死の静けさのよう  です。最小に見積もっても二千人が死にました。犠牲者の中  には、残忍な宗教裁判によって、最もひどい拷問を受けた者  もありました。上海はほとんど廃虚の山といった状態で、破  壊されながらもなお残っているものは、見るも哀れなありさ  まです。 それでも最悪の事態は終わった。ハドソン・テーラーとその同僚は、本格的な仕事について委員会からの指示を待ちながら、人々の肉体的、霊的な世話をいっしょうけんめいにしていた。用いられることこそ、彼らが願い求めていたことであった。彼らはその計画について周到に考え、真剣に祈ってきたのであった。しかし、彼らの将来がそれにかかっているにもかかわらず、回答はなかなか届かなかった。 夏の酷暑は、彼らの住居でもひどいものだった。寧波への短期間の訪問によって有望な見通しが開けてきた。その地の宣教師たちは、効果的な組織の弱点になっている医療事業を強化するために、病院を建設する必要を感じており、パーカー博士にその責任をとってくれるようにと丁重な招待を寄せて来た。そして彼らは一致して協力することを誓ったのである。彼らはこのことについても委員会からの回答を待っていたが、その間 に、同居していた家族とともにその家を、近いうちに家の所有者であるミッションの宣教師のために明け渡すように、という通知を受けた。同居していた人たちはすぐに自分たちの所へ引っ越して行ったが、彼らは家を建てられるような立場でも ないし、居留地にも中国人街にも、どこにも貸室を見つけることはできなかった。ハドソン・テーラーのためにはただ一つの道しか開かれていないように思われた。特に長い間待っていた回答が届いたが、それが好ましくないものであったので、ますます道が唯一であるように思われた。委員会には、港町に建築するために費用を使わせる気持ちはなかった。彼らは働き人が内陸部へ行くことを願っていた。しかし、それが実現できるまで、どこに住むべきかは明らかでなかった。こうした状態の中で、パーカー博士夫妻は寧波へ行くことを決め、彼の同僚は不安定な立場に残された。友は去り、家はなくなり、現地人街にさえも宿ることができない状態で、どうして上海にとどまって仕事を続けることができたであろうか。 しばらくの間、彼らは非常に迷ったが、この困難な状態の中から、しだいに新しい方向への考え方が浮かんできた。彼はその活動の拠点として、どんな所でも借りようとしたが、できなかった。上海では難民の流入によって人口が急速にふえ、住宅問題が非常に深刻になっていた。もし、陸上に家を見つけることができないなら、多くの中国人のように、舟に乗り、水上生活をすることがなぜできないか。これはすでに彼が考えていた中国服を着ることともよく合うし、その仕事を遂行する上にもよりよい方法であった。そうだ。そこからすべてが開けはじめた。彼は、パーカー夫妻に同行して、寧波へ行く時わずかな持ち物を持って行ったが、またもどって来て、自分が生涯をささ げた相手の人々と全く同化しようとしていたのである。 しかし、このことは、初めに考えていたほど容易ではなかった。当時、中国服を着ることは、前頭部をそり、弁髪のために髪を長くすることを意味した。宣教師でも、他の外国人でも、こんな習慣に従う者はだれもいなかった。時として旅行者などが、普通の衣服の上に中国の上着を着用することはあった。しかし、西欧の服装をやめて、全面的に現地の服装を用いることは全く別のことだった。ハドソン・テーラーは一年半中国にいながら、そうした行為が社会的な疎外を意味することを悟っていなかった。しぱらくの間、彼は苦しんだが、より高い視点からこの方法を採ることが望ましいとしだいに強く自覚するようになった。彼が求めていたのは、人々に近づくことであった。そのころ揚子江を三百二十キロほどさかのぼって内陸にはいって行ったひとり旅の巡回伝道でも、普通考えられていること以上のことがなされうるという確信が与えられていた。彼が訪問した五十八の市や町のうち、五十一はまだ宣教者を迎えたことがなかった。しかし、この旅で、疲労や緊張のおもな原因となったものは、彼の服装であった。欧州人の服装が、初めて見る人にとっては、いかにもこっけいであり、貧相であり、野蛮 なものと思われたのだろう。聴衆は彼の服装にばかり気をとられていて、そのメッセージには集中できなかった。要するに、彼がかちとろうとしていたのが中国人であるかぎり、港町の外人地区に住む少数の人たちに認められようとして、中国人に認められることを犠牲にしてしまうよりも、中国人の考え方にふさわしい服装をするほうが重要なことは当然であった。それで祈りと導きを求め、みことばを学んだのちに、ついに彼は決心をした。パーカー夫妻が寧波に向けて出発する準備ができた時、ハドソン・テーラーの中国服の準備もできており、あとはただ、床屋に自分の頭を任せて変形の仕事をしてもらう劇的な瞬間を待つだけであった。 パーカー夫妻の旅の、最初の段階で使用するジャンクを雇うために、川を下って行ったのは、八月のあるタ刻であった。途中まで行くと、見知らぬ中国人が近づいて来て、驚いたことには、貸家を捜しておられるのではないかと尋ねた。小さな家でもよいか、中国人街でもよいかと尋ねた末に、南大門の近くにそんな家があると言った。ただその家はまだ完成してはいなかった。所有者の資金が足りなくなって、完成できなくなってしまった。もし借りたいのならば、六か月ほどの家賃の前納さえしてくれれば、保証金などはいらないということだった。 ハドソン・テーラーは夢ごこちで市の南部に案内されて行き、むだなく建てられた小さな家を見た。全くの新築で、清潔であり、一階と二階に二へやずつあって、さらに中庭を隔ててもう一へやあるという構成で、まさに必要をそのまま満たすものであり、場所も願いどおりであった。その晩、金を払い、建物を確保するということがどんなことだったか、描写するよりも想像するほうがよいだろう。結局、彼はまちがってはいなかった。上海にはまだなすべきことが残されている。祈りは答えられ、長い間待望していた導きは与えられた。 その晩、中国内陸の伝道にきわめて大きな影響を及ぼすことになる歩みが踏み出された。床屋ができるだけのことをすると、この若い宣教師は自分の髪で結えるようになるまでの間代用する黒い長い弁髪に合わせて、残った自分の髪を黒く染めたのである。翌朝、彼は大いに努力して、慣れないだぶだぶの中国服を着、「先生」と呼ばれる学者階級の人が身に着けるような上着としゅすの靴をはいて現われた。 この時から、すべてが新しい方向に開けて行った。上海への帰路では、説教をしたり、印刷物を配布したり、患者を診察したりするまでは、外人であることさえ気づかれなかった。それからは、婦女子たちもずっと自由に近づいて来るようになったし、聴衆もそれほど興奮もせず、うるさくもならなかった。ヨーロッパ人であるというある種の威厳を失いはしたが、服装を変えることによって得た、人々の間を動き回る自由は、それを補って余りがあった。かつてなかったほどに家々の門は解放され、興味を示す者と静かに語り合うチャンスができてきた。こうした利点を得たことの感謝にあふれながら、彼は自分が用いるようになった新しい衣服について、家人に手紙を書いて「これが内陸へはいって行くためにいちばん助けになることは確かです」と述べている。 「内陸」への彼の重荷は、いよいよ固められていった。南大門の新居での二、三週間は、彼にとって霊の養われるすばらしい時であった。十月初めの手紙には、次のようにしるされている。  パーカー博士は、寧波にいます。でもわたしは孤独ではありませ  ん。今まで知らなかったほどに伴って下さる神の臨在を覚え  ています。祈らされ、目を開かされていることは、大きな祝  福でもあり、必要なことでもあります。 小さな家を与えられていたことは、幸いであり、周囲には多くのよい機会があったが、ハドソン・テーラーはふたたび未伝の地へ出かけて行った。上海の家の近所の関心を持っている人たちを、彼はその教師であったクリスチャンの世話にゆだねた。またこの大都会では、他の宣教師たちもりっぱで熱心な仕事を続けていた。神のみことばの種子をまきながら、できるだけ遠隔の地へ出かけて行くことは、あまり効果的な方法ではないように思われたが、これは主の教えと模範とに従うものであった。この方法によらなければ、さらに遠隔の地にいる人たちが、どうして聞くことができたであろう。 これに続く何日かの経験は、喜びと悲しみの奇妙な取り合わせであった。収穫の多い旅ではあったが、結果的には騒ぎの中に巻き込まれてしまったからである。目的地は崇明(ツォンミン)島という大きな島であり、百万以上の人口がありながら、そこにはプロテスタントの宣教師がひとりもいなかった。一年前にバードン氏とともに肪れた崇明島であったが、今度は前回とは全く違った迎えられ方をされようとしていた。最初に上陸した地の人々は、彼が他へ行くのを承知しようとしなかった。同じ服装をしていたので外人には見えなかった。彼の薬箱もその説教に劣らず人々をひきつけた。その地は湿気が多かったために、彼が階上のへやを求めていることがわかると、人々は言うのだった。 「二階のへやがどうしてもなかったら、お寺に住みなさい」。 屋根裏のようなへやのある家を持った人が備えられており、到着後三日目に「中国内陸部」に最初の落ち着き場所を持てることとなった。これは実にすばらしいことであったが、彼の説教への反応もまたすばらしいものであった。近所の人々は毎日集会に集まって来たし、訪問者や患者たちは、とどまるところを知らない流れのように、彼を訪ねて来た。医療団体の中にいくらかの反対をひき起こしはしたが、六週間にわたる幸いな奉仕から、熱心な求道者の群れが生まれてきた。そのひとりは張(チャン)という名の鍛冶屋であり、「主がその心を開かれた」有力な実業家もいた。彼が初めに導いた貴華(クエイホー)と別にもうひとりのクリスチャンが、彼を助けていたので、ハドソン・テーラーが上海へ帰っている間も、この小さな群れには十分な顧みが与えられていた。 それから突然、苦しい失望を経験しなけれぱならなかった。崇明島では彼の知らないうちに策謀が進められていた。医師や薬剤師たちが、彼が診療費を全然取らなかったにもかかわらずこの若い宣教師を商売がたきとみなして、高級官吏のひとりに彼を追い出すようにとたきつけたのであった。彼を待っていたのは、イギリス領事館への召喚状であった。すべてが平穏で友好的であるこの島に残留する許可を訴願したが、むだであった。 領事はイギリスとの条約では、開港都市への居住しか認められておらず、他の地に住もうとすれば五百ドルの罰金刑となると注意した。崇明島にはフランス人の司祭が住んでいたにもかかわらず、彼は家を放棄し、家財を上梅に移し、それ以後は、 禁を犯さないように注意しなければならなかった。司祭たちは、ハドソン・テーラーもよく知っていたように条約の追加条項によって保護されていたのだが、他国民に許された追加条項は、イギリス人にも適用されるべきであった。さらに上級の機関に上訴することもできたが、それまでの間は、領事の決定を受け入れて従う以外にはなかった。 その晩、家へ書いたのは傷心の手紙であった。若い求道者たちはどうなるのだろう。張や宋やその他の人々はどうなるのだろう。彼らは彼自身の信仰の子ではなかったか。神についてわずかしか知らない彼らを、助ける者もないままに、どうして残して行くことができるだろう。しかも主は、それを許された。わざは主のものであった。神は彼らを見放すことも、見捨てることもない。 「ごいっしょに集会ができなくなることは、ほんとうに悲しいことです」。 最後の集会の時に鍛冶屋は言った。するとその友は答えて言う。 「しかし、皆さんは自分の家で礼拝なさるでしょう。わたしがいても、いなくても、神はここにおられますから、日曜日にはやはり仕事を休みなさい。あなたがたのために聖書を読んでくれる人を見つけて、近所の人々を集めて福音を聞かせてあげなさい。」 「あまりわずかしか知らないので…」、と宋が口をはさむ。 「それに読むことは読んでも、どの字もわかるというわけでもないし…あなたが去って行かれるのはほんとうに悲しい。でも、神があなたをここに送って下さったことを感謝します。あれほどの重荷だった罪が、すべてイエスの上に置かれたのですから。毎日、喜びと平和が与えられています」。 若い宣教師は、困惑と失望の中から、将来について、ただ神を待ち望みうるだけであった。このころ、両親にあてて次のような手紙を書いている。  お祈り下さい。わたしのためにお祈り下さい。より豊かな恵  みを要しています。特権をはるかに下回る生き方をしていま  す。「わたしは羊のために生命を捨てる」と言われた時、主  が感じられたように、もっとわたし自身が感じられたら…。  おおかみが近づくと逃げてしまうような雇い人にはなりたく  ありません。また、安全な所で多くをなしうる時、軽率に危  険の中に飛び込みたくもありません。主の御旨を知り、たと  え国外追放になったとしても、それを行なうだけの恵みをい  ただきたいのです。「今わたしは心が騒いでいる。わたしは  何と言おうか。…父よみ名があがめられますように」。こと  ばばかりでなく、行ないにおいても、また、真理においても、  キリストに従う者であるようにお祈り下さい。 この苦しむ人の全然知らないことであったが、同じ問題に直面していた人がもうひとりいた。この人は、神の事実について彼よりも豊かな経験を持っている人であった。この人もまた、中国内陸部の、滅び行く何百万もの魂のために重荷を負っていた。彼もまた巡回伝道の可能性を調べ、そのために開かれた有望な道を見いだしたのであった。しかし彼は、南京に到達しようと努力して失敗し、閉じ込められた生活を余儀なくされ、しだいに沿岸へもどっていた。一八三九年の大リバイバルの時、スコットランド、カナダを通じてすばらしく用いられた、ウィリアム・バーンズが上海に近づきつつあったのである。ハドソン・テーラーがちょうど必要を感じていた時、彼らは出会った。年齢的にはずいぷん隔たりがあるにもかかわらず、ふたりはまもなく、お互いに同じ思いをいだいていることを認め合った。パウロとテモテのようにふたりはいっしょになった。ハドソン・テーラーの宣教生活ばかりではなく、その指導のもとにやがて発展する広大な事業の性格を形造ってゆくような友情が、こうした冬の日に始まったのである。 今は、一そうだけではなく、二そうの舟が組になって、上海から内陸に達している水路を旅することになった。それぞれ中国人の伝道者を同行していたし、手伝いの人たちも同乗していたので、舟の上で毎日行なわれる礼拝は、なかなかたいした集まりであった。バーンズ氏が進めて行った仕事の方法は、協力者として喜んで従えるものであった。主要な拠点を選んで、同じ場所に二、三週間とどまる。はっきりとした計画をもって毎朝早くから出発し、時にはいっしょに、時には別々に、いろいろの地域を訪問するのであった。バーンズ氏の信じていた方法は、どの市へ行っても、まず外人をほとんど見ることのない郊外で静かに働きを始め、しだいに住居の密集している地区へ進出するというやり方であった。郊外での宣教に数日を費やし、道端の店の人の感情を害したり、商品を痛めたりすることがなく、自由に通行できるように、しだいに人の多い街路やマーケットへ近づくようにしたのであった。それから寺院、学校、茶店を訪れてから、きまって説教に最適の場所へ帰った。どの集会でも、次にその場所を訪れる日時を知らせておいたので、幸いなことにたびたび同じ顔を見ることができたし、関心を持っている聴衆とさらに話し合うために舟に招くこともできた。時がたつにつれてバーンズ氏は、ハドソン・テーラーが彼よりはるかに若く、経験も少ないのに、より熱心な聴衆をひきつけ、自分は民家を訪れても外で待たされるのに、彼の場合は招き入れられるという事実に気がついた。やじ馬連中は外国の服装の人の回りに集まり、じゃまされずに心から聞こうとする者は、特に目だたない服装の友につく事実を見のがさなかった。その結果は、バーンズ氏が左の手紙で語っているようなこととなった。  今度の旅行で上海を離れてから四十一日になりましたが、中  国伝道協会のテーラー氏と行をともにしてきました。…わた  したちは豊かなあわれみを経験し、仕事の上でも大いに助け  られました。  一再ならずお話ししなければならなかったことですが、四週  間前の十二月二十九日に、どのようにして今着用しているこ  の中国服を着るようになったかを、もう一度お話ししなけれ  ばなりません。  テーラー氏は二、三か月前からこの服装の変更を実行してお  ります。その結果、説数の時などにもずっと多くの人々から  受け入れられるようになりました。わたしはこれに気づきま  したので、この前例にならうのがわたしの義務であるという  結論を得ました。  特定の一つの場所で本格的な仕事を続けることは困難かもし  れませんが、この地方の働きの場はきわめて広大です。人々  は熱心に聞いてくれますが、彼らが覚醒し、悔い改めに導か  れるためには、上からの力が必要です。キルサイスの信者の  間に、わたしたちのための祈りの霊が働いているでしょう  か。この霊を求めるなんらかの努力が見られるでしょうか。  必要の大きさは、どれほどでしょう。これはなんとしても祈  るべきことであり、また祈りに答えていただかねばならぬ問  題です。ここでの収穫は実に多いのに、働き人はあまりに少  なく、またこうしたための恵みも得ていません。しかし、恵  みによって弱いわずかの器が、大きなこと―考えられないほ  どの大きなことーを達成する手段とされうるのです。   一八五六年一月二十六日 ウィリアム・バーンズの生涯にとって、祈りは呼吸であり、神のことばは日用のかてであった。彼の伝記にしるされている。  彼は実によく聖書を知る人であって、その最大の力は、人々  の良心に聖書の剣をあてはめる方法にあった。時に彼の厳粛  な訴えを聞く者が、生きた預言者が初めて語る聖書の新しい  一章を聞いているのではないかと思うほどであった。…その  全生涯は文字どおり祈りの生涯であり、その奉仕のすべては  贖罪所での戦いの連続であった。…みことばの野を掘って、  のちにそれに触れるものの霊的な富となったすぱらしい金塊  を掘り上げた。 温和な人となり、生まれながらの知者である上に豊かな教養を積んだ彼は、理想的な協力者であった。彼は宗教音楽を愛した。変化に富んだ逸話の宝庫のような彼は、周囲の人々にとって魅力であった。他人のために自分の経験を喜んで語ったりもした。この人とこの人の友情は、その持てるすべてのゆえに、特別な危機におけるハドソン・テーラーへの神の賜物であり、祝福であった。彼はその影響を受けて成長し、発達し、そののちの生涯に見られる霊的なものの価値の理解を与えられるようになった。大学での学びも非常に有益なものではあったが、そのすべてよりもウィリアム・バーンズから受けたもののほうが大きかった。同じ中国でテーラーの前で彼が生きた現実は、テーラー自身が得、かつ知るべき現実であったからである。 彼らは七か月の間、喜びをもってともに働いた。初めは上海地区で働き、のちには汕頭(スワトー)の周辺で働いた。南部にあるこの港町への召命は、全く突然であった。彼らはこの地への最初の宣教師となる特権をになった。ここは困難の多い地であったが、今では実り豊かな働きの地となっている。もし彼らが中国服を着ていなかったなら、土地の人たちの中にはいって行って住んだり、不隠な状態の隣人をあれほど多く親しい友とすることができなかったであろう。医療事業を神が祝して下さ ったので、初めは一へやしか借りられなかったのに、四か月目には家全体が借りられるようになり、草創期の困難は終わったかに見られた。 それからバーンズ氏の願いで、その若い協力者は、安全を図って残してきた医療器具を上海へ取りに行くことになった。長の別れになってしまうことを予感しているかのように、彼はなかなか出かけようとしなかった。彼はきわめて大きな意味を持っている交わりを、中断することを好まなかったが、それ以上に、最悪の酷暑の中にバーンズひとりを残して行くことが心苦しかった。彼は、ずっとあとになってから回想している。  あの何か月かは、わたしにとって言いがたく幸いな喜びと、  慰めの時であった。バーンズ氏のような霊的な父を持ったこ  とはなかった。あれほどきよく、あれほど幸いな会話を経験  したこともなかった。そのみことばの愛はここちよく、きよ  く厳粛な生活と、神との不断の語り合いは、彼と交わるわた  しの心の深いかわきがいやされるほどであった。 バーンズは医療事業の成長の必要を強く感じていたので、どうしても医療器具と薬が必要であった。それでハドソン・テーラーは上海へ向けて出発した。しかし、そこで知ったことは、火事で彼の医療器具がすっかりだめになってしまったことであった。そして別に新しく調達しているうちに、彼は実に悲しい知らせを受け取ったのである。彼が愛し、尊敬していた友が、中国官憲の手によって逮捕され、三十一日間の道のりを広東へ護送されて行ったというのである。その上汕頭へ帰るこ とも禁止されてしまった。あれほどはっきりしていると思われた道が、不思議に不明確となり、失われてしまったことの衝撃はさらに苦しいものであった。 しかしながら、この大きな突然の試みがなければ、ハドソン・テーラーが備えられていたその生涯の奉仕に導かれることはなかったかもしれない。他のすべての人間的な愛を越えて彼の最高の喜びとなり、また祝福となった愛を知ることもなかったかもしれない。      注   何年もあとになってからのことであるが、ーそれは大揚子   江をさかのぼる彼の最後の旅となったーその時披は筆者と   ともに甲板を歩いていた。彼は涙にかすんだ目で南岸の丘   陵を見やりながら、幾度となく立ち止まったものである。   彼が「あのことについて話してあげることができればな   あと思う。それはあの辺だったが正確な場所は思い出せな   い」と言ったのは、青草島のあたりであった。   何を思ってか、非常に感動している様子なので次のことば   を待った。しかし今、追憶して喜び、厳粛な思いにさせら   れていることは、もはや五十年も以前の経験である。彼は   ことばには表わせなかった。彼の魂と神との間に何があっ   たのか、語ろうとしながら彼にはそれができなかった。そ   の遠くに見える高地で、彼の将来についての啓示が与えら   れたのである。主はそこでご自身が導いておられた人に、   全き服従の召命をお与えになったのであった。 七 「完全」ー神の方法   主よ感謝します   わたしの巡礼の日々を   その時   荒野の泉はかれていました   しかし初めてわたしは知ったのです   あなたの愛が   どんな必要でも満たせるということを 政治的な世界では、久しく暗雲が広がり、バーンズ逮捕を知らせたその同じ手紙によって、英国と中国との関係がさらに悪化し、ついに爆発点に至ったことが知らされた。ハドソン・テーラーは寧波で、英艦隊の広東砲撃を聞いた。この戦争が終わるまでには四年の歳月を費やした。彼が初めに考えたことは、もちろん、バーンズのことであった。バーンズがすでに汕頭を離れていて、南部の人たちの激しい怒りにさらされないですんだこ とはあわれみであった。彼は十一月に妹にあてて手紙を書いている。  お気づきのように寧波に止められています。南部で起こった  騒ぎの原因がついにはっきりしました。最新のニュースによ  ると、広東は二日にわたって砲撃され、二日目には橋頭堡が  築かれ、太守が英国に満足な回答を与えるのを拒否したの  で、軍隊が町へはいったということです。もっと新しい、正確  な事柄を知りたいとせつに願っています。どのような行動が  なんの役にたつのかわたしにはわかりません。だからそれに  ついてわたしの意見を書くのはやめます。ただバーンズ氏が  ちょうどよい時に汕頭から移されたことは、主のよきお顧み  であったと言いたいと思います。汕頭にいる広東人たちの感  情を、現在のこの情勢から判断すると、もし彼が彼らの手に  掛かったらたいへんなことになったであろうと思われるかで  す。 たいへんな騒ぎに見えた情勢も、ここではすでに「神を愛する者」のために働いて益となる「すべてのこと」の一つとして認められている。これと同じように多くの困難な経験を通してハドソン・テーラーは、神ご自身を、情勢そのものを支配されるおかたとして考えることを学んだ。また、外面的な環境とか情勢は、神の意志か許しによって与えられるものであるから、必ず最も行き届いた、最も考え深く、最もよいものでなければならないと考えるようになった。寧波にとどめられていた彼は、まもなく神の愛と顧みのもう一つのすばらしい証拠を見せられた。そこで彼自身の生活をすばらしく整えてくれるような生活をしている人と出会うことになるからである。 市の南部の古いパゴダの近くに、二つの湖にはさまれた呉家橋(ウーケキョー)通りという静かな道があった。パーカー博士は自分の病院から二、三キロ離れたこの通りに診療所を開設していた。秋も深まるころ、ハドソン・テーラーは、そこに仮の住居を与えられて喜んだ。この小さな所は、のちに多くの州に何百というセンターを持つようになったチャイナ・インランド・ミッション(中国奥地宣教会)の最初の拠点となったいわれのある場所であるテーラーはこうした最初の毎日を回想して書いている。  今は四つ五つの小さなへやに分けられ、けっこうな天井もで  きているが、以前、穀物倉のようだった二階の大きなへやで  は、夜中掛けぶとんに雪が積もるのだった。その雪の上に自  分のかしら文字を書いたことをよく覚えている。中国の家の  屋根は普通の雨に対しては問題はなかったが、割れ目や裂け  目に吹きつけて中に侵入してくる雪はあまり防げなかった。  しかし、そんなに完全な造りではなかったとしても、人々の  間で働くのには、実にふさわしい小さな家であった。わたし  はそこに、朝、昼、晩の奉仕のための適当な場所を得て、感  謝をもって落ち着いたのである。 市の同じ地域に住んでいた外人は、彼のほかには、彼と同様に中国伝道協会に所属していたJ・ジョーンズ夫妻と、ふたりの若い助手とともに中国で初めての女学校を経営してすばらしい成功を収めていた婦人だけであった。このオルダシー女史は幸いにも、サムエル・ダイヤー牧師―中国宣教の先駆者のひとりでロバート・モリソンの同労者ーの娘たちの助力を得ていた。ジョーンズ一家が学校からあまり遠くない所に住むようにな った時この姉妹のうちの妹は、機会を見つけては家事に忙しいジョーンズ夫人をよく助けたのであった。彼らはできるかぎり近所の訪問に出かけたが、ダイヤー嬢のりゅうちょうなことばのために、幸いな率仕ができた。頭もよく、才能も豊かであった彼女は、まだ二十歳にも満たない若さだった。学校でも非常に忙しい責任を果たしていたが、また彼女は真に魂をかちとることのできる人であった。彼女は宣教師の仕事が、教えるということばかりではなく、人々をキリストに導くことであることをはっきりと知っていた。 このことからハドソン・テーラーは、彼女に興味を持つようになり、だんだんにひきつけられていった。彼らは同労者の家でしばしば会ったが、彼女は非常に率直で、自然であったので、ふたりはやがてよい友だちとなった。たいせつな問題のすべてについて、彼らは同じ気持ちをもっていることがわかり、彼は意識していなかったが、彼女は彼の心に新しい満足を与えはじめていた。 しかし、まもなく寧波の宣教師のうえに起きた突然のできごとが、このふたりの友情を中断してしまった。宣教師をすべて虐殺するという陰謀が発覚したのだ。結局この計画は実行には移されなかったのだが、この地城全体にわたって広東人の憎悪が激しく、子供のいる家族を沿岸地方に移す必要が考えられるようになった。ハドソン・テーラーが上海の方言をよく知っていたために、一隊の同行者としていちばん適任だということになった。このような時に、この地方を去るのは困難なことではあったが、拒否のできるような事柄ではなかった。 オルダシー女史にも勧告がなされたが、彼女は安全な場所を求めようとはしなかった。ちょうどそのころ学校は、彼女の年齢も考慮して、米国長老教会宣教会にゆだねられようとしていた。時は不必要な変更をすべき場合ではない。可能なかぎりの用心をしながらいっしょにとどまるようにと彼女は若い助手たちを励ましていた。姉妹のうちの姉は、ハドソン・テーラーの親友、J・S・バードンと婚約していた。そのために妹は寂しく、 守られていないような感じがしていた。こうした時に彼女を残して行くことがどんなにつらいことであったか。しかし、ハドソン・テーラーには、彼の存在が彼女にとって特に慰めになると考えてよい理由もなかった。それに彼は、彼女を忘れようと努めてさえいたのではなかったか。 第一彼は、愛する者に与えられるものが、あまりにも少ないことを敏感に悟っていた。中国伝道協会の代表としての彼の立場に、そのころ、ますます困難を覚えるようになっていた。協会が借金を負っていたこと、彼の給料も借入金から支払われていることなどを、しばらく前から彼は知るようになっていた。こうした事情を思い起こしながら彼はしるしている。  わたしは個人的には、いつも借金を避けてきた。そのために  はお金の使い方に非常に注意をしなければならないことが、  幾度もあった。現在は収入も増し、このことは別に困難では  ないが、協会自体が借金を負ってしまっている。給料として  銀行からおろすように指示される金は、しばしば借金による  ものであった。これについて手紙の交換が始まり、それは翌  年まで続いたが、ついにわたしは良心的な理由から辞職し  た。  わたしにとって神のことばは、「何人にも借りがあってはな  らない」ときわめて明白に教えているように思われた。わた  しにとって借金は、聖書に反することであった。借金は神が  何かよいものを与えて下さらず、与えられていないものをみ  ずから得ようとする決意の告白であった。個人としてのクリ  スチャンにとってよくないことが、集団としてのクリスチャン  にはよいということがありうるだろうか。いくらかの前例が  あるからといって誤った方法を正当化できるだろうか。みこ  とばが教えるところがあるとすれば、それは借金とかかわり  を持つなということである。わたしには、神が貧しく、十分  な持ち合わせがなく、また真にご自身のわざである働きの必  要を他のものによって補うことを喜ばれるとは考えられな  い。仕事が続けられていくために資金が不足しているという  なら、その資金を要していることそれだけが神のわざではあ  りえないと思われる。良心の示しに忠実であるためにわたし  は、協会との関係を断たざるをえなかった。ほんとうにうれ  しいことに、同労者のジョーンズ氏もわたしと行動をともに  するように導かれた。団体を離れるにあたって、どちらにも  全く感情の行き違いなどを残さないですんだことは、ふたり  にとってまことに感謝なことであった……。  こうした方向に踏み出したことは、信仰のなみなみならぬ試  みであった。神がわたしに何をさせようとしておられるの  か。それまでのような仕事を、それまでのように続けられる  ように、必要を満たして下さるのかどうか、必ずしもよくわ  からなかった。しかし神は、わたしを祝福し、わたしのわざ  を祝して下さった。正式に団体から離脱できた時、まことに  うれしく思い感謝した。次に示して下さることを恵みによっ  てなす備えもでき、また主の親しいお取り扱いに強い確信を  与えられた。そして満たされた気持ちでまっすぐにみ顔を見  上げることができた。  主がどれほどの祝福の中にわたしを導いて下さったか、とて  も表現できない。それは以前母国において経験したことの連  続のようであった。信仰が試みられなかったわけではない。  しばしぱ失敗し、み父を信頼しなかったことについては、ほ  んとうに申しわけなく、恥ずかしく思った。しかし、何より  もわたしは主を知ることを学んでいたのだ。その時でさえ試  練を失いたくはなかった。主は実に近く、生き生きとして親  しいおかたとなって下さった。時に財政的な困難を経験して  も、個人的な必要が満たされなかったことは一度もなかっ  た。困難は、周囲にいる何十人もの飢えて死にかかっている  人たちを助けるためであった。こうした困難は目だちはしな  かったが、他の面で探られ、深められて、さらに豊かな実を  結ぷ結果となったのである。 その冬、彼らがめんどうをみていた貧しい人たちは、長髪賊の乱のために荒らされた地区から上海へ流入して来た難民であった。程度の差はあったが彼らは、病気におかされ、衣服もなく、飢餓にひんして苦しんでいるという状態で、低い弓型の墓をあけて住んだり、半ば廃屋となった建物に住んだりしていた。ハドソン・テーラーは、ロンドン・ミッションに属するチャペルの一つの責任を持って、毎日、市の寺院で説教をしていた。さらに彼は時間をつくって、この気の毒な人たちのすみかをジョーンズとともに訪れ、飢餓状態の多くの人たちに食を与えたのである。 彼がいつも寧波に思いをはせていたのは、このように仕事がなかったからではなかった。そこへ行けば結婚問題を切実に考えぎるを得なくなる自分を気づかってもいた。「できることなら結婚するな」とは、誤解を招きやすい神秘的なことばであるが、ハドソン・テーラーは、その意味を理解しはじめていた。神からの大きな愛が与えられていたからであり、その意味するところを隠すものはなかったからである。 その間、乗り越えなければならない障害は非常に多かったが、寧波でも同じ恵みの摂理のわざが続いていた。しかし問題は、最も心を用いていた相手にあったのではない。マリヤ・ダイヤーは深みのある優しい性質の人であった。子供の時から孤独で、真の心の友にあこがれながら成長した。父親はほとんど思い出せないほどだったし、母親も彼女が.十歳の時に世を去っていた。オルダシー女史を助けるために中国へ向かう道で真の回心を経験したが、そのために彼女の宣教師としての働きは、そうでなかった場合に考えられるのとは全く違うものとなっていった。しかし、なんといってもまだ十代の少女にとって、宣教師であることは寂しい働きであった。姉が婚約をしてからは、なおさらそうであった。 そんな時に彼が来た。きよくあること、用いられること、神に近くあることを自分と同じように求めている人として彼女の心に強い印象を与えた若い宣教師が来たのだ。彼は他の人と異なっていた。それは彼が特に天分が豊かで魅力があったからではなかったーもっとも彼は聴明で、感じのいい人であり、静かで楽しいふんい気を持ってはいたがー彼のうちには彼女を安らがせ、自分を理解していてくれると感じさせる何かがあった。 彼は確かに真の世界に生き、真の偉大な神を持っているようであった。彼について別に多くを知っているわけではなかったが、彼が近くにいるのを知ることは彼女にとって慰めであった。彼がわずか七週間後に汕頭へ帰って行った時は、彼女が自 分で気づいてはっとするほど彼をなつかしく思っていた。 それからすでに見てきたように、汕頭での働きの道が閉ざされ、彼は寧波に帰って来た。彼女にとってはうれしい驚きであった。おそらく彼について自分がいだきはじめていた感情を自認するようになったのは、このことによってであろう。や がて彼女はそれに気づいた。真実で優しい性質の彼女は、自分の心を神の前に隠そうとはしなかった。また彼女は彼のことを別にだれにも語りはしなかった。彼女が彼のうちに見たものを、他の人も見るとはかぎらなかったからである。人々の中 には彼の中国服姿をきらい、土地の人たちと同化するのをよいと思っていない人もあった。彼女は彼の中国服が大好きだった。というよりも、それが表わすもの、つまり中国服を着るような彼の気持ちが大好きであった。彼の貧しさや、困った人 たちに与える態度も彼女には全くよく理解できたし、また、どれほど同情したことであろうか。他の人たちは彼が広大な未伝の内陸へ行くことを切望しているのを、なぜ空想的だと考えるのか。それこそ彼女の心の重荷であったし、彼女もそうした生き方を願っていたのだ。ただ彼女が婦人であるために、実現性を少なくしていたように思われたにすぎない。それで彼女はその友のために熱心に祈った。もっとも彼に対しては、そのことをわずかしか表わしはしなかったが。 彼が上海での滞在を余儀なくされている間にも何か月かが過ぎ去って行ったが、彼にとって彼女のそばを離れることがなんらかの打撃であるということさえも彼女は知らなかった。それからついに一通の手紙が来た。大きなすばらしい喜びが突然やって来たが、それは驚きではなかった。むしろ長い間、うちに輝いていたことが、静かに外に現われて来たにすぎない。彼女は結局誤ってはいなかったのだ。ふたりはもともと互いのための存在であった。「み前にともに歩むために神が選ばれたふたり」であった。 最初のうれしい感謝から立ち上がることができるとすぐに、彼女は最も同情的であった姉を見つけに行った。次になすべきことは、オルダシー女史に、ビウラの場合と同様に、この婚約を認めてくれるように願いつつ話すことであった。しかし、この話を聞いた時の老女史の怒りはたいへんなものであった。 「テーラーさんですって!あんな若い貧乏なひとりよがりの長物、あの人にどうしてそんなことを考えることができるのでしょう。もちろん、この求婚はただちに断わらなければいけません。わたしの言うことはこれだけです」。 マリヤは彼女にとって彼がどんなに大きな存在であるか説明しようとしたが、むだであったし、事態をますます悪化させるのみであった。彼女をそうした愚かさからすぐに救い出すために、親切な人が最大の善意をもって、すべてを処理するように取り計らってくれた。その結果は、この問題をここで終わらせるだけではなく、今後、決してふたたびこの話を持ち出さないようにと願ったオルダシー女史のことばどおりの手紙を書くことであった。困惑しきってしまい、非常に心を痛められながらも、哀れなこの少女には、選択の自由がなかった。あまりにも若く、経験もなく、内気な彼女にとって、友人たちからいよいよ支持を得ているオルダシー女史の決定に逆らうことはできな かった。骨身にしみる悲しみに打ちひしがれながら、彼女にできることは、すべてを天のみ父にゆだねることであった。主は知られ、主は理解して下さる。それからの長く悲しい日々、姉までがオルダシー女子の立場に立ってしまっても、彼女は、主にとってはむずかしすぎることは何もないということを確信して安らぎを得ていた。「もし主にわたしのイサクが殺されなければならないとしても、ふたたび生かしたもうことを知っている」と彼女はくり返しくり返し自分を納得させるのであった。 しかし、ふたたび春が訪れ、離れていた人たちが上海から帰れるようになると、彼女の立場はいよいよむずかしいものとなってきた。ハドソン・テーラーがふたたび現われることを怒ったオルダシー女史は、あたかも自分の義務であるかのように、あらゆる可能な方法で彼を軽べつした。彼はマリヤ・ダイヤーからもらったあの手紙のために、彼女に会おうとすることもできず、彼女の態度の変化についてなんの手がかりも得られなかっ た。有能で魅力的な彼女に対して、他の人に勧められて公然と求婚する者たちもあった。そして、善意からの人づき合いの方法と、中国人の作法とが結びついて、ふたりが会うのは、ほとんど不可能なことだった。しかし、ふたりは祈っていた。非常に試みられながらも、主の御旨を心から願ってふたりの心は神に対して開かれていた。真実、主はすばらしい働きの方法をお持ちであった。 七月の蒸し暑い午後のことであった。ジョーンズ夫人の家で婦人宣教師の祈り会が持たれる順番になっていた。その日、集まる時は別になんのこともなかったが、帰る時には非常に困難なことになった。いつもの婦人たちが集まって会が始められた。するとその時、ほとんどなんの前ぶれもなく竜巻が襲って来た。竜巻は海水が流れ込んでいる川を、まるで掃き上げるかのようにしてさかのぼり、寧波の街を水浸しにしてしまった。続いて激しい豪雨が降りはじめた。診療所にいたジョーンズとハドソン・テーラーは、道路が洪水になったために帰宅が遅れた。家に着いた時には、婦人たちはほとんど帰ってしまっていたが、学校の召使がそこにいて、「マリヤ・ダイヤーさんともうひとりのかたがかごを待っておいでです」と告げた。するとジョーンズはハドソン・テーラーに、「あなたは書斎へ行っていて下さい。彼女に会えるかどうか見てきますから」と言った。 ほどなくジョーンズはもどってきて、婦人たちがジョーンズ夫人と三人だけでいて、テーラーに会うと喜ぶだろうと言った。 テーラーは夢中で、二階にのぼって行き、彼がこよなく愛していた人と会うことができた。確かにそこには他の人たちもいたが、それは中国の習慣としてやむをえないことであった。しかし、彼にはほとんど他の人々が見えなかった。彼の目にはいったのは彼女の顔だけであった。その時、彼はただ、ロンドンにいる彼女の後見者に結婚の許可を願う手紙を書いてもよいかとだけ尋ねるつもりだった。けれども彼はいっさいを話してしまった。彼にはどうすることもできなかったのだ。一方、彼女は、そこには親友しかいなかったし、いつまた会えるかもわからないと思って、すぐに彼のことばに同意した。それから彼女は、それをはるかに越えることをしたのだった。真実な女性の心をもって彼女は、彼が自分のことを思っていてくれるのと同じように、彼女も彼を慕わしいと思っていると言って彼を安心させたのだった。それで、ハドソン・テーラーは「祈ってすべてを主にゆだねましょう」と言った。このことばで、その場の緊張は和らげられた。 オルダシー女史の反対はますます強くなり、本国に手紙を書いて遠縁の人たちを説得しようとしていた。このようなことを知りながら、返事を待っている間の四か月は、実に長く思われた。ロンドンにいる彼女の後見者が女史の強い意見に動かされたらどうなるであろう。結婚に同意することを断わられたらどうなるのだろう。若いふたりはともに、両親や両親の代理として権威を持つ者への服従がなければ、神の祝福を得られないことをはっきりと自覚していた。のちにハドソン・テーラーは書いている。  わたしは両親のはっきりした命令にーたとえ両親がまちがっ  ていてもー従わないで罰を受けなかったというような例を知  らない。主によって勝ちなさい。主はいかなるドア(注)で  も開かれる。こうした場合に責任は両親の側にある。それは  厳粛な責任である。むすこや娘が真実に「わたしはあなたが  道を開かれるのを持ち望みます」と言えるなら、問題は主の  み手のうちにあり、主がそれを取り上げて下さるであろう。 そして主は、確かにそれを取り上げられた。十一月も終わりに近くなったころ、長い間待っていた手紙が来た。しかもそれはよい返事であった。ロンドンのおじは注意深く調べてから、ハドソン・テーラーがきわめて有望な宣教師であることを知って満足したのであった。中国伝道協会の書記たちが彼について言ったことは、よいことばかりであった。また他の人たちからも、彼について聞いたことは、みな最高の評価であった。穏やかでないうわさを聞いても彼は、それを聞くのに価しないものとした。彼は心からめいの婚約に賛成し、ただ彼女が法定年齢に達するまでは結婚を延ばすようにと求めてきた。彼女が二十一歳に逮するまでには、あと二か月とちょっとにすぎなかった。 公式の婚約が成立してからの幸いな冬の日の喜びは、それまでのできごとのすべてを十分に埋め合わせた。一月十六日土曜日に花嫁候補は二十一歳になった。結婚式はその次の週に予定された。 ハドソン・テーラーは書いている。  こんなに気持ちよく感じたことは今までにありませんでし   た。…母上様、何が起こったのか、ほんとうに実感がわきま  せん。ともに苦しみ、待たされたのちに、ともに会っていっ  しょにいるだけでなく、神が許されるならば二、三日のうち  に結婚をするはずです。神はわたしたちをよくあしらわれま  した。神は確かに祈りに答え、敵の力に対してわたしたちの  味方となって下さいました。もっと主に近く歩み、もっと忠  実に主に仕えたい。あなたがわたしの愛する者を知っていて  下さったら、なんとお思いになるでしょう。彼女はまことに  宝です。彼女はわたしが望むすべてです。 六過間ほどたってから彼はまた書いている。  最も優しく、また献身的に愛する者と結婚することは、どん  なことばでも表現できず、あらゆる想像を越えた祝福であり  ます。そこには失望はありません。そして、わたしのように  すばらしい宝を与えられていると、毎日が愛する主のみここ  ろを、いよいよ明らかに示される時です。毎日いよいよ誇ら  しい幸福な気持ちになり、地上の賜物の最善である妻を与え  られたことを、すべてのよきものの与え主である神に、いよ  いよへりくだって感謝させられます。     注   テーラーはその時、外国宣教への召命の問題を特に考えて   いた。ここで言っているのは、両親のひとりか、またふた   りともが賛成しない場合である。 八 収穫の喜び   種まきののちに収穫   雨ののちに太陽   神秘ののちに理解   苦しみののちに平安           F・R・ハーバーガル 中国でのハドソン・テーラーの働きの第一期はわずか二年半を余すのみであったが、それはむだのない豊かな期間であった。呉家橋通りの小さな建物も、今ではほんとうの家庭を営んでいるようになった。礼拝堂と客室のある階下は前と同じで、信者や求道者が自由に出入りしていたが、二階の明るいいくつかのへやが、もとは物置きのような屋根裏であったとは思われなかった。カーテンの掛かった窓からは、前の狭い道と、後ろの運河が見おろせた。婦人や子供が男子とともに住めるようになったので、大きな変化がもたらされていた。テーラー夫人は、すでに近所の人々の間でよく知られていたが、訪問して行くとますます歓迎されるようになった。そして「世界じゅうは愛ある者を愛する」ゆえに、一つに結ばれた心を持つふたりの魅力は、多くの人々をひきつけたのであった。最も親しい友であり、助力者のひとりに、以前の仏教徒指導者で、町で綿の商人をしていた人物があった。この人は倪(ニー)といって、長い間寧波に住んでいたが、それまで福音に接したことがなかった。彼は非常にまじめな人で、ある偶像礼拝の団体の会長として「神々」に仕え、多くの時間と金を費やしていた。しかし、その心は安らかではなく、彼なりに熱心におつとめをすればするほど、そのむなしさを感じさせられていたのであった。 あるタ方、道に面して開いたままになっている戸口の中で何かが行なわれているのに彼は気がついていた。そこには人がおおぜい集まっていて、何か集会でもあるようだった。それが宗教的な問題を話すための集会だとわかると、彼もその中へはいって行った。彼にとって、罪の罰と、どこともわからない所へ魂が移り住まなければならないということほど、大きな関心事はなかった。若い外人が中国服を着て、聖典から説教をしていた が、寧波語を自由にあやつっていたので、倪はその一語一語を理解することができた。しかし、いったいそれはどういう意昧なのだろう。  ちょうどモーセが荒野でへびを上げたように、人の子もまた  上げられなければならない…神はそのひとり子を賜わったほ  どに、この世を愛して下さった。それは御子を信じる者がひ  とりも滅びないで、永遠の命を得るためである。神が御子を  世につかわされたのは、世をさばくためではなく、御子に  よって、この世が救われるためである。 救われる、さばかれない、永遠のいのちを見いだす道、世を愛する神、へび、人の子が上げられた―彼の心の中に起こったことを脱明するのに、「倪氏は関心を持った」というのでは、あまりにも不十分である。罪と罪の恐ろしい結果からの神のいやしの説明である荒野におけるへびの物語。主イエスの命と、死と、復活。こうしたことすべてが自分の魂の必要に対してどんな意義を持つかということを理解した彼は、聖霊の力によって安息を与えられたのであった。実際それは、今日でもなお見られるいつに変わらぬ奇跡である。 「わたしがこの地から上げられる時には、すべての人をわたしのところに引き寄せるであろう」。 集会は終わろうとしていた。外人教師は話をやめた。こうした問題で先頭にたつのに慣れた者の直感で、倪は、自席に立ち上がり、聴衆を見回しながら飾りけのないことばで言った。 「わたしは長い間真理を求めてきましたが、見いだせませんでした。遠近を問わずあちらこちらに旅行しました。しかし、結果は同じことでした。儒教、仏教、道教などにも安息はありませんでした。しかし、きょう聞いたことにほんとうの安心があることがわかりました。わたしはきょうからイエスの信者です」。 彼は熱心に聖書を学びはじめた。その知識と恵みにおける成長はめざましかった。彼は回心してからまもなく、以前に会長をしていた団体の集会で話すことになった。同行して行ったハドソン・テーラーは、彼が福音をはっきりと、しかも十分に証明したことに深い感銘を受けた。以前彼についていた人がひとり、彼の証言によってキリストに導かれた。こうして倪は救霊の喜びを知りはじめたのである。友人となった宣教師に、突然彼は質問した。 「このよい知らせはあなたの国ではいつごろからわかっていたのですか」。 「何百年か前からです」とあまり気の進まぬ返答があった。 「なんですって、何百年もー」。彼は悲しそうに続けた。「わたしの父は真理を求めました。しかし、見いだせないままに死んでしまいました。なぜもっと早く来て下さらなかったのですか」。 これはハドソン・テーラーがその後も忘れられなかった苦難の瞬間である。それ以後は伝えうる人々にキリストを伝えることを、さらにせつに求めるようになった。 このころ、全時間をささげて仕事を助けてくれる人が必要であった。その必要があまりに切実であったために、よほど忍耐をしていないと、聖霊の先走りをしてしまいそうであった。若い宣教師たちには、その時まで、一定した中国人の協力者がいなかった。倪は、仕事の許すかぎりの時聞をささげて、熱心に働いていたし、かご職人の方能貴、ホシの農夫王、教師の邱(キュー)とその母も同様であった。彼らも、他の人たちもみな、夕刻と聖日は宣教師館で多くの時間を過ごしたが、日中は本業に時間を取られていた。テーラー夫人が毎日多くの時間を用いて教えている学校の先生でもいいし、他の人でも報酬を与えて雇い、訓練して働きに役だつようにするほうが容易であったろう。しかし、長い目で見ればこの方法は助けになるよりも妨げになるだろうと宣教師たちは考えた。どれほど真剣であったにしても、報酬を払うことー特に外国からの金で報酬を払うことーは、彼らの品性を傷つけるとまではいかないとしても、彼らの影響力を減退することは避けられないに違いない。彼らの神からの召命がだれの目にも疑えぬものとなり、信者たちが彼らをサポートできる時が来るだろう。中国人の教会によらなくて、どうして中国に伝道ができるだろうか。宣教師が霊的な発展を忍耐して待たなけれぱ、回心者たちが主イエス・キリストへの愛から、報酬なしに、進んで奉仕をすることの喜ぴを知ることはできないだろう。 このようにハドソン・テーラーとその同労者は、すこぷる多忙な毎日を過ごし、彼らの周囲には若い回心者たちが成長を続けていたのである。彼は路傍や礼拝堂での説教、訪問者の応待、通信や経理の処理、伝道旅行、さらにそれらに加えて医療の仕事にも少なからず力を用いていた。しかし、何があっても第一に主要な仕事である信者や求道者とのたいせつな毎日の交わりを欠くようなことはなかった。 回心者たちが恵みと神の事実の知識に成長していったのは、惜しみなく注がれた愛の配慮を考えれぱ、むしろ当然のことであった。宣教師たちは、夕刻になるといつでも相手をしてくれた。定期集会が終わると、注意深く準備された三時限にわたる学びが整えられていた。最初が旧約聖書からの学びであり、ハドソン・テーラーは喜びに満たされて旧約の霊的な教えを説き明かした。しばらく休んでから「天路歴程」のような有益な書物の一章を読んで聞かせ、最後に新約の一章節を取り上げて討論し、また実生活に適用させていったのである。礼拝と伝道集会が行なわれる日曜日までは、毎晩このような順序がくり返されていた。 聖日にも講義の時間があった。信者たちにとっては、七日のうちに一日、店をしめて家業を犠牲にすることは少なからぬ打撃であった。しかし、ハドソン・テーラーと同労者たちには、そういうことがなくては強力な自力伝道のできる教会の建設は不可能であることがよくわかっていた。それで彼らは、せっかくの犠牲を有意義なものとするために、神にささげた時間をむだにせずに有用な仕事を喜んで続けることができるように、全力を尽くす覚悟をしたのである。定期集会の間の時間には、信者、求道者、患者、学童、下僕たちが、それぞれの分級で、直接に、最も効果的な方法で教えを受けていた。四人しかいない宣教師にとって、このために日曜日の負担は相当なものであっ た。しかし、彼らがそのためにいくらかでも苦労し、疲れを覚えたとすれば、彼らはそれによって回心者たちの払う犠牲を、より身近に感じることができたであろう。遠くから歩いて来る者は、食事もとらずに何時間もかかって来なければならな かった。中には迫害を受けて、個人的な損失を余儀なくされた者もいた。しかし彼らの大部分は、礼拝のために聖日さえ自由になれば、どんなに困難な問題にぶつからなければならなかったとしても喜んでいた。彼らは礼拝にあずかるのとそうでないのとでは、一週間のうちにどれほどの相違があるかということを知っていたからである。 こうして教会は成長し、宣教師たちの働きは発展し、奉仕の機会はだんだんと広がっていった。ハドソン・テーラーが結婚した年の夏に天津条約が調印された。ついに内陸各州への道が開かれたのである。いまや宣教師たちは旅券の保障のもとに自由に旅行する権利を得、長年祈り続けてきた便宜を、ただ利用しさえすれぱよいことになった。十一月にテーラーはしるしている。  この手紙が着く前に新条約についてすべてをお聞きになって  いることでしょう。奥地行の…何人かの宣教師を寧波から失  うことになるかもしれません。ああ、祖国の教会が目ざめ、  よきおとずれを伝えるために、もっともっと多くの人をこち  らに送って下さらないものでしょうか。わたしたちの多くが  奥地へ行くことを待望しています。せつに願っているので  す。しかし、主以外にだれも解くことのできない責任と仕事  に縛られているのです。主がこの地の多くの中国人に「賜  物」を与えて、すでに形造られた諸教会の世話ができるよう  にして下さり、わたしたちを自由にして、開拓伝道に出かけ  させて下さいますように。 伝道的な自給教会を神の祝福によって起こすこと、これが彼らの心の重荷であった。依然として彼らを主にある両親として必要としている、小さな信者の群れの望みを無視することはできなかった。これらの魂は、彼らの愛と祈りにゆだねられたのであり、今彼らを残して行くことは、それが他の人たちの益となることであったとしても、親の責任という最高のゆだねられたわざを無視することになった。のちになってはっきりと見られるようにこの確信は正しかった。倪、能貴、王をはじめ、その他の信者たちは、神の用いうる人たちであった。そのほとんどは貧しくて教育もなかったが、彼らは人をとる漁師になるはずであった。初期の回心者のうち、少なくとも六、七人が、チ ャイナ・インランド・ミッションの草創期に、彼らの愛する指導者を助けるようになった。事実、彼らの協力がなくてはー人間的に考えてー新しい計画は実現できなかったであろう。この時の呉家橋通りの集中伝道の結果を、あまり高く評価することは困難である。宣教師たちの状態は、たぶんに彼らの信仰の子供たちの状態の上に現わされた。霊的な祝福を伝えるのに、これ以上に確実な道はない。 刈り入れのこの喜びの最中に、突然、非常に悲しいできごとが起こり、そのためにハドソン・テーラーは新しい責任を引き受けることになった。居留地ではそのころ、パーカー博士の新しい病院が完成していた。場所は市の門の一つに近く、川を見おろす所にあった。広々としたいくつかの建物を、毎日何千もの人々が見ていた。そこのすべては、苦難の年月を経て築き上げられた事業の必要にすばらしくよく適合していた。しかし、博士の家には、悲しみに打ちひしがれた人たちがいたのである。あれほど多くの困難を栗り越えてきたこの勇者の妻は、ほんの二、三時間の病気ののちに四人の子供を残して去って行った。彼らはその愛する者のゆえに泣いていた。ひとりの子供は重病だった。博士は子供たちをみなスコットランドへ連れ帰らなければならないと悟っていた。しかし、博士が病院を離れたらその後はどうなることだろう。病院には患者が満員であったし、診察室には毎日手当てを必要とする人が群がっていた。代わってくれる医者もいない。冬を迎えようとしている時に、病院の閉鎖は考えられないことであった。この仕事のために残してゆく経費もなかったー経費は、彼の個人的な医療事業の収入によ ってまかなわれていた。けれども博士は、以前の協力者であったハドソン・テーラーが診療を続けてくれることができるのではないかと考えた。そこで彼らに予期していなかった勧誘がなされたのである。テーラーは回想して言う。  主に導きを求めてから、必要を満たす方法を備えられ、祈り  を聞きたもう神のご忠実さにのみたよって、診療だけでなく  病院の世話も引き受けるようにと迫られているのを感じた。  診療を受けに来る人々のほかに、時には五十人以上もの入院  患者がいた。ベッドのうち三十床は、普通、無料の患者とそ  の付き添い人に割り当てられ、それ以外は食費を払って阿片  吸引の習慣を直してもらう人々のために当てられていた。外  来者の医療費はもちろん、入院患者の費用も無料であったの  で、毎日の出費は相当なものであった。その時までは、博士  が外人を診療して得た基金でこれらのすべての経費がまかな  われていたが、博士の出発とともに収入源は全くなくなって  しまった。しかし、主イエスのみ名によって求めることはな  んでもなされると、神は言われたではないか。それにわたし  たちは、方法ではなくて、神の国そのものをまず求めなさ  い、そうすれぱこれらすべてがわたしたちに加えられると聞  いている。まさに十分な約束ではないか。 若い宣教師たちにとって、その地位が望んでいたものでなかったことも、本国の友人がだれもこのことを予見しうるはずがなかったことも、手紙の返事を何か月も期待できないこともいっさい問題ではなかった。必要のために彼ら自身は主だけを見上げていたし、期待にそむかれることもなかったではないか。緊急事態に備えられた信仰の秘訣は、神に対する静かな、実際的な、日々の依存と、信じる者の心に神を生き生きとさせる信頼 であった。彼はしるしている。  寧波病院のめんどうをみるなどということは、実際にそうなる八日前までは夢にも考えなかった。本国の友人がそのための必要を予見できなかったのはなおさらのことである。しかし、主はこのようなことが起きるのをすでにご存じであった。それは事態が進むにつれてしだいに明らかにされていた。病院の運営の事情が変わり、病院にはその日の必要を満たすだけの基金しかなく、その後はただ祈りにたよるしかないという実情がわかった時にパーカー博士の残していった働き人たちが辞職する決心をしたのは無理もないことであった。パーカー博士はずっと以前から働き人を替えたいと思っていたが、別の種類の助力者をどうして得られるかわからなかったのでちゅうちょしていた。しかし、ハドソン・テーラーにはその方法がわかっていた。だから非常に楽な気持ちで、彼を失望させることのない人々の群れに目を向けたのである。呉家橋通りの信者たちは、霊的な必要と同様に、物質的な必要についても主に信頼することを当然と思っていたからである。大は小を兼ねるのではなかった。「先生」がよく思い起こさせてくれたように、神は子供の必要を決して忘れることのない真の父ではなかったか。そこで彼らは、友である宣教師の働きを強化するためばかりではなく、自分たちと、また関心をもつすべての人に対して、神の忠実さをもう一度新しく明らかにするために、喜んで病院に来たのである。それぞれの働きは一様ではなかった。ある者はできるだけの時間をささげた。ある者は必要は備えられたが別 に賃金の約束もなしに全時間をささげて働いた。みんなが病院とその問題のために、心を用いて祈った。診療所にも、病室にも、新しい空気がしみ込んでいったが、それも不思議なことではなかった。患者たちの間に―とにかく初めは―家庭的なふんい気と、熱心な扱い方に対する喜びがあふれていた。毎日が新しい興味の連続であった。これらの働き人ー草刈りの王、ペンキ屋の王、倪、能貴たち―は、限りない喜びの秘密を知っているように思われたし、多くのものを与えることのできる者のように思われたからである。彼らは病人には親切で慎重であったが、そればかりではなく、時間があるとすぐ、彼らの命を造り変え、安息を求めて来る者をだれでも受けうるかたについて話していた。本もあり、絵もあり、歌もあり、すべてが賛美を奏しているようであった。礼拝堂での毎日の集会は、次の集会をいよいよ待望させるようなものであった。 中国で秘密が保たれることはほとんどない。病院を経営するための経済的な基礎も秘密に属することではなかった。まもなくすべてを知った患者たちは、結果がどうなるかを熱心に見守っていた。パーカー博士が残した金はなくなり、ハドソン・テーラー自身の供給するものも心細くなってきた。次に何が起こるのだろうと想像をめぐらす人々も多かった。そのころ彼は、ある時はひとりで、またある時はわずかの助力者たちとともにな って、熱心にせつに祈り求めていた。この事実が公然と知られていたことだけに、ある意味では彼の最も危機的な経験であったとも言える。病院が持ちこたえるかどうか、ということばかりではなく、そこには少なからぬ数の人々の信仰がかかっていた。しかし、予期していた答えもないままに、一日一日と過ぎていった。 ある朝ついにコックの貴華(注)が主人のところへ来て、深刻な報告をした。彼は最後の米袋も開いてしまい、それもどんどん減っていると言った。ハドソン・テーラーは「それではいよいよ主の助けて下さる時が近づいているのに違いありません」と答えるのだった。実際、そのとおりであった。その米袋がからになってしまう前に、若い宣教師は一通の手紙を受け取った。それは彼が今まで受け取った手紙の中でも実に驚くべきものであった。 バーガーから来たその手紙の中には、以前と同じように五十ボンドの小切手が同封してあった。ただ今度の手紙には、バーガーが神のために用いるべき富の重荷を強く感じていることが付け加えられてあった。そのころバーガーの父親がなくなり、相当な遺産が残されたが、自分のためにその遺産を使おうと思ってはいなかった。同封されていた小切手は当座の必要のためであったが、氏はなおこの遺産の使い方について神の目的を知るために祈っている。だから、中国にいる友人が祈って、もっと多くの金を、最も有効に用いる道があれば、事情をよく知らせてくれるようにというのであった。 五十ポンド!それが今テーブルの上にある。はるか遠方にいる友人が、最後の米袋のこと、病院の多くの必要のことなどについて、何も知らずに、もっと必要はないかと尋ねてくれた。ハドソン・テーラーが感謝と恐れに圧倒されたのも当然である。物資が足りないという理由で、それよりもむしろ信仰が不足しているために、病院の責任を引き受けていなかったとしたら、どういうことになっていただろうか。これほどの神を持ちなが ら信仰が不足しているというのは、いったいどういうことなのだろうか。 そのころまだ救世軍はなかったが、礼拝堂で開かれた感謝会の時の歌と喜びの叫びは、救世軍の集会のようなふんい気であった。もっとも病室に患者がいたために、集会を短く切り上げなければならなかったことは、そういう集会と異なっていた。患者たちはこの集会の様子に耳を傾けていたことであろう。そこにいた男女は、それまでは空虚な異教以外には何も知らなかったのである。「あれほどのことができる神がどこにおられるだろうか」、「わたしたちの悩みの時に神々が救ってくれたり、こんなぐあいに祈りに答えてくれたことがあるだろうか」。これが彼らが心にいだいたり、口に出したりした疑問であった。      注   この人は、上海や崇明(フォンミン)などでテーラーと   いっしょにいた有用な下僕で、その時にはりっばな信者に   なっていた。 九 陰での数年間   ああこの人々を救うため   その救いのために   滅びる彼らが生きるそのために   死になさい彼らすべてに自分をささげなさい 多忙ではあったが、また幸いなこの奉仕は、これに従事する人々に多大の影響を及ぼしていた。九か月の間に、病院からは十六人の受洗者を出し、このほかにも三十人ほどの人が寧波の教会のどれかで受洗の志願をしていた。しかし、中国での六 年間、実に激しい戦いの六年間は、彼の上にそのあとを残さないではいなかった。ハドソン・テーラーの体力は急速に衰えていった。彼は父親にあてて書いている。  人々は滅びつつあり、神は奉仕を非常に祝していて下さいま  す。しかし、わたしたちは弱ってきており、どうしても助け  を受けなければなりません。  熱心で献身的な青年で、実際の必要以上を望まず、神に仕え  ることのみを望み、中国へ来て働いてくれる人をご存じない  でしょうか。ああ四、五人の助力者がいてくれたらと思いま  す。彼らはおそらく六か月ほどの勉強で中国語の説教ができ  るようになり、必要の満たされる方法も祈りに答えられて備  えられるでしょう。 「人々は滅びつつあり、神は非常に奉仕を祝していて下さる」。この緊急の事態が、一八六〇年に病人として本国へ送られたハドソン・テーラーをその重い病気と別離の苦痛からささえていた。もう一度中国へ帰れるほどじょうぶになることがな いという医師たちの考えが正しいように思われる状態が続いた時にも、中国の切迫した事態が彼をささえていた。彼の魂の中で、実際に見てきた重大な必要と、それに対する強い責任感とが、変わることのない炎となって燃え続けていた。あの滅びゆく魂にキリストを伝えるという召命感は、病気によっても、励ます者がなくても、他のどんな困難によっても、弱まることはなかった。 テーラーは、健康状態の好転とともに、以前の病院の近くに住むためにロンドンの東端に落ち着き、医学の勉強にもどることができた。彼はまた聖書協会の同意を得て、ローマ字の寧波語聖書の改訂にも従事した。そしてしばらくの間、生涯の奉仕の場に中国を選んだ青年たちと、相当な量にのぼる手紙の交換をしていた。その結果、寧波のジョーンズ夫妻を助けるために、ただひとりの器であったが彼らのうちから送り出されることになった。(注1)しかし、しだいに外部の人たちの中国への興味は薄れてゆき、テーラー夫妻は、二、三の友人とともに祈りと忍耐の生活に退いた。まだ二十九歳と二十四歳の夫妻にとって、最も愛した仕事から離れて、ロンドンの寂しく貧しい、まるでよどみ水のような地区に取り残されていることは、容易なことではなかった。しかし、隠されたこの年月になされた試練と成長とがなければ、青年の幻と熱情とが成熟して、のちの彼に見られるようなリーダーツップを生むことはできなかっただろう。五年にもわたる陰での長い年月の間に、テーラーが経験したことは、ほこりにまみれた古い荷箱が見つけられなかったら、ほとんど何もわからなかったであろう。その箱をあけると、役にもたたないようなくずの間から、十二冊の小さなノー トが出てきた。ノートの一冊一冊には、彼の筆でひと続きの記録がしたためてあり、一冊の欠けもなかった。古びたノートにしるされた記録をたどりながら読んでいくうちに、涙に目を曇らされる物語が明らかにされていった。 それまで知られていなかったベージからは、いよいよ神と親しく、いよいよ神に依存している彼の姿が明らかにされた。ここには信仰があり、最も小さいことに至るまでの忠実さがある。献身があり、絶え間ない働きに至る自己機牲がある。そしてさらにしんぼう強くくじけることのない祈り、すばらしく答えられた祈りがあった。しかしそこには、何にもまして一心に神に従う魂の深い長い間の訓練があった。そして、見えるところで はなくて、信仰によって歩むために召された人が、しだいに強められ深められていく姿が示されている。実に神のみに結びついた心のことばに言い知れぬ確信が秘められている。この確信こそ他の何にも増して神に喜ばれるものである。「信仰がなくては、神に喜ばれることはできない。なぜなら、神に来る者は、神のいますことと、ご自身を求める者に報いて下さることを、必ず信じるはずだからである」。 外面的には静かな、普通の仕事の続く日々であったが、さまざまの試みや喜びが彼らの経験をさらに豊かにしていた。寧波で彼らの祝福となった小さな娘に続いて、三人の弟が生まれていた。四人の子供たちのいる家庭であったが、その経費は非常に限られており、テーラー夫妻は直接に神により頼む歩みを続けながらも、しばしば試みられた。寧波での仕事のための必要を備えたり、指導を与えたりしなければならず、たびたびの手紙の交換も必要であった。新約聖書の改訂は終わりに近づくどころか、脚注をつけるようになったために、いよいよ仕事が拡大していった。これは寧波の信者にとって非常に役だつことになった。この準備の仕事はなみたいていではなかったが、神の みことばのために毎日何時間も費やすことは、この若い宣教師に少なからぬ祝福をもたらした。 彼は実に、驚嘆に値するほどの量の仕事をした。次にあげるのは、毎日テーラーがおもな仕事に用いた時間を記録しているものの一例である。この記録がなければ、彼の働きはほとんど信じられないほどである。  四月二十七日   聖書改訂七時間(夕刻エクセター・ホール)。  四月二十八日   聖書改訂九時間半  四月二十九日   聖書改訂十一時間  四月三十日   聖書改訂五時間半(バプテスト宣教教会集会)。  五月一日   聖書改訂八時間半(午後十時まで訪問客)  五月二日   聖書改訂十三時間  五月三日   ベイズウォーターでの聖日。朝、ヨハネ三・三三よりのルイ   ス氏の話を聞く。午後聖餐にあずかる(注2)。夕刻は帰   宅して、中国の働きのために祈る。  五月四日   聖書改訂四時間(手紙と訪問客)  五月五日   聖書改訂十一時間半  五月六日   聖書改訂七時間(重要な面接)  五月七日   聖書改訂九時間半  五月八日   聖書改訂十時間半  五月九日   聖書改訂十三時間  五月十日 日曜日   朝、王来君(ワンライシュン)(注3)とヘブル十一章の初   めの部分を学ぶ幸いなひととき。ジェームス・メドーズ氏   に手紙を書く。午後、マリヤとこの家を離れることのため   に、メドーズ氏のために、聖書改訂のために祈る。ロード   氏(注4)に手紙を書く。夕刻、マタイ二十七章四十二節   から「(彼は)他人を救ったが、自分自身を救うことがで   きない」というケネディ氏の話を聞く。ああ、柔和、忍   耐、愛のイエスに似ること、主よ、どうかもっとあなたに   似た者として下さい。 右に言及されている会合は、このころのテーラーの仕事の大きな部分を占めていた。というのは、彼が中国内陸部の伝道を目的とした超教派の委員会の成立のために、最善の努力を払っていたからである。彼は、ある時はひとりで、また時には改訂の協力者であるC・M・SのF・F・ゴー牧師とともに、いろいろな団体を訪れては、宣教地の必要を証明した。そこは長い間放置されていたが、今では旅券も交付され、内陸部での居住さえも許されているのである。どの団体でも彼のことばは同情をもって聞かれたが、これほどの大きな仕事の責任をとる準備は、どの委員会にもないことが、しだいに明らかになった。 こうしたすべてのことの反応として、当然のことながらハドソン・テーラーは、一つの方向へと進んでいった。中国のいくらかの地域を直接に知っていた彼が、全中国の事情を綿密に研究した結果は、実にすばらしいものであった。この研究は、彼の友人で、バプテスト雑誌の編集者であるルイス牧師が、寧波ミッションへの関心を呼びさまそうとして、彼に連載記事の執筆を頼んだことから始まった。第一回目の原稿がすでに記事になってから、ルイスは二番目の原稿を返して来た。返却の理由は、その記事がきわめて重要な迫力のあるものなので、単に一教派の雑誌に限定してしまうべきではないという気持ちからであった。さらに加筆して中国全域を扱い、中国内陸の訴えとして、公に出版するようにと、ルイス氏は熱心に勧めた。 このことから導かれてテーラーは、中国各地とその周辺の属領の霊的な必要について詳細な研究を始めた。彼は寧波にいる間、身近にある問題に圧迫されて、もっと奥地の、さらに大きな必要について考えるゆとりがあまりなかった。しかし今、書斎の壁の地図を毎日見ながら、その魂を捕えて放さぬ約束に満ちた開かれた聖書を前にして、中国内陸の広大な諸州が、彼自身が以前働いていた沿岸地方と同じように身近に感じられた。 「荷を負った心が安らぎを得られるのは、ただ祈りのみによる」というのは、たいして不思議なことではない。 しかし、真の危機は、祈りによって安らぎが得られなくなってしまい、彼が避けようとしていた仕事にいよいよ引き込まれるように思われた時に訪れて来た。自分の祈りに対する答えとして、彼自身でも用いられうることをあの開かれた聖書の光から知るようになったからである。彼はしるしている。  神はわたしに必要な働き人を求めさせ、わたしといっしょに  行かせることを望んでおられるという自覚がしだいに強くな  つてきた。しかし、長い間わたしの不信仰が第一歩を踏み出  すことを妨げたのだ…。  神のことばを研究しながら学んだのであるが、りっばな働き  人を得るために必要なのは、援助を求めるための手のこんだ  訴えではなく、第一に働き人を押し出して下さるように熱心  に神に求めることであり、人々が故国にとどまれなくなるよ  うに教会の霊的な生活を深めることである。使徒たちのした  ことは、方法や手段を得ることではなく、「まず神の国と神  の義とを求めなさい。そうすれば、これらのものは、すべて  添えて与えられるであろう」と言われたかたを信じて、行  き、仕事をすることであると知った。  不信仰は、常に一貫性を欠いている。イエス・キリストのみ  名によって同労者を与えられるように祈れば、与えられるで  あろうということは疑わなかった。このような祈りが答えら  れて、わたしたちが出て行くための費用が備えられ、中国の  未伝の地の門戸がわたしたちの前に開かれることも疑わな  かった。しかし、その時わたしは、まだわたし自身のため  に、力と恵みを与え続けて下さることについて主に信頼する  ことを学んではいなかった。当然のことながら、当時のわた  しは、わたしとともに行く備えのある他の人を、神が保って  下さることを信じえなかったのである。わたしはこのような  仕事にどうしても付きまとう危険、困難、試練の中で比較的  経験の浅い信者が挫折してしまって、彼らを全く無理な仕事  につかせようとしたということで、激しくわたしを非難する  者がいるのではないかと恐れた。  わたしは何をすればよいのだろうか。血のとがめを受けてい  るような感じがいよいよ強くなって行った。わたしが求める  ことを拒んだという理由だけで、働き人は起こされず、中国  に向かって行かない。かの地では何万もの人たちが、キリス  トのないままに滅びの墓に向かっでいるのだ。滅びてゆく中  国のことで、心も頭もいっばいになって、日中も安息を得  ず、夜もわずかしか眠られず、健康をそこなってしまったほど  であった。 陰での数年にわたる果たすべき役割は全うされ、神の用いうる器は備えられた。東ロンドンの小さな家庭からささげられていたせつなる祈りは、予期していなかったがすみやかに答えられるはずであった。      注   @ジェームズ・メドーズは、チャイナ・インランド・ミッ   ションの創設に三年ほど先だつ一八六二年に、中国に向   かって出帆した。彼は五十年以上もミッションの一員とし   て尽くし、人々から尊敬を受けていた。その娘のうちふた   りは、中国でミッションに属していた。   A当時、ロンドン西部のベイズウォーターには、B・プルー   ムホールと結婚したテーラーの妹アメリアの家があった。   W・G・ルイス牧師は、テーラーが会員であったバプテスト   教会の牧師であった。   B王来君は、寧波の信者のひとりで、テーラー夫妻の働き   を無報酬で助けるために、志願して英国まで来ていた。彼   はチャイナ・インランド・ミッションの最初の牧師のひと   りとして最も献身的に働いた人である。三十年にわたる彼   の祝された働きと、この時の協力とには浅からぬ関係があ   る。   C寧波のE・C・ロード牧師は、米国バプテスト伝道会の関   係の人であったが、ジョーンズに代わって呉家橋通りの教   会の世話をし、メドーズにとっても大きな助けになった。   ジョーンズは病気のために中国を離れなければならなかっ   たが、英国へ到着する前に召天した。 一〇 神に対して沈黙する人   さきにあるものはなく   あとにあるものもない   信仰の歩みは   むなしいように見えるところを踏み   その下に岩のあるのを見いだす             J・G・ホイッティアー ふたたび夏がめぐって来た。ロンドンの街はほこりっぼくて暑かった。テーラーの顔色がすぐれないのを見て旧友のピアスが、海岸のブライトンへ来て二、三日過ごすようにと招いてくれた。彼の健康状態を気づかっていたテーラー夫人は、その時夫が経験していたことを部分的にしか理解していなかったが、喜んで彼を送り出した。彼は耐えがたいほどの魂の問題を、妻にさえ十分に示すことができなかった。 彼が生涯の危機に直面したのは、その日曜日の朝、ブライトンの砂浜にひとりでいる時だった。その朝彼は、他の人たちといっしょに教会へ行ったが、救いのあかしに喜ぷ群衆の姿を見ると、耐えがたい気持ちになった。「わたしには、この囲いにいない他の羊がある」―中国にいる、うせた、滅びゆく者たち、だれもその魂のことは考えない―「わたしは彼らをも導かねばならない」。主のみ声が、主の愛のみ顔が、沈黙のうちに彼を説得しようとするのであった。 神が語りかけておられることを彼は知っていた。すでに見たように、もし彼が主の御旨に自分をゆだね、導きに従って祈るならぱ、中国内陸のための伝道者は与えられるであろう。彼らの生活の必要については、彼は心配しなかった。彼らを召し出し、送り出されるかたは、日用のかてを与えて下さらないはずがない。しかし、もし彼らが失敗したらどうであろうか。ハドソン・テーラーが直面していたのは、未知の状況ではない。彼は中国の事情をよく知っており、当然遭遇する誘惑、自分の領地に堅固な壕を築いている真の敵をよく知っていた。同労者が耐えきれなくなって、責任を彼に問うて来たらどうなるであろう。彼は回想して述べている。  それは、まさに不信仰を通しての自己評価であった。祈りと  信仰は、人をあるべきところに落ち着かせる。しかし悪魔  は、そこからできるだけ完全に抜け出さねばならぬと、人に  感じさせようとしている。わたしは、人と手段を与える力  は、またそれを十分にささえることもできる、遠い中国の内  陸においてさえそうだということが、わからなかった。  その間、あの広大な救いを待望する地では、神を知らないま  まで毎月百万という人々が死んでいった。このことは彼の魂  に焼きついていた。彼は、決意をしなければならないことを  知っていた。彼はこのようなかっとうの継続に、もはや耐え  られなかった。働き人のために祈ることは比較的容易であっ  たが、はたして彼に、指導者としての重任を受ける用意が  あっただろうか。また実際にそれを受けることができたであ  ろうか。  霊的の非常な苦しみをいだきながら、わたしはひとり砂浜に  さまよい出て行った。そこで、主はわたしの不信仰を征服し  て下さり、わたしはこの働きのために自分を神にゆだねた。  さまざまの問題や、その結果についての責任は、ことごとく  主にかかっている。わたしは主に、しもべとしてのわたしの  果たす分は主に服従することであり、主のなさって下さる分  はわたしとわたしの同労者になるはずの人々を指揮し、必要  を与えて下さり、導いて下さることであると告げた。する  と、重荷にあえいでいたわたしの心に、たちまち平和がみな  ぎってきたことは言うまでもない。  そこで、その時、わたしは二十四人の宣教師を主に求めた。  宣教師のいない十一の省と、蒙古とに、それぞれふたりずつ  派遣するためである。持っていた聖書の余白にこの願いを書  き、何か月も失っていたような平安を心に味わいながら、主  がご自身のわざを祝しておられ、わたしがその祝福の分けま  えにあずからせていただく確信をもって家路についた。  戦いは終わり、すべては平和であり、喜びであった。ピアス  氏宅へ向かって丘を駆け上がれるような感じであった。その  晩は実によく眠れた。妻はこの鷲くべき変わりようは、ブラ  イトンに行ったためだと考えていた。実際そのとおりであっ  た。 一一 神につかわされた人 主により頼みなさい そうすれば安らかに道を行くだろう その目を堅く主のみわざにとめなさい そうすればあなたのわざも全うされるだろう           ポール・ゲルハルト 召されて信仰の道を行く者で、思いやりに富み、力となる伴侶を持つ者は幸いである。結婚生活に関して欠けのなかった七年半の間、ハドソン・テーラーは、愛する者への失望を味わったことはなかったし、片時も期待を裏切られるようなことはなかった。二十八歳の若いテーラー夫人は、かよわい身で四人の子供の世話に手いっぱいであったが、夫が一見不可能にさえ思われる中国内陸の伝道という大きな仕事に召されたことを知った瞬間から、テーラーにとって全く新しい慰めと霊感の人となった。彼のために書き、その信仰によって彼の信仰を強め、その祈りによって彼のわざが守られるようにとりなし、実際の経験と豊かな愛の心とによって、彼女は文字どおり「ミッションの母」となったのである。 彼らは、前に住んでいた家よりも、ずっと大きなコボン通りにある家に移った。この大きな家は、中国行きの候補者たちですぐにいっぱいになった。広すぎるように思われた広間も、土曜日の祈り会に集まって来る人々のためには、とても十分とは言えなかった。最初にチャイナ・インランド・ミッションの名で銀行に預金した五十ドルはー彼の有り金のすべてであったがーこの働きに参加しようとする人々の自発的な献金で、何百ドル にもなっていた。こうして最初の宣教師団を送り出す計面は、自然にできはじめていた。 さてある日曜日?テーラー氏が静かに書き物をする時間の持てる唯一の日であるが?のゴボン通り三十番地にあるこの家の居間の光景を想像していただきたい。テーラー夫人は、ペンを手にしてテーブルに向かっている。テーラーは、彼らの心の中にある問題に全く心を奪われてこつこつと音をたてながらへやのあちこちを歩いている。ルイスから頼まれていた記事が新しい意味を持つようになっていたからである。緊急に事態を知らせる必要があるばかりでなく、神に信頼して必要を満たしていただくように努力するという、新しい方向に向かってはっきりとした歩みが始まっていたからである。「中国の霊的な必要と要求」は、彼らが祈りながら書き、書きながら祈っている中から生まれたバンフレットである。近代において神の民を動かすのにこれほど効果的であったものは他に類がない。「中国の霊的な必要と要求」が版を重ねている間に、中国へ送られるようになった人が何人いたことであろう。それによって外国宣教事業への理解を得るようになった人が、世界じゅうにどれほどいることだろう。信仰を強められ、祈りと献身の生涯を送るようにと励まされた人がどんなにいることだろうか。これらすべての 人の心に隠されたことが明らかにされるまでは、すべては決してわからないであろう。実に「一語一語が祈りに浸され」一語一語が神の力によって生きているようであった。 この小冊子によって多くの友が与えられ、多くの可能性が開けてきた。それは三週間を経ないうちに増刷しなければならなくなり、多くの手紙が寄せられて来た。左にあげるラドストック卿からのものはその一例である。  わたしはあなたのバンフレットを読み、非常に感動しまし  た。わたしは、あなたが聖霊によって、多くの働き人をぶど  う畑に押し出すことばを語られるようにされることを信じま  す。愛する兄弟、さらに大きな望みを持って下さい。百人の  働き人を求めて下さい。主は彼らをあなたに与えて下さるで  しょう。 しかし、最初の目標は百人でなく、二十四人であった。今は薄れてしまってはいるがはっきりとした字体で、テーラーがこの祈りを書き留めた使い古しの聖書が、わたしたちの前にある。事の成り行きに得意になってしまうということは全くなく、彼は成功によってますますその責任を強く感じていた。記念すべきその冬、あちらこちらを旅行して、人々を彼と同様な神の自覚に目ぎめさせたのは、神からのメッセージの重荷を負ったハドソン・テーラーその人であった。 地球の裏側での宣教活動をささえる経済的面での基礎として、信仰を語ることは、きわめて新しいことのように思われた。当時あった団体は、普通の教派の委員会で、「信仰によるミッション」とは聞いたこともないことばであった。しかし、ハドソン・テーラーは、若くはあったが、実に生き生きと神を知ることを学んでいた。彼自身書いているように、彼は、主が祈りの明確な答えとして干天に雨を降らせ、あらしの海を静め、風向きを変えられるのを見た。彼は主が祈りに答えて、人を殺そうとしている者の手をとどめ、怒り狂っている人の暴力を静められるのを見た。彼はまた、主が祈りに答えて、病気をとどめ、生きる望みのない危篤の人を立たせるのを見た。(注2)主は彼の祈りを聞いて下さり、八年間余りも、彼とその家庭の働きをすべて満たして下さり、彼らでさえ気づかなかった多くのものも与えて下さった。実にテーラーは体験を通して神の忠実さを体験してきた。それゆえに彼は、忘れることのない愛と、失望させられることのない忠実さに信頼するようにと、人々を励まさないではいられなかったのである。 テーラーは人々にこう語っている。  わたしたちが相手にしなければならないかたは、その腕が短  くて救いえず、耳が鈍くて聞きえないようなかたではなく、  すべての力の主なるかたであります。その変わることのない  みことばによって、わたしたちが求め、また受けるように導  いて下さり、わたしたちの口を広くあけさせて喜びを満たし  て下さるかたであります。主は、ご自身を信じる者が、祈り  によって神の全能の力を自由に用いえられるほどへりくだっ  たかたであります。しかし、この恵みの神は、故意に怠っ  て、滅びゆく者たちのためにこの特権を働かせることを怠る  者の血を流す罪を軽視なさらないかたであることを記憶しな  ければなりません。神に召されて、契約を守られるその忠実  さを体験していないかたがたにとっては、遠い異数の地へ二  十四人もの欧州人の伝道者を、ただ神のみを見上げてつかわ  すことは冒険のように見えるかもしれません。長年にわたっ  てわたしは、この神の真実を体験するという特権を与えられ  てきました。国の内外において、陸上でも海上でも、病気の  時にも健康の時にも、また危険や欠乏にひんし、死に直面し  た時でさえもこの神の変わらない真実を知らされてきまし  た。ですからわたしには、これが冒険であるとは、決して考  えられないのであります。 彼らの仕事は、単独の教派には荷が重すぎた。ミッションが給料の約束をしないということ自体、経験によって神を信頼する者以外のすべてを完全に阻止していた。また、このような経験を持つ人々の間には、何物にもまさる一致があった。 テーラーは述べている。  さまざまの教派の人が、それぞれ良心的にどうにもできぬ  という問題や相違もなしに単純に、伝道という線に沿ってと  もに働けるかどうか考えなければならなかった。わたしは祈  りのうちにそれが可能であるという結論を得たので、神のこ  とばの全き霊感を信じ、携行して行くこの聖書の保証のみを  たよって、中国の内陸へ行くことによって信仰を明らかにす  る同信の友を招き、協力を求めることにした。もちろん、数  派的な考え方がどうであるかということは問わなかった。  その聖書は言っている、「まず神の国と神の義とを求めなさ  い。そうすれば、これらのもの(食物、衣類)は、すべて添  えて与えられるであろう」と。もし神が真実を語られたこと  が信じられないなら、中国へ行ってその信仰を広めようとし  ないほうがよい。しかし、もし信じるならば、約束はまこと  に十分ある。さらに保証がある。「正しく歩むものは、よき  ものに欠けることがない」。正しく歩むつもりがなければ、  国にとどまるほうがよい。しかし、もし正しく歩むつもりな  らば、保証積立金としてすべての必要とするものを持ってい  ることになる。全世界の金銀も、全世界の丘にいる牛も、す  べては神の所有である。だからわたしたちは菜食主義者にな  る必要はない。  事実、もし願うならば、保証金を持つことができたであろ  う。しかしその必要もなく、かえって有害だとさえ感じた。  置き場所を誤った金銭、正しくない動機から与えられた金銭  は、いずれも非常に恐るべきものである。主が与えようとさ  れる金だけがあればよい。きよめられもせず、まちがって置  かれた金を持つことはできない。パンを買うためであってさ  え、金は持たぬほうがはるかによい。中国にはからすがたく  さんいる。主はもう一度からすを用いてパンと肉を運ばせる  ことがおできになる。主は荒野で三百万のイスラエル人を四  十年間もささえられた。三百万の宣教師を中国に送っていた  だくことは期待できないが、もし主がそうされるならばその  すべてを養われるよい方法をお持ちである。  神を直視し続けるようにしよう。神の道を歩み、小さいこと  でも大きなことでも主を喜ばせ、主に栄光を帰することを求  めよう。これにたよっているかぎり、神の方法によってなさ  れたご自身のわざが、必要を欠くようなことは決してないで  あろう。 テーラーが非常に心を用いたことの一つはこの新しい事業が、すでにある機関へ行くはずの人や物の方向をそらせてはならないということであった。パウロに支払うためにペテロから奪うことは、神のわざの利益にはならないであろう。彼の計画には、大学教育を受けていないために、他の宣教団体に受け入れられないはずの人たちに道を開くことも含まれていた。彼はだれにもチャイナ・インランド・ミッションへの参加を勧誘しなかった。もし、収穫の主が中国で働かせようとする人があれば、主は彼らの心にささげる思いを与えられるであろう。それと同様に彼は、金銭のためにも人には訴えなかった。もしミッションが基金のために予約のリストを作ったりせず、どんな勧誘もしないで、ただ祈りの答えとしてささえられるならば、既存の団体に対して、しかも彼らの決まった経路からの献金をそらす危険もなく成長できるだろう。この方法は、大いなる働き人である主に人々の注意を向けさせ、神の働きのためには神ご自身のみで十分であるという根本原則の実際的な証明になるという点で有益でさえある。 このほか、組織という面では、彼らはわずかで満足した。この事業の本国側の働きのためには、セイント・ヒルのバーガー夫妻が与えられた。実にすばらしい備えである。彼らはテーラー夫妻と変わりないほど、このことを重荷としていた。彼らはそのために生き、テーラー夫妻と同じ熱心をもって、そのために祈り、自分たちの美しい邸をミッションのすべての利益を代表するセンターにした。この関係についてテーラーは言う。  わたしが前進を決意をした時、バーガー氏が本国での代表と  なった。わたしたちは互いに非常に近づけられたのだ。ミッ  ションの命名が行なわれたのも彼の画室であった。どちらが  どちらを任命したというのでもない。ただそういうことであっ  たのだ。 基本的な霊的原則については、候補者と語り合い、ミッションの基盤がはっきりと理解された。バーガーのいる所で二、三の簡単な申し合わせの事項が記録にとどめられ、それですべては終了した。以下がテーラーの簡単なことばである。  わたしたちは神の命令によって、神の子供として、すべての  必要を神により頼んで神のわざをなすために中国服を着用  し、内陸へ行くために出て来た。中国ではわたしが指導者に  なるはずであった。問題をだれが決定すべきかは、問題では  なかった。 同様に、バーガーは本国での責任を負った。彼は候補者と通信し、献金を受け、現地へ送金し、監査を済ませた会計報告を掲載した「臨時報告」を発行し、負債にならずに基金が許すかぎり適当な人を、働きの強化のために送り出した。この最後のことは、この働きに関心を持つすべての人の中心的な原則であった。(注3)これを指摘してテーラーは述べている。  神にとって事前に与えることは容易であり、むしろそうする  ことを喜ばれる。神はわずかの金の不足のために、ご計画を  行き詰まらせてしまうほど愚かではない。霊的でない方法で  得た金銭は、確かに祝福の妨げとなる。 経験のみが解決しうるような多くの問題があった。バーガーの実際的な説明がしばしば彼の心に浮かんだ。バーガーは実務家であった。彼は当時好況のでんぷん製造業の中でもトップクラスであった。自宅の樹木と同じように、生きているものはすべて成長することを彼は知っていた。この点に関して彼は言っている。  枝がたくさん茂る前に、木の成長を待たなければならない。  はじめは細く弱々しい幹だけがあり、葉も少なく、根も浅  い。それからだんだんと小枝が出てきて、やがて大木となる  のである。ただ時間と忍耐とだけが必要なのだ。生命さえあ  れば、それ自体の成長のしかたで発展するだろう。 第一期の宣教師団の出発準備をしているうちに与えられた多くの祈りの答えについて、今述べることはできない。「臨時報告」第一号に、旅費としたく金として必要であった金額がすでに満たされたことを挿入しなければならないほどであった。しかしこの経験の背後には、熱い祈りがあった。特別祈り会と断食の日はもちろんのこと、テーラーの家とセイント・ヒルでは、毎週祈りの時が持たれ、毎日正午にはテーラーの家で祈りがささげられていた。 人には何もなく、神にはすべてがあるーこれは確かに真実であるというのが、コボン通りでの最後の日々のふんい気であった。彼ら友人たちはそこに出入りしながらそのふんい気を感じないではいられなかった。荷箱や包みの間で最後の祈祷会が持たれた。人々は、へやの中はもちろんのこと階段にまでもあふれ、すわれる物の上にはすべてすわっていた。壁にはその時もなお地図が掛かっており、机の上の聖書は開かれていた。新しい使命についてテーラーは書いている。  わたしたちのせつなる願いと目的は、今まで及ばなかった十一の省と中国領土に、十字架の旗を打ち立てることである。 「向こう見ずな仕事だ」と困難なことぱかりを見る人々は言った。 「超人的な仕事だ」と好意的な人々は感嘆の声をあげた。 「公式の委員会も、組織もないのでは、あなたがたは遠いあの地で行くえ不明になってしまうだろう。物いりの多い時代のことだ。生活費がなくなってしまうのも遠いことではないだろう」という人も少なくなかった。 「わたしは子供たちを連れて行きます」。これがさまざまのことばに対する静かな答えであった。 「彼らに、朝には朝食、昼には昼食、夜には夕食が必要なことを思い出すのに困難はないと思います。忘れようとしても忘れられないでしょう。わたしたちの天の父がその子に対して、地上の貧しい父親にすぎないわたしより、彼らのことを気にかけなかったり優しくなかったりすることは、とても考えられません。主がわたしたちをお忘れになることは決してありません」。 その後の全期間を通して、同行者のひとりびとりについて考えるならば、この確信が全く正しいものであったことが明白になる。      注   @この偉大な、しかも予言的な提案とともに五百ドルとい   う多額の献金が送られて来た。ラドストック卿は、テー   ラーが一年以内に百人の働き人を与えられるようにと祈り   求めて、そのとおりの答えが与えられた時まで存命してい   た。   Aこれらの経験についての詳細は、もっと詳しいテーラー   伝の第一巻、特に四二九べージから四九二ベージまでを見   よ。本書の著者によるHudson Taylor in EarlyYears:The Growth   of a Soul 参照   Bテーラーが、自分のためにも、家族のためにも、決して   ミッションの基金から振り出さないことは、最初から明白   であった。かえって主の与えられる力に従って、貧しいけ   れども多くを富ませる者として、ミッションのためにささ   げていた。 一二 霊的な緊急事態   墓を明るくする望みもなく   人はあなたのかたわらを   暗いうちに死んで行く   ともしぴを取りそれを大きく振れ   現代は漆黒のやみ   それを照らすともしびを振るのだ               H・ボナー 新しいミッションの指導者たちと、最初の働き人たちの多くが、背後からの力にささえられていたことは、その後の二、三年の記録を見れば明らかである。彼らの特長であった霊的な真剣さと、彼らをあらゆる困難と試練の中を通り抜けさせた極度の真剣さに、非常に強い印象を受ける。彼らには主イエス・キリストへの真剣な愛があった。彼らが新しく、より深く、み苦しみにあずかることによって、主を知る特権を光栄と思ったのは、この愛のゆえであった。また彼らには、周囲の滅びゆく魂に対する切迫した愛の真剣さがあった。現在、救いを要している滅ぴゆく魂について語ることは、時代おくれに思われるかもしれない。しかし、ヨハネによる福音書三章十六節の神学は世界のすべての知恵と力をもってしてもできないことを、信者を通して全うする原動力である。  神はそのひとり子を賜わったほどに……愛して下さった。そ  れは御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得る  ためである。 今の世は宣教師としてさえも、もっと豊かな富を得、教育を受け、旅行ができ、居住の便宜を得ることができるかもしれない。しかしはたして今日のわたしたちに、わたしたちの前を歩んだ人たちを動かしたのと同じ迫られる気持ち、深い内的な自覚があるだろうか。主イエス・キリストに対する同じような激しい愛、親しい愛を持っているであろうか。もし持っていなければ、これは何ものによっても補うことのできない損失である。   青い海路なき海を越えて   神に仕えんとして小さき群れは行く   荒々しい水の広がりを越え   インマヌエルの救いのみ名を伝えんと   遠き支那の地へ行く   彼らは東の兄弟からの血の叫びを聞いた   そこには神なく死んで行く人が   毎月百万もいるのだと   神のほかに助けはない   彼らは遠い地での必要を   父のみ手にのみ求める   世界とそれに満ちるものはみな主のもの   地と天にあるすべての力も主のもの   彼らは弱いけれど強く   貧しいけれど富んでいる   彼らは主にすがっているからなのだ   これ以上に何が必要だというのだ   彼らは兄弟からの血の叫びを聞いたのだ   そこでは神なく死んで行く人が   毎月百万もいるのだと 八百トン足らずの船でする航海は、決して楽なものではなかった。しかし、あらかじめ彼らは、安全のためばかりでなく、船員たちに対してみことばを祝して下さるようにと真剣に祈っていた。最初の一日は船室の整理にさかれたが、それからは中国語の学びが開始された。午前中はテーラーが、午後からは夫人が担当して教えた。生徒たちが船酔いで倒れてしまい、教師たちが給仕の仕事をしなければならない日も何回かあった。しかし彼らはみなよい船乗りであった。若い人たちが船に慣れるのには、あまり時間がかからなかった。実際彼らは若かった。彼らの指導者でさえ三十四歳で、この集団では相当の年長者であった。小さな船の狭い船室で、漢字の試験が行なわれた。この乗客たちが自分の仕事にどれだけ打ち込んでいるかは、船員たちにはすぐわかった。彼らを見る目は、学んでいる時にも、くつろいでいる時にも鋭かった。宣教師たちは同船者が航海を楽しめるように最善を尽くして、祈り、待った。そのうち、船員たちのほうから集会を開くように求めてきた。神のわざが始められ、船員の大部分が回心するという結果となったのである。そのころの手紙は、ミッションの開拓者たちが魂をキリス トにかちとるためにのみ生きていたことが明らかにされている、すばらしい記録である。といっても彼らに全く誤りがなかったというわけでもない。祝福をはばんだ失敗のことも書いてある。これらの失敗は、なんでもないこととして見過ごさ れたのではなく、常に事実が追求され、真実の告白がなされ、主にある交わりが回復されるのであった。 大敵「空中の権をつかさどる君」は、この集団の力を破壊できなかったので、彼らを船もろともに沈める決意をしたかのように、支那海を航行している間じゅう、船はあらしに激しくもまれた。次から次へとやって来た台風のために、十五日もの間、船は難波するばかりにもみぬかれ、苦しめられ続けた。彼らが目的地に到達できたのは、全く奇跡だというほかはない。のちにテーラーは、この間の経験をしるしている。  事態はまことに普通ではなかった。船の揺れ方は恐るべきも  のであった。マストも帆柱もたれ下がって、残ったただ一つ  の帆さえも破れはじめ、ピストンのように中心の帆柱を乱打  していた。前甲板から後甲板までは、切れめのない海であっ  た。波の響き、鎖のがらんがらんという音、裂けた帆の鋭い  音などが混じり合って、命令の声を聞くことさえほとんど不  可能であった。 それから三日間、危険はさらに増すばかりであった。船には浸水が早く、男も女も排水に努めたが、火はみな消えてしまい、調理をすることも不可能であった。しばらくは飲み水さえもなかった。しかし、このすべてを通して、祈りはすばらしく答えられた。ひとリの死亡者も負傷者もなかった。思いをはるかに越えた平安のうちに保たれ、子を気づかう母親さえー彼女が書いているようにーかつてないほどハバククの経験の中に導かれることができた。  「しかし、わたしは主によって楽しみ、わが救いの神によっ  て喜ぶ」。 上海に着いた彼らが、中国服を身に着け、家を求めて内陸に向かった時に与えられた祈りの答えも、同様に驚くべきものであった。屋形舟で旅をしたために、婦人や子供たちは、通過する町々の群衆の好奇の目にさらされないですんだ。その間、何人かの青年たちの落ち着く家を見つけようと努力したが、待ち受けているものは失望ばかりであった。何度もうまくいった、と思わされながら、交渉は失敗し、一団はもとのままの状態で杭州に向かわねばならなかった。枕州にはすでに、二、三の宣教師の家族が住んでいた。もしこの大集団の到来が反対運動を引き起こすようなことになれば、先住の人々にとっても、新来の彼らにとっても、重大な危険を意味していた。彼らはどうすれぱよかったのか。秋も深まり、水上で過ごす夜は非常に寒かった。彼らのうちの何人かは、すでに多少とも病気になっていたし、舟で働く人たちは、冬が来るから早く帰りたいと騒いでいた。ハドソン・テーラーは郊外の静かな所で舟を降り、必要に迫られている家を捜しに行ったが、この時ほど強く責任を感じたことはなかった。 テーラー夫人も、夫と同様に鋭敏に事態の急を悟ってはいたが、静かな確信に満ちた信仰をもって、祈りのために若い宣教師たちを集めた。その時彼女は、日課として続んでいた詩篇から与えられた慰めについて語った。「だれがわたしを堅固な町に至らせるでしょうか。だれがわたしをエドムに導くでしょうか。…われらに助けを与えて、あだにむかわせてください。人の助けはむなしいのです」。彼らはともにこのみことばを読み、続いて熱心な祈りをささげた。やがてこの苦しい不安な時は、いつまでも記憶される交わりの時と変えられていったのである。 外にいた舟の人たちが動き出したのは、テーラーの声を聞いたからであろうか。こんなに早く帰って来ることのできたテーラーは、どんな知らせを持って来たのであろうか。「彼らが呼ばないさきに、わたしは答え、彼らがなお語っているときに、わたしは聞く」。確かにそのとおりである。すべてはよかった。一軒の家が備えられて、彼らを待っていた。杭州の宣教師のひとりが一週間ほど留守にするので、気持ちよく整えられたその家をテーラーの一団が自由に使ってもよいとも言い残して行ったのだった。静かな通りに面しているその家からは、人目につかずに舟まで行くことができた。その晩、疲れた旅人たちは感謝しながら、この大都市でくつろいだのである。 いつものことながら困難は少なくなかったが、それから二、三日のうちにテーラーは自分たちの家を確保することができた。その大きな家は、以前は役人の家であったが、いつか何家族もが住む雑然とした普通の建物になってしまっていた。新しい家主は、建物の一部しか所有していなかったが、うまく改造できそうであったし、その屋根の下であまり目だたずに宣教活動を開始することもできた。人を愛する者の心にあるものは、多くを語らなくてもあふれ出るものである。グループの最年少であったミス・フォールディングは、すでに婦人たちに話を通じさせられるほどになっていた。十二月の中旬になってから彼女は書いている。  住居を少しばかり住みよくするために働いていました。しな  ければならないことはいくらでもあります。テーラー先生と  青年たちは、木わくに紙を張った天井を工夫して、冷たい外  気を防ぐようにしました。二階の天井はよく故国の礼拝堂で  見られるようなものです。もちろん、まだ相変わらず混乱は  続いていますが、とにかくやっています。そのうちに、いつ  か落ち着くと思います。  家に住んでいた人たちは、来週引き払います。あの人たちが  ここにいたのは、ほんとうにうれしいことでした。彼らの多  くは、中国語の祈りの時間に来て熱心に耳を傾けていました  ので。まだ外部を訪れることはできませんでした…けれども  毎日この婦人たちといっしょに、読んだり、話したりしまし  た。彼女たちもそれが好きなようでした。わたしはこの婦人  たちのひとりに非常に期待しております。 クリスマスまでに、日曜の集会には、五、六十人の熱心な聴衆が与えられるようになった。またこの間にテーラーは、少なくとも一度は伝道旅行をしている。彼とミドーズとは隣接の蕭山市に福音宣教の機会を得て、小さな家を一軒借りることができた。そこに新来の宣教師を何人か住まわせる考えであった。彼らがどのような気持ちでこの大仕事に当たっていたかは、バーガーへの手紙に示されている。  現地の郵便の状態は非常によくて、手紙や金銭を内陸に送る  のにも不自由のないことを喜んで下さると思います。簡単に  は行けないようなこの国のどの省への送金にも、特別の困難  はないと思います。いちばんの奥地から港町に手紙を出すこ  とも自由にできます。こうした通信には、時間もかかり、費  用もかなり高くつきますが、比較的確実です。それで奥地で  の働きの道が開けているのがわかります。  天井もなくて、壁や窓の少ない家に住むには、相当に寒い気  候です(十二月四日)。縦六尺、横九尺のわたしの寝室の壁  には、すきまがあって、シーツでふさいではいますが、換気  は全く自由なものです。しかし、こういうことはあまり気に  なりません。周囲には貧しく、やみの中にいる異教徒たちが  います。ひとりも宣教師がいない大都会、人口の多い町々、  無数にある村々、そのすべてが恵みへの手段を与えられてい  ません。わたしはこのような人たちを忘れたり、多少の不便  を恐れてこの人たちのために何もせずに、滅びるままに任せ  たりする心の状態をうらやみはしません。神に対し、わたし  どもの仕事に対し、忠実なものにされますように。 その間、杭州にいて彼は、さばききれないほどの仕事をかかえていた。中国の新年とともに、診療所には一日に二百人もの患者が群がり、日曜日の礼拝にも同じくらいの人数が集まっていた。一八六七年の初めに、本国から最初の増援の人たちが到着した時にも、テーラーは忙しすぎて、何時間も彼らに対して何もできなかった。その時彼は、中庭のテーブルの上に立って患者の群れに説教をしていたので、ミドーズに連れられて一隊がはいって来た時、心からの歓迎のことばが叫べただけであった。新しく到着した人々は、この状態を見て満足以上のものを感じ取った。ジーン・マカーシーはそれからまもなく、テーラーのかたわらで医療のためのおもな助手になった。そのころ同労者たちは、外的な困難の中で、彼らの理想とするところを実にすばらしく体験している愛する指導者と、とにかく近くにいて働くことができた。それから三十八年ののちに、マカーシーは西部中国から書いている。  わたしが彼について考える時、彼は今まで知ってきたとおり  の人である。親切で、愛に富み、自分以外のだれに対しても  思いやりがあり、行くさきざきで祝福となり、接するすべて  の人に力となり慰めとなる。あらゆる点で宣教師の変わらざ  る模範である。 このような初期の働きにおいても、自分の霊的な生活の失敗から、回りのすべての人に対して批判的になった者がいた。航海中に問題を起こす原因になったものは、なお消えなかった。その人たちの非難は、テーラーはもちろんのこと、テーラー夫人をも少なからず苦しめた。彼女はバーガー夫人にさえ、このことを何か月もあとまで知らせなかった。彼らは愛と忍耐によって、問題を解決するように努力していた。夫人が詳細を書いたのは、セイント・ヒルからの質問に答えてであった。  どうぞわたしたちのためにせつにお祈り下さい。今、神さま  の恵みによって保たれることがほんとうに必要です。わたし  たちはサタンの陣営で彼と戦うことになりました。主はわた  したちをほうっておきはしないでしょう。もしわたしたちが  自分の力でここにいるのだとすれぱ、なんと愚かしいことで  しょう。しかし、わたしたちとともにいますかたは、敵のす  べてよりも大いなるかたです…わたしは、もしわたしたちの  仲間の姉妹たちの間に、不一致の種がまかれるようなことが  あれば、とても残念に存じます。これがわたしの恐れている  わざの一つなのです。Nの問題がどうなりますか、わたしには  考えられません。わたしが知っておりますただ一つのこと  は、イスラエルの望みであるかたは、わたしたちを見捨てら  れることがないということです。「なぜNが来ることを認めら  れたのだろう」と尋ねたい誘惑にかられそうになります。た  ぶんそれは、わたしたちのミッションが歩みの初めに、正し  い基礎の上に確立されうるためでありましょう。 やがて夏が来て、暑さがきびしくなるにつれて信仰と忍耐とをためすために別の種類の悲しみがやって来た。しかし、その間にも魂は救われ、今日までに千五百の教会が立てられていった。最初の洗礼が五月に行なわれた時、テーラー夫人はバーガー夫人に書いている。  愛する主はおそらく、わたしたちが自分の仕事に神が豊かな  祝福を与えていて下さることを忘れて、得意になってしまわ  ないために、悲しみを必要としている、とお考えなのでしょ  う。 しかし、こう書いた彼女自身も、この暑い季節に襲って来ようとしていた、耐えがたいまでの悲しみの経験を、ほとんど予期してはいなかった。彼らの子供たちの中で、寧波で生まれた娘は、いちばんかわいく、賢かった。彼女はやがて八つになろうとしていた。弟たちに対してももちろんよいねえさんであったし、よく働いて彼らを助けていた。主イエスに対しても、回りの人々に対しても、愛に満ちている彼女だった。しかし、暑い 日が長く続いているうちに、このグレーシーはだんだん元気がなくなってきた。子供たちをいくぶんでも暑さをしのぎやすい丘に移したが、その時には小さな生命はもうどうにもならなくなっていた。荒れ果てた古い寺院の中で死んで行く子供のかたわらにいて、テーラーは、自分と最愛の妻とにとって、このことが何を意味するかということをはっきりと理解しようとしていた。バーガーにあてて彼は書いている。  この土地を知り、人々のことも、気候についてもよく知って  いながら、自分とともに妻子をもこの働きのためにささげた  ことは、むだなことでもなく、思慮のない行動でもありませ  んでした。そして、全く足りない者でありながら、単純な気  持ちで敬虔にお仕えし、またお仕えしようと願ってきた神ー  ある程度の成功は収めてきたのですがーは、今もわたしたち  を離れなさいません。 テーラーは、母親に対しては、もっと自由に書いている。  愛する小さなグレーシー、朝ごとに聞いたあの子の優しい声  を、ほんとうになつかしく思います。朝起きた時、わたした  ちに最初にあいさつする声、日中もタ方も聞く声でした。踊  るようにしてわたしのそばにいたあの子といっしょに歩いた  道を、今はわたしひとりで散歩をすると、胸が苦しくうずき  ます。「あの小さな手の圧力を二度と感じられず、あの明るい  目の輝きを二度と見られないということがありうるだろう  か」という考えが、心に浮かんでくるのです。しかし、あの子  は滅びてはいません。わたしはあの子を取りもどしたいとは  思いません。他の子供でなくてあの子が取り去られたことを  感謝します。あの子はわたしたちの生涯の光ではありました  が…わたしはあの子の遺骸ほど完全で美しいものを見たこと  がないように思います。すばらしく弧を描いたまゆ毛の下の  長い絹のようなまつげ、デリケートに整った鼻、小さく優し  く語りかけているような口、清らかな白い顔、すべては心に  深く刻まれて記憶されています。それからあの子の小さな中  国服の上衣、胸の上で組み合わせ、一輪の花を持った小さな  手、ああーそれは過ぎ去ってゆく美しさでした。わたしたち  の目から永遺に消え去ることのいかにもむずかしい美しさで  した。  わたしたちのためにお祈り下さい。時としては、わたしたち  の仕事に関連した内外の試みに、圧倒される思いがします。  しかし、主は言われました。「わたしは決してあなたを離れ  ず、あなたを見捨てない」。「わたしの力は弱いところに完  全にあらわれる」。それでよいのです。 この悲しい経験を通してテーラー夫妻は、中国の内陸に福音を携えて行く仕事に新しい献身をしたのである。その年の終わりまでに浙江省のおもな町を、みな訪問した。隣の省の南京でも働きが始まり、二十四日間も旅行しなければ行かれないほど離れた諸都市でも、ミッションのメンバーが働いていた。杭州の教会も王来君を牧師として、すでに固められていた。ふたたび春がめぐってくるころには、ミッションの指導者たちは、そ この働きから離れることができた。 当時の中国で伝道所を開くことは、生命の危険にさらされていることを意味していた。暴動が起こるのはいつものことで、伝道のためには通らなけれぱならない一段階のように思われた。片足を失い、松葉づえがなくては歩けない宣教師候補者に向かって、テーラーが次のような質間をしたのも当然であった。 「もし中国で暴動が起こり、逃げなけれぱならなくなった時、あなたはどうなさいますか」。 「わたしは逃げることは考えませんでした」。彼は静かに答えた。そして、「わたしは「足なえまでも獲物をとる」のだと考えていました」と述べた。 事実、この人は、時が来て、困難な情勢下に置かれる特権を与えられた時、このことばを地で行なったのである。この試みを契機にして温州に福音が伝えられることになった。彼の持ち物をすべて奪ったうえに、松葉づえまでも取り上げてしまった暴徒は、「なぜ逃げないのだ」と叫んだ。「逃げる!」彼は微笑をもって答え、「一本足でどうして逃げられるか、知りたいものですな…」と言った。勇気に満ち、親しみのあふれた彼の応待に暴徒たちの態度は和らぎ、そこにはしばらく前とはまるっきり異なったふんい気がみなぎっていった。目には見えない祈りの力が、その日をかちとったのである。 長身で、もの静かなスコットランド高地の人、ジョージ・ダンカンが初の永住宣教師として南京入りしたのも同じような気持ちからであった。彼はそこで宿屋を見つけられなかった時、日中は街路や茶店で群衆と接して過ごし、夜は鐘楼の囲いのない屋根裏で、ねずみや音色の深い鐘とともに過ごして満足していた。お金が残り少なくなってくると、ただひとり彼に同行していた中国人コックがどうしたらよいかと尋ねるのだった。町を離れるほうがいいのだろうか。しかし、もしそうするならば、やっと見つけた小さなへやにもどることはおそらく不可能になるだろう。宣教師ダンカンは「やりましょう。わたしたちは『主に信頼して善を行なう』べきですから。そうすればこの国 に住んで平安を得るのです」と語るのだった。 何日かが過ぎた。テーラーは、土地の銀行を通しては南京へ送金できないことを知った。ダンカンのことを心配して、事態を収拾するために同労者の宣教師を南京に派遣した。一方ダンカンのほうでは、この時までに喜んでささげたコックの所持金までも使い果たし、ふたりのもとにはただの一ドルも残っていなかった。しかし、ダンカンはいつものように説教に出かけ、心配する協力者に、「主に信頼して善を行ないましょう。彼の約束にはなお変わりがありません。そうすれぱこの国に住んで安きを得るのです」と言うのだった。 一方、ラドランドは、大運河が異常に減水したために船では進めなくなって、途中から陸路をとって目的地に向かった。そのほうが船で行くよりも数日早く到着できたからである。彼がそこへ着いた時には、ダンカンたちの食物だなにも、財布にも何もなかった。ダンカンはどこまでも続く街路を歩きながら、一日じゅう説教して疲れ果て、空腹をかかえて帰途についた。その時、中国人の助手が一目散に駆け寄って来た。そして息せききって「先生ーもうだいじょうぶです。ラドランドさんーお金ーおいしいタ食ー」と叫んだ。「けさ言ったではありませんか」。ダンカンは彼の肩に手を置いて優しく答えた。「生ける神に信頼することは、いつでもまちがいのないことなのです」。 テーラーは、青年たちを開拓伝道につかわすだけでは満足しなかった。彼にも、夫人にも、どんな危険にでも向かって行く備えが十分にあつた。うちなる霊の衝動は、少なくともミッションの他の人たちと同じくらい強かった。彼らが十六か月の定住生活と奉仕ののちに、杭州を離れることは容易ではなかった。教会にはすでに五十人の受洗者があり、求道者の多くはまことに有望であった。とはいえ協力者としてはマカーシーがおり、 婦人たちのためにはミス・フォールディングがおり、王来君牧師の伝道は、いよいよ前進することであろう。しかし他方では、孤立無援のままの開拓伝道者もおり、いのちのことばを全然知らない市、町、村も多い。枕州を離れることは、家庭をこわし、子供たちを一時、舟の上に住まわせることになるが、彼は春が来るとすぐに出発した。南京のダンカンに協力するつもりであったが、途中で与えられた場所にとどまる可能性も十分にあった。 二か月にわたる水上生活ののち、旅行者が落ち着けた所は、揚州市であった。蘇州市では、開拓を始めたばかりのミッションの一員であるヘンリー・ゴルドンとともに三週間過ごし、それから大運河と揚子江の合流点にある鎮江に至った。テーラーはこの地の戦略的重要性をみてとって、ここで家を手に入れる交渉を始めた。のちに家は手にはいったのだが、交渉が長びきそうであったので、彼らは揚子江を越えて旅行をし、大運河の北 部に四、五キロほど進んで行った。こうして、かつてマルコ・ポーロが総督をしていた有名な町揚州に着き、三十六万という人口をもちながら、キリストの証人がひとりもいない、その城壁に到達したのであった。テーラー夫人はバーガー夫人にあてて書いている。  あなたがたがご自身で長期の旅行をなさったのでなければ、  一週間前の月曜日のわたしたちの気持ちを理解していただく  ことはとても不可能と思います。その時、へやというへやにみ  な、どんどん雨が漏る始末の、不便な水上生活から、中国で  第一級のホテルに移ったのです。中国の宿泊設備についてよ  く通じている主人でさえ、それまで見たこともないようなホ  テルだと申すほどでした。このホテルは揚州市内にありま  す。 ホテルの親切な支配人と、関心を持つようになった訪問者たちの群れは、最初から前途の祝福を約束するものであった。知事が好意的な発言をしてくれ、七月になると家が入手できて家族は移り住んだ。暑さはすでに相当なきびしさになっていた。八月には静かに過ごせるようにと、彼らは願っていたが、患者と訪問者はあとを絶たなかった。町に住む外人家族の存在は、相当に目だった。特にテーラーが有能な医者であることがわか ってからはなおさらである。テーラー夫人が快く中国語で話し、気持ちよくふるまう態度が、婦人たちをひきつけて、杭州にいた時と同じように人々は福音に対して心を開いているように思われた。 しかし、敵もその働きを休んではいなかった。このような悪魔の陣営への進撃が妨害されないわけはなかった。この町の学者連中は、集会を開いて彼らを妨害することにした。外人たち、特にイエスの宗教を宣伝している連中は、最も悪い反乱罪を犯しているという無署名のビラが、町じゅうに張り出された。まもなく、宣教師たちには人々の態度が変わりつつあることがわかった。好意的な訪問者は、戸口の回りに群がるやじ馬連中に所を譲り、さらに新しく張り出されたポスターが、ますます炎に油を注ぐことになったが、テーラーたちは忍耐と親切な態度によって幾度も暴動を避けることができた。数日の間テーラーは、家の入り口からほとんど離れられなかった。そこで彼は、人々を静め、質問に答えていたのである。あらしが終わったと思われたころ、ラドランドの家族と、ダンカンが到着して、家の中にはあふれるほどの感謝がみなぎっていた。八月のたいへんな暑さは、豪雨によって破られ、これが群衆を散らすのに大きな働きをした。しかし、休息は長くは続かなかった。鎮江から揚州に外人がふたり訪れて来た。彼らは宣教師たちのように中国服を着ているのではなく、そのままの洋服姿であったの で、少なからぬセンセーションを引き起こした。学者連中にとって、これはそのまま見過ごしにできぬチャンスであったので、彼らはまた忙しく動きはじめた。この訪問者たちが、すべてが静かであるという印象をもって町を出て行くやいなや、あ らゆる方面から子供がいなくなったといううわさが立ちはじめた。少なくとも二十四人の子供が残虐な外人たちのえじきになったと人々は信じた。 「勇気を出せ、かたきを討て、やっつけろ、滅ぼせ、ぶんどり物は多いぞ!」 それから四十八時間たったー鎮江に近づいていた一そうの舟の上で、傷つき、苦しみながらも、落ち着きを失わなかった宣教師たちが、圧倒されるばかりのあらしの中でも、不思議に守られたことを神に感謝していた。この時、テーラー夫人は書いている。  神さまはわたしたちを守り通して下さいました。これからの  ち、もっと主をたたえ、ご栄光のために生きられますよう  に。言ってみれば、もう一つの台風を経験したようなもので  す。もっとも二年前の実際の台風の時ほど長くはありません  でしたが…けれども、少なくともわたしたちの生命の危険は  同じであり、恐ろしさはもっと大きなものでした。わたしは  神さまがこの経験を用いて、ご自身のみ栄えを現わして下さ  ることを信じます。そして、福音の前進のために役だつよう  にと願っております。 「臨在の救い主」ー暴徒たちは、これほどの静けさと力強さの秘密をいくらかでも理解できたであろうか。彼らは、なんであるかは悟れなかったが、何ものかによって恐れを感じ、最悪の暴力行為には出なかった。死は近づきはしたが幾度か避けられた。土地の警察に援助を頼みに行く途中、群衆の激しい怒りにさらされていたテーラーも、占領された家で攻められ、火事に直面していた、彼が残して行かなければならなかった人たちも、ともに見えざる神のみ手に守られていた。 しかしながら、それは非常に苦しい数時間であった。二階のへやに子供たちと婦人たちとを避難させていた母親の苦しみであったー放火されたため、その二階からも、ついには追い出されてしまったのだがーまた、遠くで動けなくなり、破壊に夢中の暴徒どもの叫びを役所の衛門でただ聞いているばかりの父親の苦しみであった。外面的にはなんの危険もないように、テーラー夫人は静かにこの恐怖の場に臨み、落ち着いた態度とりゅ うちょうな中国語で、死の危険を免れたのは一再ではなかった。しかしながら、その時の彼女の心は、再び会えないかもしれない愛する夫のことを心配して、引き裂かれるばかりであったのだ。 揚州の家が修理されてもどれるまでには、長い困難な.交渉をしなければならなかったが、彼らが帰ることがゆるされた時、一行を受け入れるための盛大な祝いが準備された。ミッションの指導者が次のように書くことができたのは、深い感謝の気持ちからであった。「この事件の結末は、内陸における働きのために非常に役だつことになるであろう。これはほとんど確実なことであろう」。しかし、実際に人々の疑いの気持ちをしだいに解きほぐしていったのは、宣教師たちの親切な態度と家庭生活とであった。行動はことばよりも雄弁である。近所の人たちは、あのようなことがあったのになんのためらいもなくテーラー夫人が、もう一度子供たちを連れて、うるさくて落ち着きのない環境の中に帰って来たのを見て、何か考えざるを得なかった。彼女はセイント・ヒルの愛する友にあてて書いている。  神はこのことにおいてもまた、わたしの心の願いをかなえて  下さいました。生まれてくる子供が安全に守られるならば、  他のどの場所より、この町の、この家の、このへやで生まれ  てくれればよいと感じていました。 四番目のむすこの誕生は、暴動で破壊されたすべてがすぐに回復されたのと同じように、非常に喜ばしい印象を与えた。しかし、それにも増してすばらしい償いがあった。それは、初めに彼らを町に受け入れてくれた宿の支配人と、暴動の時から好意的に事を図ろうとしてくれたふたりの人が、この時キリストへの信仰を告白し、受洗を待っていることであった。  「種を携え、涙を流して出て行く者は、喜びの声をもって刈  り取る」。      注   @一八六六年五月二六日、C.I.M(チャイナ・インランド・   ミッション)の最初の集団の出発についてのH・グラタン・   ギネス牧師の詩から。   Aすでに何年か中国にいたジョージ・スコット氏が、温州   市と温州県に福音を植えつけたのは、幼いグレーシーの死   後まもなくであった。その教会の会員は、陪餐会員をすべ   て含めて八千人に及んでいる。 一三 暗黒の日々   地と陰府(よみ)が力を合わせ わたしと戦う   でも神の力はわたしの側にある   イエスこそすべてなるかた   わたしはこのかたを持っている            W・T・マットソン 中国においてこの小さなミッションの上にあらしが吹き荒れていたが、英本国においてバーガーがみまわれていたあらしは、さらにきびしいものであった。揚州の暴動は、英国議会と、国内で、全く信じられないほどの批判を巻き起こした。正確な事実にも基づかないで一般の新聞は、中国との戦争の危険に追い込んでいると述べて、宣教師たちを激しく攻撃した。宣教師たちが銃砲をつきつけてまで中国の宗教を変えさせようとし、その戦いに英国の砲艦の援護を要求したと言うのである。もしこのような批判が根拠のあるものだとするならば、テーラーもその同労者たちも、それにはあまりかかわりがなかったことは言うまでもない。領事館当局は、この事件を宣教師たちが予期 もせず、希望もしていない方向で取り上げていた。当局者たちは外務省の指示に基づいて、この機会をできるかぎり条約権の強制に利用しようとしていた。しかし、不当とは言えない英国大使の要求が、まだ提出されないうちに、英国の政府が変わり、事態がますます複雑になっていった。夫を助けるためにテーラー夫人は、バーガー夫妻に対して詳細を明らかにした手紙を書いた。彼女の結論によると、  世界のきびしい批判や、それ以上に苦しい信者の兄弟による誤  解について、なすべき最善のことは、わたしたちの仕事をそ  のまま続けて、神ご自身にわたしたちの立場を弁明していた  だくことだと感じております。けれどもあなたにはわたした  ちがどのように行動し、なぜそうしたかを親しく知っていた  だく必要があります。しかしながら、総領事メドハースト氏、  ならぴに彼を通してラザフォード・オルコット氏が、わたした  ちが願いませんのに、この事件を取り上げたという事実を、  活字にすることは望ましくないと存じます。新政府の外務省  は、前政府が訓令をした政策のゆえに、現地の人々を調べて  おります。ここでわたしたちが、さらに彼らの負担になるよう  なことを言って、彼らの立場をいよいよ困難なものとするこ  とは、慈悲のない行ないでもあり、また恩知らずの行ないで  もありましょう。 揚州で静かな生活にもどってからのちも、ずっと続いていたあらしを切り抜けるためには、祈りと忍耐とをもってするよりほかはなかった。四か月ほどのちになってバーガーは、セント・ヒルから書いている。  揚州事件は上院で問題になっています。この国での反響はご  想像になれないほどです。でもこれらの何物によっても動か  されることはないと言えることを感謝します。神がわたした  ちをこの働きに召して下さったことを信じます。ここからの  がれたり、困難に負けてしまうことは、わたしたちのためで  はありません…元気を出して下さい。戦いは主のものです。 このような危機にあって、苦痛を倍加したのは、ミッションの中の何人かの者の不満が最高潮に達して、最初から問題のもとになっていたこの人たちに辞任を求めなければならなかったことである。この人たちの話すことが本国での誤解にさらに拍車をかけ、バーガーの賢明で強力な指導にもかかわらず、この事業から関係を断つようになった友人も少なくなかった。このことは新聞のきびしい論調とともに、ミッションの収入に大きな影響を及ぼしていた。ミッションの指導者のうえに加えられた試みは、少なくもなく小さくもなかった。暴動後、まもなくテーラーは書いている。  わたしたちのためにお祈り下さい。多くの恵みを必要として  おります。毎日の訪問はどれほどの忍耐と寛容とを要するこ  とでしょうか。国籍も、ことぱも、感情も異なった多くの人  たちの間で起こるさまざまの困難や誤解に対して適切な態度  で臨むためには、どれほどの知恵を要することでしょうか。  想像なさるのも困雌なことでしょう。主がわたしに、ありの  ままを見ることのできる目、明確な判断、知恵と優しさ、忍  耐強さ、ゆるがない目的への自覚と信仰、責任を最もよく果  たすために必要とするキリストのような愛を与えて下さるよ  うにとお祈り下さい。始まったばかりのこの大事業のため  に、十分な物と適当な器とを備えて下さるように祈って下さ  い。 このような状態の中でも、ミッションの目的としている開拓伝道は、停止しなかった。揚州事件が結着する以前に、テーラーは大運河を北上し、北部の各省に向かって行く拠点として、ある都市へ旅行をした。メドーズは寧波の仕事を他にゆだねて、鎮江から西に向かい、最初の内陸の省である安徽省への進出を指導できるようにした。安徽省には二千万もの人が住んでいるが、新教の宣教師はひとりもいなかった。人材と物資とが増強されるようにという祈りは答えられなかった。そればかりでなくかえって本国からの送金は目に見えて減少していった。彼らにはわからなかったが、この事態に対する備えが何もなかったわけではない。のちに彼らもそれに気づいて励まされたのであるが、試みが来るのをゆるされるかたは、同様にご自身のすばらしい方法で必要をも備えられたからである。すでに英国では一文なしの人―文字どおり空の鳥や野のゆり以上の資力があるわけではないーが、祈りと信仰によって二千人もの孤児の家族を養っていた。この人数は、のちに倍増したが、ー一セントの基本財産があったわけでもなく、援助を訴えて祈るのでもなかった。彼はその必要については主の約束により頼み、天の父以外のだれにも必要を知らせることをしなかった。この人、ジョージ・ミュラーの働きには明らかに神のご忠実さが示されていた。その信仰はハドソン・テーラーやその他の多くの人々に多大の影響を及ぼすことになった。このブリストルの神の人は、非常に心の広い人で、地上のもっと暗い地域での、直接的な宣教活動に、なんらかの役割を果たさずには満足できなかった。 彼は中国を含む多くの国で福音宣教を進めうるために、資金を求めて祈った。そしてなみなみならぬ困難の中で、主からの助けを伝達する役割を果たす喜びを味わっていた。それは、主が特別な方法で彼に語りかけられて、他の人が見落とす働きや、必要が多いのにもかかわらず十分な備えのない働きに彼を用いておられるように思われた。例をあげるならば、揚州の暴動が起きるとすぐ、英国にニュースが伝わるよりもずっと前に、ミュラーの心には、チャイナ・インランド・ミッションに経済的な援助をする重荷が与えられていた。彼は以前にも寄金をしていたが、暴動後、一、二日のうちにバーガーに、祈りのためにリストに書き加えるべきミッションの他の働き人の氏名を知らせてくれるようにと、依頼の手紙を書いている。バーガーは、何人かを選んでくれるようにという意味で、六人の氏名を送ったが、ジョージ・ミュラーは、『その全部を選んで祈りのリストに載せたのである。 そんなことがあってから一年ほどのち、中国で資金の不足が最も深刻に感じられていた時に、ジョージ・ミュラーは、また手紙を書いて援助を拡大させたのである。この手紙がまだ郵送中に、テーラーは、十二月分の必要を送りながら、働き人のひとりに書いている。  この財政年度の上半期は、昨年より献金額が一千ポンド減少  しました。わたしのところには今、コックはいません。わた  しは月ひとり一ドルで食堂から食事の仕出しをしてもらうほ  うが安上がりだということがわかりました。…わたしたちの  働きを後退させることがないように、信仰をもって資金のた  めに祈りましょう。 自分がもっと不便になることは、彼にとってたいしたことではなかったが、働きを縮小しなければならないようなことになったら……それはことばに表わしえない苦痛である。がしかし、感謝なことに、彼らには全然その必要がなかった。この時には、年が暮れる前に、ミュラーから次のような手紙が彼のもとに着いていた。  愛する兄弟、中国における主の働きは、いよいよわたしの心  の重荷となっております。それでわたしは、祈りはもちろん  のこと、経済的にももっともっとお助けできるようにと待ち  望み、祈っておりました。最近わたしは、特にあなたととも  におられるひとりひとりの愛する兄弟姉妹を、金銭的にお助  けすることを願っております。ひとりひとりに対するわたし  の関心を彼らに知ってもらいたいと強く願っているからで  す。このわたしの願いは、今、成就されました。 同封されていた十一枚の小切手は、ミュラーがそれまでは助けていなかった働き人全員のためであった。同じ手紙でバーガーは言っている。  ミュラー氏は、しばらく考えてから、そうすることがさしさ  わりにならないならば、ひとりひとりに援助を送ることがよ  いと思われるとされて、C・1・Mに連なる兄弟姉妹の全員の  氏名を尋ねてこられました…主はわたしたちの資金が減少し  ていることを確かにご存じでした。それで、ご自身の尊い器  の心に、わたしたちを助けるようにと示されたのです。 ジョージ・ミュラーからの贈り物が非常な励ましとなったのは金銭のゆえばかりではなく、このような人物の祈り深い理解であった。彼は宣教師へ手紙を書いている。  わたしの目的は、わたしが主にあってあなたを愛している事  実と、中国における主のわざに、重大な関心を持っており、  あなたのために毎日祈っていることを、お知らせすることで  す。  困難、試み、苦しみ、失望の中で、あなたのことを感じ、主  の前にあなたを覚えている者がもうひとりいると聞くこと  が、あなたにとって、いささかの励みになるかもしれないと  わたしは考えました。しかし、たとえだれもあなたのことを  心に掛けず、あるいは、だれもあなたのことを心に掛けてい  ないと感じるような立場にあっても、常に主があなたととも  におられるでしょう。ローマにおけるパウロの例を思い出し  て下さい(第ニテモテ四・一六?一八)。  ですから、主を認め、主を見上げ、主により頼んで下さい。  もしあなたが主とともに歩み、主を見上げ、主からの助けを  期待するなら、決して主はあなたを失望させられないことを  確信して下さい。四十四年間、主を知ってきたわたしが、兄  としてあなたを励ますために申します。主は決してわたしを  失望させませんでした。最大の困難の時、最も深刻な試みの  時、極度の貧しさと欠乏の時にも、主はわたしを失望させま  せんでした。わたしは主の恵みによって主に信頼することを  許されていたので、主はいつもわたしを助けに来られまし  た。主のよきことを語るのはうれしいことです。 テーラー自身がこのような励ましを、非常に必要としていた。揚州事件に続く困難は、内的な試みに比べれば、まだまだ軽いものであった。外的な環境からの圧迫も、霊的な喜びと平安とを妨げたものの一部であったに違いない。しかし、やがて訪れようとしていた深い経験をしてからの彼は、どんな試みによっても、主にある喜びを曇らされはしなかった。 「どんなにひどい圧迫を受けようと、実際それはたいしたことではない」と彼はよく言っていた。「問題は、その圧迫がどこに加えられるかである。それは決して主とあなたの間には来ない。もしそうなら、圧迫が強けれぱ強いほど、主のみ胸の方にあなたを押しやるだけである」。しかし、その時、彼はまだ、自分ののちの生涯に、非常に輝きをもたらす秘訣を学んではいなかった。長い間内的な暗黒に住み、彼はほとんど絶望的な気持ちにさえなっていた。母親にあてて彼は書いている。  祈りのうちにわたしを覚えて下さいと、幾度かお願いしました。そしてお願いした時、確かにそうしていただく大きな必要がありました。しかし、今ほど大きな必要を感じていることは ありません。ある人々からはねたまれ、軽蔑され、他の人々からは憎まれ、聞いたこともなく、関係もないことについて、しばしば非難されています。宣教師活動の定石を変え、異教の あやまちと迷信の大組織に挑戦し、いろいろの点で前例もなく、わずかの経験のある協力者しか持たずに働く時、心は乱され、周囲の状況に当惑することはもちろん、肉体的にもしばしば病気になってしまいます。もし主がわたしに対して特別にあわれみを示して下さらなければ、わたしは倒れてしまったでしょう。この仕事が主のものであるという確信で心がささえられ、 文字どおり「戦いのただ中」と呼ぶべき現実の中で、彼がともにいますという確信にささえられなければ、わたしは押しつぶされてしまったことでしょう。しかし戦いは主のものです。主 は征服なさるでしょう。わたしたちは失敗するかもしれませんし、また失敗を続けることでしょう。しかし主は決して失敗をなさいません。わたしは今までより以上に祈りを必要としてお ります。 わたしの立場には、いよいよ重い責任が加わってきています。それを果たすために、さらに特別の恵みが必要です。それなのに、わたしはいつもわたしの尊い主であるかたをまねるのが おそく、主からあまりにも離れたところに従っていることを悲しまざるを得ません。 時として、誘惑に打ちのめされてしまいます。そのさまはとてもお話しできません。わたし自身が、どんなに悪い心の持ち主か、知りませんでした。しかし、わたしは神を愛し、神のわざを愛し、すべての点で主にのみお仕えするのを願っていることを知っています。わたしが神によってのみ受けられる尊い救い主を、他の何にもましてすばらしく思います。しばしばこんなにも罪に満ちた者が神の子供でありえようか、と考えたい誘惑にかられます。しかし、わたしはその考えを投げ捨てるようにして、いよいよイエス・キリストの尊さを喜び、「愛する者のうち」にわたしを受け入れて下さった恵みを喜びます。主は神に愛されるかたです。主はこのわたしたちからも愛されるべきかたです。しかし、この点でもわたしは、なんと不十分な存在なのでしょうか。もっと主を愛し、主に仕えられるように、神がわたしを助けて下さることを、祈って下さい。主が、わたしに罪を犯させず、わたしをきよめ、もっと主のみわざに用いて下さるように、祈って下さい。 「聖霊は、キリストが待ち望む魂を満たすため以外に、義に対する飢えかわきを起こされることは決してない」 「十字架につけられたイエスの信仰は、罪人のための平和の道である。よみがえりのイエスの信仰は、聖徒のための日々の救いの道である」 「あなたは自分の救い主になることはできないだろう。全面的であっても、部分的であっても」      注   その後の二、三年間に、ミュラーは年間一万ドルにも達す   る献金をした。その額は、揚州暴動以来のミッションの収   入の滅少額に相当した。 一四 新たにされた生涯   そうですわたしのうちに   わたしのうちに主は住まわれます   主のうちのわたし わたしのうちの主ー   今も そして永遠までも   わたしのからの魂を満たされる               H・ボナー 前述の手紙が書かれてから六か月後のこと、大運河を北に向かって行くジャンクの中には、新しく見いだした大きな喜びに満ちあふれた乗客がいた。揚州では、ジャッドが、その友人であり、指導者である人の帰りを待っていた。しかし、彼は、以前からよく知っていたこの人の中に起こった変貌については、予期さえもしていなかった。あいさつもそこそこに、テーラーは自分の物語を始めた。背中に手を回す独特な姿勢で、へやの中を叫びながら、行ったり来たりするのであった。 「ああ、ジャッドさん、神さまはわたしを新しくして下さいました。神さまはわたしを新しくして下さいました」。 祈りの答えとして与えられた経験は、実にすばらしかった。しかし、あまりにも簡単すぎて、ことばではなんとも表現できないほどであった。それはずっと昔にあったのと全く同じである。つまり「わたしは盲であったが、今は見える」ということである。 鎮江に帰ったハドソン・テーラーを待っていた手紙の束の中には、ジョン・マカーシーが杭州の古い家から出したものもあった。そのころ彼の上にはまぶしいほどの朝日が輝いていた。それはすべてを新しくするうちなる光である。彼はぜひともテーラーにこのことを話したいと切望していた。彼はその友が、魂のひどい苦悩を経験していたことを、ある程度まで知っていたからである。しかし、どう切り出してよいのか、どう表現すれ ばよいのか、彼にはわからなかった。彼は書いている。  聖潔の道について、今こそあなたとお話しできたら…と思い  ます。あなたがこのことについて話して下さった時、それは  わたしの心を占めていたすべてにまさって重要な問題でし  た。それは何かを読んだというよりも、失敗の意識からでし  た。わたしは、目標とすべきだと感じているところから、い  つも落ちてしまい、不安ばかりが残っていました。神と親し  い交わりを楽しむ道を見つけようとして、絶えず努力をして  いますものの、時として生き生きとした親しい交わりができ  たとしても、すぐに幻のように遠のいてしまうのです。  わたしは今、きたらんとするよき日を目ざして、努力や渇望  や願いということではきよめられることはできず、幸福をう  ることも、用いられることもないと考えています。もちろ  ん、貧しい成果だけで満足しているよりもはるかによいこと  でしょうが、それでもなお最善ではありません。わたしは  「すべてなるキリスト」という本の一節に深い感銘を受けま  した。そこにはこんなことばがあります。  「主イエスを受け入れることは、聖潔の初めである。主イエ  スを喜ぶことは、聖潔の進展である。必ずそこにおられるか  たとして主イエスにたよることは、聖潔の完成である…」。  「キリストを最も多く所有し、主の完成されたみわざを最も  深く喜ぶ者が、最もきよい者である。人の歩みを妨げ、多く  の人を倒すのは、欠陥のある信仰である」。  この最後のことばは全くそのとおりだと思います。わたしの  愛する救い主に、御旨、すなわち、わたしのきよめを全うし  ていただくことは恵みによってわたしたちが生きる目的であ  ります。努力でも、苦闘でもなく、主にあること、主を見上  げること、主を信頼して、今、力を得ることであります。「す  べての罪」よりの全き救いの喜ぴの中に、全能の救い主の愛  の中にいこうこと、これは新しいことではありません。しか  し、それでもわたしにとっては新しいことでした。わたしは  黎明の輝きに照らし出されたように感じています。恐れなが  ら、しかし、信じてこの祝福を歓迎します。わたしは、限り  なく広がる海の岸べにだけいたように思います。全き満たし  を与えられるのに、ただほんのちょっと水を口にしただけの  ように思います。今、イエス・キリストは全くわたしのすべ  てであり、奉仕のための力、唯一の力であり、変わること  のない喜びの唯一の源であると感じられます…。 わたしたちの信仰は、どのようにして増していただくことができるのだろうか。それはキリストのご存在のすべて、わたしたちのためのご存在のすべてによるのみである。主の生命、死、みわざ、みことばに現わされた主ご自身を、いつも考えているべきである。信仰を持とうという努力ではなく、忠実なおかたを見上げることが、わたしたちのなすべきすべてであろう。今も、また永遠までも、愛する主のうちに全くいこうことである。 奇跡がどのようにして行なわれたのかはわからないが、「読んだ時、すべてがわかった」とテーラーは書き、さらに続けて「わたしは主を見上げた。見上げた時、実になんとも言えない喜びに満たされた」と述べている。 ジャッドも記録している。  いまや彼は、喜びの人、明るく幸いなクリスチャンであっ  た。彼は、重荷を負い、苦労し、特に最近は魂の安らぎを得  られないでいた。しかし、今は主にあっていこい、主にわざ  をなさしめている人となっていた。主にわざをなさしめる―  すべての相違はここから生み出される。それからのち、彼が  集会で話す時にも新しい力が流れ出るように感じ、生活の実  際問題についても彼のうちには新しい平安がみなぎってい  た。以前のように心配事に心を煩わすこともなかった。新し  い道に立って、すべてを神にゆだね、祈りのためには以前に  もまして多くの時間を用いた。従来は夜おそくまで働いてい  たが、夜早く床につき、朝五時に起きて、一日の仕事を始め  る前に聖書の学びと祈りに時を用いるようにした(それが二  時間にわたることもしばしばであった)。 テーラーの生涯は変わった。その生涯は、もはや彼自身のものではなかった。六か月ほど前に、彼は「わたしはいつもわたしの尊い主であるかたをまねるのがおそく、主からあまりにも離れたところに従っていることを悲しまざるを得ません」と書いていた。今は、まねるという考えはなかった。キリストがわたしのうちに生きておられる、というのが幸いな現実であった。この両者の間にはどんなに大きな相違があることだろう。鎖の代わりに自由、失敗の代わりにうちなる静かな勝利、恐れと弱さの代わりに他者であるかたにいる満ち足りた安心感があった。解放があまりにもすばらしかったので、この時からのちテーラーは、どこへ行ってもこのすばらしい秘密をかわいている魂に理解させようと努めたが、いくら努力しても努力し足りない気持ちであった。今日、このような助けを必要とするかわいた魂は多い。それでこの問題について、彼が初めのころに書いた手紙の一つから詳細を引用してみよう。それは妹のブルー ムホール夫人にあてて書いたものである。彼女は、十人もの子供を持つようになった家族の重荷を現実に体験していた。  長いうれしいお手紙、ほんとうにありがとう。わたしたちが  中国に帰って来てから、あんなに長い手紙をもらったのは初  めてでした。手紙が書けなかったのは、わたしの場合と同じ  事情からだということはわかっています。書きたくないのでは  なくて書けないのです。身も心もある程度以上の緊張には耐  えられませんし、また、ある程度以上の仕事もできません。  仕事に関して言えば、わたしの場合は、今までになく豊かで  すが、それだけ責任も大きく困難でもあります。けれども、  その重さと緊張感はみななくなりました。最近の一か月ほど  は、おそらく今までの生涯でいちばん幸いな時でした。主が  わたしの魂のうちになして下さったことについて、少しお話  ししたいと切望しています。それについて、わたし自身のこ  とをどれだけわかってもらえるかわかりません。新しく、珍  しく、不思議なものは何もないのに、なおすべてがみな新し  いからです…。  以前のことにさかのぼって述べれば、おそらくもっとはっき  りとわかってもらえると思います。そうです。愛する妹よ、  過ぎ去った六か月か八か月の間、わたしの心は非常に苦しめ  られていました。その時、自分についても、ミッションにつ  いても、わたしの魂に、もっと深い聖潔と生命と力とが必要  であると感じていたのです。しかし、何よりも自分の必要が  先で、最大のものでした。感謝の気持ちのない、神により近  く生きていない危険と罪とを感じていました。それで、祈  り、苦しみ、断食し、努力し、決意をし、もっと忠実に聖書  を読み、黙想するために、より多くの時間を求めました。し  かし、すべてはむだでした。毎日、ほとんど毎時間、罪の自  覚にわたしは押しつけられていました。  もしも、キリストの中にいることができさえするならば、す  べてはよくなるだろうとわたしは知っていたのですが、それ  ができませんでした。たとえ一瞬間であっても主から目を離  さないつもりで、祈りによって一日を始めようとはするので  すが、耐え切れないほどに苦しい仕事の圧迫や、仕事を中断さ  れることによって、しばしばわたしは疲れ果てて主を忘れて  しまうのです。こうした状態の中では、神経が異常に高ぶっ  て、いらだちやすくなり、かたくなな考え方をしたり、冷た  いことばを押えるのが困難になるような状態でした。毎日、  罪と失敗と力の欠乏が記録されるばかりでした。願い求める  気持ちはあるのに、どうすればよいのか、わたしにはわから  ないありさまでした。  それから、疑問がわいてきました。いつまでもこのような状  態ー絶えざる争いと、あまりにも頻繁な敗北ーが続かなけれ  ばならないのか。  イエスを受ける者には、「彼は神の子となる(すなわち神の  ような)力を与えたのである」と、自分の経験とは違ってい  るのに、どうして真剣に説くことができるだろうか。わたし  自身はいよいよ強くなるのではなく、かえってだんだんに弱  くなり、しだいに罪に逆らう力が減退して行くように思われ  ました。無理もありません。信仰が、そして希望さえも下降  をたどっていたのですから。わたしは、自分を憎み、自分の  罪を憎みましたが、それでもそれに抵抗する力は得られませ  んでした。わたしは神の子供であったように感じました。わ  たしの心の中にある神の聖霊は、わたしのみじめさにもかか  わらず「アバ父よ」と叫ばれるようでした。しかしわたし  は、子として与えられている特権に生きることについては全  くの無力でした。  わたしは、実際的な聖潔は、忠実に恵みの手段を用いること  によってだんだんに得られるものだと考えました。聖潔ほど  わたしが求め、また必要としているものはありませんでした  が、それを少しばかり得るのにさえも力が及ばないありさまで  した。いっしょうけんめいになればなるほど、それはわたし  から遠ざかってしまい、ついには願うことさえもほとんどし  なくなり、神は天国をより慕わしいものとなさるために、地  上では聖潔を与えられないのであろうと考えはじめました。  自分の力にたよってそれを得ようと努力していたとは思いま  せん。わたしは自分に力のないことはわかっていました。主  に向かってそう申し上げましたし、力を与えて助けて下さい  とも願い求めました。時には主がささえ保って下さると信じ  られそうになることもありましたが、夕暮れになると、あ  あ、そこにあるものは罪のみであり、神の前に告白できず、  嘆くこともしない現実のみでした。  長くつらい何か月かの経験のすべてがこうであったという印  象を与えたくはありません。確かにそれは、当時、実にしば  しば見られた魂の状態であり、陥りやすかった傾向でした。  それでも、この時ほどキリストが尊く思われたことはありま  せんでした。こんな罪人を救うことができ、また救うことを  望まれる救い主…主にある安らぎの時も、確かに幾度かあり  はしましたが、それもすぐに過ぎ去ってしまうのです。いくら  よく見ても、そこにあるものは悲しい力の欠乏でした。この  戦いを終わらせるにあたって、主はまことによきおかたであ  りました。わたしの必要のすべてはキリストにあるという確  信を、ずっと持ち続けてはいましたが、実際問題は、その確  信をどのように働かせるか、ということでした。主は真実に  豊かなおかたですが、わたしは貧しい。主は真実に強くあら  れるが、わたしは弱い。根や幹に豊かな栄養があることは十  分に知っていますが、実際にそれをどのようにしてわたしの  小さな枝に受けることができるかが問題なのでした。しか  し、しだいに光が輝いてくると、唯一の必要は信仰であるこ  とが明らかになってきました。満ち満ちた主に向かって手を  伸ばして、その豊かさを自分のものとすることであることが  わかりました。わたしにはこの信仰がなかったのです。信仰  を求めてわたしはいっしょうけんめいでしたが、得ることがで  きませんでした。信仰を行使しようとしましたが、むだでし  た。イエスのうちにたくわえられたすばらしい恵みの宮、わ  れらの尊い救い主の完全を見れば見るほど、わたしのとがと  無力さはいよいよひどくなるようでした。わたしが犯した罪  は、不信仰の罪に比べれば、ごくわずかなことと思われまし  た。神をそのみことばどおりに受け取らず、受け取ることも  できずに、かえってうそつきにしてしまうような不信仰こ  そ、世界を破滅させる罪だと感じていました。がしかし、わ  たしがその中に浸っていたのです。信仰を求めて祈りはしま  したが得られませんでした。わたしは何をすべきだったので  しょう。  わたしの魂の苦しみが極点に達した時、ちょうどその時、よ  き友マカーシーの手紙の一節がわたしの目のかすみを取り除  き、神の霊が、わたしたちはイエスと一体であるという真理  を、今までにないほど明らかにしてくれました。同じような  失意に苦しめられながら、わたしより先に光を見たマカー  シーは書いています(記憶をたどって引用します)。  「しかし、信仰を強められるためには、どうしたらよいので  しょう。それは、信仰を求めて努力するのではなく、忠実な  おかたに寄りかかることによるのです」。  それを読んだ時、わたしにはすべてがわかりました。「たと  い、わたしたちは不真実であっても、彼は常に真実であ  る」。わたしは主を仰ぎ、「決してあなたを見捨てない」と  言われる主を見たのです。わたしが見上げた時、ああ、どん  なにうれしかったことでしょう。  「ああ、安息がある」と考えました。「主のうちにいこおう  とむだな努力をした。もう努力はすまい。主がともにいて下  さると約束されたのではないか。決してわたしを見捨てず、見  放すこともないと」。愛する妹よ、確かに主は決して見放さ  れません。  これは、主がわたしに示して下さったことのすべてでもな  く、半ばでもありませんでした。ぶどうの木と枝のことを考  える時、祝福の聖霊はなんとすばらしい光を、わたしの魂に  注ぎ込まれたことでしょう。主から活力や満たしを取り出そ  うと願ったことが、どれほど大きなまちがいであったかをよ  く考えさせられました。わたしは、イエスが決してわたしを  見捨てられないということだけでなく、わたしが主のからだ  の一部分であり、主の肉の一部分であり、主の骨の一部分で  あることを知ったのです。ぶどうは根だけではありません。  それは、根も、幹も、枝も、小枝も、葉も、花も、実も、す  べてなのです。そして、イエスはそれだけではありません。  主は、土であり、日光であり、空気であり、雨であり、さら  にわたしたちが夢にみたこともなく、願ったこともなく、必  要とも感じないような他のさまざまのものでもあるのです。  この真理を知ったことは、ほんとうに喜ばしいことでした。  あなたもまた、このような理解ができるように、光をいただ  き、キリストのうちに自由に与えられている富を知り、楽し  むことができるようにと祈ります。  愛する妹よ、よみがえり、昇天された救い主と、真実に一体  であること、キリストの枝であることはすばらしいことです。  そこに含まれているものがなんであるか考えて下さい。キリ  ストが富んでおられ、わたしが貧しいということがありえま  しょうか。あなたの右手が富み、左手が貧しいことがありえ  ましょうか。頭が十分に養われているのに、からだが飢えて  いるということがありえましょうか。さらに、このことが祈  りに対してもつ意昧を考えて下さい。銀行員が客に向かっ  て、「小切手を書いたのはあなたの手であって、あなたでは  ない」とか、「あなたの手にこの金を払うわけにはいかな  い。払えるのは、あなたにだけだ」とか言えるでしょうか。  それと同様に、あなたの祈りが、またわたしの祈りが、イエ  スの名によってささげられるならば(イエスのゆえのみでは  なく、わたしたちが彼のものであり、彼に属する者であると  いう理由で)、キリストの預金の限界内にとどまるかぎり、  無効だということはありえません。この限界は相当に広いも  のです。もし、聖書的でないことや、神の御旨に沿わないこと  を願うならば、キリストご自身それを受け入れて下さること  はできないでしょう。「わたしたちが何事でも神の御旨に  従って願い求めるなら…神に願い求めたことはすでにかなえ  られたことを、知るのである」。もし、一部が他よりも慕わ  しいと言えるなら、最も慕わしいものはキリストの完全な一  体化がもたらす安息であります。わたしはこのことがわかっ  てから、もう何事も思い煩いません。主は御旨を行ないうる  かたであり主の御旨はわたしの心であることを知るからで  す。主がわたしを、どこに、どのようにして置かれるかは問  題ではありません。そのことは、わたしよりも主がお考えに  なるべきことなのです。なぜなら、最も楽なところでも、主  はわたしに恵みを下さらなければなりませんし、最も困難な  ところでも、主の恵みは十分だからです。わたしが召使に  ちょっとした安い物を買いに行かせようと、非常に高価な物  を買いに行かせようと、彼にとってはたいした違いではあり  ません。いずれにしても彼は、わたしに金を求め、買ったも  のをわたしのところに持ってきます。もし神がわたしを深刻  な困惑の中に置かれるとしても、神は十分にわたしをお導き  にならなければなりません。非常に困雄な立場に置かれる時  には多くの恵みを与え、激しい圧迫の中では非常な強さを与  えて下さらなければなりません。主が貧しくあられるので緊  急の事態に対応できないかもしれないなどと恐れることはあ  りません。主の富はわたしのものです。主はわたしのもので  あり、わたしとともにあり、わたしのうちに生きていて下さ  るからです。キリストがこのように信仰によってわたしのう  ちに住んで下さってから、どれほど幸福になったことでしょ  う。書くよりは、直接お話しできればと思います。わたしは  以前より楽になったというわけではありません。ある意味で  それは、願いもしなければ、またそうなるように努力もしま  せん。しかし、わたしはキリストとともに死に、葬られ、そ  うです、ともによみがえりました。そして今、キリストはわ  たしのうちに生き、「わたしがいま肉にあって生きているの  は、わたしを愛し、わたしのためにご自身をささげられた神  の御子を信じる信仰によって、生きている」のです……。  もう筆をおかなければなりません。言いたいことの半分もま  だ言っていませんし、言いたいように言ってもいません。  もっと時間があればいいのですが。神さまがこの祝福の真理  をはっきりとあなたにつかませて下さるように。「だれが天  に上るであろうか(それは、キリストを引き降ろすことであ  る)」、などと言い続けることはしますまい。ことばを替え  て言えぱ、神がご自身とわたしたちを一つのものにして下さ  り、ご自身のからだの枝として下さったのに、主が遠く離れ  ているように考えたりしないようにしようということです。  また、この経験と、これらの真理とが、少数の者のためであ  るとみなすべきではありません。これはひとりひとりの神の  子が持つ生まれながらの特権であり、主を汚すことなしにそ  れを無視することは、だれもできません。キリストは、罪か  ら人々を救い出すただ一つの力であり、また人々が奉仕する  ための唯一の力なのであります。 そのすべては、家事に追われている母親もまた同様に、信仰の安息に導かれて知ったように、きわめて単純であり実際的であった。 「あなたはキリストにあることを、いつも意識しておられますか」と、何年もあとにテーラーは聞かれた。 「昨晩、寝ている時にわたしは、ここにいることを意識していませんでした。しかし、それだからと言って、わたしがあなたのお宅にいなかったのでしょうか。キリストのうちにない、と いう意識は、決して持つべきではありません」と、彼は答えた。 一五 かわくことなく   それからどうなるだろう   わたしは別にそれを尋ねたいとは思わない   涙恐れそして悲しみがあるのはわかっている   その時愛する主は近づいて言われるのだ   「あすのことはわたしが責任を負います」と これは長い間の試練に耐えることのできる経験であった。満たされなくなってしまうということは、もうなかった。魂が満たされなければならない状態にありながら、どうしてもキリストのうちにすでにある満たしをいただけないというようなことはなかった。今までよりさらに深刻で容赦のない試練がやってきたが、その一つ一つに、主ご自身のご臨在から何ものにも妨げられないで流れてくる喜びがあった。ハドソン・テーラーは魂の安息の秘訣を見いだしたからである。この経験によって主イエスご自身をもっと理解できるようになったばかりでなく、もっと完全な献身ー主への自己放棄ーをすることができたのである。すでに見たように、彼はしるしている。  わたしはもう何事も思い煩いません。主は御旨を行ないうる  かたであり、主の御旨はわたしの心であることを知っている  からです。主がわたしをどこに、どのように置かれるかは問  題ではありません。そのことは、わたしよりも主がお考えに  なるべきことなのです。なぜなら、最も楽なところでも、主  はわたしに恵みを下さらなければなりませんし、最も困難な  ところでも主の恵みは十分だからです。わたしが召使に  ちょっとした安い物を買いに行かせようと、非常に高価な物  を買いに行かせようと、彼にとってはたいした違いはありま  せん。いずれにしても、彼はわたしに金を求め、買ったもの  をわたしのところに持って来ます。もし神がわたしを深刻な  困惑の中に置かれたとしても、神は十分にわたしをお導きに  ならなければなりません。非常に困難な立場では多くの恵み  を与え、激しい圧迫の中では非常な強さを与えて下さらなけ  ればなりません。主が貧しくあられるので、緊急の事態に対  応できないかもしれないと恐れることはありません。主の富  は、わたしのものです。主はわたしのものであり、わたしと  ともにあり、わたしのうちに生きていて下さるからです。 キリストにすべてをささげることを、彼はずっと前から知ってはいたが、これはそれ以上のものであった。新しい献身、すなわち、もし主が望まれるなら、あれやこれやを放棄するという問題ではなく、自分自身のすべてを余すところなく主にお渡しすることであった。それは主に属する者のためにありうる最善として、大きなことであっても、小さなことであっても、すべてにおいて主の御旨を喜んで受け入れ、感謝をもって忠実に行なうことである。このことによって、次の夏に襲ってきた試みの涙の谷を、静かに流れでる祝福の泉と変えた神の恵みによる勝利の時とすることができたのである。 危険と興奮とが頂点に達した天津の虐殺事件以前にも、テーラー夫妻は主から与えられた格別に深い悲しみを経験していた。子供たちとの別離はしだいに避けがたいことになっていたが、これ以上その時を延ばすことはできなかった。中国には 彼らを教育できる学校はなかったし、そのころは今日のように酷暑の間、避暑をする保養地もなかった。彼らの耐乏生活は、子供たちの健康にも影響を及ぼしていた。両親はすでに、一児を中国の土に埋葬するという悲しい経験をしている。テーラーたちの秘書であり、献身的な友人でもあったミス・エミリー・ブラッチリーが、三人のむすことひとりの娘を英国に連れて行って、世話をしようと申し出てくれた。彼らは感謝してこの申し出を受けた。 当時、東洋と西洋は、今よりもはるかに遠く離れていたので、このことは長い長い別離を意味していた。しかし、幼い旅行者たちが沿岸地方に伴われて行く前に、もっと長い別離に直面しなければならなくなった。いつも両親によりそっていた末の男の子は、わずか五歳になったばかりで、その上いちばん健康を害していた。近づいている別離の悲しみが、この子の持病を悪化させているのを見て、両親は心を痛めていた。揚州から運河を下る舟の上でも、彼らは一晩じゅう子供の枕もとを離れないで見守っていたのだが、翌朝の明けがた、この子は深い眠りに陥り、揚子江の濁った流れの上から、苦しみもせず、恐れもしないで、よりよき国へ去って行ったのである。あらしが吹きすさびはじめる前に、両親は三キロも幅のある川を渡って、その宝であるわが子の遺体を鎮江の墓地に横たえた。それから、他の子供たちと上海に向かった。しばらくして日中に出港するはずのフランスの定期船に一行を連れて行ったが、そのあとでテーラーはバーガーにあてて書いている。  目をさましている子供たちを中国で見るのはこれが最後にな  るでしょう。(彼はまだ船上にいたテーラー夫人を連れにも  どっていた)。ふたりの小さい子供については何も心配して  いません。あの子たちはすでにイエスのみふところに休んで  います。愛する兄弟、今は涙を押えることはできませんが、  主が価のない者をこの大きなお働きにあずからせて下さるこ  とを感謝しています。この仕事に従事していることに、何も  悔いることはありません。これはわたしのわざでもなく、あ  なたのわざでもなく、主のみわざです。しかもなお、わたし  たちのものでもあります。わたしたちがそれにあずかってい  るからでなく、わたしたちが主のものであり、このわざの主  であられるかたと一体であるからです。 これが彼らをささえた現実であった。彼らが迎えようとしていた一八七〇年の夏ほど、苦しみの多い夏はなかった。その中で彼らは、ことばには表わせないほどの子供を思う気持ちを持ちながらなおも、かつてない安息と喜びとを与えられていた。テーラーはのちに回顧して、しるしている。  まことに心の優しい母親を、これほどまでにささえられた恵  みのすばらしさに驚くばかりである。その秘密は、イエスが  心と魂の深いかわきを、いやしておられたことにある。 周囲に狂いたける試みのあらしに耐えながらもその夏のテーラー夫人のコンディションは最高であった。そのころミッションの人々の間には悪疫が流行していた。彼らが子供たちと別れて鎮江に到着する以前に、ジャッド夫人がそこで危鴛状態になっているという知らせがあった。テーラーは別の患者をみなければならなかったので舟を離れることはできなかったが、テーラー夫人が自分にできることをしようと言い出し、彼もそれに同意した。 鎮江のジャッドは、何昼夜も続いた着病で卒倒するぱかりの状態だった。彼はその時、階下の中庭にだれかが到着した音を聞いた。こんなに夜おそく、どこから、だれが来ることができるだろうか。彼は人が来ることを予想もしていなかった。蒸気船が川を通った様子もないし、民船は日没以後は航行しないだろう。それに中庭にはいって来たのは手押し車の音である。ばねのない車で長い道のりを、しかも婦人がひとりでやって来たのである。やがて彼の前に現われたのは、願いうる最善の人の顔であった。ジャッドは回想して語っている。  その時、テーラー夫人は、困難な旅のあとで、苦しくもあ  り、疲れ果ててもいたのだが、わたしをベッドに行かせて、  自分が看病をしようとがんばった。どうしても彼女を休ませ  ることはできなかった。彼女は言うのである。  「あなたはおやすみになってもがまんしなければならない理  由が十分におありです。どうか寝て下さい。わたしは、あな  たがどうなさろうと、あなたの奥さんといっしょにおりま  す」。  こう言った時の彼女の確固とした態度と愛を決して忘れられ  ない。その時の彼女の顔には、主とともにあるゆえの喜びと  強さをもつ者に与えられている、主ご自身の柔和な輝きが  あった。 病人をささえ通したものは、祈り以外の何物でもなかった。それは、その夏何回も襲ってきた危機の極点で、祈りによって事態が救われたのと全く同じであった。ミッションの友にあててテーラーは書いている。  いくつかの伝道所で受けた試みについては、以前にも知って  はいましたが、すべてが同時にと言いますか、広範囲にわた  る興奮状態が、この地の社会の根底をゆすぶったのです。同  国人の魔術師によって彼らが魔法にかけられていると信じた  中国人の驚きと、これらの油断のできない敵が、外国人の手  先であると知らされた時の彼らの激しい怒りは、とても表現  できないほどです。天津の人々が立ち上がったこと、カト  リックの慈善団体の修道女、司祭たち、果てはフランス領事  までが虐殺されたことは、もうご存じでしょう。このような  情勢下で、人間の力から見れば、内陸部で孤立し、全く無防  備であったわたしの兄弟たちが、彼らの手から守られたの  は、なぜだったのでしょうか。それはすべてにまさるイエス  のみ名によって、心を合わせて絶えず祈っていた祈りに、答  えて働かれた神の力あるみ手による以外の何ものでもありま  せん。この同じ力が、イエスにより、その臨在、愛、摂理に  よってわたしたちを満たして下さったのです。 こうした経験について書かれたものを読むことは容易である。がしかし、そこにある緊追した気持ちを少しでも理解できるのは、同じような危機を通して生きてきた人だけであろう。その年の夏の暑さはまた格別で、いつまでも続き、そんなことが住民の不穏な空気をいっそう険悪にしていた。婦女子は沿岸地方への移動を余儀なくされ、中国政府当局は、一時、彼ら婦女子に全面的な国外退去を要求するかと思われた。このことについ て中国と外国の当局者に対して多くの書簡が送られ、最悪の危険状態にあった働き人にも頻繁にくり返して通信がなされた。鎮江のミッション・ハウスの施設には、できるかぎりの重税がかけられ、さらに家を手に入れることも異常な興奮状態のためにできないほどであった。揚州暴動に言及して、テーラーは六月に書いている。  古い時代にまた逆行してしまったように思われる。違ってい  るところは、わたしたちの心労が以前のように一か所に限定  されていないことである。 このころになると、川沿いの伝道地はみな放棄しなけれぱならないかのように見られた。テーラー夫妻は、揚州よりはまだ中央部にあるというわけで、鎮江に住んでいた。テーラーの家では夫は居間の床か廊下に寝て、妻が他の婦人たちとともに休む所を広くするようにしていた。天津虐殺ののちに、テーラーは筆を続けている。  一つの困難に続いて、すぐに次の困難がやってきます。しか  し、これは偶然ではなくて、すべては神が支配しておられる  のです。南京での興奮状態は恐ろしいものでした。…ここの流  言がやみはじめるようにと願っております。しかし揚州の事  態は険悪です。…どうぞわたしたちのためにせつにお祈り下  さい。わたしの心は冷静ですが、わたしの頭は、次から次へと  絶えず起こってくる困難のために、ひどく試みられていま  す。 しかし、この時期の試みによって、この事業が霊的な面で妨げられることはなかった。テーラー夫妻は、この霊的な面で得られるものをのがしはしなかった。六月の酷暑の中から、テーラー夫人はミス・ブラッチリーにあてて書いている。  日曜日の晩と、そのほかにも週に二晩か三晩クラスを開い  て、読解力のある中国人クリスチャンに、聖書研究に興味を  持たせようと努めています。読めない人々にも、ここでの研  究のための学びに興味を持たせたいと願っております。一方  また、わたしたちのなすべきことがいくらでもあることをか  なりよく知っているミッションの若い働き人に対して、模範  が示されるようにと願っております。回りにいるクリスチャ  ンや未信者に、みずからみことばを読み、理解することをな  んとしてでも学ばせようとする理由について、彼らは実際的  な説明を得られるかもしれません。 霊的な経験において、テーラーが得た喜びは、時が差し迫っているために、妨げられるどころか、かえっていよいよ深くされた。彼の書簡集は、すべてを通して、彼を導いた祝福のすばらしい潮について述べているほどいろいろの問題の圧力や困難について語ってはいない。このことはミス・デスグラズにあてて書いた手紙からもうかがわれる。それは六月の半ばごろ、揚州事件に関する彼女の手紙に対して慎重な回答をしたためたのちに しるされたものである。  わたしは今、あなたにすばらしいみことばを差し上げましょ  う。神さまはこのみことばによってわたしの魂を非常に祝し  て下さったのです。「だれでもかわく者は、わたしのところ  にきて飲むがよい」(ヨハネ七・三七)。かわかない人がど  こにいるでしょう。精神がかわき心がかわき、魂がかわき、  からだがかわかないという人があるでしょうか。どんな種類の  かわきを持っているか、あるいは、すべての点でかわいてい  るのか、それは問題ではありません。「わたしのところにき  て」かわいたままでいるのでしょうか。否、「わたしのとこ  ろにきて飲むがよい」と言われるのです。  イエスがわたしの必要を満たして下さることができるという  のでしょうか。そうです。主はそれ以上のことをして下さいま  す。わたしの道がどんなに入り組んでいようと、わたしの奉  仕がどんなに困難であろうと、問題ではありません。わたし  の悲しみがどんなに大きく、愛する者がどんなに遠く離れて  いても問題ではありません。いかに無力であろうと、魂のう  めきがどんなに深かろうと問題ではありません。イエスはす  べてを満たし得、しかも、満たす以上のことをして下さるの  です。主はわたしに、ただ安息を約束されるばかりでな  く、ーそれがすべてであるなら、なんとすばらしいことでしょ  う。「すべて」という一語が、どれほどのことを意味するので  しょうか。主は単に、わたしのかわきをいやすために飲ませ  て下さると約束されるだけではありません。いいえ、それよ  りもすばらしい、このことについて「わたしを信じる者(わ  たしを信頼する者、わたしをわたしのことばどおりに受け取  る者)は、その腹から生ける水が川となって流れ出るであろ  う」。  ありうることでしょうか。かわく者が元気づけられるばかり  ではなくーかわききった土に潤いが与えられ、暑さで乾燥し  きったところが涼しくなるだけでなくーその土地に水分がし  み込んで、泉がわき上がり、そこから川が流れ出る。こんな  ことがありうるでしょうか。しかしながら、確かにそうなの  です。そしてそれは、ただ山に降る大雨のようなもの、つま  り、雨が続くかぎり水があふれ、またかわいてしまうという  ようなものではありません。その腹から水が川となって流れ  出るーあの大揚子江のように、あくまでも深く、あくまでも  豊かな状態なのです。干ばつの時には、小川はかれるかもし  れません。事実かれてしまうこともまれではありません。よ  くあるように運河は、完全に水をくみ上げてしまうかもしれ  ません。しかし、揚子江にはそういうことはありません。揚  子江は、常に変わらなく流れる大河であり、深く、何事も逆  らうことを許さぬ流れなのです。 六月に書いた別の手紙で、彼は言っている。  「わたしのところに来て飲むがよい」。来て、急いでひと飲  みにしなさい、と言っているのではありません。来て、わず  かばかりかわきをいやしなさい、つまり、しばらくの間だけ  かわきを止めなさい、というのでもありません。これは「飲  むがよい」、「飲み続けるがよい」、絶え間なく、習慣的に  飲むことをいうのです。かわきの原因は取り去られないかもし  れません。一度来ること、一度飲むことは、力をよみがえら  せ、慰めを与えるかもしれませんが、わたしたちはいつも来  続け、飲み続けるのです。泉がかれたり、川の流れが尽きた  りする心配はありません。 その夏、彼自身の心にとっても、キリストの慰めがどれほど必要であったことだろう。彼はこのような手紙を書きながら、このことにはあまり気がついていなかった。しかし、彼が新しく、より深く信頼していたおかたは、彼を見放しはしなかった。 六週間ほどたったころ、鎮江の宣教師の家では、喜びと悲しみとが奇妙に交錯していた。テーラー夫妻に幼いむすこが与えられ、彼らは喜びに満たされていた。ところが、まもなく母親がコレラにかかり、ひどく衰弱してしまった。生まれたばかりの赤んぼうは乳がなくて栄養が不足し、やっと中国人の乳母が見つかった時には、もう手おくれで幼い生命を救うことができなかった。この子は地上にわずか一週間いただけで天の家に帰っ て行った。そしてまもなく、この子の母親もそのあとを追って行ったのである。テーラーは書いている。  彼女は、肉体的には全く衰弱しきっていましたが、魂の深い  平和と、主ご自身の臨在の強い自覚がありました。彼女はま  た、主のきよい御旨の中にある喜びに満たされておりまし  た。わたしもその喜びにあずかることを許されていたので  す。しかしながら、これらのすべてのことをどのように説明  してよいのか、わたしには全くわかりません。 彼女は自分で、葬式の時に歌う賛美歌を選んでいた。その中でも特に、「おお、聖なる救い主、いまだ見ざるとも」という賛美歌は、彼女の心に留めていたもののようである。   しばしば信仰と望みが試みられても   異なった環境を求めたりはしないのです   またそれを必要としません   主よあなたによりすがる魂は   安らかで静かで満ち足りているのです   サタンも墓も恐れはしません   しかしあなたが近くにあって   救って下さることを知っています   主よあなたにすがる時   ヨルダンの波さえ越えて恐れないのです 彼女は弱っていたが、彼らは死期が迫っているとは思い及ばなかった。ふたりの心を強く結びつけていた愛には、ふたりが別れるという考えを入れる余地はなかった。それに彼女はまだ三十四歳にすぎなかった。最後まで苦しみはなかったが、ただしだいに疲れがつのっていった。死の二日前に、バーガー夫人から、ミス・ブラッチリ―と上の子供たちがセント・ヒルへ安着したという知らせの手紙が到着した。(注1)子供たちが歓迎されていること、彼らのしあわせな生活のために準備された一つ一つのことを、詳細な点に至るまで母親は心から喜んだのであった。彼女はどんなに感謝しても十分に感謝し尽くせないようで、ただ主の恵みを賛美するほかは何も願わなかった。ちょうど必要な時、ちょうど必要なところに、バーガー夫人の手紙が着くということは幾度もあった。バーガー夫人はその豊かな愛にあふれた心で、幾度もその手紙を受け取る人たちの環境を予期することができたが、この手紙の場合は、特にそれが著しい ものであった。その手紙でバーガー夫人は、「たいせつな友よ、それでは、さようなら。主は、ご自身の永遠のみ腕であなたを抱いて下さいます」と述べている。確かに彼女は、そのみ腕の中に休息しているのである。そこに居合わせたひとりの婦人が書き残している。  このような光景をわたしは見たことがありませんでした。愛  するテーラー夫人が最後の息を引き取ろうとしていた時、  テーラー氏はひざまずいて、彼女を主にゆだねました。そし  て、彼女を与えて下さり、十二年と六か月の間、祝された生  活をともに送ることがゆるされた幸いを感謝しました。ま  た、ご自身の臨在のうちに彼女を召されることを感謝して、  厳粛に、新しく自分を主の働きのためにささげたのです。 夏の太陽は、町の上に、丘や川の上に高く上った。生活の忙しい騒音が、あちらこちらの庭や道から聞こえてきた。その中で、青空の見える中国風の家屋の二階の一室には、すばらしい平和の静寂がみなぎっていた。 「かわくことがない」。今もこのみことぱが真理であると言えるだろうか。「いつまでも」とは文字どおりいつまでもを意味し、「かわく」とは必要のすべてが満たされないことを意味するという理解は、神がわたしたちの魂に与えられた啓示の一つ であろうと、のちになってからしばしばテーラーは語っている。まことにわびしい日々に、彼の痛む心には、主の約束が生き生きとした現実となったのである。八月になってからテーラーは母親にあてて書いている。  神があらゆることをされるかたであり、あらゆることが起こ  るのを許され、すべてのことが愛する者のために相働いて益  とされることを知っているのは、心の底からの喜びです。わ  たしの愛する妻が、わたしにとってどんな存在であったか  は、主だけが知っておられます。わたしの目の輝きも、わた  しの心の喜びも、どれほど彼女に依存していたことでしょ  う。妻の最後の日にーそれが生涯の最後になるとは、夢にも  思っていなかったのですがーわたしたちの心は、決して衰え  ることのないお互いの愛の物語に喜び合っておりました。彼  女が最後にしてくれたことは、その片方の腕をわたしの首に  回し、頭の上に手を置こうとすることでした。おそらくも  う、そのくちびるではわたしの上に祝福を願う祈りのことば  を言いえなかったからでしょう。主は、彼女を取り去ること  をよしとされました。それは彼女のためにほんとうによいこ  とでした。彼女を少しも苦しませずに、ご自身の愛のうちに  取り去られました。一方、今、ひとりでーしかも、ひとりで  はなく―労し、苦しまなければならないわたしにとっても、  それに劣らずよいことでした。なぜなら、今までよりももっ  と神がわたしに近くなって下さったからです。 そして、バーガーにあてても書いている。  わたしが失った者を思う時、悲しみに心は破れるばかりです  が、このような悲しみを彼女に経験させないで、言いがたい  ほどの幸福に導いて下さった主への感謝で、わたしは引き上  げられる思いです。わたしの涙は、悲しみの涙というよりも  むしろ、喜びの涙なのです。しかしわたしは、何ものにもま  して、わたしたちの主イエス・キリストのゆえに神ご自身を  うれしく思います。また、そのみわざ、その道、その摂理を  心から喜んでおります。神は「何が神の御旨であるか、何が  善であって、神に喜ばれ、かつ全きことであるかを、わきま  え知る」(試みによって知る)ようにさせようとしておられ  るのです。その御旨はまことに幸いです。わたしの受けうる  ものです。完全なものです。それは行動の愛です。この慕わし  い御旨のうちにわたしたちはまもなくもう一度結ばれて、ふ  たたび別れることはないでしょう。「父よ、あなたがわたし  に賜わった人々が、わたしのいる所に一緒にいるようにして  下さい」。 しかし、全くなんの反応もなかったというわけでもなかった。特に、病気で眠れない時などは、心のかわきが襲ってきた。テーラーは回想している。  自分のへやに閉じ込められていたものうい時間のなんと寂し  かったことか。どれほど、愛する妻や遠く英国にいる子供た  ちの声をなつかしんだことであろうか。主が「わたしが与え  る水を飲む者は、いつまでもかわくことがない」というみこ  とぱを、わたしに親しく示して下さった理由を理解したのは  この時であった。一日に二十回にも及んだであろうか、心の  かわきがもどってくるのを感じて、主に向かって叫んだ。  「主よ、あなたは約束されました。かわくことがないと約束  して下さいました」。  昼叫んでも、夜叫んでも、主はいつでもただちに迫って下さ  り、寂しい心に満足を与えられた。それでわたしはしばしば、  孤独な居間でわたしが楽しめたほど、死んだ愛する者が主の  臨在を楽しむことができたかどうかと考えさせられるほどで  あった。主は、文字どおりこの祈りに答えられたのである。   主イエスよ   ご自身をわたしにとっての現実として下さい   生けるあざやかな現実として下さい   目に見えるようなうわべのことより   信仰のあざやかなビジョンに   臨在を示して下さい   地上のいちばん慕わしい結びつきより   もっと親しくもっと近くにいて下さい この時期に彼が書いた多くの手紙の中でも、子供たちにあてて書いた手紙ほど貴重なものは少ない。テーラーは子供たちに対して、切実な深い愛を感じていたのである。  おとうさんが愛する子供たちのことを、どれほど考えている  か、みんなにはわからないでしょう。目に涙がいっぱいになる  までみんなの写真を見ていることが幾度あるかわかりませ  ん。みんながあんまり遠くにいることを考えて、不満を感じ  たりすることがないようにと恐れます。けれども、わたしを  見放されることのない愛する主イエスさまは言われます。  「恐れてはいけない、あなたの心をわたしがいつも満たして  あげます」。わたしは主に感謝し、わたしの心の中に主が生  きて下さり、わたしを正しく保って下さることをうれしく思  います。  愛する子供たちよ。みんなの心を、毎日、イエスさまにおさ  さげして、守っていただくことが、どういうことか知ってくれ  たら…と思います。以前わたしは、自分の心を正しくしてお  こうと努力したものです。しかし、それはいつもうまいぐあい  にはいきませんでした。それでとうとう自分で努力すること  をやめて、主がわたしの心を守って正しくしていて下さると  いうみことばをお受けしたのです。これがいちばんだと思いま  せんか。たぶん、みんなも時々、わがままになったり、不親  切になったり、すなおでなくなったりしないようにしようと  思うでしょう。それで、ほんとうにいっしょうけんめいにやっ  てみるけれどうまくいかないことがあるでしょう。けれどもイ  エスさまは、「あなたはそれをわたしにゆだねなければいけ  ません。あなたが自分の小さな心でわたしにたよるなら、そ  の心をわたしは守ってあげます」と言われます。そして確か  に主は守って下さるのです。  前にはイエスさまのことを、できるだけ何回も、たくさん考  えようとしたものです。それなのにたびたび忘れてしまいまし  た。今は、イエスさまがわたしの心にご自分のことを、いつ  も思い出させて下さることを信じています。そして確かに、  主はそうしていて下さるのです。これがいちばんいい方法で  す。愛するブラッチリー先生に、このことをもっと話して下  さるようにお願いしなさい。そして、神さまがそれをわから  せて下さり、イエスさまにたよるように助けて下さいとお祈  りしなさい。 また、ミス・ブラッチリーに対しては、同じ主題に関して、沿岸航路の船のわびしい船室から書いている。  愛する子供たちに、また手紙を書きました。子供たちがこの  すばらしいキリストと一つにされることと、内在のキリスト  のすばらしい真理を早く知ってくれることを切望しています。  わたし自身は、それを学ぶのが、あまりにもおそすぎまし  た。こうしたことが、あがないの教理よりも理解が困難であ  るとは思いません。聖霊の教えが必要なことには変わりがあ  りませんし、聖霊の教えさえあれば十分です。神があなたを  助けて、小さな子供たちの前に、キリストとともに生き、彼  らにキリストを知らせて下さるように。主が、わたしたちを  導き、教えて下さったことは、まことにすばらしい方法に  よってでした。以前は、今わたしが楽しんでいる心の安息と  平和とが、地上でも可能だということを信じるのに、全く欠  けていました。それは、下界で始められた天国ではありませ  んか。このキリストと一体になることに比べれば、天も地も  全く重要ではありません。 同じ旅の途中から、彼はウォーカー夫人に書いている。  イエスがあなたのうちに生きておられると感じて、ほんとう  に喜んでいます。主があなたの心を治め、主とともにいよう  とする苦しい努力によってではなく、いつもあなたと交わり  を求めておられるご自身の愛を示されることは、すばらしい  ことです。主は、われらの生命、われらの力、われらの救い  です。主はわれらの「知恵と義と聖とあがない」であります。  主はわたしたちの奉仕のため、また、実を結ぶための力であ  り、主のみふところはわたしたちの今も永遠までも変わらな  い安息の場所であります。 その間にも、外的な困難が軽減されることはなかった。政治的には、テーラーが今まで中国で経験したこともないほど激しい危険な状態であった。フランスの領事を含めて二十一人の外国人の生命を奪った天津大虐殺は、まだ解決を見なかった。中国政府は西欧が戦乱に巻き込まれたのを知っていて、反外国の扇動を静めるための手は何も打たなかった。 一八七〇年の事態が、小規模ではあるが現在(一九三二年)の状態と、ある意味であまりにも似ているので、あえて当時の混乱がどのようなふんい気で対処されたかを示しているもう一つの手紙を引用しよう。原理は、今日も当時も変わらないし、一つのミッションとしても、今日のわたしたちは、テーラーがその年の暮れに、祈りと断食の日を呼びかけたころと同じ立場に立っているからである。  この年はいろいろの意味で驚くべき年でした。おそらく、わ  たしたちの仲間のひとりひとりが、多少の相違はあるにして  も、あらゆる危険と困惑と苦しみとに直面した年でした。し  かし、主はこれらのすべてからわたしたちを救い出して下さ  いました。この年、今までになくキリストの苦しみにあず  かった者は、今までになく祝された年であることをあかしし  て、神に感謝することができるでしょう。個人的には、わた  しの生涯の最も悲しい年でもあり、また最も祝された年でも  ありました。他の人々もある程度まで同じ経験をしたと信じ  ています。わたしたちは神の真実をわきまえ知らなければな  りませんでした。危険から救い出される力はもちろん、苦し  みの中でささえて下さる主の力、苦難を忍ぶ力をわきまえ知  らなければなりませんでした。もっと大きな危険がわたした  ちを待ち構え、もっと深刻な悲しみが襲ってくるならば、神  に対するもっと強い確信をもってそれを迎えるように望むべ  きです。  一つの点で大いに感謝しなけれぱならない理由があります。  わたしたちには、中国人のクリスチャンに対して、彼らもわ  たしたちも同様に危険な立場にいるのであり、将来もこれと  同じ立場に立たされうることを示す役割がありました。彼ら  はまず、外国人は不確実でたよりにならないことを悟り、それ  から、さまざまの責任を持った地位にいるわたしたちが、静  かに喜んで事に当たったという事実から、彼らが「外国勢  力」よりも神ご自身をたよるようになったことは疑いありま  せん。もしわたしたちが、この機会を、彼らの前進に役だた  せることに少しでも失敗したり、わたしたち自身、危険の中  でさえ助けて下さる神の力を信頼しないで、不安を感じるよ  うなことがあれば、忠実な契約の神の前に、へりくだって、  このことを初めとしてすべて気がついた失敗を、告白しよう  ではありませんか。主は最善をご存じのかたなのですから。  わたしはわたしたちひとりひとりが、それぞれの立場に、主  によってつかわされたしもべであり、そのところで主のわざ  に従っていることに全く満足していると信じます。主は、戸  を開放してわたしたちを導き入れて下さいました。過去に起  きたただならない事態においても、主はわたしたちを守って  下さいました。わたしたちが宣教活動に当たるのは、これが  安全であり、容易であるからではありません。わたしたちは  主が召して下さったので中国に来たのです。人間的な保護や  保証のもとで、今の立場に立ったのではなく、わたしたちは  主の臨在の約束にたよってこの立場に立っています。楽で  あったり、困難であったり、外面的な安全や危険、認められ  るとか認められないとかいったことは、わたしたちの仕事に  は何も影響しません。わたしたちを取り巻く環境がことさら  危険に思われる時、わたしは主にある確信の深みと現実性を  示すべき恵みを与えられると信じます。わたしたちは、死か  らさえものがれようとされなかったよき羊銅いに従うもので  す。このことを明らかにする責任を、そのご忠実さによって  果たさせていただく恵みも与えられると信じます。しかし、  もしわたしたちが、その時にこのような態度を示そうとする  なら、今、必要な恵みを求めなければなりません。敵がやっ  て来てから初めて、武器を求めたり、訓練を始めたりするの  ではおそすぎます。 物質的な必要について、テーラーは続けて言う。  必要の時に、いずれかの献金者を通して直接与えて下さった  主の豊かな助けについても、主が真実であってご自身をいな  むことがおできにならないという幸いな事実についても、申  し上げる必要はありません。もし、真に主に信頼し、主に求  めるなら、はずかしめられることはありません。もし信頼で  きないなら、他のいかなる基礎も健全ではないことに早く気  づけば気づくほどよいでしょう。ミッションの資金や献金者  は、生けるキリストと代えるためには貧しいものです。 悲しみの日と重荷の夜の連続は、一八七一年初頭に、肉体的な挫折となって現われた。テーラーは、肝臓の調子がひどく悪くなり、夜もよく眠れず、精神的にも苦しく圧迫されていることに気がついた。胸の苦しみー苦痛ばかりでなくて、呼吸に深刻な支障をもたらしていたーによって、状態はさらに悪化していた。それに時間がたっても彼の喪失感は和らがなかった。彼がすでに経験し、すばらしい活力になっていた、あの約束の新鮮な力と美とを見いだしたのは、こうした環境においてであった。「わたしが与える水を飲むものは、だれでも」、ギリシア語の動飼の現在時制によって示された継続的な習慣という考えが、新しい意味をもってこのみことばのうちにあふれ、長く感じられていた必要を満たしたのである。 以下は、後年彼がしばしば口にしたことである。  みことばに変更を加えたりしないようにしましょう。「飲んだものはだれでも」ではなくて、「飲むものはだれでも」なのです。主が語っておられることは、一度ひと飲みするだけではありませんし、何回も飲むのでもありません。絶え間ない魂の習性のことです。ヨハネ六章三十五節で語られている完全な意味は、「わたしのところに習慣的に来るものは、決して飢えることがなく、決してかわくことがない」ということです。信仰をもって主に来る習慣は、満たされない空腹とかわきとに比較すべきではありません。 わたしたちの犯すあやまちは、かわきがなお続いているのに飲むことを過去におきざりにしている、という点にあるようです。たいせつなことは、飲んでいることです。生命の水を心の奥深くまで飲むようにさせる一つ一つの機会について、感謝をすることです。      注  @揚州事件ののち、まもなく生まれた四番目のむすこだけ  が、テーラー夫妻とともにいた。  Aバーガーは書いている。「わたしの生涯を通じて、わたし  たちのミッションに関することでも、大きくは世界情勢に関  することでも、これほど多事な年はなかった。ローマ市はい  まや自由イタリアの首都になったと思われる。フランスはひ  どく打ちのめされ、教皇の世俗の権力は、もう過去のものと  なった。中国は、福音の使者をも含めた外国勢力の駆逐のた  めに立とうとしているようだ。わたしたちは個人的には、最  も愛する友であるばかりでなく、中国の無数の魂のために見  いだしうる最も献身的な働き人を失うという苦しみをなめ  た。「静まって、わたしこそ神であることを知れ」とは、こ  うした時にふさわしいみことばである。このみことばに心を  用いることができるように、主の恵みを析る」。 一六 あふれ出る   あなたの強いみ手のうちにわたしは休む   それでみわざは成し遂げられる   全能のおかたのように   不思議に働けるかたがどこにいるだろう チャイナ・インランド・ミッションの指導者として、ハドソン・テーラーには、この時からなお三十年間の活動的な生涯が残されていた。彼がこの責任を果たし終えた日から今日まで、すでに三十年以上が経過した。二世代に当たる六十年の年月は、その実によって木を知るのに十分な期間であった。言い替えるならば、神に根ざしていた彼の生涯の信仰と喜びの結果がなんであったかを明らかにするのに、十分な期間があったのである。もし今まで見てきた経験が、感情的で非現実的なものであるなら、またもし、霊的なものが同時に実際的でなかったなら、さらに神が経済的な保証や人間的な保護がなければ、ご自身のわざの必要のために、十分に備えられないおかたであったなら、時間という試験は幻影を消し去ってしまったに相違ない。しかし、そのすべての制約にもかかわらず、ハドソン・テーラーが主イエス・キリストとの生ける一致と力と祝福の秘訣を見いだしたのなら、その結果は残る。永遠に残るであろう。   神にできないことはない   人にある神の力なるキリストに   できないことはない   キリストにあって全く新たにされ   造り変えられて   罪の支配から自由にされたわたしに   できないことは何もない 一八七〇年の試みの日々、ハドソン・テーラーは、まだ三十代の若さであった。ミッションの働き人は、わずか三十人であった。伝道所は三つの省で開かれ、回心者たちは十ないし十二の小さな教会に集まっていた。そのころは、まだ、なんでも小規模に行なわれた時代ではあったが、すべてがただひとりの人の上にかかってくると、その重荷は相当なものであった。彼は中国におけるこのような五年間の年月のために、疲れ果てていた。 一八七一年の終わりころになると、本国側でミッションの世話を献身的にしていたバーガー夫妻が、激しい仕事にもはや耐えられなくなっていた。すっかりからだが弱くなった夫妻は、しかたなく外国で冬を過ごさなけれぱならなくなり、セント・ヒルの家を売却し、すべての通信や経理の事務、編集の仕事、宣教師候補者の試験などに加えて、実際の運営面の細かい仕事までも、他の人に譲らなければならなかった。しばらく英国に残 ってバーガー夫妻に代わって責任をとらなければならなくなった時、愛による思いやり深い結びつきに変わりはなかったが、彼はみじめな気持ちを味わった。 セント・ヒルと、ロンドン北部の郊外の小道、パイヤランド・ロードとは、はなはだしく相違していた。バーガーの図書室と、書斎兼事務所の小さな裏べやとも、また大きな相違があった。しかし「六番地」と、必要に迫られて購入した続きの 建物との一つ一つは、多くの人々にとって、親しくきよい思い出となった。二十年以上もの間、本国でのミッションの仕事は、現在の本部からほど近いこのセンターで行なわれていた。階下のへやを二つ続けて毎週の祈祷会が行なわれ、「七人組」 と「百人組」を含む献身的な多くの男女がこの家のドアから出て行った。しかしこれは、テーラー自身が、中国での奉仕の指導者と、ミッションの運営者を兼ねていた一八七二年よりもずっとあとのことである。その年の初めに彼は書いている。  わたしの道は、とても楽とは言えませんが、わたしはこれ以   上に、イエスにあって幸福だったことはありません。主が見  放されないことを確信しています。しかし、ミッションの初  めの日から今日まで、これほど神に向かわされたことはあり  ません。神に向かうことは、疑いもなくよかったことです。  困難は、主がご自身を示しうる舞台のようなものです。それ  なくしては、わたしたちの神がいかに優しく忠実であり、ま  た全能のかたであるか知るよしもありません。バーガー夫妻  が働きを続けられなくなったことは、わたしにとって少なか  らぬ試みでした。ほんとうに彼らは愛すべき人たちです。わた  しの思いからほとんど消え去ることのない先立った妻が関係  している過去とのつながりを、もう一つ断たれたように思わ  れます。しかし、みことばは、「見よ、わたしはすべてのも  のを新しくする」と断言しております。 ミッションに課せられた大事業の推進を熱望していたテーラーにとって、日夜、きまりきった事務に縛られていることは、相当つらかったに相違ない。主が御旨を示されなかった間は、新しい計画を推し進めようと急ぎはしなかった。しかし、ふさわしい助力者を求める祈りが答えられそうもなく、もっと重要だと考えたい仕事が他のことでできない時、がまんができなくなって、失望したりすることも一再ならずあったであろう。彼は同じような試みの中にいたある人と、学んでいた教訓を分け合おうとして言っている。  神がわたしをこのわざに召し、今のところで、今のような状  態に、わたしを置いていて下さることを知るのは、少なから  ぬ慰めです。わたしは自分でこの地位を求めたのではありま  せん。自分からやめようとも思いません。主はわたしをここ  に置かれた理由ー何をなすべきか、学ぶべきか、苦しむべき  かーをご存じです。「信ずる者はあわてることはない」。こ  のことは、わたしにとっても、あなたにとっても、簡単に学  びうることではありません。正直に言って、わたしはそれを  学ぶのに、まさに十年はかかると思いますが、このことを徹  底的に学ぶなら、その十年の期間は少しもむだではありませ  ん。…モーセはそれを学ぶのに四十年間も訓練されたようで  す。あわてて短気になったり、衝動的になったりすることが  ないように、お互いに気をつけましょう。 この制約された生活は、その間の主イエス・キリストとの真の交わりによって実を結んでいた。その影響が特に青年たちに現われたことは注目に値する。忙しいロンドンで、賢明なひとりの青年が、主に心をゆだね、生涯をささげて中国で奉仕をする機会について知りたいと願っていた。彼は、パイヤランド・ロードに行って、祈りのために簡素なへやに集まっている群れに加わった。のちにこの青年は回想している。  入り口からはいった所に、「わたしの神は……あなたがたの  いっさいの必要を…満たして下さるであろう」という聖句が  大きな字で書いて掲げてあった。わたしはそれまで、壁に掲  げた聖句を見なれていなかったので、それは深くわたしの心  に刻み込まれた。十二、三人から二十人ほどの人が出席して  いた…。  テーラー氏は、賛美歌を選んで集会を始め、みずからオルガ  ンをひいて歌をリードした。彼の姿は、わたしにはあまり印  象的ではなかったが、ほっそりとした静かな声で話した。た  いていの青年と同様にわたしも、力と騒音とを結びつけて考  えていたのであろう。そして、指導者の素質を肉体的な存在  に求めていたのだと思う。しかし、彼が「祈りましょう」と  言って、その集会の祈りを導いていった時、わたしの考えは  変わっていった。わたしは今まで彼のように祈る人を知らな  かった。そこには、単純さ、優しさ、大胆さがあり、わたし  を押えて従わせる力があった。神が彼をご自身との近い交わ  りの内側に導き入れておられることが明らかであった。こう  した祈りりは明らかに密室で長い間続けられた祈りの結果で  あり、主からしたたるしずくのようであった。  それからのち、公開の席で人々が祈るのを何回も聞いたが、  テーラー氏とスポルジョン氏の祈りは傑出している。彼らの  祈りを聞いた者で、だれがそれを忘れられるだろうか。スポ  ルジョン氏の祈りを聞いたことは、生涯の大きな経験であっ  た。彼は六千もの大会衆の手を取るようにして聖所に導いて  行くのであった。また、テーラー氏が中国のために切願する  のを聞くのは、「義人の祈りは大いに力があり、効果のある  ものである」ということの意味を知らせてくれるものであっ  た。その集会は四時から六時まで続いたが、わたしが出席し  た中でいちばん短い祈祷会のようであった。 西部イングランドから、教育のある洗練された娘がひとり、ミルドメイ修養会に出席するためにロンドンに来て、パイヤランド・ロードで客となっていた。彼女はテーラーが大ホールに満ちた二、三千人の聴衆に開会の説教をするのを聞き、彼がキリスト教界の思想的な指導者たちに、どのような影響を与えたかをまのあたりに見た。しかし、何よりも彼女が強い印象を受けたのは、ミッション・ハウスでのテーラーの日常生活である。彼は、日々にミッションの重荷を負い、日々に主にある喜びをもって信仰の試みに直面していた。ミス・ソルトーはずっとあとになって書いている。  周囲の人々に対しては何も言わないで、わたしたちの必要  を、ただ主にのみ知らせようというテーラー氏の勧めを思い  出します。ある日、ささやかな朝食を済ませてから、昼食の  ためにはほとんど何も残っていなかった時、彼が子供の賛美  歌を歌うのを聞いて、非常に感動を覚えました。   主われを愛す 主は強ければ   われ弱くとも 恐れはあらじ   わが主イエス わが主イエス   わが主イエス われをあいす  それから彼は、わたしたちを呼び集めて、主の変わらぬ愛の  ゆえに感謝し、わたしたちの必要を告げ、約束に答えていた  だくためにともに祈ったのです。 バーガーの隠退後、テーラーは資金の不足によって失望するどころか、いまだかつてないほど前進に向かうはっきりとした姿勢をとっていた。ある日、パイヤランド・ロードで、中国の大地図を前にして彼は、そこにいた二、三人の友人に向かって語っていた。「みなさんには、未伝の省にふたりずつ、十八人をつかわして下さることを、わたしとともに神に願う信仰がありますか」。 ミス・ソルトーはそのグループのひとりであって、その地図の前で、十八人の伝道者が与えられるまで毎日祈る、と真剣に約束しながら手を置き合ったことを、今でも覚えている。その信仰について疑いはしなかったが、きたるべきより大きな拡張について想像さえした者があっただろうか。ミス・ソルトー自身がミッションの発展のために重要な役割を果たすようになることについて、あるいは前述の青年F・W・ボーラーのしようとす る独特な働きについて、少しでも考えた人があっただろうか。このふたりはともに、テーラーの生活から無意織にあふれ出るものを通して、この時に、この事業に加わったのである。 こうして待機している間にも、実りは豊かであった。中国に帰れるようになったテーラーは、背後に、メイヤランド・ロードの家と、子供たちの責任をとってくれるミス・ブラッチリーと、ロンドンに友人たちによる委員会を残して行くことになった。彼が名誉書記たちに引き渡したのは、多額の残金ではなかった。テーラーの手もとにあったのはすべてで二十一ポンドであった。しかし、借金はなかった。テーラーがミッションの友人に次のように書いたのも確信をもってである。  いまや、このわざは成長し、国内でも、国外でも、さらに多  くの働き人が必要であります。しかし、依然として行動の原  則は変わっておりません。今までと同じように金銭の援助は  祈りによって神に求めるでしょう。主はそれを、ご自身の管  として用いるのにふさわしいと見る人々の心に示されます。  手もとにお金がある時、それは中国に送られます。ない時に  は何も送られません。そしてわたしたちは、本国に依存する  手形を切ったりはしません。負債を背負うことがないためで  す。前のように信仰が試みられるべきであるならば、今までも  して下さったように、主はご自身の忠実さを明らかにして下  さるでしょう。わたしたちの信仰が忠実でなくても、主の忠  実さはみことばのように変わらないでしょう。「わたしたち  は不真実であっても、彼は常に真実である」。 十五か月の不在ののちに、ミッションの指導者がもう一度中国に着いた時ほど、この確信が必要な時はなかった。病気やその他のさまざまな障害によって、以前からあった伝道所のうち、数か所は失望すべき状態であった。小さな教会は、以前のようではなく、伝道所も人が足りなくて閉鎖した所があり、テーラーは彼らに必要な助けと励ましを与えるのに、どこから始めてよいか、ほとんどわからないほどだった。未伝の省へ前進する計画の代わりに、彼がなしえたのは、既存の仕事を確立させることであった。生涯を通して神が働いて下さった献身的な配偶者を与えられたのは、大きな慰めであり、幸いなことであった。杭州の婦人の間で非常に愛された指導者であったミス・ホールディングが、彼の二度目の妻となった。彼女は彼のかたわらで儀牲的な奉仕を始めた。三十三年間も、ミッション全体の交わりの中で、彼女はまことに幸いな存在となった。彼ら夫妻は別れて暮らすことがよくあった。雪が深く積もる寒さの中で、彼自身がしなければならない旅行を、感謝して彼女に代わってもらうこともあった。それは少なからぬ犠牲を意味するものであったが、彼女は喜んで夫に代わって旅行に出て行った。  明日、教会の信者と、求道者を食事に招きます。皆いっしょ  に集まることを願っています。主がわたしたちを祝福して下  さいますように。事態は非常に失望させられるものですが、  彼らは絶望してはいません。めんどうを見さえすれば、彼ら  は神の祝福によって、まもなく上向きになるでしょう。 「めんどうを見さえすれば、彼らは神の祝福によって、上向きになるでしょう」とは、テーラーの実際的な性質をよく特徴づけていることばである。みずから最も困難なところに立ち、聖霊の促す力にたよって、祈り深く、忍耐をもって進み、困難を乗り越え、回心者にも宣教師にも新しい熱心を注ぎ込むのであった。揚子江の沿岸で彼は、夫人と合流し、南京で三か月間過ごし、多くの時間を直接伝道に用いた。 そこから彼は書いている。  毎晩、写真と幻燈で多くの人が集められた。…昨晩はゆうに  五百人は集まった。中には長くいない者もあったが、三時間  近くもそこにいた人々も多かった。主が魂のために、わたし  たちの滞在を祝して下さるように。…毎日、午後になると婦  人たちが会いにきて話を聞いた。 テーラーがミス・ブラッチリーにあてた手紙の中で語っているところから、内的なささえについて何かを知りえよう。彼は書いている。  あなたがもし、あの泉から水を飲み続けておられるなら、あ  なたの生命から何があふれ出るでしょうーイエス、イエス、  イエスですー この意味では、彼が持ち運んだのは、あふれ出るさかずきであった。 まさに、あふれ出るものが必要であった。この訪問の目的は達成され、テーラーが、少なくとも、一つ一つの伝道所、集会所のほとんどを訪れるまで続けられた。彼はこれで満足せず、いたるところで中国人の指導者を尋ねて回った。伝道者、文書販売員、教師、婦人伝道師が、ほとんど例外なく彼の助けを得た。テーラー夫人がいっしょにいる時は彼の大きな助けとなた。彼らは時には深更に及ぶまで手紙を書いていることもあっ た。医療旅行でも、彼女は実によい協力者となって彼を助けた。病人のいる所では、彼女が残って世話をし、彼はさらに別の所へ行くということもできた。当時、医療の知識を持っていたことを、彼らはどんなに感謝したことだろう。開港都市以外のどこにも、またミッションにも、彼のほかには医者がいなかったからである。しかし、この事実は言うまでもなく、テーラーにとっては少なからず負担が増すことであった。たとえば、ある伝道所に着いた時、そこには九十八通の手紙が彼を待っていたが、すぐ翌日には、杭州での貴重な働き人であるア・リャンの乳児のために処方箋を作らなけれぱならなかった。予期していなかった長文の手紙を書かなければならない事態が起こっても、予定外の旅行の必要が起こっても、人々の助 けとなるならば、その手段の一つ一つに、彼は深い感謝をしていた。「すべての人に仕える」ことは、彼が最も願い求めていた特権であった。九か月ほどたってから彼は、次のように書きしるすことができた。  主は、わたしたちを大いに恵んでいて下さる。ここでの仕事  は着実に成長を続けている。特に最も重要な現地民による助  力がうまくいっている。働き人たち自身が多くの助けを要  し、世話を受けたり、教えられたりする必要があるが、その  数だけではなくて能率的な働きにおいても、いよいよ成長し  ている。中国の望みは明らかに彼らの肩にかかっている。外  国から来た宣教師は、建設中の建物の回りにある足場のよう  なものだと、わたしは考えている。それがいらなくなる日が  早けれぱ早いほどいい。否むしろそれが他の場所で同じ臨時  の目的に用いられるようになる時が、早ければ早いほど喜ば  しい。 絶え間ないこれらの働きと切り離すことのできなかったものは、祈りとビジョンであった。直接の必要があまりにも大きかったために、遠隔地の大きな必要の緊迫感を失ってしまいやすかった。特に、直接の働きの資金さえ十分でない時にはな おさらであった。しかし、テーラーについては、まさにその逆が真実であった。伝道所の間をあちらこちらと長期の旅行をしながら、親しげな、近づきやすい多くの人々の住む地方を通過して行ったが、彼は遠近にかかわりなく、未伝の地のためにいよいよ心を用いていたのである。彼はロンドンの委員会にあてて書いている。  先週は、太平(タイピン)におりました。ちょうど市場の開  いた日であったので、三、四キロもの間、道路には人がいっ  ぱいにあふれていて、ほとんど歩けないくらいでした。これ  を見て、わたしは非常に心を動かされました。わたしたちは  継続的な働きの場所を求めておりましたので、説教はほんの  しばらくの間だけしかできませんでした。がしかし、そのあ  とで町の城壁の所まで退き、ご自身がこの人々にあわれみを  与えて下さるように、彼らの心を開いて下さり、わたしたち  が彼らの間にはいって行けるようにと、神に向かって祈り叫  ばないではいられませんでした。わたしたちの側では何もし  ませんでしたが、四人の求める魂が近づいて来ました。どの  ようにしてだか知りませんが、ひとりの老人がわたしたちを  見つけ出して、舟までついて来ました。わたしは彼を招じ入  れて、名前を尋ねました。すると彼は、「わたしの名前は陳  です」と答えてから、次のように話しはじめました。  「わたしは解決のできない問題で苦しんでいます。というの  は、自分の罪をどうしたらよいのか、ということです。わたし  の国の学者たちは、死後の世界などはないと言うのですが、  わたしには信じられません。先生、わたしは床について考え  ます。日中でもひとりすわって考えます。考え、考えするの  ですが、罪についてどうすればよいか、わからないのです。わ  たしは七十二歳です。もうあと十年も生きられないでしょう。  きょうあしたの運命を知らない、というのは、確かにことわ  ざのとおりです。罪についてどうすればよいか、教えていただ  けないでしょうか」。  「もちろん、お教えできます」とわたしは答えました。そし  て「わたしたちが遠くからここへ来たのは、実はこの問題に  答えるためです。どうぞ、聞いて下さい。あなたが願い、必  要としているものがなんであるか、説明いたしましょう」と  申しました。  わたしの同労者が帰って来てから、彼はもう一度、十字架の  すばらしい物語を聞き、わたしたちがこの町に家を借りたこ  と、またまもなくキリスト教の文書販売人が来て住むように  なることを願っていると聞いて、喜んで帰って行きました。  これは、わたしたちにとって喜ばしいことであり、大きな慰  めでもありました。 このような仕事を必要としていた町が、浙江省だけで五十以上もあった。キリストのあかしの全くない町々である。奥地には何百万もの人たちが待っている。ひとり舟の中でテーラーは、その重荷を主にのみゆだねることができた。信仰は強められた。彼の聖書の一冊には、その翌日の一八七四年一月二十七日に、次のように書き込まれているのが見られる。  浙江省の中で、なお働き人のない四つの都府と、四十八の県  の働きを開始するために必要な五十人ないし百人の中国人の  伝道者と、必要なだけの宣教師を与えて下さるように祈っ  た。さらに未伝の九つの省に進出する働き人たちのためにも  祈った。イエスのみ名によって祈り求めたのである。主イエ  スよ、信じていこうためのお約束を下さったことを感謝しま  す。どうか、あなたのこの偉大なみわざに従うために、体力  と知恵と魂に恵みを与えて下さい。 しかし、奇妙なことに、そのあとに続いてやってきたのは、体力が増し加えられることではなく、重い病気であった。一週、一週、彼は苦しみのうちに、力なく横たわり、ただ信仰によって天からの幻を持ち続けることができるだけであった。資金は数か月の間欠乏が続いていたので、はいってくるわずかなものを、どう分配すればよいか、わかりかねるほどだった。仕事の拡張のために使用できる資金は、全然手もとにない始末だった。しかし彼は、ロンドンにいる書記たちに対して、「わたしたちは、内陸に向かって働き続けています」と書いている。「わたしは、まもなく、いくつかの貧しい省が教化されるのを、ほんとうに見たいと思います。日夜これを切望し、祈っています。主がこのわたしよりもみ心をお用いにならないことがありうるでしょうか」。 この時期ほど、前進が困難に思われたことはない。しかし、彼の前に置かれた聖書には、神と取り引きした彼の魂の記録がある。彼の心には、中国の内陸部のために、すでに神の時が来たのも同然だという確信があった。からだは徐々に回復に向かっていた。そのころ彼の手もとに、一通の手紙が英国から運ばれてくる途中であった。その手紙は二か月以前に、未知の人が、震えるような手つきでしたためたものであった。  「愛する先生、み名を賛美いたします。二か月以内に、わた  しはチャイナ・インランド・ミッションの仕事の前進のため  に、八百ポンドを送り、あなたの委員会にご自由に使用して  いただくためにゆだねたく願っております。念のために申し  添えますが、これは、未伝の省のためのものです。  あなたの領収証の書式は、きっと美しいと思います。「主は  わが旗」、「主は備えたもう」。もし、信じて賛美するなら、  万軍の主がそれを尊ばれることを確信しております。 新しい省のために八百ボンドー回復期にあった病人は、自分が正しく読んだのかどうか、全く確信が持てないほどだった。彼の心に秘められていたことが、その外国からのびんせんによって、もう一度現わされたような気持ちであった。彼が自分の聖書に祈りを記録するよりも前に、その手紙は投函されていて、今、それがいちばん必要な時に、すばらしい保証とともに彼の手に届いたのである。神の時は確かに来た。 彼は病室から揚子江沿岸にもどった。この春、杭州では注目に値する会合が開かれた。ほとんどすべての伝道所で、中国人の間に新しい生命のいぶきが見られるようになった。教会には回心者が加えられつつあり、現地人の指導者たちはいよいよ熱心になり、用いられるようになっていた。大きな働きの場で、大きな必要を感じさせられていた年輩の宣数師たちは励まされ、中国語の学びによい成果をあげていた若い宣教師たちは開拓伝道の開始を切望していた。伝道所を離れることのできた人たちはみな、テーラーとともに祈り、修養会を開くために集まった。これは、ジャッドと彼が長い間祈ってきたミッションの西部支部のための基地を求めて、揚子江を上って行く以前のこと であった。テーラーは杭州から書いている。  資金が非常に欠乏している時、わたしたちを励まされると  は、主はすばらしいかたではありませんか。 信仰の生涯について深い経験をしたある友人にあてて、彼が書いた手紙からも判断できるように、新しい喜びと希望の原因になったものは、物質的な豊かさなどではなかった。  わたしたちの働きが、これほど激しく試みられ、信仰の苦し  みを経験したことはありませんでした。愛する友ミス・ブ  ラッチリーの病気と、わたしに会いたいという彼女の強い願  い、愛する子供たちの必要、資金の状態、本国に帰る人々、  新しく来る人々、事業の拡張、これらを初めとして、簡単に  は書き表わせないような多くのことを、みずから負おうとす  れば、耐えがたい重荷となったことでしょう。しかし主は、  わたしたちをささえ、また、わたしたちの重荷を負って下さ  います。主プラス銀行預金ではなく、ご自身にあってわたし  たちを大いに喜ばせて下さいます。それでわたしは、思い煩い  や心配から解放されて、これまでになかったほどの自由を与  えられております。  何週間か前に、わたしが上海に着いた時、すぐに資金が必要  でした。郵便は二度配達されていましたが、送金はありませ  んでした。帳簿によると、本国には残金がなく、わたしは主  に重荷をゆだねました。翌朝、目がさめると、また心配を始  めそうになりましたが、主がみことばを与えて下さいまし  た。「わたしは彼らの苦しみを知っている。わたしは下っ  て…救い出し」、「わたしは必ずあなたと共にいる」。朝六  時前にわたしは主の助けの近いことを確信しました。昼近く  になり、寧波から回送されたために非常に遅れて届いたミュ  ラー氏からの手紙を受け取りました。わたしはすでにその  朝、この時と変わりないほどの確信を与えられていました  が、そこには三百ボンド余りがはいっていました。いまや、  わたしの必要は大きく、急を要していましたが、主はまた、  今までよりもっと偉大な、もっと近いおかたとして、臨在を  示して下さいました。主がおられる以上、また、主がまこと  に主であられる以上、すべてが善でなければなりません。事  実、主は善であり、ずっと善であり続けるでしょう。愛する  兄弟よ、生ける神を知る喜び、特異な環境において生ける神  にいこう喜びは、いかばかりでしょう。わたしはただ、主の  代理人にすぎません。主はご自分の名誉を守られ、その仕え  人の必要を整え、わたしたちのすべての必要をご自身の富に  したがって与えられます。そして、あなたは祈りと信仰のわ  ざと愛の労苦によって助けて下さるのです。 ほぼ同じころ(一八七四年四月)に書かれたテーラー夫人へのたよりの中にも、同じような確信のいぶきがうかがわれる。 「きのう、残金は八十七セントでした。主は支配される。ここにわたしたちの喜びと安息とがあります」。ボーラーに対しては、残金がわずかだった時彼は、「これだけの金と、神のすべての約束とがあります」と付け加えている。 二十五セントプラス神のすべての約束。彼はクリーサス(訳者注、昔のリディヤの富裕な王)ほどの金持ちのような気がして歌うのだった。   世界じゅうのどんなよいもの   どんな偉大なものとでも   わたしは恵まれた財産を替えたくない   信仰の守られるかぎり   わたしは罪人の黄金をうらやみはしない その春開かれた杭州での修養会の賛美歌は「いかにもして主は備えられる」であった。テーラーがミス・ブラッチリーに次のように書いたのは、このことを考えてであった。  わたしたちが待ちさえすれば、主は備えて下さることを確信  しています。わたしたち、つまり、ジャッド氏とわたし自身  は、本部を確保できるかどうかを調べに、まもなく武昌  (ウーチャン)へ行きます。主が与えて下さる力によって、  そこから中国西部地方の働きが進められて行くはずです。ま  ことに力のない状態ですが、未伝の地方の必要を考え、また  その働きのために資金が備えられていることを考える時、今  この努力をなすべきだと強く示されます。一般会計は全くゼロ  の状態なのですが…来月いっぱい、どのようにして助けられ  るか、わたしたちには想像もできません。しかし、助けられ  ることを十分に予期しています。主は、わたしたちを見放す  ことができませんし、そうなさらないでしょう。 しかし、ちょうどこの時、新しい問題が起こって、この働きの開始が遅れることになった。終わりまで勇敢で忠実であったミス・ブラッチリーの健康は、あまりに多くの責任のために、すっかり衰えてしまった。 パイヤランド・ロードの子供たちの世話をする人が必要となり、本国での仕事もほとんど停止してしまった。彼女は豊かな賜物を持つ献身的な人であったので、いろいろなことがもっともっと彼女の手に集中される傾向があった。ジャッドが武昌に定着するのをただ待ちながら、テーラー夫妻は本国に急行した。しかし、まだ中国を離れることができないでいるうちに、彼らが助けようと願っていた愛する友は、すでにすべての重荷を降ろして、み国に帰ったのである。 数週間後、本国に到着し、ミス・ブラッチリーのところがからっぽになっているのを見いだすのは、奇妙でもあり、悲しい思いでもあった。子供は四散し、毎週の祈り会は中断していた。それでもまだ最悪の事態にはなっていなかった。テーラーはジャッドと揚子江をさかのぼって行く途中で、転倒してかなりの傷を受けていたが、ロンドンでの忙しい生活が影響して、英国に帰って何日かたつと、背骨の打撲傷がだんだんとひどくなっていった。そのうえしだいに両足が麻癖してきて、完全に寝台に縛りつけられてしまった。生涯の重大な時期であるにもかかわらず、仕事を離れてあの二階のへやに寝ているよりほかになかった。彼はしなければならないことすべてと、果たされていないすべてを気にかけながらも、神にある喜びのうちに寝ていた。 神にある喜びー彼の心にはいろいろのことがあった。彼の願いと希望は、心に迫ってくる人々の必要と同様に、かぎりなく大きくなってゆく。彼は祈り、神は答えられた。中国では機会が備えられ、本国では霊的な祝福が多くの教会をよみがえらせており、彼は、これが外国伝道に結びつけられるようにと切望していた。人間の目から見れば、とても再起の望みは持てないような彼の状態であった。しかし、こうしたすべての状態の中で 最も強く感じられていたのは、「善であって神に喜ばれ、かつ、全きものである」という神の御旨にある喜びであった。この苦難の場所から、チャイナ・インランド、ミッションがさらに大きな規模での成長を始めたのである。四本柱のついた小 さなベッドは、この時テーラーが閉じ込められていた領域であった。しかし、そのベッドの柱の間には、その時もなお、中国全土の地図が掛けてあった。彼の回りには、昼も夜もイエスの名によって近づくことのできるおかたの臨在があった。ずっとのちになって、完全に祈りが聞かれ、ミッションの開拓伝道者たちが、内陸の各省全域にわたって遠く広くキリストを宣教していた時、スコットランド教会の指導者のひとりがテーラーに向かって言った。 「あなたは神様があなたを不思議に用いられたために、時には誇らしい気持ちになられたことでしょう。現在の人で、あなた以上の名誉にあずかった人はいないのではないでしょうか」。 「よくわたしはそれとは逆に、神様がお用いになることができるに足りるほど、小さく、弱い者を捜され、わたしを見いだされたのだと考えます」。これが彼の真剣な回答であった。 状態は、年の終わりに近づいても一向に好転しなかった。テーラーはますます動けなくなり、彼の上に取り付けられたひもの助けを借りて、ベッドの中で向きを変えるのがやっとだった。最初のうちこそ少しは書くこともできたが、もうペンを持つことさえもできなくなった。事情によっては、テーラー夫人でさえ、看病ができないこともあった。「祈りへの訴えー一億五千万以上の中国人のためにー」と題された小論文が、あるキリスト教出版社に持ち込まれたのは、こういう一八七五年の初頭であった。そこには未伝の九つの省に関する事実とミッションの目的とが簡単にしるされていた。それによると、「これらの地方に福音を伝える特別な目的のために、最近四千ポンドがささげられた。中国人のクリスチャンたちは、このわざに参加する備えがある。緊急の必要は、より多くの宣教師であり、道を切り開きながらどんな困難にも喜んで直面しようとする青年であ る。読者のおひとりおひとりが、ただちに神に向けて、神が今年、この仕事のために献身する十八人の適当な人をおこして下さるようにと、一分間でもよいからせつに祈っていただきたい」ということが述べてあった。 その訴えには、ミッションの指導者が、どう見ても望みのない不具者であるとは言っていなかった。そこにはまた、ささげられた四千ポンドが、彼自身と妻との資本を聖別してささげたものであることにも言及していなかった。さらに、二、三年前に、与えられるまで十八人の伝道者のために信仰をもって祈るという約束がなされたことにも触れていない。しかし、このささやかな印刷物を読んだ人たちは、その背後になみなみでないものがあることを感じ取った。神に深く根ざす者による以外には考えられないような状態で、人々は動かされた。 こうしてまもなくテーラーの通信量は非常に多くなった。そのことに取り組むこと、いやむしろ、神がそれをどのように取り扱われたかを見ることは、彼の大きな喜びであった。彼はこの時のことを次のように書いている。  ミッションには有給の働き人はいません。しかし、神は毎日  わたしの口述を書き取るように志願者を導いて下さいまし  た。別にそう定めておいたわけでもないのに、もし午前中に  来た人が手紙の回答を全部書き終わるまでいられなければ、  必ず他の人がやって来るのです。午後になるとひとりかふた  りの人がのぞいたりします。時には、町で勤めている若い友  人が、仕事が済んでからやって来て帳簿をつけてくれたり、書  き終わっていなかった手紙を完成させてくれたりしました。  これが毎日毎日のことなのです。わたしの生涯で非常に幸い  であった時期の一つは、この床についていなければならな  かった時でした。自分では何もできなくても、主にあって喜  び、忍耐をもって主を待ち、すべての必要が満たされるのを  見たその時です。その時以上に、規則的に、すみやかに手紙  の返事を書いたことは、そのあとにもありませんでした。  神に求めていた十八人がやって来はじめました。初めは手紙  の往復があり、それから彼らは、わたしに会いにこのへやに  やって来ました。まもなく、わたしのベッドのかたわらでは  中国語の勉強のクラスが開かれました。時が至って主は、十  八人のすべてを送って下さいました。それからミルドメイに  いる親友たちがわたしの回復のために祈りはじめました。主  は用いられた手段を祝され、わたしは立ち上がることができ  ました。わたしが病床についた一つの原因は取り除かれまし  た。もしもわたしがじょうぶで、あちらこちらを動き回るこ  とができたら、わたしの緊急の訴えの結果として十八人が中  国へ送り出されたのであって、神の働きではないと考える人  がいたかもしれません。しかし、わたしは完全に病気で倒れ  てしまい、祈りの求めを書いてもらうことしかできませんで  したので、これがわたしたちの祈りへの答えであるというこ  とは、あまりにも明白でした。 この時の資金のための祈りに対する答えもまた、すばらしいものであった。ある時、中国へ電報で送られるはずのその月の送金額がはなはだ少額で、毎月の必要経費の平均より二百三十五ポンドほども不足していた。このことは、はっきりとした祈りのうちに主の前に持ち出され、ほどなく恵みによって答えが与えられた。その同じ晩に郵便配達が、記名式の小切手が一枚同封してある手紙を配違してきた。そこには、「お皿の販売から」と書いてあり、小切手の額は二百三十五ポンド七シリング九ペンスであった。ふたたび外出ができるようになった時、テーラーはある集会からの帰り道で、彼の話を聞いたロシア人の貴族に誘われた。ロンドンまでいっしょに旅をしてからこのボブリンスキー伯は、さいふの中から紙幣を取り出して言った。 「わずかばかりですが、中国でのあなたの働きのためにささげさせて下さい」。 テーラーは手渡された紙幣が小額のものではなかったので、何かのまちがいに相違ないと考えて言った。 「五ポンド下さろうとなさったのではないでしょうか。このお札をお返しさせて下さい。これは五十ポンド札です」。 伯爵もテーラーに劣らず驚いたようである。そして次のように述べた。 「いいえそれをいただくわけにはいきません。わたしが差し上げようと思ったのは、確かに五ポンドなのですが、神はあなたに五十ポンドあげようと思われたのに相違ありません。それを返していただくわけにはまいりません」。 このできごとに深い感銘を受けてテーラーが、メイヤランド・ロードに着くと、家中の人々が特別の祈りのために集まっていた。中国行きの送金をするはずだったが、四十九ポンド十一シリング不足していたからである。テーラーは、そこにあったテーブルの上にあの五十ボンドの紙幣を置いたのである。父なる神のみ手からお金が与えられる以外直接に与えられるということがありえたであろうか。 しかし、この年月のすべての祈りへの答えをもってしても、中国内陸への道が開かれるには、まだまだ遠かった。実際、十八人の開拓者が送り出されてからのち、ひとりの英国士官の殺害をめぐって、戦争が不可避に思われるような状態に陥った。何か月も交渉が続けられたが、中国政府は満足のゆくような処置を全然取らす、英国大使は北京を引き上げようとしていた。敵対行動の回避は不可能のように思われ、テーラーが八人の新しい働き人といっしょに出港するのを、やめさせようとするミッションの友人たちもいた。彼らは言った。 「あなたがたはみんな帰国しなければならないでしょう」。 「それなのに、さらに奥の省に開拓者を送り出すことは、問題にもなりません」。 何がまちがったのであろうか。働き人と資金はむだに与えられたのであろうか。中国内陸は依然として福音に対する門を閉じたままになるのであろうか。 フランス船の三等船室で、ひざまずいて祈り、神と語っている人がいた。「未伝の地城の一億八千万人の伝道のことを思うと全く耐えられないような気持ちです。彼らの救いのために、わたしに百の生命があったなら……と思います」。彼は二年前にこう書いている。彼は力の及ぶかぎりのことをした。どんな失望にぷつかっても幻は曇ることがなかった。それなのに今ー。 しかし、神の時はまさにやって来た。主にあっては遅すぎるということはない。最後の瞬間に、中国外務省に変化が起こった。太守李鴻章が沿岸地域に急行し、芝罘(チーフー)で帰国寸前の英国特使に追いつき、記念すべき会談が開かれた。会談の結果、両国の間に合意を見、英国人は中国のどこへでも出かける自由が与えられた。テーラーは喜びのうちに回想している。  ちょうどわたしたちの兄弟が備えられた時、早くなく、おそ  くなく、長く閉ざされていた門は、彼らに対しても自然に開  かれたのです。 一七 あふれ流れて   ああ 泉なるキリスト   深く慕わしい 愛の井戸よ   地上の流れは味わい知りました   もっと深い 上よりの水を飲みたいのです                A・R・サガン ミッションの指導者たちは、その後の二年の間に、中国内陸の各省にわたって五万キロにも及ぶ旅をし、行くさきざきであがないの愛の福音のあかしをした。この結果としてテーラーには、今までで最大の信仰の試みがやってきた。確かにすばらしく、国は解放されていた。何年にもわたる道備えのための苦難を経てきた今、若い宣教師たちが自分たちの家庭を作り、家庭を中心にして働きを続けるために、よい機会を利用したことはきわめて当然であった。開拓者の数人はすでに婚約しており、彼らの同労者として、最初の白人の婦人を内陸へ連れて行くことをテーラーが認めるのを待つばかりであった。彼らはおそらく、そのことに含まれたすべての問題を、その指導者のように は予見することはできなかったのであろう。また、まもなく、こうした遠方の家庭の忙しい母親の仕事を助けるために、他の婦人たちが困難な旅行をしなければならなくなることもわからなかったのであろう。 しかし、テーラーは何年も前に、そのすべてに直面していた。そして、婦人の働きを励ます方針を決めた。彼が内陸への最初の夫妻の出発を認めた時、その反響は彼が予期したように異常なものであった。中国における宣教活動は新しい段階にはいっていた。新しい犠牲が求められ、信仰と忍耐との新しい要求がなされようとしていた。 事態は徐々に進展していった。テーラーが一年ほどの間、当面しなければならなかったことは、主として開拓者たちのあまりに広範な巡回に向けられていた。このような旅行は、必ずしも容易なものではなかった。輝かしい励ましになるようなことはもちろん、記録されるべき危険も、また失望もあった。「外には戦いあり、内には恐れあり」の状態は、昔と変わらなかった。テーラーはミッションの管理上の責任のために杭州にとどまっていたが、導き、また強めるために喜んで彼らを助けた。 彼自身の強さの秘密は、知りがたいことではない。テーラーは、その働きがゆるすかぎり、小さなオルガンに向かって気分の転換を図り、次々に好きな賛美歌をひいたり歌ったりしたが、いつも行き着くところは、次の賛美歌であった。   主よわが心は御旨にいこい   たえなるなが愛知りえたり(聖歌二八一) ミッションの以前からの二つの伝道所に起きた深刻な騒ぎを知らせる何通かの手紙がテーラーのもとに配達された時に、十八人の伝道者の中のひとりジョージ・ニコルはテーラーとともにいた。彼はテーラーがひとりになりたいかもしれないと思って、そこから退出しようとした。すると驚いたことに、だれかが口笛を吹きはじめたのである。それはテーラーが非常に愛していた、あの賛美歌のおりかえしであった。   主よわが心は御旨にいこい   たえなるなが愛知り得たり ニコルはふり返って叫ばざるを得なかった。「わたしたちの友人たちが、こんな危険な状態にあるのに、どうして口笛など吹けるのですか」。「わたしが思い煩い、心配することをお望みですか」。テーラーは静かに答えた。「そうしたからといって、彼らは助けられませんし、わたしも仕事ができなくなってしまうでしょう。ただ主に重荷をゆだねてしまうのです」。 「ただ重荷を主にゆだねてしまう」。これが彼の信仰生活の秘訣であった。午前二時か三時ごろ、杭州の小さな家で目をさましている者は、よくテーラーの好きな賛美歌の静かなおりかえしを聞くことができた。彼は、自分には一つの生活しか可能でないことを学んでいた。それはどのような環境にあっても、内的にも外的にも、事の大小にかかわらず、主が困難と取り組まれる一方、彼自身は主にあっていこい、喜ぶ祝福の生活である。 テーラーはふたたびロンドンに帰っていた。中国北部では六百万の人々が飢餓に直面していた。インランド・ミッション所属の二、三人のほかには宣教師のいないある省では、何千人もの子供が死に、若い女たちは奴隷に売られ、はるか南方の町へ集団的に連れ去られて行った。テーラーはこの恐ろしい状態に大きな重荷を感じながら帰国し、救援活動を開始するために全力を尽くしていた。子供たちのための救援金は備えられていたが、被害地帯へ働きに行くことのできる婦人は、どこにいるであろうか。山西省と沿岸地方の間にある山脈の向こう側へは、白人の婦人が足を踏み入れたことはまだなかった。それにそこへ行くためには危険な道を越え、夜はみじめな宿屋に泊り、ろばやかごに乗って、二週間も旅を続けなければならないことになる。 テーラー夫妻が二か月しかともに故国にいないで、別れるようになったのは、この働きのためであった。小さな古びたノートには、召命がほんとうに神からのものであるかどうか知ろうとしてみ前に待ち望んだ時に、夫人の信仰が強められたことがしるされている。御旨ということがわかると、このことを言い出したテーラーが忍ばなけれぱならない犠牲のことも、彼女を思いとどまらせる理由にはならなかった。彼女の背後には彼女自 身のふたりの子供、年上の四人の子供、さらにひとりの養女、合計七人の子供の家族が残されることになった。彼らはどのように守られるだろう。むずかしい問題のすべてを主にゆだねた。神は祈りに答えられ、必要が起こってくるごとにそれを満たされたばかりでなく、別離のためにも、中国での困難で危険な仕事のすべてについても、豊かに恵みを与えられた。テーラーは国に帰る前に書いている。  十字架を愛する人が必要です。あなたもわたしも神がこのよ  うな態度の人にして下さるように。わたしたちは、永遠に確  実にいっしょにいられるのに、あなたと愛する子供たちのこ  とが、ここで滅んでいく何百万の人たちよりも、気になるこ  とを恥ずかしく思います。 自分の妻が最初に出かけて行ってから、テーラーにとって他の婦人たちを前線の仕事に参加させることが、以前よりは楽になった。一年後(一八七九年)に、彼のもとに彼女を迎えて、彼らが中国で再会した時に与えられた報いの一つは、内陸の各省で次々に静かに、婦人の仕事が開かれていったことである。この時期の物語は、どんな小説よりも劇的で、感動的である。極西部へ行った婦人たちは、揚子江の沿岸で船が難破し、花嫁道具をかわかすために岩の上に広げ、そのまん中で奇妙なクリスマスを過ごしたこともあった。彼女たちが目的地に着いた時、どんなにおおぜいの人たちがやって来たことであろうか。 「過去二か月間、毎日何百人もの婦人を見ました。わたしたちの家は、まるで博覧会の会場のようでした」とニコル夫人は重慶から書いている。 六千万もの人々がいる省で、唯一の白人の婦人というわけで、彼女はとても忙しく、客の間で疲労のあまり倒れてしまったことも一再ではなかった。彼女が意識を取りもどすと、彼女に強い関心を持ち、彼女を愛している婦人たちが、静かにあおいでいてくれるのだった。母親のようにして彼女の世話をしてくれたある婦人は、ニコル夫人に自分のかごをさしむけ、すぐに乗って来るようにと勧めてくれるのだった。そして自分のアパートの気持ちよいベッドに夫人を寝かせ、彼女が眠りにつくまで、年下の婦人たちをみんな外へ出して、彼女のそばにすわって自分であおいでくれるのだった。それからおいしそうな食事を用意して、彼女が十分に食べきるまで帰そうとはしなかった。 最初に出かけて行った婦人たちが、どこでも驚かされたことは、人々が非常に喜んで彼女たちに会い、熱心によく話を聞き、好奇心だけではなく心からの理解を示したことだった。このようにキリストに生き、キリストを公然と宣教した影響は、すぐに現われはじめた。婦人宣教師が登場してから、二年目の終わりまでに、開拓者たちは遠い奥地の各省における小さな教会に、六十人から七十人の回心者が集まって来ることを喜び合った。 漢水(ハンチォアン)を三か月ものぼって、北西部の婦人たち のところへ最初におもむいたエミリー・キング夫人は、また、み国に召される最初の人ともなった(一八八一年五月)。短い奉仕の期間であったが、キリストを告白して洗礼を受ける人が十八人以上も出て、彼女を喜ばせた。彼女は、漢中(ハンチュン)市でチブスのために死んだのであるが、夫を残し、幼い子 供を母親のいないところに残して行く悲しみを越えて、彼女を行かせた秘訣はここにあった。すなわち、「悲しみの人」である主は、ご自身の「魂の苦しみ」が、長い間待っていた人々のためであることをご存じであった。彼女もまた、その真の意味を知って満足したのである。(訳注) テーラーは、このようなわざがなされるために払われる価を、だれよりもよく理解していた。また、だれよりも熱心な祈りによってこのような働きを見守っていた。多くの試みのさなかから、彼は母親にあてて書いている。  中国のいちばん遠い地方で、主のわざが拡張され、いよいよ  強力になっているのを見ることが、どんなにうれしいか、お  話もできないほどです。そのためにこそ生きる価値があり、  死ぬ価値があります。 このたぴの発展は急速で、すばらしかった。しかし、テーラーは新しい前進をする時、力と祝福を与えられる時、いつでもそれぞれに相応した苦しみと試みの時期を経験していた。その命は神にあって導かれ、どこまでも深くされなければならなかった。外面的に見れば、働きが万事好調に進んでいると思われた時があるかもしれない。輝かしい信仰の歩みが踏み出された。祈りに対する輝かしい答えが与えられた。しかしそのためには、背後にあってその経験にあずかった者だけが知っている、事前の心の備えがあり、のちにも常に負わなければならない重荷があった。これほど深く心を探られ、あれほどの信仰の試みを受け、魂の苦しみを経験している事実の前に、人はただ黙し て立つのみである。そのような霊的成功は、神とともにどこまでも行く備えがあり、地道な生涯に即した生活の現実の中で死ぬ備えがあり、兄弟たちの奴隷(すべての人のうちで最小のもの、またすべての人の奴隷)になる備えがあり、兄弟たちの失敗と弱さの責任を分け合って負うだけでなく、彼らをもっと高い標準に引き上げる創造的な信仰と、愛のうちに、彼らをささえるとりなしの祈りをするといった、さまざまな要素が含まれていてこそ可能なのである。 内陸への最初の婦人伝道者が出発し、前進の動きによってこの新しい生命が吹き込まれるようになった。しかし、それに先立って、長期にわたる激しい苦しみの期間があった。1八七九年にテーラーは重い病気のために、三回も生命の危険にさらされた。翌年には新しい方向への努力が試みられ、非常に祝福されたよい結果をあげたが、ミッションは山積する深刻な試みに直面していた。このころ、テーラー夫人は、次のように書いて重要な原則に言及している。  もし、どんな圧力を加えられたとしても、神との交わりを失  わないようになってしまえば、その時こそ勝利の生命に生き  ることができます。それがミッションのあらゆる部分に影響  を及ぼし、また、わたしたちに影響して返ってくるとはお考  えになりませんか。最近の何か月かの間、わたしが考えてお  りましたことは、わたしたちのすべての仕事の中で最も重要  なことは、目に見えないとりなしの場にあるということで  す。わたしたちは神が与えて下さった同労者のための勝利  を、信仰によって得なければなりません。彼らは見える戦い  を戦い、わたしたちは見えない戦いを戦わなければなりませ  ん。主のために主のみ名によってつかわされているのなら、  どうしてわたしたちは勝利よりも低いことを求めるのでしょ  うか。 試みの時はいつも成長と祝福に導かれる。これは確かに霊的な法則である。たとえばテーラー夫人がこれ以上英国の家をあけておくことができなくなって、彼のもとを離れてからのちもそうであった。テーラーは年下の働き人と会議をするために西に向かおうとしていたが、その時彼は書いている。  今、地中海を進んでおり、まもなくネープルスに着くでしょ  う…わたしは武昌行きの蒸気船を待っています。どれほどあな  たをなつかしく思っているか、言う必要もないし、言おうと  しても言えません。しかし、ご自身の臨在と愛のうちにあっ  て、わたしたちがどれほど恵まれているかを感じさせられて  います。神は思わしくない環境の中で(貧しいことと、ミッ  ションから引退する人たちのことも含めて)、助けて喜ばせ  て下さいます。このようなすべての困難は、主が御旨と力と  愛を示して下さる舞台にほかなりません。 武昌での集会が始まってから、彼は続けて書いている。  非常に忙しくしています。神様は幸いな交わりの時を与えて  下さっています。そして、わたしたちが守ってきた原則が正  しいことを確信させていて下さいます。 この短い文章を、彼らが直面するようになった危機との関連において見ると、武昌での何日かにわたる交わりに続く重要なできごとの意味がはっきりしてくる。年下の宣教師たちは意識していなかったが、それはまさしく危機であった。テーラー自身が感じていた以上に深刻なものであった。何年もの祈りと忍耐と苦しみとののちに、今までにない好機がやってきた。中国の内陸は、彼らの前に開かれていた。極北部、南部、西部のすでに開かれている伝道所は、強化される必要があった。前進しないことは、すでにかちとった位置からの退却を意味するであろう。それは、生ける神を見るよりは、困難を見ることであろう。確かにここ何年かの間、資金は欠乏している。新しい働き人もわずかしか来ていない。今のところこれ以上の拡張は不可能であると言うことは容易だったであろう。しかし、前進をしないことは、この仕事をかたわにし、妨げることにさえなる。神が与えて下さったことを放棄し、大きな値を支払って開かれた伝道所を、まもなく閉鎖することを意味している。もちろん、これが中国内陸部に宣教する神の方法ではありえない。 それでは、こうした時期に静かに神を待ち望んでいた結果、何を得たであろうか。信仰による前進がはなはだ驚異的なものであったために、しばらくの間、本国の友人たちの理解を得ることは疑わしく思われた。信仰による前進とは、のちにミッションの働き人全員が署名した、本国の教会への訴えにほかならなかったからである。そこには、三年以内に七十人の新しい働き人が送られるようにと訴えてあった。ミッションのメンバー は、ようやく百人に達したのにすぎず、資金は長い間窮迫していた。それでも、武昌に集まったグループは、はっきりと求めて祈り、神の導きを確信して待ち望んでいた。それは、その中のひとりが次のように語ったのでもうかがわれる。 「七十人の最後のひとりが中国に到着した時、もう一度集まって、心を合わせて賛美できたら、どんなにいいでしょうね。」 これほど短い期間に、これほど多くの働き人を、備えることも、受け入れることも、ほとんど不可能であったにもかかわらず、祈りの答えを待つべき期間を三年ということに決めた(一八八二ー一八八四年)。 「そのころはわたしたちも広く散ってしまっているでしょう」。実際的な考え方をする別の人は言った。 「なぜ、今、賛美の集まりをしないのですか。なぜ、別れてしまわないうちに七十人のために感謝をしないのでしょう」。 この提案は一同に認められて、集まりが開かれ、祈ろうとして集まったすべての人が、感謝のために心を一つにしたのである。 七十人は与えられた。すばらしい答えは三年以内に与えられた。しかし、信仰は多くの点できびしく試みられた。依然として資金についての試みは深刻であり、この働きをめぐる試練は、さらにそれを上回っていた。しかし、テーラーは次のよ うに書くことができたのである。  主への真の信頼の祝福を、いよいよ感じています。主は信仰  を試みられますが、ささえて下さいます。わたしたちが不真実  であっても、主の真実さは微動もしません。「彼は自分を偽  ることができないのである」。  あらゆる方向から特異な試みがやってきたこの年も、主イエ  スがわたしの心をよく守り、ご自身の愛を豊かにあふれさせ  て下さいました。わたしたちの奉仕において、別離やそのほ  かのできごとが何を意味するか、主はご存じです。主は真に  すばらしい方法で、すべての損を益にして下さいます。…この  ように書き続けるのをお許し下さい。わたしは、数字を相手  にしたり、送金のことで忙しくしている間でも、うれしく  て、まるで心に抜け穴でもあるような感じです。 七十人の参加を待望する三年間のうちの最初の一年が進むにつれて、この訴えに対して本国には大きな誤解があることが明らかになった。この時テーラーは芝罘(チーフー)にいたが、誤解の余地もないような方法で、確認の印をいただきたいと主に願う必要を感じていた。それは、毎日開いていた祈祷会でのことだった(二月二日ごろ)。非常に自由にこの祈りがささげられたことに気づいたのは、そこに出席していた人のうちでもごくわずかであった。  わたしたちの天の父が、その子供を喜ばせることをよしとさ  れるのを、知っていました。それで神がご自身の富裕なしも  べを用いて、この特別の目的のために豊かにささげさせ、そ  れによって、ご自身のためにも、ご自身の家族のためにも、  大きな祝福の道を開き、わたしたちを喜ばせ、本国にいる内  気な人たちを励まして下さるようにと、愛をもって主に願い  ました。 二、三日たってからテーラーは、英国に向けて出帆したので、この結果を聞いたのは、アデンに帰港した時であった。この特別の祈祷会については、本国には何も知らせてなかったが、パイヤランド・ロードでは、二月の二日に総額三千ポンドのお金を「わたしに求めよ、わたしはもろもろの国を嗣業としておまえに与え、地のはてまでもおまえの所有として与える」とのみことばとともに受け取り、非常に喜ばされた。そればかりではな い。贈り物が送られてきた方法がまた変わっていた。そのささげものには、両親の名とともに、五人の子供たちの名が加えられていた。神が全く文字どおり、祈りに答えられたのを見ること以上に励ましになるものは何もない。 何年かたって信仰による別の大きな歩みが踏み出された時も同様であった。神は、七十人の出発を非常に祝して下さり、ミッションは本国においても強められ、新しい影響力を持つこととなった。この働きの開拓的な性格は、この時期に始められるようになった。ロンドン宣教協会のアレキサンダー・ワイリーは、「彼らは国を開発している。これはわたしたちの願っていることなのだ。他のミッションもよい仕事をしてはいるが、この仕事はしていない」と書いている。この結果、ジョン・マカーシーが中国の東から西へ歩いてキリストの宣教をしながら横断して英国へ到着した時、J・W・スティブンソンとヘンリー・ソルトー博士がビルマから初めて中国西部にはいり揚子江に沿って上海へ出た時、テーラーが英国で彼らと合流し、新しい七十人の働き人を求めてミッションのアピールをした時、クリス チャンたちは深く心を動かされたのである。テーラーの義弟であるベンジャミン・ブルームホールの献身的な労苦によって、道は備えられていた。彼は、七年間ロンドンにおいてミッションを代表し、パイヤランド・ロードの本部は、彼と夫人にとって愛と祈りの中心となっていた。ブルームホールは、生来の親しみやすい性格と神の全教会を抱擁する心とによって、ミッションのあかしのために多方面に機会を見つけていた。人々は、見たところでは不可能に思われることがどのようにして実現したか、資金を求める訴えもなく、また資金を集めるのでもなく、どのようにしてこの事業が成長を続けたかを、非常な関心をもって聞こうとしたからである。家じゅうの人が「ハドソン・テーラー」のことを口にしていた。ケンブリッジに住むある子供が書いた、かわいい手紙が記録されている。  もしも、まだあなたが死んでいなかったら、わたしは中国の  小さな子供たちが、イエスさまを愛するようになるのを助け  たいと思います。そのために貯金したお金をあなたに送りた  いと思います。 サウザンプトン大聖堂の理事ウィルバーホースは強く訴えている。  わたしの家で、六十人ほどのために聖書を読む時間を作って  下さり、ともに交わっていただけないでしょうか、み名に  よってどうか願いをお聞き届け下さい。 ラッドストック卿は大陸から書いている。  主にあって愛せられる兄弟、あなたは英国にいるわたしたち  の信仰を強める大きな力となっておいでです。 アンドリュウ・ボーナー博士からは、長老派の「支那の地に重荷を感じる」未知の友からといって百ポンド送られてきた。スポルジョンは、その牧する教会タバナクルへの特徴ある招待状を送ってきたし、マックファースン女史は、ベスノル・グリーンへ招待してきている。バーガーも五百ポンドの小切手とともに次のような手紙を送ってきた。  わたしの心は、今も光栄ある働きから離れてはおりません。  七十人の新しい働き人のための祈りに、心から参加させてい  ただきます。しかし、七十人だけにとどまってはなりませ  ん。わたしたちがみずからをむなしくし、ただ神の栄光と魂  の救いを求めるならば、もっと大きなことを見るのは確かで  ありましょう。 バーガーの「もっと大きなことを見るのは確かでありましょう」という信仰は正しかった。神が与えられた七十人は、祈りに対するあふれ出る答えであることが明らかになった。最後のグループが出帆する前に、有名な「ケンブリッジ・バンド」がそのグループのあとに従うことになった。「ケンブリッジ・バンド」が英国を離れるまでにたてた献身的なあかしは、地の果てまでも及ぶ深い霊的な運動となって、英国の大学を制圧した。 それは確かに霊的な祝福の上げ潮であった。テーラーが時間を見つけて出版した「中国の霊的な必要と要求」の新版は、この働きに深みを加えこのあかしがささえられるのに役だった。 大学の町でのリバイバルによって、ケンブリッジ・グループの出発は止められていたが、その前にテーラーは、エクセター・ホールでの最後の送歓会をも待たないで、中国へ向かった。ミッションに関係する全活動のために開かれたあの大集会の熱狂と、戦いの厳粛な現実に一日一日、彼を連れもどしてゆく船室でひとりひざまずいて祈る孤独な人との対照ほど著しいものはなかった。「非常な熱心の大きな波に押されて」―教会宣教協会の編集書記の表現によればーこのわざは主の民の今までにない理解と確信を得ることになった。「ミッションに人気が出てきた」とブルームホールは、いささかの心配を交えて書いている。しかし、中国においてはハドソン・テーラーが、この経験のもう一つの面に直面しなければならなかった。彼は支那海から書いている。  まもなく、戦いのさなかにまいります。しかし、わたしたち  のまん中に立たれるわたしたちの主、神は、力の神です。わ  たしは主を信頼し恐れはしません。「主は救われる」、主は  いつまでも、何事においても救いを与えられる。 また何か月かのちに、テーラーは書いている。  肉体と心とはしばしばくずれてしまいます。なるがままに任せ  ましょう。主はくずれなさることはありません。せつに祈っ  て下さい。いつも、絶えず祈って下さい。サタンはわたした  ちに激しく立ち向かっています…。  多くのものがわたしたちを圧迫しています。あなたがいない  ことは、大きな試みです。普通のことであろうと、特別のこ  とであろうと、あらゆる戦いがあります。しかし、同時にま  た、すばらしく力づけてくれるものもあります。このことばの  ほかに、真実に近い表現のできることばがありません。筆で  は今の半分さえも書き表わせません。わたしたちのミッショ  ンに関連のある諸所でなされている力強い働きを、だれも想  像できないでしょう。他のミッションが大いに用いられてい  ることも疑えません。すばらしい一年を予期しています。 一八八六年は、すばらしい年であった。この年にすでに言及した祈りが、めざましいまでに答えられ、次の大きな前進が開始されたのである。 テーラーは、働き人が多く住むようになった地域を訪問しながら、内陸での数か月を過ごした。彼は、修養会を開きながら山西省を旅行して行った。この修養会については、小冊子ではあるが貴重な「祝福の日々」という題の本に述べられている。彼の生涯と静かなあかしの力とによって神の奥義が若い働き人の前に明らかにされていった。それはまさに「祝福の日々」そのものであった。席勝魔(シーシェンモー)牧師のところで、テーラーが回心した儒教の教師と初めて会った時は、特にその感が深かった。働きの行く末について語り合う彼らふたりの愛と理解とは、見ているだけでも美しいものであった。 スティーブンソンは、その時そこに居合わせたが、あとになってから当時の模様を回想して述べている。  あの時、わたしたちはみな幻を見ました。あのころは、地上  における天国のような毎日でした。困難と思われるものは何  もなかったのです。 この旅行の最後の道程は黄河を下ることであったが、テーラーはこの時、五歳の少女の世話をする責任を持つことになった。これはまことに当然のなりゆきであった。というのは、宣教師としているこの子の両親は、病弱な幼い命をたすけるために、どうしてもこの子を海浜に連れて行かなければならないと考えていたが、グループに婦人はいなかったので、テーラー以外にこの子を預けられる人がいないことを知っていたからである。 一か月か、一か月半の間、テーラーがこの小さいアンニーの世話をすることになった時、彼らは非常に安心して喜んだ。テーラーは舟の上から書いている。  小さな務めを前よりもずっとうまく果たせるようになりまし  た。彼女はかわいいしぐさでわたしにすがります。首に回さ  れた小さな腕を、もう一度感じうるのはすばらしいことです。 テーラーは、この旅行から直接に、ミッションの最初の中国委員会の集会に出席した。その年が暮れようとしていたからである。スティーブンソンとマカーシーも含めて、各省の新任の責任者たちが安慶(アンチン)に集まった。その一週間に、祈り、断食し、心を整えて目前の重要問題に向かうことができるようにした。テーラーは、さらに大きな発展を目ざして、二十年にわたるこの働きの責任者としての経験から得た豊かな知恵をもって、賢明で効果的な組織を作ることに努力した。この会議の結果、生まれた提案には、彼自身さえも目をみはらざるを得なかった。それは、新しい発展を願うならば、百人の新しい働き人が、ただちに必要だというのである。厳密な情勢分析を行なった上で、テーラーは、五十か所の中心的な伝道所と、彼らの前に開かれている中国全土の広さとを考え比べて、その発展を願う以上、次の年に百人の新しい働き人を求めるというのは、確かに少なすぎるほどの人数であると、委員会の人々の意見に同意しないわけにはいかなかった。この時までにミッションの副代表になっていたスティーブンソンは信仰と勇気に満ちた人であった。彼は、ミッションの全員に対して、事態を説明するメモを送り、テーラーの許可を得て、ロンドンに電報を打 った。ー「一八八七ネンニヨウスルアラタナヒャクニンノタメニイノル」。 一方、本国の人たちにとっても、それはまことにスリルそのものであった。一年以内に中国のために新しく百人を求める。既存のミッションには、このような規模の増援を考えることさえした者はなかった。その時、チャイナ・インランド・ミッションはわずかに百九十人のメンバーがいるだけであるのに、十二か月以内に五十パーセントの増加を祈り求めるというのだから、人々は全く息が詰まる思いであった。しかし、これもテーラーが帰国するまでのことであって、彼が帰国してもたらした「信じて強く、神に栄光を帰す」という霊的な高揚は、その後まもなく、ミッションの友人たちの間にくまなく感じられるようになった。中国では次のような三重の祈りがささげられていた。神がご自身のために百人の働き人を得られるように。宣伝や募金によらないで、さらに必要な五万ドルを与えて下さるように。事務所で働いている人が少ないという実際問題から、手紙の量を減らすために、まとまった額で資金がささげられるように。本国の人もまた、この祈りに参加したのである。 一八八七年に、どんなことが起こったであろうか。実際には六百人の男女がミッションに志願したが、その中から百二人が選ばれて、訓練されたのちに送り出された。ささげられた資金は、五万ドルではなくて、五万五千ドルであった。これはなんの勧誘もなしにささげられたものであって、すべての必要を満たすのに十分であった。それから、何通かの手紙が書かれた。これだけの巨額の献金のために、どれだけの受取が、書かれなければならなかったのであろうか。すべては、十一の献金によって満たされたのであった。もしそうでなければ、事務処理の負担が極端に重くなってしまったであろう。ところが実際には、事務所の仕事が目だってふえることはなかった。いちばんよかったことは、「百人」の話が伝えられた所では、信仰が強められ、新しくさらに熱心に待ち望まなければならなかったために、人々の心が大いに動かされたことであった。 予期していなかった一つの結果は、アメリカの若い実業家が、ロンドンを訪れたことであった。彼は伝道者であって、テーラーを合衆国に招く重荷を与えられていた。ヘンリー・W・フロストは、この目的のために英国へ旅行することは、神の導きであると確信していたので、テーラーがその招待に応じなかった時の失望は、耐えがたいほどであった。彼は、それまで見たり聞いたりしてきたことから、インランド・ミッション、特にハドソン・テーラーにひきつけられていたので、使命が果たされずに終わったことを感じてニューョークに帰った時、彼は非常に困惑していた。しかし、この問題についての神のわざは、ちょうど始まったばかりであった。テーラーは翌一八八八年 の夏に、アメリカに渡り、D・L・ムーデーと、ナイヤガラ修養会の指導者たちの心からの歓迎を受けた。その場所と、ノースフィールドでは、祈りに答えられて驚くべき事態が展開されていった。その祈りは主として、あれほどまでの失望を味わいながらも、今は願うことよりも、思うことよりも、はるかにまさった神のみ手の働きを見て、喜んでいる人のささげた祈りであった。 三か月ののちにテーラーが中国に行った時にはひとりではなかった。この偉大な米大陸から、ミッションへの神の尊い贈り物である十四人の青年男女が彼と行をともにした。合衆国とカナダから、いろいろの教派の人々が加わった。全く予期もしないところに与えられた贈り物と祈りとは、それ以後中国へ向けて絶えず流れている流れの発端にすぎなかった。関心は非常に高まり、北米委員会が組織されなければならなくなった。このようなすべての賛美すべき結果が表われるようになるために、神が用いられたヘンリー・W・フロストは、彼自身にとっても、家族にとっても、相当に犠牲を要することであったにもかかわらず、その組織を代表して、指導する責任を引き受けた。このことはテーラーが関係した働きの中で、主が導かれた最も実り多い発展の一つであった。テーラーは新しい信仰と勇気に満たされて仕事を続け、そこから生まれてくるすべての問題に対処した。いつも超教派であったチャイナ・インランド・ミッションは、偉大な前進の一歩が踏み出されたその時から、さらに国際的な存在となった。その後、十二年ほどの期間、テーラーは公に働くことができたが、それは世界的な奉仕の時代であった。スカンジナビア訪問によって、スウェーデンとノールウェーのクリスチャンたちが、彼に対して暖かい態度を示した。ドイツからは、ミッションと協力して働くために献身的なグループが送られてきた。オーストラリアとニュージーランド で、テーラーは、愛する古い友人として歓迎された。また、上海の中国委員会は、創立者が想像もしなかったほどの大きな組織の中心となっていた。 テーラーの生涯の最後の幾年かに見られたあふれ出るばかりの霊的な恵みの数々は、実にすばらしいものであった。以前からも与えられていた同じ祝福の流れではあったが、ただ今度は、それが地の果てにまでも及ぶものであった。メルボルンで、テーラーを客として迎えた聖公会の牧師が受けた印象は、まことに興味深いものがある。  彼の存在は、接する者にとって、実に静かな実物教育であっ  た。彼は、自分の毎日の収入のどんなわずかな部分でも、み  な天国から引き出すのだったー「わたしはあなたがたに平安  を与える」。救い主が動かされ、怒られることでなければ、  彼もまた、動かされもせず、怒りもしなかった。どんなこと  についても、また、どんな状態の中にあっても、イエスの平  静さが彼の理想であり、実際に彼が所有していたものであっ  た。急いだり、あわてたり、神経をとがらせたり、腹をたて  たりするようなことは少しもなかった。彼には理解を全く越  える平和があり、この平和なしには、どうにもならないこと  を彼は知っていた。  「わたしは書斎におり、あなたは大きな客間にいるようなも  のです」と、わたしはこらえきれなくなって、テーラー氏に  向かって言ったものである。「あなたは何百万という人たち  のために忙しくしておいでになります。わたしは何十人かを  相手にしています。あなたの手紙は重要な差し迫ったもので  あり、わたしの書くものは、そんなにたいしたものではあり  ません。それなのにわたしは心を煩わせて、押しつぶされそ  うになっており、あなたはいつも平然としておられます。  いったい何が原因でこれほど違っているのでしょう」。  すると彼は、静かに答えた。  「マッカートニイさん、あなたのおっしゃる平安は、わたし  の場合、幸いな特権以上のものです。これは全く必要なもの  なのです。わたしをささえられるすべての理解を越えた神の  平安がなくては、わたしはとてもするべき仕事をやり遂げる  ことはできないのです」。  これがテーラー氏についてわたしの心に最も残っていること  である。あなたは、急いだり、あわてたり、悩んだりしては  おいでにならないだろうか。見上げなさい、栄光のうちにい  ますおかたを。イエスのみ顔、イエス・キリストのすばらし  いみ顔の輝きにあなたを照らしていただきなさい。主は悩ん  だり、弱ったりしておられるだろうか。主のみ顔には、思い  煩いや心労の陰はいささかもない。しかも、問題は、あなた  のものであると同様に、主のものなのである。  このこと、つまり「ケズィックの教え」と言われていること  は、わたしにとって新しいことではなかった。このような輝  かしい真理を、わたしも知っていたし、人々に向かって説教  もしていた。しかし、今まで見ようとも思わなかった  「ズィックの教え」のほんものの具体的な現われがあったの  である。わたしはこのことに非常に深い感銘を受けた。六十  歳になろうとしているこの人が、非常な重荷を負いながら  も、完全に平静であり、心を煩わせることを全く知らない。  山のように積まれた手紙ーこの中には、死の知らせ、基金の  欠乏、暴動、その他の深刻なさまざまの問題が書いてないと  は言えない。それなのにこの人はすべてを開封して、すべて  を同じ平静さをもって読み、静かに返事をしたためている。  キリストこそ、彼の平安の理由であり、彼の静けさの力で  あった。彼は、キリストのうちに住んで、いろいろな問題に  ついて主の臨在と力とにたより、それらの問題の中から主ご  自身にたよっていたのだ。  これらのことすべてを、彼は信仰の態度をもってなした。そ  れはいつも変わりないことであったと同時に、まことに単純  なことでもあった。  彼には、幸いな自由さと、自然さとがあった。「神のうち  に」という聖書の表現のほかに、これを説明するのに適切な  ことばは見当たらない。いつでも彼は神のうちにあり、神は  彼のうちにあった。それは、ヨハネによる福音書十五章の主  に「ある」ことの真の姿であった。ああ、しかし、その根底  には、恋人のような態度があった。彼は、キリストに対して  最も豊かな雅歌の経験をもっていたのである。これは実にす  ばらしい組み合わせである。そこには、何よりもたいせつな  仕事を法廷の裁判官のように厳格に行なうその中で、心には  家庭的な光と愛とを備えている人の強さと優しさの結合が  あった。 このようなすべての経験を通りながら、初期の幻と霊的な緊迫感は、変わることがなかった。主イエスの最後のご命令に従う責任感は、偉大な委託(参照 マルコ一六・一五)の意味がはっきりするとともに、いよいよ強くなっていった。一八八 九年になって、なおテーラーは書いている。  わたしは、わたしたちの主が、「すべての造られたものに福  音を宣べ伝えよ」と命令された時、実際に何を意昧されたか  ということを、今まで疑問に思ったことはありません。恥ず  かしいことですが、告白しなければなりません。他の多くの  人と同じように、わたしは長年にわたって福音を遠隔の地に  伝えるために働いてきました。中国の未伝のすべての省と、  もっと小さい多くの地域に伝道する計画を、救い主のみこと  ばの意味も知らないで作りました。 「すべての造られたものに」。中国におけるプロテスタントの教会員の総数は、わずか四万人にすぎない。この数を、二倍にし、三倍にし、さらに賛成者を含めてみても、あるいは、ひとりひとりが、八人の同胞に光を運んで行く使者であると想像しても、わずか百万の人に福音が及ぷだけである。「すべての造られたものに」、このことばは、彼の魂の奥底に焼き付けられた。しかし、教会も、彼自身も、このことを文字どおりに受け入れて行動しようとすることから、いかに遠かったことであろう。深く示されながら彼は書いている。  この最後の戒めに関して、わたしたちは、主イエス・キリス  トに対し、どんな態度をとろうとしているのか。彼にあては  められた「主」という称号を、はっきりと取り去ってしまう  べきであろうか。わたしたちは罪の罰に関するかぎり彼を救  い主として喜んで認めはするが、「代価を払って買いとられ  た」わたしたち自身に対してあるいは、わたしたちの文句な  しの服従を求めうるキリストに対しては、備えられていない  という立場をとるべきであろうか。キリストはすべての主であ  るのか、あるいは全く主ではないのか、について、真理を実際  に認めている者は、主の民の間にもまことに少数である。も  しわたしたちが、みことばによってさばかれるのではなく、  神のみことばをさばくことができるのであれば、また、もし  わたしたちが好むだけ多く、あるいは少なく、神に与えるこ  とができるのなら、わたしたちが主であり、主が負債のある  かたで、わたしたちに与えるもののゆえに感謝し、わたした  ちが主の願いに沿おうとすることに恵みを感じるべきかただ  ということになる。もし逆に、神が主であるなら、そのよう  に主を扱おう。「主よ、主よ、と呼びながら、なぜわたしの  言うことを行わないのか」。 こうして、自分では全く予期しないことではあったが、ハドソン・テーラーは生涯を通して最も広い視野をもって立つことになった。直接指導にあたっていた時代の末期を支配するようになる目的の自覚がそれであった。それは、主が命じられたとおりにする明確で組織的な努力そのものであり、中国全土を通じてすべての男、女、子供に主のあがないの愛のよきおとずれを伝えることである。チャイナ・インランド・ミッションが、すべてそれを全うできるとは思わなかったが、伝道地を適当に分割すれば、全教会の宣教師の勢力によって、十分にこの仕事に当たりうると信じていた。 しかし、彼がこれを存命中に見るようにはならなかった。ミッションの積極的な協力によって、江西(チャンシー)でこの努力が始められ、宣教地全域にわたる前進の計面が進められていた。しかし、神の摂理のみ手によって、まず深刻な苦難のあらしがやって来なければならなかった。一九〇〇年の「義和団の乱」の狂乱が国じゅうを荒らし回り、インランド・ミッションは他のどの団体よりもひどくその猛威下にさらされた。テーラーは病気で倒れたために、ちょうど英国に到着したばかりであった。テーラー夫人は自分でも理解できなかったが、心配して、テーラーが以前健康を回復したスイスの静かな所へ行くようにと説得した。 そこへ行った時に不幸はやってきた。次々に暴動、虐殺、ミッションの各伝道所に収容していた難民が続々とかり出されていくという知らせの電報が配達され、愛する同労者を主の前に祈ってささえた人の心臓は、もはやこれに耐えられず、その鼓動も止まるばかりであった。ある程度までのニュースしか耳にはいらないですむ遠い谷間(ダヴォス)に守られていなかったら、その夏、惨禍に巻き込まれ、神のため、中国のために命を捨てた人たちの中に、ハドソン・テーラー自身も加わっていたであろう。しかし、実際には、彼は神にすがって生き抜いたのであった。 事態が最悪に思われた時、テーラーは言った。「読むこともできない。祈ることもできない。考えることさえもほとんどできないーしかし、信頼することはできる」。 義和団の危機は過ぎ去り、山西の白髪の一牧師の静かなことばが現実となった。彼はほとんど最後の息で語った。 「国は滅びるかもしれない。…キリストの教会は絶対に滅びることはない」。 この確信を持って、彼も、それから何百人もの中国人クリスチャンも、そのあかしに血判を押したのである。そして、この確信をもって生き残った忠実な人々のあかしはふたたび開始された。 ハドソン・テーラーが、その後継者として任命したD・E・ホーストは、敵が転じて友となるという事情のもとで、非常に賢明な行動をとることができた。中国の当局者は、キリストの命令を文字どおり実行したこと、すなわち、彼らの見方からすれば、それまでのすべての宣教よりも多くを実行したことについて、すぐ謝意を表わしたのであった。 テーラーは中国において、もう一度、好機が到来するまで生きていたし、彼の愛と祈りをささげた国へ帰ることもできた。しかし、彼はひとりで帰って行ったのである。長い間の彼の愛する協力者であり、彼らとともにこの世の巡礼の最後の時期を、すばらしい光で輝かせた人は、最後の家のあったジュネーブ湖畔で休息している。テーラーはむすことその嫁ー筆者たちーとともに、もう一度中国に向かい、七十三歳の身で、その生涯の最も驚異的な巡回伝道を実行している。・ 伝道所から伝道所へと尋ねて行く時、クリスチャンたちが、彼に対してどんなに深い愛と尊敬とを示したことだろう。行くさきざきで、中国の恩人として、内陸の各省に福音をもたらすための器として、非常な歓迎を受けた。揚子江をさかのぼって漢口(ハンコー)へ行く途中、河南省で何週間かを過ごしたテーラーは、さらにもう一度旅に出られるほどに強められた。彼は湖南省へ行けるとは、考えてもいなかった。湖南省は未伝の九つの省のうち、チャイナ・インランド・ミッションの開拓者たちが初めてはいった所として、他の省よりもはるかに困難な所であることが明らかになっていた。アダム・ドーワードは、この省で八年以上の労苦ー宿もなく、迫害を受け、暴動からのがれ、最後にはただひとりで死ぬというーの末、今日見られるような結果を願いながら、喜んで命をささげたのである。テーラーは、三十年間以上も、祈りのうちにこの省を覚えていた。彼が最後に味わった大きな喜びが、湖南の回心者たちの親しい歓迎であったことは、まことにふさわしいことであった。クリスチャンたちは、この州で最初に永住することになった省都のフランク・ケラー博士の家に集まり、かねてから聞いていた愛する指導者とともに、日曜の礼拝をするのを待ち望んでいた。早く来た者たちは、土曜日にテーラーに会うことができた。その時、その町の宣教師たちも、ケラー博士夫妻が計画した歓迎会に出席した。 しかし、天からの召しがきたのは、その夕方であった。それはほとんど死とは言えないほどであった。ただ、永遠の命へ、喜びのうちにすみやかに連れて行かれたのである。 「わが父よ、わが父よ、イスラエルの戦車よ、その騎兵よ」。 そのへやは、なんとも言えぬ平安に満ちていた。     訳注   そこには、イザヤ書五十三章十一節のみことばを用いて、   主イエスがご自分の魂の苦しみによって、多くの人たちの   救いが可能になったように、彼女の苦しみも多くの人々の   ために、よい結果をもたらしたキリストの苦しみの一部で   あるとの考えがある。 一八 今も尽きぬ流れ   主はわたしに語られた   主よりわたしに流れくる   輝きわたる川のこと   わたしが主に喜ばれる者となるために   きれいな実を結ぶ木となるために           タースティー・ゲン ハドソン・テーラーが中国の中心部から、なんの苦痛もなく、一瞬にして、愛する主の臨在のうちに移されて、いなくなった時、多くの人は、息が止まるような思いを味わった。声にこそ出さなかったが、今ミッションはどうなるであろうか、というのが人々の疑問であった。ハドソン・テラーは異常と言えるほどの信仰の人であった。「彼が生きていて、祈っている間はよい、しかし今は…」ーこういう思いをいだくのは、ごく自然のことであった。しかし、父であり、長い間愛されていた指導者は確かに去って行ったが、彼がすべての確信を置いていた神は、今も生きておられる。この事実は、時が経過してゆくにしたがって明らかにされていった。 この章の冒頭に掲げた詩は、テーラーが非常に愛していた詩であり、彼の霊的な秘訣の核心を示すものであった。彼は述べている。  それはまことに簡単なことです。主の喜びのために、わたし  たちが主の民に対してきれいな実を結ぶように、わたしたち  を、命の水の川のほとりに植えられたのではなかったので  しょうか。 ハドソン・テーラーの生涯において、第一に置かれたものは、わざではなく、中国およびミッションの必要でもなく、彼自身でもなかった。彼にとって第一の存在は神であった。「主によって喜びをなせ。主はあなたの心の願いをかなえられる」という約束が、まちがっていないことを彼は知っていた。この約束は、今日のわたしたちにとっては、テーラーの時ほど真実ではないというのだろうか。多くの例証があげられるが、その代表的なものとして、ミッションの指導者の経験をあげよう。ソルトー女史は書いている。  仕事はいつでもふえてゆきます。もし、わたしの生命として  のキリストを、一刻一刻意識するのでなかったら、とても続  きはしなかったでしょう。主がご自身満ち足りたおかたであ  るという、光栄ある教訓を教えていて下さいますので、緊張  感や倒れる恐れなどなしに、毎日前進させられております。 今も流れは続くー拡張され、成長を続けるミッションの経験において、これは全くの真実であった。過去三十年間の発展についての主要な事実は、付記に収められているが、それらはまことに驚くべき事実である。しかし、ここでは過去のことから現在に注意を転じて、ハドソン・テーラーの霊的な生涯の実際的側面についてのみ言及しよう。神について深い知識を得ていたある人が、「神は勝利を得る命を、わたしたちに与えられない。神はわたしたちが勝利を得る時、命を与えられる」(注1)と言ったが、彼にはこの考えの正しさがわかっていた。彼にとって勝利の秘訣は、神との毎日毎日、毎時間毎時間の交わりにある。これはひそかな祈りによってのみささえられ、待ち望む魂にご自身を示されるみことばによってささえられることを、彼は知った。 テーラーにとって、変化の多い生活を送りながら、祈りと聖書研究のための時間を作ることは、容易ではなかった。しかし、彼はそれがどんなに重要なことであるかを知っていた。彼といっしょに北部中国を、荷車や手押し車などで、何か月も旅行し、夜は最も貧弱な宿屋に泊まったことを、筆者たちはよく覚えている。クーリーと共同の大べやに入れられることもよくあったが、そんな時わたしたちは、へやのすみにカーテンを引いて父を休ませ、自分たちはもう一つのカーテンらしいものでへやを作った。ようやく人々が眠って静かになると、マッチをする音が聞こえてきて、ローソクのあかりがチラチラするのが見えた。どんなに疲れていた時でも、父はいつも持っていた二冊の小さな聖書に没頭するのであった。午後二時から四時までは、彼が祈りに用いた時間であった。この時間は、神を待ち望むためにじゃまがはいらないと、いちばん確信のできる時間であった。筆者たちは、密室の祈りについて、読んだり聞いたり したすべてのことよりも、このローソクの光によって多くを教えられた。それは説教ではなく実行であって、現実を意味した。 宣教師の生涯でいちばん困難なことは、規則的な祈り深い聖書研究を持続することであるとテーラーは気づいていた。サタンはあなたが聖書研究に用いるべき時間に、窓のブラインドをいじるようなことであっても、何かをさせてあなたのじゃまをすることを見つけるであろう。次にあげる権威のあることばに、テーラーは心からの同意ができたであろう。  時間を取りなさい。ご自身をあなたに啓示する時間を神に与  えなさい。聖霊によって、あなたとともにいます主の臨在の  確信と、あなたのうちに働く主の力を受けるために待ち望ん  で、主の前に沈黙し、静まる時間を作りなさい。主があなた  に何を求め、何を約束されるかを知るために、主の臨在のう  ちにあるようにみことばを読む時間を取りなさい。みことば  によってあなたのうちに、聖なるふんい気、聖なる天来の光  を作り出していただくように。その中であなたの魂は、毎日  の奉仕のために新たに強められるでしょう。(注2) ハドソン・テーラーの生涯が、神の恵みによる喜びと力に満たされているのは、彼がこのことを実行したためであった。七十歳を越えた彼は、手に聖書をもって、ローザンヌの居間を横切って来て、立ち止まり、子供に言った。「わたしは、今、四十年間に、四十回目の聖書の通読を終わったところだ」。テーラーは聖書を読んだだけでなく、聖書に生きたのである。 ハドソン・テーラーは、キリストに従うためには、どんな犠牲も顧みなかった。彼は中国における働きのさなかで、「十字架を愛する人々が必要です」としるしている。もし、彼が今日、わたしたちに語りうるなら、それはあらゆる野心の最高峰への招きであったのではなかろうか。「すなわち、キリスト(わたしたちもこよなく愛するかた)とその復活の力とを知り、その苦難にあずかって…」。彼が次のように言う時の静かな声の 調子を、もう一度聞きえないであろうか。  世の人々の生命のために、わたしたち自身をささげることが  ぜひ必要です。楽な、自己否定のない生涯は、決して力の生  涯になりません。実を結ぶこととは、十字架を負うことを含  みます。楽な生き方をするクリスチャンのためには、楽なキ  リスト、例外的なクリスチャンのためには、労苦するキリス  トというように、ふたりのキリストが存在されるのではあり  ません。キリストは唯一のかたです。あなたは彼のうちにあ  ることを喜び、多くの実を結ぶ人でしょうか。    注   @Oswald Chambers, My Utmost For His Highest 四十七ページ   を見よ。   ARev. Andrew Murray, The Secret Of Adoration 序言から。    付   記 ハドソン・テーラーが、昇天する五年前の一九〇〇年に、ミッションの指導を他の者にゆだねた時、チャイナ・インランド・ミッションには、七百五十人の宣教師がいた。今日(一九三二年)、その数は千二百八十五人に達している。テーラーが指導し、祈りによってささえていたころのミッションの収入は、ただ神に求めるだけであったが、四百万ドルに達していた。一九〇〇年以降の収入合計は、二千万ドルにもなる。これもまた、神のみに求めて与えられたものである。今までも負債はなかったし、今も負債はない。ミッションと関係のある七百人ほどの中国人の働き人がいるが、これはテーラーの祈りに対する豊かな答えである。初めからその時までの回心者で、受洗したも のの数は、一万三千人である。今日、三千ないし四千の中国人の働き人が、C.I.Mと関係を持ち、一九〇〇年以降の受洗者だけでも十万に及んでいる。「主よ、われらにではなく、われらにではなく、…ただみ名にのみ栄光を帰してください」。 テーラーは、その働きに対して特殊な関係にあった。彼は、指導者であったばかりでなく、その創立者であった。彼と同じ立場では彼のあとを継げる者はいなかった。しかし、神が彼のあとに起こされた指導者は、彼に劣らず独自の賜物を与えられていた。一九〇〇年以後、非常に重くなった責任を負いながら、D・E・ホーストが、ただ祈りの生活にささえられていたが、そのこと自体ミッションの祝福であった。彼の指導した時期は、 あらしと困難の歳月であった。しかし、その中からこの働きは、いよいよ強化されていった。 どうにもならない試みの時や、外見上の後退の時期があったことは事実である。中国に革命が起こって、一夜で共和国と変わった時、地域によっては、恐怖政治が支配し、ミッションからも再度の殉教者が出た。昔、帝国の首都であった西安市では、ベックマン夫人と、宣教師の家族の六人の子供が、暴徒に殺害された。それに抗議しようとしたベイトンも殺された。安全な地を求めて、伝道地を離れなければならなかった宣教師も少なくなかった。とどまった人たちは、恐怖におののく周囲の人たち、特に宣教師の家に避難してきた婦人たちを守ることができた。この時期は、福音を宣教するだけでなく、それに生きるために貴重な機会となった。内陸の人々が宣教師たちに友好的な気持ちをもっていることは、きわめて明白であった。 宣教師たちも、中国人のクリスチャンたちも、日増しにつのってゆく大きな危険に直面しなければならなかった。学生たちの組織的な示威はもちろん、不法行為や残虐な強奪などが広がっていった。しかし、流血や騒動がさらに悪化しないうちに、事態が大きく変化したことは、全く驚異的なことであった。今までたよりにしていたすべてを失い、事態の好転を熱願していた中国は、孤立無援の状態で、盗賊の間に倒れてしまった。共産主義や過激派の死にもの狂いのやり方は、各地で目に余るほどだった。もともとの悪をいよいよ助長して、状態はさらに悪化し、近隣諸国の侵略は、事態をもっとひどい深刻なものとしていた。 中国のことわざに、「倒れた兄弟を踏み台にしてもうける他人」とか、「完成には百年でも足りない。破壊には一日でも長すぎる」というのがある。 これらのただ中にあって、神の守りのみ手は、この働きの上にあり、チャイナ・インランド・ミッションの前進はとどまるところを知らなかった。この働きが組織的であるというよりも、伝道的であったことが、人々が友好的な態度をとり、慰めの福音に喜んで耳を傾けた理由である。キリスト教文書の販売のためにも、キリストの救いの力に対する人々のあかしのためにも、今日ほどの好機はない。「主の救いの縫いめのない衣のいやし」(注1)こそ中国が必要としているいやしである。絶望的な状態の中から、生命と希望を願って、主を求めている傷ついた心の持ち主が、どんなに多いことであろう。 今は、宣教活動の縮少を考える時ではない。それは環境を見るのではなく、神を見る者、「見上げる者」ならだれでもはっきりと知っている。このゆえにこそ、チャイナ・インランド・ミッションは最近、待ち望むという方針から、テーラーが最後にいだいていた最大の幻に従って、輝かしい前進の方針に導かれたのである。「すべての造られたものに福音を伝えよ」という主のご命令の明確な意味について、新しく教えられたことを、テ ーラーは書いている。  主のご命令を実現するために、このわざは、いかなる儀牲を  もいとわない、献身、つまり十字架につけられることがなく  ては、果たせないであろう。もしその献身があるなら、わざ  は全うされると、心から信じている。あの小論「すべての造  られたものに」を書いて出版する時は、わたしの生涯で、最  もはっきりと導きを自覚した時である。 生きた種は、地に落ちて死ぬ。しかし、豊かに実を結ぶ。五年前の一九二七年、ひどい苦難の時期に、二回目の苦しみの洗礼が訪れてきた。その時は、テーラーが報いを受けるために地上を去ってから、すでに久しい歳月がたっていた。西欧諸国の政府が、中国に起こった新しい激しい排外運動の暴動に驚いて、それぞれの国民に内陸から退去するようにと命じた時、ミッションに所属している六百人以上の人々が引き上げなければならな かった。ミッションの現北米代表であるロバート・H・グローバー博士(注2)は書いている。  これは、中国の軍隊と学生を刺激して暴動を起こさせ、特に  それを宣教師やその他の外国人に向けさせたモスクワからの  扇動によるものであった。中国全土の大多数の宣教師たち  は、伝道所を離れ、愛する回心者たちや何年もかかって築い  た働きを離れて、沿岸地方に向かわなければならなかった。  このように、ほとんど気づかないうちに、C.I.Mの数百の宣教  師たちは、中国内陸部の閉ざされた戸をあとにして去らなけ  ればならなかった。 定員をはるかに超過して群がる難民を養うことは、ミッションの財政に大きな負担となった。上海だけでも十四軒の家を借り、それをある程度、整備しなけれぱならなかったし、旅費も切迫した財源から支出しなけれぱならなかった。財政が切迫していた理由は、本国のミッションを助けている多くの人々が、そのしばらくの時、この働きが行き詰まっていると考えて、他のほうに献金を回していたからである。チャイナ・インランド・ミッションが、生ける神よりも献金者にたよっていたならば、このことの結果は実際よりもはるかに深刻なものとなったであろう。しかし、テーラーが人にもよく言い、自分も自覚していたように、「神はあらゆる事態に応じうるかたである」。一九二七年の財政危機において、C.I.Mに与えられた神の恵みは、ミッションの歴史において、最も驚くべき祈りの答えとなった。 以下に述べるのが、その事実である。その年のミッションの収入は、何千ドルどころか、何万ドルもの減収であった。必要経費が非常に多くなったのに、経済的な援助を求める宣伝もせず、絶対に借金をしない原則を守り続けて、十一万四千ドル以上の減収という事態に、どのようにして対処できたであろうか。 確かに神は「あらゆる緊急事態に応じうるかたである」。その年、主は予期しない方法で働いて下さった。本国から中国へ送金した資金は、銀貨と交換しなければならなかったが、その交換率の変動は常に激しかった。ところがこの年の相場は不思議にも安定しており、しかもミミッションの資金にとっては非常に有利な状態になった。本国から送られてきた金の価値はますます上がり、その年の暮れまでの送金は、十一万四千ドル少なかったが、交換率のおかげでミッションは十一万五千ドルの利益を得た。このように必要のすべてが満たされ、特別の試みがあったこの年も、感謝にあふれる年となった。グローバー博士は、門戸が閉じられたことについても、続けて述べている。  それは実際悲しい時であった。人間的に見れば、確かに事態  は暗黒であった。宣教の戸は、二度と開かれないのであろう  か。この疑問の解答はいろいろあった。懐疑的な答え、世的  には賢明に聞こえる答え、悲観的な答えなどもあった。しか  し、C.I.Mの人々も含めて、宣教師はそこにいた。油注がれた  彼らの目は、非常に違った角度からこの事態を見ていた。  この打撃がサタンから直接に来たものであり、ミッションの  働きの壊滅を目ざしていることは、明らかであった。しか  し、神のしもべたちがサタンの手によって打ち破られるとい  うことを教えているみことばがあるだろうか。もちろん否で  ある。サタンが迫害によってキリストの働きを滅ぼすことに  成功した例があったろうか。全くない。偉大な宣教師であっ  たパウロは、自分の上にふりかかってきた迫害を、むしろ福  音の前進に役だつとあかしし、敵に驚かされないようにと同  労者に勧めている。新約聖書の宣教の記録で、敵の反対や迫  害が、神によって宣教事業の前進の手段に、くり返しくり返  し用いられた事実ほど、強い印象を受けることはない。今  日、敵の一つ一つのおどかしも、前進の機会と変えられ、働  きはさらに広げられ、そこからより以上の結果が生み出され  るべきである。  C.I.Mが直面していた逆境においても、導きの方向はまさにこ  れであった。中国における宣教活動は、これで終わりであろ  うか。キリストの偉大なる委任が変わらない以上、また、中  国の何百万の人々への福音宣教の働きが完了したというに  は、あまりにも遠い今日、どうして中国での宣教活動が終  わったということがありうるだろうか。どんな価を払っても  働きは続けられなければならない。それでミッションは、も  う一度門が開放され、将来の計画に明確な導きが与えられる  ようにと熱心に祈った。 このころ、人々は深く心を探られていた。グローバー博士は祈りについてあかしすると同時に、このことについてもあかしをしている。神が偉大な前進のための幻と自覚を与えられたのは、この試みのただ中においてであった。C.I.Mの宣教地全域を、詳細に調査した結果、ミッションの指導者たちは導かれて神に訴えたのである。激しい伝道的な前進のために、百人ではなく二百人を求めたのである。この訴えが届いた時、ミッションに属している本国の人々は、この上もなく喜び、強い感動を受けた。それは多くの祈りの結果であり、神から出たことであると認められた。そしてただちに、働きの全域にわたって新しい生命が感じられるようになった。新しい宣教師たちを求めていた予定の二年間(一九二九ー三一)はすぐに過ぎ去り、信仰はさまざまの面で試みられ、特に中国においては敵の攻撃は激しかったが、そこには励みとなり、祝福となるようなすばらしい 物語がつづられていったのである。一九三一年には二百人(その中、九十一人は北米から)の中の最後の集団が、中国へ向けて出発できたばかりでなく、中国で彼らを受け入れる資金も、実にすばらしく備えられた。上海にあったミッションの本部は長い間、この活動には不十分になっていたが、この年ミッションは一円も払わないで神の備えて下さった適当な家屋に替えられた。多くの祈りに答えられて、古い家を原価の六十五倍の値段で売却する機会に恵まれた。それは、今は主とともにあるミッションの働き人の贈り物である。彼は、成長を続ける働きのために、四十年を経て、ちょうどどうしても必要に迫られた時に新しい本部を備えることができた。(注三)この建物は、昨年秋、一か月の短期間に、百人ものC.I.Mの優秀な働き人を中国に迎えるのにまにあった。 このすばらしい備えには、ミッションの最も賢明な指導者が考えうるよりも、はるかに多くのことが含まれていた。今年(一九三二年)の初め、日本軍が突然上海を攻撃して来た時、C.I.M の本部が前にあった地区と、その周辺が、戦火の中心となったからである。神の導きのみ手は、ちょうどよい時期に、安全な国際居留地に五キロほど寄った所に、ミッションの本部を移して下さった。突然に襲ってきた激しい苦難の中で、神以外のだれにこの不思議な導きができたであろうか。 確かに神は、今もご自身の働きの必要に責任を持っていて下さる。C.I.Mが、創立以来の古い原則を厳守していることはたいして不思議ではない。信仰と従順をもってミッションを始めた創 立者は、今は神とともにある。今年は彼の誕生百年に当たる。この時を祝い、主に感謝していることも、またきわめて当然であろう。今日、千二百八十五人の宣教師のうちに、創立者の確信を喜んで再確認できない者や、再確認しない者がひとりもいないことは、感謝すべきことである。  生ける神は、今も生きておられる。生けるみことばは、生き  たことばであり、わたしたちはそれにたよることができる。  かつて神が語られたこと、また聖霊によって書かせられたど  のみことばにも、すがりつくことができる。  ただ主の愛をのみためしてみなさい  主の真理を確信する者が  どんなに祝福されているかということを  経験がそれを決めてくれるでしょう  主の聖徒たちは主を恐れなさい  その時ほかに恐れるものは何もないのです  ただ主に仕えることを喜びなさい  あなたの不足は神が補われます    注   @裂け目もなく全体が一つであることの表徴的な表現。   A医学博士ロバート・ホール・グローバー牧師は、四十二年   間の献身的で効果的な指導ののちに神学博士ヘンリー・W・   フロスト牧師が辞職した責任を、一九二九年末から引き継   いでいる。フロスト博士がミッションのために名誉本国代   表として貴重な働きを続けておられることは、関心を持つ   者のすべてが感謝するところである。   Bミッションの働きを引退した米人の寄付で非常に必要で   あった中国人の働き人と客とのために、りっぱな家が与え   られた。 神のために、大きなことをする可能性も、必要も、過去のもので、今はもうないというのは、正しくない。力の恵みの可能性に関して、過去の歴史にしか頼めない教会は、堕落した教会である。…この時代に最大の益をもたらしうるのは、教師たちと教会を祈りに引きもどす人である。          E.M.バウンズ著「祈りによる力」より      あとがき ハドソン・テーラーによって始められたチャイナ・インランド・ミッション(China Inland Mission)は、一九五一年以来、中国での働きを続けることができなくなり、現在、オーヴァーシーズ・ミッショナリー・フェローシップという名まえで、日本をはじめ、東南アジアの各地でその働きを続けております。日本での名まえは、国際福音宣教団です。 しかし、働きの原則は、名まえが変わっても少しも変わってはいません。この団体は、宣教のために必要な資金を、決して人に求めず、すべてのものの所有者である神に求めます。そして、聖書を神のみことばであると信じる超教派の団体として活動を続けております。 ハドソン・テーラーが召されてすでに六十年たちました。人々は物質的なものにたよって、神がすべての供給者であることを忘れています。しかし、主に信じ従う者にとって、神は今でも生きて働いておられるかたです。本書は、それを証明するものです。聖霊に用いられる祈りの人が多く起こされることは、この国にとっても緊急な必要事ではないでしょうか。 最後に、この本のために労して下さった諸兄姉に心から感謝を申し上げます。     一九六四年五月        国際福音宣教団     年譜 一八三二年五月二一日 ジェームズ・ハドソン・テーラーは、    英国ヨークシア州バーンズリーに生まれる 一八四九年六月 回心。生涯の奉仕への召命 一八五〇年五月 ハルにて、ロバート・ハーディ博士の助手と   なって、医学の研究を始める 一八五〇―一八六四年 長髪賊の乱 一八五三年九月一九日 中国伝道協会の代理人として中国へ出   帆 一八五四年三月一日 ハドソン・テーラーの上海上陸 一八五四ー一八五五年 四回にわたる伝道旅行 一八五五年一〇―一一月 「内陸」での最初の家、崇明島で六   か月過ごす 一八五五ー一八五六年 ウィリアム・C・バーンズ牧師と七か月   過ごす 一八五六年一〇月 寧波に定住 一八五七年六月 中国伝道協会を辞任 一八五八年一月二十日 マリヤ・ダイヤーと結婚 一八五九年九月 寧波でパーカー博士の病院の責任を引き受け   る 一八六〇年夏 第一回の休暇で英国へ帰る 一八六〇ー一八六五年 陰での数年間 一八六五年六月二五日 ブリストンでの全き献身、二十四人の   同労者を求めて祈る 一八六六年五月二六日 チャイナ・インランド・ミッションの   第一グループ ラマミュール号で出帆、四か月の旅 一八六六年一二月 ラマミュール・グループ杭州に安着 一八六七年八月二三日 幼いグレーシーの死 一八六九年九月四日 ”新たな生活”の初め、「神はわたしを新   しくして下さった」 一八七〇年六月二一日 天津大虐殺 一八七〇年六月二三日 ハドソン・テーラー夫人(旧姓ダイ   ヤー)死去 一八七二年三月 W・バーガー引退 一八七二年八月六日 チャイナ・インランド・ミッションのロ   ンドン委員会設立 一八七二年一〇月九日 テーラー夫人(旧姓フォールディング)   とともに中国へ帰る 一八七四年一月二七日 未伝の九省への開拓伝道者を求める祈   りの記録 一八七四年六月 ジャッドとともに武昌にミッションの西部地   域支部を開設 一八七四年七月二六日 エミリー・ブラッチリー死去 一八七四ー一八七五年冬 干潮の極点、テーラーはからだが麻   癖し、英国で病床につく 一八七五年一月 未伝の九省への十八人の開拓者を求めて祈る   ためのアピール 一八七六年九月一三日 芝罘(チーフー)会議調印 一八七六ー一八七八年 中国内陸全域にわたる広範な伝道旅行 一八七八年秋 ハドソン・テーラー夫人、婦人宣教師の先頭に   立って奥地へ前進 一八七九年秋 ジョージ・ニコル夫人とG・W・クラーク夫人、   中国西部で婦人の働きのために道を備える 一八八一年五月 ジョージ・キング夫人、漢中で死去 一八八一年一一月 七十人を求めてアビール(武昌) 一八八五年二月五日 ケンブリッジ隊の出発 一八八六年一一月一三ー二六日 中国委員会の第一回会議、百   人を求めるアピール(安慶) 一八八七年一二月 ヘンリー・W・フロスト訪英、テーラーを   米国に招く 一八八八年夏 テーラー、初めて北米を訪問 一八八九年一〇月 生涯の高嶺に立つ、「すべての造られたも   のに」 一八八九年一一月 スェーデン、ノールウェー、デンマークを   初めて訪問 一八九〇年八月 オーストリアを初めて訪問 一九〇〇年五月 義和団の乱勃発 一九〇〇年八月 D・E・ホースト、総代表代理に任命 一九〇二年一一月 テーラー代表を辞し、ホースト後任となる 一九〇四年七月三〇日 ハドソン・テーラー夫人スイスにて死   去 一九〇五年二月 テーラー最後の中国行き 一九〇五年六月三日 湖南(フーナン)省にて召天    テーラーの生涯とその秘訣            800円    昭和39年5月25日 発行    昭和51年3月15日 7刷    著 者 ハワード・テーラー    訳 者 舟喜信    発行者 いのちのことば社    印刷所 いのちのことば社印刷部    発行所 いのちのことば社        160 東京都新宿区信濃町6    S-38  (c) いのちのことば社 1964 2